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64話 地獄の扉を叩くものたち・後編

第64話 地獄の扉を叩くものたち・後編


 東京・灘邸。

 白亜の豪邸の一室で、冬枝はじっと窓の外を見ていた。

 ――未だに、何がなんだかわかりゃしねえ。

 青龍会が灘議員とつるんでいるのは、公然の秘密だ。それには今更驚かないとして、どうして青龍会四天王・藤浪が自分を捕まえ、この灘家に幽閉しているのか。

 佳代のため、と藤浪は言っていたが、冬枝はあの糸みたいに細い目の男を信じていなかった。

 ――俺みたいな田舎ヤクザ、とっ捕まえたところで一文の得にもならないだろうに…。

 そこまで考えて、冬枝はハッとした。

 ――違う!奴らの狙いは、さやかだ!

 冬枝を捕まえておけば、青龍会はさやかをおびき出せるかもしれない。そうと気付けば、冬枝は居ても立ってもいられなくなった。 

 ――とっととずらかってやる、こんなところ!

 幸いにもあの藤浪はどこかへ行ったし、部屋の中に見張りはいない。庭へと続く大きな扉を、冬枝は躊躇いなく開けた。

「!」

 ところが、次の瞬間――突如、見えない壁が立ち塞がったかのように、冬枝は部屋の中へと弾き飛ばされていた。

「なっ…」

 訳も分からないまま、冬枝はどっと床に倒れ込んだ。

 一体、何が起こったのか。

 その答えは、冬枝を覆ういくつものシルエットとなって現れた。

 窓を覆う木立から、一人、また一人、わらわらと出て来る男たち。いずれも、あの藤浪という男が着ていたのとよく似た、淡い紫色のスーツをまとっていた。

「てめえら…あの藤浪って野郎の子分か」

「………」

 男たちは答えない。仮面もサングラスもつけていないのに、まるで作り物のような無表情だ。

 床に転がった自分の身体が、いやに重い。あの産城大橋から落ちたのだから、無傷のはずがないが、今は倒れてなどいられない。

 冬枝は、強引に立ち上がった。

「ちょうどムシャクシャしてたところだ。てめえら全員、憂さ晴らしに使わせてもらうぜ!」

 そう言って、冬枝は拳を振るい、高速の蹴りをお見舞いした。だが、いずれも男たちの鼻先をかすめるばかりで、一向に当たらない。

 ――くそっ。何なんだ、こいつらは!

 男たちは一切、攻撃してくる気配がない。ただひらりひらりと冬枝の攻撃を避けながら、少しずつ距離を縮めている。

「気持ち悪ぃんだよ、てめえらは!」

 至近距離でパンチを振るっても、何の手ごたえもなく空を切る。冬枝はだんだん、自分が得体のしれないものを相手にしているような気がしてきた。

 ――透明人間かよ、こいつら…。

 こんなに近くにいるのに、手も足も触れない。それなのに、男たちはどんどん、アリの這い出る隙間もないほど、冬枝を囲む輪を狭めていく。

 紫色の壁に阻まれ、冬枝は身動きができなくなった。

「畜生っ…!」

 男たちに包み込まれ、押し潰される――と思った直後、冬枝の身体はぽーんとベッドの上に吹き飛ばされた。

「ぐあっ…」

 弾むスプリングの感触が、冬枝を惨めにさせた。何の攻撃も加えられていないのに、ノックアウトされたような気分だ。

 パタン…。

 男たちは背中すら見せることなく、ただ庭の扉が閉まる音だけを残して消えた。

「………」

 ――こんなケンカ、生まれて初めてだ。

 というか、今のはケンカですらなかった。邪魔な虫でも取り除くみたいに、冬枝は排除された。

 ――これが…青龍会四天王の力……。

 難波が率いる愚連隊『ブルー・ワイバーン』など、まだ可愛いものだった。同じ四天王でも、藤浪の率いる男たちは、暴力すら使わずに冬枝を圧倒した。

 戦意が萎えそうになるのを感じて、冬枝は慌てて首を横に振った。

 ――四天王がなんだってんだ!だいたいあの藤浪って野郎、どう見ても俺より年上じゃねえか!

 青龍会四天王は、会長・海堂が統率しやすいように若手四人を任命した、と言われている。にも関わらず50絡みの藤浪がいるのは、さしずめ若手三人を見張るお目付け役といったところか。

 ――そりゃ、確かに若ぇのに灘議員の家族の護衛なんか任せねえだろうけどよ。

 つまり冬枝は、四天王の中でも最も狷介な男に捕まってしまったわけだ。知れば知るほど、行く末に暗雲しか見えてこないため、冬枝はあえて考えないようにした。

 ――こんなところで諦めたら、男が廃るだろうが!

 その後も冬枝はめげずに脱出を試みたが、藤色の壁に阻まれ、外の大地を踏み締めることすら叶わなかった。

「………」

 庭から出ようと、ドアから出ようと、バスルームの小窓から身をよじらせようと、同じだった。

 脱出失敗と比例して、冬枝の身体は水を吸った綿のように重くなっていった。産城大橋から落ち、夜通し泳いだダメージが、全身を蝕んでいく。

「どうすりゃいいんだ…」

 部屋の天井に投げた呟きが、我ながら情けない。手も足も出ない、とはまさにこのことだ。

 ――さやかだったら、こんな状況でも『解』を出せるのか?

 そう考えた時、冬枝の胸を痛みが走った。

 ――いや……そもそも、さやかは生きてるのか……?

 ずっと胸に押し込めてきた疑問が、冬枝の中で頭をもたげる。

「夏目さやかを乗せた桃華組のヘリは墜落しました」

 藤浪の言葉が、耳に蘇る。

 未だに実感の湧かないその情報が、静かに冬枝を圧迫していく。

「死んだ女を追ったところで、行く先は地獄に他ならないでしょうが」

 ――それなら、ここが地獄なのか?

 冬枝は、頭上に手をかざした。

 橋の上で離れたさやかの手が、今は果てしなく遠く感じる。

「夏目さやかはこの国の闇に触れた。到底、君の手に負える女ではない」

 瞼が重くなり、やがて閉じる。

 さやかが触れたという闇は、この闇よりも暗いのか。そんなことを考えながら、冬枝の意識は遠のいていった。



 彩北市郊外――白虎組若頭・榊原邸。

 白いクローゼットに服をしまいながら、淑恵がにこやかに振り返った。

「響子さんのおかげで、お洗濯が早く終わったわ。ありがとう」

「いえ…」

 響子はちょうど、淑恵が洗濯物を取り込むのを手伝い終わったところだ。

 空になった洗濯籠を見つめて、響子はふと眉根を寄せた。

 ――淑恵さん、働き過ぎじゃないかしら……。

 淑恵は国会議員・灘氏の娘であり、今はこの豪奢な邸宅で専業主婦をしている。

 ガーデニングにお菓子作り、絵に描いたような有閑マダム・榊原淑恵――という響子のイメージは、早くも打ち砕かれた。

 朝は広大な庭園でバラのお手入れ、それが終わったら朝食の支度に掃除・洗濯。日中は母校である聖天高校に関する書類に目を通したり、榊原と交友のある各企業・団体への挨拶状を書いたりと、机仕事も多い。

 合間を縫うように生け花や茶道、社交などの家庭教師が訪れ、数十分のレッスンを受ける。

 いずれもかなりハイレベルな授業で、見学していた響子にはさっぱりついていけなかった。ただ、淑恵は真剣に受講していた。

 それだけでもどっと疲れるというのに、淑恵は昼食も手ずから作った。それも調理に時間のかかる本格的な洋食で、響子は淑恵の手さばきに目を奪われるばかりだった。

「奥様にはもっと仕事をくださいと、常日頃から申し上げているのですけれどね」

 家政婦が苦笑気味にこぼすのも、無理はない。台所に立つ淑恵の手際の良さときたら、手伝う隙すら見つからないほどだ。

「お待ちどうさま。響子さんのお口に合うと良いのだけれど」

 真っ白いフリルのついたエプロン姿も優美な淑恵は、そう言っていくつもの皿を響子の前に並べた。

「いただきます」

 食事を一口、また一口と食べて――響子は、思わず瞼を閉じた。

 ――信じられないぐらい、美味しい。

 下手なレストランに行くよりも、淑恵の手料理のほうがずっといいのではないか。響子がそう思ってしまうぐらい、淑恵の作った食事は美味しかった。

 しかも淑恵は、家政婦や運転手、屋敷をガードしている組員たちにも昼食を振舞った。

 食後はこれまた美味しい紅茶と、あらかじめ作っておいたババロアがデザートとして出され――響子は、嫉妬を通り越して感服してしまった。

 ――若頭が大事にするわけだわ。こんな完璧な奥様、他にいないもの。

「淑恵さんと一緒にいたら、太りそうですね」

 響子に言えるせいぜいの皮肉だったが、淑恵は嬉しそうに微笑むばかりだった。

「響子さんはもう少し太ったほうがいいわ。痩せ過ぎですもの」

 そう言う淑恵には、全く邪気が感じられなくて――響子はちょっとだけ、胸が詰まった。

 ――なんだか、本当の母親みたいに甘えてしまいそう。

 淑恵はあまりにも優しくて、完璧で――榊原が理想の父親なら、淑恵は理想の母親だった。

 恋敵に対してこんな感情を抱く自分が不可解で、響子はティーカップに映る自分を見下ろすことしか出来なかった。

 午後は洗濯物の取り込みにアイロンかけ、それが終わったら知人へのお祝いに贈る花束を買いに行くという。

 流石に何もしないのは気が咎めて、響子は洗濯物の取り込みを手伝ったのだが。

「淑恵さん、おなかに赤ちゃんがいることを忘れたわけじゃありませんよね?」

 淑恵の働きっぷりを見ていると、つい、そんな心配をしてしまう。

「もちろんよ。定期健診にはちゃんと通っているから、ご安心なさって」

「安心できません。家政婦さんだっているんだし、家事の量を減らしたっていいんじゃないですか。習い事だって、今はお休みすればいいのに」

 響子の言葉に、淑恵は柔らかな笑みを浮かべたまま、窓の外を見やった。

「出来るだけ、いつも通りの暮らしをしていたいの。じっとしていると、悪いことばかり考えてしまうから」

「それは…そうでしょうけれど」

 高齢出産という難事もそうだが、今の白虎組は危急存亡の時だ。

 次から次へと心に湧き上がってくる不安を押さえつけるのは、響子にとっても至難の業だ。

 ――きっと、私一人だったら、不安に押し潰されていた。

 青龍会や朱雀組といった都会の暴力団を相手に、榊原の身に何かあったら――。その恐怖は、今も胸の中にある。

「響子さんのおかげで、普段通りの私でいられるの。いいわね、恋のライバルって」

 冗談めかして言う淑恵に、響子はふと疑問を抱いた。

「私じゃなくても、娘さんたちがいるじゃないですか」

 淑恵には、結婚した瑞恵と、大学の寮で暮らしている奈々恵という2人の娘がいる。2人だってきっと、母である淑恵のことを心配しているだろう。

 そこで、淑恵の眼差しが愁いを帯びた。

「…あの子たちはしょせん、まだ子供よ。響子さんのように、お若い時から自分の力で生きてきた人とは比べ物にならないわ」

「そんな…」

「それに、瑞恵は結婚したばかりだし、奈々恵は大学で学業に専念しているわ。二人とも、今は自分のことで手いっぱいのはずよ」

 そう語る淑恵の横顔は、厳しさと優しさをいっぱいに孕んでいて――娘を想う母の切実さが、痛いほどに伝わってきた。

「きっと、あの娘たちにとって今が一番、私に甘えたい時だと思うの。だから、あの娘たちの前では、いつものお母さんでいてあげたいの。泣き言なんて言えないわ」

 そう言って、淑恵はすっと響子に手を伸ばした。

 淑恵の柔らかな手が、響子の頬に触れる。そうされても、ちっとも嫌じゃないことが響子は不思議だった。

「…忍さんとは違う意味で、私にとっても響子さんは必要な人なの。響子さんがいれば、私は強くなれるから…」

 肌と肌を通して、淑恵の気持ちが響子の中に流れ込んでくるような気がする。

 響子は、自分も淑恵と全く同じ気持ちだと――今になって、ようやく受け入れることができた。

 ――恋敵なのに、誰よりも私に近い人。

 母娘じゃない。友達でもない。だけど、離れがたい。

 こんな縁があるものなのかと――響子は、淑恵をただじっと見つめ返してしまう。

 どのぐらい、そうやって見つめ合っていたか。

 パタパタと家政婦が部屋に駆けこんできた。

「奥様、響子さん、大変です。旦那様とお館様がお見えになりました」

 お館様、とは、白虎組組長・熊谷のことだ。思わぬ来訪に、響子と淑恵はハッとした。



「タケルっちー!あーそーぼ!」

 大羽の秋津一家総長・秋津タケル邸。

 厳めしい門扉の前で、ピンクの革ジャンを着たヒゲ男――春野嵐が、口の左右に両手を当てて、まるで子供のような大声を出したところだった。

「よ、よしてください、春野さん!気でも触れたんですか!?」

 慌てて嵐の腕をぐいぐい引っ張るのは、秋津一家組員・栗林アキラである。

 嵐はわざとらしく両腕を曲げると、くねくねと身をくねらせた。

「だってぇ、タケルっちがジェントル秋津を返してくれなきゃ、先に進めねえじゃねえか」

「先、って…春野さん、本気で言ってるんですか」

 嵐にそう問いかけながら、栗林は半ば、自分自身にも疑問を抱いた。

 ――俺は、どうしたいんだろう。

 栗林の目線の先には、手袋で覆われた自身の左手があった。

 指が1本短くなったのは、春先に苅屋という刑事を使って夏目さやかを捕まえようとしたためだ。

 秋津一家の法度を破ったことに対するタケルの怒りは凄まじく、栗林は死を覚悟した。ミノルが取りなしてくれなければ、破門になっていただろう。

 それでも、栗林は後悔していなかった。当時、まだミノルは入院中で、白虎組に捕らわれた夏目さやかを捕まえることができるのは、自分以外にいないと判断したからだ。

 その後、実際に夏目さやかに会い、ミノルと語らう彼女を見て、栗林の中の印象は少し変わった。

 イサオの仇を討ち、ミノルの無念を晴らしたいという気持ちに変わりはない。ただ、さやかもまた、何らかの巨大な陰謀に巻き込まれた一人に過ぎないのかもしれない。

 ――夏目さやかといる時のミノルさん、楽しそうだったな。

 ミノルは秋津四兄弟の中で唯一、未だに独り身に甘んじている。もし、この事件の決着がついたら、ミノルの身の上にも幸福な変化が起こりうるのかもしれない――と、栗林は少しだけ思う。

 一方で、今回のタケルの行動に対し、納得してもいた。

 ――味方のはずの5代目や相談役でさえ、何を考えているのか分からないなんて…。

 夏目さやかは柘植とススムによってヘリを撃墜され、生死不明。白虎組の朽木と冬枝は、縫琴で消息を絶った。

 一歩間違えれば、ミノルも彼らと同じ末路を迎えていたかもしれない。想像するだけで、栗林は鳥肌が立った。

 ――ミノルさんにまで何かあったら、悔やんでも悔やみきれない。

 1月にイサオが殺され、ミノルも瀕死の重傷を負った。黒かった髪は銀色に変わり、精神は未だに現実とあの事件の境を彷徨い続けている。

 これ以上、ミノルに無理をさせるべきではない。タケルの判断は正しいと、栗林も認めざるを得なかった。

 ――だけど、こんなところで終わりだなんて…ミノルさんと俺は今まで、何のために闘ってきたんだろう。

 そんな栗林の心の逡巡を知ってか知らずか、嵐は「俺さあ」と世間話のように話し始めた。 

「ラッキーなことに、美人巨乳姉妹の幼馴染がいるんだけど」

「は…?」

「姉が鈴子、妹が鳴子っての」

 それを聞いて、栗林はハッとした。

 鈴子は嵐の妻、鳴子は朽木の内縁の妻と聞いている。

「どっちも愛想良し・器量良し・おっぱい良しの美女なんだけどさ、男の趣味が悪ぃのが玉にキズでな。ま、鈴子は俺という最高の伴侶を得たわけだけど、鳴子は朽木なんてチンピラと駆け落ちしちまって…」

 そこで、嵐の眼差しにふっと翳りが差した。

「俺はさ、昔っから鈴子のことを自分の姉ちゃんみたいに慕ってて、鈴子が鳴子のことばっかり可愛がるのが、ちょっとジェラシーだったの。鳴子のほうが実の妹なんだから、当たり前なんだけどな」

 だから…と言って、嵐はぼりぼりと後ろ頭を掻いた。

「邪魔なんだよなー!鳴子が!」

「えっ?」

「って、言っちまったの。半分冗談、半分マジで」

 そう言う嵐の顔は、辛そうな泣き笑いに見えた。

「俺は辞めたばっかりだったけど警官で、朽木は札付きのワルだろ?あーあ、鈴子と結婚するのは嬉しいけど、鳴子はお邪魔虫だよな、なーんて言っちまったんだ。その場は笑い話になったけど、それから皆で行こう、って言ってた花見に、鳴子は来なかった」

 鳴子は朽木と駆け落ちし、東京に行った。その後、朽木は組の都合で彩北に戻ったが、鳴子とは未だに再会できずにいるという。

 その鳴子は今、青龍会に囚われの身となっている。

 嵐の瞳が、遠い空の向こうを見据えた。

「罪滅ぼしってわけじゃないけどさ。俺も鳴子に会いたいんだ」

「春野さん…」

「だから、ジェントル秋津にこんなところでリタイアされちゃ困るってわけ。今のこのゴタゴタのカギを握ってるのは、ジェントル秋津とさやかなんだから」

 そこで、嵐はニヤッといやらしい笑みを浮かべた。

「マロン林もさあ、東京で会いたい奴がいるんじゃねえの?」

「え…?」

「モモカちゃんと仲が良かった、ってジェントル秋津が言ってたじゃん」

 栗林はちょっと眉根を寄せてから、首を傾げた。

「あの…モモカちゃんって、ユタカさんのことですか?」

 ユタカは青龍会四天王・桃華組の組長だ。栗林を『マロン林』と呼ぶなど、嵐はとことん、人のことをふざけたあだ名で呼ぶのが好きらしい。

「モモカちゃんの話が出る度に、マロン林のお目目がメダカの学校になってたぜ。なんか、胸に引っかかってることがあるんじゃねえの?」

 トントンとスーツの胸を叩かれ、栗林はちょっと考えた。

 ――ユタカさん…。

 春の日に消えたという鳴子の話が、栗林の中でユタカと重なった。

 大羽からユタカが消えて10年――ユタカが青龍会四天王と呼ばれるようになっても、栗林はユタカを憎めなかった。

 しかも、ユタカが本当はイサオの命を受けて青龍会に潜り込んだのだと知ってからは――栗林の胸の中でずっと、正体の分からないモヤモヤが行ったり来たりしている。

「ちょっと、何してるんですか、そんなところで!」

 タケルの家の玄関前で話し合っていた中年男2人の前に、若者――穂積がバタバタと駆け寄った。

「ここから先は、この穂積が一歩も通しませんよ!」

 紅色のスカジャンをはためかせ、穂積がホウキをビシッと構えた。



 秋津一家総長・秋津タケルの邸宅の玄関前で、嵐と栗林、そして組員の穂積が対峙した。

「赤陽館から大人しくいなくなったと思ったら、総長のご自宅に来るなんて。全く、油断もスキもないっスね」

 ぷんすかと怒りながら、穂積はひゅんひゅんとホウキを振り回した。

「穂積…」

「おおっ、張りきってるねえ。相撲なら負けねえぞ~?」

 どすこい!と張り手のポーズを取る嵐はさておき、栗林は静かに穂積に近付いた。

「穂積。俺は、総長と話がしたいんだ。ここを通してくれないか」

「いくら栗林さんの頼みでも、今は駄目っスよ!頭からきつく命じられてますんで」

 そう言ってペコッと頭を下げる穂積の仕草は、いかにも若々しい。

 まだ二十歳そこらか――と見積もって、栗林はふと気付いた。

 ――穂積は、ユタカさんと会ったことがないんだよな。

 穂積に限らず、今の秋津一家の組員の大半は、ユタカのことを話の中でしか知らない。ユタカが大羽にいたのは10年も昔だから、無理もないが。

 ――ユタカさんもリキさんも、あんなにすごい人たちなのに……秋津一家に残ったのは、結局俺だけか。

 秋津一家の御曹司と呼ばれたユタカも、若と目されたリキも、もう秋津一家の人間ではなくなった。若き2人が赤陽館で存分に腕を振るっていた姿は、今となっては夢物語のようだった。

 ――あの頃に思い描いていた未来とは、ずいぶん違うな…。

「なあ。穂積はこの先、誰が秋津一家を継ぐと思う?」

 栗林に意外な質問をされ、穂積が目を真ん丸にした。

「誰って……うーん。考えたこともないっス」

「いないのか?若い奴の中で、目ぼしいのは」

 栗林が深掘りしても、穂積はピンと来ないようだった。

「だって、総長も頭もまだまだ元気そうだし、いいじゃないっスか、跡継ぎなんて。秋津一家は総長と頭がいれば、この先もずっと安泰っスよ!」

 穂積の笑みはとても無邪気で、栗林は胸を打たれた。

「穂積…」

 穂積はきっと、心から今の秋津一家を愛し、タケルと米倉のことを慕っているのだろう。

 だが、栗林には穂積が――今の大羽が、ユタカを失った10年前で時が止まってしまったように思えてならなかった。

 ――いや…時が止まっているのは、俺自身か。

 37歳、という年齢に見合った貫禄が備わらないのは、栗林が10年前に全てを諦めたからだ。縁談を断り、出世も考えず、ただミノルに影のように付き添い続ける日々を繰り返した。

 ――ユタカさんのいない未来なんて、考えたことがなかったから。

 実際、栗林に出来ることなど何もなかった。東京の青龍会はあまりに遠く、ユタカが去った本当の理由すら、栗林は知らなかった。

 だが、今は違う。

 今、手を伸ばせば、イサオの死の真相も――そして、それを知りたがっているユタカにも、手が届くかもしれないのだ。

 ――諦めたくない。諦められない。

「どりゃー!ワイルド嵐ハリケーン!」

「なんの!そんな張り手、この穂積には通用しないぞ!」

 いつの間にか嵐とケンカの真似事のようなじゃれ合いをしている穂積に、栗林は再度、声をかけた。

「穂積。俺とミノルさんは、どうしても東京へ行かなきゃいけないんだ。総長に会わせてくれ」

「だから、駄目ですってば!そんなに言うなら、俺を倒してから行ってください!」

「そうか…」

 栗林はひとつ頷くと、カッと目を見開いた。

 パーン!

 穂積が高速で回転しながら、門扉を吹っ飛ばして邸内へと吸い込まれていった。

「おお。強烈なビンタですこと」

「…全然です。俺、弱いですから…」

 栗林は、ひらひらと手を振った。

 タケルと米倉は当然として、ユタカとリキにも一度も勝ったことがない。唯一、麻雀だけはミノルのお陰で強くなったが。

「てめえら、何の騒ぎだ」

 バタバタと足音も荒くやって来た米倉が、嵐と栗林の姿を見て立ち止まった。

「やっぱり来たか…」

「来ちゃったよーん」

「…お邪魔します」

 片手を上げる嵐、会釈する栗林、それから地面の上で目を回している穂積――を見やって、米倉がため息を吐いた。



「源さんが……」

 榊原邸のリビングで、響子はそれ以上、言葉が出てこなくなった。

 源が縫琴で冬枝と闘い、冬枝は未だに行方が分からないこと。

 冬枝と一緒にいたさやかは源にさらわれ、桃華組のヘリに乗せられたところで、ヘリが何者かによって撃墜されたこと――。

 あまりの事態に、響子はもちろん、淑恵も蒼ざめていた。

 二人の前には、白虎組組長・熊谷と、若頭・榊原、若頭補佐・霜田の三人が並んでいる。

 白虎組のトップ3人が、この緊急事態のさなかに自分を訪ねてきたのだ。響子は、緊張で震える唇を開いた。

「それで……私にご用って、何でしょうか…?」

 何か言おうとした榊原を手で制し、中央に座す組長が答えた。

「響子ちゃん…だっけ?大羽で、源と会ってたんだってね」

「………!」

 ――バレていたのね…。

 組長のサングラスの奥の瞳が、これ以上ないぐらい冷たく見える。

 組長が響子のことを快く思っていないことも、源のことを嫌っていることも、響子はその冷え切った目付きを見ただけで察した。

 ぐっと握り締めた拳が、汗ばむ。

 響子は、今更ながらに己の軽率さを悔いた。

 ――源さんは青龍会の人間。仮にも若頭の傍にいる立場の私が、軽々しく会っていい相手じゃなかったのに。

 響子はあの時、彩北を離れて大羽まで源に会いに行った。青龍会と繋がっている、と疑われても申し開きはできない。

 俯いた顔を上げられない響子に、組長が「うん」と一人頷いた。

「どうだい?今度は、東京で源とデートしてみない?」

「東京…?でも、源さんは…」

 源とさやかの乗ったヘリが撃墜された、という話は、未だに響子には実感が湧かない。信じたくない、といったほうが正しいのかもしれないが。

 組長は、ちっちっちと指を振った。

「あのバケモンが、そう簡単にくたばると思う?どのみち、惚れた女の身に何かあれば、土の下からだって這い出てくるよ、源は」

「はあ…」

 響子には、組長の真意がつかめない。

 そこで、組長がようやく本題を切り出した。

「響子ちゃんの身柄を、朱雀組に預けることにした」

「朱雀組……ですか」

 つい先日まで白虎組の縄張りを買い占めていた、都会の巨大な暴力団。

 とても遠いイメージの朱雀組が、どうして自分と関わってくるのかが分からなかった。

「わざわざ大羽でデートする仲の女が『ロリコン伯爵』の人質になったとなりゃ、あの男が顔を出すかもしれないだろ?ここは一つ、響子ちゃんが骨を折ってよ」

 ずいと身を乗り出すと、組長は響子に顔を近付けた。

「こっちはさ、あの裏切り者のせいで、さやかちゃんも冬枝も朽木もやられちまったんだ。どんな手を使ってでも、源には礼をしなきゃならねえ」

「………!」

「榊原だっていいって言ったんだ。断らねえよな?」

 組長に言われ、響子はハッとして榊原のほうを見た。

 ――若頭……。

 苦渋を滲ませた表情の榊原を見て、響子はぎゅっと唇を噛んだ。

 ――私のせいで、若頭に迷惑をかけてはいけないわ…。

 自分が朱雀組に行くだけで済む話なら、断る理由はない。

 響子は、顔を上げた。

「分かりました。私――」

 と言おうとした響子の手が、次の瞬間、凄まじい力で引っ張られた。

「淑恵さん…?」

「………」

 痛いほど強く響子の手を握り締めながら――淑恵は、いつもの温和な様子が嘘のように、冷ややかな表情を浮かべていた。

「そう……。忍さんはこのお話、ご了承なさったのね」

「あ…ああ」

 榊原が戸惑い気味に頷くと、淑恵は静かに立ち上がった。

「いらっしゃい。響子さん」

「淑恵さん…?」

 男たちが呆気に取られる中、淑恵は響子を引きずるようにして、すたすたとキッチンへと向かった。

 淑恵がいつもピカピカに磨き上げている真っ白なキッチン――淑恵は迷いなく進むと、棚からサラダ油を取り出した。

 慣れた手つきで素早くフタを開け、淑恵はサラダ油を響子の頭上にかざした。

 たらたらたら……。

 ワンレングスの髪を、生ぬるい油がのろのろと這い下ってゆく。響子は、驚いて淑恵を見た。

「淑恵さん。何を…」

「仕方がないわ。こうするしかないんですもの」

 淑恵は響子の肩から胸までサラダ油でびっしょりと濡らすと、自身も残ったサラダ油を頭から浴びた。

「何をやってるんだ、淑恵」

 榊原が蒼白になるのも無理はない。油まみれになった女2人のすぐ後ろには、いつでも火のつくガスコンロがあった。

「こんなものでも、火が付けばよく燃えるのよ」

 そう言って薄く微笑んでから――淑恵は一転して、キッと眦を釣り上げた。

「源さんをおびき寄せるために響子さんを朱雀組に引き渡すなんて、そんな馬鹿げた話はないわ。どうして反対しなかったの」

「それは…その」

 言葉に詰まる榊原に代わり、霜田が助け舟を出した。

「落ち着いてください、淑恵さん。我々は何も、響子を取って食おうっていうんじゃないんです。幸いにも朱雀組の5代目は紳士的な人柄ですし、源さえ呼び出せれば響子は解放されますよ」

「白虎組の縄張りをお金で荒らした人に、私の大切な人を預けろって言うの?響子さんは物じゃないのよ」

 声音も激しく言ってから、淑恵は中央で黙っている組長を見つめた。

「でも、響子さんが源さんとお会いしたのは事実です。身の程をわきまえていないと言われたら、その通りだわ。響子さんにはそれ相応の報いが必要でしょう」

 そう言うと、淑恵は油で濡れた響子の後ろ髪をぐいっと引き寄せた。

「うっ…」

 ガスコンロの上に仰向けに倒され、響子は背筋が凍った。

 ――殺される…。

「よせ、淑恵!!」

 榊原が叫び、淑恵は笑った。

「安心して。響子さん一人で逝かせはしないわ。響子さんの罪は私の罪よ」

 いつの間に出したのか、淑恵の手には着火剤が握られている。

 いよいよ、響子の心臓の鼓動が高鳴った。

「朱雀組の人質にされて恥を受けるぐらいなら、この場で潔く死にましょう。さああなた、響子さんとお腹のこの子にお別れを言ってちょうだい」

 淑恵に髪を引っ張られ、響子が「うっ」と呻く。

 それが合図だったかのように、榊原がバッと床に膝をついた。

「悪かった。もう響子をどうにかするなんて言わないから、死ぬなんてよしてくれ。親分…」

 泣きそうな顔で見上げる榊原に、組長が溜息を吐いた。

「やれやれ。なーんか、アホらしくなっちまった。帰る」

 くるりと背を向ける組長に、霜田が慌てて従った。

「お、お車の支度をします。若頭も」

「ああ…」

 榊原はちらちらと女二人を振り返りながら、よろめくようにして組長たちとその場を後にした。

「………」

 バタン、と玄関の扉が閉まる音がすると、響子は勢いよくガスコンロの上から引きはがされた。

「ごめんなさい、響子さん。怖かったでしょう」

「と…淑恵さん」

 淑恵は響子を連れて駆け足でキッチンから離れ、バスルームへと向かった。

 何がなんだか分からずにいる響子をよそに、淑恵は手早く響子の服を脱がせた。

「本気じゃなかったのよ。万が一のことがないように、ガスの元栓もちゃんと閉めてあったし」

「はあ…」

 そう言いながら、淑恵は自身も油まみれの服を脱いで、洗濯籠に放り込んだ。

「…男の人たちから見たら、ただの茶番だったかもしれないわね。でも、響子さんが人質になるなんて、絶対に嫌だったから…」

 そう言う淑恵の肩が震えていることに、響子はやっと気づいた。

 ――淑恵さんも、怖かったんだわ。

 焼け死ぬことが怖かったのではない。淑恵は、目の前で響子が男たちに連れ去られてしまうことが、何よりも恐ろしかったのだ。

 そこに思い至った時、響子は思わず、淑恵の裸の肩にそっと触れていた。

「…どうして、そこまでするんですか。悪いのは私なのに」

 すると、淑恵は響子を振り返りながら、ぷんぷんと怒った。

「響子さんは何も悪くないわ。会いたい人に会いに行っただけじゃない」

「淑恵さん…」

「私は、響子さんみたいな真面目な方が源さんとお付き合いするのは賛成できないけれど…でも、響子さんには誰にも邪魔されずに、自由に生きて欲しいの」

 ね、とはにかむように微笑まれ、響子もつられて笑った。

「…困った奥様ね。若頭、お顔が真っ青になっていましたよ」

「忍さんが悪いのよ。いい薬だわ」

 さあ、身体を洗いましょう、と促され、響子はふと淑恵の胸元に目がいった。

 ――大きい……。

 響子の視線に気付いた淑恵が、はにかむように胸元を隠した。

「やだ、恥ずかしいわ。妊娠してから太ってしまって…」

「…そうみたいですね」

 確かに、響子はもう少し太ったほうがいいのかもしれない。ちょっと悔しくなって、響子は互いの身体を洗いながら、いたずらに淑恵の身体をぺたぺたと触ってやった。

「きゃっ。もう、響子さんったら」

「ふふふっ」

 バスルームからは、女たちの笑い声がきゃらきゃらと響き続けた。



 一方、彩北の北方に位置する大羽の街では、男たちが無言で膝を詰め合っていた。

「………」

「………」

「………」

「………」

 男たちの沈黙を破ったのは、栗林だった。

「…なんで、父さんが総長の家にいるんだよ」

 秋津タケルの自宅の居間に集まったのは、嵐、栗林、タケルの護衛に来た米倉、そして栗林の父、栗林ノボルだった。

 ノボルは、注意していないと聞き取れないような声量で言った。

「…お前を連れて帰りに来たんだよ。アキラ」

「俺を…?なんで」

 秋津タケルの妻・アズサが、盆に乗せた熱いお茶をテーブルに置いた。

「これ以上、今の騒動に関わるのは危険よ。ミノル君だけじゃなく、栗林君にも身を引いて欲しいの」

「アズサさん…。それは、総長のご意志ということですか」

「そう受け取って結構よ」

 アズサのいつになく真剣な声音に、栗林がちょっと怯む。

 助け舟とばかりに、嵐が片手を上げた。

「はっじめましてー!彩北から参りました、ワイルド嵐クンでーす!」

「そう…。あなたが、あのおかしなニュースを流した春野嵐君ね。一体、どういうつもりでうちの敷居をまたいでいるのかしら?」

 アズサがあの秋津一家ネガティブキャンペーンのことを皮肉っても、嵐はめげない。

「いいなあ、タケルっちにはこんな美貌のかみさんがいるのかあ。年上好きなところは俺とお仲間かも♡」

「てめえ、その口を閉じねえとぶん殴るぞ」

 正面に座す米倉が睨み、嵐が「およっ」とおどける。

 栗林は、内心で嘆息した。

 ――春野さんがいると、話が可能な限り大幅に逸れる…。

 しかし、お陰で米倉の眼光にも、アズサの存在感に対しても、少しは冷静でいられる。栗林は、父を見据えた。

「俺は帰らない。ミノルさんと一緒に、東京へ行かなきゃいけないんだ」

「東京へ…?」

 ここに来る前――縫琴から大羽に来るまでの車中で、ミノルは栗林と嵐にこう告げた。

「東京へ行きます。真実はそこにしかありません」

 そう言ったミノルの、切迫した眼差しが――栗林の頭から離れない。

「駄目よ、そんなこと。後のことはタケルとススムお義兄さんに任せて、あなたたちは大羽で大人しくしていてちょうだい」

 アズサが言い、米倉も「そうだ」と頷いた。

「4代目の仇を討ちたい気持ちは分かるが、もうてめえらに出来ることはねえ。自分の身の安全を一番に考えろ」

「若頭…」

 秋津一家元若頭・米倉は、諭すように言った。

「総長は、お前やミノルさんがこれ以上、4代目の死に縛られることを望んじゃいねえ。総長の温情が分からねえのか」

「総長が…そんなことを」

 絶句する栗林に、ノボルが穏やかに声をかける。

「アキラ。タケルさんと米倉さんがこう仰ってくれてるんだから、何も気にすることはない。帰ろう」

「父さん…」

「大羽にいても、出来ることはきっとある。東京へ行こうだなんて、お前がそこまで気負わなくたっていいんだ」

 父も、米倉も、アズサも、みんな栗林に優しい眼差しを向けてくれている。

 反応に迷う栗林の背中を、嵐が「やったじゃーん!」と威勢よく叩いた。

「マロン林、もうお役御免だってさ!ちょっと早いけど、冬休みってわけだ。おめっとさん!」

「ふ、冬休みって…。そういう問題じゃないでしょう」

「いいじゃねえか、心おきなく休めば。そうだ、この機に嫁さんでも探しちゃえば?マロン林、まだ独身なんでしょ?お見合い、俺が世話してやってもいいぞぉ」

「お見合い…」

 そこで、栗林の脳裏を閃光が走った。

 ――そうだ。10年前のあの日も、俺はお見合いに行かされていた。

 もう27歳なんだからいい加減に身を固めろ、とイサオから強く言われ、栗林は渋々、彩北にあるキャンドルホテルでのお見合いに向かった。

 正直、栗林は結婚なんてする気になれなかったが――イサオの奨めで、しかも仲人がススム、更にタケルまで立ち会うと言われ、断れなかったのだ。

 栗林も一応、秋津一家の血を引く人間だから気を使ってくれたのかもしれない。それにしたって、大げさすぎる扱いに栗林はかなり困惑した。

 しかも、お見合い相手は彩北の企業の社長令嬢だった。秋津一家でヒラの組員をしている栗林とは、到底釣り合わない高嶺の花だ。

 本人も両親もすこぶる感じの良い人たちだっただけに、栗林はますます居たたまれなくなった。

 ――俺なんかより、ユタカさんに紹介すればいいのに。

 麻雀狂いで30代のミノルは絶望的として、当時、栗林より2歳下の25歳だったユタカもまた独身だった。 

 秋津一家の御曹司、ゆくゆくは朱雀組も背負うことになるかもしれない立場だけに、イサオとしても嫁探しには慎重なのかもしれない。

 とはいえ、タケルの息子で同じく栗林と仲が良かったリキはとっくに結婚し、双子の娘を持つ父親になっている。

 イサオ、ススム、タケルにしても若くして所帯持ちになっており、秋津一家は総じて結婚するのが早い。その中にあっては、ユタカも栗林も独り身が長いと言われざるをえなかった。

「俺、結婚なんかしたくないですよ」

 キャンドルホテルに行く前――お見合いの話をイサオ本人から直々に切り出された後、栗林はユタカにそんな風にこぼした。

 この頃には、栗林がユタカと顔を合わせる機会はめっきり減っていた。栗林は朱雀組の最高顧問となったミノルの側近として東京や全国各地に出向いていたし、ユタカもまた、天下の朱雀組の4代目となった父・イサオの傍で見習いに励んでいた。

 昔は毎日、栗林とユタカとリキの3人で一緒にいた。アズサかカグラの元で飯を食い、赤陽館で空手や柔道の稽古をして、一緒に風呂に入っていた。

 リキの提案で、タケルと米倉のバイクを盗んで彩北まで走ったこともあった。

 リキがタケルのバイクに乗り、栗林はユタカと一緒に米倉のバイクに乗った。父譲りでバイク好きだったリキは楽しそうだったが、栗林は内心、タケルと米倉の怒りを想像して、生きた心地がしなかった。

「あははははっ!楽しいね、クリリン!」

「はは…そうですね」

 背中にしがみつくユタカがずっと笑いっぱなしだったせいで、結局、栗林もつられて大笑いしながら、ツーリングを楽しんでしまった。

 悪ガキ3人を待っていたのは、目を三角にしたアズサと、仁王立ちするタケルと米倉の拳骨だった。罰として、赤陽館の掃除を一か月も命じられたが、3人だとそれすらも楽しかった。

 だが――最年少のリキが堅気になって就職すると言い出し、秋津一家を抜けて上京してから、3人はすっかり離れ離れになってしまった。

 この時だけは珍しく、大羽で栗林がユタカと話が出来たのは――今になって思えば、偶然ではなかったのかもしれない。

 駄々をこねる栗林に対し、ユタカは軽く笑った。

「ははっ、そうだね。独りで気楽なほうが、クリリンには合ってるかもしれない」

「そうでしょう?ユタカさんから、4代目にそう言ってくださいよ」

 半ば冗談、半ば本気で栗林が頼み込むと、ユタカは笑みを引っ込めた。

「それは駄目だ。パパとススム叔父さんがせっかく用意してくれた縁談を断るなんて、相手に対してメンツが立たないだろう。観念しろ、クリリン」

「うう…」

「心配するな。パパがいいお嬢さんを見つけてくれたし、きっと仲良くなれる。リッキーだって結婚してから、すごく幸せそうじゃないか」

「リキさんはそうですけど…」

 リキが双子の娘・モミジとカエデを可愛がっていることは、栗林も知らぬではない。

 親友の幸福は素直に祝福できるが、自分のこととなると話は別だ。口元をムニャムニャさせる栗林に、ユタカが笑みを引きつらせた。

「みんな、クリリンにはミノル叔父さんみたいに適齢期を逃して欲しくないんだよ。このままじゃ、クリリンがミノル叔父さんのお嫁さんみたいじゃないか」

「不気味な言い方しないでくださいよ…」

 栗林とて、ミノルと10年も同居し、すっかり親子か夫婦のようになった今の暮らしが健全だと考えているわけではない。結婚するなら、自分よりミノルのほうが先じゃないかと思っているだけだ。

「ボクだって、クリリンにはけっ…けけっ…けっけけ…結婚して、欲しいしさ」

 やたら噛んでから言うと、ユタカはぷいっとそっぽを向いた。

「ユタカさん…」

 心なしか、ユタカの肩が震えているように見えて――栗林は胸が詰まった。

 ――ユタカさんは、俺の将来を真剣に考えてくれているのかもしれない。

 何やら、27歳にもなって結婚が嫌だ、お見合いが嫌だと駄々をこねている自分が、恥ずかしくなってくる。

 それでも、栗林の気持ちは変わらない。ユタカの背中に向かって、栗林はこう言った。

「俺、ユタカさんより先には結婚しませんよ」

 その時、ユタカがどんな顔をしていたのか――ちゃんと見ておかなかったことを、栗林は今でも悔やんでいる。

 何故なら、キャンドルホテルでのお見合いから帰ってきた栗林を待っていたのは、『ユタカが青龍会に寝返った』というとんでもない報せだったからだ。

 あのユタカが秋津一家から離反したなんて信じられなかったし、何より自分がいない間にそんな大事件が起こったことが、栗林はかなりショックだった。

 ――あの時、ユタカさんは本当は何か別のことを言おうとしていたんじゃ…。

 最後に会った時にユタカの本心を見抜けなかったことが、どうしようもなく悔しかった。とてもじゃないが結婚なんて気にはなれず、栗林は縁談を丁重に断った。

 イサオもススムも破談になったことを咎めなかったが、今にして思えば――栗林の縁談は、仕組まれたものだったのではないか。

 ユタカを青龍会に潜り込ませるのは、極秘中の極秘だ。青龍会は勿論、秋津一家の身内にも秘さなければならない。

 その上で、最も邪魔なのが、ユタカに近しい栗林だった。だから、ユタカが青龍会に入るまさにその日、栗林は『お見合い』という名目で、彩北へと遠ざけられたのだ。

 今になってそのことに気付いて、栗林の中でむくむくと怒りが頭をもたげてきた。

 ――父さんも、4代目も相談役も総長も……みんな勝手じゃないか。

 ユタカの青龍会入りの真相を知った今――この10年、ずっと栗林の胸で燻っていたものが、一つの形を成そうとしていた。

「…ユタカさんは、どうなるんですか」

 栗林が不意に口にした名前に、米倉とアズサがハッと顔色を変える。

 秋津一家から離れ、10年もの間、宿敵・青龍会の手先になって生きてきたユタカ。

「4代目の死に縛られるなと言うなら、ユタカさんはどうなるんですか」

「それは…」

「ユタカさんに青龍会行きを命じた4代目はもういない。ユタカさんは、いつまで青龍会にいればいいんですか」

 今になって、自分が春先に夏目さやかを陥れた理由が分かる。

 あの忌まわしい苅屋と再び手を組み、卑劣な手段を使ってでも夏目さやかを捕まえようとしたのは、イサオとミノルの恨みを晴らすためだけではない。

 ――4代目の死の真相が分かれば、ユタカさんが戻って来るんじゃないかと思ったから。

 イサオを殺したのはユタカではないか、という噂を信じたわけではない。イサオが死んだ今、ユタカが秋津一家に帰る理由を失くしたことに、心のどこかで気付いていたのかもしれない。

「このままじゃ、ユタカさんは一生、青龍会から抜けられない。だから、俺とミノルさんは東京へ行かなきゃいけないんです。4代目を殺した犯人を暴き、ユタカさんに帰って来てもらうために」

 きっぱりと告げた栗林に、米倉もアズサも言葉を失う。

「カッコいいぞぉ、マロン林」

 嵐が茶々を入れ、ノボルは――じっと息子を見据えていた。



 その頃、同じ屋根の下にある寝室では、ミノルが目を覚ましたところだった。

「あいたたた…」

 わざとらしく首を押さえながら起き上がったのは、すぐ隣に座す兄への嫌味だ。

「………」

 タケルは腕を組み、仏頂面で座っている。

 ミノルは、サイドテーブルに置かれた眼鏡をかけた。

「なんだか、こうしていると入院していた頃を思い出して嫌ですねえ。ああ、それとも、『殴ってごめんなさい』とでも言ってくれる気になりましたか?」

「お前の気持ちは分からんでもない」

 ミノルの冗談は無視して、タケルは話し出した。

「両親を幼い頃に亡くしたお前にとって、4代目は兄という以上の存在だっただろう。朱雀組に入り、お前が麻雀で食っていけるようにしたのも4代目だ。恩という言葉では収まるまい」

 だが、と言って、タケルはミノルを――黒かった髪が銀髪になってしまった弟を見つめた。

「お前がそんな姿になったのもまた、4代目のせいだ。青龍会、そして5代目の陰謀が動き出している今、麻雀しか能のないお前に闘う術はない」

「はっきり言いますねえ」

 ふふっ、と笑って――ミノルはやっと、この5歳上の兄とケンカしてばかりいた理由が分かった。

 ――タケル兄ちゃんはきっと、僕だち兄弟の中で一番、優しいんだ。

 何かあればすぐ幼いミノルのことを殴ったのも、イサオと違ってミノルの麻雀の腕をちっとも褒めてくれなかったのも――タケルなりに、ミノルのことを案じていたからだったのだろう。

 破天荒なイサオや仕事人間のススム、そして不良の自分みたいにはならないようにと、タケルはミノルに敢えて厳しく接していたのかもしれない。

 ――だけど、僕はタケル兄ちゃんほど優しくはなれないよ。

 これからミノルが行くのは、これまでの自分自身を粉々に打ち砕き、破壊し尽くす地獄の道だ。

 それを、目の前にいる優しい兄にも伝えなければならなかった。

「昭和26年3月3日……何の日か、覚えていますか」

 ミノルが不意に出した日付に、タケルは一拍遅れて返事をした。

「……ユタカが生まれた日だ」

「そう。イサオお兄さんとカグラお義姉さんが授かった、4人目の子。今度こそ男の子だと、2人ともそれはもう、赤ちゃんが生まれて来るのを待ち焦がれていました」

 ミノル自身、カグラが身重の体を押して毎日、大羽の神社に安産祈願しに行くのによく付き添っていた。

 今度こそ跡継ぎを、と願う義姉の真剣な横顔を見るにつけ、ミノルも子供の誕生を待ち望むようになっていた。

「僕も、弟が出来たら嬉しいなんて思っていたんです。アカネお姉さんが生んだ栗林のことは、ノボルさんが彩北へ連れて行ったところでしたし」

 女傑だったアカネの死から2年――大羽の誰もが、明るい報せを期待していた。

 10歳だったミノルはイサオとススムと共に、病院でカグラの出産を今か今かと待ち受けていた。

「総長だけはいらっしゃいませんでしたね。米倉君たちと、バイクでひとっ走りしてたんでしたか」

「…ああ」

 4人目にもなる子供で何をそんなに大騒ぎしているのか、と、タケルだけはカグラの出産に付き添わなかった。タケルが一匹狼なのはいつものことなので、咎める者もいなかったが。

 病院の待合室で、ミノルが船を漕ぎ始めた夜半過ぎ――イサオが医者に呼ばれて、病室へと入った。

「赤ちゃん、生まれたのかな」

「いや…何か、様子が変だ」

 ススムはミノルに「ここで待ってろ」と言って、自身も病室へと入った。

 5分経ったか、10分経ったか。病室から出てきたススムの顔つきは、暗かった。

 ――まさか…。

 子供とはいえ、ミノルもそれなりに物心がついてきた頃だ。死産や流産といった最悪の事態が、頭をよぎった。

「何があったの?」

 ミノルが待合室の椅子から身を乗り出すと、ススムが疲れた笑みでポンと頭を叩いた。

「赤ちゃんは無事に生まれてきたよ。男の子だ」

 ただ、と言って、ススムは眼鏡の奥の瞳を曇らせた。

「どうも、心臓に異常があるらしくてな。このままだと一週間、いや3日も生きられないかもしれない」

「えっ…」

 ミノルは言葉を失い、ススムもまた、ふうと深い溜息を吐いた。

「とにかく、やれるだけのことはやってみる。俺と兄貴はとりあえず知り合いの医者に片っ端から連絡するから、ミノルは家に帰ってろ」

「でも…カグラお義姉さんは?」

 義姉の心配をするミノルに、ススムは首を横に振った。

「今はそっとしておいてやれ。俺も見てられん」

「うん…。分かった」

 ミノルは頷いて、病院を出て行くススムを見送った。

「………」

 人気のない院内をぼんやりと見つめながら、ミノルはふと思った。

 ――男の子ってことは、赤ちゃんの名前は『ユタカ』だ。

 つい先日、大きなお腹を幸せそうに撫でていたカグラとした会話を思い出す。

「この子の名は『ユタカ』にする、とイサオ様と決めたのですよ」

 いつもは厳格で、時に般若にすら見えるカグラの美貌だったが、この時は菩薩のように優しげだった。

 ミノルは傍らで幼い姪たち――イサオとカグラの三人の娘たち――と遊びながら、素朴な疑問をぶつけた。

「どうして男の子だってわかるの?」

「母には何でも分かるのです」

「女の子だったらどうするの?」

 3人の姪たちは皆可愛いし、ミノルとしては4人目の姪っ子誕生でも別に良かった。

 不躾なミノルの問いに対して、カグラは怒りもせず、笑みを浮かべて答えた。

「女子だったら、『モモカ』という名にします。3月に生まれる子ですから」

 男でも女でも、生まれて来る子が心から愛おしいのだということが、カグラの表情に滲んでいた。

 それなのに――生まれて来たユタカは、たった一週間の命すら与えられていなかった。桃の花すら見ることなく、この世から去ろうとしている。

 ――ユタカ!

 ミノルはどうしようもなくユタカに会いたくなって、看護婦の目を盗んで新生児室へと向かった。

「秋津ユタカ…この子だ」

 心臓に異常があると言われた子だったが、他の赤ん坊と同じように、名札のついたゆりかごに寝かせられていた。当時の大羽は貧しい田舎だったため、ユタカのような特殊な嬰児を扱える医療設備がなかったのだろう。

 生まれたばかりのユタカは小さく、弱々しかった。今にも死神の手にさらわれてしまいそうに見えて、ミノルはゆりかごの前から離れられなかった。

 ――死神なんか、僕が君に寄せ付けるもんか。

 イサオとカグラの最愛の子を、守ってやりたい。その一心で、ミノルはゆりかごの前に貼りつき続けた。

 どのぐらいそうしていたか――いつの間にか、ミノルの背後に男が立っていた。

 ――死神!

 咄嗟にそう思ったのは、ミノルがまだ幼少だったせいか。それとも、その男が医者ではなく、裏社会の人間だと、本能的に察したからか。

 ミノルがはっと振り向くと、そこにいたのは死神のように黒く長いコートをまとった男だった。

「こんばんは」

 男は若く、女と見紛うばかりの美形だった。物腰も穏やかだったが、妙に気に障る声をしていた。

 シャラリ、と音がして、男の首元で白い数珠が揺れる。ミノルには、それが死神のぶら下げた髑髏のように見えた。

「君は……その子のお兄さんかな?」

 ミノルが答える前に、男はぬっとユタカに顔を近づけた。

「いい子だね……。きっと、この子はとても立派な人間になるよ…」

 男は、黒いコートの袖から手を出した。一度も日に当たったことがないのかというぐらい、青白い腕だった。

「タカマガハラはこの子のためにある…永い永い歴史の連なりに、この子の名が刻まれるだろう…」

 目には見えない瘴気が、男から煙のように伸びていく。その瘴気はユタカを包み、この世ならざる場所へと連れ去ろうとしている。ミノルには、本当にそう見えた。

「やめろ。ユタカに触るな」

 すると、男はゆっくりとミノルを見下ろして、笑みを浮かべた。

「君は、生まれ変わりを信じるかい?」

「…生まれ変わり?」

「神様に選ばれた人間は、生きているうちに生まれ変わることが出来るんだ。この子もその一人…」

 男の言っている意味は分からなかったが、その言葉が呪詛のようにユタカを縛り付けるような気がして、ミノルは遮った。

「うるさい。ユタカは生まれ変わりなんかしない」

「イザナギ……」

「えっ?」

 男はユタカを大切そうに見つめながら、すっと身を翻した。

「この子に与えられる、もう一つの名前さ。覚えておきたまえ…」

 去り際、男の黒いコートの襟元に、鈍色の小さなバッジが光ったのをミノルは見逃さなかった。

「………」

 男との遭遇が、あまりにも不吉な予感を帯びていたせいか。或いは、夜遅くまで起きていたせいで、その後すぐに眠り込んでしまったせいか。

 ミノルはこのことを誰にも言わず、また、思い出すこともなかった。



「確かに言えることは――その後、ユタカが東京で手術を受けたこと、そして35年経った今に至るまで、健やかに生きていること」

 長い回想を終え、ミノルは兄、タケルに視線を戻した。

「35年前のあの日、イサオお兄さんはユタカを救うために、何らかの禁忌を犯した。その報いが、今になってお兄さんを死に至らしめたのではないか。僕はそう考えています」

「お前の想像に過ぎん。何を根拠に」

 そこで、ミノルの蘇芳色の瞳がすうっと冷たくなった。

「玄武会。この名は、総長もご存知ですね」

「…名前だけは」

 タケルが、怪訝そうな表情をしているのも無理はない。

 玄武会。

 それは戦前から語り継がれる、幻の組織だった。

「江戸時代、或いはもっと昔から、名を変え形を変え、この国に存在し続けるという組織。彼らはヤクザなのか、それともまた別の存在なのか。それすらも分からないのに、裏社会の人間ならば誰もがその名を知っている」

 ミノルの語りに、タケルが首を傾げた。

「おとぎ話のようなものだろう。その玄武会が、4代目を殺したというのか」

 まだピンと来ていない兄に、ミノルは人差し指を立てた。

「『タカマガハラ』は玄武会が擁する研究所のこと。玄武会がそこで人体実験をしている、というのは有名な話です」

「人体実験…まさか」

 35年前のユタカの手術に関しては、タケルもミノルも、誰も詳細を知らない。とにかくユタカが助かったというだけで、皆ほっと胸を撫で下ろしたものだった。

 だが、もしも何者かが、幼いユタカに適合する心臓を用意したとしたら――そんなことが可能なのは、玄武会しかいない。

「それに、あの男がコートに着けていたバッジ。あれは、玄武会の代紋と言われる亀甲紋です」

 絶句するタケルに、ミノルはぽつりと言った。

「イサオお兄さんは、東京で恐ろしいものを見た。だから、イサオお兄さんは変わってしまった。…戦後、大羽に帰ってきたイサオお兄さんを見て、アカネお姉さんがそう言っていたそうです」

「…アカネが」

「イサオお兄さんもアカネお姉さんも、もうこの世にはいません。真実を知るのは、東京にいるカグラお義姉さんのみ」

 ミノルは、懐から『百塔』の牌を出した。

 牌を開き、中にあったおみくじを広げてタケルに見せる。

「…4代目の字か」

 ミノルは頷き、兄に真摯に訴えた。

「僕たちは、地獄の扉を叩かなければなりません。真実を知るために」



 束の間、栗林の威勢に気圧されかけた米倉だったが、すぐに体勢を立て直した。

「…栗林。お前が、御曹司を心配するのは俺にも分かる。しかし、それならなおさら自重してくれ」

「何故です」

 前のめりになる栗林に対し、隣の嵐がびしっと指さした。

「マロン林じゃ、弱すぎて青龍会と戦えないから」

「そんなあからさまな言い方をするな!って、あっ…」

 思わず言ってしまってから、米倉は口元を手で覆った。

「………」

 栗林は口を真一文字に結び、それからキッと顔を上げた。

「分かりました。どうしても駄目だと仰るなら、俺は秋津一家を抜けます」

「おい、栗林!お前、自分が何を言ってるかわかってるのか」

「分かっています。その証拠に」

 栗林が蒼ざめた顔でスーツから取り出したものを見て――米倉は勿論、嵐ですら呆然とした。

 金色に輝く二丁拳銃――栗林が改造した『金烏・玉兎』だ。

「マロン林、そんな物騒なモン隠し持ってたの?」

「…一応。万が一の時のために」

 銃床には、それぞれ烏の絵と兎の絵が彫刻されている。栗林が20年に渡って続けてきた拳銃改造の、集大成というべき代物だ。

「この銃に名前を付けてくれたのは、ミノルさんです」

 拳銃改造がユタカとリキにバレて、程なくしてミノルにも露見した。同居しているミノルに隠すのは、そもそも至難の業だったのだ。

「ふーん。よくこんな面倒臭いことをするね」

 若いミノルはそう言って、栗林が二丁の拳銃を改造していることに目を留めた。

「金烏玉兎」

「えっ?」

「太陽と月って意味さ。大事なものには名前を付けておきな」

 改造拳銃が、自分にとって大事だなんて思ったこともなかったが――ミノル、そしてユタカとリキのおかげで、拳銃の改造は『悪事』ではなく、栗林の『能力』になった。

「俺は…俺たちは、東京へ行きます。ミノルさんを、ここから解放してください」

「お前っ……」

 拳銃を持つなんて秋津一家の法度だとか、そもそも未だに拳銃の改造なんて真似を続けていたのかとか、米倉の喉元で言葉が大渋滞していた。

 そんな米倉より先に、アズサが割って入った。

「栗林君。私の話を聞いてちょうだい」

「…何でしょうか」

 アズサ相手に銃口を向けるのは流石に野蛮な気がして、栗林の態度が少し軟化する。

 アズサは長い睫毛を伏せ、深い声で語った。

「タケルも米倉君も、おためごかしを言ってるわけじゃないの。1月にイサオお義兄さんがあんなことになって、ミノル君も意識不明の重体で――私もタケルも、ススムお義兄さんもみんな、ミノル君まで死んでしまうんじゃないかって、本当に怖かったのよ」

「それは…俺だって」

 言いかけた栗林を手で制し、アズサは首を横に振った。

「今はいつ、味方が敵になってもおかしくない状況よ。女の私が口を出すことではないけれど、5代目も、ススムお義兄さんも、そしてあなたが心配しているユタカも…いつ、あなたの命を狙うかわからない。その覚悟はあるの?」

「アズサさん…」

 アズサの気迫に、栗林は圧倒された。

 アズサは両隣にいる米倉とノボルを交互に見やった。

「私たちはこれ以上、大切な人が血を流すところを見たくないの。ミノル君と栗林君に何かあったら、一生苦しむ人間がこんなにいるのよ。分かってるの?」

 悲痛さを帯びたアズサの声に、栗林は返事に詰まった。

「でも……でも、俺は行かなきゃならないんです」

「栗林君!」

 アズサが、キッと眦を上げて栗林に手を上げる。

 ――叩かれる!

 全身に響くタケルや米倉の拳骨よりも、アズサの平手のほうが痛い。それは、赤陽館で悪ガキ時代を過ごした栗林とユタカとリキの共通認識だった。

 アズサが手を振り下ろそうとした、まさにその瞬間だった。

 ガターン!!!

 壁に掛けられていた写真のうちの一つが、まるで意志を持ったかのように舞い上がり――不自然な軌道を描いて、勢い良くテーブルの上に落下した。

「………!」

 黒い額縁の中で微笑んでいたのは、他でもない栗林の母――アカネだった。

「誰、これ?」

 一人だけ首を傾げる嵐を無視して、残った4人はしばし沈黙した。

「………」

 震える唇を噛み締めているアズサの肩を、ノボルが叩いた。

「アキラを行かせてやりましょう」

「ノボルさん…!ノボルさんだって、心配なんじゃないですか」

 食い下がるアズサに、ノボルはそっと自分の左手を――結婚指輪が輝く薬指を見下ろした。

「心配です。でも、アカネが行かせてやれって言ってます」

 胸の底で考えていたのと同じことをノボルに言われ、アズサの瞳に涙が滲んだ。

 ――そう。息子を死地に赴かせるなんて、ひどい母親ね、あなたは…。

 でも、今の栗林は強引で自分勝手で、自分の意志を強く持っている。まるで、かつてのアカネのようだ。

 これでいいのかもしれない――と、アズサは思った。

 ――栗林君…いいえ、アキラはあなたの息子だものね。私なんかに止められる人じゃないのね、きっと…。

 写真の中のアカネは、身を呈して栗林を庇った。それが意味することを、アズサもノボルも神妙に受け止めていた。

「母さん…」

 栗林がぽつりと呟くと、嵐が「えっ!?これ女!?」と、驚きの声を上げた。

 そこで、ガラガラと居間の扉が開いた。

「どうも、皆さんお揃いで。…おや?アカネお姉さんの遺影、外れてしまったんですか」

「ジェントル秋津!も~、遅いじゃないっスか。このネボスケさん!」

「アイムソーリー」

 嵐とふざけたやり取りをしながら、ミノルはアカネの遺影をそっと両手で持った。

「アカネお姉さんには、必ず吉報をお届けします。それまで、栗林をお借りしますよ」

 ミノルが語り掛けると、写真の中のアカネが微笑み返してくれたような気がした。

 嵐はミノルと栗林を両腕に抱き、元気よく拳を振り上げた。

「よっしゃー!チーム嵐、東京へ出陣じゃあ!」

「いつから春野さんがリーダーになったんですか!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぐ男たちに、米倉が額に手を当てた。

「…よろしいのですか。総長」

「いいも悪いもない。男には、くぐらねばならない修羅場があるだけだ」

 タケル、ミノル、栗林、そしてユタカ。秋津一家の全員が、これから地獄の門をくぐる。

 その先に何が待ち受けているのかは――まだ誰にも分からない。

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