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62話 慟哭の産城大橋

第62話 慟哭の産城大橋


 縫琴の郊外、産城の山の中にある『蜘蛛ヶ森』。

 さやかと合流してすっかり満足していた冬枝だったが、ふと、もう一人の男の存在を思い出した。

「そういや、朽木はどうした」

 八百眼組の連中は確か、朽木は行方不明だと言っていた。さやかとは、はぐれてしまったのだろうか。

 そこで、冬枝の中のさやかの手が硬くなった。

「…源さんに遭遇しました」

「何っ。あの人、もうここを嗅ぎつけたのか」

「はい。朽木さんは、僕を逃がすために源さんと…」

 身体を張ってさやかを逃がしてくれた朽木のことを思い出し、さやかの横顔がシリアスになる。

 そんなさやかのリアクションとは真逆に、冬枝は至極ドライだった。

「さいっ…。ホジナシの朽木じゃ、源さんに敵うわけねえ」

「ホジナシって…」

「さやか、急ぐぞ。嵐もミノルさんも来てくれてるから、もう心配ねえ」

 どうやら、冬枝には朽木を助けるつもりはないらしい。さやかは、朽木の無事を願うしかなかった。

 右も左もわからないような暗闇だというのに、冬枝はスイスイ進む。さやかは、自分が山の中を歩いているという実感が湧かなかった。

 ――冬枝さん、本当に山に慣れてるんだな。

 それだけに、先ほどの冬枝の昔話を思い出し、さやかの胸は痛んだ。

 義理の家族から厄介者扱いされ、山の中に置き去りにされた幼い冬枝。

 辛い過去が、今の冬枝を強く、優しくしてくれているのかもしれない。それでもさやかは、冬枝を縛る悲しい記憶を消してあげたかった。

 ――僕にどうこうできることじゃないのは分かってる。分かってるけど…。

 さやかにできることはただ、冬枝の手を強く握り締めていることだけだった。

 ――僕がここにいます。冬枝さんのそばにいるから…。

 さやかの思いを知ってか知らずか、冬枝はただ黙々と森を進んでいった。

 やがて、急に視界が開けた。

 鬱蒼とした木立を抜けた先に忽然とあったのは、森とは対比をなす巨大な人工物――吊り橋だった。

「これは…産城大橋ですね」

 さやかは、玉榧で見た地図を頭の中に呼び起こした。

 冬枝とさやかはいつの間にか『蜘蛛ヶ森』を抜け、一般の遊歩道に入っていたらしい。この産城大橋を渡れば、公衆電話のある売店がある。

 吊り橋は、煌々とライトで照らされている。ようやく、互いの顔がはっきりと分かるようになった。

 ――冬枝さん。

 見慣れた枯れ葉色の背広姿に、さやかは改めて胸がいっぱいになった。

「よし。行くぞ、さやか」

「はい、冬枝さん」

 手と手を繋ぎなおし、二人は産城大橋に一歩、踏み出した。

 ギシッ――。

 近代的な吊り橋だが、歩くと意外と揺れる。さやかは、ちらりと足元を見下ろした。

「風もないのに、結構揺れますね」

「真っ直ぐ歩け。こんなところで源さんと出くわしたりしたら、目も当てられねえぞ」

 そう言って、冬枝はさやかのほうを振り返りもしない。

 さやかは、ひっそりと苦笑した。

 ――冬枝さん、高いところ苦手だもんなあ。

「お前、何笑ってんだよ」

「別に。なんでもありません」

 ようやくちらっとこちらを振り返った冬枝が、「そういや」と言った。

「お前、ケガは大丈夫なのか」

「ケガって?」

「駅でミノルさんに撃たれただろ」

「ああ…」

 さやかは、自分の腕に目をやった。

「…言われるまで、すっかり忘れてました。それどころじゃなかったですから」

「だろうな。ミノルさんたちと合流したら、ちゃんと手当てを受けるんだぞ」

「はい」

 さやかは、縫琴の駅でミノルに撃たれた時のことをふと思い出した。

 イサオの仇である『百塔』の洗脳に苛まれ、さやかに銃口を向けたミノル。

 ミノルの蘇芳色の瞳に、深い悲しみを見たのと同時に――さやかは、目の前にいる男のことを思った。

「…冬枝さんは、気にならないんですか?」

「ん?何がだよ」

「今年の1月…イサオさんが殺された時のことです」

 縫琴駅で、ミノルがさやかに憎しみを向ける様を冬枝は目の当たりにしたはずだ。それなのに、冬枝は迷わずさやかに「逃げろ!」と叫んだ。

 ――僕はミノルさんに恨まれ、青龍会からも追われてる。誰がどう見たって、イサオさんを殺した犯人は僕だ。

 すると、冬枝はフッ、と小さく笑った。

「…『イサオさん』か」

「えっ?」

「お前、朱雀組の4代目とずいぶん親しかったんだな。妬けちまうぜ」

 俺が気になるのはそれだけだ、と言って、冬枝はちらりとさやかを振り返った。

「冬枝さん…」

 冬枝の言葉も瞳も、あまりにも優しい。さやかは、気が遠くなりそうになった。

 ――冬枝さんは、優しすぎる。僕はまだ、冬枝さんに本当のことを言えてないのに…。

 不意に、冬枝の手を振りほどきたい衝動に駆られた。

 今のさやかは、冬枝の優しさを利用しているようで――これ以上、冬枝を巻き込むことは、どうしても許せなかった。

「さやか」

 そんなさやかの内心を見通したかのように、冬枝が言った。

「余計なこと考えんな」

「えっ…」

「お前はよ、すぐそうやってぐじぐじ考え込むから、麻雀で嵐に勝てねえんだぞ。あいつだったら、一度動き出したら後先なんか考えねえ」

 確かに、と、さやかは嵐の快活な笑みを思い浮かべた。ヤクザでも何でもないのに、義妹である鳴子のためにこの騒動に身を投じた嵐は、潔い。

「俺も嵐もミノルさんも、迷いがないわけじゃねえ。だが、俺たちに戻る道はねえんだ」

 さやかはハッとして、冬枝が見つめているほう――先ほどまで歩いてきた道を振り返った。

 そこにあるのはひたすらに暗い森――途方もない暗闇だった。

 さやかは、ぎゅっと冬枝の手を握り返した。

「…僕は、嵐より強いです。次は、絶対に勝ちます」

「おう。その意気だ」

 二人きりの吊り橋は、白く真っ直ぐに続いている。さやかは、前へ進むことだけを考えるようにした。


 


 一方、その嵐は、ミノルと共に縫琴警察署にいた。

「何からなにまで本当にお世話になりました」

 頭を下げる新名に、嵐が快活な笑みを見せた。

「いいってことよ。ま、今後はヤクザとの付き合いは控えるこった」

「君が言っても説得力がありませんよ、嵐君」

 ミノルは「縁というものはそう簡単に切れてしまうものではありません」と言って、署内に佇む男たちを手で指し示した。

「親分…!」

 そこにいたのは、若い衆を引き連れた八百眼組組長だった。ミノルの連絡を受け、新名のために警察署まで駆け付けたのだ。

 新名が駆け寄ると、組長は相好を崩した。

「新名。よく忠義を通してくれたな」

「親分。ご無事でよかった…」

 組長は新名の肩を何度も叩き、警官たちに引き渡した。

「八百眼組組長。急な訪問、失礼をお詫びします」

 ミノルが頭を下げると、組長は首を横に振った。

「とんでもない。頭の反乱を止めてくれたのは、秋津さんとのこと。感謝しかありません」

「差し出がましい真似をしました。組長は監物若頭のこと、いかがなさるおつもりでしょうか」

 ミノルの問いに、組長は苦渋を表情に滲ませた。

「救いようのない愚か者ですが、あれでも可愛い子分です。寛大な処分をしたいと考えています」

「そうですか…」

 恐らく、多少お灸を据えられたぐらいでは、あの監物は懲りないだろう。また同じことが繰り返されるのは予想がついたが、ミノルは何も言わなかった。

 ――八百眼組の歴史は、彼らの手で紡ぐもの。よそ者の僕が口出しするのは、ここまでにしておきましょう。

 組長は「それよりも」と言って、傍らの若い衆を振り返った。

「先ほど、うちの若いのから連絡が入りました。『蜘蛛ヶ森』の見張りについていた組員数名が、何者かに襲撃され、全員倒されていたそうです」

「まさか…」

「あれま、ダンディ冬枝ったら大暴れしちゃった?」

 勿論、嵐のジョークは答えを予想してのものである。案の定、組長からは想像通りの返事だった。

「組員たちは、50絡みのオールバックの男に襲われたと言っています。鬼神のような強さで、東京者ではないかと」

 ――来ましたか、源清司…。

 縫琴の駅ではミノルがさやかを発砲し、大騒ぎになってしまった。源がさやかたちの居場所を察知するには、十分だっただろう。

 あの男もまた、20年前の八百眼組と白虎組の抗争に関与し、縫琴には土地勘がある。もはや、一刻の猶予もなかった。

 新名の今後について警察と相談するという八百眼組組長と別れ、嵐がこそこそとミノルに耳打ちした。

「ちょっと、ジェントル秋津。セクシー源のこと、なんとかならないんスか」

「何とかしますよ。すぐに『蜘蛛ヶ森』に向かいます」

「そうじゃなくって。もっと、ドンピシャな手があるでしょ?」

 ボルドーレッドのスーツの裾を嵐に引かれ、ミノルは「はい?」と首を傾げた。

 嵐は、更に声を潜めた。

「セクシー源のボスは、ジェントル秋津の甥っ子でしょ?叔父さんからさあ、やめてよーって言えないんですか?」

 源清司のボス――桃華組組長・秋津ユタカは、亡きイサオの息子にして、ミノルの甥にあたる。

 ミノルは、ふむと顎を撫でた。

「なるほど。僕からユタカに、源清司を止めるよう命じろ、と頼めばいいわけですか」

「そう!簡単なことじゃないですか」

 バシバシと肩を叩いてくる嵐に、ミノルはふっと笑った。

「それは無理でしょう。言うまでもなく、ユタカは青龍会四天王の一人であり、青龍会会長・海堂の意を受けて行動している立場です。敵対している朱雀組に属する僕らと、おいそれと連絡を取ることはできません。それに…」

 そこで、ミノルの眼差しが曇った。

「…ユタカは、誰よりもイサオお兄さんを慕っていました。そのユタカが、源清司を使ってまでさやかさんを追いかけているんです。叔父さんの『やめてよー』を聞いて、はいそうですかと引き下がってくれるとは思えません」

「なんだい、ジェントル秋津の役立たずぅ」

「はい、僕は役立たずです。ついでに言えば嵐君、懸念は源清司だけじゃありませんよ」

「まだ何かあるんスかあ?」

 嵐が呆れたように言うと、ミノルは目付きを鋭くした。

「5代目のことです」



 朱雀組5代目組長・柘植雅嗣は、すでに玉榧を離れ、東京に帰還していた。

 街を見下ろす高級ホテルの最上級スイートルームで、柘植はふうと溜息を吐いた。

「最高顧問が縫琴駅で起こした騒ぎが、青龍会に嗅ぎつけられたそうですね」

「申し訳ありません、5代目」

 頭を下げたのは、青いスーツに身を包んだ壮年の男――ミノルの次兄である朱雀組相談役・秋津ススムだった。

 大企業・秋進コーポレーションの総帥として多忙な一方、ススムは朱雀組の幹部としてもこうして顔を出していた。

 ――兄貴が死んだ今、俺が朱雀組と弟たちを繋がなきゃならんからな。

 ススムには、兄・イサオの後を継ごうなどという気はない。朱雀組と大羽の秋津一家を守り、ついでに自身の会社の利益を図ることができれば、それで御の字だ。

「白虎組の冬枝誠二が、夏目さやかと合流した可能性がある、との情報も入っています。うまくすれば、青龍会を出し抜けるかもしれません」

 ススムはなるべく話を前向きに持っていこうとするが、柘植の表情は晴れない。

「もしも私の愛する娘に神のご加護があるならば……」

 柘植は窓の向こうに広がる夜景を見つめたまま、胸元からロザリオを手繰り寄せた。

 金色に輝く数珠が、ジャリッと音を立てて柘植の手の中でもつれる。

「……この空を飛ぶことが出来るでしょう。この地に平和を告げる鳩のように…」

「はあ。空ですか」

「そう。悪しき龍は地に堕ち、正しき者だけが天を行くことを許される…。お分かりですね?相談役」

 柘植の奇矯な物言いに、ススムはしばし、腕を組んで考えたが――やがて、ああ、と納得した。

「そりゃ、5代目の仰せとあれば、いつでも都合をつけますが…。本当によろしいので?」

「ええ。私の娘は、銀の翼よりはるかに尊く美しい、知恵という羽根を持っていますから」

 柘植は、わずかに笑みを浮かべた。

 その手が、執拗なまでにロザリオを強く握り締めているのを横目に見ながら、ススムは立ち上がる。

「分かりました。すぐに手配させます」

「その前に、相談役」

「はい?」

 と、窓際にいたはずの柘植がいつの間にか目の前に迫っていたので、ススムは柄にもなくたじろいだ。

「ご、5代目?」

「…他人行儀なものですね。我が敬愛する4代目の血を分けた弟であれば、私のことをあの名で呼ぶことも許したはずなのに……」

 柘植の目付きは心なしか、熱を帯びてこちらを凝視している。

 鼻先が触れ合うほどの至近距離に迫られ、ススムは慌てて後ずさった。

「め、め、めっそうもない。俺は兄の足元にも及ばない、不詳の弟です。5代目のことをあの名でお呼びするなんて、不敬が過ぎます」

 しかし、柘植は更に長身をススムに密着させた。

「…謙遜ですね。舎弟頭は私を嫌い、最高顧問はあの通り、己のみを恃みとしている自由人。秋津の四兄弟の中で今や、私と深い繋がりを持てるのは相談役、あなただけなのです」

「いやいやいや、そんな!!タケルとミノルだって、5代目とふかっ、深い繋がりを持ちたくてたまらないと思ってますよ!」

 弟たちに濡れ衣を着せたところで、ススムの背中が薔薇模様の壁に当たった。

 ――しまった!もう逃げ場がない…!

「相談役…。あなたの瞳は、4代目に生き写しだ」

 柘植の吐息が、ススムの頬にかかる。ぞぞっと、ススムの背筋が粟立った。

 ――嫌だ嫌だ嫌だっ、助けてくれっ、マユミちゃーん!!!

 ススムが妻の名を胸の内で叫んだところで、ガチャリと部屋の扉が開いた。

「失礼致します。お呼びでしょうか、社長」

「九条っ!」

 部屋を訪れたのは、スーツ姿の30代の男――ススムの腹心の部下、九条だった。

「じゃあ、例の件はつつがなく準備しておきますので。失礼します、5代目!」

 名残惜しそうにこちらを見つめる柘植を振り切り、ススムはスイートルームの扉を閉めた。

「いやー、ナイスタイミングだった、九条。礼を言うぞ」

「はあ…、社長のお役に立てて光栄です」

 九条は秋進コーポレーションの社員であり、朱雀組の組員ではない。だが、とにかく優秀で頭の切れる男なので、ススムが公私ともに連れ回しているのだ。

 ススムが『例の件』について切り出しても、九条は眉一つ動かさなかった。

「かしこまりました。2時間以内に支度させます」

「頼んだぞ。これが終わったら、またうちに遊びに来てくれ。マユミちゃんがお前に料理を食べて欲しい、って聞かないんだ」

 その時、九条の怜悧な面差しに、少しだけ笑みが浮かんだ。



 度重なる失態に、源清司は電話で叱責を受けた。

「キサマ、一度ならず二度も夏目さやかに逃げられおって…。やる気があるのか!」

「申し訳ありません」

 源の読経のごとき謝罪に、電話の向こうの男――東京にいる桃華組組長・秋津ユタカが、疑いの声を上げた。

「源…。キサマ、昔の弟分が相手だからと言って、手加減しているのではあるまいな」

「手加減?冬枝に?まさか」

 源は、口先で笑い飛ばした。

「俺と奴が兄弟だったのは、もう20年も昔の話です。孤児の冬枝や俺のような一匹狼には、所詮、ヤクザ同士のままごとに過ぎませんよ。それに…」

 源は、ギリッと歯ぎしりした。

「夏目さやかは、俺に二度も屈辱を与えました。さやかをこの手で捕まえるまで、若頭の元には帰れません」

 大羽、そして玉榧の両地で、さやかは源の手から逃げおおせた。

 ――俺の手から逃げていい女なんて、死んだ母さんだけだぜ。

 源清司の名にかけて、三度目を許すわけにはいかない。受話器を握る手に、力がこもった。

「ふむ。心意気だけは殊勝だな」

 ユタカは軽くいなしてから、「ところで」と話を変えた。

「彩北に潜入している組員たちから知らせが入ったが、キサマ…泉響子という女を知ってるか」

「響子…!」

 その名を耳にした瞬間、源は思わず受話器を手から取り落としそうになった。

 翠なす黒髪がサラサラと揺れる、穏やかな美貌。

 響子のことを思い出すだけで、源は、冬枝のこともさやかのことも忘れかけた。

 ――俺の女神。俺の天女。触れることすらかなわない、幻の女……。

 源の胸中を知ってか知らずか、ユタカは響子について驚愕の情報を告げた。

「その響子という女が今、白虎組の若頭の自宅に軟禁されているそうだ」

「なんですって」

 源はつい、電話ボックスの中で前のめりになった。

 対照的に、電話の向こうのユタカは淡々としていた。

「もっとも、響子とやらはそもそも若頭の愛人なのだろう?軟禁というのもおかしな話だが、若頭の本妻が常に響子に張り付いているらしい。一体、どういう状況なんだか」

「………」

 源には何となく、事の次第が想像できた。

 ――きっと、淑恵は響子のことを守ろうとしているんだろうな。

 妻と愛人の対立なんて、あの聡明な二人の間には成り立たない。二人はきっと、愛する男――榊原のために、手を取り合うことを選んだのだろう。

 ――あんな美人を二人も手に入れるなんて、榊原はツイてるな。俺ときたら、恨まれ役ばかりだっていうのに…。

 とはいえ、懸念は残る。榊原と淑恵はともかく、白虎組組長・熊谷は響子の存在を快く思っていない。

 ――榊原は熊谷の言いなりだ。もし、響子に何かあったら……。

 考えかけて、源は目を閉じた。今は、自分の仕事に集中すべき時だ。

 ――俺の惚れた女なら、きっと試練を乗り越える。響子は必ず、俺の手に舞い戻ってくる女だ。

 ユタカとの電話を終え、源は縫琴へと向かった。

 そして、目の前には今――響子とは異なり、源の手を絶対に拒む女がいる。

 ――見つけたぜ、さやか。



 さやかと冬枝は、産城大橋の上で戦慄した。

「源さん……」

 風で揺れる吊り橋の上に、長身の男――源清司が立っている。

「…!」

 風に乗って、冬枝の鼻先に異臭が漂った。

 ――油の匂い!まさか…!

 その直後、背後から小さくパン!という音が響いた。

「っ!」

 さやかが首をすくめる横で、冬枝はハッとして音のしたほうを振り返る。

 炸裂したのは、爆竹のようなものだったのか――冬枝たちが来た方、吊り橋の入り口から、白煙が上がっている。

 ――しまった!源さんはこの吊り橋を…!

 冬枝の予想を裏付けるように、源が手にした蝋燭の火を高く掲げた。

「てめえらが進める道はもうこの世にはねえ。ここが終着駅だ」

 言い終わると同時に、蝋燭が源の手から落ちた。

 ゴオッ――。

 事前に、吊り橋に油を撒いてあったのだろう。瞬く間に、白い吊り橋が赤く照らし上げられた。

「くっ…」

 忍び寄る熱気に、さやかは身を強張らせたが――努めて、この場での解を見極めようとした。

 ――この程度の炎なら、そう簡単に橋が焼け落ちたりはしない。それより、煙を吸わないようにしないと…!

 しかし、次の瞬間、さやかの目の前に源がいた。

「っ…!」

 いつの間に――と考えている暇はなかった。

 源の蒼い双眸に射すくめられ、時が止まる。さやかが気付いた時には、激痛と共に数メートル後方に吹っ飛ばされていた。

「げほっ…!ううっ…」

「さやか!」

 冬枝が炎に気を取られた、一瞬のスキだった。源に蹴られてうずくまるさやかの姿を見た瞬間、冬枝の中から全てが吹き飛んだ。

「てめえっ…!」

「さやか。これを見ろ」

 熱くなる冬枝を無視し、源はあるものを懐から取り出した。

 不吉な予感に駆られて顔を上げたさやかは、それを見て蒼白になった。

 舞い散る火の粉を反射して、キラキラと輝く手鏡――。

「朽木さんの…!」

 冬枝の元へ走れ、と叫んだ朽木の声が、さやかの耳にこだまする。

 直後、手鏡は源の手から離れ、革靴でパンと踏みつけられた。

「東京へ来い、さやか。うちの若頭がお待ちかねだぜ」

 桃華組の若頭――さやかと冬枝の脳裏に同時に同じ名が浮かんだ。

 ――秋津ユタカ……秋津イサオの一人息子!

「………」

 さやかの横顔が強張っているのをちらりと見てから、冬枝は源に挑みかかった。

「さやかは東京になんか行かねえ。そっちの若頭には、そう伝えな」

「あいにくだが冬枝、てめえには聞いてねえ」

 源は冬枝の蹴りを、ひらりと交わした。

 赤い炎に照らされながらも、なお冷ややかな双眸が、ひたと冬枝を見据える。

「冬枝、てめえは邪魔だ。てめえがいつまでもさやかに張り付いてるせいで、八方塞がりだ」

「当たり前だ。青龍会の思惑通りになんかさせるもんか」

 冬枝の言に、源は首を横に振った。

「てめえじゃさやかを守れねえ。いつになったら、それを理解する」

「何…?」

 源の表情が険しくなった。

「青龍会は会長・海堂の意志がすべてだ。海堂の前じゃ、四天王なんざしょせん将棋のコマに過ぎねえ」

「それがどうした。そもそも、海堂が支配しやすいように、若手4人を若頭に据えただけの話だろ」

 源は「そういう問題じゃねえ」と言った。

「海堂は戦前から、この国の一番暗い部分で生きてきた男だ。奴は極道の義理やプライドなんか、1ミリも持ち合わせちゃいない」

 冬枝もさやかも口を挟めないほど、源の声音は真剣だ。

「海堂はありとあらゆる拷問、惨殺、隠蔽を、何の躊躇もなくやる。奴は、それが特別なことだとも、残酷なことだとも思ってねえ。思う心が奴にはない」

 暴力を楽しむ者、残忍な者は、裏社会にはごまんといる。だが、海堂はそういう次元ですらない。

「海堂にしてみりゃ、戦後のヤクザなんか、ただの悪ガキ集団だ。刀や銃を振り回し、カタギや女を虐めて遊んでるだけのな」

 世間一般は、そうしたヤクザの姿に怯え、同時に満足している。ヤクザとはこの程度の存在だと、ニュースや週刊誌で知った気になっている。

 源が知る海堂という男は――その範疇を遥かに超えていた。

「海堂は、血に飢えている。魂の底の底が、乾いてひび割れてるんだ。だから、湯水のように人の生き血を吸わなきゃ気が済まねえ」

 この国を屠ったあの戦争が、海堂をはじめとする前時代のヤクザたちを狂わせたのかもしれない。そんな風にも、源は思う。

 暴走した国家によって、命の価値が塵芥にまでなり果てたあの戦争。暴力を生業にする極道たちでさえ、時代の荒波には逆らえなかった。

 あれから40年――もはや戦争の記憶が風化し始めている現代になってもなお、当時を生き残った者たちの渇きが癒えることはない。

「海堂は、この国の闇を食って膨れ上がった化け物だ。青龍会の人間なら、誰でもそれを知っている。だから、四天王でさえ海堂を恐れている」

 若手とはいえ、青龍会四天王は関東のヤクザなら誰もがひれ伏す猛者揃いだ。それぞれ、独自の思惑や野心を秘めていながらも、4人が今すぐ海堂に反旗を翻すことはない。

 慎重に慎重を重ね、嘘に嘘を重ねる。四天王同士であっても、腹の底は見せない。

 剛腕の男たちが、そこまでして己を守らねばならないほど、海堂は恐ろしいのだ。

「さやかを狙っているのは、そういう相手だ。到底、てめえみたいな田舎ヤクザが太刀打ちできる男じゃねえ」

 源は、すらりと日本刀を抜いた。

 炎を照り返し、禍々しい光を宿した刀身が、冬枝とさやかを映す。

「青龍会相手に逃げ回るなんて、そんな無茶が永遠に出来ると思ってたわけじゃねえだろ?そろそろ、潮時じゃねえのか」

「………」

 冬枝はしょせん、何の権力も持たない一匹狼に過ぎず、さやかもまた、無力な小娘でしかない。最初から、青龍会とは勝負にならないのだ。

 それを、意地とプライドだけでここまで逃げおおせた。心意気だけは買ってやりたいところだが、もうその猶予はなかった。

「冬枝。てめえがさやかの手を放すんだ。それでハッピー・エンドだ」

 源が剣先を突き付けると、冬枝がわずかに鼻白んだ。

 源は滔々と説いた。

「さやかのことは、桃華組が守る。てめえは彩北にいて、榊原に小銭をもらって過ごしてりゃいい。もう青龍会と朱雀組のゴタゴタなんかに巻き込まれなくていいんだ」

 そもそも、青龍会なんて巨大組織と戦うなんて、源の知る冬枝誠二の柄ではない。さやかへの気持ちだけでここまで粘ったのだろうが、冬枝は気楽な根無し草として生きてきた歳月のほうが長い。それは、源が一番よく知っている。

 冬枝お得意のその場しのぎの連発では、今後の複雑な抗争を乗り切ることはできない。冬枝自身、それは分かっているはずだ。 

「楽になれよ、冬枝」

 源は優しさすら込めて告げたつもりだったが、冬枝の返事は冷ややかだった。

「やなこった」

「冬枝」

 源を遮り、冬枝は駄々をこねた。

「海堂がなんだ。青龍会がなんだ。どうして、さやかをここまで追い詰めた連中に媚びなきゃならねえんだ」

 冬枝の言葉に、うずくまっているさやかがハッと顔を上げた。

「俺とさやかは二人で一つだ。相手がなんだろうと、二人で戦う」

「さやかはてめえの手に負える女じゃねえ。分かってんのか」

 冬枝は刀を抜き、じりじりと後ずさった。

「俺はさやかと心中する。てめえなんかにさやかを渡すぐらいなら…」

 冬枝はくるりと源に背を向け、さやかに刀を振りかざした。

 燃え上がる橋を背にして、一瞬、さやかと冬枝は一つの暗いシルエットになる。

 冬枝の口が動き――その言葉は、さやかにだけ届いた。

「冬枝さん…」

 さやかの瞳が見開かれ――冬枝が、少しだけ微笑んだような気がした。

 そして、冬枝はさやかを刀で斬る――ように見せかけて、そのまま腰をひょいと持ち上げた。

「うわあっ!?」

 さやかはポーンと投げられ、橋の外へと放り出された。

 ドカッ!

「いったぁ…」

 かえって、さっき源に蹴られた時より痛いぐらいだ。全身を襲う痛みに耐えながら、さやかは何とか身を起こした。

 橋の上では、冬枝と源が、目にも止まらぬ速さで剣戟を繰り広げている。

「…冬枝さん」

 冬枝はきっと、時間稼ぎをしてさやかを逃がすつもりなのだろう。炎の中に見え隠れする冬枝の背中は、そんな気負いを感じさせた。

 だが、さやかはそんな気になれなかった。

 ――冬枝さんを置いて、僕だけ逃げ出すなんて嫌だ。

 それでは、洞窟で再会する前に逆戻りするのと同然だ。

 源を排し、冬枝と一緒にミノルたちと合流する。それが、今のさやかの一番の望みだ。

 ――こうなったら、ここで源さんと決着をつける。

 橋に火をつけたところから見ても、源にさやかと冬枝を逃がすつもりはないだろう。下手な追いかけっこに興じるよりも、ここで一度、源を倒してしまったほうがいい。

 ――僕が源さんの気を引いて、そのスキを冬枝さんがつく。

 あの源相手に無謀な策かもしれないが、今はこれしかない。さやかは、よろめきながらも立ち上がった。



 警察署の出入口前で、嵐は顔をしかめた。

「つまり、ロリコン伯爵がさやかに何かするかもしれないってことですか?」

「…そうです。どうも、相談役の動きが怪しいので」

 眉を曇らせるミノルに、嵐がボリボリと頭をかいた。

「相談役って誰でしたっけ?」

「秋津ススム。僕の2番目の兄です」

 秋津一家と朱雀組の相談役であり、その立場は、長兄だったイサオ亡き後も続投とされた。

 ススムはイサオに代わって朱雀組と秋津一家の橋渡し役となり、両者の調整を務めた。必然的に、ススムと柘植との距離はかなり近いものとなった。

 相談役という立場上、ススムが柘植の側近のようになるのは当然と言えば当然なのだが、柘植はイサオを殺した容疑者の一人でもある。その柘植とススムの親しさを、ミノルは懸念していた。

「血の繋がったお兄ちゃんを疑ってるんスか?」

 真意を探るような嵐の問いに、ミノルは正直な胸の内を明かした。

「弟としては信じていますが、男としては難しいといったところです」

「えっ!?秋進の社長って、ロリコン伯爵とコッチの関係!?」

 思いもよらないことを言われ、ミノルは噴き出した。

「違いますよ。ススム兄さんは極道である前に、経営者ですから。資産家である5代目とは、友好的な関係を保ちたい、というのが本音でしょう」

「死んだ兄貴のカタキかもしれないのに?」

 嵐がずけずけと言ったが、ミノルは嘆息で答えた。

「そのあたりは、ススム兄さんが一番ドライかもしれませんね。ススム兄さんが秋津一家に入ったのも、会社経営のついでみたいなものでしたから」

 つまり、柘植が悪だくみをしていたとしても、ススムは止めるどころか喜んで手を貸すということだ。話をまとめて、嵐はイーッと歯を剥き出しにした。

「ジェントル秋津のお兄ちゃんたちって、両極端っスね」

「…ええ。本当に、昔から手を焼かされます」

 仕事人間で合理主義のススム、昔気質で謹厳なタケル。どっちも我が強いところは共通しているから、末っ子のミノルとしては厄介なことこの上ない。

 ――まあ、一番厄介だったのは、イサオお兄さんでしたが。

 なにせ、イサオの考えていることは、ミノルでも読めない。ミノルたち家族にはいつも明るい笑顔だったが、その笑顔のままで残酷なことを平気でやってのけたりする。

 そうでなければ、朱雀組の4代目など務まらなかったが――そこまで考えて、ミノルの胸がにわかにざわついた。

 ――そうだ。イサオお兄さんが殺されたあの日、僕はお兄さんを説得するつもりだった。でも、僕はお兄さんの何を止めようとしていたのだろう……。

 考えに耽りかけたミノルを、嵐の鋭い声が現実に引き戻した。

「ジェントル秋津!あれ!」

「……!」

 嵐が指さす先を見て、ミノルは目を瞠った。

 いつの間にか、警察署内がざわついている。衆目を集めているのは、日本刀を持った一人の男だった。

「監物……!」

 そこにいたのは、蜘蛛ヶ森の前で拘束されたはずの八百眼組若頭・監物だった。

 しかも、全裸に褌一丁しか身に着けておらず、隆起した筋肉を汗でぐっしょりと濡らしながら、目を獣のように爛々と光らせている。

 その異様な雰囲気に、居並ぶ警官たちも組員たちも、息を呑んで立ち尽くしていた。

「イッちゃってますよ、あのオッサン」

 嵐が耳打ちし、ミノルも頷いた。

 監物は日本刀を構えたまま、じりじりと人垣の中央――八百眼組の組長の元へと接近した。

 流石の貫禄と言うべきか、殺意をまとった監物と相対しても、組長はたじろがなかった。

「何の真似だ、監物。ここはそんなモン持って来る場所じゃねえ」

「引退してください、親分」

「何?」

 監物は目を血走らせ、刀を握る手に力を込めた。

「八百眼組は、俺が継ぎます。だから、親分は身を引いてください。今、ここで」

 秋の夜だというのに監物の横顔は脂ぎり、完全に正気を失っていた。

「血迷ったか、監物。お前はもうここにいちゃいけねえ。帰るんだ」

 組長はいたわるように言ったが、監物は聞く耳を持たない。

「八百眼組は俺が守るんだ。俺についてくる奴らだってたくさんいるんだ。俺がそいつらの面倒を見てやらなきゃならねえんだ……」

 監物の言葉とは裏腹に、その周囲に人はいない。皆、距離を開けて監物を取り囲んでいる。

 部下たちに裏切られ、組長を殺すという監物の野心は潰えた。その現実を受け入れられず、監物は未だ夢の中にいる。

 嵐が、こそこそとミノルの肘を小突いた。

「まずいっス。このままだとあのオッサン、ハチの巣ですよ」

 嵐が顎をしゃくった先では、警察官たちが密かに拳銃を用意していた。

 ――警察署内でヤクザが素っ裸で日本刀を振り回しているのですから、撃たれても当然ではありますが…。

 監物をそこまで追い込んだのは誰かと問われれば、ミノルも責任を感じなくはない。

 監物の末路は自業自得とはいえ、よその組の揉め事に首を突っ込んだ以上、最後まで世話は焼くべきだろう。

 嵐も、顔でそう訴えている。ミノルは、やれやれと中折れ帽を手で押さえた。

 ――トラブルの仲裁なんて、僕の柄じゃないんですけどね。

 それなのに、いつの間にかそういう役回りが板についてしまった。それもこれも、イサオを始めとする兄3人が、自分を便利使いするからだ。

「監物君」

 ミノルが穏やかに声をかけると、監物がハッとして振り返った。

「貴様……まだここにいたのか」

「警察署で代替わりなんて、なかなか粋ですね。これも君の流儀ですか?」

 さりげなく乱行を諫めるミノルに、監物は顔を歪めた。

「忌々しいよそ者め。貴様が手出ししなければ、全て上手くいったのに」

「君の文句はごもっとも。ですが、これで良かったんじゃありませんか」

「何?」

 ミノルはただ優しく、銀髪を春風に靡かせるような軽さで、ふわりと言った。

「堅気の料理人に毒を盛らせるなんて、極道のふるまいではありません。己の手で刀を握った今の君のほうが、非常に結構な男になったと思いますよ」

「だったら、もう俺を止めるな。八百眼組の歴史は、ここで変わるんだ」

 そこで、ミノルの蘇芳色の瞳がつと細く、冷ややかになった。

「…そうですね。子が親に刀を向けた以上、もう後戻りはできません」

 ミノルはカツカツと革靴を鳴らし、監物の前に立ち塞がった。

「八百眼組の若頭は、今ここで死にました。君はもう死人です」

「何っ…!」

 監物の視線を真っ直ぐに受け止めながら、ミノルは一語一語、諭すように話した。

「男には、やってはいけないことがあります。この世界に入った時、君は己自身に誓ったはずです」

 自分でそう口にしてから、ミノルの中に風穴が開いた。

 ――イサオお兄さんにも、これと同じことを言った。

 ミノルの心は、目の前の10月の縫琴の警察署から――9か月前の1月、東京のホテルに飛んだ。

 最上階にあるスイートルーム。天空から東京を見下ろせるこの一室は、イサオのお気に入りだった。

「東京は、いつ見てもコンクリートとゴミの巣だ。雪でも降りゃ、少しは綺麗になるのにな」

 壁一面に広がる窓を前にしても、イサオの背はそれよりなお大きく見える。ミノルは、備え付けのソファから兄の後ろ姿を見ていた。

「東京はこうやって、上から見てるぐらいがちょうどいい。だから東京にいる奴は皆、上を目指したがるんだろうな」

 そう呟いてから、イサオはくるっとミノルを振り返った。

「なして、そんなおっかねえ顔してるんだ?ミノル」

「4代目」

 ミノルはゆっくりと立ち上がると、挑むように兄に向かい合った。

「男には、やっていいことと悪いことがあります。秋津一家の者ならば、誰もがそれを胸に誓って生きている」

 その秋津一家を興した張本人に、こんなことを言わねばならないことが――ミノルはとても残念だった。

「夏目さやかさんを殺めようだなんて、絶対に許されることではありません。どうか今一度、考え直してもらえませんか。イサオお兄さん」

 ――そうだ。イサオお兄さんは、さやかさんを殺そうとしていて――僕は、それを止めようとしていた。

 その時、兄がどんな顔をしたのか――思い出そうとしたミノルの意識を、嵐の声が遮った。

「危ない、ジェントル秋津!」

 ミノルが我に返った瞬間、鼻先に監物の刀が迫っていた。

「!」

 監物の雄叫びと、嵐の声と、周囲のざわめきが、やけに遅く聴こえる。ミノルは、大きな時間の流れの中にいた。

「ただいま、ミノル」

 終戦後、ようやく大羽に帰還した若き日のイサオの笑顔と、幼かったミノルを抱き上げた頼もしい腕の感触が、不意にミノルを襲った。

 ――何故?

 どうして今――イサオがさやかを殺そうとしていたことを思い出した今になって、40年前のあの日の記憶が蘇るのだろう。それも、太陽のようなイサオの笑みばかりが、ひどく鮮やかに。

 ――イサオお兄さん、あなたは一体……。

 ミノルは無意識に、懐からあの牌を――イサオを殺した犯人が残した『百塔』を取り出していた。

 ガッ!

 刃が牌に食い込み、寸時、監物が止まる。

 束の間の静寂の後――ミノルの手の中で、牌が粉々に砕け散った。

 パーン!

 周囲の人間たちと同様に、ミノルもまた呆然と目の前の展開を見ていたが――その瞳が、かっと見開かれた。

 ――これは…!

 ミノルの指先で飛び散る牌の破片の中に、小さな紙片が一枚、混ざっていたのだ。

「食らえ、スプリングストームアターーック!!」

 実際には、ほんの数秒の出来事だった。ミノルがふと気づいた時には、嵐が横から監物に体当たりをし、続けて警官たちが監物を取り押さえていた。

「八百眼組は俺が守るんだあああっ!」

 取調室へと連行されていく監物の叫びが、遠のいていく。周囲が騒然とする中、嵐がミノルの肩を叩いた。

「どうです、ジェントル秋津。見ました?俺の新しい必殺技」

「見てませんでした」

「っておい!命の恩人に対して、そっけなくない?ていうか、何持ってるですか、さっきから」

 ミノルの手の中にあるのは、細長い紙切れだ。

 覗き込んだ嵐が、首を傾げた。

「おみくじ?あ、凶だ。凶って本当に出るんスね」

「…ええ。イサオお兄さんも、そう言っていました」

 今年の元旦、朱雀組の幹部で初詣に行った。

 4代目組長・イサオをはじめ、相談役・ススム、舎弟頭・タケル、そして最高顧問・ミノル。秋津一家の四兄弟が揃った、最後の日だった。

 その時に引いたのが、このおみくじだ。

 ミノルは、おみくじを裏返した。そして、そこに書かれた筆跡に目を凝らした。

『カグラと会え イサオ』

 


 源の蹴りが腹に命中し、冬枝は橋板の上に転がった。

「ぐっ…」

「情けねえな、冬枝。そのザマで、青龍会と張り合うつもりか」

「うるせえ…」

 口ではそう返しながらも、冬枝の声はか細い。メラメラと燃える炎の轟音に、かき消されてしまいそうだ。

 ――ネチネチネチネチ、嫌な攻撃ばっかりしやがって。

 腹を蹴ったり、刀で叩き飛ばされたり、これじゃまるでなぶりものだ。そう考えてから、冬枝は違和感を覚えた。

 ――どうして、源さんはさっさと俺をやっちまわねえんだ?

 橋に火をつけられ、退路を断たれたこの状況に追い詰められて、今の今まで気付かなかったが――源なら、とっくの昔に冬枝を昏倒せしめているはずだ。

 源が手加減する理由などない。時間稼ぎか?だが、何のために?

 冬枝がそう考えている間にも、源の膝蹴りが襲ってきた。

「くそっ…!」

 避けた――つもりだったが、ぐらりと足元が揺れた。

 源の蹴りが顎をかすめ、冬枝はまたも倒れこんだ。

 手をついた橋板から、吊り橋全体の揺れが伝わる。冬枝は、小さく舌打ちした。

 ――畜生、こうもグラグラ揺れるんじゃ、余計に不利じゃねえか。

 源がどういうつもりかは知らないが、この分ならさやかが逃げ抜ける可能性は十分ある。さやかさえ守れれば、この勝負は冬枝の勝ちだ。

 そう思った矢先、冬枝の頭上を影が覆った。

「えっ」

 炎の壁を乗り越え、跳躍したシルエットは――さやかだった。

 さやかは冬枝の前に立つと、源から守るように両手を広げた。

「おいっ、バカ!なんで戻ってきたんだ!」

 冬枝は思わず怒鳴りつけたが、さやかからは綺麗さっぱり無視された。

「源さん。もうこんな茶番は終わりにしませんか」

 さやかの言葉に、源が片眉を上げた。

「東京へ来る気になったか?」

「取り引きをしましょう。源さんの返事次第では、東京へ行ってもいいです」

 源が「取り引き?」と聞き返すと、さやかは背後の冬枝を手で示した。

「僕がそちらに行く代わりに、冬枝さんのことは見逃してくれませんか」

「おい!何言ってんだ、さやか」

 肩を揺さぶる冬枝に、さやかは目配せをした。

 ――僕が来ると分かれば、源さんは油断する。絶対にスキが生まれる。その時がチャンスです、冬枝さん…!

 この際、源を橋から突き落としたっていい。青龍会に連れて行かれてしまえば、さやかと冬枝はそこで終わりなのだ。

 ――僕が囮になります。だから冬枝さん、お願い…!

「さやか…」

 さやかのアイコンタクトが、伝わったかどうか。さやかの肩にかけられていた冬枝の手が、ふと離れた。

 さやかは、源に目線を戻した。

「冬枝さんが痛めつけられるのを、これ以上見ていられません。源さん、お願いします」

 さやかが悲痛な声を出すと、源は無表情に頷いた。

「分かった。そこまで言うんだったら、冬枝のことは放っておいてやる」

「ありがとうございます」

 さやかは、ゆっくりと源に近寄った。

 一歩、進むごとに、足元がぐらつく。夜闇を焦がす炎の舌が、今にもさやかの肌を舐めそうだ。

 ――ここはまるで、地獄へと続く一本道だ。

 だが、さやかは地獄へ落ちる気などさらさらない。必ず、冬枝と一緒に生きて帰る。

 さやかと源との間の距離が、1メートルを切った。表情を悟られぬよう、俯くさやかの目線、源の靴先が映った。

 ――今だ!

 さやかには、振り返らずとも分かった。さやかの背後から、刀を構えて走ってくる冬枝の姿が。

 冬枝の刀が、火花を反射して煌めく。この刹那に、さやかと冬枝は全身全霊を傾けた。

「手の内が透けてるぜ」

 源の低い囁きが、さやかの耳に届いた。

 言葉の意味が頭に到達したのは、身体がふわりと宙に浮いたのと同時だった。

 源に足払いをかけられた。そして、刀の柄で横薙ぎに吹き飛ばされた。

 足が地につかない。腕を伸ばしても間に合わない。手すりを超え、さやかの身体が橋の外へと吸い込まれていく。

 重力――いや、さやかをこの世ならざるどこかへと引きずり込む引力。それが大きな手となって、さやかを鷲掴みにした。

 ――ダメだ――認識が現実に追い付かない。解が遠ざかっていく…!

 手も足も出ない、とはまさにこのことだ。さやかのちっぽけな企みなど、源の前では水泡に過ぎなかったのだ。

 見えない何かに搦め取られて、さやかが巨大な風穴に落ちていく――その寸前だった。

「さやか!」

 いつだってそうだった。

 野生の勘と超人的な身体能力だけで、さやかの小賢しい計算を大きく飛び越していく。こうと決めたら、微塵も躊躇しない人。

 大きな流れに呑まれかけたさやかを、冬枝が抱きすくめる。そのまま、さやかを橋の内側へと突き飛ばす。

 冬枝の姿が、炎の向こうに消えていった。

「冬枝さん!」

 さやかは、考えるのをやめた。衝動が命じるままに、その手を伸ばした。

 さやかの指先が、冬枝の腕を確かにつかんだ。

「うっ!」

 焼けた橋板に膝が擦れ、更に腕と肩に冬枝の体重がかかる。全身が引きちぎれそうな痛みが、さやかを襲った。

 気が付けば、橋から落ちかけた冬枝を、さやかの腕だけで支えていた。

「よせ、さやか!手を放せ!」

 冬枝が叫んだが、2本の細っこい腕は、ぎゅっと冬枝を掴んで離さない。

「ううっ…」

「さやか!」

 このままでは、さやかまで落ちてしまう。焦る冬枝の視界に、さらなる絶望が映った。

「……」

 源はさやかの背後に立つと、この上なく冷酷な目をした。

「プライドの高い女だからな。大人しく逃げるなんて、さやかの性じゃないのさ。少しスキを見せてやれば、必ず動くと思った」

 さやかの手が、ぶるぶると震えている。さやかの腕は、もうとっくに限界なのだ。

「自分のことを頭がいいと勘違いしている奴ほど、御しやすいものはない。なあ、さやか」

 源は足を上げると、さやかの背を思いっきり踏みつけた。

「うっ…!」

 源の革靴が背中にめり込み、さやかの身体が丸まる。そうすると、ますます冬枝を支える手に力が入れづらくなった。

 ――さやか…さやか!

 汗だくになって自分を掴むさやかの顔が、冬枝の視界いっぱいに映る。こんなにも近くにいるのに、二人はあまりにも無力だった。

 源が、さやかの耳元で囁いた。

「お前は何を見た?何を追いかけた?もし、お前が見たものが希望なら、それは幻だ」

 ぐっとさやかに体重をかけながら、源はさやかに告げた。

「お前たちの希望はどこにもない。これでジ・エンドだ」

 源が、刀を振りかざした。その瞬間、冬枝は全身に力を込めた。

「さやか!」

 渾身の力を振り絞り、冬枝はさやかの手をほどいた。

 同時に、巨大な重力が、冬枝を地獄の底へと引きずり込む。あっという間に、さやかの顔が見えなくなる。

「冬枝さん!」

 さやかの悲鳴が、冬枝が聴いた最後の音になった。



 それから数十分後――源は、縫琴市内にある某ビルの屋上にいた。

 ヘリポートには予定通り、巨大な銀の鳥――ヘリコプターが停まっている。

 桃華組の代紋入りのヘリを見て、さやかがふと口を開いた。

「…これで、東京まで行くんですか?」

「ああ」

「そうですか…」

 さやかはそれっきり、また口をつぐんだ。

 ――無理もねえな。

 冬枝が、さやかの目の前で橋から転落したのだ。暗闇に落ちた冬枝がどうなったのかは、源にも分からない。

 それからのさやかは、まさに呆然自失だった。ろくに抵抗することもなく、源によってあの産城大橋を後にし、車でここへ辿り着いた。

 あまりの痛々しさに、さやかの顔を見ることすら憚られる。だが、源はさやかに同情する気はなかった。

「冬枝が橋から落ちたのは、全部お前が招いた結果だ。さやか」

 源とさやかの間を、冷たい夜風が吹き抜ける。目を合わせることもなく、これから東京へと飛ぶヘリを見つめたまま話した。

「お前が浅知恵を使ったから、冬枝が余計な悪あがきに走った。もし、お前が言葉通り、大人しく俺の元について来ていたら、俺は冬枝を見逃してやるつもりだったんだぜ」

「………」

「さやか。お前が冬枝の運命を狂わせたんだ」

 酷いことを言っている自覚はあった。それでも、源は事実を告げなければならなかった。

「お前と出会わなければ、冬枝はただの田舎のヤクザでいられたんだ。こんな、青龍会と朱雀組の争いの巻き添えなんか食らうことはなかった」

「………」

「お前は彩北に来るべきじゃなかった。それは、自分で分かってるな」

「………」

 さやかの髪が、肩の上で揺れる。白い横顔からは、何の感情も読み取れなかった。

 源は、ポンと励ますようにさやかの背を叩いた。

「桃華組に来れば、俺と若頭が全力でお前を守ってやる。もう、誰のことも危ない目に遭わせずに済むんだ」

「………」

「あとは何も考えなくていい。秋津イサオの件は、若頭がカタをつける。お前が普通の女に戻れるまで、少しの辛抱だ」

「………」

 さやかは微動だにしない。虚ろな目は、ずっとヘリを見つめているようだった。

 ――少し、一人にしてやったほうがいいな。

 源はさやかを先にヘリに乗せ、自身は連絡のために一旦、ビルの中に戻った。

 ――ヘリの中には運転手もいる。この状況で、さやかに出来ることは何もない。

 公衆電話で手短にユタカへの報告を済ませると、源はすぐに屋上のヘリに乗り込んだ。

「………」

 さやかは膝を抱え、うずくまるようにして座席に座っていた。

 腕で顔を覆っているのは、或いはもう源の顔を見たくないのかもしれない。シートベルトはきちんと着けているようだったので、源は何も言わずにヘリを発進させた。

 轟音と共に、ヘリが夜空へと浮き上がった。

 山に囲まれた縫琴の街が、足元に広がる。それも、数分の間にぐんぐん遠ざかっていく。

 さやかを連れて、東京へと帰還する。ようやく目的を遂げたのだという実感が、じわじわと源の胸に広がった。

 ――長かったな、この数か月は。

 桃華組組長・秋津ユタカの命を受け、古巣である彩北に潜入した。さやかとの距離を縮め、『竜宮城計画』の実行にも携わった。

 途中、秋津一家総長・秋津タケルに妨害されたり、朱雀組5代目・柘植雅嗣の出現を受けたりもしたが、所詮は田舎のヤクザたちと小娘だ。呆気ないほど容易く、さやかは源の手に落ちた。

 ――響子が知ったら、きっと俺を軽蔑するだろうな。

 響子とも、もう会うことはないかもしれない。残念だが、響子のことを巻き込まずに済んだ安堵のほうが大きい。

 ――あとは、若頭の腕前次第だ。

 ユタカは一見、雄々しかったイサオとは似ても似つかぬ優男だが、源が見込んだ男だ。青龍会の陰謀を打破し、必ず父親殺しの仇を取るだろう。

「………」

 やがて、ヘリが東京へと差し掛かったころ――ずっと俯いていたさやかの唇が、かすかに動いた。

「さやか?」

 ヘリの中は轟音で会話もままならないが、源は唇を読むことができる。さやかの顔を覗き込み、続きを促した。

 さやかは、能面のような顔でこう言った。

「源さんは、天国ってあると思いますか?」

 意外なセリフに、源は少しだけ面食らった。

 ――さやかは、冬枝のことを考えてるんだろうな。

 冬枝を失ったさやかの傷心が、分からないわけではない。無視することもできたが、源はあえて返事をしてやった。

「…さあな。いずれにせよ、俺が行ける場所じゃないさ」

「じゃあ、生まれ変わりは信じますか?」

「生まれ変わり…?」

 リアリストのさやかとは思えない単語に、源は眉をひそめた。

 やはり、冬枝の転落を受けて、さやかは参っているのかもしれない。源は返答に迷ったが、一応、さやかの真意を測ることにした。

「輪廻転生か。そんなものがもし本当にあるなら、さやかはどうする?会いたい男でもいるのか」

 すると、さやかはフフッと小さく笑った。

「生まれ変わりっていうのは、どこまで本人と一緒なのかな?顔は?性別は?遺伝子系統は?僕たちは、何をもってその人だって決めているんでしょうね」

「………」

 ――さやかは、壊れちまったのか…?

 無言になる源に対し、さやかは微笑みを浮かべた。

「そんな顔しないでください。僕は今、特別大サービスをしてあげてるんですよ。大嫌いなおじさんに」

「……?」

「これはとっても大事な話なんです。おじさんには分からないでしょうけど」

 さやかの口ぶりは、楽しそうですらある。

 源は、不意に胸騒ぎを覚えた。

 ――なんだ。これから、何が起ころうとしているんだ?

 源の不安とは裏腹に、さやかはどんどん饒舌になっていった。

「源さんは、お正月におみくじは引きましたか?」

「…いや」

「僕は大吉でした。自分で引いたわけじゃないですけど。イサオさんが、勝手に僕の分まで引いたんです」

 秋津イサオ――その名が出て、源はハッとした。

 ――さやかは、何の話をしている?

「神様に選ばれた人間は、生きてるうちに生まれ変わることが出来るんです。それが、僕とイサオさんの秘密」

 さやかはごそごそと懐を探ると、一つの麻雀牌を取り出した。

 表面に『百塔』と刻まれた牌。さやかは、更にそれをパカッと手で開いた。

「本当は、僕じゃなくてミノルさんのはずだったんです。でも、ミノルさんは凶だったから、やめたんですって」

「…何を?」

「輪廻転生ですよ」

 さやかは、牌の中から小さな紙片を取り出してみせた。

 細長い紙――おみくじだ。

 大吉と書かれた表面を裏返すと、ボールペンで走り書きされた文字列が目に飛び込んだ。

『彩北へ行け イサオ』

 目を見開く源に、さやかははにかむようにして紙片を元通りに牌の中にしまった。

「冬枝さんにも言ってないのに、先に源さんに教えちゃいました。あーあ」

「さやか…今のは、一体」

「よかったですね。冥土の土産にしてください」

 冥土――その言葉に不吉なものを感じて、源はハッと窓を振り返った。

 銀河のようにネオンが瞬く東京の夜景が、一面に広がっている。

 光の中の一つが、流れ星のように真っ直ぐに――このヘリに向かってくる。

 ――罠だ!

 次の瞬間、爆発音と共にヘリが大きく揺れた。

 コクピットから警告音が鳴り響き、景色が傾く。ヘリは、完全にコントロールを失った。

「僕は絶望しません。冬枝さんが、諦めるなって言ったから」

 呆然とする源の前で、さやかは澄み渡った夜空のような笑みを浮かべた。

 さやかは決然と立ち上がり――その背には、緊急用パラシュートが背負われていた。

 源は、今更ながらにさやかの意図を察した。

 ――そうか。ずっとうずくまっていたのは、それを隠すためか…。

 源がヘリから離れた数分の間に、さやかはパラシュートを隠し持っていた。さやかは最初から、ヘリが撃墜されることを分かっていたのだ。

 ――終わったと思っていたのは、俺だけか。

 冬枝を橋から落とした時、さやかを追う闘いは終わったと思っていた。

 だが、さやかはずっと、虎視眈々と狙っていたのだ。

 源を、地獄に落とせるこの時を。

「僕は、冬枝さんと心中します。さよなら、源さん」

 扉が開き、さやかは迷いなくヘリから飛び降りた。

「さやか!」

 源の伸ばした腕は、宙を切った。

 さやかの痩身が、東京の夜景に紛れて消えていく。

 そして、回転しながら落ちていくヘリと源もまた――燃え尽きて砕け散る隕石のように、夜空から追い立てられていった。



 東京の夜空に輝く、最上級ホテルの一室。

 朱雀組相談役・秋津ススムは受話器を握っていた。

「全て、滞りなく完了しました」

 ススムの目の前には、東京の夜景を映す大きな窓がある。今頃、街を駆け抜けているであろうサイレンの音も、この高層階には届かない。

「………」

 電話の向こうの声を聞いて――ススムは、苦悶するように眼鏡の上の太い眉毛をもぞもぞと蠢かせてから、苦渋を声に出さないよう――精一杯の愛想声で言った。

「はい。ま、摩耶様の仰せの通りに…」

 語尾が震えてしまったが、取り繕う余裕もない。今や海外にまで展開する大企業・秋進コーポレーションの総帥でもあるススムだが、時と場所と相手によっては緊張するのだ。

 ――やれやれ。これでまた、ゲームの展開が変わってくるぞ。

 憎まれ役になるのは人の上に立つ者の宿命だが、それにしても骨が折れる。特に、弟たち――タケルとミノルの反応を思うと、ススムはちょっと気が遠くなりそうだった。

「………」

 そんな夫の背中を、妻――秋津マユミが、首を傾げて見つめていた。

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