60話 八百眼城を脱出せよ!
第60話 八百眼城を脱出せよ!
榊原邸の広い庭は、秋咲きのバラが優美に咲き乱れている。
朝の光に、芝生の緑が眩しい。響子は、額に手をかざした。
この庭の主――榊原淑恵が、じょうろを持って響子の顔を覗き込んだ。
「あら。響子さん、何だか顔色が悪いんじゃなくって?部屋に戻ってお休みになったほうが…」
心配する淑恵に、響子は首を横に振った。
「大丈夫です。普段、こんな時間に起きることがないものですから…」
「ああ、そうよね。響子さんのお仕事は夜ですものね」
何より、正妻の元に呼び出されて、元気はつらつなはずがない。響子は、榊原の自宅に来るのはこれが初めてだった。
――こんなに広い庭、今まで見たことがないわ…。
ぼんやりと庭を見回す響子に、淑恵が小さく頭を下げた。
「ごめんなさいね、こんな朝早くにお呼びして」
「いえ…」
「ご覧になって。今日はお天気がいいから、バラの花が一段と綺麗なの」
そう言って、クリーム色のバラにそっと触れる淑恵の姿は、それだけで一枚の絵のようだ。響子は何だか、夢の中にいるような心地がした。
――これじゃ私、この家に招かれたお客さんみたいだわ。
今朝も、響子のマンションに榊原家の自家用車がわざわざ迎えに来てくれた。
妊娠中の淑恵の世話を霜田に命じられたというのに、響子は何をやらされるでもなく、榊原邸のリビングでアールグレイとマフィンをご馳走され、こうして庭にまで案内されている。響子は、キツネにつままれた気分だった。
――私、からかわれているのかしら?
これは、上流階級に属する淑恵流の嫌がらせなのだろうか。慣れない早起きで眠いせいか、響子はつい、そんなことを考えてしまう。
だが、響子の邪推とは裏腹に、淑恵の笑みはどこまでも優しい。
「今は娘たちもいないし、忍さんもお忙しいから、この庭を見る人が私しかいなくって…こんなに美しい場所なのに、それじゃもったいないでしょう?だから、響子さんをお呼びしたのよ」
風にふわりと靡く髪から、ミュゲの清らかな香りが漂う。淑恵が恋敵であるという事実を忘れたわけではないのに、響子は素直に淑恵について歩いていた。
――まあ、奥様の優雅なご趣味に付き合うぐらいなら、別に……。
と思いかけた響子は、ふと、淑恵が両手に持つ銀のじょうろに目を留めた。
――『パオラ』のお花の水やりに使ってるじょうろより、2回りは大きいわ…。
「…淑恵さん。それ、重くないんですか?」
「ああ、これ?平気よ。毎朝やってることだもの」
淑恵はにっこりと持ち上げてみせたが、試しに手にした響子は、そのずしりとした重さに眉をひそめた。
「うっ…。ちょっと、重すぎませんか?」
「あら、そう?いいのよ、水やりなら私がやるから、響子さんは気になさらないで」
「そういう問題じゃありません!」
おっとりとしている淑恵に、響子はつい声を上げてしまった。
「淑恵さんはお腹に赤ちゃんがいる身体なんですよ?こんなに重いもの、持たないほうがいいわ」
「でも…、まだ3カ月だし、このぐらい問題ないわ。瑞恵や奈々恵の時だって…」
「今の淑恵さんは、もう若くないでしょう?普通の妊婦さんより気をつけなきゃ」
そう言ってしまってから、響子は手で口を覆った。
――ちょっと、言い過ぎたかしら…。
普段の響子は、こんなに世話を焼くタイプではない。どちらかというと受け身で、ホステスにしては控えめすぎると言われるぐらいなのに。
響子の戸惑いをよそに、淑恵はなおもにこにことしていた。
「でもこのじょうろ、私のお気に入りなのよ。若い頃から使ってて、実家から持ってきたの。ほら、この百合の花の模様が可愛いでしょう?」
「もうっ、何がお気に入りのじょうろよ!水やりなら、そこのホースで十分でしょう?私も手伝いますから、淑恵さんはじょうろを下ろしてください」
淑恵の柔らかな笑みが、あまりに浮世離れしていて――響子はつい、口を出さずにはいられなくなってしまった。
――こんな人が、高齢出産なんて本当にできるのかしら。
何だか、響子のほうが心配になってしまう。愛人が正妻の出産を案じるなんて、皮肉な話だ。
そこで響子は、霜田が自分に淑恵の世話を命じた理由が分かった気がした。
――今の白虎組は、朱雀組や夏目さんのことで手いっぱい。若頭も、淑恵さんのそばにいてあげたくても、ままならないでしょうね。
淑恵はたった一人で、高齢出産という難事に挑もうとしている。そう思えば、目の前に広がる大きくて美しい庭園に、淑恵の寂しさが詰まっているような気がした。
――私にできることなんて、たかが知れてるけれど。
青龍会にさらわれたさやかも、淑恵も、そして遠い源も――闘っている。響子は、できるだけ淑恵に寄り添っていてあげようと思った。
淑恵はただ、花に水をやる響子を見つめて微笑んでいた。
榊原邸から遠く離れた日本海沿いの街、縫琴――。
カランコロン…。
ウィンドベルと共に、駅前にある小さなブティックから、長い髪を押さえた少女と、眼鏡をかけたサラリーマン風の男が揃って出てきた。
2人は人目を忍ぶように、そそくさと路地裏に隠れた。
「よし。これで俺様たちだってバレねえだろ」
銀縁眼鏡をずり下げ、コンパクトミラーで己の姿を確認して得意げに微笑む男は――白虎組組員・朽木貴彦だ。
一方、少女のほうは、鏡で自分の姿を見て眉を曇らせた。
――去年までは、こんな風に髪を伸ばしてたんだよな。
少女――白虎組の代打ち・夏目さやかは、ふうと溜息を吐いた。
縫琴の街境で玉榧の四篠組組長・蒜上と別れたさやかたちは、真っ先にブティックに入った。
朱雀組の目をくらませるべく、変装するためだ。――玉榧のラブホテルにいたアベックから奪った、お揃いの『HAPPY LOVERS』トレーナーを一刻も早く脱ぎ捨てたい、という理由もあったが。
朽木は地味な背広と眼鏡でサラリーマンになりすまし、さやかはモノトーンのミニスカートとロングヘアのウィッグで女子高生風に変身した。
鏡に映った髪の長い姿が、1年前の自分を思い出させる。朱雀組4代目組長・秋津イサオと出会い、そして――。
当時の苦い記憶がよみがえりそうになるのを、さやかはぐっと堪えた。
――とにかく、今は東京に向かうんだ。
ウィッグのサイズはちょうどいいはずだが、今日は風が強い。カツラが頭から飛んでいくなんて、コントのような醜態を晒したくはない。
さやかはついでに買った白いバレッタで、ウィッグをぱちんと留めた。少し多めの髪がうまくまとまり、より自然に見える。
――これでよし。
「で?これからどうするんだ、麻雀小町」
よりサラリーマンっぽく見せるため、髪をオールバックに撫でつけていた朽木が、コンパクトミラーから振り向いた。
さやかは、蒜上が運転する車の中でずっと考えていた『解』を答えた。
「駅から、汽車で関東まで……とりあえず、瓶午まで向かいます」
「汽車だと!?正気か、おい。駅は朱雀組が真っ先に狙ってるって言ったのは、てめえじゃねえか」
泡を食う朽木に、さやかは冷静に説明した。
「蒜上さんが言っていた通り、この縫琴は八百眼組の支配力が強い街です。不用意に街をうろつけば、すぐに八百眼組に通報される恐れがあります」
「でもよ…」
「駅なら、汽車に乗ってしまえばこちらのものです。とにかく今は、この街を離れることを優先しましょう」
八百眼組は昔気質で縄張り意識が強く、血の気の多い組だと蒜上は語っていた。そんな連中に捕まってしまったら、相当厄介なことになる。
さやかの説明に、朽木が渋々折れた。
「分かったよ。俺様だって、落ち武者の亡霊みたいな八百眼組とやり合うのは御免だ」
縫琴駅は、ここから歩いてすぐそこだ。さやかと朽木はなるべく目立たないよう、通勤客に紛れるようにして駅へと向かった。
一方、モーリス・マイナーもまた、縫琴駅へとひた走っていた。
「ジェントル秋津、四篠組の蒜上ってオッサンは追わなくて良かったんスか?」
後部座席の嵐が、不思議そうに尋ねた。
玉榧にいたさやかと朽木は、地元のヤクザ・蒜上の手筈で縫琴に向かった。冬枝たちはすぐに蒜上の行方を追ったが、蒜上の自宅は留守だった。
助手席のミノルが、穏やかな語調で答えた。
「蒜上の車は自宅に停めてありました。とすれば、知り合いの車でも借りてさやかさんたちを乗せて行ったのでしょう」
しかし、蒜上の知り合いをいちいち当たっていては、その間にさやかたちとの距離がどんどん開いてしまう。
ミノルは、自分自身の勘で勝負に出ることにした。
「君たちも承知している通り、縫琴は八百眼組のシマです。ただでさえ逃避行中だというのに、こんな厄介な連中のいる土地にさやかさんが長居する理由はありません。安全、かつ迅速に、縫琴を出て行こうとするはずです」
「それで、駅ですか。じゃ、もしさやかと朽木が駅にいなかったら、昼飯はジェントル秋津のおごりね」
ふざけて言う嵐に、運転席の栗林がムッとした。
「失礼ですよ、春野さん。ミノルさんの勘が外れたことはありません」
「マロン林は叔父さんひいきだねえ。俺は、玉榧からずっとジェントル秋津の当てずっぽが当たりまくってるから、そろそろ外れるところが見たい気分なんだけど」
嵐の軽口に、栗林がまた反論しようとするより先に、冬枝が口を開いた。
「当てずっぽでも何でも、さやかを捕まえりゃこっちの勝ちだ。だろ?」
バックミラー越しに視線を送られ、ミノルは頷いた。
「…ええ。東京方面行きの汽車が出発するまで、まだ時間はあります。さやかさんと冬枝君に、感動の再会をさせてあげますよ」
「おっ、愛のキューピッドっスねえ、ジェントル秋津!」
嵐がパチパチと手を叩き、冬枝が「うるせえ」と肘鉄を入れた。
背中に2人の平和なやり取りを感じながら、ミノルの胸には小さな不安が兆していた。
――もうすぐ、さやかさんに会える。ですが、それを恐れている僕がいる……。
この不安は、前にも感じたことがある。そう――イサオが殺されたあの日だ。
ミノルの心は、今年の1月へと飛んだ。
――僕はあの夜、イサオお兄さんに大事な話をしようとしていた。とても重要な……そう、さやかさんに関わる話を……。
だが、自分が何故イサオと会おうとしていたのか、ミノルは思い出せない。どうしてもイサオと話さなければならない、という切迫感と、夏目さやかという少女に対する不安だけは、今でも確かに胸に残っているのに。
――結局、イサオお兄さんと話をする暇もなく、僕たちは襲われた。イサオお兄さんは殺され、僕は重傷を負った。そして、さやかさんは……。
髪が長かった頃のさやかの幻影が、解けない謎となってミノルの瞼の裏に浮かぶ。
――或いはこれも、『百塔』が僕に与えた暗示に過ぎないのでしょうか……。
不安と疑問を抱えたまま、ミノルを乗せたモーリス・マイナーは着実にさやかの元へと近付いていった。
縫琴駅のホームは、スーツ姿のサラリーマンや制服姿の学生でごった返していた。
「………」
「………」
さやかも朽木も、客たちに混ざって無言でホームに佇んでいる。
――あと5分で、汽車が来る。それに乗り込んでしまえば…。
たったの5分が、今は永遠のように長く感じる。朽木も焦っているのか、先ほどから何度も腕時計を確認している。
見たところ、周囲には普通の乗客しかいない。朱雀組の追手や、八百眼組の組員がいる様子はないが、きょろきょろ辺りを見回したりすれば、それこそ不審だ。気になるのを我慢して、さやかは澄ました顔で正面の線路だけを見つめた。
秋の風が、ウィッグの長い髪を揺らす。妙に不安な気持ちになったのは、或いは一種の勘だったのかもしれない。
「さやか!」
その声を聴いた瞬間、さやかはハッとして――いけないと分かっていたのに、声のほうを振り返っていた。
――冬枝さん!
枯れ葉色の背広をなびかせ、冬枝がこちらに走ってくる。後ろにはピンクの革ジャン姿の嵐と、そして――。
「………!」
ミノルが、驚いたようにこちらを見つめている。
蘇芳色の瞳が大きく見開かれているのを見て、さやかもまた、金縛りにあったように動けなくなってしまった。
「さやかさん……」
ミノルの眼鏡のレンズいっぱいに、さやかの長い髪がスローモーションで舞い上がる。
ミノルの目の前には、髪の長い少女が――兄が死んだ1月の夜と同じ姿をした夏目さやかがいた。
指先が、氷のように冷たい。ミノルは、自らの手を見下ろした。
――血。
指先から足元まで、ミノルの全身が冷えていく。兄――秋津イサオの身体から抜け出た血が、とめどなくミノルを濡らしていくからだ。
撃たれたミノルを庇って、倒れたイサオ。兄の温かく大きな身体が、ただの抜け殻と化していくのを、見ていることしか出来なかった自分。
イサオはミノルの全てだった。麻雀一つで裏社会を渡り歩き、朱雀組の最高顧問という地位を得たのも、すべてイサオがいたからだ。
それを、さやかが奪った。
イサオとミノルが撃たれた雀荘から、さやかは一人逃げ出した。あの夜の姿のさやかが、今、ミノルの前にいる。
――夏目さやかは、イサオお兄さんの仇……!
ボルドーレッドのスーツの懐から、ミノルは拳銃を抜いた。
「!」
驚くさやかに、ミノルは低い声で問いかけた。
「君はどうして……何故、あの夜、あそこから逃げ出したのですか」
「……!」
さやかの顔から、血の気が引く。
騒然とした朝のホームが遠ざかり、まるで世界にさやかとミノルしかいないかのような沈黙が降りた。
何も答えないさやかに銃口を向け、ミノルは引き金を引いた。
パン!
銃弾はさやかの腕をかすめ、さやかの姿勢がぐらりと傾いた。
「さやか、逃げろ!」
冬枝が声を上げたが、さやかはなおも動かない。ミノルを見つめたまま、凍り付いたように立ち尽くしている。
「ジェントル秋津、何やってるんスか!やめてください!」
「………」
嵐が必死でミノルを取り押さえるが、ミノルもまた、拳銃を構えたまま動かない。
いつしか周囲の客がざわつき、人だかりができている。
――まずい!このままじゃ、大事になっちまう…!
ミノルの指は、なおも引き金を引こうとしている。嵐が何度も揺さぶっているが、ミノルには届いていないようだ。
その時、ちょうど汽車が到着した。さやかの隣で呆然としている朽木に向かって、冬枝は叫んだ。
「朽木!さやかを連れて乗れ!」
「あ、ああ」
朽木はさやかの両肩を掴むと、さやかを汽車に押し込むようにして乗り込んだ。
2人の姿が、何も知らずに駅へと降りる乗客に紛れていく。
「………」
蒼ざめた顔のさやかと、冬枝は一瞬だけ目が合った。だが、すぐに扉が閉まり、さやかの姿は見えなくなる。
「ジェントル秋津ってば!ちょっと、どうしちゃったんですか!?」
「………」
ミノルは拳銃を持ったまま、その場にうずくまっている。冬枝は、片側からミノルを引っ張り上げた。
「嵐!こいつ連れてずらかるぞ!」
「は、はい!」
すっかり泡を食っている嵐と共に、冬枝は人混みを蹴散らすようにして駅から退散した。
汽車に乗り込んだ朽木は、出入口にもたれて深い溜め息を吐いた。
「はぁ……。なんだったんだ、一体」
「………」
さやかは、ずっと無言でうなだれている。朽木は、さやかの袖が血で染まっているのに気付いてぎょっとした。
「おい。弾が当たったのか」
「……」
さやかは答えない。
幸いにも着ている服が黒いため、遠目には血は目立たない。だが、こんな手負いの女が車掌にでも見つかれば、厄介なことになる。
「どっか適当な駅で降りるぞ。いいな」
「………」
朽木がこれみよがしな溜め息を吐いても、さやかは無反応だった。
何駅かやり過ごしたのち、朽木とさやかは『産城』という小さな駅で降りた。
朽木は駅前にある薬局で包帯と消毒液を買い、路地裏で待たせておいたさやかに放り投げた。
「ほらよ。それで応急手当しとけ」
「………」
しかし、さやかは朽木が与えた包帯を一瞥もしない。秋津ミノルに撃たれてからずっと、心ここにあらずといった状態だ。
「おい。聞いてんのか」
「………」
さやかは返事もしない。その目は虚ろで、朽木など映っていないかのようだ。
――この女……!
頭にきた朽木は、さやかの頬を思いっきり張り倒した。
パン!
「……」
さやかは、薄汚れたアスファルトの上に力なく倒れた。
怒りのまま、朽木はさやかの胸倉をつかみ上げる。
「ボーっとしてるんじゃねえ。朱雀組が俺たちを追ってる。青龍会だっているんだ。俺たちは一刻も早く、メイちゃんのいる東京に辿り着かなきゃならねえ」
「………」
「てめえ、もう一発殴らねえと目が覚めねえか」
朽木が手を振り上げたその時、後ろから声がした。
「ちょっとあんたたち、そこで何してんの」
自転車のブレーキ音と共にやって来たのは、制服の青も眩しい警察官だった。
「!!!」
その姿を見た瞬間、ようやくさやかの目に意識が戻った。
さやかはすかさず立ち上がると、朽木の隣にぴったりと寄り添った。
「こんにちはぁ!私たち、東京から観光に来たカップルでーす」
「カップルぅ?」
警察官が不審そうに繰り返した。なんなら、朽木もさやかの豹変っぷりに眉をひそめていたが、こういう時はこの女に任せるしかないと知っていた。
さやかはにっこり笑顔を貼り付けて、明るい声でまくしたてた。
「あのぅ、この辺りに美味しいレストランがあるって聞いたんですけどぉ。おまわりさん、ご存知ありませんか?」
「レストラン?うーん……もしかして、『ニーナ』のことかな」
「『ニーナ』?」
警察官は自転車の荷台から地図を取り出し、わざわざ場所を教えてくれた。
「ミネストローネが美味しいって評判の店だよ。遠くからわざわざお客さんが来るぐらい」
「へえ、そうなんですかあ!」
「けど、山道だから気を付けて。足元、転ばないようにね」
「ありがとうございまーす!」
さやかはきゃぴきゃぴと飛び跳ねながら手を振って、自転車で去って行く警察官を見送った。その姿ときたら、さっきまで黙りこくっていた女とは別人だ。
――とんだ女狐だぜ、全く。
朽木の手にがっちりと巻き付いた腕は、秋津ミノルに撃たれた怪我を隠すためだ。朽木は、つくづく悪知恵の働く女だと感心した。
「ふぅ。危ないところだったな」
「…ええ」
さやかは朽木から身を離すと、『ニーナ』のある山道の方へと目を向けた。
「乗り掛かった舟です。『ニーナ』ってレストラン、行ってみましょう」
「ああ?なんでだよ。寄り道してる暇なんかねえぞ」
さやかは、警察官が去っていった方角を顔で示した。
「町のおまわりさんだからって、侮らないほうがいいと思います。彼らは、一般市民とそうじゃない人間を嗅ぎ分けるプロです。表向きは僕らのことを信じたようでしたが、交番に戻って僕らのことを不審人物として連絡している可能性があります。ここはしばらく、普通のカップルとしてふるまいましょう」
「…確かにな」
レストランに行くぐらいで警官の目をくらませるなら、安いものだ。ちょうど腹も減ったところだし、朽木はさやかの提案に乗ることにした。
縫琴駅から10キロほど離れた郊外のサービスエリアの駐車場に、モーリス・マイナーは身を潜めるようにして停まっていた。
「………」
白く漂うタバコの煙の向こうから、嵐の仏頂面が現れた。
隣の冬枝は難しい顔で腕を組み、ミノルは助手席のシートに深くもたれて目を閉じている。
運転席の栗林がちらちらと気まずそうに3人を見やる中、ようやく嵐が沈黙を破った。
「なっして教えてくれなかったんスか、洗脳のこと」
「………」
冬枝は、口元を苦々しそうに結んだまま、黙っている。
「なんスか?その…おっぱいハイターとか言う犯人が、撃たれて瀕死だったジェントル秋津を洗脳して、事件の目撃者であるさやかを殺させようとしてる、ってことでしょ?どうしてそんな大事なことを、今まで黙ってたんスか」
「おっぱいハイターじゃなくて、『百塔』だ」
訂正してから、冬枝はふうと息を吐いた。
「…しょうがねえだろ。朱雀組の最高顧問が事件の記憶を失くしたうえ、犯人に操られてるなんて、よそに知れたら大事だ。それこそ、青龍会に付け入るスキを与えることになる」
「だども、俺たち仲間じゃないっスか!嵐クン、とじぇねっス」
冬枝の肩をゆさゆさ揺さぶりながらも、嵐はふざけるように笑った。そこには、冬枝とミノルの隠し事を許してやる、という優しさのようなものが感じられた。
――思えば、嵐だって家族のためにここまでついて来たんだよな。
嵐の妻・鈴子の妹である風間鳴子が、青龍会に捕らわれた。義妹を救うという重要な目的がある嵐に対して黙っていたのは、確かに不誠実だったかもしれない、と冬枝は反省した。
「…ありがとう、嵐君」
そこで、ようやく当のミノルが口を開いた。
少しかすれた声だったが、バックミラー越しに見える目付きはしっかりしていた。
「…君のおかげで、さやかさんを撃ち殺さずに済みました。感謝しています」
「どういたしまして。でも、俺としては、ジェントル秋津には精神病院にでも入ってもらって、鎮静剤をしこたま打たれて拘束衣でぐるぐる巻きになった状態で事件の解決を待ってて欲しい、ってのが正直なところなんですけど」
「おい、嵐」
冬枝がピンクの革ジャンの袖を引いたが、嵐は「だって」と口を尖らせる。
「ジェントル秋津は殺人犯から任命されたヒットマンってことでしょ?そんな人がさやかを追っかけるなんて、危険すぎます」
「そりゃそうだが…」
嵐の言い分も道理だ。それは、冬枝が頭の中で何度も悩んだことでもある。
――だが、もう答えは出てる。
冬枝は腹に力を込めて、真っすぐに嵐を見返した。
「…だから、俺たちがいるんだろ。こいつが暴走しそうになったら、俺とお前が、ぶん殴ってでも止めるんだ」
「えー、やだぁ」
「やだじゃねえ!兄貴を殺された上に、洗脳までされたこいつの無念がわからねえのか」
「ダンディ冬枝、いつからそんなお人好しになったんスかぁ?」
嵐から疑り深そうに見つめ返され、冬枝は返事に詰まった。
――それは…。
その時、冬枝の脳裏に浮かんだのは、何故かさやかの顔だった。
――ああ、そうか。俺は、さやかのために……。
1月の秋津イサオ殺害事件に巻き込まれたのは、さやかだけではない。ミノルのことも助けなければ、さやかはあの事件から解放されないのだ。
だから、自分はこの銀髪の胡散臭い男に手を貸す気になったのだと――冬枝は、今になって悟った。
――本当に、厄介なことに巻き込みやがって。後が怖ぇぞ、さやか。
冬枝の心の声に呼応するように、ミノルが助手席から振り返った。
「…さやかさんは、恐らくここからそう遠くない駅で降りたと思います」
「どうしてそう思うんスか?」
嵐の問いに答えた時、すでにミノルの顔は『秋津の魔法使い』と呼ばれる男のそれに戻っていた。
「非常に残念なことに、僕の撃った弾がさやかさんの腕を掠めてしまいました。負傷したさやかさんを連れて汽車で東京まで行くのは、容易なことではありません。怪我の手当てをするために、一旦、近場で降りるはず」
「ジェントル秋津、自分で言ってて情けなくありません?もしかして、足止めするために、わざとさやかを撃ったんじゃ…」
猜疑心たっぷりの嵐に、ミノルは眼鏡の奥の瞳をにこやかに細めた。
「今度、僕がさやかさんを撃ちそうになったら、君と冬枝君が僕をぶん殴ってでも止めてくださいね」
「えー、やだぁ」
「やだじゃありません」
そう言って笑うミノルはもう、大丈夫そうだ。冬枝は、少し安心した。
栗林が車を発進させ、一同はさやかと朽木を追った。
レストラン『ニーナ』は、林の中にある小さなログハウスだった。
屋根のてっぺんには白い風見鶏が光り、手書きの看板の下から店の入り口まで、可憐なデイジーの花がいくつも咲いている。
とても可愛らしい店構えだったが、それを眺めるさやかと朽木はすっかり憔悴していた。
「ほんっとうに山道だったな、おい」
「……はい」
朽木から恨みがましい視線を向けられ、さやかも自分の判断をちょっと後悔した。
――田舎の人が言う『山道』を、甘く見るべきじゃなかった…。
腕時計を見れば、時刻はすっかり正午を回っている。さやかと朽木は、舗装もされていない坂道・急斜面・登り階段を、2時間以上も歩いてきたわけだ。
縫琴のブティックで買ったばかりのスニーカーは、すっかり泥まみれになってしまった。何なら靴擦れの気配もするし、腕の包帯が血で濡れているのも感じるが、さやかは気付かないふりをした。
「ったく、メシ食ったらとっとと東京に向かうぞ。今度は口挟むんじゃねえぞ」
「…はい」
朽木の物言いに、反論することもできない。デイジーの花を蹴散らすように進む朽木の後ろについて、さやかも『ニーナ』の店の前に立った。
ところが、ドアにかけられた札を見て、朽木の表情が歪んだ。
「あぁ!?貸し切りだと!?」
本日貸切――白い看板に明朝体で恭しく書かれたその四文字に、さやかは絶望しかけた。
もちろん、そんなものを気にする朽木ではない。忌々しい札をむしり取ると、ドアを乱暴に開けた。
「おい、邪魔するぞ」
軽やかなウィンドベルの音色と共に、木目調が温かな店内が目に飛び込む。厨房からはブイヤベースの匂いがして、さやかの鼻をくすぐった。
「!」
カウンターにいた店主と思しき中年の男が、ハッとしたように顔を上げたが――さやかと朽木の姿を見て、どこか安堵したような表情を浮かべた。
「…いらっしゃいませ。お客さんですか」
「俺たちが借金取りに見えるか?客だよ、客」
自分はともかく朽木は借金取りに見えるだろうな、とさやかは思ったが、口には出さなかった。
「………」
貸し切りの看板を出していた割には、店内に客の姿はない。『予約席』と書かれた札がテーブルに置かれている様子もなく、さやかは首を傾げた。
――煮込み料理って時間がかかるし、お客さんが来るのは夜なのかな。
朽木はさっさと奥の席に腰を下ろすと、タバコに火をつけた。
「何でもいい。こっちは腹が減ってるんだ、メシにしてくれ」
朽木の横暴すぎるオーダーにさやかは眉をひそめたが、店主は神妙な顔つきで「わかりました」と頷いた。
「ふう。やっと休憩できるぜ」
グラスの水をぐびぐびと呷る朽木を見ながら、さやかも一息吐いた。
「………」
チェック模様のテーブルクロスも、壁に飾られたドライフラワーやクマのぬいぐるみも、素朴で愛らしい。それなのに、何故かこの店には、異様な緊張感が立ち込めている気がしてならない。
――僕の考えすぎかな。
自分が逃避行中だから、目に映る全てが疑わしく思えてしまうのか。無意識にミノルに撃たれた腕を押さえている自分に気付いて、さやかは自嘲した。
「君はどうして……何故、あの夜、あそこから逃げ出したのですか」
ミノルの声が、さやかの耳に木霊する。血を吐くような叫びは、ミノルがずっと胸の奥に抱え込んでいた本心に他ならないだろう。
――僕は逃げた。イサオさんからも、ミノルさんからも。
ミノルは決して、さやかを許さないだろう。あの夜の真相を知ったら、冬枝だってさやかのことを軽蔑するかもしれない。
胸がズキンと痛んだが、さやかはぐっと堪えた。
――僕のことはどうでもいい。この手でカタをつけるまでは、弱音なんか吐くもんか。
さやかが唇を噛んだところで、テーブルに料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。チキンキャセロールでございます」
ほかほかと漂う湯気と香りを嗅いだ瞬間、さやかの胸がふわっと温かなもので満ちた。
――美味しそう。
初めて見る料理なのに、どこか懐かしい。さやかは、夢中でチキンキャセロールを口にした。
食べ終わる頃には、さっきまでのモヤモヤした気持ちが消えていた。ようやく、いつもの自分が戻ってきたような気がする。
――疲れてたせいで、ナーバスになってたみたい。
一緒にいるのが朽木では、安心のしようもないが。そう思ってさやかがちらりと正面の席を伺うと、朽木は満足そうにナプキンで口を拭っていた。
「なかなか旨かったじゃねえか。この料理、何つったっけ?」
「…チキンキャセロールです。ペルーの料理で、鶏肉を野菜で煮込んだものですよ」
「ほー。どうでもいいことに詳しいな、てめえは」
「どうも」
無表情に返してから、さやかはふと違和感を覚えた。
――このチキンキャセロール、どうしてこんなに早く、僕たちに提供できたんだろう。
チキンキャセロールは鶏肉を焼いたうえ、野菜ペーストで煮込む料理だ。そんなにすぐに出来上がるものではないが、料理が運ばれてきたのは、さやかたちが席に着いてから10分もしないうちだった。
貸し切りの札を出していたにも拘わらず、さやかたちをあっさり招き入れたことと言い、何かがおかしい。さやかは、今更ながらに嫌な予感がした。
「…朽木さん。食べ終わったことですし、そろそろ出ませんか」
「ああ、そうだな。こんな山奥に用はねえ」
朽木は伝票を持って立ち上がると、店主に「おい、会計だ」と声をかけた。
レジで支払いを済ませる間、店主がしみじみと言った。
「…この店を20年、続けてきましたが、あなた方が最後のお客さんになりました」
「最後って…ここ、閉店するんですか?」
さやかの問いに、店主は少し寂しげに頷いた。
「ええ。常連さんたちとのお別れはもう済ませたので、今日は休みの予定でした」
「じゃあ、あのチキンキャセロールは…?」
「まかないです。一緒に店をやって来た妻と息子に食べさせるつもりでしたが、2人は先に逃がしました」
「逃がした、って……」
さやかの胸が不吉な気配でざわざわと乱れ始めた瞬間、店のドアがバンと音を立てて開かれた。
「新名!」
店主――新名が、ハッと顔を上げる。
開いた店のドアから、一目で筋者と分かる、目付きの鋭い男たちがぞろぞろと入ってきた。
先頭に立った男が、新名を睨みつけた。
「今日が年貢の納め時だぞ、新名。分かってるだろうな」
「……何度来られても、そちらの要求に応じるつもりはありません」
新名が気丈に睨み返すが、剣呑な男たちに取り囲まれて逃げ場もない。
「うちの頭がてめえをご指名なんだ。逃がさねえぞ」
何やら、急にきな臭い成り行きになってきた。さやかと朽木は、そろりそろりとその場を離れようとしたが、男たちに呼び止められた。
「待て!どこに行くつもりだ」
「えーっと…」
「私たち、通りすがりのカップルですぅ。ねー、タカぴょん」
さやかが渾身の作り笑いで朽木を見上げたが、朽木は頬を痙攣させたまま、返事をしなかった。
「やめてください、その人たちは関係ありません!ただのお客さんです」
新名が止めたが、直後に腹に蹴りを入れられた。
「ぐうっ…」
「てめえは黙ってな。どのみち、この場を見られたからには生かして返しちゃおけねえ。こいつらも道連れだ」
男たちは、新名とさやかたちを脅すように、手にしていた日本刀から刃をすらりと抜いた。
「俺たち八百眼組に逆らおうなんて、百年早い。全員まとめて、八百眼城に連行だ」
――八百眼組!
縫琴をシマにする最大の組にして、昔気質の危険な組――。最も厄介な相手に捕まってしまったことを、さやかと朽木は無言のうちに悟った。
――僕たち、昨日の玉榧での勝負で、運を使い果たしたのかもしれない。
玉榧では何もかもを偶然に助けられた分、縫琴では何もかもが上手くいかない運命なのか。両脇から男たちに捕まえられ、さやかも朽木も成す術がなかった。
さやかと朽木、それに『ニーナ』の店主・新名は、八百眼組によって目隠しをされ、徒歩で連行された。
山道を踏み締めながら、さやかは静かに距離を測っていた。
――恐らく、目的地は『ニーナ』からそう離れていない。スキをつけば、ふもとに降りるのは可能だ。
実際、さやかたちが目隠しを外されたのは、『ニーナ』から連れ去られて10分後のことだった。
「ここは……」
瞬間、さやかも朽木も、自分の目を疑った。
――これって、お城…!?
山の中に、忽然と天守閣が出現した。それも石垣や門を備えた、立派な三階建ての城だ。
さやかたちを連れてきた男が、得意げに紹介した。
「ここは『八百眼城』。――表には出せない、俺たち八百眼組の秘密基地だ」
つまり、この城は組事務所などとは違う、行政に無許可で建てた違法の建築物ということか。
さやかは、つくづく八百眼組の独特のありように驚いた。
――昔気質っていうか、時代錯誤じゃない?
とはいえ、それを口にすれば、男たちがぶら下げている刀のサビになるのは目に見えている。朽木でさえ、何か言いたげに口をつぐんでいた。
城の中に通されたさやかは、さりげなく内部の様子に目を走らせた。
――監視カメラ。
一見、板張りの廊下で時代がかった雰囲気に見せかけながら、天井付近の至るところに監視カメラが設置されている。『秘密基地』というのも、どうやら伊達ではないようだ。
さやかたちは、いかにも時代劇に出てくるような、石造りの牢屋に放り込まれた。
「頭が来るまで、ここで大人しくしてな。逃げようなんて考えるんじゃねえぞ」
「………」
ガシャン、と錠が下ろされる音と共に、さやかたちの脚にひんやりと冷気が這い上がった。
「はぁ~あ。とんだ災難だぜ」
朽木がドカッと床に腰を下ろすと、新名が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。私のせいで、お客さんたちまで巻き込んでしまって」
「全くだ。てめえ、なんで八百眼組なんかに狙われてるんだ」
朽木の無遠慮な問いに対し、新名は観念したように説明を始めた。
「…私はかつて、八百眼組のお抱え料理人でした。親分からは大層ごひいきいただいて、店の開店資金も援助していただきました」
「そうだったんですか」
つまり、さやかたちは八百眼組を避けるどころか、八百眼組と因縁のあるレストランに飛び込んでいたらしい。
――とんだ誤算だった。僕としたことが…。
さやかは己の計算違いが憎たらしくなったが、今は新名の話に耳を傾けた。
「私が八百眼組にいたのは、良い時代でした。ヤクザが市民を守り、市民がヤクザを盛り立てる。私も八百眼組の下で、料理人として大いに腕をふるうことができました」
懐かしそうに眼を細めてから、新名は嘆息した。
「しかし、最近は市民のヤクザ離れが進んでいて、八百眼組も資金繰りが苦しくなってきました。若者も八百眼組の厳しさに嫌気が差して、みんな、よその組に流れてしまう。次第に、八百眼組の内部でも、対立が生じ始めたそうです」
八百眼組の現状に対し、若頭をはじめとする改革派と、組長ら守旧派とで意見が分裂。邪魔な組長を亡き者にしようと、若頭が組長の毒殺を新名に依頼したのだという。
「親分を毒殺って……ずいぶん過激な話だな、おい」
そう言う朽木も、青龍会入りをもくろんだり、柘植のスパイをやっていたりしたが、自分の手を汚すやり方には消極的らしい。
「私も、もちろんお断りしました。親分に可愛がっていただいたご恩はもちろんですが、自分の料理を人殺しのために使うなんて、とてもじゃないができません」
だが、組長の信頼が厚い新名は、ヒットマンとしてうってつけだ。諦めきれない若頭は、大金や暴力をちらつかせて、しつこく新名を誘った。
若頭の勧誘を逃れるためと、自身の老齢を理由に、新名は長年続けた店『ニーナ』を閉じた。
それが先日の出来事で、今日は、身内だけで店の思い出を懐かしむつもりだったらしい。しかし、悪い予感がした新名は、予定を変更して妻子を街の外に逃がし、自身は囮となって店に残っていたのだった。
「……そこにお邪魔しちゃったのが、僕たちだったんですね」
さやかがまとめると、新名は小さく頷いた。
朽木がこれみよがしな深い溜息を吐いた。
「ほんっとうにてめえは疫病神だな、麻雀小町」
「ほっといてください…」
飛んで火に入る夏の虫、とはまさにこのことだ。八百眼組の血の気の多さを考えれば、さやかたちの処刑だってあり得る。
――何とかして、ここから脱出しなければ。
さやかは、ちらりと牢屋の天井を見上げた。薄暗い石の天井の隅にも、監視カメラが目を光らせている。
――文字通り、ここは百の眼があるお城、か…。
八百眼組の内輪揉めだけでも厄介だが、さやかたちが朱雀組に追われている身であることが連中にバレたら面倒なことになる。
さやかは監視カメラから顔を隠すようにして、朽木と新名に作戦を告げた。
さやかたちが作戦会議を終える頃、石の床をカツンカツンと鳴らす足音が響いてきた。
――誰か来た!
周囲の組員たちが恭しく道を開け、一人の中年の男がさやかたちの前に姿を現す。
男は、居並ぶ若い衆と明らかに佇まいが違う。野武士のような雰囲気ながら、目の奥に脂ぎった野心が見え隠れしていた。
――もしかして、この人が例の…。
さやかの予想を裏打ちするように、隣にいた若い衆が口を開いた。
「てめえら、頭が高いぞ!こちらは八百眼組若頭・監物さんだ」
「……」
監物と呼ばれた男は、鉄格子の向こうにいるさやかと朽木を見下ろして、フッと笑った。
「…なるほど。てめえらが、玉榧で弐桜組と打ったっていう、白虎組の2人組か」
「!」
玉榧での話が、もう縫琴に伝わっていたのか。戸惑うさやかに追い打ちをかけるように、監物は核心を突いてきた。
「白虎組の女代打ち、夏目さやか」
「…!」
それから、監物は朽木のほうを見やった。
「そして、白虎組の冬枝誠二」
「……」
――えっ?
玉榧に続いて、二度目のクエスチョンマークだ。さやかはともかく、どうして朽木が冬枝だと思われているのだろうか。
さらに、監物は思いもよらないことを言い出した。
「…なんてな。四篠組の老いぼれのことはうまく騙したらしいが、この監物の眼は誤魔化せないぞ」
「………?」
「白虎組の女代打ちとくれば、彩北じゃ結構な有名人らしいからな。てめえらみたいに便乗して、成り済ますクズはわんさかいるんだろう」
さやかと朽木はぽかんとして、監物の長広舌を聞いていることしか出来なかった。
――僕たち、『夏目さやかと冬枝誠二』のニセモノだと思われてる……!?
中途半端な変装のせいで、今のさやかと朽木が、非常に胡散臭い男女に見えることは認める。それにしても、どうして『夏目さやかと冬枝誠二になりすました男女が縫琴に来た』という発想になるのだろうか。
その答えは、やはり監物自ら明かしてくれた。
「この監物を舐めるなよ。白虎組の麻雀小町が、あの『弐桜組の巨石』を持ち上げた、って話はもうこの耳に入ってる。どうやら麻雀小町ってのは、丸太みてえなごん太い腕で裏社会の男どもをねじ伏せてきた、筋肉ダルマらしい。並みの男じゃ絞め殺されちまうってんで、麻雀小町は未だに男を知らねえとか。てめえみたいな嬢ちゃんに、そんな腕っぷしがあるようには見えねえなぁ?」
「……………」
朽木が笑いを噛み堪えている気配がしたが、睨みつけるわけにもいかず、さやかは俯いた。
――玉榧から縫琴に噂が伝わる間に、ずいぶん話が誇張されたみたいだな…。
あの酒匂と房子の軽薄っぷりを思えば、自分たちが受けた仕打ちをこれでもかと大盛りに盛って吹聴したのが目に浮かぶ。おかげで、さやかは筋肉ダルマ呼ばわりされてしまった。
一方の朽木には、監物は険しい目を向けた。
「それにしても、この監物のシマで冬枝誠二の振りをするたぁ、とんだ命知らずがいたもんだな」
「あぁ?」
そもそも、朽木には冬枝になりすましていたつもりなど欠片もない。どうやら、夏目さやかと一緒にいる男=冬枝、という図式で逆算されてしまったようだ。
「冬枝誠二……その名を聞くと、今も古傷が疼く」
監物は憎々しげに顔を歪めると、自らのシャツを脱ぎ捨てた。
くるっと向けられた背中には、盛り上がった傷跡で真っ二つにされた風神の刺青があった。
「見ろ、この傷を!昔、本物の冬枝に付けられた刀傷だ」
「冬枝…さんが」
さやかは、冬枝がかつて白虎組の先代組長の親衛隊、通称『人斬り部隊』のナンバー2だった、という話を思い出した。
毎晩のようによその組とケンカに明け暮れ、刀を振るっていたと聞いてはいたが――まさか、当時、冬枝と戦った相手に会うことになるとは。
若い衆にいそいそとシャツを着させながら、監物は忌々しそうに吐き捨てた。
「冬枝の氷のように冷たく、狡猾な目……今でも忘れられねえ」
「………」
――冬枝さんって、とことん評判悪いな。
さやかも人のことは言えないが、素の冬枝の優しさや迂闊なところを知っているだけに、さやかは少しだけおかしかった。
監物がようやく話し終わったところで、新名が「あの」と声を上げた。
「頭。例の件ですが、この新名、お受けしたいと思います」
「ほう!ついに親分を殺る気になったか。これまで散々、こちらの誘いを断ったのに、心変わりの理由はなんだ」
監物の問いに、新名は深い溜息と共に答えた。
「……これ以上、家内や息子に迷惑をかけたくありません。事を成し遂げたら、もう私たちのことは放っておいてもらえますか」
「フン、いいだろう。てめえは八百眼組の大功労者になるんだ、金は好きなだけくれてやる」
「ありがとうございます」
神妙に頭を垂れてから、新名はある提案をした。
「ですが、料理人の端くれとして、自分の作ったものに毒を混ぜて親分に食べさせる、というのはやはり抵抗があります。やり方を変えてもよろしいでしょうか」
「何?」
「毒ではなく、睡眠薬で動けなくさせる、というのはどうでしょう。親分が眠ったところで、私が直接、手を下します」
新名の大胆な提案に、監物が目を見開いた。
「親分を手にかけるってのか。出来るのか、たかが料理人に」
すると、新名はキッと鋭い目つきで監物を見返した。
「鶏にウサギ、イノシシやクマだって捌いたことがあります。この手でバラした生き物の数なら、あんたたちより余程上だ」
「面白い。いずれにせよ、親分を亡き者にしてくれさえすりゃ文句はねえ。好きにしろ」
監物が許可すると、新名はそこで、と言ってさやかと朽木を示した。
「料理に入れる睡眠薬の量や味の加減を、この2人で実験してもいいでしょうか。老いたとはいえ相手は八百眼組の大親分、しくじりは許されません」
「もっともだな。どうせよそ者、それも他人の名を騙って小銭を稼ぐような、卑しい連中だ。殺しても構わん」
監物は若い衆に指示すると、さやかと朽木を縄で縛り、新名と共に牢屋から出した。
そのまま一行が向かったのは、城の厨房だった。レストランのように広く、業務用の冷蔵庫やオーブンまで備わっている。
「飯炊きに必要なものは、一通り揃ってる。勿論、薬の類もたっぷりな」
さやかと朽木は椅子に縛られ、並んでテーブルの前に座らされた。
監物が、悠然とさやかたちの顔を見下ろす。
「良かったなぁ、てめえら。この場でナマスにされてもおかしくなかったってのに、八百眼組お抱えの料理人のメシであの世に行けるんだ。せいぜい、よく味わって食うんだな」
監物は見張りの若い組員を一人残して、自身は厨房を後にした。
冬枝たちを乗せたモーリス・マイナーは、ちょうど縫琴の郊外――産城に到着したところだった。
「ホントに、こんな辺鄙なところにさやかたちがいるんスかぁ?ジェントル秋津」
開いたウィンドウから首を伸ばして言う嵐に、助手席のミノルは謎めいた返事をした。
「さやかさんたちがいたほうがいいような、悪いような」
「はあ?どういう意味っスか、それ」
「冬枝君。君も、この産城にはいい思い出がないでしょう」
ミノルにさも当然のように話を振られたが、冬枝は「えっ?」と間抜けな声でしか返せなかった。
冬枝の反応に、ミノルのほうが面食らった。
「えっ?って……君、八百眼組のことを忘れたわけではないでしょう?」
「ああ、いや、八百眼組自体は知ってるけどよ。俺と関係ねえだろ」
「これはこれは…」
ミノルは心底、驚いたといった風に、口を手で覆った。
「僕だけじゃなく、冬枝君も記憶喪失だったとは」
「ああ?どういう意味だ、てめえ」
「君、本当に覚えていないんですか?手柄話を勿体ぶっている、というわけではなく?」
「なんだよ、手柄話って。こんな僻地、見覚えねえよ」
「おお……」
ミノルは中折れ棒を押さえ、「やれやれ」と嘆息した。
「我が三兄も、ケンカの相手をいちいち記憶しないタイプでしたが……冬枝君の無関心ぶりと比べたら、まだ礼儀を弁えていたほうだったかもしれません」
「おい、言いたいことがあるならハッキリ言え。何だってんだ、さっきから」
まだピンときていない冬枝に対し、ミノルはタバコに火をつけながら言った。
「この産城には、八百眼組の隠しアジトがあります。そこではかつて、彩北の白虎組と血みどろの死闘が演じられたとか」
「えっ…?」
目を点にしている冬枝に、ミノルはさらに続けた。
「白虎組の先頭を切ったのは、当時『人斬り部隊』と呼ばれて恐れられた精鋭を率いる源清司、そしてその弟分だった冬枝誠二。彼らの活躍は凄まじく、特にまだ青二才に過ぎなかった冬枝君が、八百眼組きっての剣士を一刀の下に倒したことは、我が大羽の秋津一家にも噂が届くほど……だったんですが」
「へー、伝説の男じゃないっスか、ダンディ冬枝!」
「………」
嵐が素直に感心したが、冬枝は黙りこくっている。
ミノルは、ちらりとバックミラーを見上げた。
後部座席の冬枝は、顎に手を添えて何やらぶつぶつと呟いている。
「そんなことあったっけ…?」
20年という歳月が記憶を風化させたのか、はたまた、何も考えずに剣を振り回しただけだったのか。ミノルは可愛い弟分が思い出せるよう、助け舟を出してやった。
「縫琴といえば、お酒が美味しいところですね。それに、女性も美しい」
「そうだ、『ルビー』って店のママやってたルミ子と付き合ってた頃だ!あいつ、見た目はそうでもねえのに、酒がしったげ強くて……」
思い出した興奮のあまり、一人語ってしまってから、冬枝はハッとした。
嵐とミノルが、ニヤニヤと冬枝を見つめている。
「…僕の弟は、女性関係でしか物事を記憶できないようです」
「ダンディ冬枝、行く先々で女口説いてたんスかぁ?現地妻?」
「だーっ、うるせえぞ、てめえら!だいたいルミ子は現地妻じゃねえ、あいつにはちゃんと男がいたんだからな!八百眼組の…」
あれ、誰だっけ、と、冬枝はそこから先が続かなかった。
ルミ子のしっとりとした白い肌や、艶やかな黒髪の手触りなんかは思い出せるのに、男のこととなると途端に脳細胞が無口になる。冬枝は、ちょっぴり自分が情けなくなった。
――どうせルミ子も男ももういい年だろ、昔のことだ!
「それより、八百眼組の隠しアジトってのは何だ」
「…君も昔、その足で行ったことがあるはずですが…まあ、優しいお兄ちゃんが説明してあげましょうか」
タバコの煙をくゆらせながら、ミノルは窓の外の産城の街に目を向けた。
「通称・八百眼城。八百眼組の創設当時、山奥に建てた蔵が元になっています。そのまま増築を繰り返し、やがて城と呼ばれる規模の建物になりました。勿論、役所に届けは出していませんが、この産城は八百眼組のお膝元。公然の秘密といったところでしょう」
八百眼組の組事務所は繁華街である縫琴にあるが、少し離れたこの産城に『八百眼城』を建てたのは、勿論理由があってのことだ。
「ケンカ、監禁、暗殺、その他もろもろの、表には出せない用事のためにあるのが『八百眼城』です。組幹部の私邸、という側面もあるようですが」
「つまり、さやかたちが万が一、その八百眼組に捕まってたら、そのお城にいる可能性が高いってことっスね?」
嵐のまとめに、ミノルは「その通り」と頷いた。
「ですから、さやかさんがこんな火薬庫のような場所にいないことを願うばかりです」
「お前なぁ、言ってることが矛盾してるぞ。さやかはここにいるのかいねえのか、どっちなんだ」
じれったそうな冬枝に、ミノルは微笑んでみせた。
「それを、これから確かめに行きましょう。さあ、栗林」
「はい」
ミノルに促され、栗林は産城駅前からモーリス・マイナーを発進させた。
八百眼城は、山深くに身を潜めるようにして聳え立っている。
ここはいわば、八百眼組の由緒ある奥の院だ。この城に足を踏み入れることを許されるのは、八百眼組の中でも一握りの俊英のみ――と言っても、若い組員の離脱が著しい今となっては、関係者なら誰でも出入り自由のようなものだが――ゆえに、街中にある組事務所とは異なり、この城は人気も少なく、深閑としている。
そんな物寂しい場所である八百眼城に、常ならぬ温かな雰囲気がもたらされた。
モニター室で監視していた組員二人が、揃って辺りを見回した。
「なんだ、この匂い」
と言っても、二人の表情にいつもの殺気はない。むしろ、楽しみを探す子供のような無邪気さが、久しぶりにこのヤクザ二人の表情を生き生きとさせている。
男のうちの片方が、モニター画面を指さした。
「あの新名って料理人じゃないか。ほら、鍋で何か煮込んでる」
「そうか…。親分に盛る料理を試作するって話だったもんな」
二人は共に若頭・監物の子飼いであり、監物の組長暗殺計画も知っている。
子が親を殺す――渡世における最大のタブーであり、それに関与する男二人にも緊張感はみなぎっていた。
だが、厨房から漂ってくる美味しそうな匂いには、オオカミの牙を抜く魅力があった。普段は冷え切ったカビの匂いしかしない城だけに、丹精込めて作られた手料理の温もりは、男たちに忘れていた愛情や優しさまで思い出させるかのようだった。
男の一人が、軽く腹を押さえた。
「なんか、腹減ってきたな」
「よせよ。味見になんか行ったら、頭に叱られるぞ」
「分かってるって」
そうは言いつつも、厨房から届く匂いはますます濃くなっている。トマトの真っ赤な色さえ想像できるような甘酸っぱい香りに、こんがりと焼けた肉の香ばしい匂い。痺れるようなハーブの香りも、食欲をそそる。
男たちの主食は、いつも弟分たちが街で買ってくる、冷えて匂いすらしなくなった仕出し弁当だ。新名の料理の、色とりどりの織物のように複雑な匂いは、男たちの飢えをこの上なく刺激した。
「………」
「………」
もはや、無数に光るモニター画面を見つめる二人の目は虚ろだった。いつ新名の料理を食べに行くか、それをどう相棒に切り出すか、そのことで頭がいっぱいになっていた。
そこに、ガチャリと静かにドアが開かれた。
「誰だ!」
ハッとして誰何したのもつかの間、部屋越しに嗅いでいたのとは比べ物にならないほど濃く立体的な匂いが鼻を突き抜け、男たちの理性は完全にノックアウトされた。
そこには、にこやかに盆を抱えた新名が立っていた。
「失礼いたします。ミネストローネをお持ちしました」
新名の手中には、白い毛皮のローブのように湯気をまとって君臨する、ミネストローネがたっぷりと盛られた皿があった。
今すぐミネストローネに手を出してしまいたい衝動をぐっと押さえ、男の一人が問いかけた。
「それ、薬が入ってるんじゃないだろうな」
「まさか。八百眼組の皆さんにお出しするものに、薬なんて入れやしませんよ」
新名はずかずかと監視室に入ると、猜疑心と食欲の間で揺れている男たちの前に、どんと皿を置いた。
「薬はまず、こうして盛りつけた皿に直接混ぜてみようと思います。それで味に違和感があるようであれば、鍋のほうに混ぜて煮込んでみようかと」
今ちょうど、玉榧から来た二人に睡眠薬入りのスープを食べさせてみたところだ、と言って、新名は厨房のモニター画面を指さした。
確かに、スープ皿の載ったテーブルに突っ伏すようにして、白虎組の男女が倒れている。
「……」
呆然とモニター画面を見上げる男二人に、新名がああ、と残念そうな声を上げた。
「お気に召さないようでしたら、こちらは下げさせてもらいます」
ミネストローネを片付けようとする新名の腕を、男たちは慌てて押さえた。
「ま、待て!」
「何か?」
わざとらしく尋ねる新名に、男たちは視線を見交わしてから答えた。
「…これは、ありがたくもらっておく。くれぐれも、頭には言うなよ」
「もちろんです。ごゆっくりどうぞ」
新名が去ると、男たちは先を急ぐようにして、スプーンを手に取った。
「熱ぃ!でも、うまい!」
「うますぎて、涙が出そうだ」
トマトの酸味、煮込まれた野菜と肉の旨味、口に広がる温かさ、食感。一口頬張るごとに、男たちの胸に幸福感が満ちていった。
いつもの仕出し弁当をもそもそと口に詰め込むだけの行為とは、次元が違う。食事とは、本来こういうものだったのだ、もっと豊かで幸せな行為だったのだと、男たちは無言で噛み締めた。
夢のような食事を味わっているうちに、男たちは本当に夢の中に沈み込んでいた。
産城から遠く離れた縫琴の郊外にある、平屋の大きな道場。
厳めしい瓦屋根の下には、毛筆で『八百眼組修練場』と大きくしたためられた看板が立てられている。
中では、八百眼組の男たち、総勢20名が座禅を組んでいた。
「………」
「………」
板張りの床は、総じて百畳ほどもあろうか。この広さゆえ、この道場は八百眼組の儀礼の場として使われることもあるほどだ。
時刻は夕方五時を過ぎ、場内は夜の帳が降りようとしている。咳払い一つない静寂に、厳かだが、どこか怪しげな空気が充満していた。
邪念は、男たちの先頭に座す若頭・監物から発せられているようだった。
――この手で必ず、親分を仕留める。我々が、八百眼組の古い時代を終わらせるのだ…。
閉じた瞼の裏に渦巻くのは、計算の合わない帳簿に催促状、何十年前のものかも分からぬ使い古しの掃除用具に、割れた湯呑――要するに、今の八百眼組の窮状に対する不満だった。
――それもこれも、先代の過ぎた奢侈のためだ。いつまでも御屋形様気取りでいるから、我々まで時代に置き去りにされてしまった。
日本の極道において、縫琴の八百眼組ほど格式を重んじる組は他にない。よその組のことなど、ろくに知らない監物だが、少なくとも八百眼組は昔ながらの、純血の極道だと自負している。
現に、八百眼組に破られた玉榧の桜桃組は分裂し、堕落の一途を辿っている。彩北の白虎組など、あろうことか女を代打ちにして、組の名を汚しているというではないか。
しかも、その女代打ちを白虎組に引き入れたのは、こともあろうにあの憎き冬枝誠二――その名を思い出すだけで、瞑目した監物の眉間に、深い皺が刻まれる。
――我々は、冬枝のような外道に堕しはしない。
己たちはそうはならない、そうなってはならない。
しかし、今のままでは八百眼組も、懐の苦しさから腐敗していくのは明らかだ。
――親分を殺す。あの前時代の遺物さえ葬ってしまえば、八百眼組の時間は動き出す……。
そのために監物は綿密な計画を練り、ついに元お抱え料理人・新名を篭絡することに成功した。こうして毎日、夜まで瞑想に耽り、気を高めているのも、親分を確実に仕留めるための儀式だ。
「………」
だが、今夜は、いやにあの冬枝の顔が頭をよぎって離れない。冬枝と女代打ちを騙る偽者たちに会ったせいだろうか――。
そこに、側近が足音を忍ばせて近寄ってきた。
「頭。失礼します」
小声で耳打ちされた監物は、くわっと目を見開いた。
「…新名が逃げ出しただと。本当か」
「はい。しかも、あの玉榧から来た二人組も一緒のようです」
「新名の奴、人質とグルだったのか」
流石は長年、八百眼組の一員として働いただけのことはある。料理人といえど、新名にも極道の気骨が残っていたのか。
などという監物の感慨を、側近の次の一言が粉砕した。
「それがあの二人組、本当に白虎組の人間だったらしく…」
「何!?バカな、俺は本物の冬枝を知ってるんだぞ。あれは偽者だ、冬枝じゃない」
泡を食う監物に対し、側近は言葉を選び選び説明した。
「はっ…。頭の仰る通り、確かにあの男は冬枝ではありません。白虎組の朽木という男です」
そして、もう一人は――と言いながら、側近は速達で届いた書類を監物に差し出した。
資金不足の八百眼組には、ファクシミリがない。連絡手段は電話か郵便と限られている。
薄暗い道場の中で、今や大きく見開かれた監物の眼に、その写真は強く焼き付けられた。
「あの女が…白虎組の……夏目、さやか……」
監物の手からはらりと落ちた封筒には、朱雀組の名が記されていた。
薄紫色に染まる山道を、さやかと朽木、新名の3人はひた走っていた。
八百眼城から、どれぐらい走っただろうか。目印もない山の中では、距離感覚が掴みにくい。
パキパキと小枝を踏みながら、先を走る朽木がさやかを振り返った。
「てめえ、よく発煙筒なんざ隠し持ってたな。玉榧の時も思ったが」
「…ええ、まあ」
八百眼組ではさやかのボディチェックまでしなかったため、服の下に隠した発煙筒を見つけられることはなかった。
防弾チョッキと共に、さやかに発煙筒やもろもろの武器を授けてくれたのは、ほかならぬ朱雀組5代目・柘植雅嗣だった。
「さやか。ここにあるものを、好きなだけ持って行きなさい」
玉榧のホテル『桜寿閣』のスイートルームいっぱいに、柘植は大量の武器弾薬を並べた。
「これは……」
拳銃にライフル、催涙ガスやダイナマイトまである。シャンデリアの明かりに黒く輝くそれらに、さやかは目を見張った。
さやかの肩に、柘植の手がポンと置かれた。
「これから始まるのは、我々と青龍会との戦争です。自分の命を守るために、相手の命を奪うことを躊躇してはいけません」
「…柘植さん」
柘植の陰鬱な横顔には、青龍会に娘を殺された父親の悲哀が色濃く浮かんでいた。
その深い暗渠のような眼差しで、柘植はさやかを見下ろした。
「私の大切な娘……。たとえ何人を手にかけようとも、生き残りなさい。他人の命は無数にありますが、自分の命はたった一つしかないのだから……」
そしてさやかは、柘植が用意してくれた武器弾薬の中からいくつかを選び、朽木との逃避行に持ち出したのだった。
さやかは、ちらりと背後を振り返った。八百眼組からの追手は、まだ来る様子がない。
――百の眼も、眠らせてしまえば無力。
新名が監視役を眠らせた後、牢屋の鍵を開けてさやかと朽木を出してくれた。幸いにもあの監物という若頭や若衆たちは不在で、発煙筒の目くらましで十分、追手を撒くことができた。
地元である新名は、麓への道も分かるようだ。城からある程度、離れたタイミングで、さやかは新名に声をかけた。
「新名さん。僕たちはここで別れましょう」
「えっ。あなたたちは、どうするんですか」
新名の親切はありがたいが、八百眼組から追われている新名とこれ以上、行動を共にするのは危険だ。朽木も同意見らしく、目顔で頷いた。
そこで新名は、「まさか」と言って手で口を覆った。
「あなたたちは本当に、彩北の白虎組の……?」
「それ以上言うと、ろくなことにならねえぜ。もうヤクザとは関わりたくねえんだろ、オッサン」
朽木に言われ、新名は俯いた。
「…確かに、今度の件でヤクザには愛想が尽きました。しかし…」
新名は、八百眼城のある方向を哀しそうに振り仰いだ。
「……私は昔、ある罪で刑務所に入りました。出所してからは料理の勉強をして、真面目に働いてきたつもりです。八百眼組の親分に目にかけていただいたのも、親分が純粋に私の作る料理を気に入ってくれたからです」
そこで、新名の横顔が曇った。
「ですが、前科者の私を気に入らない輩も当然いました。とある金持ちの男が、私は極悪人だと吹聴し、様々な嫌がらせをしてきたことがありました」
男は、地元では名の知られた名士だった。「あの人が言うなら間違いない」と縫琴の市民は皆、男の主張を信じた。
前科があるのは事実だが、新名は当時、結婚して子供が生まれたばかりだった。四面楚歌に陥った新名は、死を考えるほどの窮地に立たされた。
「そんな時、助けてくれたのが八百眼組の親分だったんです。市民も警察も私を見放した中で、親分だけが私を信じてくれた」
親分は八百眼組の力で金持ちの男を黙らせ、若い衆を連れて新名の店に足繁く通ってくれた。活気づいた新名の店には、自然と元の客足が戻ってきた。
「ヤクザである親分でなければ、あの時の私と妻子を守ることはできなかったでしょう。ですが、こうして今、私と家族から自由を奪おうとしているのもヤクザです」
新名は、すがるような視線をさやかと朽木に向けた。
「ヤクザは、善ですか。悪ですか。教えてくれませんか」
「新名さん……」
枯れ葉が、足元でカサカサと鳴った。
さやかはふと、頭上を見上げた。
紫色の薄曇りは、ほぼ夜の色に変わりつつある。
この空の上には、イサオがいる。この空の下には、冬枝がいる。
天から吹き抜ける風はただ冷たく、さやかの頬をかすめていった。
――イサオさん……冬枝さん……。
さやかは、顔を上げて新名と瞳を合わせた。
「……巡り合わせに、良いも悪いもないと思います」
さやかも新名も、ヤクザによって救われ、ヤクザによって奪われた。どちらも、書き換えることのできない事実であり、時計の針は戻せない。
――たとえどんな運命が待っていようと、僕は僕でありたい。
イサオとの辛い別れがあったから、冬枝に出会えた。今はまだ難しいが、いつか心からそう思えるようになるかもしれない。
「麻雀牌と同じで、自分がどんな役を組み上げるか次第じゃないでしょうか」
牌を持つ手の形で、さやかは新名に微笑みかけた。
「………」
新名は呆然とさやかを見つめた後、ぽつりと言った。
「麻雀牌で例えるのはどうかと思います」
「えっ!?あれっ!?」
「おい行くぞ、麻雀バカ」
朽木からも冷たく言われ、さやかは拳を握った。
「ばっ…!バカって言わないでください!」
去り際、新名はそれでも少しだけ笑っていたような気がした。
「お元気で。また会えたら、私の料理を食べに来てください」
新名と別れた後、さやかは目まぐるしく脳内コンピュータを働かせていた。
――八百眼組のターゲットはあくまで新名さんだ。僕たちのことはそこまで本気で追わないはず。だけど…。
「おい。これからどうするんだ、麻雀小町」
あてもなく山道を進むさやかに、朽木が当然の質問を投げかけた。
「あの新名ってオッサンには囮になってもらうとして、俺様たちはどうする。こんな山ん中で、野宿でもするつもりか」
「…いえ」
さすがに、今の季節に野宿はきつい。寒さも厳しいが、クマに遭遇する恐れがある。
朽木は、ここに来るまでに新名と交わした会話を思い出して言った。
「この森はなんつったか…『蜘蛛ヶ森』とか言ってたか。一度入ったが最後、クモの巣みたいに搦め取られて出られない、みたいな話だったな」
「ええ」
時代錯誤の八百眼組らしいネーミングではあるが、『八百眼城』には本当に座敷牢があったぐらいだ。この『蜘蛛ヶ森』にも、何らかのトラップが仕掛けられている恐れはある。
――この森に長居しないほうがいい。八百眼組の目につかないように、外に出なければ…。
この辺りの地図は縫琴に来る前、蒜上の運転する車内で頭に叩き込んである。さやかは解を出した。
「…ひとまず、日が沈んだらこの山を下りて、国道に出ましょう。道路沿いに進めば、街に出られるはずです」
「そうだな。八百眼組の連中も、徹夜で俺様たちを追いかけるほど暇じゃねえだろ」
国道沿いの土手を目指しながら、朽木が不意に懐からあるものを取り出した。
「ほれ。てめえにも見せてやる」
「なんですか?」
朽木が手渡したのは、丸いコンパクトミラーだった。鏡面にマジックで『めいこ♡』と書いてある。
さやかは、玉榧で朽木と交わした会話を思い出した。
「これ…鳴子さんからもらった鏡ですか」
「おう。お守り代わりに持ち歩いてるんだ」
女物らしく、さやかの手のひらに収まるほどの小さな鏡だ。かざすと、薄暗い空とさやかの顔がキラリと映った。
よく見ると、鳴子の書いたマジックの丸文字は、上から何度も書き直した跡がある。
「いっつもポケットに入れてるからよ、メイちゃんの名前がかすれちまうんだ。だから、たまに東京に行ってメイちゃんに会った時に、書き直してもらってる。消えないようにな」
「…そうなんですか」
この鏡には、朽木と鳴子の時間が積み重なっている。何も知らない冬枝からバカにされて、朽木が頭にきたのも無理はない、とさやかは納得した。
さやかが鏡を返そうとすると、朽木が手で遮った。
「えっ?」
「てめえが持ってろ。どうせ、てめえのほうがメイちゃんに会える可能性は高い。メイちゃんを捕まえた桃華組は、青龍会きっての女さらいって噂だからな」
朽木の横顔にどこか翳りを感じて――さやかは、キッと眉根を寄せた。
「いらないです。この鏡は、朽木さんが持っててください」
「ああ?口答えすんなよ」
「なんか、形見分けみたいで嫌です」
「縁起でもねえこと言うんじゃねえ」
と怒鳴ってから、朽木はハッと手で口を覆った。
朽木はきっと、さやか以上に決死の覚悟でこの逃避行に臨んでいる。青龍会に捕らえられている、鳴子を救うために。
だからこそ、さやかは鏡を受け取りたくなかった。
――鏡だけ持って行っても、きっと鳴子さんは喜ばない。
「この鏡は、朽木さんが自分で鳴子さんに持って行ってください。鳴子さんの王子様は、僕じゃなくて朽木さんですから」
「………」
ちっ、と舌打ちして、朽木はさやかの手からもぎ取るように鏡を受け取った。
「ガキのくせに、口だけは達者だな。元はと言えば、全部てめえのせいなんだからな」
「分かってます」
そう言ってから、さやかは懐に隠し持っていたものを朽木に手渡した。
「ついでに、これももらってください」
「ん?……ああ!!?」
何気なくさやかから受け取った朽木は、そのズシリとした重量に目を剥いた。
黒いパイナップル型の塊――手榴弾だった。
「てめえ、こんなもん隠し持ってたのか」
「護身用です。敵に襲われても、僕は朽木さんと違って腕力がありませんから」
これもまた、柘植からもらったものだ。何となく、自分より朽木が持っていたほうがいい気がした。
朽木はしばらく、呆然と手榴弾を見下ろしていたが、やがてごそごそとスーツの内側にしまい込んだ。
「…とことん、腹の底が読めねえ女だな。冬枝は、こんな女のどこがいいんだか」
「僕も、鳴子さんが朽木さんを選んだ理由はいまだに理解できません」
さやかの物言いにちょっと顔をしかめてから、朽木がふと口を開いた。
「そういやてめえ、メイちゃんと――」
その続きは、宙に舞ってさやかには届かなかった。
「…えっ?」
遅れて、風がさやかの髪を揺らす。
さやかの隣にいたはずの朽木は――視線を5メートル横に滑らせた場所で、落ち葉に埋もれるようにしてうずくまっていた。
ビリッ、と電流のような緊張感が、さやかの身体を走る。
或いはそれは、目の前に立っている男から発せられる殺気だったのか。その冷たい空気が、さやかの全身の皮膚をみるみるうちに凍てつかせていく。
「会いたかったぜ。さやか」
源清司の蒼い双眸は、言葉に反して強い殺意を帯びながら――さやかの胸を射貫いた。




