表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/80

67話 女たちのカルテット・ディナー

第67話 女たちのカルテット・ディナー


 郊外にある邸宅は、男の別邸だった。

 手狭だが、緑豊かな庭とガレージと、趣味に使っている離れがあり、なかなか気に入っている。会社の部下たちからも、自分も将来はこんな隠れ家を持ちたい、なんて羨ましがられるほどだ。

 主に事務所として使っているため、ここには妻もめったに来ない。息子が進学してからは、夫婦2人きりで気詰まりな自宅よりも、この別邸にいる時間のほうが長くなったかもしれない。

 まさに、男の秘密基地。

 もっとも、この別邸は自分の稼ぎで手に入れたものではなかった。

「…はい。では組長、失礼します」

 受話器を置いて、男はふうと溜息を吐いた。

 目線の先には、リビングに飾られた古く黄ばんだ墨書――『夜郎組』の文字があった。

 ――どうして、俺の代までヤクザ稼業なんか続けなきゃいけないんだか。

 『夜郎組』は、男の祖父が興した組だった。主に祭りの興行で稼ぎ、一時は結構な人数の組員もいたらしい。

 この別邸も、元は祖父が病気療養のために建てたものだ。その後、親類が住むこともあったが、立地の悪さから長続きせず、今は孫にあたる男がリフォームして使っている。

 戦後、ヤクザの分裂と吸収が進み、東京の多くの組は青龍会か朱雀組に属する形となった。

 夜郎組は青龍会の下請けとなり、ほとんど堅気のイベント会社になった今でも、青龍会に上納金を納め続けている。

 祖父は背中に刺青まで入れていたらしいが、男は荒っぽいことなど御免だ。普通の社長として、普通に稼いで暮らしたい、というのが本音だ。

 実際、つい最近まで、男は平穏無事に生活していた。青龍会とは普通に仕事で関わるだけだし、警察に睨まれるようなことは一切していない。青龍会のほうだって、夜郎組のことは下請け会社の一つとしか思っていなかったはずだ。

 それなのに――男は今、青龍会と朱雀組の対立の真っ只中に立たされていた。

 さっきの電話の相手は、青龍会四天王・桃華組組長である。

 普段は桃華組が経営する『モモカショップ』に菓子や雑貨を卸すぐらいで、生臭い話とは無縁だった。組長も若いが潔癖な人柄で、ヤクザだということはほとんど意識していなかったのに。

 ――まさか、あの女が朱雀組のスパイだったなんて…。

 行きつけの店の、とびきり美人なホステスだった。浮世離れしたおっとりとした性格に癒され、男は組のことから何から、女にべらべらと喋ってしまっていた。

 敵対する組のスパイだと知った時には、ヤクザの諜報力が恐ろしいやら、自分の間抜けさが呪わしいやらで、かなり動揺した。自分がそんなことに巻き込まれるなんて、思ってもいなかったのだ。

 唯一の救いは、女の監禁に成功したことだ。これで、朱雀組に情報を流してしまった罪も一旦チャラということになった。

 ――女を離れに閉じ込めてるなんて、妻に見られたら絶対に誤解される…。

 これからどうなるのか、考えると溜め息ばかりが出てくる。恐れるべきは青龍会や朱雀組なのかもしれないが、自宅にいる妻の怒りが頭をよぎって落ち着かない。

 ――ああ、もう何も考えたくない。

 男は、冷蔵庫から出した酒とグラスを持って、外から離れへと向かった。

「メイちゃん。一緒に飲まない?」

 ドアを開けると、そこにいた女――風間鳴子が、ふわりと振り返った。

「はぁい。今、ナッツと氷を出しますね」

 離れの扉が、パタリと閉められる。

 少し離れた玄関にある表札には、『小池』と書かれていた。



「えっ?深が帰って来る?」

 男――小池徹は、軽く驚いて聞き返した。

 翌朝、快適な隠れ家から帰り、妻のいる自宅での会話である。

 妻――小池初子は、夫に新聞を渡しながら答えた。

「あの子ったら、急に『親父とおふくろの顔が見たくなってさ』なんて言っちゃって。きっと、また小遣いが足りなくなったから助けてくれ、って泣き付くつもりですよ」

「ああ…そういうことか」

 深は勉強もスポーツも出来る自慢の息子なのだが、いかんせん今時の若者らしく、金遣いが荒い。一人息子だからと、甘やかした自覚は徹にもある。

 ――深は、うちがヤクザだなんて知らないからなあ。気楽なもんだよ。

 徹は、深には『夜郎組』が青龍会傘下のヤクザだということを教えていない。可愛い息子には、前時代の負の遺産を押し付けたくないのだ。

 それに『夜郎組』の社員も妻も、夜郎組がかつてはそういう筋の組織だったことは何となく知っていても、今も本物のヤクザと繋がっているなんて、夢にも思っていないだろう。

 ヤクザといえば映画やドラマに出て来る、派手なスーツにサングラス、広島弁の分かりやすい乱暴者だというのが彼らの認識だ。

 しかし、実際のヤクザは堅気とそう変わらない顔をして、一般市民の日常生活に溶け込んでいる。その利益を享受する身の徹としては、複雑な心境ではある。

 ――何にせよ、桃華組から『例の女』を監視していろ、と命じられてる今、深が帰って来るなんてなあ…何事もなきゃいいんだが。

 それでなくとも深は、1月のあの事件に少しだけ関わってしまった身だ。深には「あの事件については誰にも話すな」と厳しく釘を刺してはいるものの、深が東京に戻ってくる度に徹は心配だった。

 ――深にはまとまった金を渡して、しばらく万崖から動くな、と言っておくか。

 深はヤクザとは何の関わりもないし、『例の女』だって別邸に閉じ込めてある。大丈夫だ、と徹は自分に言い聞かせた。

 青龍会だの朱雀組だの、そんな大物ヤクザたちの争いなんて、自分のような下っ端には火の粉すら飛んでこないだろう。

 この時の徹はまだ、火の粉どころか――巨大な火の玉が自分に迫っていることを知らなかった。



 徹がその『巨大な火の玉』と対面したのは、数日後の夜のことだった。

「こんばんは。深君と高校のクラスメイトだった、夏目さやかと申します」

 息子の隣で微笑む少女――夏目さやかの姿を見て、徹は心底驚いた。

 ――なんで、『夏目さやか』がうちに……!?

 夏目さやかが桃華組の標的だということは、徹も知っていた。

 桃華組から写真入りのファックスが届いた時には、「こんな若い女の子を狙うなんて、桃華組は噂通りの『ハゲタカ』なんだなあ。ヤクザはコワイな」なんて、他人事として笑い飛ばしたのに。

 今、天下の青龍会に狙われている女が、徹の目の前にいる。しかも、最愛の息子のすぐ横に。

「……」

 玄関で立ち尽くす徹を前に、さやかがちらりと深に目配せをした。

 そこで、深がネジを巻かれた人形のように、慌てて話し出した。

「あっ、おっ、親父っ、あのさっ!おふくろにはもう電話で言ったんだけどさ、今日はそのっ、一緒に飯食わないか?」

「飯?一緒に?」

 そのぐらい別に、と言いかけた徹は、続く深の言葉に絶句した。

「う、うちじゃなくてさ、親父の事務所で食いたいんだ」

「えっ…?」

「あそこはほら、広いじゃん?たまにはおふくろをゆっくりさせてやりたいしさ、す、寿司の出前でも取ろうよ」

 深の目が、心なしか泳いでいる。明らかに、横にいるさやかに怯えていた。

「………」

 ――どうする…。

 夏目さやかが何故、息子を連れてうちに来たのか。徹が青龍会桃華組の配下だと分かっているのか?だとして、わざわざ別邸で夕食会など開いて、どうするつもりなのか。

 別邸――そこで、徹の背に戦慄が走った。

 ――狙いは、あの女か!

 夏目さやかは、徹が捕らえたあの女――風間鳴子を追っている。だから、必ず徹の前に現れる――数日前の電話が、徹の耳に蘇った。

 桃華組組長・秋津ユタカの予言が、ピタリと的中したわけだ。徹は、だんだん目の前で起こっていることが信じられなくなってきた。

 ――俺は、夢でも見てるんじゃないか…?

 いや、途方に暮れている場合ではない。まずはさやかの言う通りにして、桃華組に連絡しなければならない。

 ――ヤクザの争いに巻き込まれるなんて、まっぴらだ。さっさとこの子を桃華組に引き渡して、深のことを守らなければ…。

 徹は、精一杯の作り笑顔を浮かべた。

「ああ、そうだな。じゃあ、車を出すから皆で行こうか。その…夏目さんもご一緒に」

「ありがとうございます」

 さやかは平然と家に上がり、深や初子ににこやかに声をかけた。

「突然、お邪魔してすみません。深君と久しぶりに会ったら、話が盛り上がってしまって」

「あら、いいのよ。葵山学院の生徒会長だった夏目さんが遊びに来てくれるなんて、光栄だわ。ねえ、あなた」

 初子に話を振られたが、徹は引きつった笑みしか返せなかった。

 ――冗談じゃない。

 大物ヤクザたちに狙われている女が、妻や息子の至近距離に立っている。悪夢のような光景だ。

 徹はすぐに桃華組に連絡しようと電話を取ったが、その手をさやかに掴まれた。

「……!」

 驚く徹に、さやかはどこまでも普通の――平凡な少女のような気安さで言った。

「小池君のお父さん」

「な…何かな」

 ニヤリ――。

 そこで、さやかの優等生めいた笑みが、不意にどす黒いものに変わった。

「いや…夜郎組の親分さん、とお呼びしたほうがいいですか?」

「…!」

 やはり、さやかは徹が桃華組の配下だと分かっていてここに来たのか。

 ――だが、なんで?どうして、わざわざ敵の懐に飛び込むような真似をするんだ?

 まさか、深を人質にして、徹から金でも強請り取るつもりなのか。或いは、桃華組と交渉でもさせる気なのか?

 様々な憶測を渦巻かせる徹に対し、さやかは至って落ち着き払っていた。

「桃華組に連絡するのは、やめたほうがいいですよ」

「な…どうして」

 何故、徹の考えていることが分かったのか、とか、何重もの意味の「どうして」だ。

 さやかは徹の手をゆっくりと押し戻し、受話器を置かせた。

「知らないんですか?桃華組が、僕をヘリに乗せて拉致しようとした時のこと」

「ヘリ…?拉致…?」

「ヘリが、ロケットランチャーで撃ち落とされたんですよ。新聞記事にもなってたはずですけど」

「あ…」

 徹の脳裏に、数日前の新聞――桃華組所有とみられるヘリが、都内で墜落したという記事がフラッシュバックした。

「僕のバックには、朱雀組の5代目がいます。彼は、青龍会相手には全く手段を選びません。お父さんも、ロケットランチャーの威力を確かめてみますか?」

 淡々と恐ろしいことを述べるさやかに、徹は開いた口が塞がらなかった。

 ――なんて女だ…。

 徹は知らない。どうしてさやかが青龍会や朱雀組に狙われているのか、詳しい事情は全く知らない。

 だが、本能的に察した。この女は確かに、極道たちの争いの渦中にいる火種そのものなのだと。

 ――俺には、何もできない。関わりたくない。俺は、平凡な一民間人でいたいんだ…。

 妻子もろとも木っ端みじんになど、されたくはない。徹は、桃華組への連絡を諦めた。



 車で別邸に着く頃には、徹はぐったりしていた。

 さやかは始終、まるで普通の少女のように深や初子と会話していて――その完璧な演技が、逆に徹の心胆を寒からしめた。

 ――まともな女じゃない。今すぐにでも、桃華組に助けを求めたい…。

 幸いにも、別邸にも電話はある。やはり、さやかのスキを見て桃華組に連絡するべきだ、と徹は運転しながら考えていた。

 しかも、そんな徹を後押しするように、さやか自らこんなことを言い出した。

「わあ、本当に素敵なお宅ですね。深君、案内してくれないかな」

「えっ…。あ、ああ…」

 深は力なく頷くと、さやかに背中をつつかれるようにして邸内へと歩み出した。

 さやかと深が2階へと上がっていくのを見て、徹はすぐさま椅子から立ち上がった。

 ――今がチャンスだ!

 玄関にある電話へと走ろうとした徹だったが、それを遮るかのように、初子が立ち塞がった。

「あなた。ちょっとお話があります」

「なんだよ、藪から棒に」

 早くしないと、さやかが2階から戻って来てしまう。それに、さやかが深に何かしないかも気にかかる。

 ――さっさと桃華組にあの女を引き渡して、こんな悪夢から逃げ出すんだ!

 しかし、よく見ると妻の表情は冷たく硬い。

 焦りで頭がいっぱいだった徹は、ようやくもう一つの異常事態に気が付いた。

 ――うっ…初子がこういう顔をする時は、たいていろくな話じゃない…。

 案の定、初子は徹の度肝を抜くような代物をバッグから取り出した。

「これを見てちょうだい」

「なっ…」

 それは妊娠検査薬――しかも陽性、つまり『おめでた』を示す印付きだった。

 ――なんだ、これは!?

 仰天する徹に対し、初子は冷え冷えとした声で言った。

「こんな手紙と一緒に、うちの郵便受けに入れられていたわ」 

 初子から投げるように渡された紙切れを見て、徹は絶句した。

『徹さんの子供を妊娠しました。1か月以内に離婚してください。さもなければ、徹さんに暴行されたと警察に訴え出ます。U・Kより』

 手紙の主はコンパニオンで、去年、社員旅行で熱海のホテルを訪れた徹と関係を持った経緯が、詳細に記されていた。妊娠発覚に当たり、来院した産婦人科の名前まできっちり書かれている。

 ――そんな…まさか…。

 徹は、全身の血が凍てついていくのを感じた。

 それというのも、手紙の内容は全て事実、身に覚えのあることばかりだったからだ。

 ――あの時の女が…?そりゃ確かに、ちょっと羽目は外したかもしれないが…それにしたって…。

 信じられない、信じたくない、という気持ちが脳みそいっぱいに充満して、思考が働かない。

「な…何かの間違いだよ。こんなの、きっとイタズラだって」

 妻の吊り上がった眼が恐ろしくて、徹は言い訳をすることしか出来ない。

「これを見ても、まだそんなことが言えるのかしら」

 ダメ押しとばかりに、初子は同封されていた写真をテーブルに叩き付けた。

 熱海のホテルの宴会場で、浴衣姿の徹と社員たちが、あられもない恰好のコンパニオンたちと戯れる姿がそこに激写されていた。

「うぎゃあああああっ!」

 この世で最も妻に見られたくないものを白日の下に晒され、徹は悲鳴を上げた。

「叫びたいのはこっちのほうよ。仕事だなんて言って、こんなハレンチなことをしていたのね」

「ちっ、違うんだ、これには訳があるんだって。俺を信じてくれよ」

 腕に縋り付こうとした徹の手を、初子は振り払った。

「触らないで!汚らしい」

「は、初子…」

 妻の名を呼んだ声が、嗚咽のように上ずる。

 そこに、ピンポンと玄関のチャイムが鳴り響いた。

「出前が届いたみたいね。私が出ます」

「初子…あの…」

 玄関に向かう初子を追いかけようとして、徹はビクッと立ち止まった。

 こちらを振り返った初子の顔は――般若そのものだった。

「今夜は、家族で迎える最後のディナーよ。ちょうどいいタイミングで深が帰って来ていてよかったわね」

 妻からの最後通牒に、徹は頭がくらくらした。

 ――なんで…なんで、こんなことに…。

 もはや、桃華組だの夏目さやかだののことなど、完全に意識から消え去っていた。



「………」

「………」

 無言の大人2人をよそに、さやかはパンと手を叩いた。

「わあ、美味しそーう。深君、今日はご馳走になるね」

「う、うん…」

 テーブルいっぱいに寿司桶が並べられているというのに、深も徹も初子も――小池一家全員、顔色が悪い。

 赤の他人のさやかだけが、「いただきまーす」とはしゃいでいた。

「やっぱり東京はいいなあ。こんなに高級なお寿司を食べられるなんて」

「あら。夏目さんは、どちらの大学に進学したんだったかしら」

 初子の質問に、さやかはえへへ、と照れ臭そうに笑った。

「実は、浪人しちゃって…。彩北に祖父母がいるので、そっちで予備校に通ってます」

「まあ、彩北?ずいぶん遠くに行ったのね」

 初子がさやかのわざとらしい世間話に付き合っているのは、徹への当てつけだろう。初子が一語発するたびに、徹はいたぶられているような気分になった。

 さやかの大きな瞳が、その徹を視界に捕らえる。

「そういえばわたし、彩北でお父さんを見かけましたよ」

「えっ」

 思いもよらない方向から水を向けられ、徹はぎくりとした。

 ――なんだ、何なんだ。もうこれ以上、俺をいじめないでくれよ…。

 あの手紙のこととか、初子の横顔とかが怖くて、さっきから寿司の味もしないのだ。徹は、さやかが何を言い出すのかと気が気じゃなかった。

「ほら、聖天女子高校の運動会ですよ。お父さんもいらしてましたよね」

「聖天女子高校…。あっ」

 それは、まさに桃華組との仕事で向かった場所だった。

 彩北に停泊した青龍会の船に『モモカショップ』関連の物資を積み込む、といういつも通りの仕事だった。彩北に滞在している間、これから『モモカショップ』に勤めるという研修生の少女たちとも会い、彼女たちの勤勉さにすこぶる感心したりもした。

 徹が聖天高校の駐車場で桃華組の男と会ったのは、細かい連絡事項と挨拶も兼ねてのことだった。

 その男――源もまた、桃華組組長と同じく紳士的で、荒っぽい態度は一切取らない冷静な男だった。徹もすっかり打ち解けて、世間話などしたような気がする。

 ――そんなところを、この女に見られていたなんて…。

 コンパニオンの件といい、今まで気付いていなかっただけで、徹は常に誰かに見張られていたのだろうか。ヤクザなんかと付き合っているから、何者かに監視されているのか?

 いよいよ思考が混乱してきた徹をよそに、さやかはうすら寒い笑みを浮かべていた。

「何だか見覚えのあるおじさんだなーって思ってたんですよ。お父さん、深君にそっくりだから」

「そ、そうかい…」

 徹がちらりと見ると、その深は何かを誤魔化すように、パクパクと寿司を口に詰め込んでいる。深もまた、さやかに弱みを握られているのかもしれない。

 ――まさか、あの手紙の件もこの女の差し金か…?

 徹の疑惑を知ってか知らずか、さやかは爽やかな優等生の表情で寿司を口にしている。

 小池家の最後の晩餐は、完全に夏目さやかによって支配されていた。

 


 小池の父親が、青龍会四天王・桃華組傘下、夜郎組の組長――。

 さやかにその情報をもたらしたのは、元生徒会メンバー・越智だった。

 越智も含め、学校の人間には1月の事件について、さやかは一切語っていない。

 それでも越智は、さやかの身に何らかの異変があったことを察し、独自に1月の秋津イサオ殺害事件に関する情報を集めてくれていた。

 むろん、一介の女子大生に過ぎない越智が、ヤクザの周辺を嗅ぎ回ることはできない。そこで越智は、もう一人の事件関係者――同級生の小池に的を絞った。

 チャラチャラしたサッカー少年に過ぎない小池から得られる情報になど、何ら期待していなかったが――意外にも、小池の背後に青龍会傘下のヤクザが潜んでいたのだ。

 ――こんな身近に青龍会の人間がいるなんて、僕ですら気付かなかった。

 もっとも、小池自身も、自分の父親がヤクザと繋がりがあることは知らないらしい。実際、夜郎組がヤクザだったのはかなり昔の話で、今は名実ともにただの中小企業だということも、越智は突き止めていた。

 さやかが数か月前に目撃した、彩北の聖天高校で源と話していた男こそ、小池の父親だったのだ。さやかは、つくづく己の油断を悔やんだ。

 ――あの時、小池の父親の素性を知っていれば…もっと早く、源さんが青龍会の人間だって気付けたのに。

 遅すぎる後悔はさておき、さやかは小池を利用することに決めた。

 ――小池の父親から、鳴子さんの居場所を探り出す。うまくすれば、小池の父親自身が鳴子さんを監禁している可能性だって…。

 そんなさやかの狙いを先回りするように、越智は更なる情報を手帳に書き込んでくれていた。

「うちの親父、熱海のコンパニオンと浮気してたらしくてさあ。こないだ、その女から『あら、社長の息子さんじゃない?』なんて声かけられたんだよ。ちょっと美人だったぜ」

 卒業前、小池がチームメイトたちにそんな風に吹聴していたらしい。小池からしてみれば、ちょっとした下世話な世間話のつもりだったのだろう。

 小池の後輩からその話を聞いた越智は、夜郎組に出入りしている業者を金で買収し、夜郎組の社員から熱海での写真を入手することに成功した。

 夜郎組組長・小池徹を追い詰めるための猛毒――。

 越智が献上したこの毒薬を、さやかはフルに活用させてもらうことにした。

 まず万崖にいる小池本人に連絡し、高校時代の数々の悪行――生徒会長だったさやかに、学内での女遊びや酒盛り、後輩への暴力など、隠し通せるものではない――をネタに脅して、東京へと出向かせた。

 さらに使用済みの妊娠検査薬と偽手紙を小池家の郵便受けに投げ込み、この晩餐会を仕掛けた。



 小池の母・初子は素知らぬ顔はしているものの、日ごろから夫の女癖の悪さに不満が溜まっている。これまた、おしゃべりな小池が周囲に吹聴していたことだ。

 ――もうじき、ここは小池一家の修羅場になる。そのスキに鳴子さんを……。

 鳴子がいる離れの位置は、先ほど小池に案内させて確認済みだ。

「………」

 能面のような無表情の下に、爆発寸前の怒りを抱えた妻――初子。

「………」

 妻とさやかの板挟みになり、すっかり顔色を失った夫――徹。

「………」

 これまた両親とさやかの狭間で小さくなっている息子――深。

「………」

 三者の間で緊張が高まっていくのを眺めながら、さやかがその場の空気を爆発させるための言葉を発しようとした――その時だった。

 ガチャッ。

 食卓にいた4人が、ハッと顔を上げた。

 それというのも、ノックもなしに開けられたドアの音の不躾さと、続けて部屋に充満したむせ返るほど濃い香水の匂いが、あまりにも場違いだったせいだ。

「こんばんは~!社長さーん、お邪魔しまーす♡」

「キャーッ、ママ、お寿司よ、お寿司!贅沢ねえ!」

 口々に黄色い悲鳴を上げながら、部屋になだれ込んできたのは――華やかな化粧と露出度の高い衣装を身にまとった、ホステスたちだった。

 ――いったい、何事!?

 予想外の事態にさやかは面食らったが、ホステスたちはさやかのほうなど一瞥もせず、一斉に小池の父親を取り囲んだ。

「もーっ、小池さんったら最近ご無沙汰じゃな~い」

「お店に来てくれるのが待ちきれなくって、あたしたちのほうから来ちゃった♡」

「…………」

 小池の父親は口をパクパクさせたまま、声も出せないようだ。

 ホステスたちはまだまだ外にもいるらしく、次々に室内に侵入してきた。

「きゃっ、この子かーわいい。小池さんの息子さん?」

「パパそっくりねー。大きくなったらお店に来てね♡」

「あ、はは…」

 生気のない笑みを浮かべた小池がもらった名刺を、さやかはこっそり覗き込んだ。

 ――ナイトラウンジ『アネモネ』。

 葵山学院の生徒会長だった頃、生徒たちの風紀を取り締まっていた時期に見た名前だ。雑居ビル2フロアに広がる大きなキャバレーで、所属するキャストの人数も多い。老舗だけあって給料がいいので、年齢を偽ってこっそりバイトしようとする生徒がいたほどだ。

 ――でも、どうして今『アネモネ』のホステスたちがここに…?

 などという疑問をこの場で抱いているのは、さやかだけらしい。

 きゃあきゃあと甲高い声と脂粉の匂いをふりまく女たち、そしてその中心にいる夫の姿に、ついに小池の母親が切れた。

「いい加減にしてちょうだいっ!私、出て行きます」

「ま、待ってくれ、初子!」

 夫の痛切な叫びを、妻はバンとテーブルを強く叩いて遮った。

 そのまま帰る――と見せかけて、小池の母親は一旦、台所に行ってから戻ってきた。

「もう二度と顔を見せないで!」

 コップの水を夫の顔面にぶちまけると、小池の母親はコップを床に叩きつけた。

「キャーッ!」

「誰か、ホウキとチリトリ持ってきてえ」

 ホステスたちが騒ぎ、小池の母親は自分の内側で暴れる怒りを抑えきれないかのように、ヒステリックな叫び声をあげた。

「…………」

 両親の修羅場を前に、小池はただ魂の抜けた人形のように呆けている。

 ――よくわからないけど、今がチャンスだ。

 もはや小池一家のカルナバルのようになったリビングで、赤の他人のさやかに注目する者は誰もいなかった。

 さやかは難なく外へと出ると、鳴子の囚われている離れへと向かった。



 離れのカギは一応、先ほど小池から受け取ってある。

 だが、扉の前に立ったさやかは、一瞬、躊躇した。

 ――鳴子さんは、僕と会ってくれるだろうか。

 鳴子とはこれまで、何度か電話で話したことはある。電話ではいつも無邪気で優しかったが、堅気である姉夫婦と会うのを避けていたり、朱雀組のスパイをしていたりと、かなり意志の強い女性だ。

 ここで今、青龍会に狙われているさやかが会うことは鳴子のためになるのだろうか――。

 さやかは首を振った。

 ――今更、後戻りなんて出来ない。

 さやかは、ドアノブに手をかけた。

 さやかの逡巡とは裏腹に、ドアは呆気なく開き――中にいた女性が、すっと立ち上がった。

「あら?お客さんかしら」

 その声は、電話越しに聞くよりも甘かった。ふわりと靡く長い髪は、思わず撫でたくなるほど柔らかそうだ。

「鳴子さん。夏目さやかです」

 さやかが名乗ると、女性――風間鳴子は、大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。

「さやかちゃん…?あなたが、さやかちゃんなのね」

「はい。はじめまして」

 鳴子はわあ、と言って手を叩いた。

「やっと会えたね。メイコ、さやかちゃんに会えるのをずっと楽しみにしてたんだぁ」

「…僕もです」

 鳴子の笑みはとても無邪気で、あの毒気にまみれた小池一家とは対極だ。というか、監禁されている人間のリアクションとは思えない。

 さやかの疑問が通じたのか、鳴子はふと思いついたように現実的な質問をしてきた。

「ねえ、さやかちゃんはどうやってここまで来たの?さやかちゃんは確か、彩北にいたんだよね?」

「はい。話すと長くなるので、詳細は省きますが…まあ」

 さやかの頬を、不意に自嘲の笑みがよぎった。

「…要するに、脅したんですよ。夜郎組の組長とやらをね」

「小池さんを?」

「僕には、ヤクザと戦う力なんてありませんから。昔からそうです。卑怯な手段で人を出し抜くのが、僕の得意技なんです」

 葵山学院の生徒会長だった頃から、そうだった。

 生徒たち、いや、教師や保護者たちの弱みですら余さず見抜き、把握し、利用した。誰かを貶めることが目的ではなかったが、まっとうな手段だったとは言えない。

 ――僕が男だったら、もっと別の方法で生きることが出来たのかな。

 こんな裏から手を回すようなやり方ではなく――そう、雀卓で相手と向き合う時のように、真正面から人や物事と向き合い、解決できたなら、どんなに爽快だろうか。

 これが自分にとっての最適解だと分かってはいても、さやかはいつでも自分が狡猾な道を選んでいるように思えてならなかった。

 不意に、さやかの手を柔らかなものが包み込んだ。

「鳴子さん…?」

「ねえ、さやかちゃん」

 鳴子はその柔らかく、温かな手でさやかの手を包んで、こう言った。

「さやかちゃんは、自分で思っているよりずっと勇敢だよ」

「でも…」

「おとぎ話の王子様はね、剣を持っていないのよ。それはね、誰よりも強いからなの」

 ね、と言って、鳴子はさやかを納得させるかのように優しく微笑んだ。

 鳴子の全てが優しくて、柔らかくて――さやかは、ちょっとだけ泣き出したくなってしまった。

 ――強いのは、僕じゃなくて鳴子さんのほうだ。

 その鳴子に、言わなければならないことがある。さやかは、ゆっくりと切り出した。

「鳴子さん」

「なぁに?」

「朽木さんのことなんですが…」

 縫琴で別れた朽木の顔が――頭をよぎる。

 鳴子がくれた手鏡を自慢していたことや、手鏡をさやかに託そうとしたこと。

 そして、その手鏡が源の靴に踏みにじられる場面――次々とさやかの脳裏に浮かんだ。

「……!」

 次の瞬間、さやかの唇に、鳴子の指がそっと触れた。

 さやかが驚いて見つめ返すと、鳴子は何も言わなくていいとばかりに首を横に振った。

「そんな顔しないで。メイコは大丈夫」

「鳴子さん…」

「貴彦さんはね、メイコが見つけた最後の王子様なの。ピンチの後は絶対、ハッピーエンドが待ってるんだから」

 潤んだ瞳でそう言われ、さやかは黙ることしか出来なかった。

 ――僕が…朽木さんの分まで、鳴子さんを守らなきゃ。

「鳴子さん。ここから出ましょう」

 さやかがそう言おうとした直後、バンと乱暴に扉が開いた。

「見つけたぞ」

「……!」

 扉を開けたのは、この家の主――今夜の茶番の主役でもある、夜郎組組長・小池徹だった。



 さやかがこの離れにいる間に、リビングでは相当な騒ぎになっていたらしい。

 小池徹の髪は乱れ、顔はひっかき傷にビンタ痕、シャツは真っ赤なキスマークなどで、ぐちゃぐちゃに汚れていた。

「まあ、小池さんったら大丈夫?」

 鳴子は呑気にそう聞いたが、小池徹はキッとさやかのほうを睨みつけた。

「やっぱり、鳴子ちゃんが狙いだったんだな。この女狐め」

「………」

 小池徹は、手に果物包丁を握り締めている。さやかは、鳴子を庇うようにしながら後ずさった。

「うちの家庭をめちゃくちゃにしやがって…。無傷で帰れると思うなよ」

「………」

「あんたも知ってるだろうが、桃華組の組長はな、青龍会きっての『ハゲタカ』と呼ばれてるんだ。あんたも鳴子ちゃんも、海外に売られてなぶりものにされちまえばいいんだ」

 小池徹の眼は血走り、油を塗ったかのようにぎらついている。

 獣臭い吐息を感じながら、さやかは冷静に算段を立てていた。

 ――ここで、桃華組に捕まるなら悪くない。秋津ユタカと直接話せる…!

 だが、そこでさやかの視界に思いもよらないものが映った。

 ――えっ!?

 思わず目を疑ったのも、そこにいたのは東京にいるはずのない人物で――しかも、手には野球バットのようなものを構えていた。

 小池徹は背後の闖入者には全く気付いていないらしく、さやかと鳴子めがけて包丁を振り上げた。

「何とか言ったらどうだ、このメス豚どもーーッ!!!」

 バキッ!

 咆哮も虚しく、小池徹は背後からの一撃をもろに食らい、そのままバタリと倒れた。

 小池徹を殴った男は、ブンと音を立てて武器を下ろした。よく見ると、それは野球バットではなく、蛍光灯を受けて白々と輝く立派な大根だった。

「ふん。そんな千鳥足で女に包丁を向けて、臆病者だと呼んで欲しいのですかね」

「霜田さん…!」

 白虎組若頭補佐・霜田は、大根を持っていないほうの手で眼鏡のブリッジを押し上げた。

「つくづくしぶとい娘ですね、お前は。彩北では、お前と冬枝の死亡説で持ち切りですよ」

「あの…霜田さんが、どうしてここに」

 というのも、愚問だった。朽木と鳴子は共に霜田の子飼いであり、さやかと冬枝の身柄を巡って行動するにあたっても、彩北から出向けるのは霜田しかいない。

「行きますよ、鳴子、麻雀小町。いつまでも、こんなところで油を売っている暇はありません」

 霜田は有無を言わせずさやかと鳴子の腕を引っ張り、外に停めていたセドリックに乗せた。



 あっという間に小池家別邸が遠ざかり、セドリックは夜の国道へと入った。

「霜田さんは、これからどこに行くんですか?」

 さやかの問いに、霜田は小馬鹿にしたように鼻から息を抜いた。

「ふん。せっかく助けてやったというのに、礼の一つも言えないんですか」

「あ…すみません。霜田さんのおかげで助かりました。ありがとうございます」

 さやかが正直に礼を言うと、隣に座る鳴子も「ありがとう、パパ♡」とにこやかに言った。

「まあ、いいでしょう。私と鳴子は、朱雀組の事務所に向かいます」

「朱雀組の…」

「鳴子は5代目の使いですからね。朱雀組に保護してもらうのが一番確実でしょう」

 朱雀組5代目・柘植雅嗣は、鳴子と朽木をスパイに任命した張本人だ。鳴子の保護は、柘植たっての望みでもある。

「………」

 鳴子は何も言わず、微笑んでいる。霜田の方針を否定も肯定もしないが、心の中には朽木のことがあるのかもしれない。

 そこで、霜田が運転席からくるりと首だけ振り返った。

「感謝しなさい、麻雀小町」

「はい?」

「冬枝の居場所が分かりましたよ」

 言われた意味が頭に到達した瞬間、さやかは弾けるように身を乗り出していた。

「冬枝さんがっ!?生きてるんですかっ!?」

「信じがたいことですがね。私は、お前たちは人間じゃないのではないかと疑っていますよ」

 霜田は相変わらずの皮肉な口調だったが、霜田自身も冬枝の生存を喜んでいるのが伺えた。

 ――冬枝さんが生きてる。また、冬枝さんに会える…!

 それだけで、涙が溢れそうなぐらい嬉しい。思わず、手で顔を覆ったさやかに、鳴子が優しく声をかけてくれた。

「よかったね。さやかちゃん」

「鳴子さん…」

 そこで、さやかはハッとした。朽木の生死は、未だに不明のままだ。

 だが、さやかが遠慮めいたことを言い出す前に、鳴子はにっこりと笑った。

「ねっ?ステキな恋人同士には、幸せな結末が待ってるでしょう?貴彦さんとも、きっとまた会えるわ」

「…そうですね」

 今は、鳴子の前向きな笑みに頷き返しておいた。さやかだって、朽木が生きていることを信じたい。

 車はやがて、とあるホテルに到着した。イングリッシュガーデンを思わせる庭園が広がる、都内でも有数の高級ホテルだ。

「ここは、朱雀組5代目と懇意にしている外資系企業が経営しているホテルです。既に、鳴子を匿わせる支度は出来ています」

 霜田はホテルから出てきた組員に、鳴子の身柄を託した。

「じゃあね、さやかちゃん。今度は、貴彦さんと3人で会いましょうね」

「はい。必ず」

 さやかは、後部座席からいつまでも、ホテルの入り口に佇む鳴子の姿を見つめ続けた。

 鳴子の姿が見えなくなると、運転席の霜田が切り出した。

「麻雀小町。お前には、別の場所に潜伏していてもらいます。鳴子と同じところにいたのでは、青龍会に捕まえてくれと言っているようなものですからね」

「はい」

 さやかは、ずっと聞きたかったことを霜田に尋ねた。

「冬枝さんは、一体どこにいるんですか」

「ふん。まあ、隠すことでもないので教えてやりましょうか」

 霜田の眼鏡が、車のライトに反射してキラリと光る。

 そして告げられた事実に、さやかは驚きを隠せなかった。

「……灘家ですか!?」



 一方、義姉・秋津カグラのいる迦陵殿を辞したミノルは、秋津ススム・マユミ夫妻との面会を終えた栗林・嵐と合流した。

「そうですか…。マユミお義姉さんがユタカに撃たれましたか」

 ふむ、と神妙に頷くミノルに、栗林が不安げな眼差しを向けた。

「ミノルさん…。俺、ユタカさんに会ってもいいんでしょうか」

「そうですねえ。栗林はどう思いますか?」

「お、俺は…」

 答えようとした栗林の背中に、サカサカと嵐がまとわりついた。

「俺はモモカちゃんに会って、なんで叔母さんを撃っちゃったんだよ!この人でなし!って、ビンタしちゃいたいと思います!」

「勝手なこと言わないでくださいよ、嵐さん!ユタカさんにビンタなんかしませんし、できません!」

 そう言ってから、栗林は――自分の中で、いつの間にかユタカと会うことが既定路線になっていたことに気付いた。

 ――何が本当のことかは分からない。だから、俺はユタカさんに会わなきゃいけないんだ。

 こちらを見つめるミノルの蘇芳色の瞳に、無言で頷いてから――栗林は、優秀な側近の顔に戻った。

「それはさておき、先ほど、相談役から情報が入りました。ブンヤが、国会議員の灘氏の邸宅に、何者かが匿われていることを嗅ぎつけたとか。それも、どうやらスジ者らしいとのこと」

「灘先生のお宅ですか。このタイミングでブンヤの目に入ったということは、今更青龍会ではありますまい」

 栗林と嵐が、うんと頷く。

 少しずつだが――冬枝とさやかが生きている希望が見えてきた。

「灘家には、僕が行きましょう。栗林は、ユタカのほうをお願いします」

「分かりました。必ず、生きて帰ります」

 ミノルはそこで、ホテルのロビーの絨毯の模様をじっと見下ろしている嵐に目を向けた。

「嵐君。君は、どうしますか?」

「うーん」

 嵐は悩むように顎に手を添えて、人差し指を一本、立てた。

「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な…」

 ミノルと栗林の顔を交互に指差すと、嵐は「決めたっ!」と叫んだ。

「俺は引き続き、マロン林をサポートするッス」

「よろしくお願いします。栗林だけで桃華組に行かせるのは、いささか心もとないもので」

「ちょっと、ミノルさん!俺はもうガキじゃないんですよ!」

「どうだか」

 何より、そろそろあの源清司がユタカの元に戻った頃だろう。相手がユタカだけならともかく、栗林一人で源とやり合うのは流石に分が悪い。

 ――もっとも、僕自身、栗林の心配をしている余裕はなさそうですが。

 灘家は恐らく古くから――それこそ、ミノルが生まれる前から、青龍会をはじめとする日本の裏社会と繋がっている家だ。いわば、この国に巣食う魔窟の一つに、ミノルはこれから単身、足を踏み入れようとしている。

 ――やれやれ。どうして、僕とそう年の変わらぬオッサンのために、僕がこんな危険を冒さなければならないのやら。

 だが、ミノルに退く気はない。冬枝のいる場所こそ、さやかが目指すゴールに他ならないのだから。

 ――これで、事態が大きく動く。もうすぐお会いできますよ、冬枝君、さやかさん。



 外資系ホテルのスイートルームで、風間鳴子は一人窓辺に佇んでいた。

「………」

 夜の東京を臨む、大きなガラス窓。鳴子は、まるで夜景を描いた大きな絵画の一部に溶け込んだかのように、そこから動けずにいた。

 ――パパ…。

 つい先ほど、さやかをある場所まで送ってきた霜田が訪ねてきた。

 霜田はこれから、鳴子を不定期に別のホテルを転々とさせ、時には地方に潜っていることになるだろう――と説明してから、こう告げた。

「朽木は生きています」

「……!ほんとうに…?」

 大きな瞳をいっぱいに見開き、涙を満々と湛える鳴子に――霜田は、優しく諭すように言った。

「…本当です。ただ、朽木の身柄を解放するためには、諸々の手続きが必要です。私一人では決められないので、一旦、彩北に戻って若頭たちと話し合います」

 鳴子はその説明をほとんど聞かずに、霜田の袖に縋り付いた。

「お願い、パパ。貴彦さんを助けてあげて…」

「…むろん、そのつもりです。あれを見捨てるつもりはありません」

 霜田はそっと鳴子の手に触れ、自身の腕から放した。

「朽木を助けたいのなら、まずは鳴子、お前自身の身を大事にすることです。お前が危険にさらされている限り、朽木もまた、自由にはなれません」

「パパ…」

 霜田の真剣な目付きを受け止め、鳴子は頷いた。

「分かったわ。メイコ、貴彦さんに会えるまで頑張る」

「うむ。暮らしに不自由はさせませんから、今しばし辛抱しなさい」

 そう言って、霜田がこの部屋を去ってから――もう、何時間が経っただろうか。

 朽木が生きている喜びと、会えない不安が、振り子のように鳴子の中で揺れ続けている。

「貴彦さん…」

 今は、この想いが鎮まるまで――ずっと、この窓の景色を見つめていたかった。

 朽木もきっと、この同じ空の下にいるのだと――感じていられるから。

 穏やかな静謐を破ったのは、低く艶やかな声だった。

「よう、鳴子」

 鳴子は、ゆっくりと振り返った。

 そこにいたのは、蒼く冷たい双眸を光らせる、オールバックの長身の男だった。

「お散歩はお終いだ。お家に帰る時間だぜ」

 開け放たれたドアから風が入り、鳴子の波打つ髪を揺らした。



 源清司に風間鳴子を奪還された――その報せが朱雀組にもたらされたのは、数十分後のことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ