58話 血路をひらけ!真夜中の死闘
第58話 血路をひらけ!真夜中の死闘
朽木貴彦は、東京の富裕な家に生まれた。
家の庭には、母親が育てる色とりどりのバラが咲き誇っていた。朽木は遊びきれないほどの玩具や絵本を与えられ、何不自由のない生活をしていた。
幸福な少年時代は、父親が交通事故で亡くなったことで終わりを告げた。
母親は自宅を売り払い、朽木を連れて東京を離れた。彩北に転校した朽木を待っていたのは、地元の子供たちからの『東京者』に対するひがみとイジメだった。
――こんな田舎、俺だって来たくて来たわけじゃねえ。
傷付いた朽木に追い打ちをかけたのは、母親の男関係だった。
朽木の知らない男が、我が物顔で朽木たちの暮らすアパートに出入りしている。しかも、どうやら母と男は、父との結婚前からの付き合いらしい。
それに気付いた時、朽木は、父親が夜の国道でガードレールに突っ込んで死んだ理由を悟った。
――女なんか、身勝手なバケモンだ。
その上、母は寡婦になったにも関わらず、父の生前と変わらぬ贅沢三昧がやめられなかった。
悪化していく暮らし、母親への不信、学校でのイジメ――。朽木が不良になる材料は、揃いに揃っていた。
朽木は、中学校もほとんど行かず、街でケンカやかっぱらいを繰り返した。白虎組の榊原に目を留められ、組員になったのは18歳の時だ。
風間鳴子と出会ったのは、ヤクザになって数年が経った頃だった。
当時の朽木は、とにかく派手に車と女を乗り回していた。女たちを腕に抱き、金を与えて喜ばせることで、朽木は何かに勝ったような気がしていた。
腕力、それか金の力を見せつければ、尻尾を振ってついてくる。朽木にとって、女はその程度の生き物だった。
朽木の認識は、鳴子と出会ったことで変わった。
――メイちゃんは、お姫様だ。
遠い昔、子供の頃に読んだ絵本に出てきた、金色の王冠を被ったお姫様。どこまでも美しい世界からやって来た女、それが鳴子だった。
鳴子もまた、朽木のことを「王子様みたい」と言って慕ってくれた。
鳴子は、朽木が知っているどの女とも違った。純粋無垢な鳴子と一緒に過ごしていると、朽木の内側に染み付いた汚れが洗い流されていくようだった。
――メイちゃんといる時だけは、俺でも『王子様』になれるのかもしれねえ。
優しさ、愛情、人の温もり。朽木が今まで唾棄してきた全てを、鳴子の傍だと素直に信じられた。
と、そこまで話し終えた朽木は、助手席のさやかを見てギョッとした。
「泣いてんのか、麻雀小町」
「…すみません。僕、なんで泣いてるんだろう」
疲れてるのかな、と言いながら、さやかは指先で涙をぬぐった。
朽木の身の上話にもらい泣きするなんて、自分らしくない。そうは思っても、さやかは朽木と鳴子のラブストーリーに、自分を重ねてしまったのかもしれなかった。
――僕も、冬枝さんのおかげで世界の見え方が変わったから。
観察と分析でとことん『解』を突き詰めるさやかに対し、冬枝はけっこう直情型だ。短気は損気の見本のような男だが、さやかは、自分の意志に真っ直ぐな冬枝が好きだった。
さやかは今、ホテル『桜寿閣』の12階からロープで脱出し、朽木の運転するジャガーに乗っている。行き先は、朽木の恋人・鳴子が囚われている東京だ。
――こんな無茶してるのも、冬枝さんの影響かな?なんて、本人に言ったら、怒られるだろうけど。
朽木は、真夜中の国道に視線を戻した。
「名うての麻雀小町にも、人の心はあるみたいだな」
「そりゃ、人間ですから」
「冬枝はな、てめえと違って冷血だぞ。あいつにゃ人の心なんかありゃしねえ」
また、冬枝が先代組長の親衛隊『人斬り部隊』にいた頃の話か、とさやかは呆れたが、朽木が話し出したのは別の件だった。
「昔、東京の事務所にいた頃、メイちゃんに手鏡をもらったんだ。今でもポケットに入ってるんだが…」
朽木が片手でスーツのポケットを探ろうとしたので、さやかは「後でいいです」と制した。今は、運転に集中してもらいたい。
「まあ、俺も当時はちょっと浮かれてよ、ちょうど事務所にいた冬枝に自慢したんだ」
すると、冬枝は思いっきり蔑むような目付きをして、こう言ったのだという。
「何が手鏡だ、バカじゃねえのかてめえ。男がんなもんもらって喜んでどうする」
冬枝の言葉は、朽木と、鳴子からもらった大切な贈り物の双方を傷付けた。
それ以来、朽木は冬枝を憎むようになった。冬枝の弟分だった男の恋人にちょっかいをかけたのも、元はといえばそれが原因だ。
朽木から思わぬ因縁を明かされ、さやかは目を見張った。
「…確かに、それは冬枝さんが悪いですね」
「だろ!?あのオッサン、本当にデリカシーがねえな。きっと、今までろくな女と付き合って来なかったんだな」
「………」
朽木の話には誇張があるかもしれないが、昔の尖っていた冬枝ならありえる、とさやかは思った。自分より若い朽木が恋人からのプレゼントを自慢してきたものだから、軽い気持ちで水を差してしまったのかもしれない。
さやかがあっさり納得したものだから、朽木が訝しんだ。
「俺が言うのもなんだが、てめえ、冬枝の肩は持たねえのか」
「だって、冬枝さんってそういうところありますもん。口が悪いっていうか、無神経っていうか」
そう、この間も、とさやかは思い出した。
「冬枝さんがパチンコの景品でもらったって言って、お菓子をくれたんです。僕、ちょうど麻雀帰りでお腹が空いてたから、ありがたくいただいたんですけど…そしたら冬枝さん、『お前、もう一箱食っちまったのか。誰も取りゃしねえってのに、意地汚え奴だな』なんて言うんですよ!?ひどいと思いませんか?」
さやかの熱弁に対し、朽木の反応は冷めていた。
「それは、てめえが悪ぃ」
「えーっ!?朽木さん、冬枝さんの味方するんですか!?」
「俺様は一体、何の話を聞かされてるんだ…」
ハンドルに突っ伏す朽木の肩を、さやかは不満げにポカポカ叩いた。
冬枝と嵐が彩北に着いたのは、まだ夜も明けきらない深夜だった。
「行きは長く感じたが、こうしてみると案外大した距離じゃなかったんだな」
或いは、行きはさやかを柘植の手から取り戻せるかで気を揉んでいたから、長く感じたのかもしれない。
冬枝の感傷に対し、嵐はぼそっと現実的なコメントを述べた。
「…ジェントル秋津の地獄ジェットコースターのせいじゃないっスか」
「あ、ああ、そうだ、それもあったんだった……嫌なこと思い出させんなよ…」
ミノルの改造モーリス・マイナーで法定速度を無視したドライブをしたことは、思い出しても肝が冷える。
そのミノルは、冬枝たちには同行しなかった。
「さやかさんと5代目だけを残して行くのも心配ですから。ここは、僕に任せてください」
「ああ。頼んだ」
ミノルの『秘密』を知っている冬枝としては、ミノルにあの2人を任せて行くのは心配がないこともないのだが――マキの命がかかっている今、選択の余地はなかった。
冬枝たちは駅前で出迎えの組員と合流し、マキが監禁されているというパチンコ店に向かった。
「状況は?」
車のハンドルを握っているのは、白虎組若頭・榊原の親衛隊に属する男だ。
聡明な榊原に選ばれただけあって、冬枝の質問に対する返事も正確だった。
「膠着しています。『ブルー・ワイバーン』は総勢10人程度、こちらは20人が出張っていますが、何度か『ブルー・ワイバーン』による威嚇射撃がありました。若頭は汐見さんのお嬢さんの身の安全を考え、慎重に機を窺っています」
榊原らしいな、と冬枝は頷いた。
「奴らの目的はなんだ」
「金と車です。現金1億と、車を3台持って来いと要求してきました」
「1億ねえ。俺たちから巻き上げなくたって、てめえらで稼げるだろうに」
東京を根城にする『ブルー・ワイバーン』は、クラブの経営や麻薬の密売などで、ヤクザ顔負けのシノギを展開している。わざわざ、こんな田舎の組から金を搾り取る必要がどこにあるのだろうか。
「若頭も、『ブルー・ワイバーン』の狙いは別にあるのではないかとお考えです。例えば、夏目さんの身を狙っているのではないかと……」
つまり、マキを誘拐したのは白虎組に対する陽動作戦に過ぎず、奴らの本当の狙いは『夏目さやか』の奪取にあるのではないか、ということだ。
だからこそ、さやかの護衛である冬枝がさやかの元を離れてここまで来ていることに、榊原の部下は相当面食らっている様子だった。
冬枝とて、マキの誘拐が陽動である可能性を考えなかったわけではない。当惑顔の組員に、バックミラー越しに片目をつむった。
「さやかなら、朱雀組の連中がついてるから問題ねえよ。俺より頼もしいボディガードだってよ」
何より、マキの救出はさやか自身の願いだ。『ブルー・ワイバーン』の目的が何であれ、冬枝はこの無茶を通さなければならない。
――マキを助けて、さやかも守る。それしかねえ。
「………」
嵐は、無言で車窓の向こうを眺めていた。
やがて、車は目的地に着いた。
街灯もない暗闇に、体育館のような白い建物がぽつんと佇んでいる。店舗移転のために空き家となった、パチンコ店の抜け殻だ。
駐車場には組員たちの車が並び、緊張に肩を怒らせた男たちが店舗を取り囲んでいる。
冬枝が車から降りると、駐車場にいた榊原と汐見が出迎えた。
「冬枝。いいのか、さやかのほうは」
「あいつなら平気です。それより、人質の様子は」
冬枝は、顔面蒼白になっている汐見を見やった。いくら敏腕経営者でも、一人娘を凶悪な愚連隊にさらわれては、気が気ではないだろう。
「今のところ、マキちゃんは無事だ。ロープで縛られてはいるが、ケガはしてねえ」
「そうですか。連中との交渉はどうなってます」
連中は、金と車を要求していると聞いている。ホテルや旅館を経営する汐見グループなら簡単に用意できそうなものだが、状況に動きはない。
「それが奴ら、話を右に左に逸らして、まともに交渉をする気がないんだ。金は1億かと思ったら2億と言い出したり、車だけじゃなくバイクも用意しろと言い出したりで…」
「明らかに、時間稼ぎですね」
冬枝が言うと、榊原も「ああ」と頷いた。
「恐らく、『ブルー・ワイバーン』の狙いはさやかだ。だから冬枝、お前はさやかの元に戻れ」
「それは出来ません」
「どうして」
驚く榊原に、冬枝は真っ直ぐに答えた。
「何の罪もねえ16の女が、こんなところで不良どもにとっ捕まってていいもんですか。マキを助けねえ限り、俺はさやかのところには帰れません」
冬枝の言葉に、俯いていた汐見がハッと顔を上げた。
「冬枝さん…。お気持ちは有り難いですが、どうか、娘のことはお気遣いなく」
「ああ?何言ってんだ、あんた」
汐見は青ざめた額に、オールバックの髪を撫でつけながら言った。
「マキは我が汐見家の跡取りであり、そしてまた、いっぱしの不良少女です。こんなことぐらいで音を上げるような、ヤワな育て方はしていません。どうか、白虎組の大事な代打ちのほうを優先してください」
物言いこそ立派だったが、汐見の唇は震えている。
何か言おうとした冬枝を制し、榊原が割って入った。
「冬枝。マキちゃんを助け出せるか」
「榊原さんの許しさえもらえりゃ、すぐにでも」
「榊原さん、冬枝さん!」
悲鳴のような声を上げる汐見に、榊原が微笑みかけた。
「マキちゃんも、うちのさやかも、自分か相手のどちらかを犠牲にして助かろうなんて望んじゃいねえさ。こういう時こそ、男が頑張らないといけないんじゃねえのか」
「榊原さん…」
汐見は声を滲ませると、眼の端をそっとハンカチーフで押さえた。
「分かりました。私も行きます」
「よし。行くぞ、てめえら」
「はい」
「ふわーい」
ここまで向かう道中、ずっと欠伸を噛み殺してきた寝不足の弟分たちが頷いた。
「出撃だ!」
榊原の一声で、冬枝を先頭とする白虎組の組員たちが、一斉にパチンコ店へとなだれ込んだ。
遡ること数時間前――。
北の街から遠く離れた首都・東京。
大きく口を開けた真っ赤な夕空に、無数のビルディングが漆黒の牙のように鋭く並ぶ。
その一角にあるのが、若い少女に人気の雑貨店『MOMOKA SHOP』だ。
淡いピンク色のドアには『CLOSE』の札が下げられていた。
「手こずってるみたいだねぇ、お坊ちゃん」
閉店後の事務室で、青龍会四天王・水甕組組長、難波友和が横柄に足を組んだ。
相対しているのは、同じく青龍会四天王・桃華組組長――秋津ユタカだ。
「だから何だ。いちいち店まで来るんじゃない。そんなにキサマは暇なのか」
色白の顔を露骨に歪ませるユタカに対し、難波は酷薄そうな笑みを動かさない。
「事実を言ったまでだろ?自分から夏目さやかは任せろと言っておきながら、このザマだ。藤浪さんから、いつ夏目さやかを捕まえられるんだ、ってせっつかれたそうじゃないか」
藤浪は青龍会四天王の最年長であり、青龍会会長・海堂の右腕だ。藤浪の催促は、海堂の意志といってもいい。
ユタカはふんと言って目を逸らした。
「年寄りは気が短いんだ。急いては事を仕損じると言うだろう」
「あっれ~?そんなこと言っていいのかな。会長に言いつけちまうぜ?」
子供のようにふざけて指差す難波を、ユタカは鬱陶しそうに手で払った。
「ボクは藤浪のことを言ったんだ。キサマこそ、滅多なことを言うんじゃない。口は禍の元だぞ」
ユタカが脚を組み直すと、革張りのソファがギシッと軋んだ。
「相手はあの朱雀組だ。そうそう上手くいくわけがないだろう」
「いつになく弱気じゃないか、お坊ちゃん。ここは一つ、手を組まないか?」
「手を組むだと?ボクが?誰と?」
拒絶を意味するユタカの返事にも、難波は全く怯まない。
「うちの兵隊を貸してやるって言ってるんだよ。桃華組は田舎者と女ばっかりで、人手不足だろ?」
「断る。ヤンキーまがいのガキ共など貸されたところで、足手まといだ」
ユタカは一蹴したが、難波は笑みに暗い影を浮かべた。
「そう言うなって。お坊ちゃんとは歳も近いしさあ、仲良くしたいんだよ。万が一にもお坊ちゃんが会長から粛清なんかされちまったら俺、寂しくって死んじまうよ……」
難波が、ユタカの肩をポンポンと叩いた。
「こないだは、うちのタマミが世話になったな。これはほんの礼ってことで」
難波の馴れ馴れしい笑みから、ユタカは顔を背けた。
――汚らわしいハイエナめ。
この不愉快な会合から数時間後、ユタカはあの男に連絡を取った。
「つまり、『ブルー・ワイバーン』が俺の監視につくってことですね」
受話器の向こうから返ってきたのは、ユタカの右腕――源清司の落ち着き払った声だった。
ユタカは「そうだ」と言ってから、思いっきり怒鳴りつけた。
「もっと気合を入れんか、源!小娘一人にキサマがいつまでも手をこまねいているから、難波ごときに見張りをつけられるのだぞ!」
「面目次第もありません」
お経のように棒読みして、源はサービスエリアの公衆電話を出た。
駐車場では、爛々と光るライトを灯した無数のバイクがエンジンを唸らせている。
桃華組の応援と称してやって来た、『ブルー・ワイバーン』の別動隊だ。源は、小さくため息を吐いた。
――こんなガキ共にまとわりつかれたんじゃ、せっかくのデートが台無しだぜ。
だが、水甕組まで乗り出した以上、青龍会会長・海堂が焦れているのは確かだ。ここで源が――桃華組が出遅れれば、さやかの身柄はこのハイエナたちに奪われてしまう。
――女相手にこんなもの、使いたくはなかったが……。
源の手には、蒼い柄の煌めく日本刀が握られていた。
さやかと朽木は、ジャガーの中で作戦会議を立てていた。
「ここいらは何年か前まで、桜桃組っていうでかい組がまとめて治めてた土地だ。ところが、その桜桃組がよその組との抗争でほぼ壊滅した」
現在は、残った四つの分家が協同したり離れたり、を繰り返している状態だという。
問題なのは、と朽木が言った。
「本家筋の人間が、全員この世界から足を洗ったわけじゃねえ。旧桜桃組の連中の中には、俺たち白虎組と揉めていた奴らもいる」
「つまり、そういった因縁のある人たちに見つかっても、僕たちはアウトってことですね」
「ああ」
地元の事情がどうであれ、朱雀組5代目である柘植が直々に来訪した以上、この辺りのヤクザは皆、柘植の言いなりと考えていいだろう。
さやかは念のため、朽木に確認した。
「朽木さん。武器は持っていますか」
「誰が丸腰でメイちゃんを助けに行くかよ。チャカとナイフがある」
「そうですか」
さやかの意味ありげな沈黙に、朽木が眉をひそめた。
「てめえ、何考えてんだ」
「いえ。『ブルー・ワイバーン』は、マシンガンやバズーカも持っているような集団なので、朽木さんの持ってる武器だけだと心許ないかな、って」
「ああ?」
さやかの目線を追ってバックミラーを見上げた朽木は、目を見開いた。
「なんだ、ありゃ!暴走族か!?」
「『ブルー・ワイバーン』ですよ」
バックミラーに映っているのは、無数の光る獣の眼――『ブルー・ワイバーン』の若者たちが跨るバイクの群れだった。
バイクは整然とジャガーを包み込み、今や、朽木とさやかの進路を塞ごうとしている。
「あいつら、いつの間に…」
「ライトを点けずに、エンジンも控えめにしてついて来たんでしょう。誰にも気付かれずに事を遂げる、『ブルー・ワイバーン』の面目躍如ですね」
ドラゴンというよりヘビみたい、とさやかは嘆息した。
「呑気なこと言ってる場合か!どうすんだ、この状況」
朽木はバックミラーに忙しなく目を走らせると、ふと口元を弛緩させた。
「そうだ。てめえが『ブルー・ワイバーン』に捕まりゃ、メイちゃんと合流できるかもしれねえじゃねえか」
「それはありません。あの手の連中は、人質同士が結託して、反撃されることを出来るだけ避けます。鳴子さんが朱雀組のスパイだとバレている以上、僕と会わせようとはしないでしょう」
相変わらずおめでたい人ですね、というさやかの嫌味に、朽木が思いっきりハンドルを殴りつけた。
「じゃ、万事休すじゃねえか!」
「朽木さん。そうやってすぐヤケクソになるから、麻雀弱いんじゃないですか?」
「何!?」
さやかの言葉に呼応するように、朽木の耳にもそれが聞こえてきた。
ブオンブオンブオン――。
居並ぶ『ブルー・ワイバーン』のバイクを蹴散らし、身体の奥まで震えるような猛々しいエンジンの轟き。
秋津一家総長・秋津タケルのハーレーと、秋津一家元若頭・米倉薫のバイクが、モーゼのように『ブルー・ワイバーン』の群れを真っ二つに割っていた。
その背後に、場違いなほどに上品なモーリス・マイナーが付き従っているのを見て、さやかは軽く顔をしかめた。
――これはこれで、厄介なことになった。
野蛮な『ブルー・ワイバーン』の手に落ちるのもバッドエンドだが、タケルとミノルが相手では、さやかは成す術もなく柘植の元に連れ戻されてしまうだろう。
「朽木さん。これから、僕の指示に従ってもらえませんか」
さやかが言うと、朽木が片眉を上げた。
「あぁ?てめえ、自分の立場を忘れたのか。てめえはな、俺様がメイちゃんを助けるために連れて来た人質なんだ。利用される道具なんだぞ」
「朽木さんこそ、今の状況を分かってないんですか?青龍会と朱雀組、双方の標的である僕をさらった以上、どちらに捕まっても朽木さんはあの世行きです。勿論、鳴子さんも助けられません。それでもいいんですか?」
厳しい現実を突き付けられ、朽木は言葉を失った。
そこへ、さやかは更に畳みかけた。
「僕なら、鳴子さんの元に辿り着ける。或いは、僕を使えば、鳴子さんと交換する取り引きができる。そう考えたから、朽木さんは僕を連れ出したんじゃないんですか?」
さやかは、ジャガーと並走する『ブルー・ワイバーン』の群れと、それを威嚇するようにエンジンをかき鳴らすハーレーたちを見やった。
「僕も、朽木さんの出した解に賛成します。ただし、この解を実現させるには、今、この状況を突破しなければいけません。僕には、そのための道筋が見えています」
「…できんのか、てめえみたいな小娘に」
半信半疑といった顔つきの朽木に、さやかは自信たっぷりに答えた。
「僕を誰だと思ってるんですか?」
「胸の平べったい女」
「なっ…!だからっ、これは防弾チョッキを下に着けているせいで…!」
さやかが身を乗り出したところで、朽木が「うわっ!」と叫んでブレーキを切った。
ガクン、と反動で身体が前に倒れた後、顔を上げたさやかは目を見開いた。
「………!」
――ミノルさんに……源さん!
ジャガーの行く手に、深い紅色のモーリス・マイナーと、対をなす青いスカイラインが同時に立ちはだかった。
三つの車を、無数のバイクが取り囲む。ハンドルを握る朽木の手が、ギュウと音を立てた。
「どうすんだ、麻雀小町」
「…とりあえず、絶対に車から降りないでください。ハンドルも、離さないで」
「分かった」
さやかと朽木の目線の先で、モーリス・マイナーから秋津ミノルが、そしてスカイラインからは源清司が、戦場に降り立つところだった。
バン!
車のドアを閉める音が、夜空にこだまする。
秋津一家最高顧問・秋津ミノル――。
青龍会桃華組の懐刀・源清司――。
歴戦の猛者である両者の前では、『ブルー・ワイバーン』の荒くれたちでさえ、息をするのも憚るような緊張を強いられていた。
先に口を開いたのは、夜風に銀髪を靡かせる、秋津ミノルのほうだった。
「こんばんは、源清司君。こんなところで君と会うなんて、奇遇ですね」
「てめえの減らず口を聞いてる暇はねえ。帰りな、秋津のお坊ちゃん」
対する源は、開口一番、手にしていた刀をミノルに向けた。キラリと閃く刀身は、月よりもなお白い。
ミノルはたじろぐこともなく、微笑を浮かべたまま言った。
「『秋津のお坊ちゃん』…ですか。僕ではなく、君のボスがそう呼ばれるべきでしょうね」
「……」
源の眉が、かすかに動く。
ミノルは、眼鏡の奥の蘇芳色の瞳を開いた。
「ユタカが青龍会の四天王にまで登り詰めたのも、君の力があればこそです。叔父として、礼を言っておきますよ」
「若頭の名を気安く呼ぶんじゃねえ。次は首が飛ぶぜ、秋津の魔法使い」
源が、ミノルの鼻先に刀を突き付けた。
ミノルの背後にいた栗林が、ハッと息を呑む。
ガッ!
ミノルは、源の刀を素手で掴んだ。
源の蒼く冷たい眼差しと、ミノルの蘇芳色の眼が――正面からぶつかり合う。
「気安いのはどっちだい?青龍会の飼い犬君」
「てめえ……」
ミノルはもう片方の手を、停止したジャガーに向けた。
「大羽じゃ散々、好き勝手してくれたじゃないか。生憎だけれど、僕のガールフレンドは君のように脂ぎったおじさんとデートする気はないってよ」
ミノルの不敵な発言に、源は鼻から息を抜いた。
「そうか。だが、てめえらみたいな田舎者に扱える女じゃないぜ、麻雀小町は」
「おやおや。そんなこと、僕の弟が聞いたら激怒するでしょうね」
元の口調に戻ったミノルに、源が口角を上げた。
「てめえに弟なんかいたか?」
「最近、できたんですよ。冬枝誠二っていう、ひねくれ者の弟が」
源は、口をつぐんだ。かつて、冬枝の兄貴分として白虎組で身体を張っていたのは、源自身だ。
――だが、もうあの頃とは違う。
「青龍会に対抗するために、秋津一家と白虎組が手を組んだか。小物同士で助け合うとは、涙ぐましいな」
源の皮肉にも、ミノルは笑みを絶やさない。
「僕たちには、守るべきシマがあります。君のような根無し草とは違うということです」
ミノルは、挑発するように手を差し出した。
「おいで、青龍会の飼い犬君。遊んでやるよ」
「若頭の叔父貴だからって、手加減しないぜ」
言うや否や、源の刀が、眼にも止まらぬ速度でミノルに迫った。
「ミノルさん!」
栗林の悲鳴と共に、夜空に血飛沫が舞った。
「いちいちうるさいよ、栗林。見せ物じゃないんだ」
辛うじて飛び退ったミノルだったが、その手からはだらりと血が流れている。みるみるうちに、シャツの袖が朱に染まっていった。
バン!
ミノルの血に反応したのは、栗林だけではなかった。車の扉が開く音に続いて、女の声が響いた。
「源さん!」
さやかが、ジャガーから降りて駆け出した。
長身の源と、銀髪のミノル。2人の間に、さやかが割って入った。
「さやか。俺の女になる気になったか?」
口調は冗談めかしていても、源の目は笑っていない。刀の切っ先は、さやかのすぐ傍にあった。
「………」
さやかはミノルと源を交互に見やると、苦渋の表情でうなだれた。
「……潮時みたいですね」
「さやかさん」
ミノルが声をかけたが、さやかは力なく首を横に振った。
「ミノルさんに手を出されては、お手上げです。この通り」
さやかは、両手をぎこちなく掲げた。緊張のためか、指が丸まっている。
源が、ゆっくりとさやかに近付いた――その時だった。
カッ!
ヘッドライトが輝き、源、さやか、ミノルを、真昼のように照らし出す。
両眼を爛々と光らせたジャガーが、3人めがけて突進してきた。
「!」
一瞬の出来事に、源もミノルも不意を衝かれたが――長年の勘で、反射的にジャガーを避けた。
2人の間にできた空白地帯、その中心にいるさやかめがけてジャガーが突っ込む。
あっと周囲にいた男たちが叫んだが、誰も反応できなかった。
ドン!
鈍い音を立てて、さやかの身体がジャガーのボンネットに乗り上げた。
ジャガーはそのまま、さやかを乗せて猛然と走り去ってしまった。
「はねられた…」
「夏目さやかが、車に…」
呆気に取られる男たちの間から、そんな呟きが洩れる。目の前で展開された衝撃的な場面に、強面の男たちもどうしていいか分からないようだ。
そこへ、トドメと言わんばかりに、ジャガーから小さな筒状の物体が放り投げられた。
――発煙筒!
白い煙が噴き上がり、あっという間にジャガーの後ろ姿を隠す。さやかとジャガーの接触に不意をつかれたこともあり、男たちはあっさりジャガーを見失ってしまった。
その中で、ミノルと源だけは、状況を正確に把握していた。
――さやかさんは、わざと車に乗り上げた。
恐らく、事前に朽木と打ち合わせていたのだろう。さやかはミノル、源、周囲の男たちの注目を一身に引き付け、油断させた上で、一芝居打ったのだ。
――手の中に、何か握り込んでいましたね。
不自然な降参のポーズは、手の内に吸盤か何かを隠していたのだろう。さやかは突進してきたジャガーにひらりと飛び乗り、吸盤でボンネットに貼り付いたのだ。
一歩間違えれば、さやかは本当にジャガーにはねられて大怪我をしていた。全ては、源とミノルをまくために、さやかが捻り出した急場の策だったのだろう。
――君の度胸には、ヤクザも裸足で逃げ出しますよ。さやかさん…。
感嘆するミノルの横で、源はさっさと刀を鞘に納めていた。
「おや?どこへ行くんですか、源君」
「答える義理はねえ。俺の目的は一つだ」
しかし、そう言う源の行く手を、2人の男が遮った。
「ここは通さねえぞ、源」
そう吠えたのは、秋津一家の元若頭・米倉薫だ。その隣には、秋津一家総長・秋津タケルが構えている。
2人の背後では『ブルー・ワイバーン』の若者たちが、うめき声を上げながら屍の山と化していた。
源は眉根を寄せた。
「また来たか。懲りねえ奴らだな」
「悪いことは言わん。退け、源」
タケルの申し出を、源はハッと低い声で笑い飛ばした。
「そのセリフ、そっくりそのままお返しするぜ。秋津の山猿」
「てめえっ…!」
いきり立つ米倉の鼻先に、源の刀が光った。
「生憎だが、田舎臭え男相手にセオリーを守るつもりはねえ。本気で殺る」
「いいだろう。かかってこい」
源の刀が閃き、タケルと米倉の拳が飛ぶ。真夜中の決闘は、まだ終わりそうになかった。
バイクと車ですっかり通行止めになった路上で、ミノルは一人、遠い国道の向こうを見据えた。
――さて、僕の可愛い弟は、うまくやってくれたでしょうか……。
がらんどうの真っ暗なパチンコ店に、乾いた風が吹き抜ける。
数十人はいたであろう『ブルー・ワイバーン』の若者たちは、白虎組によって瞬く間に制圧されていた。
特に、先陣を切る冬枝の闘いぶりの凄まじさは、間近で見ていた高根と土井が蒼褪めるほどだった。
「兄貴、ホントに一回で7人ぐらい圧してたね。伸びすぎた草でも刈るみたいに、右に左にサーッて」
あの重たい日本刀を、冬枝は片手で振り回した。しかも、暗闇の中だったというのに、敵のほうが刀に吸い寄せられているかのようだった。
土井の言葉に、高根もうんうんと頷く。
「兄貴に倒された奴らのうめき声、耳に残りそうだ。血が出てる様子はなかったから、多分、峰打ちで骨を砕かれたんだろうな」
悶絶して転がる若者たちを置き去りに、冬枝は涼しい顔で駆け抜けていた。
――兄貴にとってはあのぐらい、朝飯前なんだろうな…。
口には出せないが、高根には冬枝が死神のように見えた。
「うえーっ。オレ、兄貴のこと絶対怒らせないようにしよっと」
「ああ…」
高根と土井はせいぜい、冬枝によってノックアウトされた『ブルー・ワイバーン』の身体を避けて進むだけだった。
榊原とその親衛隊も、『ブルー・ワイバーン』を全く寄せ付けなかった。榊原のライフルが暗闇に火を噴く度、その銃声だけで逃げ出す者がいたほどだ。
「ていうか、オレらも怖かったよ。戦争みたいだったもん」
「しっ。滅多なことを言うな、土井。自分たちは、兄貴の後ろにくっついてれば大丈夫だ」
右も左も分からずに進む高根たちと違い、冬枝には迷いがない。暗闇だろうと、どこに何人敵がいるのか、冬枝には見えているのだろう。
白虎組の圧倒的有利――ところが、状況は再び膠着状態に陥っていた。
「動くな!動いたら、こいつが爆発するぜ!」
高らかに叫んで、『ブルー・ワイバーン』のスカジャン姿の男がダイナマイトを掲げた。
「………」
マキは身体を縛られ、ピストルを持った男とダイナマイトを持った男の2人に挟まれている。
「金ならここにある!娘を放してくれ!」
ジュラルミンケースを掲げた汐見が叫んだが、『ブルー・ワイバーン』の男たちは取り合わない。
「ダメだ!とにかく、動くんじゃねえ!」
2人の目が忙しなく腕時計を追っているのを見て、冬枝は確信を深めた。
――やっぱり、時間稼ぎが狙いか。
危険な状況にも関わらず、気丈なマキは鋭い目つきで自分を囲む男2人を睨んでいる。あの冷静さなら、もし冬枝が男2人に突撃しても、うまいこと逃げてくれるかもしれない。だが――。
――あのダイナマイトは偽物じゃねえ。
流石は、東京一の愚連隊というべきか。『ブルー・ワイバーン』の男がマキの頭上10センチで振り回しているそれは、コケ脅しではなく本物の爆薬だった。
万が一、冬枝と男たちが揉み合いになり、ダイナマイトに引火したら、目も当てられない。マキは勿論、冬枝たちも木っ端微塵だ。
――せめて、奴らの注意を逸らすことができりゃいいんだが。
若い男2人は、この場を取り囲む白虎組の殺気と、時間稼ぎをしなければならないという重圧に挟まれ、かなりビビっている。下手に刺激すれば、パニクってマキに危害を加えかねない。
ほんの一瞬でいい。奴らの動きを止め、マキから引き離すことができれば……。
――時間を止める魔法でも使えりゃいいんだが、んなことできるわけねえし…。
冬枝が、そんなことを考えた時だった。
カツン、カツン、カツン……。
高い天井に反響するハイヒールの音に、一同がハッとそちらを振り返る。
目には見えないスポットライトを浴びているかのように、堂々とした姿。トレンチコートを着込んでいても隠せない、しなやかなボディライン。
颯爽と現れたその美女に、嵐が声を上げた。
「鈴子……!?」
「………」
夫のほうは振り向きもせず、美女――春野鈴子は、真っ直ぐにマキと『ブルー・ワイバーン』の男たちの前へと向かった。
――なんで、嵐のかみさんがこんなところに?
冬枝も泡を食ったが、鈴子のいつになく決然とした横顔と、トレンチコートから覗く素足の色っぽさに、言葉が出てこない。
「鈴子さま……」
小さく呟いたマキの声に、鈴子は一瞬、片目を閉じてみせた。
「おい、なんだてめえは!」
震える声で拳銃を突きつける『ブルー・ワイバーン』の男に、鈴子はキッと鋭い目つきを向け――。
――と思いきや、鈴子はにっこりと微笑みを浮かべた。それも、骨の髄まで蕩かすような、嫣然たる笑みを。
そして、鈴子のしなやかな五指が、トレンチコートの襟をそっと掴み――。
男2人に見せつけるかのように、胸元を広げてみせた。
バッ!
「なっ――」
なんと、鈴子は上半身裸だった。
鈴子のたわわなバストがぶるんと揺れ、白桃のような素肌があらわになる。
鈴子の斜め横にいた冬枝は、少しだけ、その眼福極まりない光景にありつくことができた。
――おいおい、いいのかよ。
冬枝でさえ、ちょっぴり、ほんのちょっとだけ、他の全てが頭から吹っ飛んでしまった。
真正面から鈴子のトップレス姿をお見舞いされた若者たちが、ノックアウトされないわけがなかった。
しばし、時間が止まった――スケベな男たちだけが。
「えいっ!」
男たちの隙をついて、マキがダイナマイトを持った男に体当たりした。
マキはそのまま、転がるように男たちから離れた。
――今だ!
冬枝は『ブルー・ワイバーン』の男たちめがけて跳躍した。
「うわっ――」
一瞬の出来事で、若者たちには何がなんだか分からなかっただろう。目の前に刀を振りかざした冬枝が迫っていても、鈴子の胸に釘付けになった連中に、身動きは取れなかった。
バキッ!
「ぐああ…!」
冬枝の刀が男の肩の骨を砕き、悶絶の声と共にダイナマイトがその手から離れた。
さらに、冬枝はもう一人の男にも足払いをかけ、拳銃を刀で叩き落した。
冬枝に続いて、榊原が連れてきた組員たちが、男2人を確保する。今まで時間がかかったのが嘘のように、呆気なくカタがついてしまった。
――まさか、本当に時間を止められるとはな。
鈴子はトレンチコートの前を合わせると、マキの元へと駆け寄った。
「マキちゃん!大丈夫?ケガはしてない?」
「鈴子さま…。あたしは大丈夫です」
遅れて、嵐がバタバタと鈴子の隣に並んだ。
「おい、鈴子。どうしてここに…」
「決まってるじゃない。か弱い女の子の危機を見逃せないでしょ」
それにしたって、と何か言いたげな嵐の気持ちは、冬枝にも分からなくはない。愛妻の半裸が不良たちの目に晒されて、いい気はしないだろう。
――とんでもねえ女だな、嵐の女房は。
冬枝は呆れ気味だったが、鈴子は得意げにウインクした。
「さやちゃんだったら、きっと、何が何でもマキちゃんのために闘ったわ。私も同じことをしただけよ」
鈴子の言葉に、マキも無言で頷いた。
笑みを交わす女2人の隣に、冬枝には、ここにいないさやかの姿が見えるような気がした。
――そうだ。これでやっと、さやかのところに帰れる。
あのバカ真面目も、マキが助かったと聞けば、ほっと安心することだろう。他人の心配より自分の心配をしろってんだ、と、冬枝は玉榧のホテルで待っているさやかの顔を思い浮かべた。
「………」
そこで、苦しげに眉を歪めた嵐が、ガバッと勢い良く頭を下げた。
「ダンディ冬枝、ごめん!」
「あん?どうした、嵐」
突然、嵐に謝られ、冬枝はきょとんとした。
嵐は頭を下げたまま、うめくように言った。
「さやかが、朽木と一緒に東京に行っちまいました……」
嵐の言葉の意味を理解するのに、冬枝は10秒を要した。
「……あ?てめえ、今なんつった」
冬枝の後ろで、高根と土井も顔を見合わせている。あまりにも唐突な展開に、さっぱり頭がついていかなかった。
――さやかが、東京に……?
冬枝の脳裏に、走馬灯のようにここ数日の経緯が思い出された。
秋津ミノルによって、さやかが大羽に連れ去られた。さやかを連れ戻すため、冬枝が秋津タケルと闘い、そこから赤陽館での白虎組と秋津一家の抗争に発展した。
朱雀組5代目・柘植雅嗣の介入で白虎組が屈するも、ミノルの活躍で白虎組・秋津一家・朱雀組の三者の同盟が成立した。
サービスエリアの駐車場で、冬枝がさやかを抱き締めたあの日が――あの感触が、今も冬枝の腕に残っている。
それなのに、さやかは再び、冬枝から遠く離れてしまったというのか。冬枝は、すぐには事態を飲み込めなかった。
鈴子が「もしかして」と声を上げた。
「鳴子に何かあったの?だから、貴彦さんがさやちゃんを連れて行ったの?」
「……そうだ。鳴子が、青龍会に捕まったらしいんだ」
嵐の告白に、鈴子の顔がさあっと蒼褪めた。
「おい。鳴子って?」
「…風間鳴子。鈴子の妹で、朽木の恋人だ」
「何?」
嵐の妻の妹が、朽木の恋人――。
初めて知った人間関係に、冬枝は頭がくらくらした。
「…そういや最近、朽木の奴、組の集まりでも見かけなかったな」
赤陽館での抗争、そして柘植による組事務所の破壊など、白虎組を揺るがす大事件が次々に起こったというのに、そのいずれにも朽木の姿はなかった。
顔を見て嬉しい相手でもないだけに、朽木の不在を特に何とも思っていなかったが――今になって、冬枝は事の大きさに思い至った。
嵐は、冬枝に事情を説明した。
「鳴子…それに多分、朽木もだけど、2人は朱雀組のスパイだったらしいんス」
「それで、その鳴子って女が、スパイがバレて青龍会に捕まったのか」
「…恐らく」
冬枝は、こめかみをトントン叩きながら事情を整理した。
「女を助けるために、朽木が東京に行ったのは分かる。だが、なんでさやかまで一緒なんだ」
冬枝の当然の疑問に答えたのは、嵐ではなく鈴子だった。
「さやちゃん、鳴子とは仲が良かったみたいなの。貴彦さんのお家でよく電話してるって言ってたもの」
「朽木の家で…?」
言われてみれば、さやかはやたらと朽木とつるんでいた。冬枝としては内心、穏やかではなかったが、さやかの目当ては朽木ではなく、電話越しに会う鳴子のほうだったらしい。
「だから…さやちゃん、自分の意志で貴彦さんについて行ったんじゃないかしら。鳴子を助けるために…」
そう言う鈴子も、さやかと妹への心配で、今にも泣き出しそうだ。
鈴子の涙に一瞬、冬枝はほだされそうになったが、追及しなければならないことがあった。
「…おい、嵐。てめえ、それ知ってて今まで黙ってたのか」
「………」
「何とか言ったらどうだ。おい!」
「ちょっと、冬枝のおじさま、落ち着いて」
見かねたマキが、冬枝と嵐の間に割って入った。
「………」
嵐はピンクの革ジャンを探ると、しわくちゃになった紙切れを差し出した。
「…これ。さやかが、ロリコン伯爵に渡してくれって言ってました」
「あぁ?朱雀組の5代目?」
冬枝が紙切れを広げると、そこにはミミズがのたうち回るような筆跡で、こう書かれていた。
『柘植さんへ 朽木さんと東京へ鳴子さんを助けに行きます。これは僕の意志です。冬枝さんが文句を言っても、無視してください。夏目さやか』
グシャッ――。
冬枝の手の中で、紙切れが不快な音を立てた。
――そりゃねえだろ、さやか!
「すんません、ダンディ冬枝!俺、鳴子が危ないって思ったら、なんかもう、何も考えられなくなっちまって…」
嵐が必死に言い募ったが、冬枝はもう嵐のことなど、どうでもよかった。
「人が必死こいてあっち行ったりこっち行ったりしたっていうのに、あいつ、また俺のことを騙したのか…!」
「だ、ダンディ冬枝?」
「あんの、ばしこぎまな板胸が…!今度と言う今度は許さねえ!」
震える拳を握り締めると、冬枝はうおおと吠えた。
「さやかの奴っ!次に会ったら、往復ビンタして尻叩いて、逆さにして屋根からつるしてやる!」
「最低」
「警察に突き出しましょ」
鈴子とマキが眉をひそめたが、冬枝は意に介さない。
「こんなに人のことを裏切っておいて、あっさり許したら男が廃るってもんだろーが!もうガマンならねえ、あいつは代打ちクビだ!」
すると、うなだれていた嵐がぱあっと顔を上げた。
「本当っスか!?やったぁ、これでさやかはヤクザの代打ち卒業だ~!」
「喜ぶんじゃねえ!てめえも同罪だ、この腐れ刑事がっ!」
冬枝は嵐の首根っこを掴んで押さえると、キッと外を見据えた。
「決めた!俺たちも東京に行くぞ!」
「えっ…!?本気ですか、ダンディ冬枝!?」
「当たり前だ!」
冬枝の頭に浮かんでいたのは、最後にさやかがホテルで言ったあの言葉だった。
「冬枝さん、待っててくださいね!」
さやかはきっと、目的を果たしたら冬枝の元に帰って来るつもりで、あんなことを言い残して行ったのだろう。
だが、思い出すにつけ、冬枝は腹が立ってくる。仏様じゃあるまいし、慈悲深く許してやることなど、到底できそうにない。
――お前がいなくても俺が平気だと思われてるのが、一番腹悪ぃんだよ!
青龍会も朱雀組も、関係ない。冬枝の瞳に映っているのは、さやかだけだった。




