63話 地獄の扉を叩くものたち・前編
第63話 地獄の扉を叩くものたち・前編
20年前。
17歳だった栗林アキラは、父・ノボルの意向で突然、母・秋津アカネの故郷である大羽の秋津一家に預けられることになった。
――秋津一家って、彩北の白虎組と同じヤクザ…。
死んだ母の弟たちがヤクザだったことも、自分に従兄弟たちがいることも、全てが初耳だった。
秋津一家の本拠・赤陽館の道場では、揃いの紅色の道着を着た若い男たちが稽古に励んでいる。
一糸乱れぬ統率の取れた姿は、素人目に見ても美しい。栗林は、自分が場違いな気がした。
――不良刑事とつるんで悪さしてた俺に、居場所なんかあるわけない。
そんな栗林の内心を吹き飛ばすかのように、初対面の従兄弟は晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。
「ボクはユタカ!君の従兄弟だ。君に会えてすごく嬉しい!」
少年――秋津ユタカから、にこにこと手を握られ、栗林はたじろいでしまった。
――ずいぶん、人懐っこいな…。
ユタカは母親譲りの細面で、父である総長・秋津イサオとあまり似ていない。だが、太陽のように眩しいオーラは瓜二つだった。
「大羽のことは、ボクが全部君に教えるから安心して欲しい。きっと、君にここを気に入ってもらえるように努力するよ。困ったことがあったら、何でもボクに頼ってくれ」
そう言ってこちらを見上げるユタカは無邪気そのもので、栗林は感心してしまった。
――よそ者の俺なんかに、こんなに親切にしてくれるなんて…俺より2歳も下なのに、責任感の強い子なんだな…。
一方、もう一人の従兄弟である秋津リキは、子供らしからぬ落ち着き払った態度だった。
「お前が最年長か。お前に負けないよう、これからはもっと稽古に力を入れなければならないな」
眼差しは父・秋津タケルに似て鋭かったが、リキもまた、力強く栗林の手を握ってくれた。
そこで、ユタカがぴょこんと栗林に近付いた。
「ねえねえ!こっちのリキのことはリッキーって呼んでるんだけど、君のことはなんて呼べばいいかな?」
「えっ?えーっと…」
栗林の返事を待たず、ユタカはぱんと手を叩いた。
「そうだ!栗林だから、クリリンはどうかな?」
「く、クリリン…」
「いいんじゃないか」
と、何故か栗林本人ではなくリキが了承し、栗林は『クリリン』と呼ばれることになった。
同世代の二人が快く迎え入れてくれたこともあり、栗林は徐々に秋津一家での生活に慣れた。
ユタカもリキも、リキの母で面倒を見てくれる叔母・アズサも、栗林が同居することになった変人の叔父・ミノルも、皆気持ちの良い人たちで――栗林がこれまで彩北で会ってきた人間とは、全く違った。
――でも皆、本当のことを知ったら離れていくに決まってる。
実際、栗林の秋津一家入りに、当時若頭だったタケルは猛反対したという。
それというのも、栗林が彩北でやっていた悪行が理由だ。
「拳銃を改造して売っていたような子供など、言語道断。いくらアカネの息子と言っても、そんな奴を秋津一家に入れることは出来ん」
そう――栗林は、不良刑事・苅屋の手引きで闇ルートから拳銃を手に入れ、持ち前の器用さで改造して密かに売っていたのだ。
正直、自分でもどうしてそんなことをしていたのかは説明できない。金が欲しかったわけでも、誰かを傷つけたかったわけでもなかった。
ただ、母であるアカネの命を奪った凶器が――父の心を永遠に母に繋ぎ止めるその根幹が、自分の手で作り替えられていくことに、グロテスクな喜びを覚えていたのかもしれない。
――俺は、どうしようもないクズだ。ユタカさんもリキさんも、いずれは俺を見放すに決まってる。
ユタカは15歳、リキは14歳で、栗林より年下だったが、ユタカは秋津一家の『御曹司』、リキは『若』と呼ばれる立場だった。2人の空手の腕前や人柄に敬服したこともあり、栗林は自然と2人をさん付けで呼ぶようになっていた。
大羽に来てからも、栗林は裏山にある山小屋でこっそり拳銃の改造を続けていた。
彩北にいた時のように、他人に売るつもりはない。ただ、拳銃をいじっていると不思議と落ち着くため、何となく続けていた。
当然の結果として、ユタカとリキには拳銃の改造がバレた。2人とも、非常に勘が鋭く、栗林が人目を忍んで山小屋に行ったにも関わらず、あっさり見つかってしまったのだ。
従兄弟たちの軽蔑の目線を覚悟した栗林だったが、返ってきたのは想像とは真逆の反応だった。
「すっごーい!クリリンは器用なんだね」
「えっ…」
「わあ、普通の拳銃より銃弾の装填数が多いんだね。引き金も軽くなってる。撃ってみていい?」
改造拳銃にキラキラした瞳を向けるユタカに、栗林は言葉が出てこなかった。
「そうだ!これからは、ここに来る時は、ボクと2人で来よう。ボクと一緒なら、皆に怪しまれない」
ねっ、と笑顔で念を押すユタカに、栗林はただ戸惑った。
――どうして、俺なんかのためにそこまで…。
「あまりいい趣味ではないな…」
ユタカとは対照的にちょっと眉をひそめるリキに、栗林はハッとした。
「…若頭に言いつけますか」
「親父に?ハッ」
リキは吐き捨てるように言うと、楽しそうに拳銃を眺めるユタカの隣にどっかと腰かけた。
「言わん。言う必要もない。親父がどんなに反対しようと、栗林は栗林のやりたいことをやればいい」
「そ…そうですか?」
普段は寡黙で冷静なリキだが、こと父・タケルのことになると、ムキになるところがある。
タケルとリキは似たもの同士だから、反発し合っているのだ――とミノルが言っていたことを栗林は思い出した。
「親父は器が小さい。栗林がやっていることを受け入れるだけの度量がないんだ」
「こんなに上手なんだから、きっとクリリンに向いてるんだよ。続けたほうがいいよ!」
ユタカとリキの思わぬ優しい反応に、栗林は少しホッとして――安堵しかけた自分自身に、嫌悪感を抱いた。
「……でも、俺はこういう人間なんですよ。お二人と、肩を並べる資格はありません」
母親の命を奪った武器を日夜いじっているなんて――自分でも、どうかしていると思う。
だが、記憶にない母の悲劇が、栗林にはずっと重荷だった。父が自分ではなく、ここにはいない母を見ていることに、行き場のない苛立ちを抱いた。
拳銃の改造なんかに手を出したのは、母への憎悪なのだろうか。そうだとしたら、自分はなんて歪んだ人間なのか。
きっと、父もそんな自分を見限って、秋津一家に預けたのだろう。若かった栗林は、半ば本気でそんな風に思っていた。
栗林が正直に胸の内を打ち明けると、リキがぽつりと言った。
「…お前は悪い奴じゃない。自分のことを悪い奴だと思い込んでいるだけだ」
ユタカは、大切そうに拳銃を両手に抱いた。
「この銃は、クリリンが大事な誰かを守るために使えばいい。そうすれば、今クリリンの胸の中にある嫌なものも消えてなくなるよ」
ユタカの言葉は、栗林には全くなかった発想だった。
どこまでも澄んだ瞳に気圧されそうになって――栗林は、思わずふっと自嘲した。
「…俺には、守りたい誰かなんていませんよ」
「じゃあ、ボクがクリリンに守りたいものをあげるよ」
真意を測りかねた栗林が、怪訝そうに見つめ返しても、ユタカは微笑んでいた。
――俺が守りたいもの……。
10年後――ユタカが大羽から消えたその日に、栗林はその答えを知った。
それからさらに10年経った、秋津一家本部・赤陽館。
早朝の冷たい空気の中、5人の男が顔を揃えていた。
秋津一家総長・秋津タケル。
秋津一家元若頭・米倉薫。
秋津一家最高顧問・秋津ミノル。
そして、組員の栗林アキラと、一般人の春野嵐。
男たちの間では、昨晩のうちに情報が駆け抜けていた。
「昨夜、縫琴市内を逃走していた朽木貴彦・夏目さやか両名が、青龍会桃華組・源清司と遭遇。朽木の所在は未だ不明です」
「夏目さやかは白虎組・冬枝誠二と合流後、再度、源と遭遇。冬枝は源と交戦後、所在不明」
「夏目さやかは源に連れられて桃華組のヘリに搭乗したとみられますが、そのヘリが何者かによって撃墜。夏目さやか・源共に生死不明」
状況を確認し、一室は重い雰囲気に包まれた。
この中では唯一の堅気、嵐はギリッと膝の上の拳を握り締めた。
――考えうる限り、最悪の事態だ。
朽木にさらわれたさやかを冬枝が連れ戻すはずが、全員、生きているのかさえ分からない状態になってしまった。
嵐は、手のひらをそっと開いた。
握り締めていたのは、割れた小さな手鏡――『めいこ』という見覚えのある筆跡が、ひび割れながらもキラリと輝く。
昨晩、ミノルと共に駆け付けた産城大橋の上でこの鏡を拾った時――嵐には、朽木の無念が割れた鏡面から滲んで見える気がした。
――朽木もダンディ冬枝も、源にやられちまった。そしてさやかは…。
「桃華組のヘリを撃墜したのは、一体何者なんでしょうか」
米倉の当然の疑問に、ミノルが蘇芳色の瞳を開いた。
「相談役でしょう」
「相談役が…!?ミノルさん、本気で言ってるんですか」
米倉が、思わず椅子から立ち上がる。
相談役――すなわち秋津一家と朱雀組の相談役・秋津ススムは、秋津四兄弟の次男であり、タケルとミノルの実兄だ。
ヤクザというより事業家としての顔が濃く、兄・秋津イサオの死を巡るこの騒動にも、終始冷静に対応していた。そのススムが、夏目さやかの乗ったヘリを撃ち落としたなど――米倉には信じがたかった。
「……」
タケルは動じない。無言で、ミノルに続きを促した。
ミノルは、人差し指をぴんと立てた。
「ゆうべ、マユミお義姉さんから電話がありましてね」
「マユミさんから…?」
秋津マユミは、ススムの妻である。普段は東京で暮らしており、夫の秘書のような役目をこなしている。
温厚で、ちょっぴり心配性な義姉は、ミノルにこんな話をしてきた。
「なんでも、相談役がいやに深刻な表情で、『マヤ』という方と電話していたとか」
「マヤ?女ですか」
「マユミお義姉さんも、そう考えたようですが…恐らく、マヤというのは5代目のことでしょう」
「5代目…!?」
驚く米倉に、ミノルは説明してやった。
「5代目は神戸のご出身。『マヤ』は、地元の摩耶山のことかと」
「な、なるほど…。ですが、相談役は5代目の側近みたいなものでしょう。電話ぐらいしたっておかしくないんじゃありませんか」
そこで、今まで黙っていたタケルがようやく口を開いた。
「桃華組にヘリを提供しているのは、相談役の息がかかった企業だ。相談役ならば、ヘリが飛ぶ場所と時間を特定することは容易い」
「そんな…総長!」
桃華組組長・秋津ユタカが、父・イサオの意志を受けて青龍会に入ったことは、米倉も知らぬではない。そのユタカを、叔父であるススムが密かに援助していたことも頷ける。
「だからって、なぜ相談役が夏目さやかを殺すんですか。そんなことをしたら、4代目の死の真相は永遠に闇に葬られる」
「米倉っちが言うと、説得力ねえなあ」
横から嵐に茶々を入れられ、米倉の肩から背広がずるっとずり落ちた。
「なんだ、てめえ!だいたい、なんで組員でもない奴がここにいるんだ」
「それを言ったら、君も組員ではありませんよ。米倉君」
ミノルからやんわりと窘められ、米倉は返答に詰まった。
米倉が若頭の座を追われたのは、さやかと白虎組組長・熊谷雷蔵を拉致監禁した咎である。
言葉を失った米倉に代わって、タケルが口を開いた。
「相談役は、使い走りに過ぎん。黒幕は5代目だ」
「仰る通り」
ミノルの脳裏をよぎったのは、朱雀組5代目組長・柘植雅嗣の陰気な横顔だった。
しょげていた米倉が「じゃあ」と話を継いだ。
「夏目さやかの口を封じたということは、5代目が4代目殺しの仇ってことですか」
「その可能性も、否定はできませんが…5代目の意図は、恐らく別のところにあります」
任協界の革命児だった先代・秋津イサオの影に隠れてはいるが、柘植もまた地方ヤクザの筆頭だ。その卓見は、凡人を凌駕している。
「5代目が本当にさやかさんの口を封じるつもりなら、もっとバレない方法がいくらでもあるでしょう。それこそ、スパイである朽木君に命じることだってできたはず」
「た、確かに…」
「さやかさんを源清司の手から取り戻すには、ヘリを撃ち落とすしかなかった。かなり強引な方法ではありますが、それが5代目と相談役の出した結論だったのでしょう」
「強引なんてもんじゃありませんよ!現に夏目さやかは行方不明だ」
「ですが、死体が見つかったという報告もありません」
ミノルのはっきりとした言い方に、米倉がハッとする。
眼鏡の奥の瞳は、淡々と――しかし、絶対に勝負を捨てていない眼だった。
――さやかさんも冬枝君も朽木君も、必ず生きている。こんなところでくたばるタマじゃないと、僕は信じています。
「………」
米倉は、言葉を選ぶように視線をさ迷わせた。
「…ミノルさんの言い分は分かりました。ですが、こんなやり方は俺は納得できません。5代目も相談役も、夏目さやかが死んでも構わねえって言うんですか」
「だからー、米倉っちが言うなっつの」
嵐がまたも茶化したが、米倉は無視した。
「4代目の仇は絶対に討たなきゃならねえ。それは、俺も承知しています。ですが、天下の朱雀組が女の乗ったヘリを落としたって言うんじゃ、世間からどんな謗りを受けることか。これじゃ、青龍会の連中と違わねえ」
「米倉君…」
ミノルが米倉を宥めようとしたところで、おもむろにタケルが立ち上がった。
「総長?」
「米倉の言にも一理ある」
それから、タケルはすたすたとミノルの席に近付き――何食わぬ顔で、弟の首に手刀を叩き込んだ。
「……!」
ミノルが一瞬、目を見開き――それから、ふわりと銀髪を靡かせて、椅子から倒れた。
ボルドーレッドの中折れ帽が、はらりと宙に舞って落ちる。栗林が、慌てて駆け寄った。
「ミノルさん!」
「米倉。ミノルをうちに連れて行け」
「はっ…総長のご自宅にですか?」
米倉は、手早くミノルを肩に担いだ。
呆然とする栗林に代わって、嵐が割って入った。
「ちょっと待ってよ、米倉っちにタケルっち!」
「ああ!?てめえ、総長に向かってなんて口の利き方しやがる!」
怒鳴りつける米倉を遮り、嵐はタケルに食ってかかった。
「ジェントル秋津を…ミノルさんを、どうするつもりっスか」
タケルは一拍置いて、ゆっくりと嵐を振り返った。
「貴様も、この件からは手を引け。堅気の人間が関わっていい話ではない」
タケルの言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
ガラガラと広間の扉を開け、米倉が外に控えていた若者に命じた。
「穂積。そこにいるお客さんを送ってやれ」
「はい!」
穂積と呼ばれた若者に追い立てられるようにして、嵐と栗林は赤陽館を出た。
嵐がちらっと振り返ると、米倉の肩越しに、ミノルの銀髪が頼りなく覗いた。
――ジェントル秋津……。
「なんだよ、タケルっちの奴ぅ。イケズなんだからっ」
赤陽館の玄関前でとんでもない軽口を言う嵐に、栗林が血相を変えた。
「や、やめてくださいよ、春野さん。総長には、総長のお考えがあってのことでしょう」
多分…と口元をムニャムニャさせて、栗林は俯いた。
「ジェントル秋津もジェントル秋津だよ。麻雀は強いくせに、一撃でお兄ちゃんにノックアウトされちまってるじゃねえか。ダンディ冬枝だったら、もうちょっと粘るぞ」
「何を言ってるんですか!冬枝さんだって、総長には手も足も出ませんでしたよ」
栗林の憤慨はさておき、嵐はうーんと伸びをした。
――ダンディ冬枝もジェントル秋津も役に立たないとあれば、ワイルド嵐が頑張るしかないっしょ。
「ねえねえ、マロン林」
「なんですか」
「タケルっちの家ってどこ?」
嵐の笑みが爽やか過ぎたせいか、栗林は口をパクパクさせていた。
彩北の白虎組でも、早朝から幹部が一堂に会していた。
柘植によって破壊された事務所がまだ工事中のため、会議室はキャンドルホテルのスイートだ。
「先ほど、秋津一家から連絡が入りました。冬枝と朽木は縫琴で行方不明になり、麻雀小町は…」
白虎組若頭補佐・霜田が桃華組ヘリの撃墜を告げると、若頭・榊原がテーブルを拳で殴りつけた。
「くそっ。青龍会め、よくも冬枝たちを…!」
「…結局、我々は青龍会に敗北したということですか」
玉榧で秋津一家・朱雀組と兄弟盃を結び、幾度となく青龍会の魔の手をかわしてきたが、ついに決着がついてしまった。
冬枝も朽木もさやかも、青龍会に奪われた。
もう白虎組に出来ることは何もない――榊原も霜田も、そう思った。
「諦めるにはまだ早えんじゃねえの?」
そう言ったのは、病身を押して駆け付けた白虎組組長・熊谷だった。
沈痛な面持ちだった榊原と霜田が、ハッと顔を上げる。
「親分…。ですが、これ以上俺たちに打てる手はありません」
「どうしてそう思うんだ?冬枝も朽木もさやかちゃんも、まだ骨の一本も見つかってねえってのに」
タバコを骨に見立てて指でつまむ組長に、榊原は胸を衝かれた。
――そうだ。ここで俺たちが諦めて、あいつらを見捨てちまったら、それこそ青龍会の思う壺だ。
組長は更に、榊原を驚かせることを言った。
「冬枝は知らねえけど、朽木とさやかちゃんは多分生きてるよ」
「えっ…!?何か、手掛かりがあるんですか」
「うんにゃ。ただの勘だけど、根拠はある」
組長は、サングラス越しの瞳を鋭くした。
「まず朽木。源の狙いはさやかちゃんなんだから、朽木まで連れてく必要はねえだろ?死体も見つかってねえってことは、朽木は生きてるって考えてもいいでしょ」
「なるほど」
「で、さやかちゃんだけど…桃華組のヘリが撃ち落とされたってこと自体が、胡散臭えな」
「と、仰いますと」
組長は、再びタバコをくわえ直した。
「飛んでるヘリを撃ち落とすなんざ、そんじょそこらの奴らに出来る芸当じゃねえ。ヘリを落とせる兵器を持ってて、なおかつ、あの時さやかちゃんを乗せたヘリが飛ぶって知ってる奴じゃないと不可能だ」
「確かに…」
そんなことが出来るのは、青龍会か朱雀組しかいない。
統率の取れた青龍会が、わざわざ味方のヘリを撃ち落とすとは考えにくい。そこまで考えて、榊原は蒼白になった。
「柘植ですか」
「多分ね。さやかちゃんと柘植はのっぴきならない仲だったみたいだし、このヘリの撃墜は出来レースだったんじゃねえかな」
「そんなことが、あり得ますか」
源に拉致されたさやかに、柘植と連絡を取ることなど出来なかっただろう。さやかが、どうやってヘリの撃墜を事前に知りえたというのか。
それに対する組長の答えは、至ってシンプルだった。
「柘植は10台の大型ヘリを所有してる。東京の空は朱雀組のもんだっていうのがあちらさんの常識よ。東京のヤクザなら、下っ端でも知ってる理屈さ」
だからさやかは桃華組のヘリを見た瞬間、確信したのだろう。朱雀組の空を冒すこの乗り物が、落とされることを。
「つまり、青龍会は墓穴を掘ったわけ」
「ですが、組長。乗っているヘリが墜落したのですから、麻雀小町が生きている可能性は限りなく低いのでは」
霜田が言うと、組長がテーブルの上に並べられた新聞を手に取った。
「見な。都会のブンヤは、この手の話を絶対に逃さねえ」
組長が示した先には、ごく小さな見出しの記事があった。
『青龍会所有のヘリ 都内で墜落か』
昨夜未明、青龍会所有と思われるヘリが墜落した。けが人は操縦士のみ――記事には、そうまとめられていた。
「死人が出れば、流石の青龍会や朱雀組だって誤魔化せねえよ。さやかちゃんは一応、民間人だしね」
「じゃあ…さやかは、青龍会に拉致されたということでしょうか」
組長の理屈で言えば、源も生きていることになる。結局、乗り物を失っただけで、事態はそう変わっていないのではないか。
「分かってないねえ、榊原。さやかちゃんを組の代打ちにしたのはお前だろ?」
「は…」
「秋津イサオの死に関わっておきながら、堂々とこの彩北にやって来て、うちの代打ちに収まったぐらいだ。あの娘はかなりの勝負師だよ」
ヘリの撃墜を予見していた分、源よりもさやかに分がある。組長はそう言った。
「まして、冬枝を源にやられたんだったら、さやかちゃんは相当頭にきてたはずだ。なにせあの娘、冬枝のことが死ぬほど好きらしいから」
「女ってのは怒らせると怖いねぇ」と笑ってから、組長は榊原に目を向けた。
「白虎組の沽券にかけて、冬枝と朽木、さやかちゃんは取り戻さなきゃならねえ。分かったな、榊原」
「当然です」
「油断はできねえ。源が生きてる以上、またしつこくさやかちゃんを狙ってくるでしょ」
「源…」
源さえいなければ、今頃、冬枝がさやかを連れ戻していた。朽木だって、説得次第で帰還していたかもしれない。3人を破滅させ、事態をより悪化させたのは、源に他ならない。
組長のその説にうんうんと頷いた榊原は、続く組長の提案に顔を強張らせた。
「よし。じゃあ、例のアレ、実行しよっか」
「…本当に、響子を使って源をおびき出すおつもりですか」
病院で組長とした話が、実現しようとしている。榊原のみならず、霜田も背後で蒼白になった。
組長の瞳が、酷薄そうに細くなった。
「あの女を朱雀組に差し出す。さぁーて、どう出るかな、源は」
その頃、源清司は都内の病院にいた。
電話ボックスの外を行き交う白衣や患者の群れを一瞥してから、源は受話器を取った。
「源。無事だったか」
声の主――桃華組組長・秋津ユタカは、源が名乗るより先にそう言った。
「はい。操縦士が負傷しましたが、命に別状はありません。今しがた、入院の手続きを済ませてきたところです」
「そうか。ご苦労だった」
組のヘリが撃墜され、せっかく捕まえたさやかが行方不明になるなんて、ユタカにとっても想定外だったはずだ。源の不始末を怒鳴ってもおかしくないところだが、ユタカは冷静だった。
――やはり、若頭には話すべきだ。
源の頭にあったのは、昨夜、さやかがヘリの中でしたあの信じがたい話だった。
「神様に選ばれた人間は、生きてるうちに生まれ変わることが出来るんです。それが、僕とイサオさんの秘密」
冬枝を失い、錯乱したさやかが口走った妄言に過ぎないかもしれない。
だが、『百塔』の牌から出てきたおみくじに書かれていたのは、確かに秋津イサオの筆跡だった。
――1月の事件が起こる前、殺された朱雀組4代目とさやかとの間に何かがあった。しかも、常人には想像も出来ないような、恐ろしい何かが。
ユタカはずっと、父・イサオの死の真相を追っている。どんなに突拍子もない話であろうと、源には伝える義務があった。
源は、公衆電話の受話器を握り締めた。
「若頭。さやかが気になることを言っていたんですが――」
その時だった。
「源さん」
音もなく開いた電話ボックスのドアから、風が吹き抜ける。
同時に、源の背筋に戦慄が走った。
――なんだ。俺の後ろにいるのは、一体『誰』なんだ。
長い極道生活の中で、命の危機に陥ったことは一度や二度ではない。そんな源でさえ、味わったことのないような強烈な違和感だった。
源は、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、長い髪を白いリボンで留めた、可憐な美少女――夏目さやかだった。
「………!」
さやかの微笑みを目にした瞬間、源の意識は途切れた。
「源?おい、どうした。源!」
電話機からだらりと垂れ下がった受話器から、いつまでもユタカの声が響いていた。
冬枝は、夢を見ていた。
いや、それは夢というより――回想だったかもしれない。
何故ならそれは――実際に昨夜、冬枝の身に起きたことだからだ。
炎に照らされた産城大橋が、闇夜の中に赤く浮き上がる。
「冬枝さん!」
さやかの叫びがぐんと遠ざかり、冬枝は底の見えない暗闇へと落下した。
だが、落ちていく冬枝には逆に――さやかが、禍々しい漆黒の空へと吸い込まれていくように見えた。
――さやか!
さやかの背後には、死神のように源が立っている。あっという間に視界から消えたさやかの姿が、冬枝には憎たらしくて仕方がなかった。
――畜生。逃げろって言ったのに、なんで素直に逃げねえんだよ。お前が余計なことするから、また離れ離れになっちまったじゃねえか。
いや――耳元で激しく渦巻く風の音を聞きながら、冬枝は思い直した。
――諦めるなって言ったのは、俺のほうか。
さやかを橋から放り出す直前、冬枝はさやかにそう言った。
何があっても諦めずに逃げ続けろ、と送り出す意味で言ったつもりだったのだが、さやかはそうは解釈してくれなかったらしい。わざわざジャンプして橋まで戻り、自身を囮にして源を罠にかけようとした。
――とことん底意地の悪い女だよな、お前は。
そして、その底意地の悪さが裏目に出た。源が相手では、さやかの浅知恵も冬枝のアクションも、全く歯が立たなかった。
そこまで思い返して、冬枝の腸がふつふつと熱くなってきた。
――さやか。お前も今、感じてるか?
青龍会相手に、手も足も出なかったことへの悔しさ。
胸を掻きむしるような悔恨は、冬枝を追憶から、現実へと呼び覚ます。
――俺は諦めねえ。絶対に、諦めてたまるか。だから、さやか。お前も――…。
「……!」
そこで、冬枝は目を覚ました。
目が開いた――どうやら、手足も四本揃っている。
つまり、生きている。
それだけでも驚嘆に値する事実だが、感動の前に疑問が芽生えた。
「…どこだ、ここ」
あの世ではないのは確かとして、全身が沈む込むほどに柔らかく、冬枝があと2人寝転がっても余裕のあるキングサイズのベッドは、病院ではありえない。
流麗なツタ模様の天井に、大輪の花が綻んだかのようなデザインの照明。ホテルなら最上級のスイートルームか――と冬枝が目覚めたばかりの意識で考えたところで、横から声をかけられた。
「おじさま!お目覚めになったのね」
「あ…?」
雲のようにふかふかの枕の上で首を動かした冬枝は、そこにいた人物を見てぎょっとした。
――嘘だろ。どうなってんだ……?
眉の上で切り揃えた前髪に、特徴的な後ろ髪の縦ロール。いつでも困ったような表情に見える垂れ目と、とびきり白い肌が愛らしい。
何より、思わず目がいってしまう、その豊かな胸元をたぷんと揺らして――美少女は、冬枝の手をぎゅっと握り締めた。
「おじさま、お分かりになられる?佳代よ」
「佳代……さん」
そこにいたのは、数か月前に彩北を訪れ、冬枝と出会った少女――灘佳代だった。
――どうして、佳代さんが俺のそばにいるんだ…?
一体、何がどうなっているのか。すっかり面食らう冬枝に、佳代は甲斐甲斐しく水差しとグラスを手に取った。
「おじさま、まずはお水をお召しになって」
「あ、ああ…ありがとうございます」
冬枝は、ぎこちなく佳代から水を受け取った。心なしか、水が甘く感じる。
グビグビ水を飲む冬枝を見て、佳代がほっと胸を撫で下ろした。
「本当に良かった。このまま、おじさまの意識が戻らなかったらどうしようって、佳代、気が気じゃなくって」
「はあ…。あの、佳代さんは、ずっと俺のそばについてたんですか?」
「勿論よ!」
佳代はぐっと身を乗り出し、うるうると冬枝を見上げた。
「お父様やお母様からは止められたけれど…佳代、どうしてもおじさまのそばにいたかったの。だから、無理を言って一晩中、おそばにいさせて頂きましたのよ。おじさまが目覚めて最初に見るのは、佳代のお顔が良かったから……」
キラキラと健気に潤む佳代の瞳はアメジストのようで、実に麗しいのだが――冬枝には、突っ込まなければいけないところが山ほどあった。
「お、オトーサマとオカーサマ?一晩中!?」
佳代の祖父は国会議員・灘孝助であり、かつて白虎組の後援者だった人物だ。そして灘家と言えば、名門・代議士一族として知られている。
――まさか、ここは……。
部屋の中を見回した冬枝は、そこに第3の人物がいるのを見て驚愕した。
――こいつ、いつからここにいたんだ…!?
冬枝がさっき目覚めたばかりとはいえ、今の今まで全く気配に気づかなかった。しかも、どう見てもこの家の使用人や、佳代の身内といった風体ではない。
「……」
冬枝の目線に気付いて、男が軽く笑みを浮かべた。
白髪交じりの髪を上品にまとめ、光沢のある淡いパープルのスーツ姿も、辺りを払うような風格がある。どこまでも穏やかな物腰は、一見、行儀のいい老紳士といった雰囲気だ。
だが、冬枝の勘は――この男が同業者、それも冬枝とは格の違うヤクザだと告げていた。
「誰だ、あんたは」
冬枝が真っ直ぐに男を睨み付けると、佳代が「あら」と後ろを振り返った。
「おじさま、気を悪くなさらないで。佳代はおじさまだけのものよ。そこの藤浪は、わたくしのボディガードですわ」
「ボディガード…?藤浪…?」
疑問符を浮かべる冬枝に、佳代が「ああっ」と一人で盛り上がった。
「ごめんなさい。佳代のボディガードは冬枝のおじさまだけって誓ったのに…佳代ったら、罪深い子」
「あの…」
「でもねおじさま、佳代、おじさまを裏切ったわけじゃないのよ。これは、佳代のためにお父様がお決めになったことなの」
そう言って、佳代は長い睫毛に玉のような涙すら浮かべているが――冬枝は、話にまるでついていけなかった。
そこで、パープルのスーツの男が佳代の肩をポンと叩いた。
「佳代さん。そろそろ、お花のお稽古に行くお時間ではありませんか」
言われて、佳代は部屋の奥にある大きな柱時計を見た。
「あら、嫌だ。藤浪ったら、執事みたいにわたくしのスケジュールを暗記しているのね。今度から、藤浪のことを『じいや』って呼ぼうかしら」
「光栄です」
「誉め言葉じゃなくってよ」
佳代はすっくと立ち上がると、再び冬枝の手を両手で包んだ。
「おじさま。佳代、すぐに戻って参りますからね。どうか、それまでここでお休みになっていらして」
「佳代さん…」
佳代は冬枝の手に小さく口付け、「じゃあね、おじさま」と言って小走りに部屋を去って行った。
佳代から漂うマグノリアの残り香が、微かに冬枝の鼻をくすぐった。
「………」
後に残されたのは、初対面の中年の男2人である。
先に口を開いたのは、冬枝だった。
「あんた、藤浪…とか言ったか。何者だ」
「フフ、そう露骨に睨みつけないでもらえますか。佳代さんが心配しますよ」
男――藤浪は、佳代が腰かけていた椅子に座った。
「佳代さんの言う通り、しばらくは安静にしていたほうがいいでしょう。何せ、あの産城大橋から転落したうえ、自力で陸まで泳いだんですから」
「ああ…?」
言われてみれば、真っ暗な川を死に物狂いで泳いだような覚えがある。ほとんど無意識だったため、どうやって陸まで辿り着いたのかは思い出せないが。
何より、記憶にない自分自身のことを、目の前のヤクザからしたり顔で説明されるのは気分が悪い。
苦虫を噛み潰したような顔の冬枝とは対照的に、藤浪の顔に貼り付いた笑みは微動だにしない。
「力尽きて川辺で倒れていた君を見つけたのは、我々の仲間です。君の身柄については、ひとまず私が預かることになりました」
「…あんた、青龍会の人間か」
藤浪の淡いパープルのスーツの襟には、銀色に輝く蛇の目の紋が輝いている。
冬枝の問いに、藤浪は糸のように目を細めて答えた。
「いかにも。恐れ多くも青龍会四天王と呼ばれる者の一人――藤浪京と申します」
「青龍会四天王…!」
愚連隊『ブルー・ワイバーン』を率いる難波、秋津イサオの一人息子・秋津ユタカと並び、青龍会の若頭を務める四人の男たち――その一人が、冬枝の目の前にいた。
「そんな大物が、俺なんかとっ捕まえてどうするつもりだ」
「私は君になど興味ありませんが、佳代さんがね」
「佳代さん?」
「佳代さんが君を助けたいと仰るから、私が君をこの灘家で保護すればいいと進言したのですよ」
思いもよらない成り行きに、冬枝は度肝を抜かれた。
――ここが佳代さんの実家で、しかも青龍会が俺を保護するだって…?!
保護というか、これはていのいい軟禁だ。厄介なことになったと悟る冬枝を横目に、藤浪は感慨深そうに言った。
「佳代さんの笑みを久しぶりに見ました。余程、君が意識を取り戻して嬉しかったのでしょう」
佳代をいたわるような藤浪の言葉に、冬枝にはもう一つ疑問が湧いた。
何故、名家の令嬢である佳代に、青龍会四天王などが取り付いているのか。しかも、二人は昨日今日出会った仲という風ではない。
藤浪はおもむろに立ち上がると、窓辺に佇んだ。
「君たち白虎組が余計な真似をしてくれたお陰で、灘先生は失脚された」
佳代の祖父・灘議員は、白虎組のみならず、朱雀組や青龍会とも繋がっていた。
その灘議員はあろうことか、資金稼ぎのために白虎組の縄張りから少女たちを拉致し、青龍会を使って海外に売り飛ばそうとしていた。いわゆる『竜宮城計画』は、さやかや榊原、そして朱雀組によって妨害され、白虎組は灘議員と縁を切った。
その後の灘議員のことなど、冬枝はまるで興味がなかったが――世間では大騒ぎだったらしい。
「あの忌々しい朱雀組の『ロリコン伯爵』が、灘先生の所業を週刊誌にタレコミましてね。先生は引退を余儀なくされ、ご家族も口さがない噂の的になった」
特にまだ若い佳代は、学校に通うことすらままならなくなった。佳代が心ない嫌がらせに傷付かぬよう、両親が休学させたのだ。
白いレースのカーテンから外を覗き、藤浪がくるりと振り返った。
「そこで、我々青龍会が、灘家の皆様の護衛として名乗り出たのです」
「護衛?」
「ハエのような記者連中や物見高い野次馬たち、はたまた、裏切り者の朱雀組などが、灘家の皆様に指一本触れることのないよう…青龍会を代表して、この藤浪が灘家をお守りすることになりました」
一見すると、議員とヤクザの美談のように思える。だが、それを鵜呑みにするには、冬枝の目の前にいる男の笑みは胡散臭かった。
「要するに、てめえらはこの一家を監視してるってことか。二度とヘタ踏んで、青龍会に迷惑をかけねえように」
「おやおや、人聞きの悪い。我々青龍会は時代遅れの朱雀組と違って、実に合理的な組織ですよ」
藤浪は、再び窓の外に目をやった。
「我々の目的は、灘家の皆様をお守りし、再び政治の舞台へとお連れすることです」
「政治だと?あのくたばり損ないの爺をか」
「フフッ…灘先生はもう無理でしょう。我々の今の主は、佳代さんの御父上――灘純一さんです」
灘純一とは、失脚した灘孝助の長男で、白虎組若頭・榊原の妻、淑恵の兄にあたる。父親と同様、テレビ番組にもよく出演する有名議員だ。
「純一さんは現在、自ら御父上の不義を叫び、クリーンなイメージで打ち出しています。その試みは成功し、支持率も上昇している。世間の記憶から、御父上の醜聞を忘れさせるまでにそう時間はかからないでしょう」
話を戻して、と言って、藤浪は冬枝に向き直った。
「そういう事情ですから、この藤浪も、灘家の皆様とは親しくさせて頂いています。特に、佳代さんは非常に私を信頼してくださっている」
「てめえ…まさか、佳代さんに何かしようって言うんじゃねえだろうな」
冬枝が睨みつけると、藤浪は高らかに笑った。
「まさか。あんな幼気なお嬢さんに何かするほど、落ちぶれてはいませんよ。ただ…」
そこで、藤浪の眼差しがすっと冷たくなった。
「君は、佳代さんの意中の人でしょう?くれぐれも、佳代さんを悲しませるような真似だけはしないように」
「…佳代さんを人質にするつもりか」
「ハハハ、ご冗談を。人質どころか、君には選ぶ自由があります」
藤浪は、右手と左手を天秤のように掲げた。
「我々青龍会がお守りしている佳代さんか。それとも、朱雀組と因縁深い夏目さやかか。片方の女を選べば天国、もう片方の女を選べば地獄。君には賢明な選択を期待しています」
そこで、藤浪は「まあ」と言って、意味ありげに冬枝を見下ろした。
「死んだ女を追ったところで、行く先は地獄に他ならないでしょうが」
「…死んだ?」
「夏目さやかを乗せた桃華組のヘリは墜落しました。夏目さやかは未だに見つかっていません」
藤浪の言葉が、冬枝にはどこか遠くで鳴っている風の音のように聞こえた。
死んだ――さやかが?
冬枝は、無意識に自分の手を見ていた。
あの産城大橋の上で、落ちかけた冬枝の腕をさやかが掴んだ。細い腕で必死に掴んだものだから、冬枝の腕にさやかの爪痕が残っている。
それを目でなぞり――気が付くと、冬枝はベッドから起き上がっていた。
「ふざけんな。さやかが死んだなんてそんなこと、俺は認めねえぞ!」
藤浪の胸倉を掴もうと伸ばした腕は、しかし、途中で空を切った。
「ぐっ…!」
瞬く間に、冬枝は藤浪によって床に組み伏せられていた。
「夏目さやかが生きていようが死んでいようが、もはや君には関係のないことだ。冬枝誠二君」
藤浪から腕を後ろに捻り上げられ、冬枝は呻いた。
「うっ…」
「夏目さやかはこの国の闇に触れた。到底、君の手に負える女ではない」
冬枝の手に負える女ではない――源からも同じことを言われたのを思い出し、冬枝は歯ぎしりした。
――どいつもこいつも、人の女を知った風な口で語るんじゃねえ…!
悔しさとは裏腹に、藤浪の腕は冬枝がいくら抵抗しようとびくともしない。まるで、2トントラックにでも挟まれているかのようだ。
「いずれにせよ、もう君の上がる舞台はありません。君はここで、佳代さんと安らかに過ごしていればいい」
お大事に――そう告げる藤浪の顔は、能面のように白々としていた。
東京から遠く離れた彩北では、冬枝の弟分二人がうなだれていた。
「………」
「………」
高根と土井は、春野家のこたつに足を突っ込んだまま、無言だった。
不在の家主・春野嵐に代わって、妻・春野鈴子の護衛のためにこの春野家に入り浸るようになって数日。
勿論、白虎組が事務所代わりにしているキャンドルホテルにも出入りし、冬枝とさやかの状況を少しでも教えてもらおうと、組員たちからあれこれと話を聞いていた。
大抵の組員は相手にしてくれなかったが、若頭・榊原のところの若衆たちが、高根たちに同情してたまに声をかけてくれるようになった。
「俺たちも、多くは知らされていないんだ。非常にデリケートな状況だからな」
というより――と言って、若い衆は瞳を曇らせた。
「…夏目さんを巡るこの騒動の主導権が、我々白虎組から離れつつある。事が起こっているのはもう彩北ではないからな」
「そう…ですか」
つまり、白虎組は蚊帳の外にされているということだ。既に、さやかと冬枝の現況を知ること自体が難しくなっている、と若衆は語った。
そんな会話をした矢先、榊原のところの若い衆から高根たちにとんでもない知らせが入った。
「冬枝さんと朽木さん、それに夏目さん、全員が縫琴で消息を絶った」
「えっ…!?それって、どういうことですか」
「皆、青龍会にさらわれちまったんですか!?」
高根と土井が思わず前のめりになると、若い衆は「いや…」と声を潜めた。
「詳しいことは分からないが、お前たちも覚悟しておいた方がいい」
「えっ…」
それ以上は、若い衆は語らなかった。その沈黙の重さに、高根も土井も言葉を失った。
春野家に戻る道すがら、高根がぼそっと切り出した。
「…なあ、土井」
「…ん?」
「兄貴たちのこと、鈴子さんには黙ってたほうがいいと思う」
同じことを考えていたのだろう、土井は何も言わず、こくりと頷いた。
朽木は鈴子の妹の恋人で、さやかは鈴子の大事な友人だ。冬枝も含め、全員の行方が分からなくなってしまった。相手が青龍会では、3人が生きていることを期待するほうが難しい。
高根と土井ですら受け入れられないこの現実を――鈴子に告げることなどできない。
やがて、土井がぽつりと言った。
「オレたち、やっぱり兄貴についていけばよかったかな」
「バカ、土井。自分たちがいても、足手まといになるだけだろ」
と言ってから、高根は土井の言わんとするところを察した。
「…そうだな。自分も、兄貴たちと一緒にいたかった」
「…うん」
冬枝たちは、生きている。今もそう信じているが、不安が重く心にのしかかるのも事実だった。
おかげで今、春野家に戻った二人はこたつで丸まっていることしか出来ずにいるわけだが――そこに、あっけらかんと明るい鈴子の笑顔が振りかかる。
「どうしたの、高根君も土井君も。元気ないわよ」
「あ、いや、何でもないです…」
「何でもあるようにしか聞こえないわよ。高根君ったら、浮気がすぐバレるタイプね」
「はは…」
鈴子だって不安がないわけではないだろうが、高根たちの前ではこんな風に陽気なところしか見せない。
それに救われている自覚があるだけに、高根たちはなおさら、榊原の若衆から聞いた話を教える気になれなかった。
ピンポーン!
不意に鳴り響いた呼び鈴の音に、高根と土井は思わず、座布団から飛び上がりそうになった。
「お、お客さんですか。自分が出ます」
気を取り直して、高根がこたつから立ち上がった。白虎組を巡る情勢が不安定な今、妙な輩が訪ねて来ないとも限らない。
だが、鈴子は軽く手を振って高根の先を行った。
「いいのよ、高根君たちはゆっくりしてて。さっき来るって電話があったの」
「はあ」
鈴子の知り合いだろうか――高根と土井が訝っていると、鈴子と共に当の本人が玄関からやって来た。
「お邪魔しまーす。あーら、男の子が二人もいるわ。鈴子ちゃんったら亭主の留守をいいことに、男遊び?」
「ウフフ、やっぱり年下の男の子はいいわよ、ママ。毎晩、若いエキスを吸ってるんだから」
高根と土井は、呆然と口を開けた。
事実無根の下品なジョークに呆れたのもあるが――実際には2階で寝る鈴子に遠慮して、高根と土井は1階で寝ている――鈴子が連れて来たのが、鈴子に負けず劣らずの華やかな美女だったからだ。
小柄な体躯は猫のように細くしなやか、それでいて毛皮のコートから覗く谷間は、はちきれんばかりの曲線を描いている。
肩の上で短く切ったボブカットがとても粋で、瞳の大きな美貌に貫禄を添えている。濃い目の化粧が様になっているのは、年上の美女ならではの色気の賜物だろうか。
ちょっと見惚れてしまってから――高根と土井は、慌ててこたつから立ち上がった。
「み、美佐緒さん!ご無沙汰してます!」
「してます!」
春野家を訪れた美女の名は美佐緒――白虎組若頭補佐・霜田の元妻だった。
「やーだ、そんなにかしこまらないでちょうだい。確か、冬さんのところの…高根君と土井君、だったかしら?」
「はい」
美佐緒はとても背が低く、どうしても高根が見下ろす形になってしまう。それなのに、高根のほうが美佐緒の眼差しにどぎまぎした。
――やっぱり、組幹部の奥さんってなんか迫力あるなあ…。
美佐緒は『麻雀マリア』として比類なき麻雀の腕前を誇り、街に出た不審なビンタ男のことも自力で撃退したことがある。高根たちのような青二才より、美佐緒のほうがよほど肝が据わっているのだろう。
鈴子がコーヒーを淹れ、一同はこたつを囲んだ。
「パパったら、せっかく彩北に帰って来たっていうのに、全然あたしに会いに来てくれないのよ?」
「でも良かったじゃない、パパが無事で」
美佐緒と鈴子は並んで座り、テーブルに広げたおかきをバリボリと食べている。
霜田のことを『パパ』と呼ぶのは、もっぱら美佐緒がママを務める店『パオラ』で働くホステスたちだ。鈴子もかつて店にいたのだろう、と高根は思った。
美佐緒はぶーっと頬を膨らませた。
「もうっ、パパが朱雀組の悪い奴らに捕まったって聞いて、あたしがどれだけ心配したと思ってるのかしら。せっかく夫婦感動の再会をしたんだから、もっとイチャイチャしたっていいじゃない?それなのに、パパったら昼も夜も榊原さんたちと会ってるのよ。信じらんないっ」
むくれる美佐緒は何とも無邪気で、気の強い少女のようだ。見ていると、高根の気もちょっと和んだ。
――あの神経質な補佐の奥さんとは思えないぐらい、屈託のない人だなあ…。
「パパったら、昔から榊原さんと仲が良いわよね。ホモなのかしら」
鈴子がコロコロと笑いながら言うと、美佐緒は頬杖をついた。
「絶対ホモよ。あたしより榊原さんが良くなったんだわ、きっと」
「榊原さんと言えば、響子ちゃんは最近どうなの?」
なんと、鈴子は白虎組若頭・榊原の愛人、響子のことも知っているらしい。高根は内心、舌を巻く思いだった。
――嵐さんも得体が知れないが、鈴子さんも底の見えない人だな…。
「そ・れ・が・ねー!」
よくぞ聞いてくれました、とばかりに美佐緒が身を乗り出した。
「パパの命令で、響子ちゃんが淑恵ちゃんのお世話をすることになっちゃったの」
「淑恵さんって…榊原さんの奥さんの?ええっ、愛人に本妻の世話をさせるっていうの?血を見るわよ」
響子の件は、高根も土井も初耳だ。思わず、2人で顔を見合わせてしまう。
美佐緒が、ずずーっとコーヒーを啜った。
「パパも面白いこと考えるわよね。ほら今、組が色々と大変で、響子ちゃんも淑恵ちゃんも不安で気が立ってるのよ。2人がケンカばっかりしてるから、榊原さんがお手上げになっちゃって」
「ああ。榊原さんじゃ、妻と愛人のケンカを止めるなんて無理よね。清潔そうだもの」
鈴子の吐き捨てるような「清潔そうだもの」という言葉に、高根と土井は妙にドキッとした。
「それでパパが、女2人の板挟みになった榊原さんを救うために、ひねり出した苦肉の策ってわけ。こんな話、響子ちゃんも淑恵ちゃんもよく乗っかるわよね~」
「アハハ、ママだったら絶対無理よね。律子さんや法子さんがママのお世話をする、なんて」
「ゲロゲロゲーッ、お断りよ。あんなおばさんたち、ひっぱたいて家から蹴り出すわ」
どうやら、「律子さん」と「法子さん」というのは、霜田の愛人らしい。図らずも若頭補佐のプライベートを知ってしまい、高根と土井はちょっぴり気まずかった。
「でも、淑恵ちゃんと響子ちゃんは事情が別よ。淑恵ちゃんは今、お腹に赤ちゃんがいるんだもの」
「ええっ!?響子ちゃんが妊娠したんじゃなくて、奥様のほうが?」
「そーよぉ。お盛んよね、榊原さんも」
――若頭の奥さんが、ご懐妊?!
これまた、高根と土井は初耳である。霜田の愛人のことより聞いてはいけない話のような気がして、誰も見ていないのに「聞いてないフリ」をしてしまう。
美佐緒は、どこか遠くを見るような眼をした。
「だから……淑恵ちゃんのお産が上手くいくように、パパなりに神経遣ってるのかもしれないわ。淑恵ちゃんは確かに今も若くて綺麗だけれど、子供を産むにはちょっと歳がいってるし」
「いや、愛人なんかがそばにいたら、おちおち子供なんか産んでられないでしょ」
鈴子のツッコミに、高根と土井もうんうんと頷く。
「淑恵ちゃんは優しいから、榊原さんや娘さんたちには弱気なところを見せられないのよ。その辺、ライバルの響子ちゃんになら、気兼ねなく何でも言えるわ」
寒いのか、美佐緒は両手の指をコーヒーカップにぺったりと付けた。
「響子ちゃんもなんだかんだで真面目だから、一度引き受けたことには責任を持つわ。あの娘も、本当は知りたいんだと思うの。淑恵ちゃんのことや、『母親』ってもののことを……」
そう語る美佐緒の声は、それこそ母のように慈悲深く――高根も土井も、しみじみと聞き入ってしまった。
――そこまで補佐の考えが分かるなんて…夫婦って、みんなこういうものなのかな。
独り身の高根たちには無縁の話だが、こんな風に自分や周囲の人たちのことを慮ってくれる人が傍にいてくれたら、と思わず夢想してしまう。
――あれ、でも確か、補佐と美佐緒さんはとっくの昔に離婚して……。
高根がそれに思い至った瞬間、美佐緒がとんでもない爆弾を投下した。
「そんなことより、お兄ちゃんと冬さんと麻雀小町ちゃんが、行方不明の生死不明なのよ~っ!!もうっ、どうしたらいいのかしらっ!!」
「ちょっ、美佐緒さん!?」
――そんなショッキングな話、鈴子さんに聞かせちゃまずい…!
高根も土井も泡を食ったが、当の鈴子は平然としていた。
「そうなのよ。まったく、嵐ってば役に立たないんだから」
「え…鈴子さん、知ってたんですか」
呆気に取られる高根に、鈴子はふうと溜息を吐いた。
「嵐から時々、連絡はもらってたの。今、玉榧にいるとか、縫琴に着いたとか、高根君たちと浮気なんかしてないかだとか。あいつも、まめに電話してくれてたんだけどね」
昨夜の嵐は、電話越しにも明らかなほどに様子がおかしかった。そこで鈴子が問い詰めたところ、さやか・冬枝・朽木が生死不明になったことを白状したのだという。
高根は、浮きかけた腰をおずおずとこたつに戻した。
「…大丈夫ですか。鈴子さん」
「大丈夫じゃないわよ。さやちゃんが源さんにさらわれちゃって、冬枝さんと貴彦さんも連絡がつかないなんて。最悪よ」
眉間を寄せてから、鈴子は再びカラッとした笑みを浮かべた。
「でも、最悪な時ほど、これからいいことがあるって思うしかないじゃない?さやちゃんも冬枝さんも貴彦さんも、死体が見つかったとは言ってなかったもの。3人は生きてる、って信じるほうが、ホントになりそうでしょ?」
空元気かもしれないが、鈴子の言葉は高根の胸にも共鳴するものがあった。
――そうだよな。兄貴とさやかさんが死んだなんて、絶対に信じられるもんか。
冬枝にせよ、さやかにせよ、どこか人間離れしているというか、特異な人間の多い裏社会においても超が付く変わり種だ。
そんな2人が死んだなんて――高根も土井も、本心では思っていないのだ。
「青龍会なら、死体ぐらい証拠が残らないように始末するかもしれないけどね」
という美佐緒の乾いた呟きは、全員で無視した。
それから遡ること数時間前――真夜中の東京。
緑に抱かれた広大な敷地の真ん中に、白いドーム型の施設があった。
丁寧に刈り込まれた垣根に、こざっぱりとした駐車場。出入口には『ヤマタ健康研究所』と記されている。至って普通の、どこにでもあるような研究所だ。
建物の裏手には、どこまでも芝生が続く庭があった。広さはおよそ、サッカーコート2面分ほどもあろうか。
「………」
スタジアムライトに照らされて、若い男の神経質そうな白皙が浮かび上がる。
白衣に眼鏡をかけた容貌は、いかにも研究者然としていたが、どこか表情に幼さが残る。男にしては細身の体型と、やや長い髪も、男に浮世離れした印象を与えた。
男はじっと夜空を凝視していたが――やがて、手に持っていたリモコンを白衣のポケットにしまった。
白衣の袖をまくり、腕時計を確かめる。
「時間ちょうどだ。記録更新だな」
一人呟く男の頭上に、無数の小さな鳥のようなものが飛んで来た。
漆黒の鳩たちは、軽やかに翼を回転させながら、男の足元へと着陸した。静寂の中に、微かなモーター音が吸い込まれていく。
「全機、無事に帰還。実験は成功だ」
満足げに頷いて、鳩の一羽を手に取ろうと屈んだ男は――ふと、気配を感じて顔を上げた。
「………?」
夜空に、小さな白い影が浮かんでいる。
影はどんどん大きくなり、夜風を巻き込みながら、男めがけて飛び込んできた。
「………!?」
ばふっ!
すんでのところで避けた男だったが――白い物体は、男の鳩たちを盛大に轢いて芝生にめり込んでいた。
「なんてことを…!」
男は眉間を寄せると、白い物体をぐいと引っ張り上げた。
「おい、さやか!お前、僕の実験を邪魔しに来たのか!?」
白い物体――パラシュートを背負った少女は、男に瓜二つと呼ばれるその顔を、これ以上ないぐらいしかめてみせた。
「…いきなり空から降ってきた妹に対して、他に言うことないわけ?たっくん」
夏目さやかと夏目たくみ――それは、仲の悪い妹と兄の再会だった。




