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61話 絶体絶命!蜘蛛ヶ森の暗闘

第61話 絶体絶命!蜘蛛ヶ森の暗闘


 彩北市立総合病院――。

 消灯時間を迎え、どの病室からも灯りが消えた中、一つだけ夜闇に窓を光らせる部屋があった。

 街を一望できるこの病室は、下界から一線を画すように、一般病棟から遠く離れている。

 普通の患者が案内されることはないこの特別個室は、院長と懇意にしている榊原の計らいで用意されたものだ。

 ベッドに半身を起こす男――白虎組組長・熊谷雷蔵のために。

「そう。源が縫琴に行ったか」

「はい。『ブルー・ワイバーン』のバイク隊が国道を通過したとの目撃情報があったため、源も恐らく縫琴にいるものかと」

 ベッドの横に腰かけた榊原が、膝の上の拳をぐっと握り締めた。

「源が相手では、あの冬枝でも太刀打ちできません。さやかを青龍会に奪われるわけには…」

 かつては白虎組にいた身でありながら、源は青龍会の手先となってさやかを狙い、組長にまで怪我を負わせた。

 まして源は、白虎組の情報を探るために榊原の妻・淑恵や愛人・響子に近付いた。身重の妻が青龍会に拉致されかけたことも思い出せば、榊原の表情は険しくなった。

 ――源を許してはおけねえ。必ず、この手で…。

 歳の近い源に対して同胞のような気持ちを抱いていただけに、裏切られた怒りは深い。

 そんな榊原を煽るように、組長が笑み交じりに告げた。

「そうだねえ。じゃあ、源を釣り上げちゃおうか」

「釣りですか」

 元漁師らしい組長の例えであり、榊原はすぐにその意を察した。

「でしたら、エサは何を」

「響子って女、今はお前んちにいるんだろ」

 響子の名を出され、榊原の顔から血の気が引いた。

「…お待ちください。響子は、源とは無関係です」

「無関係ってことはねえだろ。源があの女にご執心だったってことは、俺の耳にも届いてる」

「しかし…」

 榊原は昼間、淑恵の様子を見舞いに自宅に立ち寄った。

 朱雀組との連絡や組事務所の立て直しなど、多忙ではあったが――どうしても、妊娠中の淑恵が心配でならなかったのだ。

 ――しかも、響子が一緒だなんて…。

 霜田に押し切られてしまったものの、榊原を巡って言い争いまでしていた2人が、一緒に過ごすことになるとは。淑恵の身体にも良くないのではないか、と榊原は気が気じゃなかった。

 またケンカしているのではないか、と案じていた榊原が見たのは、リビングのテーブルいっぱいにティーセットを広げる淑恵と響子の姿だった。

「あらやだ、忍さんに見られちゃったわ。どうしましょう、響子さん」

「はあ…」

 淑恵にきゃいきゃいと袖を引かれ、響子が困ったように苦笑いしている。

 淑恵は、テーブルに並んだ色とりどりのティーカップを手で示した。

「今ね、響子さんと一緒に紅茶の飲み比べをしていたの。同じ茶葉でも、産地やメーカーによって香りや味が全然違うのよ」

 さらに、テーブルの上に陳列された紅茶の缶を手に取って、淑恵はにっこりと笑った。

「ほら、ご覧になって。紅茶の缶ってどれもすごく可愛らしいのよ。お気に入りのティーカップも、響子さんに見てもらったわ。ウフフッ」

 呆気に取られる榊原に、淑恵は「そうそう」と矢継ぎ早に言った。

「響子さん、紅茶を入れるのがとってもお上手なのよ。あなたが教えてあげたんですって?」

「うっ…それはその…うん」

 響子の手前、否定するわけにもいかず、榊原は力なく頷いた。

 貰い物の茶葉を響子にあげたら「入れ方が分からない」と言われたため、榊原が直接教えた。そもそも、紅茶の入れ方を榊原に伝授したのは淑恵だったが。

 ――淑恵は、俺を責めてるのか…?

 内心、冷や汗をかく榊原をよそに、淑恵はどこまでも明るく言った。

「ありがとう、忍さん。あなたのおかげで私、響子さんと一緒に紅茶を楽しめるのよ。嬉しいわ」

「えっ…ああ、うん」

 淑恵は皮肉を言っているという風でもなく、響子の肩にじゃれついてさえいる。

「佳代ちゃんが送ってくれたジャムクッキーがあったでしょう?響子さん、あれをすごく気に入ってくれたのよ」

「奥様、それじゃ私が食いしん坊みたいじゃないですか」

 控えめに口を尖らせる響子に、淑恵は口元を隠してウフフと笑った。

「あなた、響子さんはね、宝石みたいに色の綺麗なものがお好きなのよ。ジャムクッキーもずうっと手に持って眺めていたわ」

「もう、奥様ったら。恥ずかしいから、若頭には言わないでください」

 はにかみながら、響子が淑恵を小突く仕草をした。

 淑恵もそうだが、響子もなんだかくだけた様子だ。榊原は、ちょっと拍子抜けした。

 ――いや……これはこれで、いいのかもしれない。

 高齢出産がいかに難事かは、榊原も医者から言い含められている。

 今、誰よりも不安を抱えているはずの淑恵が、こんなに無邪気な笑みを浮かべているのだ。それが響子のおかげなら、榊原に文句はない。

 その感慨も鮮やかなうちに、組長からのこの申し出だ。榊原の心は揺れた。

 ――響子を危険に晒したくはない。だが、源を止める手立ては他にねえ…!

 青龍会に捕まったが最後、冬枝とさやかの命の保証はない。白虎組を支える人間として、榊原には2人を守る責任があった。

 源に撃たれた組長の姿を見るにつけ、榊原の思いは切実なものとなっていった。

「…分かりました。親分のお呼びがあれば、いつでも」

 榊原の返事に、組長は満足そうに頷いた。



 一方、彩北から遠く離れた縫琴の『蜘蛛ヶ森』の上にも、夜空が広がり始めていた。

「源……さん」

 さやかの行く手に立ち塞がったのは、総身に青白い炎を帯びて見える男――源清司。

 ――八百眼組が青龍会に連絡したのか?それとも、玉榧から僕たちは尾行されていたのか…?

 目まぐるしく計算を働かせていたさやかの脳内コンピュータは、あるものが視界に入った途端、ピタリと止まった。

 ――日本刀!

 源の手には、藍色の鞘も鮮やかな刀が握られている。

 立ち尽くすさやかをよそに、源は淡々と言った。

「この産城って町に来るのも、もう何年ぶりだろうな…」

「………」

「最後に来た時も、嫌になるぐらいにこいつの世話になった」

 源は手中の刀を見下ろした眼を、そのままさやかへとゆっくり向けた。

「女を斬るのは趣味じゃない。だが、さやかの返事次第じゃ、手負いで東京まで来てもらうことになる」

「……!」

「桃華組にいるのは、優しい女ばかりだ。俺の評判を下げないでくれねえか、さやか」

 源の語調はどこまでも平坦で、お経でも聞いているかのようだ。

 さやかには、源が何かに急かされているように見えた。本心では、さやかのことを傷つけたくはない――そんな風にも取れる。

 ――だけど、この人はいざとなったら本当に僕を斬る。

 源の凛とした佇まいは、己の信条に真剣に生きてきた証だ。たとえ、自分の気持ちがどこにあろうと、源は目的を完遂することを選ぶだろう。

 ――下手に抵抗しても、僕にメリットはない。だけど……。

 さやかが躊躇した矢先、源の身体に、黒い何かが体当たりした。

「逃げろ!麻雀小町!」

「朽木さん!」

 源に蹴り飛ばされた朽木が、今、死に物狂いで源にしがみついていた。

「なんだ、朱雀組の使いっ走りか…てめえに用はねえ」

 源の冷たい睥睨をよそに、朽木は叫んだ。

「冬枝のとこまで走れ!」

「……!」

 朽木の思わぬ言葉に、さやかは目を見開いた。

 ――冬枝さん。

 その瞬間、冬枝の元へと向かう道筋が、さやかの脳裏で天の川のようにキラキラと浮かび上がった。

「てめえみてえな乳無しの疫病神、俺様はもううんざりだ!人質はクビにしてやるから、とっととてめえを待ってる貧乏神のところに帰りやがれ!」

「………」

 憎まれ口を装ってはいても、さやかには朽木の優しさがはっきりと伝わった。

 ――もしかして、朽木さんは分かっていたのかな。

 青龍会に捕らわれた鳴子のことを助けたい。その想いは本物だが、さやかの心の中心にはずっと冬枝がいた。

 さやかの本心を、玉榧からずっとそばにいた朽木は見抜いていたのかもしれない。

 そして、朽木は自分の目的より、さやかを解放することを選んでくれた。それを理解したからこそ、さやかはその場から全速力で駆けだした。

 ――とにかく、今は逃げるしかない!

 源の真意が何であろうと、源が青龍会の命を受けて動いている以上、信用できない。朽木が源に勝てる見込みがゼロなのは明らかだが、それでも他に選択肢はなかった。

「………」

 源はしばらくさやかの後ろ姿を見送った後、ふと、自分にしがみついている男を見下ろした。

「…そうか。てめえ、鳴子の男か」

 朽木は――どんなに力を込めても、源の長身がびくともしないことに気付いてはいたが――その呟きを聞いて、全身の毛穴が開くのを感じた。

「人のかみさんを気安く名前で呼ぶんじゃねえ…!この下衆野郎が!」

 思い切り振りかぶった朽木の拳は、しかし、ひらりとかわされた。

 源は眉一つ動かさず、無表情のままで言った。

「男の趣味が悪いのは、姉妹でそっくりだな。鳴子は桃華組にいたほうが幸せだぜ」

「ほざけ。誰が何と言おうと、メイちゃんの王子様は俺しかいねえんだよ」

 朽木の中で、自身の言葉とさやかの言葉が重なった。

「この鏡は、朽木さんが自分で鳴子さんに持って行ってください。鳴子さんの王子様は、僕じゃなくて朽木さんですから」

 ――ケッ。ガキの癖に、分かったような口利きやがって。

 あんな女にいつまでもぶら下がっていたら、朽木の男が廃る。だから朽木は、どんな手段を使ってでも、己の力でこの場を切り抜けるのだ。

 ――王子様とお姫様は、ハッピーエンドって決まってる。そうだろ?メイちゃん。

 懐から取り出した鋼鉄の塊に、ありったけの愛を込めて――朽木は、それを源めがけて放り投げた。

 ドン!

 背後から響いた爆発音に、ひたすらに駆けていたさやかはハッと振り返った。

 ――朽木さん、アレを使ったのか。

 さやかが渡した手榴弾――確かに、源相手ではそのぐらいしないと勝てないかもしれない。

 立ち止まり、朽木の無事を確認したいのを、さやかはぐっと堪える。

 ――走るんだ。冬枝さんのところまで…!

 辺りはもう暗く、視界もろくに効かない。どこをどう走ったのかも分からないが、今はとにかく、源の手から逃れることが優先だ。

 ――多分、方向はそこまで間違ってないはず。あと1キロぐらい走れば、道路に出られる…。

 さやかが頭の中に描こうとした地図は、甲高い音によって雲散霧消してしまった。

 リンリンリン!

「えっ!?」

 突如として、鈴の音が森に鳴り響いた。

 これ以上、先へ進むのを禁じる警報のようなその音は、夜闇に潜むようにして幾重にも張られた縄――それに付けられた無数の鈴から発せられていた。

 呆気に取られるさやかの前方から、見覚えのある人影が姿を現した。

「フフフ…この森の名は『蜘蛛ヶ森』。明治の世から張られているこの蜘蛛の糸が、不届き者の居場所をあぶり出す」

 八百眼組若頭・監物が、ニヤリと酷薄そうな笑みを浮かべた。

「見つけたぞ、白虎組の女代打ち――夏目さやか!」

「……!」

 ――僕の正体がバレてる…!

 一難去ってまた一難、とはこのことだ。進めば八百組の監物、戻れば青龍会の源。 

 さやかは、袋小路に立たされた。



 産城近くの国道沿いに、モーリス・マイナーは停められていた。

 電話ボックスから戻ってきた栗林が、運転席に座った。

「縫琴の八百眼組事務所に連絡したところ、組長は朱雀組に従う意向だそうです。ですが…」

 栗林の言葉の続きを、助手席のミノルが静かに引き取った。

「八百眼組は、守旧派の組長と革新派の若頭の派閥が対立している状態です。恐らく、若頭たちは僕らに従うつもりはないでしょう」

「つまり、そのかくかくしかじかの若頭のグループに見つかっちまったら厄介ってことですね」

 嵐がまとめ、ミノルが頷く。

 後部座席の冬枝は、じれったそうにシートに身を預けた。

「相手が誰だろうと、どうだっていいだろ。もう辺りはすっかり暗くなったんだ、さやかを探しに行くぞ」

 この夜のどこかに、さやかがいる。冬枝は、すぐにでも車を飛び出したかった。

 ――待ってろよ、さやか。

 車の窓に、さやかの顔が映って見える。――と思った瞬間、ウィンドウに見知らぬ男の顔面が張り付いた。

 バン!

「助けてください!!!」

「うわぁっ!!?」

 冬枝が驚いてシートに倒れ込み、嵐とミノルもなんだなんだと振り返った。

 男は冬枝よりも年上らしき初老で、よく見ればチェック模様のエプロンをかけていた。

「新名といいます。八百眼組に追われているんです。助けてください」

 男――新名から事情を聞いた一同は、思わず顔を見合わせた。

「これは、とんだ拾い物をしてしまいましたね」

「俺が警察までニーナちゃんを送ります。事情を話して、保護してもらいましょう」

 流石に元警官らしく、嵐は頼もしい。

 新名は「それと」と言って、心配そうに目を泳がせた。

「彩北の白虎組……確か、冬枝という人と、夏目さんというお嬢さんも、八百眼組に追われているはずです」

「何!?」

 恐らく、新名の言う『冬枝』は、朽木のことだ。よその組では冬枝とさやかがセットで覚えられているため、さやかの相棒=冬枝だと思い込まれたのだろう。

「私たちは3人で八百眼城を脱出しましたが、お二人は事情があるようで、私とは途中で別れました」

「じゃあ、さやかたちはまだ山の中にいるのか」

 冬枝は、思わず窓越しに外を見た。

 そこに広がっているのは、山という名の黒々とした塊だ。

 ――こんな山をさやかと朽木だけで行くなんて、無茶だ。

 そんな冬枝をバックミラー越しに伺って、ミノルがふうと嘆息した。

「冬枝君。どうやら、さやかさんたちの心配をしている場合ではなさそうですよ」

「ああ?」

「ここはオオカミの縄張り。新名さんは、血の匂いをふんだんに振りまきながらここまで来てくれたのでしょう」

 ミノルの眼鏡のレンズに映っていたのは――火の入った提灯をいくつも携え、こちらへと歩いて来る男たちの群れだった。

「なんスかあれ。南町奉行所っスか?」

 嵐の冗談に対し、新名が唇を引きつらせた。男たちが持っている提灯には、遠目にもくっきりと『八百眼組』の墨書がなされていたからだ。

 男たちの先頭に立つ中年の男が、モーリス・マイナーの車内にも届くほどの大声で叫んだ。

「出てこい、冬枝!そこにいるのは分かってるんだぞ!」

 ミノル、嵐、栗林、新名が、一斉に冬枝のほうを見た。

「………」

 冬枝は目付きを険しくすると、「嵐」と低い声を出した。

「その新名ってオッサンを頼むぞ」

「えっ。ダンディ冬枝、行くんスか?」

 嵐が冬枝の意外な反応に呆気に取られる中、ミノルもおもむろにシートベルトを外した。

「僕も行きましょう。栗林、後は頼みます」

「は、はい。ミノルさん、お気を付けて」

 冬枝とミノルが揃ってモーリス・マイナーから姿を現すと、群れの先頭にいた男がニヤリと笑った。

「やはりな。冬枝なら、女を回収しに必ずここまで出張ってくる。俺の読み通りだ」

「………」

「20年経っても女好きは変わらないようだな、冬枝」

「………」

 冬枝は、ただ黙って男を睨みつけている。

 その表情を見て、男がフッと鼻から息を抜いた。

「どうやら、俺のことを忘れたわけではないようだな。今でも語り継がれる八百眼組と白虎組の死闘…その主役二人が、今ここに揃ったってわけだ」

「………」

「この日をどんなに待ち侘びたことか…!貴様に斬られた背中の傷、まだ癒えてはいないぞ!冬枝!」

「………」

 冬枝は厳しい顔付きのまま、男の長い能書きを、ただ無言で聞いている。

 流石に焦れたのか、男が冬枝を急かすように提灯を突きつけた。

「黙っていないで、何とか言ったらどうだ!」

「………」

 男に迫られ、冬枝の眉間の皺が深くなった。

 ――誰だっけ、こいつ……。

 さっきから、向こうは冬枝のことを完全に知っている風なのだが、当の冬枝は男のことをまるで思い出せずにいた。

(だいたい、ヤクザなんてみんな似たようなツラしてるから紛らわしいんだよ。しかも20年前って、俺がムショ入る前じゃねえか。んな昔のこと、覚えてるわけねえだろ)

 そんな冬枝の本心など知る由もなく、八百眼組の男は滔々とまくし立てた。

「俺はこの20年、貴様のことを忘れた日は一度たりともなかったぞ、冬枝」

「………(気持ち悪いこと言うんじゃねえ)」

「貴様に折られた我が組の宝刀・神犬丸も、夜ごとに貴様の血を吸いたいと泣いている!」

「………(えっ?!俺、刀なんて折ったっけ…!?)」

 一方、後方にいるミノルは、冬枝の背中から大量のクエスチョンマークが浮かんでいるのを見て溜息を吐いた。

 ――やれやれ、僕の弟ときたら…。

 八百眼組の男も冬枝の沈黙を不審に思ったのか、顔付きを引きつらせた。

「まさか…貴様、俺のことを忘れたと言うんじゃないだろうな」

「…覚えてる」

 本当はド忘れしたのだが、冬枝は反射的に嘘を吐いてしまった。

 冬枝の後ろで、ミノルは密かに呆れた。

 ――売り言葉に買い言葉、ですね。

「おい!貴様の好敵手であるこの俺の名を言ってみろ!」

 案の定、男から決定的な証拠を求められてしまった。

 ――名前…!?こいつの……!?

 冬枝はじっと男の顔を凝視し、20年前の記憶を手繰り寄せた。

 ――確か、縫琴ではルミ子と酒飲んで、いい感じになって…。

 そうだ、ルミ子には男がいた。それも、八百眼組の組員だ。その名は――。

「笹丘…!お前、笹丘だろ!?」

 冬枝は大きな声で答えた。

 良かった、やっと思い出せた、あースッキリした――。

 と、晴れやかな表情になっているのは、冬枝だけだった。

 八百眼組の男は、両肩をわなわなと震わせ――高く振り上げた提灯を、足元に叩き付けた。

「それは…それは、ルミ子の前の旦那だあああああっ!」

「えっ!?じゃあお前、誰なんだよ!」

 泡を食う冬枝に、監物は歯を剥き出しにして叫んだ。

「監物だ!もういい、殺してやるーッ!」

 監物の激昂を合図に、八百眼組の男たちが一斉に襲い掛かってきた。

「最初っからそう来いよ、まどろっこしい問答なんかさせやがって」

 刀を握った冬枝の肩を、ミノルがちょいちょいと指先でつついた。

「ん?」

「冬枝君、そうすぐに刀を抜くもんじゃありませんよ。君ももういい年齢なんですから」

「はあ…?」

「僕の立場をお忘れですか?」

 そう言って微笑むミノルのボルドーレッドのスーツの襟には、鷹の羽の代紋バッジが燦然と輝いていた。

「八百眼組諸君!」

 一転して大声を上げ、ミノルは自身の中折れ帽に手をかけた。

 ゆっくりと帽子を外すと、ミノルの銀髪が夜風になびいた。

「僕は朱雀組最高顧問、秋津ミノルです!」

 その名を聞いて、刀を手に前のめりになっていた八百眼組の男たちが、ぴたりと動きを止めた。

「秋津ミノル…死んだ4代目の弟か!」

「聞いたことがあるぞ!朱雀組には、極道最強とも言われる麻雀の腕前を誇る『秋津の魔法使い』がいるって…!」

 ざわつく組員たちを見回し、監物が無言で唇を噛む。

 ミノルは、自身の胸に手を当てた。

「僕は5代目、柘植雅嗣の命によりここに来ました。その意味は分かっていますね」

「………」

 さやかと朽木を捕まえる旨、朱雀組からの連絡は八百眼組にも届いているはずだ。それに従う気がないことは、監物の硬い表情からもうかがえた。

「監物君。ここに、夏目さやかと朽木貴彦がいることは分かっています。彼等の身柄を引き渡してもらえませんか」

 ミノルの最後通牒に対し、監物の答えは予想通りだった。

「断る。八百眼組は縫琴の番人だ。東京から来たよそ者に従う義理はない」

「君たちの親分が、僕らに協力する意向だとしても…ですか」

「ここは八百眼組の縄張りだ。ここで何が起ころうと、それをどうするかは俺たちの自由だろうが」

 鼻息荒い監物に、ミノルはふっと微笑んだ。

「そうですか。では、僕から一つ提案があります」

「なんだ。金でも出すというのか」

 嘲るような監物の言葉に、ミノルは笑顔で頷いた。

「はい。僕に従ってくれるなら、ここにいる組員全員、向こう1年分の生活費を保証しましょう。勿論、上納金も免除します」

「何…?」

「組事務所は、僕が新しくしてあげましょう。24時間コーヒーが飲み放題で、雀卓もあって、喫茶店やコンビニもある、近代的なオフィスビルにね。お茶くみや電話番のような雑用は、僕が雇った事務員にやらせます。古い建物は全て解体して、土地は売ってしまいましょう。もう、あんな山奥の古ぼけたお城に通う必要はありません」

 ミノルの蘇芳色の瞳は、すでに監物を見ていない。

 ミノルの視線は監物の後ろでミノルの話に胸をときめかせる、無数の若者たちに向けられていた。

「僕は『秋津の魔法使い』。君たちが望むものなら、何でも与えてあげられます。君たちが、僕の友人になってくれるならね」

 ミノルは、八百眼組の組員たちに手を差し伸べた。

「さあ、僕の友人たち。僕たちの素晴らしい未来を邪魔するこの若頭を、取り押さえなさい」

「おおっ…!」

 ミノルの言葉に応じて、監物に従って来た若い衆が、我先にと監物に飛び掛かった。

「てめえらっ…!」

 多勢に無勢、往時は冬枝の好敵手として名を馳せたらしい監物も、瞬く間に若い男たちの腕に組み伏せられた。

 自分の部下たちに倒された監物の姿を見て、冬枝は呆気に取られた。

「なんじゃこりゃ。どうなってんだ」

「中年が持つ不満より、若者が抱える不満のほうが、ずっと大きいということです。そして、不満というものはたいてい、一番身近な人物に対して向けられるもの」

「ふーん?」

 監物が時代遅れの組長に不満を抱いていたように、監物に従う若者たちもまた、時代錯誤の若頭に耐えきれなくなっていたということか。

 ミノルはこの短時間で組員たちの心理を見抜き、誘導した。つくづく、腹の底では何を考えているのかわからない男だ、と冬枝は思った。

 そうこうしている間に、モーリス・マイナーの窓から嵐が顔を出した。

「ジェントル秋津。俺たち、このまま警察まで新名ちゃんを送り届けようと思うんだけど。そっちはどうっスか?」

「分かりました。君たちは先に行っていてください」

 運転席の栗林にミノルが頷いてみせると、モーリス・マイナーはおずおずとその場から走り去っていった。

 若者たちとの揉み合いが一段落し、少しは大人しくなった監物に、ミノルがしゃがんで話しかけた。

「監物君。さやかさんと朽木君の居場所を教えてくれませんか」

「けっ、誰が貴様らなぞに話すか!この地を踏み荒らす都会者と、にっくき冬枝になど…」

 憎まれ口を叩く監物に対し、ミノルが何か言おうとしたところで冬枝の張り手が飛んだ。

「うるせえ!とっととさやかの居場所を吐けってんだ、この寝取られ野郎!」

「冬枝君…」

 額に手を当てるミノルの溜め息で、冬枝はハッと我に返った。

 ――しまった!つい本音が…!

 案の定、監物の眉間にビキビキと青筋が浮かび上がった。

「…そうだな。ルミ子を寝取ったのは貴様だったな、冬枝誠二!」

「あー、いや、その…誘ってきたのはルミ子のほうだぞ!」

「冬枝君、君はもう黙っていて結構」

 火に油を注ぐような言い訳をする冬枝を、ミノルが手で押し退けた。

 監物は、ふんと鼻から息を抜いた。

「俺はもう何も話さんぞ。せいぜい、縫琴中を探し回ることだな」

 不敵な笑みを浮かべた監物だったが、その肩を取り押さえていた若者が口を開いた。

「朽木という男は未だ行方不明です。女のほうは、若頭が百目鬼ヶ窟に連れて行きました」

「あっ、おいっ、貴様っ!」

 と叫んでしまってから、よそ者の前で露骨にうろたえてしまったことを恥じたのか、監物は慌てて笑みを取り繕った。

「…フン、その通りだ。歴史ある八百眼城を、女の血で汚すわけにはいかないからな。百目鬼ヶ窟はその名の通り、無数の目を持つ鬼が守る――」

「どうもありがとう。その百目鬼ヶ窟というのは、あの森にある洞窟のことですね?」

「そうです」

「おい、人の話を聞け!俺は八百眼組の若頭、監物だぞ!」

 ぎゃあぎゃあ喚く監物のことは八百眼組の若者たちに任せ、冬枝とミノルは目の前に広がる黒い森――『蜘蛛ヶ森』を見上げた。

「俺が行く。あんたは八百眼組の連中を頼む」

「冬枝君…」

 ミノルは何か言いたげに眼鏡の奥の瞳を瞬かせたが、フッと笑みを浮かべた。

「…適材適所、ですね。夜の森をうろつくなら、君のほうが適任です」

「どういう意味だよ」

「青龍会の手先が、既にこの地に来ている恐れがあります。僕では、足手まといになるでしょうから」

 青龍会の手先――その言葉が意味するところを察し、冬枝は唇を噛み締めた。

 ――源さん……!

 正直、源との戦闘となると、冬枝にも勝ち目はないのだが――今は、そんなことよりさやかの救出が先決だ。

「さやかと朽木を拾って、すぐに戻る」

「吉報を待っています」

 そうして、冬枝とミノルは『蜘蛛ヶ森』の前で別れた。



 一方、さやかは暗い洞窟――百目鬼ヶ窟の中に、一人残されていた。

 ――何も見えない…。

 光の届かぬ洞窟の中は、見渡す限り暗闇だ。目の前にあるのが壁なのか、空洞なのか、それすらも分からない。

 それでいて、音だけはやけに反響する。風の音、天井から滴り落ちる水の音、自分の息遣い。それらが四方八方にこだまして、この世ならざるもののように聴こえてくる。

 ――何とかして、ここを脱出しないと…。

 源と戦っている朽木のことも気がかりだ。手榴弾があるとはいえ、源がそう簡単に倒されるとは思えない。

 しかし、初めのうちは朽木を心配し、脱出方法をあれこれと探していたさやかも、次第に気が萎えていった。

 ――寒い…。

 洞窟の中はひんやりと冷たく、まるで冷蔵庫の中にいるようだ。足元から冷気と共に湿り気が這い登り、全身にまとわりつく。

 暗さと寒さでがんじがらめになるうちに、八百眼組若頭・監物の言葉がさやかの中で何度も再生された。

「この百目鬼ヶ窟はその名の通りの魔窟さ。ここから生きて出られた者は誰もいない――何故なら、ここは死体置き場だからな。ハハハハ」

 確かに、ここは天然の要塞だ。人に見られては都合の悪いものを隠すには、うってつけだろう。そうまとめながら、足元を見ないようにしている自分がいた。

 ――このままだと、遅かれ早かれ僕もお仲間だ。どうする…。

 焦りとは裏腹に、手足が動かない。冷えと暗闇で感覚を奪われた中では、自分がどんどん小さく、無力な存在になっていくような気がした。

 ――僕がここにいることは、あの監物という男以外は知らない。ひょっとしたらこのままずっと、誰にも見つけてもらえないかも…。

 不意に、背中を何かがぞわっと這い登った気配がして、さやかは思わず叫んでいた。

「だ…誰かっ!助けてっ!」

 しかし、返事がないのはもちろん、気配の正体を確かめることすらできない。

 さやかは、巨大な絶望感に襲われた。

 ――もうどうにもならない…!

 森の奥深くにある洞窟になど、誰も来ない。さやかがここにいることに、誰も気付いてはくれない。さやかの叫びは、誰にも届かない。

 ここですべてがおしまい――そこまで考えた時、さやかの唇がひとりでに動いていた。

「冬枝さん…!」

 その、自分自身の声を聞いた瞬間――さやかは、ハッと目を見開いていた。

「冬枝さん…」

 ――そうだ。ここで諦めたら、もう冬枝さんに会えない。

「冬枝のとこまで走れ!」

 朽木の声が、さやかの脳裏によみがえる。

 ――朽木さんは、命がけで僕を逃がしてくれた。僕は、こんなところで負けてる場合じゃないんだ…!

 ここですべてがおしまいだと思ったが、それは違う。まだ、何も始まっていない。

 ――僕と冬枝さんが会って、やっと何かが始まるんだ。

 さやかは、目の前の暗闇をキッと睨みつけた。

 そこにあるのは、さやかを怯えさせることしか出来ない、ただの漆黒だ。

 ――僕ならできる。僕なら、この状態からでも『解』を見つけ出すことができる…!

 諦めない限り、『解』は必ず見つかる。さやかは、そう信じることにした。

 まずは、監物によってここに連れて来られたときのことをよく思い出そう。さやかは、目を閉じて思考に集中した。



 森の中を駆けていた冬枝は、生い茂る樹木に抱かれるようにして聳え立つ洞窟を発見した。

「ここが『百目鬼ヶ窟』か…」

 最近、人が歩いた痕跡が露骨に残っていたため、あっさり辿りつくことができた。足跡の残るぬかるんだ地面を見下ろし、冬枝はふと懐かしさにも似たものを感じた。

 ――昔取った杵柄、ってやつだな。

 若い頃、『人斬り部隊』として夜の闇を駆け抜けた時の名残。或いはもっと昔、山深い田舎にいた頃の――…。

 つい感傷に耽りそうになるのを、冬枝は首を振って追い払った。

 ――ルミ子も言ってたっけな。前の夫が優柔不断でじれったかったから、つい強引で気の強い監物になびいちまったって…。

 監物と付き合ったら付き合ったで、今度は監物の自惚れの強さに辟易し、冬枝にしなだれかかってきた。結局、ルミ子も大概な浮気性だったわけだが、そこが妙に魅力的に見える女でもあった。

 まあ、こんな気味の悪い洞窟なんかを出入りしているような監物では、ルミ子じゃなくても嫌になるだろう。そんなことを考えながら、冬枝は『百目鬼ヶ窟』に足を踏み入れた。

 洞窟の中は、夜目が利く冬枝ですら目が慣れるのに時間がかかるような暗闇だった。壁も地面も濡れていて、どことなくかび臭い。

 ――こんなところに、本当にさやかが閉じ込められてるのか…?

 とても生きた人間がいるような場所には思えないが、一応、冬枝は声を上げてみた。

「おーい、さやか!」

 その直後、くっきりと自分の声が響き渡ったものだから、冬枝は思わずぎょっとした。

 洞窟の中はしんと静まり返り、冬枝の声の残響だけがいつまでもこだましている。冬枝は、いよいよ背筋が寒くなってきた。

 ――畜生、今時、洞窟なんかアジトにするヤクザがいるかよ。

 白虎組は街中を拠点にしているため、冬枝が若かった頃でさえ、こんな山奥を使うのは死体を埋める時ぐらいだった。ましてや、生きた女をこんな洞窟に閉じ込めるなんて、正気の沙汰ではない。

 ――担がれたんじゃねえのか、俺…?

 あまりにも生き物の気配がしないため、そんな疑いすら頭をよぎる。ライトで照らせば骨の一つも見つかりそうだが、と考えた冬枝は、懐中電灯を持ってきたことを思い出した。

 ――こういうこともあるんじゃないかと、ここに来るまでにポケットに入れておいたんだった。

 せっかくだし使うか、とスイッチを入れた冬枝は、そこに何か大きなものの気配を感じた。

「ん?」

 灯りに浮かび上がったのは、無数の目玉を持つ巨大な化け物の顔だった。

 百目鬼――。

「うわあああああああああああっ!!!?」

 驚いて飛び退った瞬間、勢い余って冬枝の足が滑った。

「げっ!?」

 しかも、滑った先には地面がなかった。そのまま、ふわりと身体が浮く。

 ――落下する!

 どうやら、冬枝が気付いていなかっただけで、洞窟の中は穴だらけだったらしい。その穴の一つに、冬枝は滑り落ちた。

「ふっ!」

 何とか体勢を立て直し、冬枝は無事に着地した。

 ――まだ年は取ってねえみたいだな、俺も。

 こういう曲芸じみた真似に成功すると、自分はまだ大丈夫だ、と安心する。43歳という年齢の重みを筋肉や関節の衰えにひしひしと感じてはいても、まだいける、まだ平気だと思っていたいのだ。

 ――万が一、ルミ子と再会なんかした時に、オヤジになったと思われたくねえしな。

「あっ…ああ…」

 小さな悲鳴のような声が聞こえて、冬枝はハッと顔を上げた。

「さやかか…?」

「…冬枝さん?」

 闇よりも濃い漆黒の空間に目を凝らせば――震えながら立ちすくむ、さやかの姿がそこにあった。

 冬枝ほど夜目の利かないさやかからは、冬枝の姿はまるで見えなかったが――それでも、冬枝が確かにそこにいると分かった。

 ――冬枝さん…!

 少し前、冬枝が「さやか」と呼ぶ声が聴こえてきた時は、自分はよほど精神が参ってしまったのか、とさやかは幻聴を疑った。

 それからさらに、悲鳴を上げながら冬枝が落ちて来た時は、クマでも迷い込んだのかと最悪の事態を覚悟したが――。

 今、さやかの中ですべての緊張が解けた。

「冬枝さん!」

 冬枝の胸に飛び込むと、さやかの身体が一気に温かくなった。大きな安心感で、瞳に涙が滲む。

 さやかからぎゅっと抱き締められ、冬枝も何も言えなくなった。

 ――ったく、一発ぐらいひっぱたいてやろうと思ってたのに…。

 ここに来るまでの全てが、もうどうでもいい。冬枝はただ、さやかを抱き返した。

 ――認めるのはシャクだが、お前が無事でよかったよ。

「ルミ子…」

 と思わず口に出してしまってから、冬枝はハッと間違いに気付いた。

 案の定、腕の中のさやかから、ぞっとするほど低い声が返ってきた。

「…ルミ子って誰ですか」

「さいっ!る、るみ、ルビーの指環…なんちって」

 冬枝の苦しい言い逃れに対するさやかのアンサーは、冬枝の手の甲を思いっきりつねることだった。

「いって!おい、さやか、人がせっかく助けに来てやったってのに…!」

「ちっ。分かってますよ」

 さやかは冬枝から身を離すと、ふうと一つ息を吐いた。

 ――敵わないな、冬枝さんには。

 冬枝が来てくれただけで、いつもの自分に戻ることができた。それがどんなに得難いことか、さやかは改めて感じていた。

 ――ありがとうなんて、別の女の人の名前を呼ぶような人に言う気になれないけど。

 気を取り直して、さやかはひとまず状況を整理することにした。

「冬枝さん、一体どうやってここに来たんですか?」

「どうやってって…外の入り口からだよ。歩いてる最中に、滑って転んで気付いたらここに落っこちてた」

「滑って転んで落っこちたって…おむすびころりんじゃあるまいし」

「なんだと?」

 声を尖らせる冬枝は無視して、さやかは「ふむ」と暗闇を見回した。

「だとすると、僕とは別ルートってことになりますね」

「別ルート?」

「僕はあの監物という若頭に連れられて、森の地面に隠された出入口から階段を下りてここに来ました。つまり…」

 さやかは、ぴんと人差し指を立てた。

「『百目鬼ヶ窟』はその名の通り、百の目…ならぬ、無数の空洞が穿たれた洞窟なんです。僕たちがいるこの場所は、洞窟の中の地下部分に相当すると思われます」

「ははーん」

 恐らく、さやかが監物に連れられた階段は、隠し通路だったのだろう。生きた人間を幽閉する際は階段を使って運び、死体を隠したい場合は、洞窟内から直接、空洞に投げ込めばいいわけだ。

 ――よく出来た墓場だな、ここは。

 というのは口には出さず、冬枝は別のことを言った。

「で、どうやってここから脱出するんだ」

「監物が僕をここに閉じ込めた時、扉のようなものを開け閉めしている音がしました。どこかに、それらしいものがあると思うんですけど…」

「つったって、一面、ただの岩だぞ」

 懐中電灯で照らしてみたものの、冬枝にはただの濡れた岩壁が広がっているようにしか見えない。

 灯りをくるりと一周させた冬枝は、ぴたりとさやかの顔を照らした。

「まぶしっ。なんですか、冬枝さん」

「いや、さっきからずっと言おうと思ってたんだが…お前、背中にでけえムカデがくっついてるぞ」

「ぎゃああああああああああああっ!!!!」

 そう、こうなるから言わなかったのだ。どうして女というものは、虫を見た途端、別人のような悲鳴を上げるのか……。冬枝は、鼓膜がキンキンするのを必死に耐えた。

 さやかはすっかりパニック状態で、手足をぶんぶん振り回して喚いた。

「いやあああ!!取って!早く取ってー!!!」

「お前よ、ヤクザ相手にはそんな悲鳴上げねえくせに、なんで虫はダメなんだよ」

「ヤクザには足が30本も生えてないでしょうっ!!!?いいから取ってええええ!!!」

「じっとしてろって。そんなに暴れられたら、取れるものも取れねえ…」

 さやかがじたばた暴れたせいか、冬枝の手の動きを察知したのか。さやかにくっついていたムカデが、瞬く間に二人の足元へと滑り落ちた。

「あっ」

 ムカデは真っ直ぐに岩壁へと向かい、一見、ただの亀裂にしか見えない隙間へと、すうっと吸い込まれるようにして消えていった。

 冬枝がじっと目を凝らすと、亀裂は四辺に繋がっている。つまり、これが外界へと通じる扉だ。

「やったぞ、さやか」

「…………」

 しかし、当のさやかといえば――顔を真っ青にして、歯をガチガチと鳴らしていた。

「………」

 ――虫なんかより、よっぽど恐ろしい目に何度も遭ってきてるだろうに…。

 冬枝は内心、ちょっと呆れたものの、凍り付いているさやかの肩をポンポンと叩いてやった。

「気張れ、さやか。彩北に帰ったら、メシでもおごってやるから」

「………」

 さやかは、無言で首を上下に振った。どうにか立ち直ろうとしているようなので、冬枝はそれ以上、何も言わないでやった。



 彩北の白虎組若頭・榊原の自宅では、寝室の明かりが消えたところだった。

 キングサイズの白いベッドの上に、響子と淑恵が並んで横になっている。

 ぼんやりと光る、ユリの花の形をしたオレンジ色の常夜灯を見上げながら――響子は疑問でならなかった。

 ――どうして、私が淑恵さんと一緒に寝てるのかしら…。

 昼間は淑恵のたっての望みでティーパーティーに興じ、その後は夕食、バスタイム、とことごとく一緒に過ごした。

 霜田から妊娠中の淑恵の世話を命じられたというのに、今の響子はまるで、淑恵の友人か家族のような扱いだ。愛人の身としては、違和感を覚えざるを得ない。

 ――不思議と、嫌だとは思わないのだけれど。

 淑恵はどこまでも響子に優しく、無邪気そのものだった。はじめは淑恵の真意を測りかねていた響子も、いつの間にか二人で過ごすことに慣れていった。

「響子さん。まだ起きてらっしゃる?」

 隣の淑恵に声をかけられ、響子は「はい」と答えた。

 榊原を巡る恋仇が、手の届く至近距離にいる。互いの髪の香りさえ感じるような近さにいながら、響子はただ安らかな気持ちでいた。

 だから――素直に、今思っていることを口にすることができた。

「淑恵さんは…一体、何を考えてらっしゃるんですか?」

「私?そうね…」

 淑恵はふふっと口の中で笑うと、この上なくかわいらしい声で答えた。

「響子さんと一緒にいたいの。それだけよ」

「そんな…。私は、淑恵さんから若頭を奪おうとしているんですよ」

 響子が思わずそんなことを言っても、淑恵の声は笑み交じりだった。

「響子さん。私、こう見えても結構、修羅場を経験してるのよ」

「修羅場…ですか?」

「忍さん、女の方にとても慕われるから。私、忍さんと結婚してから、知らない女の人からいきなり平手打ちをされたことがあったわ」

「えっ…」

 思わぬ打ち明け話に、響子は言葉を失った。

 淑恵は「ほかにもいろいろあったけれど」とだけ言って、それ以上は具体的には語らなかった。

「だから…響子さんのことが本当に憎かったら、闘う覚悟はできてたのよ。娘たちのこともあるし」

「………」

 響子でさえ、榊原と親しくなってから、他のホステスからやっかみめいたことを言われたぐらいだ。淑恵が代議士の娘であっても、快く思わないライバルは山ほどいたのだろう。

 そんな暗闘があったことなど、淑恵は微塵も感じさせない。それがただの世間知らずではなく、真の強さだったことは、響子にも分かった。

 しかし、そんな影の苦しみを経て榊原の愛を勝ち得た女性は、響子にはまるで違うことを言った。

「でも、だめね。私、響子さんと喧嘩なんてしたくないわ」

「どうして?私じゃ、淑恵さんの敵にさえなれないってことですか?」

 響子が榊原から娘のようにしか扱われていないことは、淑恵にも知られている。愛人だなどと虚勢を張ったところで、響子は淑恵と同じ土俵にすら立っていないのだ。

 淑恵はふわり、と空気に軽く乗せるように言葉を発した。

「そんなことないわ。私が今まで会った女性の中で、一番の強敵は響子さんよ」

「…どういう意味ですか?」

「言葉通りの意味よ。今は親子のような関係でも、いずれ変わる可能性は大いにあるわ。男女の間に何が起こってもおかしくないって、源さんも言ってたもの」

「源さんって……」

 思わぬ名前が飛び出し、響子は何故か赤面してしまった。

 ――源さん、今頃どうしてるのかしら。

 あの雨の大羽で源と会ったことが、カラーフィルムのように鮮やかに響子の脳裏をよぎった。

 そんな響子をじっと見つめて、淑恵は溜息を吐いた。

「ねえ響子さん、源さんの恋人になんてなっちゃ嫌よ。私、響子さんにはもっと真面目な方と付き合って欲しいの」

「はあ…。私が源さんとくっついたほうが、淑恵さんには都合がいいんじゃないんですか?」

 淑恵の言動はとことん、『夫の愛人』に対するそれとはかけ離れている。響子もつい、ざっくばらんな口の利き方になってしまった。

 すると、淑恵の柔らかな手が、おもむろに響子の手を握った。

「私は響子さんがいいの」

「…どういうことですか?」

 暗闇の中、同じベッドの上にいる女と女の瞳が重なる。

「私や忍さんのそばにいてくれる人が、あなたで良かった」

「…淑恵さんは今、心細いからそう思うだけですよ。若頭もいらっしゃらないし…」

 昼間は顔を見せた榊原だったが、今夜は留守にしている。

 淑恵のそばにいる人間が、たまたま響子だったからそう思うだけ――そう片付けながら、響子はふと自分自身が不思議になった。

 ――じゃあ、私はどうして、この人のそばから離れられないのかしら。

 妊娠中の淑恵が心配だからか、あるいは本妻に負けたくないという意地か。自分でもわからないが、響子は、淑恵の手を振り払う気にはなれなかった。

「響子さんは、私の大切な人よ。覚えていてね…」

 淑恵の言葉が、どこか悲しげに耳に響く。響子はただ、淑恵の手をそっと握り返すことしかできなかった。



 洞窟の地下を脱出したさやかと冬枝は、暗い山道を歩いた。

「灯りなんかつけてたら、見つけてくれって言ってるようなもんだからな。離れるなよ」

「はい…」

 さやかが何か言いたげなので、冬枝は「なんだよ」と尋ねた。

「いえ…冬枝さんって、野生動物顔負けですね」

「ああ?」

 百目鬼ヶ窟を脱出する時も、そうだった。

 外界へ繋がる扉を見つけたのはいいが、岩の扉には取っ手もない。

「よし、蹴り壊すか」

 と言って、冬枝が本気で岩を蹴ろうとしたので、さやかは慌てて止めた。

「冬枝さん。多分この扉、引き戸だと思います」

「ん?そうか」

 鍵などはかけられていなかったらしく、重たい扉は冬枝の腕力であっさり開いた。

 地上へと続く階段を上ると、今度は頭上の扉が閉まっている。こちらは流石に施錠されているか、さもなければ上から重石のようなもので塞がれているかもしれない。

 さやかは苦戦を覚悟したが、冬枝は扉が簡単に開かないと見るや、さやかのほうをくるっと振り向いて言った。

「さやか。ちょっと離れてろ」

「えっ?」

 さやかが2、3段ほど下に降りると、冬枝は両手を岩壁につけ、思いっきり反動をつけた。

「ふっ!」

 冬枝の脚が弧を描き、頭上に風穴を開けた。

「ええっ…」

 地上と地下を隔てていたであろう扉は、夜空に吸い込まれて見えなくなった。

 さっさと階段を上って地上へ出て行く冬枝の背を、さやかは呆然と見上げるばかりだった。

 そして現在、冬枝はこの、ほとんど視界のない夜の森を、真昼同然に歩いていこうとしている。ことごとく力業で道を切り開く冬枝に、さやかは深い感慨を抱かずにはいられなかった。

 ――そういえば、冬枝さんが使う家電って、どれもこれも長生きしないけど…あの馬鹿力じゃ、当然かも。

 短気な冬枝は、洗濯機やトースターの調子が少しでも悪いと「なんだてめえ、俺に逆らうのか」と脅し文句を吐きながら、叩いたり蹴ったりする。「こうすれば調子が良くなる」というのが冬枝の持論だが、さやかに言わせれば、冬枝の行為はただ家電の寿命を縮めているだけだ。

 そして、さやかはそんな野生動物の冬枝のようには夜目が利かない。

「冬枝さん。手、繋いでもいいですか」

「おう」

 さやかが差し出した手を、冬枝が握る。ただそれだけで、さやかは周囲の暗闇が怖くなくなった気がした。

「冬枝さん。大丈夫だと思いますけど、足元に注意してくださいね」

「分かってらあ。東京育ちのお前と違って、俺はこんな山ん中、ガキの頃から歩き慣れてる」

 冬枝から見たら、さやかの足元のほうがよっぽど覚束ない。その危なっかしい足取りを見ていると、子供のころの自分は立派なもんだったな、とさえ思えてくる。

 冬枝の子供時代――死んだ母親の実家に引き取られ、厄介者扱いされていたあの頃。

 何か気に入らないことがあると、家から閉め出されるなんてことは日常茶飯事だった。ひどい時など、山の中に置き去りにされたこともある。

 クマやイノシシが頻繁に出る山だというのに、そんなことはお構いなしだった。お前なんかクマに食い殺されてしまえ、とさえ言われた。

 実際、そういう危険な目には何度も出くわしたが――その度に、冬枝は生き延びた。帰って来るなと言われようが、意地でも生きて家に帰った。

「生きてたっていいことなんか何もねえのに、なんでか絶対生きて帰ってやる、って思ったもんだったな」

 冬枝の独り言のような昔話を、さやかはどこまで聞いていたのだろう。冬枝自身、くだらない話をしている自覚はあった。

 しばしの沈黙の後、さやかがぎゅっと冬枝の手を握った。

「冬枝さん。僕の手、離さないでくださいね」

 やはり、さやかは暗い山の中が怖いのだろうか。ムカデにあんなに大騒ぎする女だもんな、と冬枝は一人、納得する。

 さやかの爪が手に食い込んで、少し痛い。痛ぇよ、と冬枝が文句を言っても、さやかは指を緩めてくれなかった。

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