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65話 悲劇のプリンス・秋津ユタカ・前編

第65話 悲劇のプリンス・秋津ユタカ(前編)


 源清司と秋津ユタカとの出会いは、10年前に遡る。

 その日、恋人たちで賑わう海辺の観光地に、源は一人で訪れていた。

 ――本当は、二人で来るはずだったんだがな。

 源という男の常として、女との恋愛は激しく、情熱的で、そして必ずエンドマークが付いた。ここに来ようと約束していた女ともまた、涙の別れを迎えていた。

 感傷旅行なんて、己らしくもなかったが、旅券を破り捨てる気になれなかった。もう少しだけ、女との思い出に浸る時間が欲しかったのかもしれない。

 ――それに、新しい出会いがあるかもしれねえ。

 恋多き男は、前向きである。単身やって来た観光地で、源は青々とした緑よりも、おめかしした女たちをあれこれと物色した。

 人目を憚らぬ恋人たちには閉口するが、自然が織りなす景色と澄んだ空気(そして行き交う女たち)は、傷心の源を癒してくれた。

 恋人との悲しい別れも、美しい思い出に出来そうだ。たまには一人旅も悪くない、と源が海に沈む夕日にグラスを傾けた時だった。

「いやっ!追いかけて来ないで!」

 ――若い女の声!

 源は、反射的にコテージの2階から飛び降りていた。

 浜辺へと駆け抜けると、目鼻立ちの濃い美女が、複数の男たちに取り囲まれているところだった。

 ――色男には、恋と喧嘩が付き物ってな。

 早速、構えた源だったが、それより速く、颯爽と男たちを蹴散らした人物がいた。

「!」

 電撃のように素早い、拳と蹴りの乱打。飛び蹴りの滞空時間の長さときたら、宙に浮いているのかと錯覚するほどだ。

 源はせいぜい、おこぼれのようにあぶれた男たちを蹴り飛ばすぐらいだ。それが自然な役回りになってしまうほど、源の前に現れた人物はその場の主役を勝ち得ていた。

 ――何者だ、こいつ。

 この源清司より強い男など、そうそういない。あっという間に無頼漢たちを片付けて、その人物は一人だけスポットライトを浴びているかのように輝きを帯びていた。

「ありがとうございます。何てお礼を言ったらいいか…」

 美女は、源と人物の双方に丁寧に礼を述べた。

「気にしなくていい。女の子を守るのは、男の当然の義務だ」

 人物が口にしたのは、まさに源の信条そのものだった。

 腕っぷしとは裏腹に、色白で細っこい、いかにも現代っ子と言った頼りない見た目の若造だ。それなのに、心の奥に誰よりも強いものを秘めている。

 ――面白そうなガキだな。

 送っていこうという源たちの誘いを断って、美女がその場を去った後――源は、非常に珍しいことに、自分から若者に声をかけた。

「俺は源清司。てめえ、只者じゃねえな」

 すると、若者はゆっくりと振り返った。

「てめえじゃない。ボクは秋津ユタカだ」

 秋津――彩北にいた頃の記憶が、源の脳裏をよぎる。

 彩北の白虎組と覇を競う、小さいながらも固い結束を誇る組織。

「まさか、秋津一家の人間か」

「そうだ」

 若者――秋津ユタカは、真正面を向いてふんぞり返った。

「栄えある朱雀組4代目、秋津イサオの長男だ。このボクと知り合えたことを、光栄に思うがいい」

「……………」

 ――やっぱり、ただのバカかもしれねえ…。

 超人的な空手の強さは、偉大な親からの遺伝に過ぎないのか。大羽の秋津一家が空手に力を入れていることも、秋津イサオが東北出身でありながらあの朱雀組の4代目になったことも、源は知っていた。

 源の心情は知る由もないユタカは、上から下までじろじろと源を値踏みした。

「キサマ、それなりに強そうだな。どうだ、ボクのボディガードにならないか?」

「ボディガード…?必要か?」

 世間知らずそうなボンボンとはいえ、ユタカの強さは本物だ。用心棒など付けなくても、ユタカ一人で十分戦力になるだろう。

 そこで、ユタカの顔付きが真剣になった。

「源。キサマは、青龍会のことをどう思う」

「青龍会……」

 東京にいれば、嫌でもその名前を耳にする。

 花を手折り、或いは蝶の羽根をむしる。そういう者たちの総称だ。

「最低最悪のクズ共だ。あんな奴らに極道を名乗られたんじゃ、世も末だ」

 源は、吐き捨てるように言った。

「そうか。ボクも同じ意見だ」

 ユタカはそう言って、星が見え始めた夜空を見上げた。

「ボクはこれから、青龍会を倒すために東京へ行く」

「青龍会を倒す…?本気で言ってるのか」

「本気だ。たとえ何年かかろうとも、青龍会をこの世から葬り去る。それが、ボクの使命だ」

 青龍会を葬る――。

 青龍会を嫌悪していながら、奴らを排除するという発想が今まで自分になかったことに、源は初めて気付いた。

 ユタカのような青二才と違い、大組織と真っ向から喧嘩するなんて、源の流儀ではない。裏稼業はあくまで源の華麗な人生を飾る一部に過ぎず、任侠などという言葉は暑苦しい、と見向きもしなかった。

 だが――もし本当に、青龍会をこの世から消し去ることが出来たなら。

 ――奴らに泣かされる女はいなくなる。

 あの遠い彩北から東京に来て幾歳月――源は、青龍会の卑劣さをこれでもかと目の当たりにしてきた。

 女を犠牲にするのが常の裏社会とはいえ、青龍会は度が過ぎている。源は思った。

 ――残りの人生、女の笑顔を増やすために捧げるのも悪くねえ。

 源も既に41歳。泡沫のような恋を繰り返すことに、少し空しさを覚えていたのも事実だ。

「いいだろう。秋津ユタカ、あんたを俺の雇い主にしてやる。光栄に思え」

 口振りを真似する源に、ユタカが苦笑した。

「…食えない奴だな。まあいい、これからよろしく頼むぞ」

 力強い握手を交わし、ユタカはニコッと笑った。

 それから、ユタカはポロシャツのポケットから、ごそごそと何かを取り出した。

「ちょうどいい。キサマも付き合ってくれ」

「何ですか?」

 源の雇い主になった以上、年下相手でも一応、敬語は使う。

 海へと歩きながら、ユタカは説明した。

「ここには、けじめを付けに来たんだ。青龍会を倒すために、ボクは今までの自分をここで殺す」

 そう言ってユタカが手にしていたのは、鈍色のナットだった。

「これは指輪なんだ」

「ずいぶん貧相な指輪ですね」

 源の正直な感想に、ユタカは目尻を釣り上げたが、「ふん」と言ってそっぽを向いた。

「それも、間違ってはいないかもしれんな。きっと、これをくれた奴もそう思っていただろう」

 だが、ユタカにとっては大切なものなのだと、その瞳から伝わった。

 ――そんなゴミみたいなものを大事にするほど、惚れてたんだな。

 源は、捨てられなかった旅券のことを思い出した。女の分の旅券は、今も源の鞄の中に入っている。

 ユタカが寂しげに言った。

「これをくれた奴とも、もう二度と会うことはない。会っちゃいけないんだ」

「それが、あんたのけじめですか」

「ああ。実は、パパが縁談を用意してくれたんだ」

「どんな女ですか」

 天下の秋津イサオが一人息子のために用意した花嫁候補となれば、さぞかし上玉に違いない。

 急に熱心に話に食いついてきた源に、ユタカは軽蔑の目を向けた。

「ボクじゃない。この指輪をくれた奴にだ」

「はあ」

「ボクが未練を残さないよう、パパが計らってくれたのさ。ボクの気持ちはパパも知ってるから」

 つまり、ユタカは打倒青龍会のために、惚れた相手を諦めるということらしい。

「それでいいんですか、あんたは」

 源の問いに、ユタカは即答した。

「構わん。ボク一人の感情より、大切な皆を青龍会から守ることのほうが大事だ」

 ユタカの眼差しは、揺るぎない。源は何か言いたくなったが、その瞳の前では野暮に思えた。

 ――決意は本物みたいだな。

 源は、言おうとした言葉を飲み込んだ。源もまた、ユタカと同意見だからだ。

 砂浜に辿り着くと、ユタカはナットをぎゅっと手に握り締めた。

「源も、見届けてくれ。ボクの決意を」

「はい」

 ユタカは「えーいっ!」と叫んで、手の中のナットを振り上げ――その体勢のまま、固まった。

「ぐうううっ……」

 ナットを握り締めた手が、プルプルと震えている。源は嘆息した。

「本当は捨てたくないんじゃないですか。それ」

「うっ、うるさい!ボクはそんな、生半可な覚悟で来たわけじゃないんだぞっ!」

 だが、2分経っても、10分経っても、ユタカはナットを海に投げ捨てることが出来なかった。

「くうううううう……。ボクは未熟者だ…」

 砂浜でうなだれるユタカの肩を、源は優しくポンと叩いてやった。

「そんなもん、捨てなくたってあんたは強いですよ」

「そ…そうか?」

「どうせ二度と会わないんだから、形見ぐらい持ってたってバチは当たらないでしょう」

 源の渾身の慰めに対し、ユタカは立ち上がって抗議した。

「形見なんて言うな!クリリンが死んだみたいだろう!」

「クリリン?」

「あっ、いや……」

 目を泳がせるユタカに、源もそれ以上は追及しなかった。

 何はともあれ、ユタカはナットを捨てずにポケットにしまった。

 翌日、助けた美女が礼を言いに、源とユタカの元を訪れた。

「実は、あなたたちが倒した男たちは、我が家の使用人たちだったんです。私が婚約を嫌がって逃げようとしたら、総出で追いかけてきて」

「そうだったのか」

 そうとは知らずにコテンパンにしてしまった――…。

 ユタカと源は、思わず顔を見合わせ――小さく笑った。

 美女もまた、晴れやかな笑みを浮かべていた。

「親が決めた相手となんて、絶対に結婚したくないと思っていたけれど…今度のことで、父にひどく叱られた私を、彼は必死になって庇ってくれました。悪いのは私なのに」

 今は、婚約に前向きだという。美女は、改めて源とユタカに頭を下げた。

「ありがとう。あなたたちのおかげです」

「幸せにな」

 源とユタカの声が揃い、また顔を見合わせた。今度はしかめっ面だが。

 観光地から東京へ向かう電車で、ユタカはふと源に尋ねた。

「源。キサマ、独身か?」

「美男は所帯持ちに見えませんか」

 源の返答に顔を引きつらせながら、ユタカは「そうか…」と頷いた。

「ボクには姉が3人いるが…お姉ちゃんたちも、ママも、みんなすごく幸せそうだ。きっと、素晴らしい伴侶に出会えたからだと思う」

「ご家族、是非紹介してくれませんか」

 またも美女情報に食いつく源を無視し、ユタカは話を進めた。

「でも…あいつは人見知りだから、お見合いをすごく嫌がってさ。しまいには、ボクより先に結婚しない、なんて言い出して…まったく、いい年をして呆れたものだ」

「クリリンですか」

「ハッキリ言うな!」

 真っ赤になって突っ込んでから、ユタカは咳払いをした。

「…それじゃあクリリンは一生独身だよ、って言ってしまうところだった。バカだな…」

 一瞬、ユタカの瞳に涙が滲んでいるように見えたが――ユタカは、隠すようにぷいっと顔を背けた。

「…くだらない話をしたな。忘れてくれ」

 車窓に映る景色が途切れ、汽車は暗いトンネルへと入っていった。

 源41歳、ユタカ25歳。それから、青龍会での血の滲むような日々が始まった。

 青龍会という権力と欲望の汚濁の渦中にあっても、ユタカは染まらなかった。出会った頃の潔癖な瞳のまま、青龍会四天王へと上り詰めた。

 ユタカの慧眼と源の腕力、桃華組の力を以てしても、救える女の数はたかが知れていた。挫折と後悔の数を数えれば、きりがない。

 それでもユタカは曲がらず、真っ直ぐに生きた。あのナットの指輪を、密かに胸に抱きながら。

 ユタカの最愛の父・秋津イサオが殺されたのは、ユタカと源が青龍会に入って10年経った年のことだった。



「……!」

 源は、ハッと夢から覚めた。

 どのぐらい意識を失っていたのか――それすらも分からないほど、完全に昏倒していたようだ。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、どこまでも続く真っ白い天井――を背にした、妙齢の美女だった。

 謹厳そうな顔立ちに、紅色の唇が映える白い肌。黒地に金の刺繍が入った着物も艶やかで、美女のつんと澄ました表情に匂い立つような色気を添える。

 何もかも見抜くかのように鋭く、だが奥底に深い慈愛を湛えた眼差しに、源は既視感があった。

 ――若頭に似ている。

「気が付きましたか」

 美女は、低く艶のある声で言った。

「ここは…天国か?」

 源は、つい開口一番そんなことを言った。大羽で響子に会ったことといい、ユタカに仕えるようになってから、非常に女運がいい。

 美女は、固い唇をほんの少し綻ばせた。

「そうかもしれませんね…。ここは、あのお方を偲ぶ場所ですから」

「あのお方?」

 美女が、黒い着物の裾からすっと白魚のような手を伸ばす。

 その手が指し示す先を目で追った源は、唖然とした。

 ――秋津イサオ。

 大量の白菊に囲まれた秋津イサオの遺影が、燦然とそこに輝いている。

 それは仏壇というよりも祭壇といったほうが相応しい、壮麗な仏間だった。

 源は、この場所と美女の正体を悟った。

「秋津…カグラか」

 源の誰何に、美女――秋津カグラは、にこりともせずに頷いた。

「ユタカが世話になっています」

「ここは…朱雀組の迦陵殿か」

「いかにも」

 迦陵殿――朱雀組の代々の組長が隠居所として居住した、広大な邸宅だ。

 代替わりの度に増築や改築を重ね、さながら城塞のようになっている。

 今は4代目・秋津イサオの妻であるカグラが、イサオの霊廟としてここを管理していた。

 源は、軽く頭を押さえながらゆっくりと起き上がった。

「…俺は何故、こんなところにいるんだ。病院にいたはずだが…」

 そこで、源は不意に思い出した。自分が何故、意識を失い倒れたのかを。

 ――さやかだ。

 電話ボックスでユタカと話している最中、背後にさやかが立っていた。長い髪に白いリボンをつけた姿で――…。

 そこから先の記憶はない。だが、源の第六感が、ある事実を告げていた。

 ――違う。あれはさやかじゃない。あれは……。

「生まれ変わり」

 カグラの呟きに、源は驚いて顔を上げた。 

 長い前髪で半分覆われたカグラの美貌は、謎めいているようにも、ひどく真剣なようにも見えた。

「ユタカは、とても強い子です。天与の才に恵まれ、人を愛する心を持っている。あの子はいつか、イサオ様すら超えるでしょう。けれど…」

 カグラは、黒々とした濃い睫毛を物憂げに伏せた。

「この穢れた世界で生きるには、純粋過ぎる子です。源……あなたの助けがなければ、あの子が青龍会四天王と呼ばれることもなかったでしょう」

「それは違う。若頭の実力だ」

 お世辞でなく、源の本心だった。桃華組に女が集まるのも、女たちが桃華組で忠実に働くのも、全てユタカの気性によるものだ。

 カグラは「ありがとう」と言って目を細めた。

「源。ユタカに仕えるあなたに、知ってもらわねばならないことがあります」

 それから始まった、長い長い奇談と呼ぶべき話は――激動の極道人生を送ってきた源を以てしても、拭い難いほどの衝撃と戦慄を与えた。



 時は再び遡り――真夜中の東京、『ヤマタ健康研究所』。

 兄・夏目たくみに引きずられるようにして研究室へと連れて来られたさやかは、顔を歪めた。

 ――足が痛い……。

 着陸する時に、足を挫いたような感触はあった。この分だと、折れているかもしれない。

 たくみは小型のラジコンヘリのようなものを大量に机に並べながら、ふんと鼻から息を抜いた。

「お前の巨体に轢かれたせいで、僕の研究成果が台無しだ。弁償して欲しいな」

「…悪かったね、巨体で」

 久しぶりに会う兄の嫌味っぷりは、疲れた身に染みる。さやかは、ここに来たことを後悔した。

 ――場所がちょうどいいからって、たっくんの職場になんか着陸するんじゃなかった。

 たくみが大学院で工学の研究をしながら、この広大な庭を持つ『ヤマタ健康研究所』で研究員として勤めていることは知っていた。

 恐らく、柘植もたくみの職場の近くを狙って、桃華組のヘリを撃墜したのだろう。柘植の読み通り、さやかは都会の夜空をパラシュートで飛び、ここへと落ちることに成功した。

 柘植がヘリを落としてくれなければ、さやかが源の手から逃れることは不可能だった。自由の身になった以上、ここから先は死に物狂いで行動しなければならない。

 ――そのための解は、もう頭の中に出ている。なのに…。

 たくみに座らされた硬いビニール椅子から、一歩も動けない。着陸時に足を挫き、身体もしこたま打ったのが、徐々に痛みとなってさやかを襲い始めた。

「お前、これからどうするつもりだ」

 たくみは早速、小型ヘリの修理に取り掛かり始めた。さやかのほうなど、見向きもしない。

 白衣の背中に、さやかはふうと溜息を吐いた。

「…たっくんに迷惑はかけないから、安心してよ」

「迷惑ならもうかけられてる」

 たくみはやっとこちらを振り向くと、眼鏡の奥の理知的な瞳で傲岸にさやかを見下ろした。

「どうせ、身体が痛くて動けないんだろう?そのまま、そこで一生大人しくしてろ」

「はっ。誰が」

 この通り、兄の嫌味にはさやかも憎まれ口で返すのが常である。自分の口が悪くなったのは、兄のせいだとさやかは思う。

 ――でも、これから本当にどうしよう…。

 一生とはいかないまでも、ケガが回復するまでどこかで静養しているべきか。最も現実的な解かもしれないが、それでは時間がかかりすぎる。

 ――冬枝さん…。

 冬枝は生きている。絶対に生きている。そう信じているが、立ち止まったら気持ちが揺らぎそうな気がした。

 さやかが黙り、たくみがまた何か言おうと口を開きかけた――その時だった。

「こんばんは。夏目君、調子はどうかな」

 いつの間に研究室に入っていたのか、どこからともなく若い男が現れた。

 年齢は、たくみとそう変わらないぐらいだろうか。陰気な兄と違って、ぱっと見はアイドルのような華やかな顔立ちをしている。

 それなのに、不思議とたくみの友人にも、ここの職員にも見えない。もっと言えば、堅気には見えない――と考えかけて、さやかは首を横に振った。

 ――研究者って、変人が多いし…この人も、たっくんのお仲間かもしれない。

 男はさやかの顔を見ると、ずかずかと近寄って来た。

 シャラリ、と白い数珠のネックレスが、さやかの耳元で揺れる。

「ああ、ケガをして動けないんだね」

「えっ?」

 さやかは虚を突かれた。

 確かにケガはしているが、打撲に骨折と、外からでは見えない負傷だ。

 ――この人、どうして僕のケガを…。

 訝しむさやかに、男は黒いコートの懐から、小さな軟膏を取り出した。

「そういう時こそ、これの出番。『ヤマタ特効薬軟膏』」

 そう言って、男は何の遠慮もなく、さやかの右足を掴んで靴下を脱がした。

「あの、ちょっと…」

 思わず抵抗しようとしたが、男に足首を持ち上げられた途端、強烈な痛みがさやかを襲った。

「ぐっ」

「ああ、やっぱり折れてるね。どれ、塗ってあげよう」

 さやかが痛みで動けないのをいいことに、男はさやかの足首に軟膏をべたべたと塗り始めた。

 ――軟膏なんかで、骨折が治るわけないじゃん…。

 まるで、民間療法を本気で信じる年寄りのようだ。さやかは、思わずこんなことを口にした。

「あなた、何時代の何人ですか?」

 さやかの皮肉に、男は一瞬、瞳を見開いてから――にっこりと笑った。

「流石は夏目君の妹だ。うまいことを言う」

「はあ…」

 男は、さやかがたくみの妹だということも知っているらしい。

 戸惑うさやかをよそに、男はさやかの腕に目を向けた。

「おや、ここもケガをしているね。気の毒に」

「あっ」

 それは、さやかが縫琴の駅でミノルに撃たれた時の傷だった。産城で包帯を適当に巻いてからは、ずっと放置していた。

 男は包帯をぺっと剥がすと、さやかの腕にも軟膏を塗りたくった。

「はい、一丁上がり。我が社の軟膏はよく効くから、これでもう大丈夫だよ」

「…どうも」

 初対面の男にべたべた触られ、さやかの気分は最悪だった。

 さやかの仏頂面をどう解釈したのか、男は「ああ」と言った。

「自己紹介がまだだったね。私は、ここの所長をしている不破という者です」

「所長さん…ですか」

 男が差し出した名刺を受け取ると、確かに『ヤマタ健康研究所所長 不破慧』と記されている。

 ――所長っていうには、ずいぶん若い気がするけど…。

 男――不破は、そのアイドルめいた美形にはあまり似合わない、どこか老獪な笑みを浮かべた。

「人間の身体と健康の研究に関しては、うちの右に出るものはない。古くは平安時代から薬屋をしてきた家柄だからね」

「へえ」

 企業によくある歴史と伝統の押し売りだな、とさやかは聞き流した。

 ふと振り返れば、兄はまた小型ヘリの修理に没頭している。さやかは、素朴な疑問を抱いた。

「…前から思ってたんですけど、うちの兄ってここでなんの仕事をしてるんですか?兄が役に立てるような会社じゃなさそうですけど」

「おい、さやか!」

 話はしっかり聞いていたらしく、たくみが首だけ振り返る。

 実際、さやかはずっと不思議だった。工学畑の兄が、どうして製薬会社なんかに就職したのだろうかと。

 ――まあ、大学に引きこもって一日中機械いじりばっかりしてる、社会性ゼロのたっくんが社会人になれたってだけで、及第点だけど。

 さやかの問いに対し、不破は饒舌に答えた。

「今の時代、不老長寿を追求するためには、人体や薬の研究だけでは足りないんだ。誰もが健康的な生活を送れるよう、もっと包括的なシステムを構築する必要がある。そこで、君のお兄さんの力を借りたいというわけさ」

「ふーん」

 よくわからないが、企業の説明なんてこんなものだろう。さやかもさほど興味がないため、それ以上は聞かなかった。

 不破は、たくみの肩をポンと叩いた。

「夏目君はうちの大事なエースなんだから、身体は大事にしてくれたまえよ。君は徹夜のし過ぎだ」

「ここでの契約時間に制限はされていませんから」

 これまた、兄らしいつっけんどんな返事だ。慣れているのか、不破も気にしない。

「そして、夏目君の妹である君もまた、我々にとっては大事な家族だ。今後も、困ったことがあれば何でも頼ってくれ」

「どうも」

 愛想のいい人だな、とだけ思って、さやかは不破の背を見送った。

 不破がいなくなると、たくみが手元の工具箱をパタンと閉じた。

「…所長からもああ言われたし、今日はもう帰るかな。変なものがいきなり空から降ってきて、疲れたし」

「悪かったね、変なもので」

 兄の嫌味に対する返事のレパートリーも、今のさやかにはない。何なら、今後の展望も思いつかない。

 ――本当に、どうしようかな。これから…。

 思わず天を仰いださやかは、出入口の傍にコーヒーマシンがあるのを発見した。

 ――ちょっと、喉乾いちゃったな。

「たっくん。コーヒー飲んでいい?」

「はあ?会社のだぞ」

「借りるね」

 兄の返事は無視して、さやかはさっさとコーヒーマシンまで歩いた。

 コーヒーを一口飲んで、さやかはふと懐かしさに襲われた。

 ――冬枝さんと、毎日飲んでた味だ。

 よく見れば、コーヒーマシンには冬枝の家でよく飲んでいたインスタントと同じロゴが入っている。こんなありふれたコーヒーにさえ感傷を抱いてしまう自分が、さやかはちょっと情けなくなった。

 ――我ながら、センチメンタルすぎかな。

 だが、冬枝と一緒にいたあの日々が、感覚レベルで自分の身体に蘇ったことで――弱気になりかけていた心に、力が戻ってきた。

 ――これからどうするかなんて、もう頭に叩き込まれてる。今まで、何度も何度も考えて、シミュレーションしてきたんだから。

 解は、自分の中にある。あとはそれに従うだけだ。

 気持ちがスッキリしたところで、さやかはあることに気付いた。

 ――あれ?僕、立って歩けてる…。

 このコーヒーマシンまで数歩歩いたが、何の支障もなかった。試しにもう一度、その辺を歩いたりスキップしたりしてみたが、全く痛みを感じない。

 ――まさか…。

 さやかは、ハッとして右腕の袖をまくった。

 ミノルに撃たれた場所は――跡形もなく、綺麗な皮膚に生まれ変わっていた。

「…………」

 ヤマタ特効薬軟膏と、不破の得体のしれない笑みが、さやかの脳内で渦を巻く。

 考えかけたさやかは、首を横に振った。

 ――今は、僕のやるべきことをやるだけだ。

 帰り支度をする兄に、さやかはもう一つ注文をつけた。

「はあ?なんで僕がそんなことをしなきゃならないんだ」

 案の定、兄からは渋られたが、さやかには必殺技がある。

 さやかは、乾いた上目遣いと、お経のような棒読みでたくみに迫った。

「おねが~い、お兄ちゃ~ん」

「お兄ちゃんって呼ぶな!気色が悪い!」

 ――気色が悪いのは、こっちのほうなんですけど。

 というのは口には出さず、さやかはとにかくたくみに注文を実行させた。



 漆黒の体躯を飛ばし、モーリス・マイナーは東へと駆け抜ける。

 着いた先は首都――ミノルは、都会の空に聳え立つ、その巨大な宮殿を見上げた。

 ――お久しぶりですね。イサオお兄さん…。

 朱雀組の隠居所・迦陵殿。イサオは生前、よくここを身内だけの飲み会や極秘の談合などに使用していた。

 今はイサオの霊廟として、イサオの妻・カグラが取り仕切っているそうだ。カグラは毎朝、その日最初に炊いた一番飯と、故人が愛した酒を霊前に供えている。夫の遺影に語り掛けるカグラの姿は、涙なしには見られないという。

 伝聞でしか知らないのは、ミノルもまたあの事件で入院を余儀なくされ、イサオが死んでから今日までここを訪れることがなかったせいだ。

 ――よもや、こんな理由でここに来ることになるとは思ってもいませんでしたが…。

 兄の遺言を秘めた『百塔』の牌を握り締め、ミノルは顔を上げた。

 駐車場に車を停めると、いつの間にか和服を着た2人の女がミノルを出迎えていた。

「お待ちしておりました。最高顧問」

「奥様の元へご案内いたします」

 ご丁寧にどうも、と礼を言って、ミノルは軽く中折れ帽を掲げた。

 女たちは、カグラに仕える侍女たちだろう。侍女というのも時代がかっているが、実際、カグラはイサオの妻になる前から、多くの若い女を率いていた。



 秋津カグラ――旧姓・桐生カグラ。

 イサオがまだ二十歳のころ、大羽に評判の女不良がいた。

「ここらで悪さしてたチンピラをとっちめて、女たちだけで袋叩きにしたらしいぞ。おっかねな」

 幼いミノルにそう話しながら、イサオは興味津々といった顔つきだった。

「その名も『あららぎ隊』。そこの女たちはみんな、蘭の花の刻印が入ったカミソリを持ってるんだと。きっと、そのカミソリで男の急所を斬るんだな。あい、恐ろし」

 ぶるぶると肩を震わせてから、イサオはミノルの頭を撫でた。

「あーあ、そこいらの女がみーんなアカネみてえな男もどきかと思うと、大羽もお終いだなや」

「だぁれが男もどきだ」

 ちょうど後ろにいた姉・アカネが、イサオの頭をごんと拳骨で殴った。

「いってぇ!」

「イサオ、今更『あららぎ隊』の噂なんかしてんのか。話が遅ぇな」

「お国のために粉骨砕身、働いてたんだから仕方ねえべさ!」

 時はちょうど終戦後、イサオが大羽へと帰還して、まだ間もなかった。

「どーら。姉ちゃんが抱っこしてけるぞ、ミノル」

 イサオの股の辺りに座っていたミノルを、アカネがひょいと持ち上げた。

 ミノルにとってはイサオも見上げるほどに大きかったが、アカネはそのイサオよりも更に長身だった。今思えば、190cmはあったのではないか。

「あららぎ隊って、アカネお姉さんみたいな人がいっぱいいるの?」

 ミノルが率直な疑問を口にすると、アカネが笑みを浮かべた。

「あい、うちの弟たちはみんなスケベだなや。こりゃ、将来は甥っ子姪っ子が百人出来るな」

「アカネは嫁の貰い手がねえもんな」

 ゴン!

 減らず口をたたくイサオのつむじに再び拳をお見舞いしてから、アカネはミノルに説明した。

「『あららぎ隊』は、戦争で男が出払っちまって街を守る奴がいねえってんで、独身の女たちが自主的に結成した自警団なんだ。あそこにはなあ、若くて美人な女がそりゃもういっぱいいるんだぞ。平均年齢15歳、嫁入り前の生娘がわんさかだ」

「お前、それが女の口の利き方だべか」

 アカネにツッコミを入れつつ、イサオは「美女がわんさかか…」と興味深そうに顎をさすった。

 アカネはミノルを抱っこしながら、イサオをくるりと振り返った。

「特にカグラってのが一等、美人で、胸がでかい。尻もいい。脚もなかなかのもんだ。ただし、一番おっかねえから、裏じゃ『鬼姫』と呼ばれてるとか」

「アカネ、なしてそんなに詳しいんだ?」

 イサオの疑問に、アカネははっはっはと高らかに笑った。

「大羽の女のことなら、俺は何でも知ってら。ま、『あららぎ隊』の女はみんな男嫌いで気が強ぇから、イサオみたいなスケベはすぐにナマスにされっぞ。せいぜい、気を付けるこった」

 アカネとそんな話をした矢先――イサオの元に、思わぬ依頼が舞い込んだ。

「『あららぎ隊』の女首領をやっつけて欲しいってよ。何でも、組員がそこの女に顔を斬られたとか」

 イサオは当時、大羽でも有数のヤクザだった。女不良に縄張りを荒らされた、と憤慨する地元の組から要請が入ったらしい。

「イサオお兄さん、女の子と喧嘩するの?」

 ミノルの問いに、イサオはムフフと頬を緩めた。

「ちょうどいい。『あららぎ隊』の女首領をとっちめて、俺の女にするぞ。ミノルも楽しみにしててけれ」

 どうやら、イサオは『あららぎ隊』の女不良にかなり下心を持っているようだ。

 戦地から生還したイサオが、結婚を真剣に考えていることもミノルは知っていた。

 ――イサオお兄さんらしいけど…そんな女鬼みたいな人が僕の義姉ちゃんになるの、嫌だなぁ。

 ミノルの心配をよそに、イサオは『あららぎ隊』に果たし状を送り付け、女首領と決闘をする約束を取り付けた。

「なんでも、今年襲名したばかりのまだ15の女だとよ。ふん、そんな子供で、俺の相手になるかや」

 ところが当日、約束した空き地に現れたのは、別の女だった。

 長い髪を一つに束ね、きりりと巻いた鉢巻に、真っ白な袴姿も勇ましい。未婚の女とは思えぬほど、その姿は威厳に満ちていた。

 その女こそ――当時、まだ17歳の桐生カグラだった。

「ん?お前、首領でねえな。約束が違わねえか」

 と口では言いつつ、イサオはむしろ喜んでいた。アカネが誉めていただけあって、カグラは上物の美人だったからだ。

 ――胸がでかい。尻もいい。袴で見えねえが脚も良さそうだ。こいつは運がいい!

 などというイサオの下卑た内心を知る由もないカグラは、折り目正しく頭を下げた。

「約束を反故にしたことは、お詫び致します。しかし、あの娘たちのしたことは、全て我が意を受けてのこと。代を譲った身ながら、矢面に立つことにした次第です」

 表向きは『あららぎ隊』の総長を辞したカグラだったが、今も実質上の頭目として隊を率い、少女たちから尊崇を受けていた。

 今回は、ヤクザからうら若き少女たちを守るため、カグラ自身が受けて立つことにしたようだ。

 そんなカグラの気高さもイサオは気に入ったが、それより色白で艶のある肌だの、紅色で形のいい唇だの、着物越しにも分かる胸の大きさと腰つきなんかに特にそそられた。

 ――絶対、この女をものにするぞ!

 舐めるようにカグラを品定めしてから、イサオは今更ながらにカグラが丸腰なことに気付いた。

「おい。例の、あららぎ隊御用達のカミソリは持ってねえのか」

「あれは、隊に所属する者の護身用に配っているものです。私には必要ありません」

「ふーん。素手でこの俺に勝とうってか」

「その通り」

 ――よしっ、股間を叩っ斬られる心配はねえ!

 ひっそり安心しつつ、イサオは構えた。

「んじゃ、俺も素手で行くぞ。負けたら俺の女になるって約束、忘れんなよ」

 イサオはちゃっかり、果たし状の中に「負けたら俺の女になれ」という文言を盛り込んでいた。

 下衆の言い分でしかない条件を、二つ返事で引き受けた女は、冷ややかな面差しのまま構えた。

「どうぞ、ご自由に。私は負けませぬゆえ」

 その気位の高さもまた、イサオの戦意を煽り――2人は、激しくぶつかり合った。

 決着がつくまでにかかった時間は、なんと三日三晩。

 はじめは固唾を飲んで見守っていた秋津一家・あららぎ隊双方も、2日目辺りから飽きてきて、緊張感が緩んでいった。

 あららぎ隊の女たちが秋津一家の男たちにおにぎりを振る舞ったり、近所の子供たちが見に来たり。ヤクザと女不良の決闘だというのに、周囲はのどかな空気だ。

 ミノルも兄の雄姿を見ていたかったが、途中で眠ってしまい、アカネに連れて帰られた。

「兄貴たち、まだやってるのかよ。暇だな」

「ここまで来ると、もはやバカバカしい」

 見物に来たススムとタケルも、そんな風に呆れていた始末だ。

 とはいえ、イサオもカグラも遊んでいたわけではない。『鬼姫』の名に偽りなく、カグラの膂力は男顔負け、イサオと本当に拮抗していたのだ。

「イサオが負けたら、どうなるんだべな。去勢されるんだか」

 アカネがそんな冗談を言うぐらいだったが、幼かったミノルは『去勢』の意味が分からず、首を傾げていた。

 幸いにも、兄が去勢されることにはならなかった。三日目の夜更け、ついにイサオがカグラを組み伏せたのだ。

「俺が勝った!今日からカグラは俺の女だ!いいな!」

 そう叫ぶイサオは、肩を激しく上下させていた。大羽のヤクザを恐れさせるイサオをもってしても、辛勝だったのだ。

「カグラ様…」

「おいたわしや…」

 あららぎ隊の女たちが、次々に泣きむせぶ。

 誰よりも慕っていたカグラをヤクザに奪われるのだから、女たちの悲哀も当然だった。

「……イサオ様」

 女たちの嘆きとは裏腹に、イサオの腕に抱かれたカグラはちょっと頬を染めていた。

 三日三晩の激闘が、イサオとカグラの魂を通わせたのかもしれない。

 程なくしてカグラが懐妊し、イサオ21歳・カグラ18歳で結婚した。

 2人の間には3人の娘とユタカが生まれ、イサオが60歳でこの世を去るまで、仲睦まじい夫婦であり続けた。

 女鬼というミノルの失礼な印象とは違い、義姉となったカグラは厳しくも優しい女性だった。家族をはじめ、秋津一家の組員からも慕われている。

 あららぎ隊はのちに解散したが、今も縁のある女性たちが、こうしてカグラに仕えている。

 ミノルは、兄に劣らぬ義姉の偉大さを改めて感じた。

 ――だからこそ、イサオお兄さんはカグラお義姉さんに託したのでしょう。ユタカと玄武会、そして僕とさやかさんにまつわる、重大な秘密を…。

 迦陵殿を進むと、女たちが大きな扉の前で立ち止まった。

 扉にはたおやかな女性の顔をした、半人半鳥の幻獣が描かれている。

 迦陵頻伽――この邸宅の名の由来となった、極楽に住むという鳥である。

 その面差しが、どこかカグラに似て見えるのは――イサオの趣味だろうか。

 イサオは女遊びも派手だったが、愛人を何人作ろうと、妻にしたのはカグラ一人だった。

「カグラはおっかねえからよお、離婚なんかしたら末代まで祟られるべ」

 生前、イサオはそんな風に嘯いていた。

 確かに、イサオは浮気するたびに、カグラから血も凍るようなお仕置きをされたらしいが――勿論、それで懲りる兄ではないが――きっと、兄なりの照れ隠しだったのだろうとミノルは思う。

 妻として、母として、イサオが真に信頼できる唯一の女。それがカグラだったのだ。

 迦陵頻伽の扉がすうっと開き――イサオの巨大な遺影と、その前に佇むカグラの姿がミノルの目に飛び込んできた。



 同じく東京――ホテル『セレスト・キャッスル』。

 蒼い鉄格子が天に向かって身をうねらせる様は、まるで巨大な龍の骨のように見える。

 完成すれば、都心随一の高さを誇る超高級ホテルになるだろう。尤も、このビルが、この国を裏から牛耳る暴力団・青龍会の根城だということを知る者は少ない。

 地上を200メートルの高みから見下ろす最上階は、ハエのような記者も朱雀組の眼も届かない。

 黒い窓枠によって遺影のように切り取られた青空が四方を囲む以外は、何もないこの場所に――今日は、5人の男が集結していた。

 青龍会四天王――紫鏡会会長・藤浪京。

 同じく桃華組組長・秋津ユタカ。

 水甕組組長・難波。

 月狼会会長・成滝。

 そして、4人の上座に立つ初老の男こそ――青龍会会長・海堂玖聞だった。

「よく集まってくれたね。僕の可愛い玩具たち」

 金色がかった白髪にモノクル、プルシアンブルーのスーツにループタイ、といった容姿は、温厚な学者を連想させる。

 だが、海堂がいるのは象牙の塔ではなく、人の屍で築き上げた塔の上だ。それを承知しているからこそ、四天王の誰もが平伏した顔を上げられない。

 海堂がそこに立っているだけで、世界の位相がズレる。人々の生活、日常、喧噪、そういったものが遠ざかり、海堂が支配する残酷なごっこ遊びの舞台に変わる。

 海堂のごっこ遊びの中では、人間はブリキの兵隊に過ぎず、飽きられれば一瞬で壊される。どんな理屈も暴力も通用しない、虚無と狂気の世界だ。

 カツンと音を立て、海堂の革靴が桃華組組長――秋津ユタカの前で止まった。

「今日集まってもらったのは、他でもない。桃華組のヘリが落とされた件について、話をしようと思ってね」

 早速名指しされ、ユタカが頭を下げた。

「申し訳ありません。引き続き、組員たちに夏目さやかを探させております」  

「いいんだ、ユタカ。僕は、君を責めるために呼び出したわけじゃない」

 海堂は優しい声音で言って、青空の向こうに目を細めた。

「愉快じゃないか。夏目さやかは朱雀組の重要な獲物だと、柘植は白状したようなものだ」

 それから海堂は、皺の寄った手でユタカの頬に触れた。

「ユタカ。君は、四天王の中でも特別な子だ。あの少女の拿捕なんて、他の子に任せておけばいい」

 ユタカは内心、頬に触れる冷たく乾いた感触に嫌悪感を抱きながら――表情には出さない。

「そういう訳にはいきません。ボクがこの手で必ず、あの娘を捕らえてみせます」

 真剣に答えるユタカに、海堂が笑みを深めた。

「フフ――そうかい。確かに、現時点であの少女に一番近いのはユタカだ。きっと、君の筋書き通りになるだろう」

 海堂はユタカから手を離すと、藤浪へと歩を進めた。

「藤浪は、お手柄だったね。あの男を生け捕りにするとは」

「お褒めにあずかるほどのことではございません。捨て犬を拾ったに過ぎませんから」

 慇懃に言う藤浪に、海堂はうんと一つ頷いた。

「そうか。捨て犬君は、息災にしているかい?」

「ええ。彼の生命力の強さには、私も驚嘆しています。居心地のいい棲み処を用意してやりましたから、いずれ愛らしい飼い犬になることでしょう」

 海堂は、ポンと藤浪の肩を叩いた。

「引き続き、灘家の皆さんをよろしく頼むよ。藤浪」

「はい。会長の意のままに…」

 続いて、海堂の足が止まったのは、難波の前だった。

「難波。四天王の中で、君が最も僕に貢献してくれているね。感謝の言葉もない」

「滅相もございません。金と飴をたらふく与えられて、ほだされないガキはいませんから」

 そう答えながら、難波は密かに、背筋に冷ややかなものを感じていた。

 ――俺以外の3人が、皆こっちを見てる気がする。

 それは軽蔑か、恐怖の目線か。或いは、難波自身の心の目なのかもしれなかった。

 難波が結成させた、東京屈指の愚連隊『ブルー・ワイバーン』。

 若者たちが集められ、組織化され、青龍会の傘下に入れられる本当の理由を知っているのは、ここにいる5人だけである。

「難波のお陰で、タカマガハラの動きはいよいよ盛んだ。玄武会の研究が実を成す日は近い」

 玄武会の名が出た瞬間、四天王の顔がわずかに蒼ざめる。

 ――玄武会…タカマガハラ…。

 ユタカがじっと睨み据える先で、海堂はにこやかに、お気に入りの人形に話しかける子供のような無邪気さで、場を締めくくった。

「もうじき、この国は青龍会の巨大な玩具になる。玩具箱のカギを握るあの少女を、一日も早く僕に会わせてくれたまえ」



 ホテル『セレスト・キャッスル』から少し離れた郊外の住宅街。

 美々しい屋敷が居並ぶ通りの中でも、ひときわ大きく立派な門扉を備えた豪邸――灘邸。

 その一室で、冬枝はベッドに大の字になって寝そべっていた。

 ――あー、暇だ…。

 外へ出ようとすれば藤浪の配下の男たちに阻まれるし、かといって、脱出のための妙案も思いつかない。

 寝心地の良いベッドで寝ていると、頭も身体もだらしなく緩んでいく。だが、今はそれが心地いい。

 さやかの生死について、考えないようにしている自分自身を――見ずに済むから。

「…ん?」

 水を飲もうと起き上がった冬枝は、ベッドサイドのテーブルに何冊かの雑誌が積んであることに気付いた。

 そこにあったのは、いずれも最新の週刊誌やゴシップ誌だった。

 お上品なこの部屋には似つかわしくないラインナップは、恐らく藤浪が用意したものだろう。

 ――なんか、いかにも「読め」って言われてるみたいで、腹悪ぃな。

 とはいえ、他にすることもない。退屈に耐えかねて、冬枝はつい、雑誌に手を伸ばした。

 パラパラとめくっていると、自然と青龍会の話題に目がいった。

『我が国最強の暴力団・青龍会!超危険な四天王の素顔に迫る』

 大きなゴシック体の見出しが躍るその記事には、青龍会四天王の顔写真が掲載されていた。

 水甕組組長・難波は、長めの髪をオールバックに流した30代ぐらいの男だった。精悍だが、人を小馬鹿にしたような笑みは、いかにも今時の都会のヤクザといった印象を与える。

 ――『ブルー・ワイバーン』の頭目だけあって、いけ好かねえ野郎だな。

 見た目はへらへらした若造でも、難波は夏に『サキタバンドシティフェスタ』の会場を爆破しようとした男だ。『ブルー・ワイバーン』を使って彩北に真っ先に侵攻してきた相手であり、冬枝としても因縁深い。

 水甕組は関東のヤンキー上がりを吸収し、愚連隊・暴走族・暴力団、全ての危険さを併せ持つと言われている。若者の組織力を生かし、売春の斡旋から薬の売買まで手広く手掛けており、そのありようは現代ヤクザの縮図と言える――そう記事にはまとめられていた。

 その隣に写真が載っているのが、桃華組組長・秋津ユタカだ。

 お行儀よく七三分けにした黒髪、色白の細面に神経質そうな表情を浮かべている。ヤクザというよりお坊ちゃんといった風情で、これが本当にあの秋津イサオの息子か、と冬枝は驚いた。

 しかし、ユタカのプロフィール文は四天王の中でも最も長い。朱雀組4代目・秋津イサオの長男として生まれながら、跡継ぎ争いで敗れたことをきっかけに秋津一家を離脱し、宿敵である青龍会に入ったことなどが、ドラマティックに記されていた。

 おまけに記事には、『若い女ばかりを選んで大量にかき集めていることから、青龍会のハゲタカと呼ばれている』とまで書かれており、冬枝は呆れてしまった。

 ――こいつ、本当に信用できるのかよ。

 ミノルからユタカの青龍会入りは狂言だ、と聞かされてはいるものの、ユタカの人となりを知らない冬枝にはピンとこない。実際、ユタカ率いる桃華組が彩北の少女たちを拉致した事実もある。何より、あの源のボスということは、源を凌駕する女好きなのではないだろうか。

 続いて、冬枝は月狼会会長・成滝の記事に目をやった。

 難波・ユタカと同じぐらい若いが、二人と違って一目でスジ者と分かる。それというのも、顔にある大きな傷跡のせいだ。

 今のところ、四天王の中でも、この成滝という男だけが冬枝にはなじみがない。誌面に書かれた情報は、どれも初耳のことばかりだった。

『月狼会会長・成滝は、20代を傭兵として海外で過ごした。戦地で瀕死の重傷を負ったところを、青龍会・海堂によって救われ、一命を取り留めたといわれる。その後、結成した月狼会は成滝と同じ傭兵あがりや元自衛隊の組員が多く所属しており、青龍会の火薬庫と名高い』

 冬枝は、春先にさやかが『ブルー・ワイバーン』の予備軍にさらわれた際、奴らのアジトにバズーカやマシンガンなどの兵器が大量にあった、とさやかが言っていたことを思い出した。

 ――そうか。青龍会が抱えてる兵器は、この成滝って奴が出どころなわけだな。

 納得したところで、最後に控えているのは最近、見たばかりのあの糸みたいな細い目の50代だ。

 紫鏡会会長・藤浪京――。

 写真を見ているだけで憎たらしい男だが、その紹介文には慄然とさせられた。

『藤浪の経歴を知る者は誰もいない。地元とされる東京近郊を取材したが、彼の手掛かりを得ることは出来なかった。年齢不詳、藤浪京という名も偽名とみられる。また、藤浪のみならず、紫鏡会に所属する構成員の誰一人として素性が明らかにされていない。確かなことは、藤浪率いる紫鏡会に関わった者は皆、行方不明となっていることだ』

 記事を読んだ冬枝は、肩からがっくりと力が抜けるのを感じた。

 ――やっぱりあのオッサン、相当怪しい奴じゃねえか。

 証拠すら残さない辺り、藤浪は徹底した手練れだ。『超危険』な四天王の中でも、藤浪は最も危険と言えるだろう。

 藤浪は青龍会会長・海堂の側近でもあり、青龍会のナンバー2と言っても過言ではないだろう――記事は、そう締めくくられていた。

 藤浪のせいで気分がくさくさしてきたので、冬枝は、別の雑誌に手を伸ばした。

『都会を覆う大陰謀!!!ホテル『セレスト・キャッスル』の真実を暴く』

 一見、地上げ屋か談合の話のようだ。だが、そこに並ぶ青龍会の文字を冬枝は見逃さなかった。

『都心に建設中のニューホテル『セレスト・キャッスル』。高さ200メートル・地上50階建て。『古宿出友ビル』に次ぐ高層建築物であり、海外の要人や賓客をもてなす超高級ホテルになる予定だ。しかし、このホテル建設の裏に、あの青龍会が絡んでいることを本誌は突き止めた』

 記事には建設中の『セレスト・キャッスル』の写真と、片眼鏡をかけた老人の写真が並んでいる。

『ホテルの建設、および経営の双方に青龍会会長・海堂の息がかかった企業が任命されている。『セレスト・キャッスル』は事実上、青龍会のアジトと言っていいだろう。この建設に関わる莫大な金、そして経営による利益は、全てが青龍会に流れると見込まれている』

 記事では各企業から青龍会へと金が流れる様子が図解されていたが、冬枝はページを閉じた。

 ――つまり、青龍会御殿か。景気のいいこった。

 白虎組でも似たようなことはやっているし、朱雀組だってそうだろう。読んで損した、と冬枝は溜息を吐いた。

 他の雑誌もパラパラとめくってみたが、どれも似たり寄ったりの内容で、徐々に飽きてきた。

 そのため、冬枝がその記事を読んでみたのも、ヤクザ系ゴシップで腹いっぱいになったから、たまには奇天烈なものでも読むか、と気まぐれを起こしただけだった。

『戦後最大の謎!!”玄武会”は実在するのか?』

 その見出しを見て、思わず冬枝は苦笑してしまった。

 ――『玄武会』なんて、まだ本気で言ってる奴がいるのかよ。

 ゴシップ誌というよりも、オカルト系の雑誌でよく見る名前だ。冬枝も噂は聞いたことはあるが、酒の席なんかでたまに披露される怪談のようなものだった。

 記事には、かつて玄武会が使っていたとみられる実験施設の跡地が写されている。それに添えて、『助けてくれ』と血文字で書かれた手紙や、正体不明の薬品のアンプルなどが、いかにもそれらしく紹介されていた。

 小見出しも胡散臭いものばかりで、冬枝はヘタな芝居でも見ているような気分だった。

『玄武会は『完全人間』を作ろうとしていた!恐怖の人体実験とは?』

『生贄にされた兵隊たち――玄武会は戦時、軍の極秘の人体実験にも関わり、大勢の兵士がその実験で命を落とした』

『大物暴力団・S会も玄武会の研究成果にご執心で、密かに玄武会とコネクションを持っている』

 一通り、記事を読んだ冬枝は、ベッドにごろんと横になった。

 ――いいよな、こんなアホ臭ぇ記事書いて金貰えるんだから。これ書いた奴はブンヤよりも作家にでもなったほうがいいぜ…。

 ふわーあと一つ欠伸をして、冬枝はその雑誌をサイドテーブルに放り投げた。



 ギイと重たげな音を立てて、迦陵殿の扉が開いた。

 ドーム型の真っ白な天井に、金箔で迦陵頻伽と共命鳥が描かれている。白菊で飾られた巨大な仏壇の他は何もない、あの世とこの世の境のような空間がそこにはあった。

 そこにいる人の姿を見て、ミノルは小さく目を見開いた。

「おや。珍客がいますね」

 仏間にいたのは、ここの主であるカグラ一人ではなかった。何故か、源清司が布団の上で横になっていたのだ。

 ――源君の主はユタカ。カグラお義姉さんと繋がりがあっても、おかしくはありませんが…。

 桃華組のヘリが朱雀組によって落とされた直後というこのタイミングで、源がここにいる。偶然のわけがないが、当の源は死んだように動かない。

 布団の傍で源を見下ろしていたカグラが、おもむろに立ち上がった。

「お久しぶりです、最高顧問。そろそろ来る頃だと思っていました」

 見つめ合うミノルとカグラの間を、白檀の香りが微かに漂う。

 ミノルの背後で、迦陵頻伽の扉が音もなく閉まった。

 義姉との再会がもたらすものは吉報か、それとも凶報か。頭上を舞う極楽鳥たちは、ただ微笑みながらミノルを見下ろすばかりだった。

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