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66話 悲劇のプリンス・秋津ユタカ・後編

第66話 悲劇のプリンス・秋津ユタカ(後編)


 翌日、さやかは都内の喫茶店『ラピス・ラズリ』にいた。

 正面に座るのは、さやかと高校の同級生だった少女――越智だ。

「お久しぶりです、会長」

 そう呼ばれて、さやかはちょっと懐かしくなった。

 ――生徒会長を引退してからも、みんなから『会長』って呼ばれてたっけ。

 そんなあだ名が付くほど、葵山学院高校背生徒会長・夏目さやかの辣腕は知れ渡っていた。越智がこうして会いに来てくれたのも、さやかの活躍が理由だ。

「大学はどう?」

 本題に入る前に、さやかは挨拶代わりの世間話を振った。

 越智は高校時代に三つ編みにしていた髪を今は下ろし、白を基調にしたカジュアルな服装のよく似合う、洗練された女子大生になっていた。

「学校と名の付く場所は、どこも混沌としていますが――その中でも、大学は風通しがいいですね。全国各地から人間が集まるから、淀みも長続きしません。一人の人間が、短期間でいろんな色に染まっていく」

 華やかなキャンパスライフを、否定も肯定もしない。越智らしいな、とさやかは思った。

 葵山学院では越智もまた、さやかと並ぶ優等生だった。成績優秀なのは勿論、勉強に対する熱心な姿勢は、教師たちからこぞって褒められた。

 その越智がある教師に強請られ、関係を迫られていることに気付いたのが、さやかだった。

 卑劣な魔の手から救おうとしたさやかの手を、はじめ、越智は拒絶した。

「嫌です。こんなことなんかで内申点が下がったりしたら、今までの努力が全部水の泡になる……!私のことは、放っておいてください!!」

 一点の汚れもない完璧な高校生活、そして大学生活――越智はそれに執着していた。

 このまま教師の言いなりになっていれば、学校で波風を立てずに済む。卒業まで我慢すればいいだけだ、と越智は自分に言い聞かせていた。

 かつての自分を、越智はこう振り返る。

「あの頃の私には、白と黒の世界しか見えていませんでした。一度でも失敗したら、それはもう『普通』じゃない――黒の側の人間になってしまうんだと。真っ白な『普通』でなきゃいけないんだと、本気で信じていたんです」

 だけど、と言って、越智はさやかを見て笑った。

「会長は、あらゆる意味で『普通』じゃない。なのに私より成績が良くて、胸を張って生きている。私が思っていた『普通』なんて、あまりにも狭いものだと気付いたんです」

 この世には、様々な色の『普通』がある。誰も同じ『普通』なんかじゃない。だから、自分の『普通』を守るために闘わなければならないのだ。

 さやかにそう説かれ、越智は目を覚ましたのだった。

「大げさだよ。越智は賢いから、僕がいなくてもきっと自分で気付けた」

 さやかの謙遜に、越智は首を横に振った。

「私はただ、大人の言うことをなぞるのが上手かっただけです。だから、自分にとって本当に大事なものが何なのか、考えることも出来なかった」

「誰だって、そんなものじゃない?学校って、そういう風に子供を教育するものだし」

 それに――と、さやかは内心で自嘲する。

 ――僕は、自分の頭で考えてると思い込んでいただけだ。ただの馬鹿よりタチが悪い…。

 さやかの表情が翳ったことを察したのか、越智も姿勢を改めた。

「夏目先輩から連絡を受けて、すぐに動きました。会長が知りたい情報は、おおよそ掴めています」

「ありがとう。ごめんね、忙しいのに」

 何より、あの高慢ちきな兄からの電話などを受け取らせたことが、さやかとしては一番申し訳ない。さやか自身が動けば越智にまで影響が出かねないため、兄を使うしかなかったのだ。

 越智は「いいえ」と爽やかに笑った。

「差し出がましいのは百も承知ですが、会長の役に立ちたいんです。三船さんのこともありましたし」

 生徒会副会長だった三船が卒業を前にして退学したことは、越智も衝撃だったのだろう。退学の真相は知らなくても、さやかの傷心は越智も察していたに違いない。

「詳細はここに記してあります。会長のお好きなようにしてください」

 そう言って越智がテーブルの上に置いたのは、ピンク色の可愛らしい手帳だった。

 表紙に描かれた桃色の鹿と『MOMOKA』のロゴを見て、さやかはぎくりとした。

「この手帳…」

「万が一の時に怪しまれないよう、ファンシーショップで買ったものです。これに個人情報が記されているなんて、誰も思わないでしょうから」

 越智はあくまで、若い女子に流行りのキャラクターグッズだからこの手帳を選んだだけらしい。

 納得したところで、さやかはふと思った。

 ――鳴子さんは青龍会に連れ去られたって柘植さんが言ってたけど…ひょっとして、桃華組に捕らわれている可能性もあるんじゃないか?

 桃華組が積極的に若い女子を拉致し、ファンシー雑貨店『モモカショップ』のスタッフとして雇用していることはさやかも知っている。秋津ユタカ率いる桃華組が非常に紳士的で、さらった少女たちを大切に扱っていることも。

 越智から受け取った手帳をめくったさやかは、越智が調べ上げた内容を読んでさらに目を見開いた。

 ――これは……そうか、そういうことだったのか。

 脳内メモリーディスクが高速で回り出し、バラバラに見えたいくつもの回路が繋がっていく。

 しばらく脳内コンピューターに没頭していたさやかに、越智がおずおずと声をかけた。

「微力ですが…、会長の役に立てましたか?」

 健気な眼差しは、三つ編みを結んでいたあの頃の越智のままだ。

 ――でも、越智は今、輝かしい未来を生きている。

 教師との歪んだ関係に終止符を打ち、越智は自分自身を取り戻した。高い暗記力と調査力で生徒会随一のデータマンになり、学内での数々の問題を解決していく中で、勉強だけが人生の全てではないことを知った。

 越智が今生きているのは、自分の手で掴んだ未来だ。さやかはただ、きっかけを与えたに過ぎない。

 ――これ以上、越智を巻き込みたくない。

「ありがとう。越智のお陰で、一歩前進した」

 さやかはそう言うと、すっと席を立った。

「もし誰かに僕のことを聞かれたら、正直に言っていいよ。僕に義理立てする必要はないから」

「そんな…」

 何か言いたげな越智に、さやかは強い瞳で言った。

「僕は負けない。だから、越智も自分のことを優先して」

「…はい。会長を信じています」

 さやかは微かに笑って、喫茶店を後にした。



 秋進コーポレーション本社ビル。

 応接室の大きな窓の前で、ピンクの革ジャン男がぴょんと飛び跳ねた。

「おおーっ!見ろよ、マロン林!東京タワーが見えるぜ」

「…春野さん、よくそんな気分になれますね」

 ダークグリーンのスーツを着た青年、栗林アキラは、蒼ざめた顔を力なく上げた。

 それを見て、ピンクの革ジャン男――春野嵐が、「ん?」と首を傾げた。

「マロン林、なしてそったに緊張してんの。叔父さんの職場に来ただけじゃん」

「…来ただけじゃないです。これから、大事な話があるんですから緊張もしますよ…」

 栗林はここに来る前――大羽でタケルから言われたことを思い出した。

「栗林。お前を、秋津一家若頭に任命する」

「は…えぇっ!?」

 急な人事にぎょっとする栗林に、タケルが説明した。

「相談役と話をする以上、それ相応の席がいるだろう。平組員だから会えない、などと門前払いされては意味がない」

「はあ…でも、俺でいいんですか?」

 ちらちらと隣の米倉――秋津一家元・若頭――を気にする栗林に、ミノルが手をひらひらと振った。

「そんなことを気にしている場合ではないでしょう。僕は一緒に行ってやれませんし、無難な措置だと思います」

「で、でも…」

 まだモニョモニョ言い淀む栗林に対し、米倉が口を開いた。

「なあ、栗林。俺たちだって、御曹司がこのまま青龍会で一生を棒に振っていいなんて思ってねえ」

「若頭…」

 秋津一家の御曹司――秋津ユタカは、父・イサオの命で青龍会に潜入した。イサオが死んだ今、ユタカが秋津一家に戻って来るかどうかは分からない。

「御曹司は、相当な覚悟で青龍会に入ったはずだ。そして10年もの間、青龍会で血と汗を流してきた」

 そこで、米倉がキッと厳しい目付きを栗林に向けた。

「その御曹司に青龍会を抜けろって言うからには、お前にもそれなりの覚悟が必要だ。分かってんだろうな」

「覚悟…」

 米倉に言われた『覚悟』があるかどうか、東京へ来た今も栗林には自信がない。

 確かに言えることは――ユタカを取り戻さなければ、栗林の時間は動き出さないということだけだ。

 回想に耽っていた栗林の肩を、隣にいた人物がギュウと掴んだ。

「ヒッ!?」

「秋津一家の若造……いえ、若頭でしたか。この霜田と席を並べるからには、そのシケた面構えをどうにかしなさい」

「し、霜田さん…」

 眼鏡越しの瞳をぎらっと光らせる霜田に、栗林はますます肩を縮こまらせた。



 今回の東京行きには、栗林と嵐だけでなく――白虎組若頭補佐・霜田が加わっていた。

 大羽から彩北を通る道中で、嵐が同じ方面へ走るセドリックを発見したのがきっかけだ。

「おっ!あれ、パパの車じゃん」

「パパ?」

「白虎組の補佐だよ。声かけてみよーっと」

「あっ、ちょっと…春野さん!?」

 元警官らしく、嵐は車を覚えるのが得意らしい。セドリックから渋面を覗かせたのは、本当に霜田その人だった。

「白虎組を代表して、この霜田が朱雀組の相談役に会いに行くことになりました」

 近くのパーキングエリアで、霜田はそう明かした。

「それって…」

「分かったー!行方不明の朽木をとっとと連れ戻してこいって、美佐緒ママにせっつかれたんだー!」

 嵐に指を差され、霜田がガタッと椅子から立ち上がった。

「違います!!この補佐たる私の英断に決まっているでしょう」

「えーだん?」

 わざとらしくとぼける嵐に、お返しとばかりに霜田が指を突きつけた。

「美佐緒なら今頃、お前の家で鈴子とゴロゴロしているところですよ」

「えっ。美佐緒ママ、俺んちに来てんの?」

「朽木がいない今、色々と不用心ですからね。お前の家には冬枝の弟分たちが居候しているそうですし、あそこにいたほうが大年増の一人暮らしよりマシでしょう」

「パパの愛ね」

「パパって呼ぶんじゃありません!」

 ぎゃいぎゃい言い合う嵐と霜田を横目に、栗林は状況を整理した。

「つまり…霜田補佐は、朽木さんの身柄は青龍会が拘束していると考え、桃華組と繋がりのあるうちの相談役に直談判しに行かれるということですね?」

「そういうことです。全く、朱雀組も秋津一家も信用ならないったらない」

 そう言われると、栗林も肩身が狭い。夏目さやかの乗った桃華組のヘリを撃墜、という柘植とススムの行動は、栗林にも理解不能だ。

 嵐が、栗林と霜田を両腕で抱え込んだ。

「じゃあ、俺たちの目的は一緒ってわけだ!よーし、3人で東京へしゅっぱーつ!」

「はあ?」

「そうですね。そうしましょう」

 頷く栗林に、隣で霜田が「はあ?」と目を剥いた。

 嵐の言う通り、栗林たちもまた、朱雀組相談役・秋津ススムに会いに行くところだからだ。

 ――ユタカさんと会うには、相談役に渡りをつけるしかない。

 ススムは朱雀組、そして秋津一家のナンバー2だ。大企業・秋進コーポレーションの総帥でもあるススムと話をするにあたり、味方が多いに越したことはない。

 ――身内の俺だけじゃなく、白虎組も動いたとなれば、相談役も無視はできないはず…。

 栗林から事情を説明された霜田は、「…まあ、いいでしょう」と不承不承ながらも了解してくれた。



 そうして今、栗林・嵐・霜田の3人で秋進コーポレーションを訪れたわけだが――。

 応接室に通されてから10分、20分と経つにつれ、3人の表情は険しくなっていった。

「…来ませんね」

「どうする?好きな人でも言い合う?」

 この期に及んでふざけていられる嵐に、栗林はつい苦笑してしまった。

「修学旅行の夜じゃないんですから…」

 一方、霜田は堂々とお茶を啜っていた。

「よくある手口ですよ。みっともなく威張る者ほど、人を焦らすものです。全く、天下の秋進コーポレーションがこんな性悪だとは」

「お待たせ致しました」

 まるで見計らったかのようなタイミングで扉が開き、霜田がぶふっとお茶を噴いた。

 現れたのはススムではなく、スーツを着た30代の男だった。

「申し訳ありません。驚かせてしまいましたか?」

「……いえ」

 霜田が、恨みがましそうに睨みつける。

 男はサッと滑るように歩を進め、栗林たちに頭を下げた。

「秋進コーポレーション社長補佐、九条ナギサと申します。お見知りおきを」

 丁寧に名刺を渡され、栗林は狐につままれた気分だった。

「あの、相談役は…?」

「申し訳ありません。社長は多忙でして、アポイントメントのない方とお会いする時間が取れないんです」

 切れ長の目を細めて笑う男――九条に、栗林は絶句した。

 ――やっぱり、相談役は最初から俺たちに会うつもりなんかないんだ。

 秋津四兄弟の次男とはいえ、ススムは大羽にいるよりも東京にいる時間のほうが長い。当然、朱雀組5代目・柘植とも親しく、遠い田舎の故郷よりも、柘植の意志を優先するだろう。

 大羽と東京、秋津一家と朱雀組――その間に立ちはだかる高い壁を、栗林は感じた。

 あっさり挫けそうになった栗林に対し、霜田はそう簡単には引き下がらなかった。

「何がアポイントメントですかッ!おたくの社長が桃華組のヘリを落としたことは分かっているんですよ!うちの組の代打ちを殺しておいて、素知らぬ顔をすると言うのですかッ!」

 霜田の金切り声に、栗林も嵐も思わず耳を手で押さえた。

 ――小柄なのに、すごい迫力だな、この人。

 栗林の感心とは裏腹に、正面に立つ九条には、霜田の叫びはちっとも堪えていないようだった。

「ああ。その件でしたら私、九条が犯人ですよ」

「え……?」

「先ほども申し上げた通り、社長は大変、多忙ですから。ロケットランチャーと狙撃手の手配、及び墜落の確認など、この九条が行いました」

 しれっと白状する九条に、栗林は空いた口が塞がらなかった。

「あの…く、九条さん、って朱雀組の人なんですか…?」

「とんでもない。私はしがない会社員、民間人です」

「ヤクザでも民間人でも、ヘリをロケットランチャーで撃つのは犯罪だぞー」

 嵐が横から棒読みで突っ込んでも、九条は笑みを崩さない。

「でしたら、警察へどうぞ。皆さんのご職業では、歓迎されない場所でしょうが」

 落ち着き払った九条の態度に、栗林は段々腹が立ってきた。

 ――この野郎……。

 栗林はタケル、米倉、ミノル、そして自分自身の10年来の想いを背負って、ここに来ている。サラリーマンごときにコケにされてはいられなかった。

「そうですか。じゃあ、九条さんから相談役に伝言をお願い出来ますか」

「はい、何なりと」

 恭しく頷く九条に、栗林はきっぱりと言い放った。

「相談役が出てこないなら、秋津一家は朱雀組から離脱し、即時解散する!4代目…秋津イサオが作った大羽の歴史は、秋津ススムのせいでお終いだ!二度と大羽に足を踏み入れるな、この風見鶏野郎!!!」

 栗林の暴言に、九条が微かに眉をひそめ――嵐や霜田でさえ、呆気に取られていた。

「秋津一家が離脱・解散などと…本気で言っているのですか」

 と確認したのは、霜田である。栗林のような若造が言うには、あまりにも重い話だからだろう。

「これは総長のご意志です。秋津一家の結束は、信頼があってこそのもの。人の命を脅かした相談役は、もはや秋津一家の人間とは呼べません」

 実際、ススムはユタカのことも裏切った。部下である源も乗ったヘリが撃墜されると分かっていたら、ユタカはヘリなんて手段を選ばなかっただろう。

「………」

 厳しい表情で黙った九条に、栗林は背を向けた。

「じゃあ、失礼します。行きましょう、霜田さん、春野さん」

「ほーい」

「ま、待ちなさい!私はまだ話が…」

 と言って霜田が少し遅れて出入口の前に立った瞬間、応接室の扉がバンと開いた。

「待って、栗林君!私の話を聞いて」

「…マユミさん!」

 仕立ての良いドラジェブルーのスーツに、ふわりと薫るアイリスの香りも優雅な――優しげな美女、秋津マユミの登場だった。

「いったた…」

 開いたドアに激突した霜田が、痛そうに鼻をこすった。



 マユミがお茶を入れ、栗林たちは再び応接室のソファに座った。

「奥様が出て来られるようなことでは……」

 不本意そうな九条の肩に、マユミがそっと触れた。

「だって、大きな声が聴こえてきたから心配で……九条さん一人に背負わせられないわ。これは、私たちの問題なんですもの」

 それから、マユミは正面に座す男3人に、ぺこりと頭を下げた。

「ご挨拶が遅れてごめんなさい。秋津ススムの妻、秋津マユミと申します」

「うっひょー!アズサちゃんに続いて、美女のおでましだっ!秋津一家って、本当にタケルっちのハーレムだったりするぅ?」

 その場にいる男全員から睨みつけられ、嵐は「あらっ」と苦笑いした。

 気を取り直して、栗林が「マユミさん」と切り出した。

「話って…?」

「ごめんなさい。私がミノル君に報せてしまったせいで、皆に誤解をさせてしまったのね」

 そういえば、桃華組ヘリの撃墜がススムによるものだと判明したきっかけは、マユミがミノルに電話したことだった。

「後から本当のことを知って――私、愕然としたわ。そんな恐ろしいことをあの人がしていたなんて…」

 マユミは、自分も夏目さやかに会ったことがあると明かした。

「冷静で聡明な…素敵なお嬢さんだったわ。夫のせいで彼女がこんなことになるなんて…無責任な言い方かもしれないけれど、私も信じられなかった」

 温厚なマユミが悲しげにうなだれているのを見て、栗林は居心地が悪くなった。

 ――なんか、俺がマユミさんを虐めてるみたいだ…。

 マユミは秋津四兄弟の妻の中でも一番若く、柔らかくウエーブした髪と垂れ目は初々しくすらある。夫の秘書をしているだけあって立ち振る舞いも上品で、ヤクザの妻めいたところは一切ない。

 マユミを責めたいわけではないだけに、栗林は上げた拳の下ろしどころに迷った。

「あの…マユミさんのせいで秋津一家が解散するわけじゃないですから、気にしないでください」

「ブフッ!マロン林、慰めるのヘタ過ぎんだろ~!」

「春野さんは黙っててください!」

 ミノルと違って、全く弁が立たないのは栗林も自覚している。女性相手となると、なおさらだ。

 マユミは「でもね…」と話を継いだ。

「あの人は…夫は、秋津一家と朱雀組、どちらのことも大事なの。秋津一家も朱雀組も、イサオお義兄さんやタケルさん、ミノル君と一緒に築いた宝物だから」

 マユミの言葉に、栗林はハッとする。

 栗林の前にいるのは――18歳でススムと結婚してから30年、夫と秋津一家、そして朱雀組を見守ってきた女性だった。

「秋津一家には大羽のことしか分からないし、朱雀組は地方のことなんて見向きもしない。身も心もとても遠く隔たった二つの組を繋ぐことは、難しいことよ。まして、仕事が大好きなあの人にとって、極道でもいることは自分の身体を二つに引き裂くようなものだわ」

 ススムはいつも明るくスマートな姿しか見せないが、苦労は人の倍以上なのかもしれない。栗林は、今更に思い知った。

「だけど、それがあの人の選んだ道。裏社会と表の社会、朱雀組と秋津一家。どちらかじゃなくて、両方を幸せにしたい人なの。風見鶏と言われてしまえば、それまでだけれど」

 マユミは栗林に小さく笑ってみせてから、こう言った。

「あの人の心は、常に秋津一家と共にあるわ。栗林君にも、あの人のことを信じて欲しいの」

「マユミさん…」

 マユミから滾々と諭され、栗林はぐうの音も出なかった。

 ――相談役の心は、常に秋津一家と共にある、か…。

 だからこそ、ススムはユタカを密かに支援し続けたのだろう。青龍会の手先であるユタカを援助するのが危険にも関わらず、だ。

 ススムのバックアップがあればこそ、ユタカ率いる桃華組の『モモカショップ』は経営拡大が可能になったし、豊富な資金力で青龍会四天王に上り詰めることも出来た。

 そのユタカが遣わしたヘリを撃墜するのは、ススムにとっても苦渋の選択だったのかもしれない。

 ずっとミノルの腰巾着をしていた栗林と違い、ススムは都会の最前線で、敵味方双方と駆け引きをしている。そのススムをすぐに裏切り者と断罪するのは、確かに早計なのかもしれなかった。

 応接室に降りた沈黙を破ったのは、やはり嵐だった。

「それはそうなんだけどさあ、マユミちゃ~ん。このマロン林がさ、どうしてもモモカちゃんに会いたいって聞かないんだよぉ。何とかならない?」

「ま、マユミちゃん…!?」

 九条が眉を吊り上げたが、マユミはおっとりと頬に手を添えた。

「そうよね、栗林君は昔からユタカと仲が良かったものね。ユタカもクリリン、クリリンっていつもニコニコしてて…私たち、ユタカが結婚しないのは栗林君のせいじゃないか、なんて言ってたのよ」

「は、はあ…」

 東京からたまに大羽に来るぐらいだったマユミにも、そんな風に思われていたのか。栗林はちょっと恥ずかしくなったが、何が恥ずかしいのかはよく分からなかった。

 そこで、マユミは隣にいる九条に向き直った。

「ねえ、九条さん。栗林君たちに、何かしてあげられないかしら」

「奥様…。そうは言いましても…」

「せっかく大羽から来てくれたのに、何も出来ずに帰るなんて可哀想よ。あの人には私から言っておくから、ね?」

 マユミに頼み込まれ、九条は渋々といった様子で頷いた。

「…分かりました。奥様がそこまでおっしゃるのなら…」

 そこで、九条は手帳に万年筆でサラサラと何かを書き込み、ページを破って栗林に寄越した。

「これは…?」

「桃華組組長が事務所代わりにしている、マンションの部屋の住所と、鍵の番号です」

「ええっ!!?」

 いきなりとんでもないものを渡され、栗林は面食らった。

「あの、いいんですか…?こんな大事なものを…」

「…構いません。どのみち、あなたたちが桃華組組長にお会いするのは難しいでしょうし」

 皮肉めいてはいたが、九条なりの誠意だろう。栗林は、素直に頭を下げた。

「すみません。ありがとうございます」

「…お礼なら、社長にしてください。これもまた、社長のご意志ですから」

「えっ…?」

 九条は、先ほどまでの嫌味たらしい表情が嘘のように、温かな笑みを浮かべていた。

「社長のお立場では、自らこのような情報を渡すことは出来ません。社長のお心が秋津一家と共にあること、どうぞお忘れなく」

 九条とマユミに厚く礼を言い、栗林たちは秋進コーポレーションを後にした。



 九条とマユミは、秋進コーポレーションの前まで見送りに来てくれた。

「お騒がせしてすみません、マユミさん。相談役のこと、色々言ってしまったんですが…その」

 口元をモニョモニョさせる栗林に、マユミは優しく笑ってくれた。

「ふふっ、いいのよ。憎まれ役なのは、あの人も私も分かってるわ」

 それに、と言ってマユミは目を伏せた。

「…私たちでも、ユタカに戻って来てとは言えなかった。ユタカは青龍会で四天王とまで呼ばれるようになったし、桃華組の経営も安定してる。そのせいで、私もあの人も、ユタカが青龍会にいることに慣れ過ぎてしまったのね」

 ビル風がひゅうと吹き抜け、マユミの柔らかな髪を揺らす。

「だから、栗林君がユタカに会いたいって言ってくれて、すごく嬉しかったわ」

「マユミさん…」

「ユタカは青龍会を倒すっていう大義にとらわれ過ぎてるわ。強い子だから、後戻りすることができないの。だけど、このまま青龍会にいたら、きっと取り返しのつかないことになる」

 東京で暮らすマユミは、青龍会の闇を身近に感じているのだろう。その言葉には、説得力があった。

「栗林君に会えば、ユタカの考えも変わると思うの。今の秋津一家で、ユタカを説得できるのはあなたしかいないわ」

「そう…ですか?」

 そこまで言われると、栗林も自信がなくなってきた。

「俺、もうユタカさんと10年も会ってないですし…ユタカさんが青龍会で頑張ってる間、俺はずっとミノルさんの付き人をしてただけですし…説得なんて…」

 弱気になる栗林の前に、九条がにゅっと首を出した。

「栗林さん」

「は…はい」

「俺もあなたも、そして我が社長や桃華組の組長ですら、この世を動かす歯車の一つに過ぎません」

 いきなり始まった話に、栗林は目を瞬かせた。

 九条は続けた。

「でもそれは、自分が動けば、必ず他の誰かのことも動かすということ。俺もあなたも、確かにこの世を動かす大きなエネルギーの一部なんです」

 九条は、「今のは社長のお言葉です」と言って微笑んだ。

「栗林さんが動けば、必ず何かが変わります。それが分かっていて動かないのは、損じゃありませんか?」

「…そうですね。やるだけやってみます」

 栗林が笑うと、九条もマユミも笑顔で頷いてくれた。

 その後ろで、嵐が霜田の肩をぐいっと引き寄せた。

「なあなあ。パパはこれからどうすんの?」

 結局、ススムに直談判する、という当初の目的は果たせなかった。一応、ユタカに会う段取りはついたが、本当に会えるかはまだ分からない。

「………」

 霜田はしばらく考える様子を見せたが、「ふん」と鼻から息を抜いた。

「朽木と鳴子のことは、お前に任せます。秋津一家の若造だけでは頼りないですから、お前が面倒を見てやりなさい」

「おほ?んじゃ、パパは別行動?」

 わざとらしく顔を覗き込む嵐を、霜田は鬱陶しそうに手で払った。

「私には、他にもやることがあります。冬枝と麻雀小町の捜索です」

「パパ、仕事多くねえ?中間管理職は大変ね」

「だまらっしゃい!!!」

 霜田の金切り声に、話していた栗林たちがちょっと驚いて振り返る。

 霜田は、照れくさそうに咳払いを挟んだ。

「…組長は病気の身ですし、若頭が彩北から動くわけにはいきません。この私が動くしかないでしょう」

「つったってよぉ。パパにまで何かあったら、美佐緒ママもうちの鈴子も泣くぜ。俺も泣いちゃう」

 嵐からヒゲ面で頬ずりされ、霜田がおぞけをふるった。

「ええいっ、私にも東京にコネぐらいあります!無為無策で来ているお前たちと一緒にするんじゃありませんっ!」

「出たとこ勝負、がワイルド嵐クンのモットーなんで」

 そう言って、嵐がビシッと敬礼のポーズを決めた――その時だった。

「ん?」

 頭上に何か光るものを見つけて、嵐の目が見開かれた。

「伏せろっ!」

 嵐が大声を上げたのと、音もなく銃弾が発射されたのとは、ほぼ同時だった。

「うっ…」

 呻き声を上げて倒れたのは、マユミだった。

「奥様!」

 九条が慌てて抱き起こしたが、マユミのドラジェブルーのスーツの腕がみるみる血に染まっていく。

「刺客か…!」

 栗林はビル群に目を凝らしたが、太陽を反射してぎらつくシルエットには、もう人影の一つも見つからなかった。

「救急車呼んで来る!」

 嵐がすぐに本社ビルへと駆け戻り、霜田がセドリックの扉を開けて盾代わりにした。

 九条に抱えられ、苦しげな表情を浮かべるマユミを見下ろし――栗林は唇を噛んだ。

 ――どうして、こんなことに…!



 東京から遠く離れた北の街――35年前の大羽。

 深夜の病室で、秋津カグラは肩を震わせていた。

「申し訳ありません……私があの子をちゃんとした身体で産んでやれなかったばかりに……」

 18の年に大羽の雄・秋津イサオと結婚して3年――ようやく授かった長男の誕生は、夫婦にとって最大の吉事となるはずだった。

 ところが、生まれてきた息子――ユタカは、心臓の病でひと月も生きられないと告げられた。

 あまりにも残酷な現実は、若い夫婦をこれ以上なく打ちのめした。

 ――ああ…私が代われるものならば代わってやりたい…。

 夫と息子への済まなさで、カグラは顔を上げられなかった。ユタカが哀れでならず、胸が張り裂けそうだ。

「申し訳ありません…」

 ベッドの上で謝り続けるカグラを、イサオが強く抱き寄せた。

「大丈夫だ。何ともねえ、何ともねえ。カグラ…」

 そう言うイサオの声も、震えていた。

「イサオ様…」

 イサオは安心させるように、カグラの髪を何度も撫でながら――険しい顔付きで、何かを考えているようだった。

 やがてイサオは、カグラに休んでいろと命じて、自身は病室の外へと出て行った。

 イサオが帰って来たのは、それから1時間も経たない頃だった。

「カグラ……」

 イサオの憔悴した表情を見て、カグラは顔色を変えた。

「イサオ様。まさか、ユタカに何か…」

 イサオはベッドの横にある椅子に腰を下ろすと、カグラの肩をガッと掴んだ。

「カグラ。ユタカを助けてえか」

 今まで見たことがないほど切迫したイサオの瞳に、カグラは息を呑む。

「どんな手を使ってでも、ユタカを助けてえか」

「イサオ…様……」

 何も言えずにいるカグラに、イサオは強い語気で言った。

「俺は助けてえ。バカな親かもしれねえが、誰に何と言われようがユタカを生き永らえさせてえ」

 イサオの手が、そっとシーツの上――カグラの身体に触れる。

「ユタカと俺は今日初めて会ったわけじゃねえ。カグラがでかしたって分かった時からずーっと、俺はカグラの腹ん中にいるユタカを愛してきた。赤ん坊だろうと関係ねえ、俺にとっちゃどんな立派な人間よりユタカが大事だ」

「イサオ様…」

 イサオの言葉を聞いていくうちに、カグラの瞳に涙が滲んだ。

 今日までの十月十日、この身にユタカを宿し、その存在を感じてきた。外で遊ぶ娘たちを見る度に、ここに子供がもう一人加わる様を思い浮かべ、笑みが浮かんだ。

 毎日、神社に祈願を欠かさず、家ではユタカのために産着を縫った。赤々と燃える紅葉も、白銀の雪景色も、ユタカと一緒に見ているのだと思った。

 カグラは、真っ直ぐにイサオの眼を見つめ返した。

「私も、イサオ様と同じでございます。あの子が生きていてくれるなら、どのような手を用いても構いませぬ」

 カグラの答えに、イサオは深く頷いた。

「分かった。せば、俺とカグラとユタカで3人、地獄に落ちるか」

 悲しげな笑みを浮かべて、イサオはユタカを救うための――恐ろしい手段を語った。

「玄武会の手を借りる――」

 玄武会――それは裏社会の人間なら誰もが知っている、幻の組織の名だった。

 イサオは戦中、任務で向かった東京で玄武会と知り合ったという。

 その詳しい経緯を、イサオは死ぬまで語らなかった。カグラを玄武会の陰謀に巻き込みたくない、と言って譲らなかったのだ。

「あいつらはとんでもねえことを企んでる。何があっても、カグラは絶対に奴らに関わるんじゃねえ」

 玄武会について語る時、イサオは普段の陽気さが嘘のように悄然としていて――明らかに、玄武会を恐れていた。

 イサオが明かしたのは、玄武会の信じがたい研究内容だった。

「玄武会は複製人間を作ってる」

「複製人間…?」

「人間から遺伝子ってやつを取って、そいつとそっくり同じ人間を生み出すんだ」

「そんなことが可能なのですか」

 それが愚問だということは、イサオのいつになく真剣な声音から伝わった。

「まんず、信じられねえ。こった話、外でしたって笑われるだけだ。だが、玄武会は実際にそれをやっている」

 しかも玄武会は、複製人間を自由自在に生み出すことが出来る。誰の複製でも、何歳でも、玄武会の望み通りの条件の人間を、短期間で製造しているというのだ。

「あいつらなら、俺やカグラの複製だってあっという間にこしゃげるさ。今の俺だろうと、ガキの頃の俺だろうとな」

「玄武会とは……そこまでの組織なのですか」

 人間の複製を生み出すなど、カグラは見たことも聞いたこともない。もしそれが本当なら、玄武会は人間の、人類の命運を握る存在なのではないか。

 イサオはほろ苦く笑った。

「あいつらがどっから来た何者かは、俺も知らねえ。知りたくもねえ。だが今、俺たちにとって大事なのは…」

 ――ユタカが生き延びるための、健康な心臓を得ること。

 カグラは悟った。

 神をも冒す玄武会の所業を、イサオが深く恐れていること。

 それでも、ユタカのために忌々しい玄武会の手を借りる決意をしたのだということ――。

「………」

 複製人間を作ることも、その複製人間から心臓だけを貰い受けることも、決して許されはしないだろう。

 たとえ誰も裁かなくとも、カグラとイサオはこの罪を一生背負い続ける。二人は、地獄の門の前に立っていた。

「俺はヤクザだ。法だ道徳だは、どうでもいい。ただ…」

 そこで、イサオの目にわずかだが涙が光った。

「何も知らねえユタカに、俺はこの世で一番おぞましいことをしようとしてる。ユタカは、何も悪くねえのに。それだけが辛い」

 カグラはそっと手を伸ばし、イサオの頬に触れた。

 イサオの頬も、カグラの手も、不安で冷え切っている。それでも、触れ合った場所は確かに温かかった。

「ユタカに死ぬまで詫びましょう。ユタカが背負う業は、全て私たちの咎。罰も報いも全て、この身に受けましょう」

「ああ。ああ…」

 イサオの涙が、カグラの指先を伝った。

 母が子を抱くように、今度はカグラがイサオを抱いた。胸を濡らす熱い涙を、自分のもののように感じながら。

 コンコン。

 どのぐらいそうしていただろうか――無機質なノック音が響いた時、カグラは何故か胸騒ぎがした。

 ――感じたこともないような、禍々しい気配。

 カグラは幼い頃から勘が良く、霊や物の怪の類に敏感だった。全身が粟立つような感覚は、或いは母親の本能だったのか。

「こんばんは。話はつきましたか?」

 シャラリ――と、男の首元で白く長い数珠が音を立てる。

 扉の向こうにいたのは、人間の皮を被った死神だった。



「私たちはユタカに、玄武会から貰い受けた心臓を移植しました」

 淡々と語るカグラの声が、迦陵殿に漂う線香の匂いに溶けてゆく。

 向き合って座すミノルとカグラの間に、しばし沈黙が降りた。

「………」

 カグラの話を聞いて、ミノルは35年前に会った男――死神のような男のことを思い出していた。

 ――やはり、あれは玄武会の人間…。

「…その男、名は何と?」

 ミノルが尋ねると、カグラは「今も同じ名を使っているかは分かりませぬが」と前置きしてから、こう答えた。

「私たちには、『不破』と名乗っていました」

「不破…ですか」

 ミノルがあの男――不破と出会ってから、既に35年が経過している。生きていれば、壮年になっているだろう。

 努めて表情を消しているのか、カグラは冴え冴えとした無表情のまま語った。

「手術は無事、成功し――ユタカは健やかに育ちました。イサオ様譲りの強さと明るさを持つ、誰からも愛される子に…」

 そこで、カグラの眼差しが翳りを帯びた。

「なれど――その代償として、イサオ様は玄武会の指図を受ける身となりました。大羽を統一し、秋津一家を興したのも、朱雀組に入ったことも、全ては玄武会の筋書きです」

「…何ですって」

 ミノルは、雷に打たれたような衝撃を受けた。

 ――イサオお兄さんの栄光…イサオお兄さんが築いた大羽の歴史が全て、玄武会のシナリオに過ぎなかったなんて…。

 兄の太陽のような笑みに、こんなにも暗い漆黒の闇が潜んでいたことに、ミノルはショックを隠せなかった。

 カグラは淡々と言った。

「ですが、イサオ様は自由を愛するお方です。たとえ玄武会の謀略の糸に操られていようと、ギリギリまで玄武会との利害を計り続け、ご自身の利益としていきました」

 どうせ操られるなら、奴らが見惚れるほどに上手く踊ってみせると――イサオは前向きだったという。

 その言葉を聞いて、戸惑っていたミノルもふと思った。

 ――そうだ。いつだって、イサオお兄さんは心からの笑みを浮かべていた。

 イサオは、玄武会からの離反を目論んだこともあったという。

「ユタカが10歳の時のことです。イサオ様は既に秋津一家の初代総長となられ、朱雀組の傘下として活躍しておられました」

 玄武会の影に怯え続けて10年。若く、野心を持ったイサオにとっては、長すぎる歳月だった。

「もうそろそろいいだろうと、一度だけ玄武会の意に背いたそうです。私も詳しくは知らされていませんが」

 そこで、ミノルはピンときた。

「それはもしや……ユタカが神隠しに遭った時のことですか」

「そうです。覚えていましたか、最高顧問」

 当時、ミノルは21歳。兄の代打ちとして、数々の麻雀勝負を闘っていた頃だった。

 ミノルもイサオも東京にいることが多かったが、その時はちょうど盆で、大羽に帰省していた。

「外で遊んでいたユタカが夜になっても家に戻らず、大羽中を秋津一家総出で探し回りました。しかし、ユタカは見つからなかった…」

 事故か、はたまた誘拐か。秋津一家の幼い御曹司が行方不明になったこの大事件は、ミノルもよく覚えていた。

 あの時のカグラとイサオはとても蒼白な顔をしていて――ただならぬ緊張感を漂わせていた。

 息子が帰って来ないのだから当然と言えば当然だが、今になってミノルは思う。

「イサオお兄さんとカグラお義姉さんは、ユタカの失踪に玄武会の影を感じていたのですね」

「はい。イサオ様が命令に背いた報復に、玄武会がよもや、ユタカを手にかけたのではないかと…」

 玄武会との繋がりは、イサオとカグラ以外は誰も知らない極秘事項だ。内心の恐怖を外に見せないようにしながらも、ユタカがどうなってしまったのかと、生きた心地がしなかったという。

「時刻が深夜十時を数え、もういっそのこと警察を頼るべきか、と私たちが考え始めた時でした。ユタカが、ふらりと帰って来たのです」

 ユタカは傷一つなく、寝ぼけ眼で戻ってきた。

 いつの間にか神社の本殿の中で眠ってしまっていた――と言うユタカに、カグラとイサオは戦慄した。

「本殿は普段、鍵がかかっていて、まだ子供だったユタカが入れるような場所ではありませんでした。私もイサオ様も、これは玄武会からの警告だと受け取りました」

 玄武会に逆らえば、ユタカの命はない。見えざる玄武会の魔の手に、イサオもカグラも屈服せざるを得なかった。

「玄武会がイサオ様に何をさせていたのか――はっきりとしたことは私も知りません。恐らく、イサオ様自身も、玄武会が描く絵図の全体像までは把握していなかったでしょう」

 イサオと玄武会の関係は、人知れず20年以上も続いた。

 朱雀組の誰一人として、組長であるイサオが玄武会の意を受けて行動しているとは知らなかっただろう。

 歳月が流れても、イサオは魂まで玄武会の犬になったわけではなかった。玄武会を倒す機を、虎視眈々と狙い続けていたのだ。

 そこで、ミノルは「まさか」と気付いた。

「イサオお兄さんが青龍会との協同を考えていたのは、玄武会獲りのためですか」

「その通り。玄武会というこの国最大の闇に立ち向かうためには、青龍会の力が必要。そのためには手段を選んではいられない――イサオ様は、そうお考えでした」

 青龍会もまた玄武会と深い仲にあることを、イサオは掴んでいた。

「青龍会――海堂は、進んで玄武会の研究を後押ししています。青龍会と玄武会とは、同じ穴の狢と言っても良いでしょう」

 カグラは、青龍会の悪名高い愚連隊『ブルー・ワイバーン』と、女を密売する巨大カルテル『アラビアン・ナイト』の名を挙げた。

「どちらも、世間に知られているのは仮り初めの姿。実際は、玄武会への人身御供だというのがイサオ様の見解です」

「バカな…!」

 カグラの話が本当だとするなら――東京で跳梁跋扈している不良たちも、彼らに拉致された女たちも、行き着く先は玄武会の実験動物ということになる。

 それに、その先にはより恐ろしい可能性が浮上する。ミノルは、声が震えるのを押さえられなかった。

「もしや…ユタカが青龍会四天王に選ばれたのは……」

「…………少なくとも、海堂はユタカの心臓の件を知っているでしょう。ユタカは青龍会と手を結ぶための人質であり、海堂にとっては興味深い玩具です」

 残酷なことを平気で語るカグラに、ミノルは戸惑いを隠せなかった。

「しかし…それでは、本末転倒ではありませんか。ユタカを救うために玄武会の力を借りたはずが、玄武会を倒すためにユタカを手放すなんて」

「私も、必死にイサオ様をお止めしました。ユタカを生贄にしないでください、ユタカを私から取り上げないでくださいと、泣いて懇願しました」

 しかし、イサオも、そしてユタカ自身も、この無謀な計画に挑んだ。

「このままでは、イサオ様もユタカも、永遠に玄武会の下僕。殺されながら生きるよりも、闘って死にたい。それが、2人が出した結論でした」

 そうして10年前、ユタカは青龍会に潜り込んだ。海堂を倒し、その背後にいる玄武会へと辿り着くために。

「勿論、イサオ様はこれまで通り、玄武会との関係を続けました。青龍会を取り込み、共に玄武会を倒そうとしていることを、悟られるわけにはゆきませぬから」

 そんな日々の中で、イサオはあの少女――夏目さやかと出会った。

「さやかさん…」

 話がさやかとイサオの出会いに到達した瞬間、ミノルの脳裏を閃光が走った。

 玄武会の複製人間――イサオを殺した『百塔』――兄の仇は夏目さやかだ、と洗脳されたミノル。

 生前、さやかを殺すと言っていたイサオ――。

 バッと勢い良く振り仰いだ先には、山のような白菊に囲まれた兄の巨大な遺影があった。

 その傍らで、未だに昏々と寝ている源清司を見て――ミノルは直感した。

 ――これ以上、ここにいてはいけない!

「カグラお義姉さん。お話の途中ですが、僕はここでお暇させていただきます」

 ミノルがすっくと立ち上がると、カグラが小さく首を傾げた。

「おや。もう、よろしいのですか」

「ええ。やはり、栗林を一人で行動させるのは聊か心配でして。いい年をして世間知らずなものですから…」

 ミノルは軽く微笑むと、中折れ帽を押さえて義姉に礼をした。

「お話を聞かせてくださり、ありがとうございました。また会いましょう」

「ええ。私はいつでもここにおりますゆえ」

 カグラは慇懃に礼をして、侍女たちにミノルを迦陵殿の出口まで送らせた。

 駐車場でモーリス・マイナーに乗り込んだミノルは、すぐに車を発進させた。

 ――僕としたことが、少々迂闊でしたね……。

 イサオは死んだ。それは、確かにミノルと秋津一家にとっては大きな出来事だった。

 ――ですが、玄武会にとっては何も変わらない。ユタカが玄武会から貰い受けた心臓で生きているという事実も、変わらない。

 つまり――イサオ亡き後も、カグラの背後には玄武会が潜んでいる。

 


 ミノルが辞した後、迦陵殿にはカグラと、寝ている源の2人だけになった。

「………」

 カグラはミノルが去った方向をしばらく見つめていたが、やがてふっ、と笑みを浮かべた。

「相変わらず、最高顧問は勘がいいですね。気配を隠すために源を寝かせておいたのですが、あなた様の弟の目は誤魔化せなかったようです」

 カグラがイサオの大きな遺影を振り返ると――遺影が、ガタガタッと上下に動いた。

 扉のように開いた遺影から、長身の男がぬっと出て来た。

「やれやれ。あんな白髪のオッサンが弟って言われても、ぞっとしねえぞ」

 男はイサオに瓜二つ――正確には、20代の頃のイサオに生き写しだった。

 仏壇からひょいっと飛び降り、男はカグラの隣に腰を下ろした。

「あいつ、ユタカの話しか聞いていかなかったな。肝心な話はこれからだってのに、せっかちな奴」

「それだけで、最高顧問には十分なのでしょう。賢い人ですから」

「ふーん。名探偵ってか」

 男が無遠慮にカグラの膝に寝っ転がると、カグラはくすっと笑い声を立てた。

「まあいい。今日は、ミノルの元気そうな面が見られて満足だ」

「はい」

「見てろよ、カグラ。イサオが大事にした物は、全部俺が守ってやる。海堂なんかの好きにさせねえ」

「ええ。スサノオなら、きっと守れるでしょう」

 男――スサノオは、ニッと白い歯を見せて破顔した。

 その後、源が目覚める頃には、スサノオは再び仏壇の影に身を潜めていた。



 

 その夜――。

 都内の大病院の廊下で、栗林と嵐は俯いて座り込んでいた。

 ――マユミさん…。

 目の前で叔母が撃たれたこともショックだったが、その衝撃が落ち着いてくると、栗林の胸にはより深刻な現実が去来した。

 ――相談役が桃華組のヘリを撃墜した、このタイミングでマユミさんを狙撃するとしたら……犯人は……。

 どんなに打ち消そうとしても、最悪の予想が頭をよぎる。栗林は、ぎりっと両手を握り締めた。

 ――ミノルさん…俺はどうすれば…。

 その時、足早にこちらへと近付いてくる、革靴の音が廊下に響いた。

 ダークカラーのスーツの細身の青年――九条と、朱雀組・秋津一家相談役、秋津ススムだった。

「相談役!」

 栗林が慌てて立ち上がると、ススムが手で制した。

「済まなかったな、栗林。お前にまで付き添ってもらって」

「相談役…。あの…」

 言わなければならないことは山ほどあるのだが、言葉が出てこない。

 しどろもどろの栗林に、ススムはいたわるような眼差しを向けた。

「マユミちゃんのことなら、心配するな。銃弾が腕をかすめただけで、命に別条はないそうだ」

「で、ですが…俺が傍にいたのに何もできず、申し訳ありません」

 栗林がやっとそう言って頭を下げると、ススムは鷹揚に首を振った。

「だから、気にすんなって。この程度の襲撃でうろたえてたら、俺たちの稼業はやってられないだろ」

 まだ何か言おうとする栗林を遮って、ススムは病室を顎で示した。

「マユミちゃんが、お前と話したいってよ。時間、大丈夫か」

「あ、はい…」

 それから、ススムは栗林の隣にいる嵐に気付いて、苦笑した。

「そいつ、本当について来てたのか。物好きな奴だな」

「ああ…春野さんは…」

「いいよ、だいたい聞いてるから。それより、霜田さんはどうしたんだ?」

 ススムの問いに、嵐が肩をすくめた。

「霜田のパパさんなら、別行動ですってよ。この大都会を舞台に、冬枝王子とさやか姫を探すアドベンチャーに繰り出したんス」

 嵐のふざけた説明に、ススムは「そうか」とあっさり納得した。

 ここで待っている、という嵐と九条を残し、栗林とススムはマユミのいる病室へと入った。

「マユミさん。怪我の具合はいかがですか」

 恐る恐る尋ねる栗林に、マユミがベッドの上で口元を綻ばせた。

「もう、栗林君にそんな顔をされたら、私のほうが不安になっちゃうわ。大したことないから、安心してちょうだい」

「はあ……」

 確かに、マユミは腕に包帯を巻かれているだけで、顔色も良さそうだ。栗林に見せている笑みも、強がりではないのだろう。

 それでも栗林は、現実を直視せざるを得なかった。

「…マユミさんを撃ったのは、桃華組ですか。ヘリを落とされたことに対する、報復として」

 つまり、ユタカがマユミを銃撃させたのだ。

 大羽にいた頃の、明るく家族想いのユタカしか知らない栗林にとっては、あまりにも信じがたい――信じるのが辛い事実だった。

「栗林君…」

 マユミは伺うように夫を見てから、ふと窓の外に目をやった。

 人工の光がどこまでも瞬く、東京のビルの海――。

「…ユタカのせいじゃないわ。これは、ユタカの人生を生贄にした代償なんだから」

「マユミさん…」

「10年よ。二度と戻らない歳月を、私たちはあの子から奪った。そして、あの子はもう後戻りできなくなった。これは、そういうことなのよ」

 ユタカが青龍会に入ったということの意味を、マユミは滾々と諭しているかのようだった。

「ユタカは人を愛し、愛される子。だけど、あの子は一つだけ忘れてしまったことがあるの」

 マユミは、悲しげな笑みで栗林を見た。

「自分を愛することよ」

「………」

「ねえ、栗林君。あなたは信じてあげてね。ユタカが本当は、とても優しい子だってことを」

 ユタカに撃たれたマユミその人から言われ、栗林はどう返してよいかわからなかった。

 ――俺は…何を信じればいいんだろう…。

 そんな栗林の迷いを察したのか、ススムが口を開いた。

「青龍会と東京で駆け引きを打つってのは、こういうことだ。怖気づいたなら、大羽に帰れ」

「相談役…」

 厳しい言葉とは裏腹に、ススムは軽快な笑みを浮かべていた。

「会社じゃ朱雀組から離脱するだの、秋津一家が解散するだの、随分ふかしてくれたそうじゃないか。その威勢はどこいったんだ?」

「あっ、いや、あれはその…」

 一瞬、言い訳をしそうになった栗林だったが、ススムの眼鏡の奥の瞳が、穏やかにこちらの本音を待っていることに気付いて――居住まいを正した。

「…言い過ぎたことは謝ります。でも、俺たちは本気です」

「ほう?」

「確かに、ユタカさんは大切な使命をもって青龍会に入りました。でも、相談役も、マユミさんも、ユタカさんも…もう一度、家族に戻らなきゃいけないんです。4代目だって、きっとそのおつもりだったはず」

 うまく言えないが、それが栗林の答えだった。

 ――秋津一家がバラバラになることなんて、きっと誰も望んでない。

 栗林の顔付きを見て、ススムがふっと目を細めた。

「栗林も変わったなぁ。お前、ミノルと一緒にいないときの方が元気なんじゃないか?」

「えっ…」

「ようやく、人生の主役が自分だって気付いたんだな。ずっと、ミノルや死んだアカネの影みたいに生きてきたもんな」

「う…」

 ススムから意外と深いところを突かれ、栗林はちょっと言葉を失う。

 ススムは、腕を組んでうーむと唸った。

「ま、兄貴の考えは俺にも分からん。死んじまったしな」

「はあ…」

 ポン、とススムが栗林の肩に手を置いた。

「今度のことは、本当に気にするな。お前らといる時にマユミちゃんが撃たれたのは、単なる偶然だ」

「で、ですが…」

「俺もマユミちゃんも、そんな生ぬるい覚悟で生きてねえよ。だから、お前も胸張っていけ」

 ススムとマユミは、互いに目配せして笑った。

 栗林はふと、米倉から言われた言葉を思い出した。

 ――また『覚悟』か…。

 己に出来る覚悟とは、どんなものなのか。栗林にはまだ、その答えは見えそうにない。



 代議士一家・灘氏の邸宅で、白衣の集団がある一室に集まっていた。

 消毒液の香りを漂わせながら、彼らは整然と作業に当たった。機器を操作したり、記録を取ったり、その間、無駄口一つ叩かない。

 その中心で、ひとしきり腕を取られたり口を開けられたりしながら、冬枝は面食らっていた。

 ――俺一人に、なんつー大袈裟な…。

「おじさま、今日はうちの主治医の先生がいらっしゃるの。おじさまのこともお願いしてあるから、お身体の具合を見ていただいてね」

 習い事から帰ってきた佳代からそう言われた時は、てっきり灘家の主治医が一人だけ来て、冬枝をこっそり診て終わる程度のものをイメージしていた。

 ところが、実際にやって来たのはこれだ――灘家の主治医御一行様。

 冬枝は怪我の具合のみならず、視力・聴力、身長に体重に座高に血圧を測られ、挙句の果てには胸にぺたぺた吸盤を貼られてエックス線検査、ときめ細やかな精密検査をされてしまった。

 所狭しとひしめく医療機器に囲まれて、冬枝は密かに首を傾げていた。

 ――これが灘家じゃ当たり前なのか…?金持ちはやることがいちいち仰々しいねえ…。

 と考えてから、冬枝はいや、とあの嫌味ったらしい上流階級の爺を思い出した。

 ――ここにゃ、いつくたばるかわからねえ爺さんもいるんだったな。そりゃ、医者を大勢抱えてるわけだ。

 問診の後、医者は冬枝本人ではなく、傍らで心配そうに見守っていた佳代に説明した。

「怪我の具合はおおむね良好です。このまま、安静を心掛けていればよろしいかと」

「ありがとうございます、先生」

 神妙に頭を垂れる佳代は、まるで冬枝の奥さんだ。お人形のような縦ロール髪も、瞳の大きな顔立ちも、愛らしい少女そのものでしかないというのに。

 ――こんなに若くて美人なご令嬢に面倒みられるなんて、みょんけた気分だな…。

 広く豪奢な部屋に閉じ込められ、医者軍団の検査を受け、美少女に世話をされている。

 何だか、この灘家で起こる全てが、夢の中のように現実味がない。冬枝は、自分が壮大なままごと遊びの渦中にいる気がしてきた。

 ――俺はなんで、こんなところにいるんだっけ…?

 いつの間にか、白衣の集団は整然と退室していた。部屋を埋め尽くしていた医療機器の類は消え去り、元のがらんとした部屋に戻っていた。

「おじさま。今日は、佳代が晩御飯を作って差し上げますわ」

 佳代の長い睫毛が、至近距離でぱちぱちと瞬く。

 ぼんやりしていた冬枝は、我に返った。

「えっ…?飯ですか」

「そうよ。と言っても、おじさまはまだ安静にしなければならない身の上ですから、お粥ですけれど」

「お粥か…」

 肉とか食いてえなあ、と思わず肩を落とす冬枝に、佳代が腕をまくった。

「安心してくださいませ!佳代のお粥は、あのまずぅーいお湯ご飯じゃなくってよ。美味しいお出汁にふわふわの卵もつけた、身体も心もポッカポカになる一品ですわ」

 そこで、佳代の手がそっと冬枝の頬に触れた。

 上の空だった冬枝は、その細く柔らかな感触にハッとした。

 佳代のアメジストのような瞳が、困ったように笑いながら冬枝を見つめていた。

「…きっと、おじさまも元気になれますわ。佳代、一生懸命頑張りますから」

 ――佳代さん…。

 何もかもままごとめいたこの灘家で――能面のような藤浪やその部下たちとは違い、唯一、正面から冬枝を見ている人間がそこにいた。

 ――そうだ…俺がここにいるのは、佳代さんがそう望んでくれたからだ。

 この広すぎる部屋も、手厚い検査も、ままごとなどではない。佳代が、冬枝のために用意した現実だ。

 冬枝はようやく、今のつかみどころのないこの状況に、自分の着地点を見つけた気がした。目の前にいる、健気な少女の中に。

「さあ、少しだけお待ちになっていてね、おじさま。材料の下ごしらえはもう済んでいるから、それほど時間はかからなくってよ」

 すっくと立ち上がる佳代の手を、冬枝はおもむろに掴んだ。

「佳代さん」

「おじさま…?どうなさったの」

 頬をバラ色に染める佳代の腕から手を離し、冬枝はよいしょとベッドから起き上がった。

「手伝いますよ、俺も」

「…もう、駄目よ、おじさまったら。安静にしてて、って先生も仰ってたじゃない」

 そう言いながら、佳代は嬉しそうに笑って、立とうとする冬枝の肩を押し戻した。

 無邪気な佳代の笑みを見ているうちに、冬枝も自然と気が緩んでいた。

 ――ああ…これはこれで、いいのかもしれないな。

 佳代の幸せ――それが今、冬枝が唯一守れる確かな現実だった。

「………」

 庭から藤浪がじっと自分たちを見ていたことに、冬枝は気が付かなかった。



 周囲のビルを睥睨するかのように聳え立つ、30階建てのタワーマンション。

 富裕層ばかりが住まう中でも、最上階はなんと、たった一人の男が1フロアを丸ごと独占している。

 淡いピンク色の扉には、白抜きで桃の花の紋が描かれ――『桃華組事務所』と、表札が下ろされていた。

「ああ。原宿2号店のほうも、引き続きよろしく頼む」

 この家の主・秋津ユタカは、受話器を手にしたまま、窓の向こうに広がる東京の街を見つめた。

「ところで――例の女だが、様子はどうだ」

 相手の返事に頷き、ユタカは「そうか」と言った。

「油断はするな。ボクの勘だと、そう遠くないうちに夏目さやかが来る」

 電話の向こうからは、戸惑うような声が聴こえてきたが、ユタカは首を横に振った。

「ただの小娘だと侮らないほうがいい。夏目さやかは、女の顔をした狐だと思え」

 厳重な警戒を命じて、ユタカは電話を切った。

「…ん?源、戻っていたのか」

 いつの間にか、観葉植物の横にひっそりと源が立っていた。ユタカが出入りを許していることもあって、普段から音もなく現れ、気が付くと消えている。

「無事だったか。途中で電話が切れたから、心配していたぞ」

「………」

 源はしばらく、どんよりと黙り込んでいたが、ふと思いついたように言った。

「若頭の母上は美人ですね」

「ああ。ママと会ったのか」

 ユタカはキッチンへ向かうと、2人分のコーヒーを入れた。

「迦陵殿の扉と天井にいる迦陵頻伽は、パパがママをモデルにして描かせたんだ。一緒にいる極楽鳥がパパなんだ」

「そうですか」

 いつになく源の口数が少ないが、ユタカは気にしなかった。

 源が母――カグラと会い、何を話したのか。その眼を見れば、おおよそ分かったからだ。

「源。ボクはついさっき、マユミ叔母さんを狙撃させた」

 ユタカがぽつりと言うと、源が顔を上げた。

「…ヘリを落とされた礼ですか」

「ああ。こうでもしないと、会長に言い訳が立たんからな」

 この手のことには慣れているので、ユタカも源も顔色を変えない。

 ユタカは常に、綱渡りをしている。青龍会を倒そうとしながら海堂に仕え、秋津一家の生まれでありながら、彼らに銃を向ける。

 全ては青龍会を葬り――その背後にいる玄武会をも倒すため。

 そこに躊躇はない。父、そして自分自身を縛る鎖を断ち切ることこそ、ユタカの本懐だ。

 ただ――何かを犠牲にする度に、ユタカの脳裏に同じ顔が浮かんだ。

「あいつも、これで分かったかな。青龍会に歯向かうことが、どれほど恐ろしいことかを」

「…クリリンですか」

「はっきり言うな!」

 ちょっと赤面してから、ユタカは感傷的なムードを切り上げた。

「そんなことより、源。戻って来て早々で悪いが、キサマにはまだまだ働いてもらうぞ」

 夏目さやかが来る。その予告を聞いて、源は眉をひそめた。

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