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59話 午前0時のアクトレス

第59話 午前0時のアクトレス


 玉榧の国道沿いにあるホテル『シェリー・アムール』。

 夜更けの駐車場に、一目でスジ者と分かる男たちが、ぞろぞろと数十名は集まっていた。

 人だかりの中心には、薄闇の中でも派手なジャガーと、若い男女2人がいた。

「だから、俺たちホントに何も知らないんだって!」

 ホテルの部屋にいたところをいきなりヤクザ者に引っ張り出された男は、髪も乱れたままで弁解した。

「いきなり、若い女の子とヤクザの男から『車を交換しないか』ってもちかけられたんだよ。断ったら殺すぞって、拳銃突き付けられて…」

 更に2人は車のみならず、着ていた服も交換させられたのだという。哀れな若者が着ているのは、冬枝もよく見慣れたアルマーニのスーツだった。

 居心地悪そうに背中を丸めている女のほうは、さやかが着ていたのと同じブラウンの上下だ。

 冬枝は、はぁ~と溜息を吐いた。

「あいつ、悪知恵だけはよく回るな。どこで覚えてきたんだか」

「君の悪影響じゃありませんか?」

「あん?」

 冬枝が睨み付けると、秋津ミノルは眼鏡の奥の瞳をにこやかに細めた。

「これ以上、彼らを問い詰めても、有益なことは何も喋らないでしょう。行きますよ、冬枝君、嵐君」

「ああ」

「へーい」

 後のことは朱雀組の組員たちに任せ、冬枝、ミノル、嵐は、揃って駐車場を後にした。

 カップルがさやかたちに明け渡した車の車種とナンバーは聞き出した。用意周到なさやかのことだから、これから更に車を乗り換える可能性は十分にある。

 ミノルが言った。

「5代目の協力で、県内のレンタカー業者には連絡してあります。尤も、堅気のカップルを標的にした辺り、さやかさんも侮れませんね」

「もしかして、さやかの奴、朽木とこのホテルでよろしくやってたりして」

 嵐の軽口に、ミノルも冬枝もぴたりと足を止めた。

「………」

「………」

 2人の冷たい目線に、嵐が降参とばかりに両手を上げた。

「じょーだん、じょーだん。…ところでジェントル秋津、ロリコン伯爵ってホントに東京に帰ったの?」

「君の言う『ロリコン伯爵』というのが、5代目のことを指しているのなら、そうです」

 分かり切ったことだったが、ミノルは一応、そう言った。

 朱雀組5代目組長・柘植雅嗣。

 ミノルの兄で朱雀組4代目組長だった秋津イサオの死後、若頭だった柘植が5代目を襲名。日本有数の財力を駆使して、青龍会に決して屈さぬ姿勢を見せている。

 一方で、柘植には負の噂も絶えない。死んだ秋津イサオとの確執もそうだが、週刊誌では『柘植は海外で幼い少女たちを買い漁っている』と取り沙汰されることもしばしばだ。

 ついた渾名が、『ロリコン伯爵』――本人の前で口にすれば、まず命はない。

 その柘植は、さやかが朽木と共に東京へ向かったと聞き、自身もホテル『桜寿閣』を早々に発った。

「予感はしていました。さやかなら、鳴子を放ってはおけないでしょう」

 物憂げに言って、柘植はスイートルームの窓から玉榧の街を見下ろした。

「これ以上、この地に私がいても、災いを招くだけ……。さやかのことは頼みましたよ、最高顧問」

 青龍会と白虎組・秋津一家がそれぞれ真夜中の死闘を演じたことは、柘植にも報告していた。よその組同士でケンカされ、地元の組がすこぶる迷惑しているということも。

 ――5代目は、東京に戻って青龍会への対抗策を支度するつもりなのでしょう。

 語調こそ穏やかだったが、柘植の言葉には有無を言わせぬ重みがあった。さやかをみすみす朽木に連れ去られてしまった責任を取れ、という含みもそこにはある。

 朱雀組の護衛の車を何台も付き従えて、柘植を乗せたサンタナは東京へと去って行った。

 そんなことを思い返しながら、ミノルは嵐に言い添えた。

「…5代目の名誉のために言っておきますが、5代目には週刊誌に書かれているような、世間に後ろめたい素行はありませんよ」

「えーっ。ホントにぃ?」

 わざとらしく言う嵐に、ミノルは苦笑した。

「ホント、に。5代目がよく海外へ行かれるのは、外国の恵まれない子供たちを支援するためです。5代目自身、奥様が外国の方ですから、海の向こうの子供たちへの資金援助には並々ならぬ関心があるようです」

「へーっ。ヤクザが慈善事業ねえ」

 嵐は、まだ胡散臭そうにしている。

 ミノルは言葉を選び選び、説明した。

「ただ、5代目はたいそう子供好きと言いますか、少々子供たちへのスキンシップが激しい面がありまして……そういうところを写真に撮られたせいで『ロリコン伯爵』などと呼ばれている次第です」

「やっぱりただの変態じゃねえか!うわあ、さやかはもう『ロリコン伯爵』に食われちまった後なんだ!」

「………」

 嵐の言葉に、冬枝も疑り深そうにミノルを見ている。

 ミノルは、いい年をした男たちのガキっぽい顔つきに嘆息した。

 ――さやかさんがそんな女の子じゃないことぐらい、君たちが一番ご存知でしょうに。

 だが、さやかと柘植に不名誉なイメージが付きまとうのは、ミノルにも責任がある。いい機会だと思い、ミノルはここで打ち明けることにした。

「……5代目は、10年前に一人娘を亡くしています。5代目のお嬢さんを殺したのは、青龍会です」

「な……」

 あまりにも重い事実に、嵐も冬枝も言葉が出ない。

 ミノルは続けた。

「…生きていれば、5代目のお嬢さんはさやかさんと同い年でした。僕は、それを利用したんです」

「どういう意味だ、それ」

 冬枝の鋭い問いに、ミノルは正面から答えた。

「亡くなった4代目…イサオお兄さんと5代目は、最初、犬猿の仲でした。2人を和解させるために、僕は、イサオお兄さんの知り合いだったさやかさんを使ってはどうか、と提案したんです」

 早朝の冷たい風が、ミノルの銀髪をさらりと揺らした。



 その頃、さやかと朽木は市内のラーメン屋にいた。

「美味しい」

 腹ごなしのためだけに入った店だったが、なんてことない醤油ラーメンがすこぶる美味しい。さやかの口が、勝手に「美味しい」と呟いていた。

 ――そんな状況じゃないって、分かってるんだけど。

 今、さやかと朽木は、朱雀組に追われている逃避行中の身だ。ラブホテルにいたアベックを半ば脅して取り替えた洋服は、まだ身体に馴染まない。

 ――車と洋服を取り替えても、いずれは朱雀組にバレる。早く先に進まないと…。

 地元のラーメンに舌鼓を打っている場合ではないのだが、このラーメンは現実を忘れさせてしまう。さやかは、ラーメンへと向かう箸を止められなかった。

 店内は、長距離トラックの運転手や地元住民で賑わっている。皆、さやかたちを不審がることもなく、平和な空気が流れていた。

 そのせいか、朽木もさやかの呑気さを咎めず、豪快にラーメンを啜った。

「玉榧は、ラーメンが美味いって評判だからな」

「朽木さん、前にもこの辺りに来たことがあるんですか?」

「まぁな。うちのシマに近いから、玉榧の女がうちのホステスになったり、逆にうちを辞めた女が玉榧に来たり、なんてのがザラにあるのさ」

「なるほど」

 朽木は、白虎組のシマにあるキャバレー『ザナドゥー』やスナック『パオラ』の用心棒を務めている。夜の女の事情には、精通しているようだ。

 そこで、朽木は昔の女の話を始めた。

「玉榧の女といや、傑作だったのが、元女教師のホステスだったな」

「元教師…ですか」

「ああ。元は玉榧で小学校の先生をやってたらしいが、給料を全部賭け事に注ぎ込んじまって、ヤクザに借金しているような状態だった。それで教師の給料だけじゃ首が回らなくなって、昼は学校、夜はキャバレーで勤めてたってわけだ」

「それ、学校にバレたらまずいんじゃないですか?」

 さやかの問いに、朽木はコップの水を飲みながら答えた。

「ああ。水商売が生徒の親にバレたんだったか、学校の金を横領したんだったか……詳しいことは忘れたが、とにかく、学校はクビになったらしい。地元にいられなくなったってんで、うちのシマで働いてた」

「じゃあ、その人、今も彩北にいるんですか?」

「いや。店に客として来てたこっちのヤクザと恋仲になったとかで、また地元に出戻ったらしい。俺様が知ってるのはここまでだ」

「へえ。詳しいですね、朽木さん」

 流石は、組に内緒でデリヘルを経営しているだけある。さやかは皮肉のつもりで言ったのだが、朽木はふんと踏ん反り返った。

「まあな。こういう商売してる女が行き着く場所は、だいたい限られてる。女のツラと経歴ぐらいは覚えておかねぇと、たまたま採用したホステス2人が、実は同じ男を取り合った敵同士だった、なんてことになりかねねえだろ?」

「それ、もしかして霜田さんから言われたんですか?」

 さやかの指摘に、朽木の得意面がピキッと引きつった。

「なんだ、麻雀小町。知ってたのか」

「いえ。霜田さんってそういうところ、几帳面そうだなと思って」

 その霜田は、玉榧のホテル『桜寿閣』から、白虎組のシマに戻った頃だろうか。霜田が朽木のさやか拉致を手助けしたことは、朽木自身から聞いていた。

 榊原夫婦の仲を引き裂くために響子を愛人として差し向けるなど、霜田は朽木に負けず劣らずの女衒だ。一方で、響子や元妻・美佐緒に対する霜田の態度には、どこか労わりのようなものも感じる。

 ――きっと、霜田さんも鳴子さんのことを心配してるんだ。

 さやかをさらうなんて柘植に盾突く真似は、霜田の本意ではなかったはずだ。その霜田が朽木に協力したのは、朽木と鳴子への親心に他ならない。

 そこで、忙しなく厨房を行き来していた店の大将が、さやかの前に顔を出した。

「あんたたち、見ない顔だな。今日は、どこから?」

「東京です。ここはラーメンが美味しいってテレビで言ってたから、食べ歩きに来ました」

 朽木の返答を待たず、さやかはしれっと答えた。東北の田舎町にあっては、自分の東京弁が目立つことをよく知っていたからだ。

 ――朽木さんも東京出身だし、ここは東京から来た観光客のフリをしたほうが利口だ。

 だが、その場合、さやかは朽木とカップルだと思われるのだろうか。兄と妹にしては不自然だし、父娘というほど年が離れてもいない。

 何より、さやかと朽木が今着ている服は、ラブホテルにいたアベックが身に着けていたお揃いのトレーナーだ。クリーム色の地にサーモンピンクで描かれた『HAPPY LOVERS』の文字は、さやかたちがカップルだという不名誉な証明になっていた。

 ――サイズがちょうどいいから着ちゃったけど、やっぱり、やめとけば良かったな…。

 さやかの葛藤を知ってか知らずか、大将がさやかと朽木の関係について突っ込むことはなかった。

「そうかい、そりゃいいね。せっかくこの街に来たんだったら、弐桜組の巨石を見ていくといいよ」

「弐桜組の巨石?」

 この辺りの地域はかつて、桜桃組という大きな組の縄張りだった、と朽木から聞いた。確か弐桜組は、分解した桜桃組の分家の一つだ。

 東京から来た若い女が興味を持ってくれたのが嬉しいのか、大将は饒舌だった。

「弐桜組は昔、『仁王組』って名前だったのを、桜桃組の傘下に入った時に『弐桜組』って当て字に変えたんだよ。仁王っていったぐらいだから、そりゃもう力自慢のヤクザたちが揃っててね。初代組長の家の庭には、重さが3トン近くあるっていう、とんでもなく大きな岩があったんだよ」

「3トン…それはすごいですね」

「だろ?初代組長を始め、弐桜組の力自慢がこぞって挑戦したっていうけど、その巨石を持ち上げることは誰にもできなかったって話だ。俺も実物に触ったことがあるけど、ビクともしなかったよ」

「えっ…大将さん、ヤクザの家に行ったことがあるんですか?」

 田舎町は、ヤクザと一般人の境界線が薄い。もしや大将も弐桜組の関係者か、とさやかは少し身構えたが、大将は笑顔で手を振った。

「弐桜組の家なら、誰だって出入りできるよ。初代組長が死んじまった後、家は一般開放されてるんだ。まあ、入場料100円取られるけどな」

「へえ…」

 ――ヤクザの元自宅が、一般市民の公園になってるってこと…?

 さほど離れていない隣県だというのに、彩北や秋津一家が統べる大羽とは、ずいぶん土地柄が違う。

 ラーメン屋を後にすると、車中で朽木が補足してくれた。

「確か、弐桜組ってのはここいらで建築業もやってる連中だ。カタギの連中の中には、弐桜組がヤクザだって知らねえ奴らもいるんじゃねえか?」

「ああ…そういうことですか」

 地元住民にとっては、地元の名士が設けた休憩所、ぐらいの感覚なのかもしれない。さやかは、ラーメン屋の大将と弐桜組の巨石の話に、ようやく納得がいった。

 ――3トンの巨石なんて、非現実的な話だけど。

 歴史上の偉人と同じで、ヤクザの話にも大抵、伝説めかした尾鰭がつく。『弐桜組の巨石』は田舎らしい、牧歌的なエピソードだろう。

 そこで、さやかはふと窓の外を見つめた。

「朽木さん。この辺りで、一番早く開いてる書店はどこですか」

「ああ?てめえ、本屋なんか行ってどうするんだ」

 さやかは「地図を買います」と即答した。

「地元の詳しい地図を見れば、万が一、朱雀組と遭遇しても、彼らが思いつかないような抜け道に出られるかもしれません。朱雀組から来ているのは、大半がよその人ですから」

「ほう。だが、そんな悠長なことを言ってていいのか?」

 恋人である鳴子を青龍会に連れ去られた朽木の焦りは、もっともだ。

 さやかだって、一刻も早く鳴子の元に駆け付けたいが、だからこそ慎重に行かなければならない。

「本当は、駅の売店で買えれば一番手っ取り早かったんですけど…恐らく、駅は朱雀組が真っ先に目をつけています。ついでに、本屋さんでこの車を捨てて行きましょう」

「この車捨てて、その先はどうするんだ?また人の車を盗むのか?」

「変に警察と騒ぎを起こせば、それこそ朱雀組に見つかってしまいます。ここは、タクシーで行きましょう」

「タクシー?」

 意外な選択肢に目を丸くする朽木に、さやかは頷いた。

「お金はありますから、タクシーで行けるところまで行きましょう。運転手に聞かれたら、僕はあなたの恋人のナッちゃんで、あなたは僕の恋人のタカぴょん、ということにします」

「ナッちゃんと、タカぴょん……」

 絶句する朽木の肩を、さやかはポンと叩いた。

「さあ、急ぎますよ、タカぴょん」



 白虎組の組員及び関係者は、それぞれ避難していたホテルや旅館から引き揚げ始めた。

 白虎組と秋津一家、朱雀組の三者による同盟が成立し、柘植によって買い上げられたシマの土地は返還された。破壊された組事務所も、柘植の肝煎りで再建される約束になっている。

 不安げだった組員たちにも活気が戻り、若頭・榊原としても、ようやく一安心――のはずだったが。

「何度来ても無駄よ、淑恵さん。私は若頭と別れる気なんてないわ」

「そう。私も、響子さんが頷くまでは引き下がるつもりはないわ」

 キャンドルホテルのラウンジで、妻・淑恵と愛人・響子が、再び対峙してしまった。

 榊原も半ば、2人に引きずられる形で呼び出された。泣く子も黙る白虎組の若頭という地位も、女たちの前では意味を成さないようだ。

 ――よりによってこんな時に、ケンカなんかしないでくれよ。

 という内心の本音は、もちろん、口には出せない。それを言ってしまえば、自分の優柔不断が情けなくなるのが、分かり切っているからだ。

 榊原、淑恵、響子。緊張する三者の間で、テーブルに置かれたコーヒーがどんどん冷えていくようだった。

「朱雀組の5代目に買い上げられた響子さんのお部屋は、無事に戻ってきたんでしょう?どうかしら。この機に、マンションの名義を響子さんのものに書き換えるのは」

 ねえ、忍さん、と淑恵に言われ、榊原は「えっ?」と目を丸くした。

「それって…響子に、完全にマンションを譲るってことか」

「そうよ。元々、忍さんだってそのつもりだったんでしょう?」

 淑恵は、夫から愛人に目線を移した。

「忍さんの愛人を続けていれば、また、白虎組の揉め事に巻き込まれることがあるかもしれないわ。あの部屋は差し上げるから、響子さんは自由になってちょうだい」

 平然と大胆なことを言ってのける淑恵に、榊原はぎょっとした。

 ――淑恵は、いつの間にそんなことを考えていたんだ?

 榊原が何か言う前に、響子が「嫌よ」と鋭い声を上げた。

「あの部屋は若頭が私にくれたものよ。淑恵さんにどうこうする権利はないわ」

 ねえ、若頭、と響子に言われ、榊原は「ああ…」と曖昧に頷いた。

 響子は、うっとりと瞳を輝かせながら言った。

「お店で話しているだけじゃ物足りないから、2人で会える場所が欲しいって。私、若頭がそうおっしゃってくれた時、すごく嬉しかった」

「…………」

 淑恵の冷ややかな眼差しを、直視できない。榊原は、いたずらにラウンジの照明を見上げるばかりだった。

 たっぷり沈黙を置いて、淑恵は「そう」と言った。

「それなら、話を変えるわ。響子さん、いくらお支払いすれば忍さんと別れてくれるの?」

「おい、よせよ、淑恵」

 いきなり即物的な話を始めた淑恵に、榊原は目を白黒させた。

 ――淑恵が金の話をするなんて、悪い冗談だ。

 代々国会議員を務める灘家の娘として、淑恵は東京の一等地にある大邸宅で生まれた。都会の悪い風に当たらぬように、と彩北にある聖天女子校に進学してからも、財布を自分で触ったことすらないような、温室育ちの令嬢だった。

 その淑恵が、愛人に手切れ金の話など持ちかけている。夫である榊原のほうが、居たたまれなかった。

 響子は、低く抑えつけたような声で言った。

「…足元を見られたものね。私、お金目当てで若頭と付き合っていたんじゃないのよ」

「あら、そう?だったら、あのマンションは引き払えばいいじゃない」

 挑発するような淑恵の言葉に、響子が柳眉を逆立てた。

「今はその話はしていないじゃない!」

「響子さんと忍さんじゃ、住む世界が違うって言ってるのよ!」

 ついに、淑恵と響子は席から立ち上がり、言い合いを始めてしまった。二人とも、普段は大声などめったに出さない大人しい女なだけに、榊原は別人を見ているような気分だった。

 ――どうして、こんなことになっちまったんだ……。

 男同士のケンカなら、殴ってでも止められるが――自分を愛する女2人の諍いとなると、榊原にはどうしたらいいか、皆目見当がつかなかった。

 そこに、カツカツカツと神経質な靴音が迫った。

「おやめなさい、淑恵さん、響子!」

「…霜田!」

 そこに現れたのは、グレーの三つ揃いのスーツもどこかくたびれて見える男――白虎組若頭補佐・霜田だった。

 霜田の登場に、淑恵も響子もハッとした。

「こんなところで罵り合いなど、恥ずかしくはないのですか。白虎組の若頭の寵愛を受けていながら、全くもってみっともない」

 背の低い霜田は、淑恵や響子とちょうど目線が合う。

 霜田の睥睨に、女2人は項垂れた。

 ――霜田…。

 大学時代からの後輩は、とことん頼もしい。女たちに挟まれて小さくなっていた榊原は、百の味方を得た気分だった。

「でも…」

 どうしても引き下がれない淑恵が、おずおずと口を開いた。

「もしまた何かあったら、私たちじゃ響子さんを守り切れないわ。今が、忍さんと別れるいいタイミングだと思うの」

「守っていただかなくて結構です。若頭の傍にいられるなら、私の身なんてどうなってもいいわ」

 響子は響子で、これまた一歩も退く気がない。榊原は、聞いていて生きた心地がしなかった。

 ――淑恵も響子も、頼むからいがみ合わないでくれよ…。

「淑恵さん、響子…」

 再び一触即発となった女2人に、霜田が眼鏡の奥の瞳をカッと見開いた。

「今はそんな、下らないことで争っている時ではありません!これを見なさい!」

 そう言うと、霜田はスーツのジャケットを脱ぎ、シャツの片側をはだけた。

 霜田の肩に浮かぶ、赤黒い痣――。

 その大きさと生々しさに、反論しようとした女2人は言葉を失った。

「霜田さん、そのお怪我は…」

 呆然と問う淑恵に、霜田はささっとシャツを着ながら答えた。

「…秋津一家との抗争の後、私は朱雀組に囚われの身となっていました」

「じゃあ、その時に…?」

「男として、補佐として、当然の務めです。若頭のためなら、痛くも痒くもありません」

 絶句する女2人に、霜田は畳みかけた。

「麻雀小町…夏目さやかが、青龍会に拉致されました」

「ええっ!?」

「夏目さんが、青龍会に…!?」

 淑恵も響子も、さやかとは親しい。二人の顔がさあっと蒼褪めた。

「今、白虎組は非常に、非常に厳しい状況にあります。組長が入院された今、この難局を潜り抜けられるかどうかは、若頭にかかっています」

「……」

「それなのにあなた方ときたら、自分のことしか考えず、口汚く言い争うなどと…ご覧なさい、若頭も呆れていらっしゃる!」

「いや、俺は…」

 榊原が何か言うより先に、淑恵が頭を下げていた。

「ごめんなさい、忍さん。霜田さんのおっしゃる通りだわ」

「淑恵…」

「今が一番、あなたにとって大変な時なのに…妻失格です。ごめんなさい」

 また、響子も「すみません、若頭」と謝った。

「若頭を困らせたかったわけじゃないんです」

「響子…」

「自分の立場をわきまえず、つまらない意地を張ってしまいました。私の処遇は、若頭にお任せします」

 しおらしくなった女2人に、榊原はちょっと気まずくなった。

 ――霜田の奴、淑恵と響子を仲裁してくれたのはいいが、ちょっと嘘を混ぜすぎじゃないか?

 霜田の肩の痣は、朱雀組の拷問によるものではない。朽木がさやかのいるホテル『桜寿閣』に侵入するのを手伝い、肩車してやった際にできたものだ。

 また、さやかが青龍会に拉致された、というのも誇張だ。実際にはさやかをさらったのは朽木で、恋人の救出のために青龍会に向かっているらしい。

 女2人を騙しておきながら、霜田は悪びれる素振りもない。踏ん反り返った姿勢のまま、響子に向き直った。

「響子。お前は、淑恵さんについていなさい」

「は……えっ?」

 霜田の提案に、響子のみならず、榊原も淑恵も、二の句が継げなくなった。

 霜田は、びしっと偉そうに響子を指差した。

「淑恵さんが無事にお産できるよう、響子が淑恵さんのお世話をしなさい!」

「ええっ!?どうして、私が…」

 面食らう響子に、霜田は滔々と説明した。

「若頭の愛人ということは、すなわち、奥様の部下も同然。これからはマンションがどうだの、チンケなことで争うのではなく、二人で手を取り合って、若頭をお支えするのです」

 思ってもみなかった提案に、響子は目を瞬かせている。

 ――私が……淑恵さんと手を取り合う?

 戸惑っている響子に対し、淑恵は、覚悟を決めたように目を閉じた。

「…分かりました。よろしくお願いします、響子さん」

「淑恵さん…!?でも、私…」

「私の傍にいれば、忍さんとも一緒にいられるわ。響子さんにとっても、悪い話ではないのじゃなくって?」

 淑恵に微笑みかけられ、響子は、困ったように俯くことしかできなかった。

 一番泡を食ったのは、榊原だった。

「おい、霜田。響子に淑恵の世話をさせようなんて、お前、何考えて……」

 という榊原の話は、甲高い叫び声によって遮られた。

「パパーーーーーーーーっ!!!」

「美佐緒!」

 ラウンジへと猛突進してきたのは、霜田の元妻――美佐緒だった。

 毛皮のコートに身を包み、華奢な身体をめいっぱいに伸ばして、美佐緒がぴょーんと跳躍した。

「会いたかったわ、パパ!ずうっと心配してたんだから!」

「よ、よしなさい、こんなところで!今は、真面目な話をしている最中ですよ!」

「何よっ、妻よりも大事なものがこの世にあるっていうの!?」

 美佐緒はぎゅうっと霜田に抱き付き、長い睫毛に珠のような涙を浮かべた。

「ああ、良かった。あたし、パパが都会の怖いヤクザたちに殺されたんじゃないかって、毎晩悪夢にうなされてたんだから……」

 そう言う美佐緒は、小柄な身体がさらに小さく見えて――響子は、先ほどの霜田の提案にも、一理あるように思えてきた。

 ――極道の女でいるってことは、こういうことなのよね…。

 朱雀組によってケガをさせられた霜田も、その霜田を心底、案じながら待ち続けた美佐緒も――2人の姿は、響子に足りなかったものが何かを教えているかのようだった。

 ――若頭の愛情を求めているだけじゃ、子供と同じだわ。私は、若頭のためにできることをしなきゃ……。

 脳裏をよぎるのは、雨の中、倒れるまで闘い続けた源の姿だった。

 負けても、最後まで死力を尽くした源は立派だったと、響子は思う。

 ――私も、源さんに恥じないように……。

 霜田が、指先でぐいっと眼鏡を押し上げた。

「悪夢にうなされていたということは、毎晩グースカ寝コケていたということじゃないですか。何が心配してた、ですか、白々しい」

「霜田、照れ隠しならもっと優しいこと言えよ」

「榊原さんの言う通りよ!もう、今日はパパにくっついて離れないんだからっ!」

 霜田たちの他愛無いやり取りを見ていたら、自然と、響子の頬に笑みが浮かんでいた。

「ふふ…」

「ふふっ…あっ」

 たまたま、淑恵とタイミングが合ってしまった。

 笑い声が重なるなんて、仲の良い友達みたいだ。響子は、ちょっと気まずくなった。

 ――パパの言う通りにはするけど、若頭を譲る気はないわ。淑恵さんとは、敵同士よ。

「………」

 そんな響子の戸惑いを、受け入れるように淑恵が微笑む。響子もまた、ほんの少しだけ、唇を緩めた。



 正午が近付き、日を受けた日本海が白く煌めく。

 海沿いの道を走るモーリス・マイナーで、男3人が話を詰めていた。

「ジェントル秋津が、さやかとロリコン伯爵を引き合わせたって……それ、ホントっスか?」

「ホントっス」

 嵐の質問に冗談っぽく答えてから、冬枝の険しい目つきをバックミラー越しに認めたミノルは苦笑した。

「…こんな裏事情を、会ったばかりの君たちに話すわけにはいかないでしょう?悪意があって黙っていたわけではありませんよ」

 ミノルの目線に含みを感じた冬枝は、ホテル『桜寿閣』での会話を思い出した。

「僕には、イサオお兄さんが殺された事件の記憶がありません」

「…なんだって?」

「当日だけでなく、どうやら事件前後の記憶も抜けているようです。恐らく、事件に関することをほとんど忘れてしまっています」

 ミノルは、自分がさやかと柘植を引き合わせたことを、今やっと思い出したのだろう。

 それはつまり、さやかと柘植の出会いが、秋津イサオ殺害事件に関係していることを意味する。

 ――せっかく思い出せたんなら、慎重に話を聞いたほうがいい。

 冬枝は、疑問をミノルにぶつけた。

「お前、去年にもうさやかと会ってたのか?」

「…いえ。これでも朱雀組の最高顧問ですから、去年までは大金を賭けた勝負で全国を飛び回っていました。イサオお兄さんから、さやかさんのお話は聞いていましたが、本人と顔を合わせたことはありませんでした」

 イサオからさやかが高校3年生だと聞いたミノルは、さやかが柘植の死んだ娘と同年齢だということに気付き、さやかを柘植との会合に連れて行くよう提案した。

 渋いものでも口にしたかのように、嵐が顔をしかめた。

「ジェントル秋津、悪趣味じゃないっスか?」

「君の批判はごもっとも。ですが当時、イサオお兄さんと5代目を和解させることが、僕にとっては最優先でした」

 東北という遠い田舎から成り上がった秋津イサオのことを、疎ましく思う者は多かった。当時、朱雀組の若頭だった柘植もその一人だ。

 イサオと柘植の因縁は深く、週刊誌でも頻繁に取り上げられていた。

「朱雀組の先々代……3代目は、イサオお兄さんに命じて先代の若頭を粛清させました。いわば、イサオお兄さんは、その功で4代目になれたようなもの。ですが、その先代の若頭というのが、5代目の後ろ盾だったんです」

 つまり、朱雀組の3代目と若頭の対立が、そのまま4代目のイサオと柘植に持ち越されたわけだ。兄貴分を討ったイサオに対する柘植の憎しみは深かった。

 おまけに、イサオと柘植の対立に、青龍会まで絡んできた。

 ミノルは、不意に声を潜めた。

「ここだけの話、イサオお兄さんは青龍会との同盟を考えていました」

「青龍会との同盟!?朱雀組が!?」

 とんでもない話に、嵐のみならず、冬枝もくわえていたタバコを落としそうになった。

 ――この国を二分するヤクザ同士が、手を組もうとしていた…!?

 青龍会・朱雀組共に、好景気の波に乗り、日本中の金とヤクザを吸収し、その規模を膨らませ続けている。覇道を競う両者が手を取り合う理由など、どこにあるというのか。

 ミノルは、眉間に指を添えた。

「僕も正直、青龍会と手を組むというのには驚きましたが……イサオお兄さんには、強いこだわりがあるようでした。もう青龍会と争う時代ではない、こちらが頭を垂れてでも青龍会と協力すべきだ、と何度も説かれました」

「殺された4代目には、青龍会以上に脅威とみなす何かがあったってことか?」

 そこで冬枝は、春先にさやかをさらった『ブルー・ワイバーン』の若者が口にした言葉を思い出した。

「イキがっていられるのも今のうちだぞ。早くしないと、あいつらが来る」

 朱雀組なんかものの数じゃない、とも若者は言っていた。

 この国トップの青龍会を後ろ盾にする若者が、そこまで恐れていたものとは一体何だったのか。

 そこで、ずっと黙っていた運転席の栗林が口を開いた。

「あの、ミノルさん」

「どうしました?栗林」

「この間、うちの父が言ってたんですけど…」

 そこでミノルは、栗林が秋津四兄弟の姉・秋津アカネの息子であることを冬枝と嵐に明かした。

「えーっ!?マロン林って、ジェントル秋津の甥っ子だったんだ。似てないねえ!」

「よく言われます…」

「甥っ子にしちゃ、年が行き過ぎてねえか?」

 嵐と冬枝が口々に失礼な感想を言うので、栗林は反応に困っている。

 年の近い叔父さんとして、ミノルが助け舟を出した。

「僕とアカネお姉さんは、16歳も年が離れていましたから。栗林が生まれたのは、僕が9歳の時です」

「ひえーっ。それじゃ、叔父さんと甥っ子っていうより、兄弟みたいなもんっスね」

「そういうこと。じゃ、話を戻しましょうか」

 ミノルに促され、栗林は父・栗林ノボルから聞いたことを話した。

「父が昔、母から聞いたそうなんですけど…母は、4代目についてこう言っていたらしいんです」

 ――イサオは、戦争で何かおっかねえものを見た。だから、あいつは変わっちまったんだ。

 アカネは、そうぼそりと呟いたという。

 戦地からイサオが戻って来た時、弟たちは誰もがイサオの無事の帰還を喜んだ。だが、姉であるアカネだけは、イサオの変化に気付いていたのだ。

「イサオお兄さんが…」

 ミノルはぽつりと呟き、それからしばらく考えるように沈黙した。

 若き日のイサオが、戦争で見た『脅威』。それが、イサオを青龍会との和解に向かわせたのかもしれない。

「………」

 冬枝と嵐もつられて考え込んでいたが、冬枝はハッと我に返った。

「いや、今は死んだ4代目のことは後回しだ。さやかとロリコン伯爵は、それからどうなったんだ」

「あ、ああ、そうだった。ジェントル秋津、さやかをロリコン伯爵のコンパニオンにして、4代目からギャラたっぷりもらったんですか?」

 嵐に茶化され、考えに耽っていたミノルもふと目線を上げた。

「…そうでした、さやかさんのことでしたね。コンパニオンといっても、5代目はあのご気性ですから…さやかさんにやましいことをさせるつもりはありませんでした。さやかさんにはいわば、座敷わらしのような役割を果たしてもらえれば、と」

「座敷わらし…」

 とことん女扱いされないさやかが、冬枝はちょっと気の毒なような、安心したような、複雑な心境になった。

 実際、さやかは『座敷わらし』として、イサオと柘植の仲立ちに一役買ったらしい。

「詳しいことは僕も知りませんが、とにかく、さやかさんが間に入ることで、イサオお兄さんと5代目の関係はかなり良好になりました。それでも、青龍会に対する5代目の意見を変えることは難しかった」

「そりゃ、娘の仇と手を組めったって、無理な相談でしょ」

 柘植を『ロリコン伯爵』と呼んで憚らない嵐だが、柘植の過去には同情したらしい。

 ミノルの続きを、冬枝が引き取った。

「それで、秋津イサオは自分のせがれを青龍会に潜り込ませたことを柘植に明かしたのか」

「その通り」

 冬枝とミノルのやり取りに、運転席の栗林が驚いて振り返った。

「えぇっ!?ミノルさん、それってまさか…」

「ああ、栗林は初耳でしたね。大羽では、ユタカの名前はタブーでしたから」

 秋津ユタカ――青龍会四天王・桃華組組長。

 秋津イサオの一人息子でありながら、秋津一家から離反し、青龍会四天王となった男。

 反逆者であるユタカの名前は、大羽においては絶対に言ってはいけない禁忌とされていた。

「イサオお兄さんが秋津一家の跡目をユタカではなくタケル兄さんに譲ったという下地がありますから、ユタカの離反は割とあっさり、大羽の人間に信じられました」

 さらっと軽く言ってのけたミノルに対し、栗林は動揺を隠せない。

「あっさりって……俺たち若手からみれば、十分、衝撃的でしたよ。ユタカさんは俺たち世代のエースで、秋津一家の次期総長だって、誰もが思ってたんですから」

「ああ、栗林はユタカと仲が良かったですからねえ、それはショックだったでしょう」

 栗林とユタカはともに秋津兄弟の血を引くいとこ同士で、年も近い。

 空手が強く、人望の篤かったユタカは、誰もが認めるイサオの後継者だった。そんなユタカが秋津一家を裏切って青龍会についたのは、まさに青天の霹靂だった。

「だって、ユタカさんとイサオさんはすごく仲の良い父子で……イサオさんはユタカさんのことを目に入れても痛くないぐらい可愛がっていたし、ユタカさんもパパ、パパってすごく懐いていたから…あのお二人がケンカ別れしたなんて、ビックリしましたよ」

「えっ?桃華組の組長って、ファザコンなの?」

 嵐のツッコミに応答する者は、誰もいなかった。

 死んだアカネが秋津四兄弟の結束のシンボルなら、裏切り者のユタカは秋津一家の汚点だった。だが――。

「じゃあ、ユタカさんが青龍会に入ったのは、狂言ってことですか…?」

 栗林の問いに、ミノルは頷いた。

「10年前…イサオお兄さんは、青龍会への潜入という密命を、一人息子のユタカに下しました。僕も非常に驚きましたし、危険すぎると反対しましたが」

 青龍会を内側から潰すため、ユタカをスパイとして青龍会に送り込む。バレれば命はない作戦だったが、ユタカは承諾した。

「敵を騙すにはまず味方から、ということで、ユタカには裏切り者の汚名を着てもらうことになりました。ユタカが叔父との後継者争いに敗れ、秋津一家を離反した、という筋書きを、疑う者はいませんでした」

 秋津イサオ・秋津ユタカ父子の成り行きを聞いて、嵐が「でもさあ」と疑問の声を上げた。

「ミイラ取りがミイラになっちまったりしない?」

「それは、ユタカが青龍会に取り込まれてしまうのでは、という意味でしょうか」

「んだって、そのユタカちゃんが率いる桃華組は、青龍会きっての女さらいで有名じゃないっスか。現に、俺たちの街からも女たちをかっさらっていった。さやかのことだって、ナルシー源を使ってしつこく狙ってる」

 源の名前が出て、冬枝の横顔に影が差した。

 ――源さんが、そう簡単にさやかを諦めるわけがねえ。

 あの大羽での秋津タケルとの死闘で、源は大敗を喫した。にも関わらずあっさり復活し、昨夜また、秋津タケル・米倉薫と激突したという。

 途中で源は逃走したらしいが、冬枝は、つくづく源の不死身っぷりを見せつけられた気分だった。

 ミノルは、シートに頭をもたせかけた。

「ユタカは、そんなに弱い男じゃありませんよ、ああ見えて」

「叔父さんのひいき目じゃねえの?」

「桃華組に連れて行かれたのは、いずれも家や学校に居場所のない、訳ありの少女たちです。彼女たちに安心できる住まいと仕事を与え、健全な社会貢献をさせることが、桃華組の目的です」

「うそでー。そんなの建前で、ホントは不健全なことさせてるんじゃねぇの?」

 嵐は胡散臭そうに言ったが、ミノルは淡々と続けた。

「健全な商売だからこそ、桃華組は成長できたのです。警察から目をつけられるようなことは一切していませんし、モモカショップの運営や商品開発には、少女たちのアイディアもたくさん生かされています。最近じゃ、フィリピンや中国など、海外にも新店舗を開くことが決まって、大忙しだそうですよ」

 そこでミノルは、ユタカには姉が3人いる、という話をした。

「カグラお義姉さん…ユタカの母親をはじめ、ユタカは女ばかりの家庭で育ちました。それも、末っ子だから大層可愛がられて。だからこそ、ユタカは不遇の少女たちを見過ごせなかったのです」

 桃華組がさらわなければ、少女たちはいずれも、家や学校のしがらみにがんじがらめに縛られて、大人たちの提示する選択肢の中でしか、生きることを許されなかっただろう。それがたとえ、しきたりという名のどんなに理不尽なものであったとしても。

「ユタカは案外、キューピッドのような役割も果たしているんですよ?ユタカが秋津一家を離反する際、若い組員たちを連れて行ったのですが…彼らが、桃華組で働く女の子たちと恋に落ちる例が非常に多いとか。必然、女の子の寿退職が後を絶たないものだから、桃華組ではいつも可愛いアルバイトを募集中だそうです。ああ、ユタカ自身も、花嫁募集中だそうですが」

「ふーん」

 ミノルの長い説明を聞いても、嵐は半信半疑という顔つきだった。

 冬枝自身、秋津ユタカ率いる桃華組が善だろうが悪だろうが、どうでも良かったが――ひとつだけ、腑に落ちたことがあった。

 ――源さんはきっと、秋津ユタカを見込んで桃華組についたんだ。

 女を大事にする秋津ユタカのやり方は、源の信条と一致する。まして、若い女子だらけの組なんて、源にとっては天職に違いない。

「………」

 栗林は複雑そうな表情でミノルの話を聞いていたが――すぐに、ハンドルを握る手に力を込めた。

 モーリス・マイナーは、玉榧の街を真っ直ぐに進んで行った。



 街にある小さな書店の前で、さやかはガイドブックを顔の前に広げて読んでいた。

「勉強熱心だな、てめぇは」

 タクシーを待つ時間も惜しいとばかりに買ったばかりのガイドブックを読み込むさやかに、朽木が呆れ気味に言った。

「………」

 地図に目を走らせていたさやかは、地元の名所を紹介するページにふと目を留めた。

「旧酒匂邸……これか」

 地元の有力な豪農だった酒匂氏の邸宅で、今は一般開放されている――などと、ガイドブックには当たり障りのない説明しか載っていなかったが、恐らくこれがラーメン屋の大将が言っていた弐桜組の組長の元邸宅だろう。

 ここからそう遠くない場所にあるが、今はこんな観光地に立ち寄っている暇はない。さやかがページをめくったところで、タクシーが目の前に停まった。

 アベックから奪った車は、近くにあるスーパーの駐車場に乗り捨ててきた。さやかと朽木は、タクシーに乗り込んだ。

 隣県にあるモーテルまで、と言ったさやかに運転手は目を丸くしていたが、金なら払うと朽木が言うと、納得して車を発進させた。

 ――タクシーなら、朱雀組からも怪しまれない。このまま、行けるところまで行く。

 鳴子のいる東京は、依然として遠い。はやる気持ちをおさえて、さやかはガイドブックを広げた。

 街をしばらく走った頃、運転手に声をかけられた。

「お客さんたち、観光ですか」

 お決まりの質問に、さやかはにっこり笑顔で答えた。

「はい。今日はここで美味しいラーメンを食べたので、明日は向こうでお城巡りでもしようかなって。ね、タカぴょん?」

 さやかが露骨な猫撫で声で言ったので、朽木は少々顔を引きつらせながらも、話を合わせた。

「あ、ああ。この辺はいいところだよな、飯も酒もうまいし」

「そう言ってもらえると、すごく嬉しいですよ。この仕事をしている甲斐があるってもんだ」

 ニコニコと笑った運転手から、次の瞬間、ぞっとするほど低い声が出された。

「まさか、こんなところで白虎組の代打ちに会えるなんて。本当に、この仕事をしていて良かった」

「………!」

 さやかと朽木に、緊張が走った。

 ――しまった!朱雀組の追手か……!

 柘植は既に、玉榧中のヤクザにさやかと朽木を指名手配しているだろう。タクシーなら安全、と油断したのが命取りだった。

 この場をどう切り抜けるか、と忙しく頭を働かせ始めたさやかに、運転手が意外なことを言った。

「あんたら、白虎組の冬枝誠二と夏目さやかだろ」

「は……えっ?」

 片方は大正解だが、もう片方は大間違いである。さやかと朽木は、思わず顔を見合わせた。

 ――どうして、冬枝さんの名前が出てくるんだ?

 ひょっとして、運転手は朱雀組の追手ではないのだろうか。さやかは、おずおずと運転手に尋ねた。

「あの、あなたは…?」

「自己紹介がまだだったな。俺は蒜上ってんだ。四篠組の親分をやってる」

「四篠組って……」

 四篠組は、弐桜組同様、旧桜桃組の分家の一つだ。それは分かったが、さやかはまだ状況が飲み込めない。

 さやかたちの戸惑い顔をどう解釈したのか、運転手――蒜上は、自身の身の上を打ち明けた。

「親分っつっても、四篠組はほとんど俺一人でやってる組でよ。こうしてタクシーの運転手でもしねえと、金が足りねえんだ」

「はあ…」

「今の玉榧は、旧桜桃組の中でも一番勢いがあった壱散組と弐桜組の取り合い状態だ。四篠組の組員もほとんど壱散組と弐桜組に奪われちまって、ままならねえ」

 どうやら、バラバラになっていた旧桜桃組も、四者の中で雌雄がつきつつあるらしい。時代の流れに、この蒜上という男は抗っているようだ。

「今日は、弐桜組とでかい勝負がある。あっちは凄腕の女雀士を抱えているそうだが、うちには俺しかいねえ。そこでだ、夏…」

「分かりました。打ちましょう」

 瞬時に話を理解したさやかは、即座に請け負っていた。

 ――玉榧の凄腕の女雀士なんて、こんな機会がなきゃ二度と打てないぞ!

 闘志を燃やすさやかに、朽木が「おい」と腕を引っ張った。

「こんなくたばり損ないの親父に義理立てする必要なんかねえだろ。メイちゃんを助けに行くのを忘れるんじゃねえ」

 ぼそぼそとさやかに耳打ちする朽木に、さやかも声を潜めて答えた。

「どっちにしろ、今の僕たちに拒否権はありませんよ。万が一、ここで蒜上さんを怒らせれば、朱雀組に通報される恐れだってある」

「うっ…」

「ピンチはチャンスに変えるのが、僕のやり方です。…ねえ、蒜上さん」

 さやかが声を上げると、蒜上が「ん?」と振り返った。

「僕も白虎組の代打ちですから、タダで引き受けるわけにはいきません。勝負を受けるにあたって、一つ、条件があります」

「なんだ。生憎、金ならねえぞ」

 渋い表情の蒜上に、さやかは首を横に振った。

「報酬は結構です。それより、勝負が終わったら、僕たちを隣県の縫琴まで送り届けてもらえませんか」

「なんだ、そんなことか。別に構わねえが」

 蒜上があっさり承諾したのを見て、さやかは確信した。

 ――この人の元には、柘植さんからの連絡が届いていない。

 恐らく、朱雀組は勢力の強い壱散組と弐桜組にしか声をかけていないのだろう。ほぼ堅気に成り下がった四篠組は、数に入らなかったというわけだ。

 とにかく、これで縫琴までの足を確保できた。さやかと朽木、そして四篠組の蒜上は、車中で作戦会議を始めた。



「ただいま戻りました」

 高根が春野家の立て付けの悪い引き戸をガラガラと開けると、中から「おかえりー」と土井の間延びした声に迎えられた。

 続けて、この家の主――の妻、春野鈴子が、甲斐甲斐しく高根のバッグを持ってくれた。

「高根君、お疲れ様。どう?アパートには戻れそう?」

「はい。お陰様で、ようやく手続きが終わりました」

 朱雀組5代目・柘植雅嗣に買い上げられた白虎組の土地・家屋は返還されたものの、細々とした手続きにはそれぞれ本人が足を運ばねばならなかった。

 高根もまた、土井と借りているアパートが戻ってきたので、大家と契約の更新などの手続きをしてきたところだ。

 高根は、我が家とばかりに春野家の狭い居間でくつろいでいる土井を見下ろした。

「本当は、土井も一緒に来なきゃいけないんだぞ。お前、ハンコだけ俺に寄越して、あとは丸投げなんだから」

「オレはほら、ここで鈴子さんを守ってるのが仕事だから。ねー、鈴子さん」

 ずうずうしい土井の物言いにも、鈴子は笑ってくれた。

「頼りないけど、いないよりはマシかしらね。高根君も土井君も、いつまでもうちに居たっていいのよ。どうせ、しばらく嵐は帰って来ないでしょうから」

 鈴子の夫・嵐は、青龍会にさらわれた鳴子と、その鳴子を助けに向かったさやかを追って、冬枝と共に東京へ向かった。

 狭い春野家の壁中に貼られた写真を見れば、高根たちにも、鈴子と鳴子の姉妹仲が良かったことは伝わってくる。気丈に振る舞ってはいても、鈴子を一人でこの家に残して行くのは、高根も心配ではあった。

 そこで、キッチンからピーッと電子音が聴こえてきた。

「そうだわ、昨日作った大学芋の余りをチンしてたところなの。高根君も食べて」

「あ、はい。いただきます」

 キッチンへと向かう鈴子は、後ろ姿だけでも女っぽい。気さくなうえに美人でスタイル抜群で、こんな人のところに居候していていいのだろうか、と高根は後ろめたくなるぐらいだ。

 ――比べちゃ悪いけど、さやかさんは女って感じが全然しないな…。

 いや、さやかだって、黙っていれば美少女なのだ。面食いの冬枝が目をつけるだけあって、大きな瞳と白い肌、つんと澄ました表情に清潔感があり、すらりと細い肢体だってそれなりに魅力的だ。

 だが、高根も土井も、出会った時からさやかのことを異性として意識したことがない。

 ――なにせ、さやかさんは『こまち』で450万も巻き上げてたから。

 青龍会の女スパイか、さもなきゃ麻雀マシーンか、といった第一印象のさやかだったが、冬枝の代打ちとして日が経つにつれ、高根たちの中のイメージも変わっていった。

 朝は弱くて赤ちゃん言葉だったり、冬枝から昼飯の天ぷらを分けてもらっていたり、ソファでグースカ昼寝していたり…。

 そうしたさやかの素顔を見ていくうちに、高根たちも、『東京から来た女の子』に対する気負いが自然と消えていった。

 さやかはただ、麻雀が好き過ぎる、真面目で普通の女の子だった。そうと分かってからは、高根も土井もあっという間にさやかと打ち解けた。

 冬枝の帰りが遅い夜などは、3人でテレビを見て笑い合うこともあった。さやかはクイズ番組が得意で、どんな問題にも正解するものだから、高根も土井もさやかのことを「さやか先生」とふざけて呼んだりした。

 ――さやかさんとつるんでると、なんか、きょうだいみたいで楽しいんだよな。

 また、さやかの登場で、却って冬枝と男3人で一緒にいるのが新鮮になった。さやかの麻雀が長引いている時などは、冬枝が高根と土井を外食に連れ出してくれることもあった。

 普段は行かないようなちょっといい店で、男3人でステーキを頬張っていると、笑い声が絶えなかった。

「さやかには内緒だぞ、お前ら」

「はい!」

 冬枝は、高根たちより年下で、女のさやかを代打ちとして迎えたことで気を遣ったのかもしれない。冬枝が自分たちのことを考えてくれたのが、高根は嬉しかった。

 他にも、さやかには新しいテレビを買ってやったから、と言って、冬枝は高根たちにも新しい炊飯器と洗濯機をプレゼントしてくれた。

「こんなにもらえませんよ、兄貴。来月の生活費が足りなくなるんじゃありませんか」

 うっかりストレートに言ってしまった高根に、冬枝が「バカ野郎」と背中を叩いた。

「お前らには、さやかの面倒も見てもらってるだろ。これは日頃の礼だ」

 こんなに優しい兄貴分がいるヤクザなんて、自分たちぐらいじゃないだろうか――高根は、本気でそう思う。

 ――さやかさんが来てから、兄貴は明るくなった気がする。

 元々冬枝は面倒見が良かったが、さやかを迎えてからは、より世話焼きになった。きっと、何だかんだでさやかと一緒に暮らすのが楽しいのだろう、と高根は思う。

「さやかさんといる時の兄貴ってさあ、なんかいいよね」

 少し前、土井がそんな風に言っていたのを思い出す。

 さやかと笑っている冬枝は、夜の店で女と飲んでいる時のようないやらしい笑みではなく――瞳の奥に優しさを湛えた、大人の男の雰囲気に包まれていた。

 さやかもまた、冬枝の前だと、プライドの高い麻雀狂いの顔ではなく、ただただ健気で一途な少女の面差しに変わる。

 傍目にも仲の良い2人の傍にいると、高根たちの胸も温かくなった。2人が結婚したら、お赤飯でも炊こうぜ、なんて、土井と軽口を叩いたものだ。

 ――兄貴、さやかさん、無事に帰って来てください。

 冬枝とさやかが、朱雀組だの青龍会だの、強欲で危険な集団の思惑で引き裂かれるなんて、絶対にあってはならない。

 そう祈りながら、高根は鈴子が温めてくれた大学芋に箸をつけた。



 午前0時――。

 今夜の賭場は、玉榧の郊外にある旧酒匂家邸宅――あの『弐桜組の巨石』がある場所だった。

 広い庭は灯籠で照らされ、色づいた木々の血のような紅さが夜目にも分かる。

 さやかと朽木は、庭を望む渡り廊下で今夜の勝負相手と対面した。

「酒匂だ。弐桜組直参、酒匂組の3代目をやってる」

 そう名乗った男――酒匂は、組長とは言いながらも、まだ30絡みの若さに見える。

 さやかは、この邸宅と酒匂の経歴を何となく理解した。

 ――多分、酒匂家がこの辺りの有力地主として君臨していたのは、もう遠い昔、この人のお祖父さんぐらいの話なんじゃないかな…。

 こんなに立派な邸宅を手放し、入場料を取って休憩所にしているのが、いい証拠だ。今の酒匂家は、昔の権威だけで食いつないでいるのだろう。

 さやかが気になったのは、酒匂の隣にいる女――実質的な対戦相手である、噂の女雀士のほうだった。

「房子だ。女だが、麻雀では男顔負けの腕前の持ち主だ。うちの組の千両箱だぞ」

「よろしく、お嬢ちゃん」

 房子は高く上げた前髪から、気の強そうな眼差しをキラリと光らせた。年齢は、酒匂より少し若いぐらいだろうか。ほとんど痣のように濃いアイシャドウと、ペンキで塗ったくったかのような濃い口紅のせいで、美人なのか年増なのか、よく分からない。

「夏目です。よろしくお願いします」

 とさやかが言い終わらないうちに、酒匂が大きな声で言った。

「おたくは白虎組じゃ麻雀小町だなんだ、と持て囃されてるらしいが、今夜でその看板も封印することになるぞ」

「はあ」

「房子はな、おたくとは代打ちとしての歴が違うんだよ。なあ、房子」

 酒匂に言われ、房子はマニキュアで真っ赤な爪をブラウスの胸に食い込ませた。

「そうよ。あたしはね、親の借金のカタに12の時に酒匂組に売られたんだ」

「はあ」

「それから20年以上、血の滲むような想いで麻雀を打ってきた。男たちからバカにされ、殴られ、時には身を削りながら、必死でこの世界を渡ってきたんだよ。世間知らずのお嬢ちゃんには、分からないかもしれないけどね」

「はあ」

 さやかの生返事をどう受け取ったのか、房子は自身のブラウスに手をかけた。

「これを見な!」

 あらわになった房子の背中には、刺青と思しき真っ赤な絵が描かれていた。

 銀色に光るツノに、こちらを睨む大きな目玉。房子のふくよかな背中いっぱいに、大きな赤鬼が牙を剝いている。

 ――なんか、なまはげみたい。

 さやかは至ってドライな感想を抱いていたのだが、房子はここぞとばかりに熱弁をふるった。

「この刺青はねえ、あたしがまだ14の時に無理やり、背中に彫られたんだよ。痛さと悔しさで、毎日泣きながら過ごしたものさ」

「はあ」

「だけど、この刺青が、あたしを鬼に変えるのさ。お前の骨まで食らい尽くす、麻雀の鬼にね!」

 乳房を揺らして高らかに宣言した房子に対し、さやかはどんどん闘志が冷えていった。

 ――この人たち、麻雀勝負のたびにこんなお芝居してるのかな…。

 はっきり言って、房子の経歴も背中の刺青も、嘘臭い。冬枝や源の背中に彫られた本物の刺青を見たさやかには、房子の背中にあるものがただの落書きにしか見えなかった。

 さやかの表情が曇ったのを、怖気づいたのだと房子と酒匂は勘違いしたらしい。勢いづいて、蒜上に食ってかかった。

「いいのかい?蒜上さん。こんなよそ者の女の子を代打ちにしたりして。ひ弱すぎて、牌も満足に握れないんじゃないのかい」

「そうだよ、おたくも情けないとは思わないのか?男の代打ちを雇う金もないなんて、哀れ過ぎて涙が出ちまうぜ。なんなら、そこのお嬢ちゃんへの代打ち料、俺が払ってやろうか?」

 増長する房子と酒匂を見て、さやかは呆れを通り越して、だんだん腹が立ってきた。

 ――自分たちのほうが下らない嘘を吐いている癖に、よく言えたもんだな…。

 さやかは、反論しようとした蒜上を遮って、前に出た。

「ここには、あの『弐桜組の巨石』があるんですよね」

「おお、そうだ。勝負までまだ時間があるし、特別に見せてやるよ」

 酒匂の案内で、さやかたちは庭に降りた。

 庭は一面に白い玉砂利が敷かれ、小さな池には鯉も泳ぎ、それなりに風情がある。

 その突き当たりに、忽然と出現したのが、高さ2メートルはあろうかという『巨石』だった。

「でかいだろ?中国の遺跡に使われていたっていう石を、祖父が100億で買ったらしい」

「へえ」

 100億は誇張だな、とさやかは思ったが、口には出さなかった。

 丸みを帯びた巨石が、月明かりにぼんやりと浮かび上がる。酒匂家の歴史を見守ってきたためか、少しの風にはびくともしないような、堂々たる佇まいだ。

 巨石をしげしげと眺めるさやかに、酒匂が大威張りで解説した。

「重さは3トン。弐桜組の歴代の力自慢が挑んできたが、持ち上げられた人間はほとんどいなかったって話さ」

「あなたは?」

 さやかが水を向けると、酒匂はキザな仕草で肩をすくめた。

「まさか。親分ってのは、兵隊を上手く指揮して戦わせるのが仕事だろ?腕力よりコッチさ」

 得意げに頭をツンツンとつつく酒匂に、さやかは「そうですか」と言った。

「これ、僕も持ち上げてみていいですか」

 思ってもみなかったさやかの申し出に、酒匂と房子は揃って噴き出した。

「あはっ、おたくが?」

「いいよ、やってみなよ。頑張れー、麻雀小町ちゃーん」

 2人に囃し立てられながら、さやかは巨石の下のほうに手をかけた。

「うう…ん」

 さやかの華奢な腕では、巨石は微動だにしない。

 小さな身体にめいっぱい力を込めて巨石と組み合うさやかに、酒匂と房子は涙を流して笑った。

「ひい、もう勘弁してくれ。麻雀の前に、笑い死にしちまうぜ」

「ここは遊び場じゃないんだよ、お嬢ちゃん。良い子はお家に帰りな」

 だが、さやかは構わず巨石に手をかけ続け――。

 ズリッ……。

 やがて、地響きのような低い音が、酒匂と房子の耳に入った。

「えっ?」

「今のって…」

 仏像のように鎮座していた巨石が、少しずつだが動いている。酒匂と房子の顔から、笑みが消えた。

「おい、まさか…」

「嘘よ、何かの見間違いよ」

 そして、顔を真っ赤にしたさやかが、最後の力を振り絞った瞬間――。

「えーいっ!」

 さやかの腕に抱かれ、巨石が――パラパラと土をこぼしながら、ついに宙に浮いた。

 巨石を持ち上げたさやかを見て、酒匂も房子も驚愕した。

「ば、バカな!3トンだぞ!?」

「ありえないっ…!どうなってるのよ、あの女!」

 自分の身長より遥かに大きく、そして重い巨石を持ちながら、さやかは涼しい顔をしている。

「………」

 さやかはしばらく巨石を持ち上げて見せた後、ふう、と元の場所に戻した。

「…意外と軽かったですね。『弐桜組の巨石』」

 さやかが微笑みかけてみせると、呆気に取られていた房子がハッと我に返った。

「インチキだわ、こんなの!あたしにもやらせな!」

「ええ、どうぞ」

 さやかの横を憤然と通り抜け、房子が巨石に挑みかかった。

「ぐうっ…!何よこれ、本当に重いじゃない…!」

 房子はしばらく巨石の下に指を入れたり、横を抱えたり、と悪戦苦闘したが、力尽きて巨石の前にしゃがみ込んだ。

「ダメだ…。あたしには持てない」

「一体どうなってるんだ、こりゃ」

 困惑する酒匂と房子に、さやかは「簡単なことですよ」と言った。

「聞いたことがありませんか?嘘つきには重くて持てないけれど、正直者は軽々と持ち上げることができる石、って」

「何っ!?」

「どういう意味よ、それ!」

 逆上している時点で、嘘をついてますと認めているようなものじゃないか、とさやかは思った。

「…先生も、学校で生徒たちに教えませんでしたか?嘘はついちゃいけませんって」

「な…」

 房子の真っ赤な唇が、いびつな形に強張った。

 さやかは、房子のアイシャドウまみれの目をじっと覗き込んだ。

「開比峰子先生。玉榧第二小学校の先生で、担当教科は国語。夜はキャバレー『マリン』でホステスとして働いていた。好きなお酒はバーボンの水割り、タバコはセーラム」

「ど……どうして、あんたがそれを」

 さやかは「さっきの大演説です」と答えた。

「房子さんの発音はとても正確で、聞き取りやすかった。それは、あなたが元教師だから」

「そ…そんなことだけで、どうしてあたしがその…開比峰子って女だって分かるのさ!あたしは12の年からヤクザと働いてる、背中に刺青だって…!」

 まだ嘘を並べ立てようとする房子に、さやかは憐れみの目を向けた。

「あなたより、僕のほうが代打ちとして上だからです」

「な……」

 房子の顔が、怒りで朱に染まった。

「バカにするんじゃないよ、小娘が!あたしはあんたなんかよりずーっと長い間、この世界で闘ってきたんだ!それこそ、この身体だって汚して…!」

 房子は真っ赤な唇を噛み、最後は、涙混じりの悲痛な声音を漏らした。

 だが、さやかは房子にいささかも同情する気が起こらなかった。

 ――この人にはもう、自分の言葉が嘘か本当かも分からなくなっているんだろう。

 同じ代打ちとして、房子に引導を渡すことが、さやかにできる唯一の優しさだ。

 さやかは、きっぱりと告げた。

「僕、処女ですけど。――この世界の麻雀で負けたことは、一度もありません」

 さやかの言葉に、房子は開いた口が塞がらなくなり――酒匂も、蒜上でさえも、何も言えなくなった。

 後はただ、庭の木々がさらさらと風に揺れる音だけが響いた。



 その夜の麻雀は、勝負にならなかった。

 酒匂と房子は、あのデタラメ話で相手の気勢を削ぎ、勝つのがセオリーだったのだろう。さやかの怪力を見せつけられたうえ、房子の正体を看破された後では、牌を握る手も弱々しかった。

 ――嘘って結局、ついた人間をダメにしちゃうんだよな。

 自分の実力ではないところで勝ってしまった、という偽りの成功体験が、どんどん勘を鈍らせる。嘘をついているという後ろめたさ、恥ずかしさも、自分の足を引っ張る。

 それは、さやか自身にも言えることだ。嘘をつくなら、本気でつかねばならない。

 弐桜組との勝負を終えた後、蒜上が用意してくれたお弁当を食べながら、さやかは朽木に礼を言った。

「ありがとうございます、朽木さん。朽木さんがいなかったら、あの作戦は成立しませんでした」

「ケッ、まったくだぜ。俺様に地べたを這いつくばらせやがって」

 そう言って、朽木はトレーナーについた土をパンパンと払った。

 ――弐桜組の巨石は、ただのハリボテだった。

 きっと、酒匂組が全盛期だった頃は、本当に3トンある巨石だったのだろう。だが、組が衰退し、懐が苦しくなるにあたって、邸宅のみならず、巨石も手放すことになった。

 地元の名門である酒匂家が、そのシンボルである巨石を売却した、などと公にすることはできない。そこで、巨石によく似たハリボテを作り、素知らぬ顔で庭に置いた、というわけだ。

 それを教えてくれたのは、蒜上だった。

「俺たち世代のヤクザなら、皆知ってることだ。知らねえのは、3代目のボンボンだけさ」

 というより、酒匂は信じたくないのかもしれない。自分に残されたものが、過去の栄光と、ハリボテの巨石だけだったなどと。

 それを知ったさやかは、酒匂たちの出鼻を挫くため、伝説の巨石を持ち上げてみせることにした。

「ラーメン屋の大将ですら持ち上げられなかったということは、ハリボテは強力な接着剤か何かで固定されているんでしょう。僕が酒匂たちの気を引き付けているうちに、朽木さんが接着剤を剥がしてください」

「俺がぁ!?」

 朽木は渋ったが、代打ちであるさやかが席を抜ければ怪しまれるし、腕力を考慮しても、朽木のほうが適任だ。

 さやかは文具店で買ったリムーバーを朽木に託し、更にもう一つ、指示を出した。

「朽木さんは、しばらくハリボテの中に入っててください」

「あぁ!?まだ指図すんのか、てめえ」

「恐らく、僕が巨石を持ち上げても、向こうは信じないでしょう。必ず、自分にもやらせろ、と言い出すはずです」

 そこで、朽木が重しになって、相手が巨石を持ち上げるのを妨害するのだ。背の高い朽木なら、大人の男でもそう簡単には持ち上げられまい。

 秋の夜の冷たい地面で格闘してくれた朽木の功績によって、今夜の作戦は見事、成功したのだった。

「それに、あちらの女代打ち…房子さんの正体も、朽木さんのお陰で見破ることができました。朽木さん様様です」

「ああ。まさか、あの女がこんなところで代打ちやってるとは思わなかったが」

 朽木がラーメン屋で語った「元女教師のホステス」こそ、今夜の対戦相手・房子だった。

 さやかは、房子の急所――嘘をついているという事実――を、偶然にも手にしたわけだ。今夜は、つくづく運が良かったと言わざるを得ない。

 蒜上は、自宅から持ってきた魔法瓶から緑茶を紙コップに注いだ。

「あんたらには、いくら礼を言っても足りねえや。こんな弁当じゃなくて、ちゃんとした飯をご馳走したいところだが」

 蒜上の厚意はありがたかったが、さやかは丁重に辞退した。

「僕たち、ここのお弁当屋さんの焼き鮭弁当がどうしても食べたかったんです。ねえ?」

「…ああ」

 朱雀組に追われているから飲食店には行けない、という事情を、蒜上に明かすわけにはいかない。朽木と二人、タクシーの狭い車中で仲良く、冷えた弁当をもそもそと食べた。

 運転席からさやかと朽木を見守りながら、蒜上は窓の外を見上げた。

「本当にありがとう、お嬢ちゃんたち。これで、俺も心置きなく弐桜組に行けるよ」

「えっ…。蒜上さん、弐桜組に入っちゃうんですか?」

「おいおい、俺様たちの努力を無駄にすんのか」

 勢力を拡げる弐桜組に抵抗するべく、蒜上は酒匂たちと勝負したのではなかったのか。

 疑問顔のさやかたちに、蒜上は照れ臭そうに鼻の頭をこすった。

「俺ももう年だしよ、一人で意地張ってるのもそろそろ潮時じゃねえか。ただ、老いぼれが弐桜組に尻尾振って入った、とは思われたくなかったんだよ。これも、つまらねえ見栄だけどな」

「蒜上さん…」

 四篠組は、最後まで心意気を見せた。弐桜組に屈服したわけではないのだと、蒜上は示したかったのだろう。

「あんたら、朱雀組から追われてるんだってな」

 蒜上から不意に言われ、さやかは、頭から思いっきり冷水を浴びせられた気分になった。

「…知ってたんですか、僕たちのこと」

「おう。事情はよく知らねえが、朱雀組の5代目があんたらを追ってるって、うちにファックスが来てた」

「オッサン、命が惜しけりゃ…」

 と言って懐から拳銃を出そうとした朽木を、蒜上が両手で制した。

「落ち着け。朱雀組に告げ口するなんて、野暮なことしねえよ」

「本当か?どうせ、朱雀組は俺様たちに法外な懸賞金をかけてるんだろ」

 柘植さんならそうしてるだろうな、とさやかも思った。

 蒜上は「そりゃ、金はもらえりゃ嬉しいけどよ」と正直に言った。

「酒匂たちも言ってたが、俺だってよその組の、それも若い女の子を代打ちにして勝ったなんて、情けなくて人様に言えねえんだよ。今夜のことは、俺たちだけの秘密にする」

「つまり、朱雀組に僕たちを明け渡したら、今夜のことがバレちゃうから言わない、ってことですか」

「おう」

 蒜上の照れ笑いに、さやかは頷いた。

「分かりました。僕は、蒜上さんを信じます」

「おい、いいのかよ、麻雀小町」

 袖を引っ張る朽木に、さやかは説明した。

「どのみち、僕たち2人だけでは、朱雀組から逃げ切るのは不可能です。協力者が必要です」

「そりゃそうだが…」

「よろしくお願いします、蒜上さん」

「おう、任せときな。俺がついてりゃ、よそ者なんかに見つかりゃしねえよ」

 その後、蒜上の気遣いで、蒜上の親戚の車を借りて縫琴まで行くことになった。タクシーでは、手配されたら一発アウトだからだ。

 車に『老人介護施設 そよぎ』というロゴが入っているのを見て、さやかは苦笑した。

「確かに、この車なら怪しまれることはなさそうですね」

「親戚は堅気でよ。施設の車を新調するっていうんで、この車は好きに使っていいそうだ」

 ガソリンスタンドで満タンまで給油し、さやかたちは玉榧を出発した。



 冬枝たちが旧酒匂家邸宅に着いた時、そこには消沈する2人の男女しかいなかった。

「こんばんは。僕は、こういう者です」

 ミノルが朱雀組最高顧問の名刺を出すと、2人――酒匂組組長・酒匂と女代打ち・房子は、あっさり事情を打ち明けた。

「そうだ。ついさっきまで、四篠組の蒜上と、白虎組の女代打ちと打ってたよ。こっちが負けちまったがな」

 肩を落とす酒匂に、房子が髪を振り乱しながら顔を上げた。

「なんだい、あたしのせいだって言うのかい!」

「うるせえな、あんなガキ一匹潰せねえくせに偉そうにするんじゃねえ!背中の刺青だってお前、『ブラウスに絵の具がついてますよ』なんて言われてたじゃねえか!」

「だまらっしゃい!あんたこそ、あの女にビビってたじゃないか!」

 この様子から察するに、2人が相対したのは間違いなくさやかだ。冬枝は、ほとほと呆れた。

 ――あいつ、こんな時まで麻雀勝負かよ…。

 怒りが収まらないのか、房子がダンッと床を殴った。

「何よ、あの女!処女なんて絶対ウソよ!この世界にいて、生娘でいるなんて絶対にありえないんだから!」

 房子の金切り声に、男たちはシーンとなってしまった。

「………」

 一拍置いて、嵐とミノルがニヤニヤと冬枝を見た。

「なんだよ、てめえら」

「別に。ねえ、嵐君?」

「ええ。ダンディ冬枝が、とっても真面目で誠実なおじさんだって言われてんだからねえ、うん」

「何が言いたいんだ、てめえらはっ!」

 冬枝は言い争う酒匂と房子の肩を上から掴み、自分に向き直らせた。

「おい。さやかと朽木は、どこに行ったんだ」

「さあな。てっきり、蒜上のジイさんが朱雀組に突き出すんだと思ってたよ。あのジイさん、金には困ってるだろうからな」

 そこで、酒匂は遠い目をして庭を見つめた。

「白虎組の女代打ちには、度肝を抜かれたよ。まさか、3トンの石を持ち上げる化け物だったなんてな」

「3トン?」

「さやかが?」

 さやかが、3トンの巨石を持ち上げた――。

 それは、本当に冬枝たちが知っている夏目さやかの話なのだろうか。冬枝と嵐は、思わず顔を見合わせてしまった。

「さやかって、実は脱ぐとムキムキだったりします?ペチャパイじゃなくて、あれ全部筋肉だった?」

「んなわけあるか!3トン持ち上げるなんて、クレーン車じゃあるまいし」

「その巨石とやら、拝見することはできますか?」

 ミノルは、さやかが持ち上げたという『弐桜組の巨石』に好奇心を刺激されたらしい。

「なんだ、あんたらも腕試しがしたいのか?好きにしろよ」

 ミノルが朱雀組の幹部ということもあり、酒匂は大人しく案内してくれた。

 巨石は、庭の一角にでんと鎮座していた。闇夜にぼうっと浮かぶ姿は、いびつな満月のようだ。

 嵐は自分の背丈と巨石を比べて、口笛を吹いた。

「ほー。ホントにでっけえ石」

「こんなもん、何に使うんだよ。がっこでも漬けんのか」

「漬物石にするには、いささか大きすぎる気がしますが」

「………」

 巨石を囲んで好き勝手な感想を口にするおじさん3人に、酒匂は警戒心を持ったらしい。巨石を持ち上げてみようとしたミノルを、「待て!」と制した。

「やっぱり、その石には触らないでくれ」

「おや。なぜですか?」

「………」

 ミノルの問いに、酒匂は何も言えずに目を泳がせた。

 それを見て、ミノルは全てを察した。

 ――やはり、この巨石は見掛け倒しですか。

 玉榧の事情は、ミノルも把握している。かつては弐桜組の組長を務めた酒匂家が没落し、今や傘下の組の一つに過ぎなくなったことも。

 本物の巨石はとっくの昔に売り飛ばされ、今はただ、小遣い稼ぎのためにこの邸宅の目玉として置かれるハリボテに成り下がったのだろう。だから、さやかの細腕でも持ち上げることができたのだ。

 酒匂自身、巨石がハリボテだと薄々察しているに違いない。だが、栄えある先代たちが残したものがハリボテだったなどと、ミノルたちに暴かれたくはないのだ。

 興味本位で見てみただけだし、ここはデリケートな酒匂をそっとしておこう。そう思ってミノルが引き下がろうとした矢先、房子が金切り声を上げた。

「何よ、そんなもの!どうせ、あのずる賢い女がイカサマしたんだ!」

「房子、お前まだ言ってんのか」

 酒匂は呆れ気味に宥めたが、房子はその手を振り払った。

「代打ちの世界はね、あんな子供がやっていけるような甘いもんじゃないんだよ!あの女が処女だってのも、絶対ホラ吹いてんのよ!お高くとまってたけど、裏じゃ、あちこちの男とやりまくってるに決まってる!」

 房子の叫びが真夜中の庭にこだました、次の瞬間――。

 スパーン!

 月光を反射し、一瞬だけ白い軌跡を目に焼き付けた後――巨石が、ガラガラと瓦礫になって崩れ落ちていった。

 チン、と冬枝が刀を鞘に収める音で、一同はハッと我に返った。

「なんだ、ただのガラクタじゃねえか。ホラ吹いてんのはどっちだ、あぁ?」

 冬枝の冷たい声に、房子は、蒼白になって酒匂の肩にしがみついた。

「きょ…巨石が…『弐桜組の巨石』が……」

 バラバラになった巨石と、冬枝の剣幕に、酒匂がへなへなと膝をついた。

「ダンディ冬枝、いつの間に刀なんか持って来たの?」

「気が短いですねえ、冬枝君は」

 嵐とミノルが呆れたが、冬枝は相手にしなかった。

 ――こいつらをスパーッと血祭りに上げなかっただけ、褒めて欲しいぜ。

 それに、さやかがイカサマをして巨石を持ち上げたのは事実だろう。タネは分からないが、これで証拠は残るまい。

 酒匂は、わなわなと震えながら冬枝を睨み付けた。

「100億の巨石だぞ。どうしてくれるんだ」

「えっ、100億!?」

 かっこつけていた冬枝は、思わぬ高額に声が裏返った。

 ――やべえ、何も考えずに斬っちまった!

 ミノルは、冷静に巨石――正しくはハリボテだが――の残骸を見下ろした。

「100億は言い過ぎでしょう。せいぜい1億ぐらいかと」

「それでも高ぇぞ!おい、立て替えておいてくれねえか、お兄ちゃん」

「こんな時だけ、兄貴分扱いですか」

「ダンディ冬枝、かっこ悪~い」

 ミノルはやれやれと溜息を吐き、嵐はくねくねと腰を振った。

「ひとまず、その蒜上って奴の行方を追うぞ」

 ぎゃあぎゃあ喚いている酒匂と房子を残し、冬枝たちは旧酒匂家邸宅を後にした。

 何はともあれ、さやかたちとは行き違いになってしまった。冬枝たちは、再びモーリス・マイナーに乗り込んだ。



 一方、さやかたちを乗せた車は、真夜中の自動車道を休みなく走っていた。

 目的地は玉榧の隣県、南北に長い地形の縫琴である。運転席の蒜上が言った。

「あそこはとにかく厄介な土地だ。気を付けろよ」

「と、言いますと?」

 さやかの問いに、朽木が口を開いた。

「玉榧の桜桃組が四つに分裂したのも、元はと言えば縫琴の八百眼組との抗争が原因だ。だろ?オッサン」

「ああ。古いことなのに、よく知ってるな」

 その昔、玉榧の桜桃組と縫琴の八百眼組が、県境で激突。双方、総員を挙げての、血みどろの大合戦だったという。

 決戦があった浜辺は、組員の血で海が赤く染まったとか、夜になると組員の幽霊が出るとか、今でもいわくつきの場所として恐れられている。

 桜桃組が今の分裂状態に陥ったのは、この決戦での敗北によるものだ。玉榧の縄張りこそ守れたものの、多くの主要幹部を失い、組の求心力が落ちた結果だ、と蒜上は語った。

 桜桃組を破った八百眼組は、今も第一勢力として縫琴の地を支配している。

「八百眼組は名門で、それこそ武士みたいな連中だ。古き良き時代のヤクザが、そのまんま生き残ってる」

 八百眼組は伝統を重んじ、組員一人一人が毎晩、刀の手入れを欠かさないという。さやかや房子のような女代打ちなど、絶対に受け入れないような組だと蒜上は言った。

 つまり、酒匂と房子に仕掛けたような小細工は、八百眼組には通用しない。さやかは、気を引き締めた。

「八百眼組には出くわさないよう、避けて通るしかありませんね」

「それがいい。本当は、縫琴でも俺が走ってやれればいいんだが」

 蒜上の気遣いに、さやかは首を横に振った。

「蒜上さんには、十分協力してもらいました。縫琴は、僕たちが自分の力で潜り抜けます」

 縫琴に着くまで、まだ時間がある。これからに備えて、さやかは瞳を閉じた。

 ――ここはまだ、通過点。待っていてくださいね、鳴子さん…。

 言葉とは裏腹に、冬枝の顔が瞼の裏に浮かぶ。さやかは、逃げるように眠りへと落ちていった。


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