69話 天外魔境への招待状
第69話 天外魔境への招待状
「なあ、源。キサマは15の年に母親を亡くしたと言っていたな」
それは、源が秋津ユタカと出会って間もない頃、東京の組事務所で交わした会話だった。
当時の事務所は今のようなタワーマンションの最上階などではなく、都内にある雑居ビルの一角だった。まだ20代だったユタカよりも年上のビルの中は、パステルピンクとは程遠い、くすんだ灰色にまみれていた。
「はい」
源が頷くと、ユタカは古びたデスクの上で――ちなみに、このデスクはユタカの叔父である秋津ススムが、下請け会社を通してこっそりユタカに融通してくれた事務用品である――自分の手のひらをじっと見下ろした。
「ボクはまだ、大事な誰かを亡くすという経験をしたことがない。どんな気持ちなんだ」
悲しいとか辛いとか、そういった一般論以上のことを、ユタカは知りたがっているようだった。
源は正直に答えた。
「自分の無力さに腹が立ちましたね」
「無力さか」
「母さんは生きたがっていた。もっと長生きして、親父と一緒に、成人して立派になった俺の姿が見たいと泣いていた。俺はその時、母が泣くのを初めて見ました。疎開先でも、一度も弱音を吐かなかった人でしたから」
最愛の女を襲った最大の危機に対し、15だった源に出来ることは何もなかった。
夫と息子に看取られながら、母――源清子は息を引き取った。四十の歳を迎えることなく、母は美しいまま旅立った。
悲しみ、絶望、喪失感――様々な感情が、源を打ちのめした。
「だが、落ち込んでいる暇なんてなかった。俺は朝から晩までケンカしてましたし、何かとトラブルに巻き込まれることも多かった。俺のことを慕ってくれる女もいた。母さんがいなくなった後でも、俺の人生が止まることはなかった。まあ結局、若さが悲しみに勝ったってところですかね」
今でも源は、母を亡くした傷が癒えたとは思っていない。その痛みに浸り続けるには、心身が強すぎただけだ。
「そうか…」
ユタカの目線の先には、小さなナット――遠い昔に受け取った、錆びた指輪があった。
「奴は…クリリンは、キサマのように強くはなかった。いや、弱さや強さという問題ではないんだろうな。
クリリンは母親の死を悲しもうにも、その母親の記憶がないんだから」
ユタカが青龍会に入るずっと前、まだ10代半ばだった頃、出会ったばかりの従兄弟――栗林アキラは、いつもどこか孤独な眼をした少年だった。
栗林の母・秋津アカネは、栗林がまだ1歳の時にこの世を去った。地元の女傑だったアカネの早すぎる死は、大羽の歴史に残る悲劇として語り継がれたが――栗林にとっては、重過ぎる足枷だった。
「クリリンが幼い頃はまだ、ノボル伯父さんとすごく仲の良い父子だったらしいんだ。母親がいなくても、お父さんと2人きりの家庭で十分幸せだったって」
幼い栗林にとっては、大好きな父と2人だけなのが当たり前だった。
だが、栗林にとっては幸せな世界が、父にとっては違うのだということに、徐々に気付いていく。
「ノボル伯父さんはずっと、アカネ伯母さんからもらった結婚指輪を着けていた。毎日、アカネ伯母さんの遺影に話しかけて、クリリンのお誕生日や特別な日も、いつもアカネ伯母さんの遺影と一緒で。ノボル伯父さんは、アカネ伯母さんのことをとても大事にしていたんだ」
そうして、栗林は分かってしまった。ここは父と2人きりの幸せな世界などではなく、『母のいない不完全な世界』に過ぎないのだということに。
父にとって自分は、『母のいない不完全な世界』の一部でしかない。それが、子供だった栗林を絶望させた。
「クリリンは真面目だから、そういう風に考えてしまう自分のことも責めてしまう。彩北で苅屋っていう腐れ刑事と手を組んだのも、拳銃を改造するのが好きなのも、ノボル伯父さんがクリリンをパパに預けたことも、全部自分が悪いせいだと思い込んでる」
ユタカに言わせれば、栗林が母のことで悩んでしまうのは父親を愛するがゆえの当然の心理だし、栗林が非行に走ったのは、声をかけた腐れ刑事が悪い。ノボルが息子を秋津一家に託したのは、改造拳銃の件で白虎組が栗林に目を付けたため、イサオの庇護を求めたからだ。
若き日の栗林は、大羽の秘密基地――タケルの目を盗んで拳銃を改造するために使っていた山小屋だ――で、ユタカにこう言った。
「死んだ人間のほうが、生きている人間よりずっと上等なんですよ。生きるのなんて、バカバカしいですよね」
それから、道具箱の中にあったナットを手に取って、ユタカに渡した。
「指輪なんて、何の証明になるんでしょうね。永遠の愛、とかですか?こんなものでも指輪になるのに」
栗林がくれたナットは、確かにユタカの指にぴったりだった。そしてそれは、栗林にとっては「こんなもの」でも、ユタカにとってはどうしようもなく大事なものになった。
「クリリンはずっと、大好きなお父さんに振り向いてもらえないという辛い思いをしてきた。ボクは一生かけて、クリリンに愛を教えてあげたかった。クリリンは、愛されるに足る人だと伝えたかった」
だが、今の栗林に、自分の一方的な愛の告白は無神経なだけだ。結局ユタカは、何も言えずに時を重ね、こうして今、遠く離れた東京にいる。
「この指輪は、捨てなくてよかったのかもしれないな。これは、クリリンの痛みだ」
それからまた、時が流れ――ユタカは、青龍会四天王として、東京を見下ろすタワーマンションの最上階に佇んでいる。
窓から差し込む夕日に焼かれながら、ユタカは一人、あのナットの指環を見つめた。
――クリリンはずっと、苦しんでいたんだ。今も……。
海堂はあの時、栗林にこう囁いた。その一言が、栗林を変えてしまった。
「君のお母さんに会わせてあげるよ」
おぞましい偽物の血の楽園、タカマガハラ。栗林が選んだ場所は、愛も友情も届かぬ地獄だった。
――必ずクリリンを取り戻す。どんな手を使ってでも……。
源一人に任せてはいられない。ユタカは、事務所にあるパステルピンクの電話を取った。
オレンジ色の光線が、灘家の大広間を彩る。
夕焼けをシャンデリア代わりにして、佳代の縦ロールにした髪や、胸元の開いたシルクのドレスが、キラキラと煌めいた。
――何より、若さってのは眩しいよな、無条件に。
朝、起き抜けから中年国会議員なんかと話したせいだろうか。16歳の佳代の若さが、冬枝にはいつも以上に輝いて見えた。
「おじさま。そんなに見つめられたら、佳代、恥ずかしくって頬が赤くなってしまうわ」
「あっ、すみません…」
というか、むしろ恥ずかしいのは冬枝のほうだった。何と言ったって今、冬枝は佳代とダンスを踊っているのだ。
――43歳のオッサンが16歳の女捕まえて踊ってるなんざ、父娘じゃなきゃ犯罪だろ。
ダンスの練習がしたいという佳代にせがまれて、こうして2人っきりで踊っているわけだが――踊れば躍るほどに、冬枝の全身はむず痒くなった。
「ダンスつったって、俺は踊れませんよ。せいぜいジルバぐらい」
それも、飲み屋でホステスと踊るような程度だ。佳代はそれでも構わないと言った。
「誰かと踊らないと、ダンスに必要な呼吸を忘れてしまいそうですの。社交ダンスは、2人で踊るものでしょう?今日は藤浪もいませんし」
そういえば、今日はあの胡散臭い糸目のオッサンがいない。朝に会った佳代の父・灘純一もそう言っていた。
――まあ、天下の青龍会四天王が、こんなお屋敷で佳代さんみたいなお嬢様にくっついてるほうが異常だがな。
「佳代さん。前から聞きたかったんですけど、佳代さんと藤浪ってどういう関係なんですか?」
藤浪が、かなり昔から灘家と関わってきたことは純一から聞いた。裏社会でさえ素性を掴めない、幻影のような男と代議士一族の禍々しい因縁など、冬枝は想像するだけでくらくらする。
そうではなく、今、冬枝が聞きたいのは、目の前の美少女があのあやかしみたいなオッサンに気を許している理由だ。
老獪な藤浪の手練手管と言ってしまえばそれまでだが、現役議員である灘純一や隠居の灘孝助ならともかく、この若くて美しくて器量が良い、以外は特に政治的な利用価値などない佳代に藤浪がわざわざ親しくするのが解せないのだ。
佳代はお人形のように大きな瞳をぱちくりさせると、うふふっと意味ありげに笑った。
「おじさまったら、どうしてもわたくしと藤浪の仲が気になるのね。佳代、おじさまの純情を弄んでしまったのかしら」
「あー…いや、まあ」
「わたくし、藤浪のことなら何でも知っていますのよ。藤浪も、わたくしのことはよく存じておりますわ。わたくしと藤浪は、もう10年以上、交換日記をしていますから」
「こ、交換日記ぃ?」
およそ、中年ヤクザには縁遠い単語だ。冬枝の43年の人生の中では、未経験の部類に入る。
――お嬢様と交換日記してる青龍会四天王、って一体、何者なんだよ…!?
「藤浪って、佳代さんの何なんですか」
すっかり混乱した冬枝が問うと、佳代はステップを踏みながら天井を見上げた。
「そうね。藤浪はわたくしの、魔法の鏡ってところかしら。佳代の知りたいことは何でも教えてくれて、願いだって叶えてくれるの」
「魔法のカガミ……」
ちんぷんかんぷんの冬枝が復唱すると、佳代は堪えきれないようにくすくすくすと笑った。
「今は、おじさまが佳代の王子様よ。さあ、踊って、おじさま」
そう言って、佳代は冬枝の飲み屋ダンスに、完璧に合わせた。
佳代に寄り添われると、まるで自分がタキシードを着た社交ダンスのプロ選手のように錯覚しそうになる。そのぐらい、佳代のリードは上手かった。
「佳代さんって、メシも美味いしダンスも上手だし、すごいですね」
「あら。このぐらい、灘家の人間として当然のたしなみですわ」
「灘家でも何でも、頑張ってるのは佳代さんじゃないですか。どんな生まれの奴でも、努力出来るってのは立派なことですよ」
佳代が日々、献身的に面倒を見てくれることもあって、冬枝にしては柄にもないことを言ってしまった。
――佳代さんが立派なのは、ホントのことだしな。
自業自得とはいえ、祖父が醜聞で失脚し、祖父を慕っていた佳代もさぞかし傷付いたはずだ。しかも、そのせいで学校にも通えないときている。16歳のお嬢様には、相当堪える状況だろう。
だが、佳代は冬枝には嫌な顔は一つも見せなかった。お粥を作ったり菓子を振る舞ってくれたり、冬枝にはまるで理解の出来ないクラシックのレコードを聞かせてくれたりと、冬枝の気が引き立つようにあれこれと気を使ってくれた。
そうしているほうが佳代自身、気が楽なのかもしれないが、冬枝が佳代の優しさに救われているのも事実だ。
――こんなに気遣ってくれる佳代さんの前で、面倒なことを考えるなんざ失礼だ。佳代さんの前では、俺はただのおじさまでいりゃいい。
もう、藤浪の手下たちと戦って、この屋敷から出ようと考えることもなくなった。むしろ、佳代を一人にすることに、罪悪感すら抱きそうになる。
「佳代さんと踊ってると、幸せですよ。俺は」
冬枝がぽつりと言うと、佳代が頬を染めて笑った。
「わたくしもよ、おじさま♡この時間が、永遠に続いたらいいのに…」
そう言って、佳代は不意にステップを止めた。
冬枝にぴったりと身を寄せ、冬枝の胸に頬を預ける。
「おじさま、今夜はお父様と麻雀ですって?」
「ああ、はい。佳代さんも聞いてたんですか」
「お父様もワガママね。佳代からおじさまを取り上げなくたっていいのに」
ちょっとむくれてみせてから、佳代はすがるような瞳で冬枝を見上げた。
「ねえ、おじさま。お父様との麻雀なんて、お断りになって。今夜はずっと、佳代のそばにいて」
「えっ。いや、そう言ったって…」
「佳代、一人で寝てると寂しいの。今夜は一晩中、おじさまと同じベッドで眠りたいわ」
「ええっ…」
佳代の露骨すぎる誘惑に、冬枝の心は揺れた。
産城大橋から転落したダメージは、灘家での贅沢過ぎる療養のおかげでほとんど癒えている。16歳美少女とあんなことやこんなことをする元気は、十分にある。
――いや待て俺、何考えてんだ!俺みたいなチンピラが灘家のお嬢さんに手なんか出したら、二度と彩北に帰れねえぞ!
しかし、冬枝の体の線をなぞるように密着した佳代の身体は、服越しにも分かる柔らかさだ。特に胸なんてまさぐったらさぞかし、と鼻の下が伸びるような形の良さ――。
そこまで考えて、冬枝は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
――胸。そうだ、胸だ。
先日、冬枝はさやかの夢を見た。
豊満な身体を持つ佳代と違って、麻雀牌を擬人化したような体型のさやかは、佳代がまとうシルクのドレスのように、服に凹凸が生じることがまずない。
そのため、夏にゆるゆるの部屋着なんか着ていると、寝ている時や屈んだ拍子に、胸元が素通しで覗けてしまうことがある。身体を隠す脂肪がそこにないからだ。
そんなことを夢で思い出したのは、冬枝が最近、ついつい目で追ってしまう佳代のぷるんぷるんのバスト――そこに、無意識のうちにさやかのペタンコ胸を重ねていたせいなのだと、冬枝は今になって気が付いた。
――そんな、メロンとまな板みたいな、似ても似つかないものを連想するなんて……。
いや、肝心なのは胸ではない。要は、佳代をさやかの代わりにして、自分を食い潰そうとしているこの寂しさを何とか誤魔化そうとしているのだ。佳代はさやかではないと、本心では分かっているくせに。
――そうだ。メロンの上で魚は切れねえし、まな板を食ったって旨くねえんだ。
分かり切っていたのに、冬枝は佳代に甘えていた。この時間が永遠に続けばいいと、佳代とは全く違う卑怯さで、冬枝は願っていた。
「佳代さん。俺は……」
冬枝が、そっと佳代の両肩を掴んだ――その時だった。
「佳代さん。いつまでここで遊んでらっしゃるの」
「お母様!」
佳代が呼ぶのが聴こえて、冬枝はハッとそちらを見た。
――佳代さんの母親…!
大広間の豪奢な扉を開けた立ち姿が、何とも絵になる女だった。すらりと細くしなやかなボディラインなど、雲形定規で描いたのではないかと疑うぐらいだ。
ほっそりとした顔は、父親似の佳代とはあまり似ていない。薄く長い眉に、どこか物憂げな眼差し。無駄なもののない、研ぎ澄まされた美人だ。
佳代の純白のドレスとは対照的に、濃いグレーのドレスが黄昏の影に溶け込んでいる。そのまま、足音もなくすっすっと女はこちらに歩み寄って来た。
「今夜は、一緒にお夕食の支度をする約束でしょう。先生がもうおいでになっていますよ」
「…はい、お母様。でも、お夕食の後におじさまと遊ぶのはいいでしょう?」
佳代が上目遣いにねだっても、母親は無感情に見下ろすだけだった。
「言ったでしょう。冬枝さんは、今夜はお父様とお約束があるんです。困らせてはいけません」
「じゃあ、佳代もおじさまと一緒にお父様の麻雀を見に行くわ。おじさまの傍にいたいもの」
「佳代さん…」
佳代の母の声は、霧の中のように深くてしっとりとしている。そして、絶妙に感情が読み取れない。
「麻雀なんて、お父様の悪いご趣味ですよ。佳代さんの見るものではありません」
「…分かったわ、お母様」
しゅんとする娘を一瞥し、佳代の母は光のない瞳で冬枝を見つめた。
「ご挨拶が遅れました。灘純一の妻、詩子と申します」
「はあ。どうも、冬枝です」
佳代の母――詩子は、表情豊かな夫や娘とは正反対に、全ての感情を吸い込むような不思議な無表情だ。
詩子は、そっと佳代の肩を抱いた。
「いい?あなたは警視総監の孫娘なのよ。麻雀はしてはいけません」
「はい、お母様」
聞いていた冬枝は、度肝を抜かれた。
――警視総監の孫娘だって!?
それはすなわち、この灘詩子が警視総監の娘であることを意味する。冬枝は、自分がとんでもない場所にいることを再確認した。
――そうだった、ここは上流階級のご家族が住まうお屋敷なんだった……。
扉がぱたりと閉まると、冬枝一人になった。薄暗い大広間に佇む中年の姿は、鏡で見るまでもなくみすぼらしかった。
栗林が青龍会に拉致された、という報せは、すぐに朱雀組の東京支部にも入った。
「どうなってるんスかあ、ジェントル秋津」
栗林に同行した嵐は、思いもよらない成り行きに目を白黒させている。
黒い革張りの回転椅子に脚を組み、ミノルは深く皺の寄った眉間に指を添えた。
「あのバカ……ユタカの足を引っ張りに行ったのでしょうか」
「すみません、ジェントル秋津。俺がついていながら…」
悄然とする嵐に、ミノルは首を横に振った。
「嵐君は何も悪くありません。栗林を信じた僕が愚かでした」
「にしたって、なんで青龍会のご本尊がマロン林を狙うんスか?俺には何が何だか」
嵐が混乱するのも無理はない。
数時間前――桃華組事務所のあるマンションの外で栗林を待っていた嵐だったが、帰って来たのは栗林ではなく、久々に会う美貌の独身中年だった。
「てめえ、こんなところまで来たのか。つくづく、暇な野郎だな」
「そりゃこっちのセリフですよ、セクシー源。乗ってたヘリが撃ち落とされたってのに、よくそんなピンピンしてるもんだ」
減らず口を叩きながらも、嵐は栗林の身を案じていた。源が出てきたということは、栗林の身柄は桃華組に捕まってしまったのか、と思ったのだ。
ところが、源が告げたのは予想を遥かに上回る現実だった。
「栗林が海堂に連れ去られた」
「えっ?あん?海堂って、あの海堂?」
嵐には、全くもって寝耳に水の報せだった。一応、栗林を待つ間にマンションの駐車場にも目を光らせていたが、それらしき車の出入りなど見当たらなかった。
源のほうも、栗林の拉致を特段、歓迎していない様子なのが硬い顔付きから伺えた。
「秋津の魔法使いに伝えておけ。栗林を連れ戻したきゃ、タカマガハラに来いとな」
タカマガハラ――その名を聞いて、ミノルの目付きが変わった。
――源君も、カグラお義姉さんから聞かされたのでしょうね。玄武会を巡る、僕らと青龍会の因縁を…。
嵐は「あーっ、やさがねぇ!」と叫んで頭を抱えた。
「おまけに霜田のパパさんがセクシー源にやられて、鳴子を連れ戻されたって言うじゃないですか!しかも昨夜!もっと早く言ってくれりゃ、俺もマロン林と一緒にモモカちゃんとこに乗り込んだのに~っ!」
その報告は、タッチの差で嵐と栗林の桃華組訪問に間に合わなかった。嵐は、栗林の拉致と鳴子の拉致、という衝撃的な事実をほぼ同時に知ることになってしまった。
「ていうか、なっしてモモカちゃんはそんなに鳴子にこだわるわけ?そりゃ鳴子は朱雀組のスパイとして青龍会から情報を探ってたかもしれないけどさ、そんな大したネタ掴んでねえだろ?」
「…………」
ミノルはしばし考えを巡らせていたが、やがて、一息入れるようにボルドーレッドのスーツの懐からキャメルの箱を取り出した。
「鳴子さんのことは、ひとまず心配は無用でしょう。ユタカたちは彼女に危害を加えるつもりはないでしょうから」
「ジェントル秋津、この期に及んで、まだ甥っ子を信用してるわけ?モモカちゃんが、もう一人の甥っ子を海堂に引き渡したっていうのに」
嵐の言う通り、結果だけ見れば、ユタカが敵である栗林をひっ捕らえ、海堂に献上した形になる。
「ですが、亡きイサオお義兄さんの甥とはいえ、立場上は平の組員に過ぎない栗林をさらったところで、海堂に旨味はありません。勿論、ユタカにそんなことをするメリットもない」
「でも、実際にマロン林は連れて行かれちゃったじゃないスか。キョクナンタカサゴドウに」
「旭南高砂堂なら、美味しいお菓子を振る舞われるだけなんですけどね」
丁寧にツッコミを入れてから、ミノルは不意に笑みを崩した。
「回りくどい真似しやがって……」
長い銀髪から覗く蘇芳色の瞳に映っているのは、この国の病巣――海堂の顔だった。
「海堂の狙いは、僕です」
「えっ…」
「『秋津ミノルの側近』である栗林がのこのこ一人でやって来たんだから、海堂にしてみればしめたものですよ。海堂は労せずして、僕をおびき寄せるための人質を手に入れた」
ミノルはふと、その場にいたであろうユタカの無念を思った。
――ユタカの立場では、栗林を守ることは出来なかったでしょう。目の前で栗林を連れて行かれて、ユタカがどれほど口惜しかったことか…。
海堂は、それも計算して今度の行動に出たのだろう。栗林の身柄を押さえられたユタカは、ミノルとさやかを海堂に献上するために、必死にならなければならない。
ミノルは、夜の色が濃くなっていく窓の景色にタバコの煙を深々と吐き出した。
「灘家に行くのは、取りやめにします。全く、栗林のせいで、今までの算段が全部水の泡ですよ」
栗林が桃華組に行っている間、ミノルは冬枝救出のため、灘家に潜入する手はずを柘植と相談していたのだが――計画が狂ってしまった。
「ジェントル秋津、それって…」
「海堂会長のお招きに、あずかることにしました。僕がタカマガハラに行きます」
「そんな、無茶な!」
ミノルはふっ、とほろ苦く笑った。
「無茶ならもう、起こってしまったんですよ。息子を海堂に奪われたなんて聞いたら、アカネお姉さんもノボルお義兄さんも、さぞかしお怒りになるでしょうね」
それは、ミノル自身の所感でもある。
「僕だって、ユタカに続いて栗林まで青龍会にさらわれたなんて、情けなくて涙が出そうですよ。ここで栗林を見捨てたら、秋津一家の人間とは言えません」
「ジェントル秋津…」
心配そうにミノルを見上げていた嵐だが、やがて、きっと表情を改めた。
「せば、ダンディ冬枝のことは俺に任せてください!絶対、連れ戻してやりますよ!」
「君こそ、無茶はよしてくださいね。君にまで何かあったら、鈴子さんに言い訳が立ちません」
などと話していたところに、慇懃なノックの音が響いた。
「失礼します――」
仕立ての良いスーツを着た若衆たちを引き連れて、朱雀組5代目・柘植雅嗣が入って来た。
「5代目。この度の栗林の失態、謹んでお詫びします」
ミノルが頭を下げると、柘植は常の通りの陰気な顔で首を横に振った。
「謝ることはありません、最高顧問。全てはあの忌々しい毒蛇の所業……。このまま、只で済ますつもりはありません」
海堂への憎しみにおいては、柘植の右に出る者はいない。柘植の周りがどんよりと紫色に曇って見えるのは、暮れなずむ黄昏のせいではないだろう。
柘植はミノルと青龍会の会合の場を設けることを了承し、冬枝の身柄奪還についても考えがあると明かした。
「私には知恵と勇気を持つ娘がいます。彼女は必ず、愛する者と再会を果たすでしょう」
黒塗りの車から降りたさやかは、黄昏の空にそびえ立つ豪邸を見上げて溜息を吐いた。
――これが、現代の貴族が住まうお屋敷か。
灘家の邸宅は、コンサートホールと言われても信じそうなぐらい大きかった。西洋の宮殿にも似た白亜のお屋敷は、100年後には重要文化財になっていてもおかしくはない。
彩北で会った佳代の傍若無人さも、無理はないとさやかは思った。庶民の住宅の100倍以上巨大なお城に住んでいたら、自意識もそれ相応にサイズアップするのは当然だろう。
今日のさやかは、お城に招かれた者に相応しく、淡いブルーのコットンドレスをまとっていた。髪には目深に帽子をかぶり、お忍び中の女優のような出で立ちだ。
これらは全て、隣にいる小柄な中年――白虎組顧問弁護士・十河の用意したものだった。
「今夜、灘家で身内だけの麻雀勝負があります。灘純一先生のご学友である作家や弁護士、医師などが招かれますが、そこに我々も合流させてもらいました」
「どうやってねじ込んだんですか?」
いくら十河の兄家族が東京で弁護士をやっているとはいえ、天下の灘家のサロンに潜り込むのは至難の業だろう。
そこで、十河からは思いもよらない答えが返ってきた。
「灘純一先生には、敬一という大学生のご長男がいます。敬一さんがガールフレンドとちょっとしたトラブルになったので、仲裁のために私がやって来た、ということにしました」
つまり、さやかは灘家のボンボンに付きまとう女役、十河はその女をてい良く追い払う弁護士の役、というわけだ。
「よくそれで通りましたね」
「どうやら、この手のトラブルはよくあるみたいですよ。純一さんのご子息、敬一さんも佳代さんも見目麗しく、金もたっぷり持ってるときていますからね。悪い虫がうじゃうじゃ湧いてくるんでしょう」
「なるほど」
佳代はさやかも直接会ったことがあるし、灘純一も有名な議員なので知らなくはない。ただ、敬一に関しては全くデータがなかった。
――とにかく、ここに冬枝さんがいるんだ。
朽木や霜田、十河らが、必死になってここまで繋いでくれたのだ。何があっても、さやかは成功させなければならない。
さやかと十河は、覚悟を決めて灘家に入った。
「いつもお世話になっております。十河と申しますが」
玄関にある白亜の柱には、最新型のインターフォンが備え付けられている。そこで訪問を告げると、傍の守衛室からぞろぞろと警備員が出てきた。
さやかと十河はその場でひとしきりボディチェックを受け、危険物を持ち込んでいないのを確認されてから、庭へと通された。
案内するのは、ドラマの中でしか見たことのないようなヴィクトリア朝のエプロンドレスをまとったメイドだ。
「ウエイティングルームへどうぞ。お飲み物は、冷蔵庫に各種取り揃えております」
灘家には、家族の生活の場である本邸とは別に、庭にいくつかの離れ部屋があった。ウエイティングルームはその中の一つで、町のちょっとした公民館ぐらいの広さがある。
「おお、こんばんは、十河先生。久しぶりじゃないですか」
ウエイティングルームでは、既に何人かの中年男性たちがくつろいでいた。いずれも身なりの良い紳士で、顔付きや仕草から、いずれも聡明かつ上流階級に属する人間だというのが分かる。
「十河先生がはるばる彩北から足をお運びになるとは、何か揉め事ですかな」
十河がヤクザの顧問弁護士だということは、知っているのだろう。声をかけてきた男は興味津々といった顔つきながら、品の良い距離感を保っていた。
「ええ、まあ。実は、敬一さんのことでちょっと」
十河が、背後にいるさやかに意味深に目配せした。さやかもまた、いかにも訳ありっぽく俯く。
男は、あっさりと頷いた。
「ああ、またですか。敬一さんも苦労が絶えませんねえ」
「無理もないでしょう。あのルックスですから」
敬一は美男子、とさやかは頭の中にメモした。
「キャンパスでは、敬一さんが道を通るたびに、女子が押し合いへし合いしているそうですよ」
「うまくすれば玉の輿ですからねえ、女子が必死になるのも分からんでもありません」
「ですが、プリンスのお眼鏡にかなう女子はなかなか現れないようですよ。つい先日も、某家の令嬢が敬一さんに振られたとか」
「灘家のご令息ともなると、名家のご令嬢を選び放題というわけですか。いやあ、羨ましい限りですなあ」
十河の女性観には前から合わないものを感じるが、オッサンと考えが合うことのほうが稀なので、さやかは気にしないようにする。
男は、『訳あり女』さやかに聞こえないようにだろう、声を潜めた。
「いいんですか、彼女をこんなところにまで連れて来て」
「大丈夫ですよ、彼女はいきなり敬一さんを刺したりなんかしません。実はもう、故郷でお見合いが決まってるんです」
「おや、そうなのですか」
「私が説得したんです。叶わぬ相手を追いかけて若い盛りを無駄にするより、地元に戻って幸せにおなりなさいと」
十河の熱弁に、男も納得したようだった。
「じゃあ、今日は」
「せめて一言、敬一さんにお別れが言いたいと申すもので。まあ、面会は無理でしょうが、敬一さんの姿だけでも見せてやれれば、と」
流石は長年、白虎組の顧問弁護士をしてきただけあって、十河は言外のニュアンスを匂わせるのがうまい。言葉とは裏腹に、さやかをここで待ちくたびれさせて、手ぶらで田舎に追い払う、というシナリオがありありと浮かんできた。
男にも、十河の意図が伝わったのだろう。テーブルに置かれたドリンクには手もつけず、悄然としている(ように見える)さやかのことを、ちょっとだけ哀れそうに見た。
「そりゃ、十河さんもお疲れ様です」
「いえいえ。たまたま、この子と故郷が同じなものですから」
話はそれから、今夜の麻雀のことに及んだ。
「灘先生の麻雀大会も、いつぶりになりますかねえ」
「選挙の前以来ですから、もう4ヶ月は経ちますか。あれから先代のことがあって、先生も色々とご苦労があったようですが」
先代、とは灘純一の父・灘孝助のことだ。冬枝が「くたばり損ない」と表現していたのを思い出し、さやかは密かに苦笑した。
人身売買という一大スキャンダルで非難を浴びた灘家だったが、純一は思いのほかタフらしい。
「先生はほら、ああいうご気性ですから。屋敷の周りをうろついていた記者を誘って、一緒に麻雀したりしてましたよ」
「はははっ、それは先生らしい。無邪気というか、趣味人というか」
「そうそう、憎めない方なんですよねえ。先生にとっては、この社会の裏も表も関係ないのかもしれません。何せ、ヤクザまで麻雀に誘うぐらいですから」
そこで、さやかの胸がどきりと跳ねた。
――まさか、冬枝さん…?いやそれとも、青龍会四天王・藤浪のほうか…?
十河も同じ考えなのだろう。内心を気取られぬよう、わざとらしく驚いて見せた。
「まさか、今夜の麻雀にもそのスジの方が?」
「ええ。冬枝さんって人だとか」
あっさり冬枝の名前が出て、さやかは勿論、十河も呆気に取られていた。
――こんなに簡単に、冬枝さんがこの家にいる確証が得られるなんて…。
灘家では、冬枝の存在を極秘にしているのではないのだろうか。さやかの意を察したのだろう、十河が探るように尋ねた。
「その冬枝って人は、紫鏡会の人で?」
紫鏡会は、青龍会四天王・藤浪が率いる組だ。今は紫鏡会が灘家を護衛していることも、十河から聞かされていた。
男はヤクザの相関図にはそこまで興味がないらしく、退屈そうに顎をさすった。
「さあ、私はそこまでは…。先生からは、冬枝さんは病み上がりだから手加減してやってくれ、とだけ聞いてます」
「なるほど、そうですか」
どうやら、ここに集まっているのは灘純一同様、自由で無邪気なブルジョワたちのようだ。きな臭い話とは適度に距離を置き、シンプルに純一との交友を楽しんでいる。
つい最近までヤクザ同士の争いの渦中に身を置いていたさやかは、明るい照明に照らされた優雅な一室が、別世界のように感じられた。
――こんな世界もあるんだな。佳代さんが浮世離れしてるわけだ…。
この国の金と政治の中枢を掴みながら、こうして自由な遊び場も確保している。ヤクザとも付き合うが、節度は保つ。表の世間も裏社会も、名門・灘家の背景に過ぎないのだ。
そんな風に、灘家のキラキラした社交場に意識を取られていたせいだろうか。さやかは、青年が近付いてきたことに全く気付かなかった。
「君、夏目さやかだろ」
「……!」
さやかの全身の血が、さあっと冷えた。
この東京でさやかの名を呼ぶ者は、2種類しかいない。敵か、味方か。
さやかが恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは細面の美青年だった。
――誰だ、こいつ。
さやかの知り合いに、こんな髪も睫毛もサラサラと涼しげな音を立てそうな美形はいない。色白でやや中性的だが、アイドル系というよりは着流しの似合いそうな和風の顔立ちだ。
ヤクザには見えないが、と考えかけて、さやかはハッとした。
「……灘敬一さんですか」
「おや。名前を知っていてくれるとは、光栄だね」
青年――灘敬一は、シャンパングラスを両手に持ってさやかの隣に座った。
「君もどうだい?」
「いえ、結構です」
それより、と言ってさやかは声を潜めた。
「どうして、僕のことをご存知なんですか」
「君は有名だからね。この世界では」
敬一も、裏社会に関わっているということだろうか。『ブルー・ワイバーン』のような半グレ集団もいるし、議員のボンボンがヤクザと繋がっていても珍しくはない。
「ちょうどよかった。僕は君に会いたいと思っていたんだ」
敬一が、顔を近づける。典型的ショーユ顔の敬一は、ソース顔の佳代とはあまり似ていない。母親似なのかもしれない、とさやかは思った。
「…僕に、一体何のご用でしょうか」
或いは敬一は、青龍会四天王・藤浪と結託しているのかもしれない。さやかは、いきなり自分が窮地に陥ったことを悟った。
――冬枝さんと会う前に、僕が捕まるわけには…!
敬一は薄く笑うと、若草色のシャツの胸元から、白い封筒をすっと取り出した。
「これを君に託そう」
「これは…?」
手にしたさやかは、そこに書かれたあて名書きを見て目を疑った。
――『T・Nへ 君をこの腕に抱くことを夢見ているK・Nより』……。
流麗な筆跡から目を上げると、敬一は完璧な角度で首を傾げてこちらを見ていた。
「僕も、趣味で工学をかじっていてね。君の兄…タクミ・ナツメとは、アマチュアロボット大会で出会った」
「はあ…」
「僕の家柄を気にしたのか、君のお兄さんからイエスの返事をもらったことはないが……僕らは必ず結ばれる運命であると、僕は確信しているよ」
「そうですか」
さやかは、それぐらいしか言えない。笑いを堪えるのに必死だからだ。
――たっくん、昔っから男にモテるんだよね。しかも、変な人ばっかりに。
兄思いの妹として、さやかはいつも、そうした男たちに親切に接してきた。今回も、にこりと笑って言ってやった。
「兄も、あなたのことは気にかけていると思いますよ。同じ趣味の人なら、なおさら」
「君もそう思うかい?嬉しいな。運命はいつだって必然に向かってゆくものだ」
顔は似ていないが、敬一は性格が佳代と似ているのかもしれない、とさやかは思った。
影も出来ないような煌びやかな照明の下で、敬一は愁いを帯びた表情を上手に作った。
「僕は、本当はものづくりの道に進みたかったんだ。車や電化製品みたいに、人の生活に関わるものを作る仕事がしたかった」
深窓の美青年には似合わぬ進路希望に、さやかはちょっと驚いた。
「だが、僕の生まれではそれは叶わぬ夢というもの。今は法学部に籍を置いているよ」
敬一は、さやかの中に兄――夏目たくみの面影を探すように、深い視線を注いできた。
「タクミ・ナツメは一見、非常にクールな人間に見えるが、その実、全てを投げ打って工学に励む熱い男だ。寝ているときも起きているときも、いつでも工学のことを考えている。僕の周りの人間はみんな、金をたくさん持って、たくさんの人から愛されることが幸せだと言っている。だけどタクミは、そんな薄っぺらい一般論には全然興味がないんだ。自分の幸せは自分にしか分からないことを、彼は知っているんだろう」
厭味ったらしい兄を上流階級の美青年から褒め称えられて、さやかは反応に困った。
――たっくんはただ単に、工学以外のことが出来ないだけだと思うけど…。
敬一は優雅な仕草でシャンパンを飲み干すと、ダンスに誘うかのようにさやかに手を差し伸べた。
「そろそろ行こうか。ここはタバコ臭くて敵わない」
「行くって、あの…どちらに?」
「麻雀をやるのはここじゃない。父はいつも、隣のプレイルームでやっている」
さやかは、ハッとして敬一を見上げた。
「君は、冬枝誠二に会いに来たんだろう?」
こちらを見下ろす傲岸で不敵な笑みは、確かにあの佳代の兄のものだった。
アルカイックスマイルは、世間知らずとも、狷介とも取れる。さやかは、敬一の意図を測りかねた。
「…いいんですか、僕が会っても」
「僕が君を阻む理由はない。その手紙をタクミ・ナツメに渡す、という条件付きだけどね」
勿論、さやかにも断る理由はない。この手のラブレターを受け取った時の兄のリアクションは、さやかの大好物だ。
さやかは敬一と共にウエイティングルームを辞す際、ちらっと十河に目配せした。
察しが良い十河はしたり顔で頷き、他の客には「見逃してやってください。最後の逢瀬ですから」なんてうそぶいていた。
外に出ると、夜風が冷たく頬に当たった。丁寧に切り揃えられた庭木が、さわさわと鳴る。
「聡明なタクミ・ナツメの妹なら心配無用だろうが、僕から離れて行動しないほうがいい。この屋敷には、紫鏡会の人間があちこちに潜んでいる。侵入者は1秒で排除される」
さやかは、心持ち、先を行く敬一との距離を詰めた。
「…敬一さんは、紫鏡会のことをどう思っているんですか」
「別に。藤浪とは僕が生まれる前からの付き合いだからね。空気みたいなものさ」
ヤクザも震える青龍会四天王が、灘家にとっては空気みたいなもの――。さやかは、上流階級は住んでいる世界が違う、と思うしかなかった。
「それより、冬枝という男は一体何者なんだい?」
「えっ…」
「我が妹と、タクミ・ナツメの妹。両方の女から熱視線を浴びるほど、魅力的な男には見えないが。少なくとも、僕の趣味ではない」
どうやら、敬一は冬枝の存在を知ってはいても、さして興味はないらしい。夜風に乗せるように、さらりと呟いた。
「我が家の女は皆、男の趣味が悪い」
それは妹の佳代のみならず、父・純一や祖父・孝助を皮肉っているのだろうか。さやかの返答を待たず、敬一は話を続けた。
「藤浪は佳代にべったりだ。我が家の護衛なんて言っているが、藤浪は佳代にしか関心がない」
「そうなんですか?」
「ああ。藤浪にしてみれば、僕や父はしょせん、佳代を支える土台に過ぎないよ」
青龍会四天王の中でも最年長の藤浪と、あのハレンチ美少女の佳代を思い浮かべる。
――藤浪って男は、ロリコンなのか……?
さやかは色々な意味で佳代が心配になってきたが、実の兄はサバサバしている。
「だから、青龍会の命令であの冬枝って男を軟禁してはいるが、本心では佳代から引き離したがってるはずさ。君がここに来ることも、本当は歓迎しているんじゃないかな」
どうやら、敬一はさやかがここに来た目的を分かっているようだ。さやかは尋ねた。
「敬一さんは、僕が冬枝さんに会いに来たことを知っていたんですか」
「この家で隠し事は出来ない。来客のプライベートから、使用人同士の密談まで、何もかもが主である僕たちの耳に入るようになっている」
上流階級であれば、当然の情報網なのかもしれない。だが、さやかはこの屋敷が、見えない蜘蛛の糸で隙間もないほど覆われているように思えた。
「息が詰まりませんか」
「そうかな。君たちは、公衆の面前で裸になりたいと思うかい?それと同じさ。僕たちには急所が多すぎる」
名門・灘家を陥れようとする者は――記者、泥棒、或いは身内でも――後を絶たないのだろう。だからこそ、灘家は紫鏡会の介入も受け入れている、ということか。
「さあ、ここがプレイルームだ。今夜のメインイベントの会場だよ」
敬一が手で指し示す先には、ウエイティングルームよりも大きい、体育館ほどの建物が聳え立っていた。
同じ頃――都内にある建設中のホテル『セレスト・キャッスル』。
巨大な龍の骨を模したシルエットは、今にも東京の夜空に泳ぎ出しそうに見える。
建設半ばのこのビルに、今夜、4人の男が集結していた。
朱雀組5代目・柘植雅嗣と、最高顧問・秋津ミノル。
青龍会会長・海堂玖門と、四天王の一人、藤浪京。
この国を二分すると言われるヤクザの大物による、電撃会合だった。
「海堂会長につきましてはご多忙の折、お時間を割いて頂き感謝しています――」
祝詞のように粛々と述べたのは、柘植だ。口調こそ慇懃だが、ワインレッドのスーツからは嫌悪感が滲んでいる。
対する海堂は、隣に控える藤浪と、事前に揃えたかのような笑みだ。
「柘植さんのためなら、いくらだって時間を作るさ。元より、年寄りは暇でね。青龍会は四天王がいれば回るから、僕なんて名誉職だよ」
そこで口を開いたのは、銀髪を靡かせるミノルだった。
「これは、ご謙遜ですね。でしたら、うちの栗林を連れて行かれたのは、ご隠居のお戯れでしょうか」
「おやおや、秋津さん。少し冗談が過ぎますよ」
藤浪が、牽制するように笑みに圧を加える。
簡単なライト一つしかない暗闇の室内で、藤浪とミノルの視線が絡み合った。
「秋津ユタカも栗林アキラも、今は亡き僕の兄と姉の忘れ形見です。我が命に等しいものを2つも青龍会に持ち去られて、冗談など言っている余裕はありません」
ミノルの蘇芳色の瞳を、藤浪の糸のように細い笑みが受け流す。
「そう焦らず。我々青龍会と貴方がた朱雀組が雌雄を決するには、まだ早い。そうでしょう?」
ヒュルル、と外で夜風が鳴った。
がらんどうのフロアには、男4人しかいない。無用の衝突を避けるため、双方の護衛は下の階に控えていた。
海堂が、肩を軽く揺すって笑った。
「君たちは本当に、家族想いだね。平の組員のために、朱雀組の大物2人が出向くなんて」
「美談ですね。泉下の4代目も紅涙を絞っていることでしょう」
冷やかすような藤浪の言に、柘植が不快そうに眉をひそめる。
「……私としては実に遺憾なのですが、こちらの秋津ミノル最高顧問の身柄と、栗林とを交換していただきたい。これについては、ご了承いただいたということでよろしいでしょうか」
「ああ、勿論さ。尤も、栗林君本人に帰る気があるかどうかは別だけれど」
「どういう意味でしょうか」
と尋ねたのは、ミノルである。胸の奥で、ずっと嫌な予感がしていた。
――そもそも、栗林が海堂に連れ去られたという流れ自体がおかしい。あれだけ会いたがっていたユタカを目の前にして、栗林が海堂に気を許すとは思えない……。
そこで、ミノルの脳裏で一つの可能性が発光した。それは黒く、血のように赤い光輪に囲まれたおぞましい予想だった。
――生まれ変わり…タカマガハラ……まさか。
ミノルの思考を断ち切るように、藤浪がパンと手を叩いた。
「そうと決まれば、例の場所へご案内しましょう。ちゃんと栗林組員にもお会いしていただきますよ。我々が約束を反故にした、などと言われては敵いませんからね」
それを合図にして、青龍会と朱雀組、双方の護衛たちがぞろぞろと集まってきた。ここからお互い、選ばれた精鋭のみを引き連れて、例の場所――タカマガハラへとミノルを護送するのだ。
ミノルの長い銀髪が、ざわざわと揺れる。東京の上空を渦巻く大気の中に、ミノルは見えない雷の気配のようなものを感じていた。
――指先がピリピリと痺れる。ここの空気全体が、何かに怯えて静電気を発しているかのよう…。
ミノルの勘の鋭さは、雀卓の上に限らない。不吉な感覚が的中したことは、一瞬後に分かった。
「えっ?」
中折れ帽が飛んでゆかなければ、ミノルは自分の身体が浮いたことに気付かなかっただろう。
そのぐらい自然に、ミノルは抱きかかえられていた。あっという間に、薄暗い室内から引き離される。
「最高顧問!」
柘植の叫びが、すぐ隣に聞こえる。ハッとして振り返れば、柘植もミノルと共に抱きかかえられていた。
――これは、一体……。
まるで、つむじ風にでもさらわれたかのような感覚だ。体重が0になってしまったかと錯覚しそうになる。
海堂と藤浪でさえ、驚きに目を見開いている。それもあっという間に遠ざかり、夜闇に飲み込まれていく。
「……っ!」
訳も分からぬ間に、ミノルと柘植は『セレスト・キャッスル』の最上階から引きずり降ろされ――巨大な龍のシルエットをなぞるように、地上200メートルを落下した。
長く波打つ銀髪が景色を隠さなければ、悲鳴を上げていたかもしれない。スピード狂のミノルをもってしても、心臓が止まりそうになる体験だった。
ダンッ!
恐怖の時間は、実際には数秒のことだっただろうか。落下が止まっても、ミノルは抜け出た魂が、その辺りを漂っている気がしてならなかった。
丸眼鏡が、まだ自分の鼻に引っかかっていることが不思議だ。ミノルは、レンズの外側へとゆっくりと目線を上げた。
当然、ミノルと柘植を『セレスト・キャッスル』から引きずり出したのは、突風の仕業などではない。常人離れした怪力で2人を抱え、200メートルの高さから無傷で着地した男が、そこにいた。
「……4代目?」
柘植のかすれた声が、静寂に落ちた。ミノルもまた、絶句していた。
――イサオお兄さん……?
駐車場を照らすライトを背に、兄――秋津イサオがそこに立っていた。
しかも、イサオの姿は若々しく――終戦直後、東京から大羽に帰って来た日の姿そのものだった。
「…」
イサオは一瞬、ミノルに微笑みかけたように見えた。それから、傍らでうずくまる柘植に告げた。
「摩耶。後は任せられるか」
「はい」
もう一つの名で呼ばれたせいか、頷く柘植の横顔は恍惚としていた。
「そんじゃミノル。行くぞ」
「どこへ?」
と、尋ねる暇も兄は与えてくれなかった。気付いた時にはミノルはまた、イサオの小脇に抱えられて、東京の夜空へと跳躍していた。
「………!」
近くにある建物の屋上を、イサオは八艘渡りよろしく飛んで駆けていく。兄の脚は羽根が生えているかのようで、数十メートルは先にあるはずのビルの縁に、たった一歩で届いてしまう。
――いくらイサオお兄さんでも、こんな真似ができるはずがない。
確かに、生前のイサオは体格や膂力に恵まれ、超人と呼べる能力の持ち主ではあった。だが、200メートルもある『セレスト・キャッスル』から飛び降りたり、こうして都会の高層ビルの間を走って渡ったりするなど、とても人間技ではない。
――まさか、このイサオお兄さんは…。
「生まれ変わり…」
ミノルが呟くと、イサオはまた次のビルへと飛び移りながら、にっこりと笑った。
夜風がすっかり全身を冷やす頃、イサオに抱えられたミノルの視界に、巨大な邸宅の屋根が見えてきた。
――灘議員の自宅…!
尋常ならざる事態ではあっても、ミノルは自分の位置を正確に把握していた。ここは、ミノルが本来行くはずだった場所――灘家だ。
豪邸を守る背の高い門扉をいとも容易く飛び越えると、イサオはミノルを庭に下ろした。
「ほれ」
いつの間に手にしていたのか、イサオはミノルの頭に中折れ帽をかぶせた。幼いミノルの頭をポンと叩いた時と同じ、大きな手で。
「………」
足元の芝生が、妙に温かく感じる。それだけ、ミノルの身体が夜風で冷えたのだろう。
――まるで、あの夜のように…。
イサオを失ったあの惨劇が、ミノルの皮膚に蘇る。東京の乾いた寒さは、彩北では忘れていられた悲しい記憶を、ミノルの中に呼び起こした。
「ミノル」
あの時の兄と全く同じ声が、ミノルの頭上に降ってくる。
「夏目さやかを殺せ。いいな」
ミノルは、ハッと目を見開いた。
右と左、上と下、白と黒、過去と現在――ミノルの心が、2つに分かれる。
――『百塔』の正体は…本物のイサオお兄さんを殺したのは…!
ミノルの理性は、確かにそう叫んでいるのに――凍り付いた過去のミノルは、不穏な闇へとゆっくりと踏み込もうとしていた。
龍の骨の天辺を、乾いた風が吹き抜ける。
星々の瞬きに囲まれたフロアには、海堂と藤浪だけが残っていた。
「柘植も、秋津ミノルも、連れて行かれてしまいましたか。如何なさいますか、会長」
藤浪がにこやかに問うと、海堂は至って穏やかに答えた。
「仕方がないね。神々は気まぐれだ」
「やはり、夏目さやかが必要ですか」
秋津ミノルと並ぶもう一人のキーパーソンの名を藤浪は口にした。
「彼女の件なら、ユタカに任せておけばいい」
「ですが、秋津組長は失敗続き。彼だけではいささか力不足かと」
含みのある藤浪の言い方に、海堂は鷹揚に頷いた。
「そうか。じゃあ、藤浪も手伝ってやってあげてくれないか」
「はい」
海堂は、出入口へと踵を返した。
「今夜、ここには誰も来なかった。我々は、柘植雅嗣や秋津ミノルとは会っていない。ここでは何も起こらなかった――そうだね?藤浪」
「ええ。会長の仰せのままに」
やがて、扉は音もなく閉まった。『セレスト・キャッスル』は、再び無人の骨と化した。
庭にあるプレイルーム、と聞いて冬枝はてっきり、ホテルなんかによくある遊技室のようなものだとばかり思っていた。
ところが、実際に案内されたのは、冬枝がオーナーを務める雀荘『こまち』よりも遥かに大きい建物だった。
――どうせ外でも遊び放題の癖に、金持ちってのは、こんなでかい遊び場を家にまで作らなきゃ気が済まねえのか…。
広々とした室内にはビリヤード台が5台、雀卓が5台、更にスロットマシーンやルーレット、ポーカーが出来るテーブルもある。バーカウンターまであるのを見て、冬枝は溜息を吐いた。
――彩北にある裏カジノなんかより、よっぽどでかくて立派だな。
しかも、純一から『身内同士の集まり』と聞いてイメージしていたより、客の人数が多い。ざっと40人ほどはいるのではないだろうか。
――気楽でいろなんて言っておいて、れっきとしたパーティーじゃねえか。なんで俺がこんなもんに呼ばれたんだか…。
道理で、シルク仕立てのテカテカした寝間着から、チャコールグレーのタキシードに着替えさせられたわけだ。というか、客がこれだけいれば、麻雀のメンツは十分揃うのではないだろうか。
――金持ちにからかわれただけか?ちっ、落ち着かねえな…。
冬枝が所在なく会場を漂っていると、音もなくメイドが近寄って来た。
「ごゆっくりどうぞ」
冬枝にグラスを渡して、また音もなく会場へと消えていく。
灘家に仕える喪服のような恰好のメイドたちにも、すっかり見慣れてしまった。整然と客たちの間を行き交う女たちから、ふと視線を上に上げた冬枝は、息を呑んだ。
「げっ…」
会場内をぐるりと見下ろす形になっている2階のギャラリーに、みっちりとメイドたちが並んでいる。なんならその中には、あの忌々しい藤色のスーツを着た紫鏡会の連中も混ざっていた。
「なんだ、ありゃ」
思わず呟いた冬枝に、いつの間にか人影が近寄っていた。
「あれは、監視っスよ。客たちがイカサマしたり、こっそり金のやり取りなんかしないように見張ってるんですって」
「へー。じゃ、チョシマシした連中は、あの紫鏡会の奴らがボコボコにするってことか」
「いやあ、天下の灘家がそんなお下品なことはしませんよ。どの客が、どんなオイタしたかってのをメイドたちがメモして、ご主人様に報告するだけみたいっス。紫鏡会の連中は、よっぽどのことがない限りは出てきません。あくまで抑止力でしょう」
「ふーん。お前、詳しいな」
と言ってから、冬枝は一時停止した。
「……」
ゆっくり振り返ると、そこにいた男が、見慣れた笑みで手を振った。
「ハァイ、ダンディ冬枝」
「嵐っ…!?お前、なんでここに!?」
この屋敷に来てから、一番驚いた。目を白黒させる、というのはこういう時に使うのだろう。
書き割りみたいな背景から、嵐だけが浮き上がって見える。
贅沢三昧の腑抜け暮らしの中で、冬枝が久しく失っていた現実感が――嵐を中心に、熱を持って広がっていった。
――俺は……今まで、何をしていたんだ?
そこで、冬枝ははたと嵐の格好に気が付いた。
嵐はあの見慣れたピンクの革ジャンではなく、ある意味、冬枝がこの屋敷に来てから『見慣れて』しまった、藤色のスーツを着ていた。
「お前、なんでそんなみょんけた格好してんだ」
「質問責めっスね、ダンディ冬枝。俺としては、ダンディ冬枝が生きてたことを祝して再会の抱擁を交わしたいところなんですが」
そう言って、本当に両腕を広げようとする嵐を、冬枝は手で払った。
「変わんねえな、ふざけたとこは。お互い、色々あったってことか」
「も~う色々ありすぎて、七色の極彩色っス」
肩をすくめてから、嵐は藤色のスーツについて説明した。
「俺は朱雀組の5代目の言いつけで、ここに潜入させてもらったんス。このスーツは現地調達」
「お前、あの紫鏡会の奴らとやり合ったのか」
「まさか。俺が勝手に青龍会四天王とやり合ったりしたら、ロリコン伯爵やジェントル秋津の頑張りがパーになっちまいます。これはあしながおじさんからのプレゼントっスよ」
「あしながおじさん?」
冬枝の問いに答えるように、その『あしながおじさん』が嵐の背後から姿を現した。
「彼の格好だと、即座に叩き出されてしまいそうだったからね。木の葉を隠すには森の中、ってわけさ」
「あんた……!」
そこにいたのは、このパーティーの主催者――灘純一だった。
現役の国会議員と、彩北の胡散臭い雀ゴロ。あまりにもちぐはぐな2ショットに、冬枝は開いた口が塞がらなかった。
「どういうつもりだ。あんた、そいつが何者か分かってんのか」
つい詰問調になる冬枝を、嵐が宥めた。
「どうどう。灘先生への口の利き方がなってなくってよ、ダンディ冬枝」
「いや、だってよ」
「ハハハ。春野君が冬枝君の友人というのは、どうやら本当のようだね」
純一はグラス片手に「この家で隠し事は出来ない」と言った。
「柘植さんから、この春野嵐君を冬枝君に会わせてくれないか、と頼まれてしまってね。普段なら藤浪さんの手前、断るところなんだが、今日は留守ときている。鬼の居ぬ間に洗濯…じゃないが、堅気の青年を一人お招きするぐらいなら、受け入れてもいいと判断した」
灘家が青龍会のみならず、朱雀組とも付き合いがあるのは有名だ。純一の父・孝助の件で朱雀組とは疎遠になったかと思われていたが、そう簡単に縁が切れるものでもないらしい。
――にしたって、俺を麻雀に招いたり、嵐を家に入れたり、今日は何かおかしくねえか?
違和感を抱く冬枝をよそに、嵐は「そうだっ!」と手を叩いた。
「純ちゃん、今日の麻雀でダンディ冬枝が勝ったら、この屋敷から解放してやってくれよ」
「ああ!?嵐、てめえ何言って…」
「面白いね。いいよ、受けて立とうじゃないか」
「はあ?」
嵐による唐突な提案を、あっさり引き受けた純一。冬枝は、呆気に取られてしまった。
――なんか、こいつら、やけに意気投合してねえか?
まるで、事前に口裏でも合わせていたかのようだ。考えすぎだろうか、と冬枝は首を傾げた。
「ペナルティがあったほうが勝負は盛り上がるだろう?冬枝君にも、出来れば忖度なしで打ってもらいたいからね」
「いや、でも…この屋敷から解放するっつったって、んなこと藤浪が許すわけねえだろ」
条件が成立しないのではないか、という冬枝の疑問に対し、純一は如才ない笑みで答えた。
「春野君に脅されて仕方なく、と言えば藤浪さんも納得してくれるさ。それに、私が君にプレゼントしてやれるのは、あくまで『この屋敷からの解放』だけだ。その後、青龍会が君に対してどう出ようと、私は関知しない。この程度の自由なら、藤浪さんも文句は言わないだろう」
「…なるほど」
いかにも政治家らしい理屈ではある。冬枝にメリットがあるのかないのかよく分からない話だが、わざわざ拒絶する理由もなかった。
――だが、この屋敷から自由になって、それで俺に何がある?どうせ外に出たって、さやかはどこにもいないのに……。
冬枝は、虚ろな目でプレイルームの天井を見上げた。貴族たちの遊びを照らすシャンデリアが、冬枝には寒々しい太陽のように見えた。
ガサガサと、茂みが左右に揺れて音を鳴らす。
整えられた緑のカーペットを裸足で踏み荒らし、その男は鼻息も荒く灘家のプレイルームに迫っていた。
「ようやく見つけたぞ……冬枝誠二!」
その男の名は監物――この東京から遠く離れた地、縫琴の八百眼組の若頭だった男である。
組長への反逆を企てたものの、秋津ミノルらによって妨害され、一時は警察に捕らわれの身となった。
監物は起死回生を賭して留置所を抜け出し、行く先々で車を奪って、ここまで辿り着いた。
今、縫琴では暴力団組員の脱獄事件で大騒ぎになっているだろう。しかし、地方のことなど意にも介さぬこの都会には、そのニュースはまだ届かない。
監物の目的は、ただ一つ。宿敵・冬枝誠二をこの手で倒し、極道としてその名を歴史に刻みつけることだ。
――俺がいかに強く気高い男かを、俺をコケにした連中に思い知らせてやる…!
その監物の背後に、銀髪を靡かせた男が立っていた。
「君の意地には感服しましたよ。監物君」
「…!誰だ!」
振り返った監物は、相手の正体に気付いて目を見開いた。
「貴様は…!」
「取り引きをしませんか?お互いの宿願を遂げるために…」
秋津ミノルはそう言って、目には見えない魔法を操るように――片手を夜空に掲げた。




