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68話 友情とそれ以外の感情

第68話 友情とそれ以外の感情 


 数日後――。

 さやかは銀座にある「クロス・リバー弁護士事務所」にいた。

「お久しぶりです、夏目さん」

 さやかは鳴子と再会した次の日に、白虎組の顧問弁護士である十河に引き合わされた。

「十河さんも、彩北から来たんですか」

「ええ。霜田先輩…補佐からのご命令とあっては、東京だろうと大阪だろうと、出向くしかありませんよ」

 十河が、苦笑気味に言った。

 さやかが十河とこうして会うのは、春先に響子のマンションで遭遇して以来だ。白虎組若頭補佐・霜田の大学の後輩だということも、その時に聞いた。

 その後、組絡みで何度か顔を合わせることはあったが、所詮は組の代打ちに過ぎないさやかと、組の裏帳簿から面倒事まで細部に渡って管理する十河とでは、立場というか、仕事の質が違う。きちんと話をする機会は、意外となかった。

 事務所の奥にあるガラス張りの一室で、さやかと十河はソファに座って向かい合った。

「ここは兄夫婦がやっている事務所です。うちは代々続く弁護士一家でして、祖父も父も母も叔父も叔母も、従兄弟もはとこも、果ては甥や姪もみんな弁護士、といった具合です」

「そうなんですか」

「まあ、うちは極端な例ですが、弁護士というのは横の繋がりが強い集団です。夏目さんの居場所も、この弁護士同士の情報網で探しました」

 十河が調べたさやかの動向から、霜田はさやかが鳴子を救出しようとしていることを察した。それで、あの夜、霜田は『アネモネ』のホステスたちを率いて小池家別邸に現れたのだ。

「『アネモネ』は朱雀組の息がかかった店です。そんな店でおおっぴらに飲んでいたんだから、夜郎組の組長は間抜けとしか言いようがありません」

 夜郎組組長・小池徹を嘲笑ってから、十河は眼鏡のフレームを軽く直した。

「補佐から命じられていたのは、夏目さんの探索だけではありません。冬枝さんの行方も、並行して探していました」

 そこで、灘家に出入りする顧問弁護士が、冬枝らしき人物が匿われていることを嗅ぎつけたのだという。

「よく灘家の弁護士が、雇い主の秘密を喋りましたね」

「いえいえ、流石に顧問弁護士は口を割りませんよ。灘家ほど大きな家になると、顧問弁護士も一人ではなく、複数の秘書や護衛を連れて行動しているんです。そういった関係者から漏れ聞いた情報と、今の状況を分析した結果…」

「冬枝さんが灘家にいる、と考えるのが一番自然な解だった、ということですね」

「そういうことです」

 それから、さやかは十河から現在の灘家の状況――国会議員として名声を馳せた灘孝助が失脚し、今は息子の灘純一がイメージアップに努めていること、娘の佳代は祖父の醜聞のせいで登校を控えていること、そして今、灘家には青龍会四天王・藤浪京が後ろ盾についていること――などを詳しく教えられた。

「………」

 ――まさか、佳代さんとこんな形で再会するなんて…。

 さやかが夏に出会った灘佳代は、縦ロールの髪型も華やかな、世間知らずのお嬢様だった。天真爛漫だが意外と努力家で、始めは佳代にライバル意識を抱いていたさやかも、最終的には佳代の強さを認めることになった。

 佳代は冬枝に並々ならぬ関心を寄せていたが、今の状況が佳代の意志によるものだとは思えない。

 ――源さんに殺されかけた冬枝さんを助けるなんて、佳代さんには不可能だ。灘家にだって、冬枝さんを庇うメリットはない。つまり、裏で糸を引いているのは青龍会…。

 さやかは、まだ見ぬ青龍会四天王――藤浪の意図を察した。

 ――冬枝さんを人質にして、僕をおびき出すつもりか。

 青龍会のやり口は、とことん卑劣だ。さやかは、スカートの上に置いた手を握り締めていた。

「…このこと、柘植さんは知ってるんですか」

 さやかが朱雀組5代目・柘植雅嗣の名を出すと、十河は姿勢を正した。

「勿論です。朱雀組の5代目はすぐに青龍会に冬枝さんの解放を要求したそうですが、あちらは知らぬ存ぜぬですよ」

 冬枝なんて男は知らないし、自分たちはあくまで灘家の護衛についているだけだ。それが、青龍会の主張だった。

 ――やっぱり、僕が直接、灘家に乗り込むしかない。

 青龍会の、ましてや藤浪という男の狙いはさやかにも測り切れないところがある。このまま、冬枝を囚われの身にしておくのは危険だ。

「十河さん…」

 灘家に行く、と言おうとしたさやかを、十河は眼鏡の位置を片手で直しながら遮った。

「夏目さん、仰りたいことは分かります。冬枝さんを助けに行きたい、というんでしょう」

「…はい」

「お気持ちはお察しします」

 そう言って、十河はふと遠い目をした。

「私はてっきり、貴方がたは女好きの冬枝さんと、東京から来た遊び好きの女の子がくっついただけの、軽薄なカップルだとばかり思っていました」

「…はあ」

「ですが、お二人が本当に強い絆で結ばれているのだということは、この十河にも伝わりました。いやまあ、正直に言えば、私みたいな中年には、夏目さんのような若いお嬢さんの考えていることはわかりませんけどね。ただ、冬枝さんが…」

 十河は榊原や霜田と共に、大学時代から白虎組に関わってきた。当然、若かりし日の冬枝のことも知っている。

「私の知ってる冬枝誠二って人は、とにかく喧嘩っ早いし自分勝手で、血の冷たい男でしたよ。根っからの悪人ではないんでしょうけど、どこか情に欠けるところがありました」

 若い頃の冬枝の評判は、とことん悪い。さやかは、ちょっと苦笑いしてしまった。

 そこで、十河は眼鏡の奥の瞳をキラキラさせた。

「それが、秋津の魔法使いにさらわれた夏目さんを助けるために単身、敵地に出向いて秋津の総長とやり合ったり、しまいには秋津の魔法使いと手を組んで、朱雀組との兄弟盃にまで漕ぎ着けたって言うじゃありませんか。今時珍しい、血の燃えた極道物語ですよ」

 冬枝の劇的な変化に、十河はいたく感動したらしい。ソファに置いた足を組み直し、饒舌に語った。

「私はね、職業柄いろんな人を見てきました。たまたま、不幸が重なって罪を犯してしまった、という人間もいますが、何をやっても更生できない、どうしようもない悪党というのもこの世には数多く存在します。それだけに、人が心底生まれ変わり、良い方向へと進んでいく姿には、希望が持てるんですよ。私らの仕事も無駄じゃない、って思えますからね」

 長い前振りの後――十河は、意外なことをさやかに言った。

「夏目さん。冬枝さんを助けに行きましょう」

「えっ…。いいんですか」

 てっきり反対されると思っていたさやかは、拍子抜けしてしまった。

 十河は、小柄な肩を揺らして笑った。

「やっと、身体から少し力が抜けましたね。夏目さん、ここに来てからずっと、目にも肩にも力が入ってましたよ」

「あ…。つい」

 さやかの挙措をよく観察しているあたり、伊達に弁護士ではないようだ。十河の笑みは、どこまでも温かかった。

「安心してください。冬枝さんの救出は、補佐からのご命令でもあります」

「霜田さんが…」

 大根一本で小池徹を打ちのめした霜田の姿が、脳裏に浮かぶ。

 口は悪いが、霜田は青龍会の縄張りであるこの東京まで、さやかと鳴子を助けに来てくれた。その優しさが、じわりとさやかの胸を熱くした。

「今、冬枝さんを助けられる可能性がある人間は、夏目さんしかいません。私からも、お願いします」

「十河さん…」

 さやかに、迷いはなかった。

 ――ここから先に何が待ち受けていようと、絶対に冬枝さんを助け出す。

 さやかが頷くと、十河は冬枝救出のための作戦を語り始めた。

 この時のさやかはまだ、鳴子が源清司によって拉致されたことを知らなかった。



 自分でも不思議だが、冬枝は弟分の高根や土井がさやかと喋っていても、嫉妬めいたものを感じたことがなかった。

 弟分ごときにプライドを刺激されたりしない――と言えばそれまでだが、冬枝43歳に対して弟分二人は27歳。19歳のさやかと釣り合いが取れるのは、明らかに『ごとき』のほうだ。

 しかし、弟分たちがさやかとスナック菓子をかっ食らっていようと、弟分たちがさやかの話をしていようと、冬枝はピリッとした感情すら抱かなかった。

 ――あいつら、てんで色気がねえからな。

 生真面目な高根はともかく、常時サングラスをかけてふざけている土井ですら、さやかを女として意識している様子がない。

 晩飯の後にリビングでくつろいでいるときなんて、3人でテレビを見てはしゃいでいたり、あのお菓子が美味かったからまた買おうとか、一番好きなドーナツは何味かとか、健全すぎる世間話で盛り上がっていたりする。

 ある時、土井がサングラスを外して「じゃっじゃーん!」とさやかに自慢していることがあった。

「見てくださいよ、さやかさん。オレ、サングラスに名前入れたんです」

「名前?」

「オレ、いつか兄貴みたいに一人前のヤクザになれたら、ブランド物のカッコいいサングラスを特注して、自分だけの名前入りサングラスを作るのが夢なんです。今はまだ無理だから、自分で」

 手を小さく丸めてサングラスにイニシャルを刻印する仕草をする土井に、高根が肩をすくめた。

「自分は、横で見ていてハラハラしましたよ。こいつ、サングラスを壊しちゃうんじゃないかって」

「うるさいなぁ。昔は工場で働いてたんだから、繊細な作業はお手の物なの」

「よく言うよ。手がプルプル震えて、汗だくだったじゃないか」

「そんなことより、さやかさんも見てください!」

 サングラスを受け取ったさやかは、土井が「これこれ!」とつるの部分を指で示すのを見て、目を細めた。

「J・P?」

「PじゃなくてDですよお!Pだったらオレ、土井じゃなくてポイになっちまうじゃないですかぁ」

「だから、自分が代わりに彫ってやるって言ったのに」

 高根が苦笑いした。

 さやかは土井の下手くそな彫刻にはあえて触れず、イニシャルに目を留めた。

「土井さんって、下の名前なんでしたっけ」

「ジョーって言うんです。なんか、ちょっと難しい字のジョー」

「バカ、土井。それじゃ説明になってないだろ」

 高根に突っ込まれて、土井が指を顎に当てて考えた。

「えーっと、そうだ、『譲る』っていう字の、左側を木みたいにしたやつです」

「『穣』ですか?」

 さやかがメモ帳に書いて見せると、土井が「それです」と言って笑った。

 年頃の男女が揃っていて、まるで小学生みたいな有様だ。冬枝は見ていて情けなくなってくるが、これはこれで平和でいいのかもしれない。

 しかし、夏場のリビングでさやかが信じられないほどだらしない恰好で寝ていても、高根と土井が微塵も気にしていないのを見た時には、冬枝も流石にこれは問題なのかと思い始めた。

 ――何せあいつ、胸がぺったんこだからな。薄っぺらいゆるゆるのシャツなんか着てると、胸と服の隙間が見えちまうことがあるわけだ。

 これが豊満なバストの持ち主なら眼福だが、さやかの場合は何というか、見てしまったこちらが居たたまれない気分になる。そこにあるのは丘陵と呼べるもののない、荒涼とした大地だからだ。

 そしてまた、高根と土井がそんなさやかを全くいやらしい目で見ていないことは、冬枝にも伝わる。奴らに至っては、さやかの胸が小さいなどという次元ですら見ていないだろう。股間についてないほうの友達、ぐらいな感覚だ。

 このように、ノホホンとした若者たちだからこそ、一人を好む冬枝でも居心地のいい関係が成立していた。高根も土井もさやかも分別はあるから、冬枝を煩わせるようなこともない。

 ――今まで何とも思ってなかったが、ひょっとしたらこれって、結構ラッキーなことだったのかもしれねえな。

 何より、さやかも高根も土井も、冬枝のことを純粋に慕ってくれていた。

 麻雀雑誌のグラビアページを3人で囲んで、「兄貴はどう思います?」「オレはやっぱりこういうポーズの娘が好きなんですけど」「僕は顔とスタイルのバランスも大事だと思います」などと訳の分からない話を振られ、「お前ら、バカか」と思わず苦笑したこともある。 

 3人と過ごした時間は、どうでもいいことばかりなのに、どうでもよくないと思う自分がいる。

 ――なんつーか、あいつらの親みたいな気持ちになっちまってるのか、俺。 

 高根と土井はともかく、さやかに対しては、考えれば考えるほど分からなくなる。

 さやかが上記のような薄着で寝ているのを見ると、いくら弟分二人がさやかを女扱いしていないとはいえ、冬枝はソファの上のさやかにブランケットをかけてやる。

 あられもない姿の若い女と、それに対してマヒしきった弟分たち、という構図は、自宅のリビングで展開されるにはあまりにも堕落した光景だからだ。

 冬枝の気遣いとは裏腹に、ブランケットをかけられたさやかは、目を閉じたままムッとする。

「あちゅい!」

「あちゅくね!」

 冬枝がさやかの口ぶりを真似して言うと、さやかは一度ブランケットの内側に潜り込み、またヌッと顔を出してから言った。

「あちゅい!」

「起きれ!」

 このように、平和ボケとしか言いようのないやり取りをしていると、冬枝は自分がさやかのことをどう思っているのか、分からなくなってくるのだ。

 娘のように思うこともあるが、冬枝は子供を持ったことがないので分からない。或いは妹のように思っているのかもしれないが、天涯孤独の冬枝にはこれまた想像しにくい感情だ。

 となれば、やはり女として想っている、という結論になるが、我ながらちょっと笑いたくなってしまう。

 ――高根たちと一緒にいたって妬く気にもならねえし、毎日、バカみたいな会話ばっかりしてる奴のことを、女だと思ってるって言えるのかね。

 強いていうなら、飼い猫が一番近いかもしれない。懐かれたら情が移るし、少々のワガママだって、大目に見てしまう。

 ――帰る家にさやかがいる。俺のいる所に、さやかが帰って来る。そういう生活が、ずっと続いていくのを頭のどっかで願ってる。

 甘いな、と自分で自分がおかしくなる。今時、たったの一夜で終わる男女が売るほどいるというのに。

 冬枝は、ソファで寝ているさやかの頬を指でつついた。ふにふにとした感触の後で、さやかが微かに笑ったような気がした。



「…………」

 夢から覚めると、冬枝は心底、何もかもが嫌になった。

 ――俺って野郎は、どこまでバカなんだ。脳みそ丸ごと、モヤシにでもなっちまったんじゃねえのか。

 さやかの夢を見るなんて、自分の女々しさにぞっとした。

 ――もう、あんな生活に戻れっこねえんだ。夢なんか見るな、大馬鹿野郎!

 夢の残像を振り切るように、ぎゅっと瞼に力を入れ、目を開ける。

 そこには、もう見慣れてしまったツタ模様の大きな天井が広がっている――はずなのだが。

「お目覚めかい、冬枝君」

「はっ?」

 冬枝の寝ぼけ眼に映ったのは、見慣れた灘家の天井を背にしてこちらを覗き込む、見慣れない中年の男だった。

 あの酷薄糸目の藤浪よりは、いくらか若い。キザったらしく濃い目鼻立ちは、初めて見る顔ではない。

 ――誰だ、こいつ…。

 見覚えはあるのに思い出せない、というのが絶妙にもどかしい。寝起きで頭が働かないせい、というより、元々この男のことをよく知らないような気もする。

 冬枝が記憶のぬかるみを引っ掻き回していると、男が救いの手を差し伸べるように笑みを浮かべた。

「お休み中のところ、すまないね。私もこう見えて忙しいもので、なかなか時間が取れないんだ」

「はあ…?」

「怪我の具合はどうだい?娘が迷惑をかけていないかな」

 その勿体ぶったセリフで、冬枝はようやく男の正体に合点がいった。

 ――灘純一か!

 あの時代遅れのくたばり損ない爺さんの息子で、佳代の父親だ。白虎組若頭・榊原の妻、淑恵の兄でもある。

 よく見れば、面差しが淑恵に似ていなくもない。しかし、冬枝のほうが居たたまれなくなるような清らかさに満ちた淑恵に対して、こちらはヘタに美形なのが却って鼻につく。

 という内心が顔に出てしまったのか、男――灘純一が苦笑した。

「そんなに睨まないでくれないかい。起こしてしまったのは悪かった」

「あっ、いや…」

「最初に言っておくが、私は君の敵じゃないよ。むしろ味方だ」

 純一は軽く笑って、首の後ろをトントンと叩いた。

「藤浪さんから、首根っこを押さえられているもの同士。だろう?」

「あんた…いいのか、そんなこと言って」

 冬枝は思わず、ベッドの上からきょろきょろと左右を見回した。あの藤色のスーツに身を包んだ男たちは、今もそこかしこに身を潜めているだろう。

「藤浪さんなら、今日は留守だよ。まあ、若い衆はあちこちに控えているようだが、気にすることはない。私のような青二才の陰口をいちいち気にするほど、藤浪さんも暇じゃないからね」

 自分と同じような年頃のオッサンに『青二才』などと自称され、冬枝はちょっと面食らった。

 ――二世議員ってのも、楽じゃねえってことか。

 どんなに年を取り、出世したところで、自分よりさらに年嵩の爺さん共にヘコヘコしなければならないのは、極道も代議士も一緒なのだろう。

 同情したわけではないが、冬枝は何となく、気になっていたことを聞く気になった。

「なあ。あんた…灘先生は、今の状況をどう思ってるんだ」

「それは、私が田舎のヤクザを娘と同じ屋根の下に匿っているのをどう思っているのか、という意味かな」

「…うん」

 純一はカラリと笑って、肩をすくめた。

「佳代が君に懐いているのは前から知っているし、君自身はそう悪人でもなさそうだから、私は気にしていないよ。いずれにせよ、藤浪さんには逆らえないしね」

「ずいぶん、割り切ってるんだな」

 あのプライドの高い理想主義者だった灘孝助とは対照的に、純一はかなり現実的だ。

「君にとっては大層、落ち着かない境遇かもしれないが、我々にとってはそう特殊な状況ではないということさ。藤浪さんとは、私や淑恵が生まれる前からの付き合いだから」

「そ…そんなに古い付き合いなのか」

 青龍会そのものならともかく、灘家と藤浪個人との関わりが長い、というのはちょっと意外だ。

 ――そういや、佳代さんもやけにあいつと仲良さそうだったな…。

「と言っても、私も藤浪さんのことはよく知らない。藤浪さんについては、週刊誌と同じ程度の情報しか持っていない、というのが正直なところだ」

「えー…」

 この国の上級国民ですら、素性を知りえない男。冬枝には藤浪が、いよいよ物の怪の類のように思えてきた。

「だが、藤浪さんとはこれまで、家族同然に過ごしてきた。敵意を向けられたことも、今のところない。だから、互いに利益を図り合い、共存している。君が今ここにこうしているのも、その延長線上でしかない」

 冬枝には何もかもよく分からないが、目の前にいるオッサンが、この状況を受け入れていることだけは理解した。

「…そういや、あんた、俺に何か用か」

 純一があまりにも悠長に話をするものだから、来訪の目的を聞くのがすっかり後回しになっていた。

 ――落ちぶれたとはいえ、こいつは代議士一族の端くれだ。何の下心もなく、俺と世間話なんかするはずねえ。

 純一が敵ではないというのは事実かもしれないが、だからと言って味方とは限らないだろう。政治家が何枚もの舌を使い分けることは、田舎ヤクザに過ぎない冬枝でも知っている。

 高慢ちきな老いぼれと違って、息子のほうは今が一番脂の乗った年頃だ。だが、朝日に照らされた横顔は、ただのお上品なダンディにしか見えない。

「実は今夜、うちで麻雀をやるんだ。ぜひ、冬枝君にも参加してもらいたい」

「麻雀?」

 冬枝にはそれが、100年ぶりに復活した古の競技の名前のように響いた。

 ――麻雀?なんで?俺が?ここで?

 純一の眼を覗き込めば、口を開けてぽかんとしている冬枝の間抜け面が見えることだろう。

「いつもの集まりなんだ。大学時代の仲間と食べて、飲んで、そのまま別れるのも味気ないから、最後にだらだらと麻雀を打ってから、お開き。20年前からずっと、同じことを繰り返しているよ」

「はあ」

「ただ、私は立場上、外で打つのが億劫でね。気心の知れた連中とは、うちで打ってるってわけさ」

 妻にはいい顔をされないけどね、と純一はウインクした。

「ところが今日に限って、仲間の一人のスケジュールが取れなくてね。飲み会までは来れるが、麻雀のほうは無理だと断られてしまった。歳を取ると、こういうことが増えてくるものだね。お互い、仕事やら何やらで、分刻みの自由しか与えられていない」

 目下、他人の家のベッドでゴロゴロしているだけの冬枝には嫌味に聞こえたが、純一に悪意があるのかはよく分からない。

「このまま、メンツが揃わないから麻雀はよそうか、なんてことが繰り返されると、仲間内での麻雀自体が廃れかねない。私としては、程よく酔った頭で、仲間とどうでもいいことを喋りながら麻雀を打っている時間こそが、貴重な息抜きなんだ。そこで、冬枝君に数合わせとして来てもらいたくて、こうしてご機嫌伺いに参ったんだが」

 どうかな?と首を傾げられ、冬枝はぼんやりした頭で考えた。

 いや、考える真似事のようなもので、実際にはあまり頭は働いてはいなかった。朝っぱらからいろいろなことを聞き過ぎて、脳みそがついてこない。

 ――麻雀…。

 彩北の雀荘『こまち』や、そこでいつも背中を丸めて打っていたさやかの姿が脳裏をよぎる。

 サンドイッチ片手に牌を打つ様なんて、オッサンそのもので――これじゃ嫁の貰い手はねえな、とコソコソ言って、高根と土井から苦笑いされた――なんてこともあった。

 回想に耽りそうになった冬枝は、慌てて首を左右に振った。

 ――だーっ、センチメンタル野郎!おとぼけジジイ!もう、どうにでもなっちまえ!

 自己嫌悪が限界に達した冬枝は、「分かりました」と言った。

「俺で良けりゃ、麻雀でも将棋でも付き合いますよ」

「ありがとう。金は賭けないから、気楽でいてくれ。仲間たちにも、君のことは私の友人とだけ言っておく」

 純一は「そろそろ朝食の時間だ」と言って、椅子から立ち上がった。

「長話をしたね。今日は、ゆっくりくつろいで過ごしてくれ。藤浪さんの目もないことだしね」

 片手を上げて去っていく純一は、とことんただのキザなオッサンだった。

 或いは、今の冬枝の曇り切った眼では、二世政治屋のどす黒い腹の底など見通せないのかもしれないが。



 栗林と嵐は、都内にある高層マンションの前に立っていた。

 ススムの部下、九条から教えられた住所――つまり、青龍会桃華組の事務所はここだ。

 ――やっと、ユタカさんに会える。

 10年ぶりの再会、それも敵同士としてだ。緊張はあるが、栗林に恐れはなかった。

 ここに来るまでに、タケルや米倉、アズサや父、ススムやマユミや九条など、ユタカを知るたくさんの人たちに会い、話をしてきた。

 ユタカが青龍会に行ってからの10年間、モヤのように漠然としていた栗林の想いも、少しずつだが輪郭が見えてきた。

 ――難しく考える必要なんてなかったんだ。俺はただ、ユタカさんに会いたかった。それだけだったんだ。

 元々、ミノルのように聡明なわけでも、タケルやリキのように意志が強いわけでもない。栗林は、そんな自分自身に正直でいればいいだけだったのだ。

「ここから先は、俺が一人で行きます。嵐さんは、ここで待っていてもらえませんか」

 栗林の宣言に、嵐が大袈裟に「ええっ!」とどよめいた。

「マロン林一人じゃ、モモカちゃんとセクシー源に袋叩きにされておしまいだぁ!」

「………その可能性も、否定はしませんが……何とか、話だけでもしてみます」

 栗林の説得ぐらいで、ユタカが青龍会から抜けてくれるなどとは思っていない。ユタカも、ユタカを青龍会に行かせたイサオも、並々ならぬ覚悟を持って打倒青龍会に挑んだはずだ。

 ――だけど、何もしなかったら、何も変わらないんだ。俺も、ユタカさんも。

「俺に何かあったら、ミノルさんのことをお願いします」

 栗林は真剣に言っているのだが、嵐にはとことん取り合うつもりがなかった。

「やだよ、ジェントル秋津のお嫁さんになるなんて。俺には鈴子っていう、れっきとした美人巨乳妻がいるっての」

「そんなことは一言も言っていません!何しに来たんですか、春野さんは」

 嵐自身も義妹を救うという目的があるはずだが、シリアスさ加減にかなりの温度差を感じる。

 呆れる栗林に対し、嵐はへへっと笑って鼻の頭をこすった。

「そーそー、もっとリラックスして行かなくっちゃ。さっきまでのマロン林、自分から『殺してください』って頼んでる顔してたぞぉ」

「う……」

「マロン林も、モモカちゃんも、みんなまた家族になって、笑顔になる。目的は、これだろ?」

 にっこり笑顔の自分自身を指差す嵐に、栗林は少しだけ、強張っていた頬を緩めた。

「…そうですね。最初からこんな顔してたら、ケンカしに来たみたいに思われますね」

 ――ミノルさんだったら、きっと笑ってるだろうな。

 思えば、ミノルはどんな状況でも、穏やかな笑みを崩さなかった。大金を賭けた麻雀勝負の時も、刀を構えた源清司と相対した時も、ミノルの周囲だけ、柔らかなそよ風が吹いているかのようだった。

 栗林は、ミノルのようにはなれない。カチコチの硬い表情で、感情を隠すのが精いっぱいだ。

 ――それでも、出来る限り正直でいよう。ユタカさんに対して隠すことなんて、何もないんだから。

「絶対に戻って来いよ、マロン林。モモカちゃんにフラれちゃっても、嵐クンが待ってるからな」

「はい」

 嵐をマンションの前に残し、栗林は単身、桃華組の牙城へと足を踏み入れた。

 桃華組の事務所は、このマンションの最上階だ。エレベーターに乗っている間にも、栗林の中を様々な感情が交錯した。

 ――春野さんはああ言ってくれたけど…ユタカさんと会って早々、修羅場、なんてのも考えられる。

 今のユタカは、栗林の知っている秋津ユタカではない。源を使って夏目さやかを拉致し、叔母であるマユミを狙撃させた。『竜宮城計画』では、彩北から少女たちを誘拐した。

 ユタカの本心がどこにあるにせよ、秋津一家に属する栗林を攻撃してくる可能性はかなり高い。

 昔馴染みだから、などという甘えは捨てたつもりだが、いざユタカと戦うところを想像すると、栗林の気は沈んだ。

 秋津一家でも最強だったユタカに勝てる見込みがない、というのもあるが、10年間会いたかった相手と殺し合いしか出来ないという事実に、胸が塞ぐ。

 ――リキさんがここにいたら、なんて言っただろうな…。

 もう一人の昔馴染みの顔を思い浮かべ、栗林は拳を握った。

 ――この道を選んだのは、俺自身だ。どんなに見苦しいことになったって、俺が自分で出した答えだから意味があるんだ。

 堅気になったリキが、ユタカの青龍会入りやイサオの死を巡る今の騒動に対して、口を出したことは一度もない。

 自分の立っている場所をしっかりと踏み締めているリキの背中が、栗林には見える気がした。

 やがて、エレベーターの階数表示が『30』を示して止まった。



 タワーマンションの最上階、その1フロアを丸ごとぶち抜いて、桃華組の事務所になっている。

 桃の花の紋が白抜きされた、薄紅色の扉。

 栗林は、大きく息を吸い込んで、インターフォンを鳴らした。

 ピーンポーン……。

 何らかのセキュリティチェックがあるかと身構えたが、扉は呆気なく開いた。

「よう。そろそろ来る頃だと思ってたぜ、クリリン」

「源……!」

 見上げるほどの長身に、目を合わせたらこちらの瞳がスパッと切れてしまうような鋭い眼差し。

 雨の大羽で、タケルと決闘していた姿も記憶に生々しい。その時はタケルによって倒されたが、その後、源は何度もミノルたちの前に現れた。

 ――今度は乗ってるヘリが撃墜されたっていうのに、どうして生きてるんだ、この男…!

 不死身の男、源清司は、ドアを開けて鷹揚に栗林を中に招いた。

「まあ、中に入れ。コーヒーぐらい淹れてやる」

「…失礼します」

 ドアが閉まった途端に後ろから襲われるんじゃないかとか、中に何人もの組員が控えていて袋叩きにされるのではないかとか、栗林は一歩一歩、気が気じゃなかった。

 ――というか、本当にユタカさんに会えるのか?

 こんなにあっさり通されると、秋進コーポレーションでの出来事がデジャブする。

 ――親切に話は聞いてくれるけど、本人にはちっとも会えずに丸め込まれる、とか…。

 そういった肩透かしも、都会のヤクザにはよくある社交術だ。

 うーんうーんと頭の中であらゆるパターンを想定していた栗林は、ふと、室内に並べられたインテリアの数々に目が留まった。

 ヤクザの事務所らしからず、室内は淡いピンク色で統一されていた。棚にはピンク色の鹿と思しきぬいぐるみや時計など、パステルカラーの小物がいくつも飾られている。

 ――桃華組が経営する『モモカショップ』の商品か…。

 モモカショップは原宿を中心に店舗を展開し、昨今のファンシーグッズ人気に乗じて、若い女子からの支持を得ている。桃華組がさらった少女たちはもっぱらモモカショップで働き、商品開発や店舗運営に才能を発揮しているという。

 そこには、ユタカの10年間の功績があった。栗林は、自分のことで頭がいっぱいになっていたことを自覚した。

 ――ユタカさんはもう、俺たちとは違う道を、自分の力で切り開いている。そこに、俺の説得なんかが入る余地はないかもしれない。でも…。

 俯く栗林の視線上に、湯気を上げるコーヒーカップが置かれた。

 自分の分のコーヒーを片手に持ち、源が正面に座った。

「シケたツラだな。お前、故郷に女の一人もいないのか」

「女…?」

 唐突な質問に面食らいつつ、栗林は首を横に振った。

「いませんよ、女なんて。そんな暇もありません」

「秋津の魔法使いの腰巾着ってのは、そんなに忙しいのか?」

 源のからかうような口調に、ついムキになりそうになったが、栗林は努めて平静を装った。

「そう言う源さんは、ご結婚は?」

「将来、俺の妻になる予定の女ならいる」

「うわっ…」

 ――よかった、ミノルさんがこういうタイプのこじらせ独身じゃなくて…。

 などという栗林の内心を見透かしたのか、一瞬、源の目付きが鋭くなる。

 だが、すぐに源は目元を和らげると、栗林の首元を見た。

「冬枝にやられた怪我はどうだ」

「あ、ああ…。そんなこともありましたね」

 今となっては、雨の大羽で冬枝誠二に刀を突き付けられたことも、遠い昔のように思える。

 あの時は冬枝が卑劣で残忍な殺人鬼にしか思えなかったが、それから行動を共にしているうちに、ただ気が短いだけで割と普通の男なのだと栗林にも分かった。

 ――今は皆、必死なんだ。ミノルさんも、冬枝さんも、春野さんも、俺も。

 このぐらいの怪我でヒイヒイ言っていたのは、それこそ昔の話だ。目の前にいるのは、墜落したヘリから生還した男である。

「源さんこそ、よくご無事でしたね。我々のほうでは、源さんはもう死んだのかと噂していたところですよ」

 栗林がちょっと強気に出ると、源は何故か、神妙な顔つきになった。

「……この世には、俺にも分からねえことがある。俺たちは所詮、そういうものに生かされているだけなのかもしれないな」

「はあ」

 ヘリの撃墜は、源にとっても九死に一生だったということだろうか。などと考えてから、栗林はハッとした。

 ――違う!俺は世間話をしに来たわけじゃないんだ!

 危うく、源のペースに巻き込まれるところだった。栗林は大きく深呼吸すると、声を張った。

「そんなことより、ユタカさんはどこですか。俺は、ユタカさんに会いに来たんです」

「ボクならここだ」

 冷ややかな声と共に、部屋の奥からまさにその人――桃華組組長・秋津ユタカが姿を現した。

「ユタカさん…!」

 七三分けにした前髪も、白皙の細面も変わらない。栗林と同様に、10年前から時が止まったような姿のユタカがそこにいた。



「………」

 部屋の奥からやって来たユタカを、源はちらりと一瞥した。

 ――若頭、ついさっきまで『クリリンとは会わない』って言ってた癖に。

 得意の勘の良さで、ユタカは今日、栗林がここに来ることを予見していた。その上で、ユタカは栗林とは会わない、と宣言したのだ。

「今、ボクとクリリンが会って話をしたところで、何も変わらない。どこまで話したところで、平行線だ」

「そうですか。じゃあ、俺が適当に追い返します」

「手荒な真似はするなよ。クリリンはキサマのように頑丈じゃないからな」

「かしこまりました」

 そう言いつつ、ユタカはこっそり、部屋の奥から栗林と源を観察していた。

 10年ぶりに見る、2歳上の従兄弟の姿に――青龍会四天王の一人は、気持ちがすっかり少年時代に逆行してしまった。

 ――わあっ、クリリンかっこいい!どうしよう!会いたい!

 決意がもろくも瓦解したユタカは、こうして前言を撤回したわけだった。

「ふん」

 ユタカはしっしっと手で払う仕草をして、源をソファの上からどかせた。

 源が座っていた位置にどっかと座ると、ユタカは傲岸そうに足を組んだ。

「やぁ、クリリン。久しぶりだな」

「……お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 型通りの挨拶を交わした後、しばし、沈黙が降りた。

 栗林は何から話せばいいのか、とこの期に及んでまだ考え込んでいる。

 一方、ユタカはじっと栗林を睨み据えていた。

 ――クリリン、かっこ良すぎる…!瞳が合ったら死んじゃいそうだよ…!

 でも人と話す時はちゃんと目を見て話せってママが言ってたし――母・カグラの謹厳そうな面差しを思い浮かべて、ユタカは辛うじて栗林の額あたりに視線をキープする。

「………」

 わざとらしい咳払いをされて、ユタカははっと顔を上げた。

 ユタカにソファから追い払われた源が、無表情にこちらを見下ろしている。

 ――ちっ。キサマに言われなくとも分かっている。

 ユタカは冷酷な青龍会四天王の顔に戻って、ふっと鼻から息を抜いた。

「おいおい、ボクは忙しいんだ。このままだんまりを決め込むつもりなら、帰ってくれないか」

「あ、ああ…すみません。言いたいことがいっぱいあったはずなんですけど、ユタカさんの顔を見たら忘れちゃいました」

「何?」

「どんな形であれ、またお会いできてよかったです」

 栗林ににっこり微笑まれ、ユタカは胸がきゅんとしてしまった。

 ――クリリン!それは、ボクだって…!

 うっかり前のめりになりそうになって、ユタカは慌てて背もたれにふんぞり返った。

「はっ、おめでたい奴め。自分の立場を分かっていないようだな」

「…そうでしょうか」

 栗林は静かに、窓の外に広がる東京の空を――その向こうに続くはずの、大羽の空を眺めた。

「俺とユタカさんは従兄弟で、10代の時からずっと一緒だった。赤陽館で稽古して、アズサさんやカグラさんのところで飯を食って、風呂も一緒に入った。俺は格闘技ではユタカさんたちに敵わなかったけど、麻雀では負けなかった」

「ミノル叔父さんの入れ知恵だろ」

「ええ。ユタカさんもリキさんも、麻雀中は考えてることが顔に出るから、すごく分かりやすかった」

「口の利き方には気を付けろ」

 ――もうっ、そんなこと言われると、ドキドキしちゃうじゃないか!クリリンのバカ!

 などというユタカの内心を知ってか知らずか、栗林は両手を軽く振った。

「ミノルさんの受け売りです。…とにかく、俺は今でも、ユタカさんとの関係は変わってないと思ってます。青龍会も朱雀組も、関係ない。俺たちは俺たちだ」

「……」

 ――甘いな、クリリンは。

 ユタカは表情を消して、「何が言いたい」と先を促した。

「青龍会を抜けてもらえませんか。ユタカさん」

「無理だ」

 一蹴すると、何か言いたげな栗林を遮るように、ユタカは早口にまくし立てた。

「青龍会を抜けて、ボクに何のメリットがある?海堂会長はこの国一番のヤクザだ。ボクはその日のうちに、他の四天王によって粛清されるだろう。そうなればここにいる源は勿論、桃華組もおしまいだ。組員たちは海の底、女たちは『アラビアン・ナイト』の新たな姫君にされる」

 アラビアン・ナイト――青龍会が運営する、巨大な人身売買カルテルである。

 栗林はめげなかった。

「大羽に戻ってくればいいじゃないですか。総長も若頭も、ミノルさんも相談役も、皆がユタカさんが帰って来るのを待ってます」

「綺麗事を抜かすな。ボクが秋津一家を永久除籍になったことを忘れたのか?」

 秋津一家、ひいては朱雀組の宿敵である青龍会へと寝返ったユタカは、永久除籍――すなわち、二度と秋津一家に復籍することを許さない、という重い処断を受けていた。

「ユタカさんは帰りたくないんですか?大羽に」

「ボクが?笑わせないでくれ。あんな田舎に未練なんてない」

「俺はまた、昔みたいにユタカさんやリキさんと一緒に遊びたいです」

 あまりにも屈託のない栗林の笑みに、ユタカは一瞬、言葉に詰まった。

 ――そうだね。あの頃が一番、幸せだった。

 心の中で頷く自分自身に背を向けて、ユタカは一層、冷たい仮面を被った。

「10年も田舎でくすぶっていたせいで、脳みそが腐ったようだな。ボクはもう、あの頃のボクじゃない」

「ユタカさん…」

「人の心配より、自分の心配をしたらどうだ?青龍会はいずれ、日本全土を支配する。政治も経済も、全て海堂会長の思うがままだ。ロリコン伯爵が率いる朱雀組じゃ、とてもじゃないがボクらの相手にはならない」

 ユタカはソファから腰を浮かせ、人差し指でとんとんと栗林の帽子を突いた。

「幼馴染として、沈みゆく泥船からはとっとと退散することをオススメしよう。魚のエサになる前にな」

 ユタカの渾身の皮肉に対し――栗林は、眉をひそめた。

「…ユタカさん、無理してませんか?」

「ああ?」

「さっきから、目の下がぴくぴくしてますけど」

 ユタカはさっと自分の頬に手を当て、恨めしそうに栗林を睨んだ。

「ユタカさん、大羽に帰りましょう。4代目がお亡くなりになった今、ユタカさんが青龍会にいる意味がどこにあるって言うんですか」

 栗林の申し出に、ユタカはぴくりと片眉を上げた。

「クリリン……」

 ユタカはゆらりと立ち上がると、おもむろに自身のスーツに手をかけた。

 そのままシャツの前も開け、バサッと音を立てて脱ぎ捨てた。

「クリリン。これを見ても、まだそんなことが言えるのか」

 いきなり上半身裸になったユタカに、栗林が「うわっ」と叫んで後ろを向いた。

「ゆ、ユタカさん!いきなり脱がないでくださいよ!びっくりするじゃないですか」

「えっ!?あっ、ごめん」

 栗林から思わぬ反応を返され、ユタカも照れてしまう。

 2人の間を、妙に熱くて湿った空気が漂う。

 源に咳払いをされ、ユタカがハッと我に返った。

「…って、そうじゃない!これを見ろって言ってるんだ!」

 ユタカは改めて、栗林に自身の背中を見せつけた。

 そこに刻まれているのは、生命を宿す血の色を真っ向から否定するような、濃い青色をした登り龍の刺青。

 両目を覆った指の隙間からそれを見た栗林は、ようやくユタカの言わんとすることを察した。

「…ユタカさん。これは…」

「そうだ。ボクはもう、秋津一家の人間じゃない。骨の髄まで青龍会に捧げると誓った身だ」

 断言するユタカに、栗林は言葉を失う。

 ユタカの背中に刻まれた刺青は深く、禍々しい。栗林には、ユタカが10年間背負ってきた呪いのように見えた。

 栗林自身はと言えば、ヤクザだというのに刺青の一つも入れていない。痛そうだし、金もかかるからと言って、避けてきたのだ。

 ――俺は、何の痛みも背負っていない。ユタカさんの覚悟には、俺なんかじゃ釣り合わないのかもしれない。でも……。

「ユタカさんがどんなに変わっても、俺は変わりません。ユタカさんのことを、嫌いになんかなれるわけないじゃないですか」

 栗林に真っ直ぐに見上げられ、ユタカは一瞬、心臓が止まりそうになった。

 ――クリリン……!

 そこにいたのは、ユタカが20年以上想ってきた相手で――ユタカの意志一つで、2人はどこまでも遠くへと行けるのかもしれなかった。

 だが、ユタカは知っている。この国の裏側で流れる血の多さを。この国の裏に巣食う、闇のどす黒さと貪欲さを。

 この国を、そして父と自分を覆い続ける暗雲に、必ず風穴を開ける。そのためには、情に捕らわれてはいられなかった。

 ゴッ!

 ――えっ?

 殴られた、と栗林が気付いたのは、ソファから床に転げ落ちた後だった。

 動作の残像一つ見せず、ユタカが高速で栗林を殴り倒したのだ。

「クリリンは何も分かってない」

 低い声で唸ると、ユタカは栗林の胸倉を掴んだ。

 まるでクレーンにでも引っ張り上げられるような勢いに、栗林の頭から帽子がはらりと落ちる。

「パパは死んだ。取り返しのつかない罪を犯してな。パパの償いはボクがしなければならない」

「罪……?」

「ミノル叔父さん、夏目さやか。そしてパパ自身……。これからも血は流れるだろう」

 栗林には、ユタカの言っている意味が分かるようで分からない。

 ただ、ユタカの背後に巨大な暗黒が渦巻いているのだけが、栗林の目にはっきりと見えた。

「もうやめましょう、ユタカさん。ユタカさん一人で背負えることじゃない」

 栗林は思わず叫んだが、ユタカはキッと眦を釣り上げた。

「うるさい!この10年間、何もしなかったくせに、偉そうな口を叩くな!」

 ユタカの神速の拳が飛んでくるのが、今度こそ栗林にも気配で分かった。

 ――ダメだ。やられる……!

 当たれば、確実に失神するパンチだ。或いは、殺されるのかもしれない。

 不思議と、ここまできても栗林は、ユタカを憎いとは思わなかった。

 ユタカが秘めている悲しみは、あまりにも大きくて――栗林は、自分の無力さを思い知っていた。

 ――ユタカさんの言う通りだ。ユタカさんが青龍会でたった一人で戦っている間、俺は何もしなかった。俺にできることは何もない……。

 栗林が瞳を閉じた――その時だった。

「待って、組長!」



 栗林とユタカの間に飛び込んだのは――ふわふわとした、薄紫色のものだった。

 ほのかに桃の香りがして、栗林は目を開けた。

「……?」

 ウエーブのかかった柔らかな髪に、すみれ色のロマンティックなワンピース。

 およそ極道の男同士の話し合いの場には不釣り合いな、絵本から抜け出てきたような女がそこに立っていた。

「お願い、組長さん。アキラくんをいじめないであげて」

 女のどこか幼い声で、殺気立った空気が一瞬で、小学校の学芸会のようになってしまった。

 ――アキラくん……?

 栗林の人生の中で、そんな風に呼ばれたことは数えるほどしかない。

 まさか、と思って女の顔を覗き込んだ栗林は、あっと声を上げた。

「風間…!?風間鳴子…!?」

「久しぶりだね、アキラくん」

 女――風間鳴子はにっこり笑って、長い髪をふわりと揺らした。

「えーっと、メイコが彩北の中学校に通ってた頃以来だから……20年ぶりかな?わあ、もうそんなに経っちゃったんだねえ」

「経っちゃったんだねえ、って……なんで、風間がここに?」

「んーとね、メイコね、アキラくんと付き合ってからまたいろんな男の子と付き合ってたんだけど、あれから貴彦さん、っていうとっても素敵な王子様に出会ってね…貴彦さん、本当にかっこいいのよ。今度、アキラくんにも紹介するね」

「う、うん、ありがとう…あれ?貴彦さんってもしかして、白虎組の……」

 と言いかけた栗林は、そこでようやく、青白く光る炎の塊が自分のことをじっと見据えていることに気が付いた。

「ク~…リ~…リ~…ン~……!」

「ヒッ!ゆ、ユタカさん……」

 殺気で火の玉と化したユタカは、栗林の両肩をぐわしと掴んだ。

「付き合ってたってどういうことだ!メイコと一体どういう関係なんだ、ええっ!?」

「ちっ、違うんです、ユタカさん。かっ、風間と付き合ってたのはその、俺が中学生の頃で、大羽に来る前の話です!ユタカさんと会う頃には、とっくに別れてましたから!」

 栗林は早口で弁解したが、ユタカの般若のごとき面相は緩まない。

「だが、プラトニックな関係だったわけじゃないだろう……?」

「うっ……」

「ウフフ、懐かしいね、アキラくん。一人暮らししてるお友達のお部屋を、ちょっとだけ貸してもらったんだよね」

 呑気に打ち明け話をする鳴子に、栗林は「風間ーッ!!!」と悲鳴を上げた。

 ――ううっ。ユタカさんの目が怖い……。

 ユタカは今にも、目から光線を発射して栗林を焼き殺しそうだ。実は鳴子の前にも付き合ってた女がいたなんてバレたら、栗林はこの場で灰になるだろう。

 ――なっ、なんか、思ってた修羅場と違う……!

 怪獣映画の様相を呈している栗林とユタカをよそに、鳴子は源に縋り付いた。

「源さん、貴彦さんはどこにいるの?本当は、メイコと貴彦さんを交換するはずだったんでしょう?パパが言ってたわ」

 鳴子の言葉に、源は無言で眉根を寄せた。

 そこで、ユタカの睥睨に耐えかねた栗林がようやく活路を見出したとばかりに、声を上げた。

「…白虎組の、朽木貴彦か。やっぱり、朽木は生きてたんですね」

 鳴子と共に朱雀組のスパイをしていた朽木は、鳴子を助けるためにさやかをさらった。その後、さやかを狙う源から縫琴で襲撃され、消息を絶っていた。

 ――朽木は、源に身柄を押さえられていたんだ。

 朽木を殺さずに拉致したのは、利用するためだ。だが、途中で鳴子を白虎組に奪還されたため、朽木と鳴子の交換を『パパ』――白虎組の霜田補佐に持ちかけた。

 霜田の性格は、栗林も少しだけ一緒にいたから知っている。恐らく霜田は源の誘いを断り、結果、源は強引に鳴子を連れ戻した。

 ――霜田さんは無事なのか…?

 秋進コーポレーションで九条と会い、マユミが狙撃され、と栗林がそれなりに目まぐるしい時間を過ごしている裏で、霜田も大変なことになっていたのだ。

 台風の前の空のように、事態は物凄い速度で動いている。昔の恋人との思わぬ再会に、動揺している場合ではなかった。

「ユタカさん。ひとまず、白虎組を巻き込むのはやめませんか。今の問題は、俺たちと青龍会だけの話でしょう」

「はっ。昔の女に泣き付かれたせいか」

「ち、違います!」

 ユタカは「それに」と言って、冷めた目をした。

「白虎組は立派な当事者だ。夏目さやかがいるんだからな」

「夏目さやか……でも、俺にはあの人が4代目殺しに関わっているとは思えません。どうして、青龍会はそこまでして夏目さやかを狙うんですか」

 はじめはさやかこそイサオの仇だと思っていた栗林も、ミノルや冬枝、嵐らと行動を共にしているうちに、考えが変わった。

 真実はまだ分からない。ただ、さやかの無事を切実に願う彼らの熱は、疑いようがなかった。

「それは……」

 答えようとしたユタカが、ハッと凍り付いた。

 同時に源も顔色を変え、さっと鳴子のほうに回る。

「鳴子。奥の部屋に戻っていろ」

「でも…」

「早く!」

 源の声に切実さを感じ、そそくさと引っ込んでいく鳴子は勿論、栗林にも緊張が走った。

 ――なんだ?一体、何が起ころうとして……。

 ユタカと源の目が、射貫くように真っ直ぐに見ている先――玄関の扉が、程なくして開いた。

「こんにちは、ユタカ。突然すまないね」

 そこにいたのは、片眼鏡をかけた老人と、影のように付き添う藤色のスーツの男。

 ――青龍会会長・海堂と、四天王の藤浪……!

 パステルピンクの室内から、色が消えていく。死を思わせる白と黒は、たった一人の男――海堂から発せられていた。



 東京から遠く離れた北の街、彩北。

 彩北駅からほど近い雀荘『こまち』は、久しぶりに営業していた。

 店内を紫煙が漂い、なじみの客たちがパチパチと牌を打つ音が響く。時折、マスターの中尾がコーヒーやサンドイッチを盆に乗せて、卓を行き来している。

 カウンター席に腰かけて、土井が頬杖をついた。

「なんか、こうしてると平和よね。兄貴やさやかさんが大変なことになってるなんて、そっちのほうが嘘みたい」

「…そうだな、土井。こっちのほうが、当たり前の景色なんだ」

 一時は朱雀組5代目・柘植雅嗣によって差し押さえられた『こまち』は、無事に営業再開へと漕ぎ着けた。家を奪われた組員たちもほぼ全員帰宅し、壊された組事務所も、再建が進んでいる。

 さやかを巡るヤクザたちの攻防など知る由もない堅気たちは、今日も平和な日常を過ごしている。高根も土井も、ここのところはケンカの一つも目にしないぐらいだ。

「最近、静かだよな。この辺」

「まあ、うちと秋津一家が大羽で抗争になったのは街中に知れ渡ってるし、警察だってピリピリしてる。皆、今は自重してるんじゃないか」

 そんなことを話していると、マスターの中尾がカウンターに戻って来て言った。

「…最近、東京者を見かけなくなった、とお客さんたちが言っていました」

「ああ、言われてみればそうだな。街を歩いてても、目につく不良っぽいのは地元の奴ばかりだ」

「マキちゃんの件では派手にやってくれたし、あいつらも鳴りを潜めてるんじゃないの?」

 汐見コーポレーションの令嬢・汐見マキが『ブルー・ワイバーン』に拉致され、白虎組によって救出されたのはついこの間の話だ。

 悪ガキたちが冬枝や榊原によってギタギタに痛めつけられ、哀れな嗚咽を廃パチンコ屋に響かせていたのは、今も高根たちの記憶に新しい。

 しかし、この呑気な世間話から間もなく、キャンドルホテルでの組会議で2人はとんでもない事実を知らされた。

「『ブルー・ワイバーン』を始めとする青龍会の関係者が、次々に東京へと引き上げている」

 それも、アジトにしていたビルやアパートから自分たちの痕跡を一切消し去るという徹底ぶりだ。東京から来た若者たちは、夜逃げのように人目を忍んで彩北を去った。

 じゃあ、もう彩北は平和になったのか――と高根と土井はちょっとだけ喜びかけたが、若頭・榊原の見立ては違った。

「じきに、青龍会が本格的に彩北に進出して来る。それも、堅気もヤクザも関係なく、大規模な攻撃を仕掛ける気だ」

 だから、兵隊である『ブルー・ワイバーン』は東京へと引き上げたのだ。次は、本隊を連れて襲い掛かって来るだろう。

「そんな…!」

 高根と土井は、会議室の端っこで目を見合わせた。

 拳銃は勿論、ロケットランチャーやマシンガンまで豊富に武器弾薬を備えていると言われる青龍会――その青龍会の無差別襲撃なんて、もはや戦争だ。

「青龍会四天王・成滝ってのが、万崖の山奥で訓練らしきものをやっている、というネタが入った」

 そう告げたのは、白虎組組長・熊谷雷蔵だ。

 入院しているはずの熊谷の来臨自体、今が緊急事態であることを告げていた。

「万崖は、東北地方の中でも最も青龍会の支配力が濃い地域だ。恐らく、成滝はそこで彩北襲撃のシミュレーションをしているとみられる」

 成滝は元軍人で、青龍会の火薬庫と呼ばれる男であることは、高根たちも事前に知らされていた。

「なんで、青龍会はうちみたいな田舎を狙うんですか。さやかさんはもう、ここにはいないのに」

 思わず叫んだ土井に、榊原が腕を組んだ。

「分からねえが、奴らにはもっと大きな目的があるんだろう」

「目的…?」

「朱雀組の4代目が死んだ事件は、まだ解決してねえ。秋津イサオを殺した奴の首を挙げるまで、青龍会は止まらねえんだろう」

 土井にも高根にも、わけが分からなかった。恐らく、この場にいた組員の大半も、榊原の言う意味は分からなかっただろう。

「大羽でも厳戒態勢を敷いて、うちといつでも連絡が取れるようにしている。俺たちも、市境や事務所周辺を、24時間体制で警備する」

 ところが、この24時間体制のパトロールに、高根と土井は呼ばれなかった。

「お前たちは、冬枝からの連絡を待っていてくれ。今は、お前たちにしか頼めねえんだ」

「…分かりました」

 正直、武装した青龍会の相手をするのが怖くてかなわない高根たちとしては、願ってもない話ではある。

 ただ、彩北がもう冬枝とさやかどころではなくなってしまったことに、震えが止まらなかった。

 ――兄貴たちだけじゃない。自分たちももう、地雷原のど真ん中に立たされているんだ。

 榊原がかき集めた武器の類が、全組員に配られた。高根たちが受け取ったのは、拳銃にたっぷりの弾丸、それに楯代わりの鉄板だ。

 ずっしりと重たいそれらを袋に入れて、高根と土井はとぼとぼと家路についた。

「オレらがこんなの持ってるより、兄貴がいたほうがよっぽど強いのになあ」

「バカ、土井。今は、自分たちが自力で戦わなきゃいけない時だろ」

 そう言う高根自身、強がりなのは分かっていた。

 北風はとことん冷たく、若い2人の背中をなぶった。



 榊原邸には、3人目の女が訪れていた。

「経過は順調そうね。妊娠中毒症の兆候もなし。引き続き、適度な運動ときちんとした食事を心がけるように」

「ありがとう、富樫さん」

 淑恵に微笑まれ、白衣をまとった女――富樫は、眼鏡のチェーンをさらりと鳴らした。

「ただし、女医という立場から言わせてもらえば……愛人なんかが傍にいるのは、おなかの赤ちゃんに大変悪影響だと思うのだけれど」

「あらまあ」

 淑恵はわざとらしく言って、傍らで気まずそうにしている響子を見上げた。

 今日は、彩北市立病院の理事長夫人であり、淑恵の高校時代の同級生でもある富樫が、定期健診に来る日だった。

 響子は遠慮すると言ったのだが、淑恵がどうしても富樫に紹介したいと言うので同席した。

 ――お医者様なんて、上流階級もいいところじゃない。そんな真面目な人が、愛人でホステスの私を快く思うはずないわ。

 案の定、富樫からの視線は冷たい。今まで、この手の軽蔑の眼差しは何度も受けてきたが、慣れるものではなかった。

 淑恵は柔らかく笑って、響子の腕にすりすりと頬を寄せた。

「私は、響子さんがいてくれたほうが安心するのだけれど……うふふ」

「理解に苦しむわね。あなたがヤクザの妻になった時にも思ったけれど」

 富樫は、かなりはっきりものを言うタイプのようだ。続けて、ずけずけとモノを言った。

「まあ、榊原さんはうちともお付き合いがありますし、この街になくてはならない人になったから、よしとしましょう。そういう人が愛人を抱えるのだって、珍しい話じゃないわ。だけれど、お腹に赤ちゃんがいる時に愛人を傍に置く妻、というのは聞いたことがないわ。悪ふざけとしか思えない」

 富樫の言わんとすることは、響子にも分かった。響子自身が、何度も思ったことでもある。

 ――だけど、今は淑恵さんの傍にいるのが当たり前だと思ってる自分もいる。

 そのせいか、こうして自分に敵意を持つ富樫を目の前にしていても、思っていたより平静でいられる。淑恵が、とても自然に響子の傍にいてくれるからだ。

 だが、富樫は眼鏡の奥の猛禽類のような眼で、ぎろりと響子を睨んだ。

「泉響子さん…だったかしらね。親もいなければ学歴もない、典型的な貧乏育ち」

「はあ」

「あなたのような女性が水商売で生計を立てるのは、やむをえないと私も思うわ。だけど、私の友人を悲しませるような真似をしておいて、よくのこのことこの場にいられるものね。恥を知りなさい」

「……!」

 流石に、そこを突かれると何も言えなくなった。

 富樫がただの偏見ではなく、淑恵の友人として誠意からそう言っていることは、響子にも分かったからだ。

 そこで、椅子に座っていた淑恵がすっくと立ちあがった。

「富樫さん。今日はもう帰ってちょうだい」

「淑恵さん。どうして、そこまでしてこの人を庇うの」

「響子さんが、私にとってとても大切な人だからよ」

 淑恵はどこまでも穏やかに、少しだけ悲しげに言った。

「だから……たとえ富樫さんでも、響子さんを傷付けるのは許せないわ。あなたはとても失礼なことを響子さんに言いました。もうこの家には呼べないわ」

 帰って、ともう一度言った淑恵に、富樫も響子も絶句した。

「待って、淑恵さん。先生は何も間違ったことは言ってないじゃない」

 響子が思わず止めると、淑恵はにっこりと、花の香りがするような笑みを浮かべた。

「謙虚ね、響子さんは。だけど、もっと自分を大事にして欲しいわ。あなたを貶めることは、あなたを大事にしている私や忍さんを蔑むことでもあるのだから」

「先生はお医者様よ。これからもお世話になるんだから、ケンカなんかしないでください」

 何故か響子が富樫を庇う形になっているが、淑恵は意に介さない。

「お医者様なら、富樫さんじゃなくたって優秀な方がいくらでもいるわ。私も忍さんも、交友関係は広いのよ」

「もうっ、淑恵さんったら先生に失礼過ぎるわ。いくらお友達だからって、言っていいことと悪いことがあるでしょう」

 そこで、淑恵と響子のやり取りにじっと目を据えていた当の富樫が、荷物をまとめて立ち上がった。

「…あなたの考えは分かったわ、淑恵さん。あなたは相変わらず、型破りな人ね」

「そうかしら。私はただ、正直なだけよ」

 白衣の背中を向けて、富樫はふんと赤い唇を尖らせた。

「倫理観のない『正直』なんて、有害なだけだと思うけれど」

「交渉決裂ね。残念だわ」

 淑恵の入れた紅茶を半分以上残して、富樫は榊原邸を後にした。

 2人きりになった寝室で、響子はがっくりと肩から力が抜けた。

「どうしたんですか、淑恵さん。今日はなんだか変よ」

「そんなことないわ」

「先生相手に、むきになることないじゃない。私が嫌味を言われるのは仕方ないんですから」

 富樫が淑恵のことを想えばこそ、ああいう発言に至ったのは淑恵にだって分かっているはずだ。

 淑恵はベッドに腰を下ろすと、隣に座るよう、響子に手で促した。

「聞いて、響子さん。東京で、霜田さんが源さんに襲われたそうよ」

「パパが…!?」

 墜落したヘリに乗っていながら源が生きていたことも驚きだが、事態の展開の速さに響子は息を呑んだ。

「パパは…パパは無事なの?」

「ええ、お怪我はしていないそうよ。ただ、霜田さんが保護していた風間鳴子さんを源さんに奪われてしまったの」

「鳴子さんが…!?」

 鳴子は、姉である鈴子と共に、響子と『パオラ』で働いていたホステス仲間だ。鳴子のほうが年上だが、とても無邪気で愛らしい女性だった。

 親代わりになってくれた霜田、そして鳴子の危地を思うと、響子の表情が険しくなった。

「私、自分が恥ずかしいわ」

「あら。どうして?」

「源さんはとことん、青龍会の手先なのよ。夏目さんも冬枝さんも、パパも鳴子さんも、みんな源さんのせいでいなくなってしまった。あんな人に一時でも気を許した自分が、情けないわ」

 淑恵はそっと響子の手に手を重ね、峻厳な声で言った。

「そう。でも、それは響子さんの本心かしら」

「…どういう意味ですか」

「良識や道徳。或いは、富樫さんも言っていた『倫理観』。確かに、それらは私たちが生きていくうえで守るべき秩序ではあるわ。だけど、それらに心を縛られながら、私たちはどこまで、自分の知性で考えているのかしら」

 貴婦人然とした淑恵らしからぬ発言に、響子は驚いた。

「淑恵さんがそんなことをおっしゃるなんて…」

「ふふっ、私だって、自分の娘たちにはこんなこと言わないわ。私や響子さんが選んだ場所が、そういう世界だってこと」

 そう言う淑恵の瞳は、どこまでも果てしなく――溢れんばかりの太陽の光を湛えているようにも、宇宙のような暗黒を秘めているようにも見える。

 そこにいたのは代議士一族・灘家に生まれながら、ヤクザである榊原の妻になり、30年間、裏社会に生きる夫を見つめてきた女性だった。

「ここは良識や道徳よりも、自分の心の奥底にある、本当の本心が運命を分ける世界よ。善悪を理由にして自分に嘘をついていたら、偽りの未来しかやって来ないわ」

 淑恵は、小首を傾げて響子に微笑みかけた。

「源さんが生きていてよかったわね。響子さん」

「淑恵さん…」

「私も、源さんのしたことは許せないわ。だけど、源さんは源さんの信条を背負って闘っていることは、響子さんもご存知でしょう」

 最後に大羽で会った時、秋津タケルと死闘を演じ、雨の中で倒れていた源の姿が、響子の頭をよぎる。

「源さんや霜田さん、鳴子さん、そして夏目さんや冬枝さんも――皆が生きて、あるべき場所へと帰れますように。私は、本気でそう願っているわ」

 響子は、淑恵の温かな心の奥に触れた気がして――その熱に、自分の中の何かが溶かされたような気がした。

 自然と――涙が一筋、響子の頬を伝って落ちた。

「私……源さんにまた会って、言いたいことがあるの」

「あら。なんておっしゃるつもり?」

「私が若頭に振られたら、源さんのお嫁さんになってあげてもいいわよ、って」

 すると、淑恵は途端に眉を八の字に下げた。

「駄目よ、冗談でもそんなこと言っちゃダメ。源さん、すぐ本気にするんだから」

「ふふっ。だけど私、もう27ですもの。そろそろ身を落ち着けたいわ」

「それを言ったら、源さんは51歳なのよ?響子さんが源さんと結婚するぐらいなら、私がどなたかご紹介するわ。若くてご立派で、優しい男の人を」

「交友関係、広いんですものね」

 響子が言い、2人で笑い合った。嘘をつかなくていい時間は、温かい安らぎに満ちていた。



 一方、東京のタワーマンションの最上階は、吐く息も凍り付くような絶対零度だった。

「会長。我が事務所へのご訪問、痛み入ります」

 海堂の前に立ったユタカが、型通りに頭を下げた。内心の動揺など、毛ほども悟らせぬ慇懃さで。

 ――どうして、このタイミングで海堂が来るんだ。まさか……。

 海堂は常と変わらぬとても穏やかな声で――そう、お気に入りの玩具に話しかける子供のように優しい声で答える。

「今日はね、大切な友人に会いに来たんだ。そこにいる、栗林アキラ君にね」

 ピシッ、とユタカの氷の仮面にヒビが入りかける。

 ――最悪の展開だ。

 ユタカの勘の良さをもってしても、海堂の思考は読めない。だからこそ、恐ろしい相手なのだ。

 海堂はユタカを素通りし、ピンクのテーブルの前で立ち尽くしている栗林の前に行った。

「やあ、栗林君。僕は海堂玖門というものだ」

「海堂…会長」

 まさか、こんな急に青龍会の会長と対面することになるなんて、栗林にとっても予想外なのだろう。感情が追い付かず、顔から表情が抜け落ちていた。

 ――この人が俺たちの敵……青龍会の頭目……。

 青龍会がどれほど邪悪な組織か、情報は脳みそにパンパンに詰まっている。なのに、目の前にいる品のいい老紳士と海堂の悪名が、栗林の中で上手く結びつかない。

 海堂は、まるで昔なじみのように、親しげな笑みを浮かべている。

「君のことはよく知っているよ。ユタカの従兄弟で、亡くなった朱雀組4代目の甥御なんだってね」

「…はい」

「僕はずっと君に会いたかったんだ。僕たちのしている仕事は、君のような人間を救うためにある」

「…俺に?」

 そこで、海堂は栗林の頬が腫れていることに目を留めた。

「おやおや、ケンカかい。駄目じゃないか、ユタカ。従兄弟同士なんだから、仲良くしなければいけないよ」

「申し訳…ありません」

 頭を下げながら、ユタカは考えていた。一体、いつからここでの会話は聞かれていたのだろうかと。

 海堂は、栗林の頬に触れる素振りをして――そっと、栗林に耳打ちした。

「…えっ?」

 ほんの一瞬だった。だが、栗林の顔付きが、その一瞬で変わった。

 栗林は、吸い寄せられるように海堂を見つめている。ユタカの頭の中で、警報が鳴った。

 ――ダメだ、クリリン!

 だが、動こうとしたユタカの背後で、藤浪が低く囁いた。

「どうしました?秋津組長」

「藤浪…キサマ」

「名誉なことですね。仲の良い従兄弟が、海堂会長のお目に留まるなんて」

 それが皮肉であることは、振り向かなくても分かった。藤浪は、いうなれば海堂の影法師だ。

 今や、栗林はユタカの存在など忘れたかのように、海堂に全意識を向けている。

「栗林君。もしよかったら、君をタカマガハラに招待しよう」

「タカマガハラ…!?本気ですか、会長」

 思わず声を上げたユタカを無視して、海堂は真昼の子供部屋のように無邪気で平和な笑顔を栗林に向けた。

「君は、生まれ変わりを信じるかい?」

「生まれ変わり…?」

「会長!」

 藤浪の制止を振り払い、ユタカは海堂と栗林の間に割って入った。

「そいつは朱雀組の人間です。我が青龍会にとって重要な要塞であるタカマガハラに行かせるなんて、危険過ぎます」

 ユタカが必死に言い募る間も、栗林の目はユタカを見ることはない。呆然と、虚ろな視線を海堂に向けていた。

「栗林君はユタカの従兄弟だろう?何も恐れることはない。血は水よりも濃いと言うじゃないか」

「ですが…」

「僕にも、かつては家族と言える人間たちがいたよ。遠い遠い昔のことだけれどね」

 海堂が家族と口にした瞬間、ユタカの後ろにいた藤浪の肩がぴくり、と動いた。

「だが、血は川にはならず、大海を成すこともない。人は海には潜るが、血の中を泳ぎたいとは思わないだろう。結局、家族なんてその程度のものさ。ユタカが秋津イサオではなく、僕を選んでくれたようにね」

 最愛の父の名を出され、ユタカの中で封じ込めている様々な感情が、喉元までせりあがってきた。

 ――キサマがパパの名前を口にするな…!クリリンに、ボクの大切な人たちに手を出すな…!

 湧き上がる感情をせき止めるのは、ユタカの意志の力ではない。そこだけ時が止まって、空、海、陸の全てが死んだかのように静かな、海堂のまとう世界のせいだった。

 藤浪が冷ややかな顔で海堂の話を聞いていたことには、誰も気付かなかった。

「タカマガハラは、凝り固まった血の流れに羽根を与える場所さ。誰もが他人であり、また誰もが家族として結ばれる。そこには過去も未来もない。きっと、栗林君の望むものが見つかるだろう」

「はい」

 栗林が、ロボットのように機械的に頷く。ユタカは、死刑宣告を受けたような気分になった。

 ――ダメだ。行っちゃダメだ、クリリン…!

 最後に、海堂はユタカの肩をポンと叩いて言った。

「そうだ、タカマガハラでお茶会なんてどうかな。夏目さやかはコーヒーが好きで、秋津ミノルは紅茶が好きなんだってね。僕がどちらの飲み物を準備したらいいか…ユタカ、君が考えておいてくれ」

 ざわざわと、全身の血液が不快な音を立てる。

 どす黒い沼に足元を搦め取られて、ユタカは一歩も身動きが取れなかった。

 ――これが、青龍会に入ったボクの宿命か。

 スーツの胸ポケットに、無意識に手を伸ばす。そこにあるのは、忘れ去られたナットの指輪だ。

 ――ボクは、ボクのやるべきことをやる。

 海堂らが栗林を連れて去った後、ユタカは源に命じた。

「灘家に行け。そこに――奴らが集結する」

 桃華組事務所の空気は乾ききり、沈黙さえもひび割れそうだった。灰色にくすむ日差しは、実際はオレンジ色の夕焼けだった。

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