57話 バッドナイト・ガール
第57話 バッドナイト・ガール
玉榧県内のホテル、桜寿閣。
急遽、貸し切られた宴会場『華厳の間』には、毛筆でしたためられた半紙が掲げられていた。
――秋津一家・白虎組、兄弟盃の儀。
紋付き袴を着た冬枝と、同じく紋付き袴を着たミノルが、朱塗りの盃を手に相対する。
「………」
――なんだ、この茶番は。
冬枝は、未だに実感が湧かない。なんなら、駐車場でさやかと再会の抱擁を交わしてから、ものの2時間も経っていないのだ。
そのさやかはといえば、この会場にはいない。神聖な儀式の場は女人禁制、という訳の分からないしきたりによって、嵐と一緒にホテル内の客室で休憩させられている。
――まあ、さやかにこの格好を見られずに済んだのはもっけの幸いだが。
ホテルからレンタルした袴を着た冬枝の姿は、歳を取り過ぎた七五三だった。そんな風に見えてしまうのも、自分はこんな大役を任せられる立場じゃない、という思いが付きまとうせいだ。
――急ごしらえにしたって、他にもっとやりようがあるだろうに。
『朱雀組・秋津一家・白虎組の三者が同盟を組み、青龍会と闘う』というミノルの提案を、柘植は即座に引き受けた。
柘植が電撃の判断に至ったのは、ミノルが「秋津一家と白虎組の離反」をほのめかしたせいだろうが、どうやらこれはハッタリではなかったらしい。
玉榧のホテルから連絡した冬枝に、榊原はこう言った。
「流石は秋津の『魔法使い』だな。もう嗅ぎ付けていたか」
「えっ。榊原さん、マジで秋津一家と手を組むつもりだったんですか?」
「ああ」
秋津一家には夏にさやかと組長を誘拐した前科があり、しかも赤陽館で白虎組と激突したのはつい先日の話だ。榊原にとって、秋津一家は忌々しい相手だろう。
冬枝の疑問に対し、榊原はきっぱりと答えた。
「親分のご意志だ」
「親分が…?」
「秋津一家と手を組むために、親分は自身の引退も賭けるつもりだった。反対する親分を俺が隠居させて、秋津一家との同盟にこぎつける。そういう芝居を打って、秋津一家に俺たちの本気をアピールする計画だったんだ」
確かに、組長を引きずり降ろして代替わりさせれば、白虎組が先にケンカを売った事実は過去のものとなる。榊原の誠意が秋津一家にも伝わり、スムーズに同盟を結べるというわけだ。
――親分、榊原さんのことは本当に猫っ可愛がりしてるんだな…。
とはいえ、冬枝が呆れるような計画も、ミノルの提案で変更することとなった。
「秋津の『魔法使い』の意向は分かった。秋津一家がそのつもりなら、こちらに反対する理由はない」
「えっ。いいんですか、榊原さん」
「柘植は、朱雀組が買ったうちのシマの土地と霜田の身柄を返すって言うんだろう?朱雀組や秋津一家と対等な立場になれるなら、手を組んだほうがいい」
実際、柘植はあっさりと白虎組の利権と霜田を手放すことに同意した。柘植にとっては元々脅しのようなもので、時期が来れば白虎組に返す予定だったのだろう。
そこで、榊原はとんでもないことを告げた。
「冬枝。お前、俺の代わりに同盟を結んでくれ」
「はっ……えっ?」
とっさに意味を掴めない冬枝に、榊原は重ねて言った。
「白虎組組員、冬枝誠二。今からお前を、組長代行に任命する」
「ええーっ!?」
驚きのあまり、冬枝は電話ボックスの壁に肩をぶつけてしまった。
――俺が、組長代行…?!
「そ、それじゃ、俺が榊原さんより偉くなっちまうじゃないですか。第一、親分がいいって言いますかね」
「細かいことを言ってる余裕はねえ。朱雀組と対等の立場での同盟なんて、青龍会やよその組に洩れたら、横槍を入れられる恐れがある。時は一刻を争うんだ」
「た、確かにそうですが」
白虎組の傘下である躑躅会や稲玉組には、内心では白虎組よりも歴史は長いという驕りがある。そんな連中にこの同盟のことを知られれば、矢のような苦情が来るだろう。ややもすれば、抗争に発展する危険もある。
「だからって、俺みたいなヒラに親分の代理なんかさせなくたっていいでしょう」
「他に誰がいるっていうんだ。霜田はまだ人質の身の上だし、俺が動けばよその組に勘付かれる。今のうちに既成事実を作るんだ」
榊原は、頼むよ、と拝むような声を出した。
「お前だって、さやかを取り戻したいだろ?」
「そりゃ、そうですけど」
「俺も、さやかが帰って来てくれないと、色々と困るんだよ。さやかは、白虎組に必要な代打ちなんだ」
「…榊原さん、何かあったんですか?」
冬枝が思わず突っ込むと、榊原は咳払いをして誤魔化した。
「いや、別に。とにかく…」
電話の向こうの榊原には、迷いがなかった。
「責任は俺が持つ。頼んだぞ、冬枝」
「………はい」
そこまで言われては、冬枝に拒否権はない。
冬枝は、力なく公衆電話の受話器を置いた。
――俺は良くても、朱雀組と秋津一家が了承するのか?
同盟を組むというこの一大事に、白虎組の組長本人や若頭ではなく、ヒラの冬枝が代理を務めることを両者が承知してくれるかどうか。
という冬枝の心配は、杞憂だった。
柘植とミノルも、榊原と同意見だったのだ。
「私がここにいることは、既に青龍会や地元の組には露見しているでしょう。この場に白虎組の幹部まで来てしまえば、何らかの密談をしていると喧伝するようなもの」
柘植の言葉に、ミノルも頷く。
「その点、冬枝君なら誰からも怪しまれません。冬枝君が組幹部だと思うような奇特な人間は、そうそういないでしょう。適任だと思いますよ」
「嫌味か、てめえ」
思わず言い返した冬枝に、ミノルは苦笑した。
「僕も、君と似たような立場だということです。最高顧問なんて肩書きは、所詮、名誉職。上の兄たちと違って、末っ子の僕にそこまで重大な決定権はありませんから」
「そういうもんか」
ミノルが秋津一家総長・秋津タケルの代理を務めることも、タケル自身から電話で了承を得たという。
秋津の兄弟たちが一枚岩ではないことを知っているだけに、冬枝は事がすんなり進んだことが不思議だった。
「よく承知したな、てめえの頑固兄貴が」
「ああ見えて、総長も話せば分かる人ですから。それに…」
ミノルは、眼鏡の奥の瞳を意味ありげに冬枝に向けた。
「冬枝君。総長は、君のことを信頼しているようです」
「俺を?」
タケルの目の前で栗林を人質に取ったこととか、その結果、タケルにボコボコに叩きのめされたことなどが、冬枝の脳裏をよぎった。
「ホントかよ」
「ホントです。君のように、損得勘定が下手で、頭の出来が悪い男が、総長は嫌いじゃないんですよ」
「てめえ、さっきから俺に喧嘩売ってんのか?」
「とんでもない」
悪びれもせずに笑うミノルの心底は、未だ冬枝には読めない。
そんな男と、『兄弟盃の儀』と相成った次第である。
仲人である柘植の下、冬枝とミノルは互いに盃を酌み交わす。
――つっても、時間がねえからって水だけどな。
普通、この手の儀式は双方の組員が居並び、盛大に行われるのが通例だ。それがこんな、屏風もないだだっ広いだけの会場で、コスプレしたオッサン2人が水を飲んでいるだけなんて、前代未聞である。
――ま、これなら青龍会も怪しまねえな。
細々とした儀礼をすっ飛ばし、秋津一家・白虎組・朱雀組の三者で早々に誓書を交わした。
兄弟盃の儀は、10分もかからなかった。控室で着替えながら、冬枝は狐につままれた気分だった。
「こんなんで、本当に同盟って言えるのか」
「問題ありません。肝心なのは、5代目とうちの総長、そして君のところの榊原君が了承したという事実です。儀式はほんのオマケみたいなもの」
「オマケね。そりゃ、俺とてめえで十分なわけだ」
皮肉気味に笑う冬枝に、ミノルがふと真剣な横顔を向けた。
「…冬枝君」
「ん?」
袴なんて、穿くのが久しぶりだったせいで、どうもうまく脱げない。冬枝は、裾を持ったり引っ張ったり、を繰り返した。
「組同士だけでなく、君と僕との間でも、協力する必要があると思っています」
意外な申し出に、冬枝は袴から顔を上げた。
「てめえ、車の中でなんかほざいてたな。さやかが好きとかどうとか」
「だからですよ。さやかさんのことを大切にしている君だからこそ、僕は力を貸して欲しいんです」
紋付き袴からいつものボルドーレッドのスーツに着替え、ミノルは口調を改めた。
「これから話すことは、他言無用に願います」
「何だよ、藪から棒に」
「まだ、僕の兄たちにも教えていないことです。君を信じて話します」
ミノルの真剣さに、冬枝も着替えの手を止めた。
ミノルは、単刀直入に言った。
「僕には、イサオお兄さんが殺された事件の記憶がありません」
「…なんだって?」
「当日だけでなく、どうやら事件前後の記憶も抜けているようです。恐らく、事件に関することをほとんど忘れてしまっています」
朱雀組と秋津一家の最高顧問であり、朱雀組4代目・秋津イサオが殺された事件の当事者でもあるミノルが明かした重大な秘密に、冬枝は開いた口が塞がらなかった。
「それって……ケガのショックとか、そのせいなのか」
「確かに、僕はお兄さんと共に襲撃され、生死を彷徨う大怪我をしました。肉体的にも、精神的にも、記憶に支障をきたしてもおかしくはないでしょう。しかし……」
ミノルは、スーツの懐から麻雀牌を取り出した。
「なんだそれ。麻雀牌か?」
「ええ。『百搭』…中国麻雀で使う、特殊な牌の一つです」
牌を見下ろすミノルの目つきが、鋭くなった。
「これは、お兄さんを殺した犯人が残していったものです」
「犯人が…?」
「これは僕の推測ですが……犯人…『百搭』は、瀕死の僕に催眠をかけていったのではないでしょうか」
「催眠?」
麻雀牌に描かれた『百搭』の二文字が、怪しい雰囲気を滲ませる。
「イサオお兄さんを殺したのは、夏目さやか。僕はずっと、その想いに支配されています」
「『百搭』ってのが、てめえをそう洗脳したっていうのか」
「はい。実際、僕は何度もさやかさんを殺そうとしました。君も見たでしょう?」
さやかが入院した時、ミノルが仕込み刀を持って襲いかかったことがあった。すんでのところで止めたのは、冬枝自身である。
冬枝には、まだ事情がよく掴めない。
「そりゃ、てめえがさやかを兄貴の仇だと思ってるから、襲って来たんだろ。『百搭』の洗脳だって、なんで分かるんだよ」
「事件の後、僕の様子がおかしいことは、兄たちや栗林からも指摘されました。僕自身、矛盾した行動を取っている自覚があります」
とんでもないことを淡々と語られ、冬枝は今一つ実感が湧かなかった。
「人を洗脳するって言われてる秋津の『魔法使い』の癖に、自分が洗脳されちまったって言うのか」
冬枝のツッコミに、ミノルは嘆息した。
「君も、ずけずけとものを言ってくれますね。そもそも、洗脳なんてそんな簡単にできるものではありませんよ」
「そうなのか?」
「僕は目の前で兄を殺され、自分自身も重傷を負いました。心身阻喪状態にあった僕に刷り込みをするぐらいなら、その道の専門家じゃなくても可能だったでしょう」
ミノルは、『百搭』の行動を分析した。
「でなければ、あの場で『百搭』が僕を殺さなかった理由の説明がつきません。僕を生かしておいて、事件の目撃者である夏目さやかを殺させる。それが、『百搭』の狙いです」
ミノルの語った衝撃的な話に、冬枝はすぐには言葉が出てこなかった。
――秋津ミノルは、秋津イサオを殺した犯人によって洗脳されていた。いや、今でも洗脳されているのか?だとしたら……。
「…そこまで分かってるなら、てめえは引っ込んでりゃいいじゃねえか。下手に動くから、さやかも危険な目に遭ったんだぞ」
冬枝の当然の指摘に、ミノルは反論しなかった。
「おっしゃる通りです。さやかさんの身の安全を思えば、僕は全身を拘束された上で、鉄格子付きの精神病院にでも閉じ込められているべきなのでしょう」
「だったら、なんで…」
「兄の仇を討つためです」
ミノルは、きっぱりと答えた。
「4代目が…イサオお兄さんが死ぬのを、僕はすぐ傍で見ていることしかできなかった。『百搭』が僕にどんな洗脳をしたとしても、この胸に残っている悔しさだけは本物です」
秋津イサオは、朱雀組組員の憧憬を一身に集める親分だったのと同時に、秋津兄弟の長兄だった。末弟であるミノルにとって、イサオは親にも等しい存在だったのだろう。
「僕だって極道です。たとえさやかさんを手にかけることになろうとも、兄の仇…『百搭』を追う覚悟でした。しかし…」
そこで、ミノルは目つきを緩めた。
――自分の気持ちに正直に生きたほうが、僕らしいでしょう?イサオお兄さん…。
兄の死を巡るこの状況を超えて、さやかと向き合える日がいつかきっと来る。
さやかと出会い、ミノルの中でその希望が芽生えた。
たとえその時、さやかが選ぶのが自分ではなく、目の前の男だったとしても――…。。
ミノルは、ちらっと冬枝の顔を見つめた。冬枝が、怪訝そうに眉を寄せる。
「なんだよ」
「なんでも」
本音は内心に留め、ミノルは話を元に戻した。
「『百搭』は、今後も僕とさやかさんを狙い続けるでしょう。勿論、青龍会も」
だから、冬枝に協力して欲しい、とミノルは再び言った。
「僕の洗脳はまだ解けていません。僕がさやかさんに危害を加えるようなことがあれば、君に全力で阻止してもらいたい」
「…いいのか?俺にこんな大事なことを教えて」
ミノルはふっ、と苦笑した。
「洗脳なんて荒唐無稽な話、君と嵐君ぐらいしか信じてくれないでしょう。さやかさんを守るために、君にだけはどうしても伝えておきたかった」
「………」
ミノルがさやかを好きだと言ったこととか、そもそも秋津の『魔法使い』ミノルの話をどこまで信用していいのかとか、冬枝にはミノルに突っ込みたいところがいくつもある。
だが――冬枝の心は、既に決まっていた。
「分かった。その『百搭』って奴、一緒にぶっ潰すぞ」
「それでこそ、義理の兄弟です。これからもどうぞよろしく、冬枝君」
ミノルが差し出した手を、冬枝は握り返した。
――こいつが何を企んでいようと、俺がぶん殴れば済む話だ。
ミノルの話を、鵜呑みにことはできない。だが、ミノルの全てを信用する必要もない、と冬枝は思った。
――さやかを守る。そこさえ同じなら、こいつの手を拒む理由はねえ。
ミノルは「あ、そうそう」と人差し指を振った。
「義兄弟ですが、僕のほうが年上ですから。僕が兄で、冬枝君が弟ということになりますね。お兄ちゃん、って呼んでくれても構いませんよ」
「…お兄ちゃんっていうか、おじいちゃんだろ、あんたは」
冬枝の憎まれ口に、3歳年上の兄貴分は、後ろ足で冬枝のスネを軽く蹴った。
さやかと嵐は、ホテル桜寿閣の最上階のスイートルームにいた。
「うっひょう。駐車場、列ができてるぜ」
窓から眼下を覗いた嵐が、口笛を吹いた。
天下の暴力団・朱雀組の5代目が来たというニュースは、あっという間に玉榧の街を駆け巡ったらしい。柘植とお近付きになろうというヤクザたちが、挨拶と称してこのホテルに詰めかけたようだ。
「見ろよ、ロビーのほうまでコワーいオッサンたちがずらり。営業妨害だな、こりゃ」
嵐は、大きな窓に両手と顔をべったり貼り付けている。
さやかは、素朴な疑問を抱いた。
「嵐さん、何しに来たんですか」
「おいおい、そりゃねえべさ。可愛い2号を連れ戻しに来たんじゃねえか」
「はあ」
ヤクザの利害とは無関係の嵐がこんな重要な場にいることが、さやかには不思議でならない。
――なんなら、嵐さんだって危険に巻き込まれるかもしれないのに。
そう口にしかけたさやかに、嵐はこう言った。
「鈴子がしったげ心配してるぞ」
「鈴子さん…」
「さやかがジェントル秋津にさらわれたって聞いて、あいつ、顔真っ青にしてたからな。俺の前じゃまだ冷静なフリしてるけど、夜中にこっそり泣いてんだ」
さやかのせいだぞ、と指差され、さやかは俯いた。
――心配かけてごめんなさい、鈴子さん…。
さやかのような非力な女がヤクザに拉致されたと聞いたら、誰だって悪い想像をするだろう。さやかのことを想ってくれている鈴子なら、なおさら胸を痛めているに違いない。
――でも、僕には鈴子さんに心配してもらう資格はない。
「鈴子さんのためを思うなら、嵐さんは僕とはもう関わらないほうがいいでしょう。帰ってください」
嵐の身に何かあったら、それこそ鈴子を泣かせることになる。さやかはこれ以上、あの事件で誰かに迷惑をかけたくなかった。
――冬枝さんやミノルさんは仕方ないけど、堅気の嵐さんまで巻き込みたくない。
すると、嵐はキングサイズのベッドに無造作に腰を下ろした。
「いいよな、この部屋。嵐クン、スイートルームなんて人生初かも」
「は?」
「さやかもさぁ、新婚旅行はこういうところがいいんじゃねえか?ダンディ冬枝と」
思いもよらないことを言われ、さやかは赤面した。
「な、何の話をしてるんですか。こんな時に」
「俺は反対だけど、さやかがどうしてもって言うなら、仕方ねえよな。ダンディ冬枝にはヤクザから足を洗ってもらって、ただの雀荘の親父になってもらおう。さやかはその、可愛い奥さん」
嵐はニッコリ笑って、両腕を広げた。
「さやかは毎日、タダで麻雀打ち放題で、それで稼いだ金で愛しの冬枝さんと楽しく暮らすんだ。ダンディ冬枝の年齢を考えると、子供は早めに作ったほうがいいかも」
「やめてください。いくら嵐さんの妄想でも、聞いてるこっちが恥ずかしい」
嵐は、不意に真剣な目付きになった。
「妄想じゃなくて、現実にできるんだぜ。さやかには、その自由がある」
「え…」
「さやかは本当に好きな奴と、一緒に幸せになれる。過去に何があったって、自分にとって一番都合のいい未来を選んでいいんだ」
嵐の強い眼差しに、さやかは引き込まれた。
「そんなこと……」
――そんなこと、僕が望んでいいの?
イサオの仇討ちをするからと言って、死ぬつもりだったわけじゃない。勿論、命を捨てる覚悟ではいるが、『百搭』との闘いに勝つことがさやかの最大の目的だ。
その後のことだって、さやかなりに前向きに考えていたつもりだった。だが、嵐の未来予想図を聞いて、さやかの中の何かがひび割れた。
――僕には、まだせき止めていた本心があったの?
冬枝と共に生きる、幸せな未来。嵐の話は馬鹿げているはずなのに、どうしようもなく心が震えた。
「俺はさ、心の底から笑うさやかが見てえよ。鈴子もきっと、同じ気持ちだろ」
嵐にポンと肩を叩かれ、さやかは俯いていた顔を上げた。
「…お節介ですね、嵐さんは」
「そうなの。俺、お節介嵐クンなの」
嵐が、大輪の花が咲き綻ぶみたいに笑った。
多分、さやかが出会った中で一番優しい男なのだと、その笑顔を見て思った。
兄弟盃の儀から程なくして、高根と土井もホテル桜寿閣に到着した。
「遅くなってすみません、兄貴」
「兄貴、お疲れっス!」
普段は黒の背広で決めている弟分2人だが、今日は季節外れのアロハシャツ姿だ。冬枝は面食らった。
「お前ら、なんだその格好」
「変装です。極秘の会合と聞いたので」
「そうそう。オレら、どっからどう見ても地元のお兄ちゃんにしか見えないでしょ?」
「………」
――お前らなら、変装なんかしなくたって『地元のお兄ちゃん』にしか見えねえよ。
もっとも、ここまで駆けつけてくれた健気な弟分たちにそんなことを言うほど、冬枝も野暮ではない。
冬枝は、「ご苦労だった」と言って高根と土井の肩をポンポンと叩いてやった。
いつものサングラスがアロハシャツとよく合っている土井が、声を潜めた。
「にしても、すごい光景っスね。ここにいるのみんな、この辺のヤクザですか」
「ああ。続々と来てるみたいだな」
冬枝たちがいるこのロビーは、眼光の鋭い、いかつい男たちでごった返していた。
朱雀組5代目の電撃訪問に、多くの組は使いの組員を寄越しているようだ。一方で、幹部本人と思しき貫禄のある男たちの姿も見受けられる。
――こんなにヤクザがすし詰めになって、トラブルにならなきゃいいけどな。
という冬枝の心配は、早くも的中した。
ガシャーン!
ガラスの割れる音と共に、ロビーが騒然となった。
「てめえっ、よくもノコノコと俺の前に姿を現しやがったな」
「知らねえなぁ。ケンカなら表に出やがれ」
中年絡みの男2人が、大声で罵り合っている。互いの裾に手をかけ、今にも掴み合いになりそうな雰囲気だ。
土井が、ひそひそと高根に耳打ちした。
「あっちゃー。ワケありかな、あの2人」
「これだけ大勢のヤクザが予定外に集まれば、因縁の相手と鉢合わせするのも無理はないな。触らぬ神に祟りなし、だ」
高根の言う通り、冬枝たちは朱雀組・秋津一家・白虎組の極秘の同盟のために来ている身だ。うかつに目立つことはできない。
それでなくとも、自分たちの縄張りではない土地だ。地元同士のケンカに首を突っ込むほど、冬枝もバカではないが――。
――サツを呼ばれたら、厄介なことになるな。
フロントで蒼褪めているホテル従業員たちは、柘植から事前に言い含められているだろう。だが、何も知らない一般の客が通報する恐れがある。
「ここで会ったが百年目だ。今日こそ、白黒つけてやる」
「上等だ。かかってきやがれ」
ケンカしている男たちはロビーのテーブルを蹴倒し、格闘の体勢に入った。周りのヤクザたちも「いいぞ、やれやれ」などと囃し立て始めている。
――いい大人が、まだ日のあるうちからケンカしてんじゃねえよ!
見かねて割り込もうとした冬枝を、臙脂色のスーツがサッと追い抜いて行った。
――柘植雅嗣!
「何を騒いでいるのですか」
朱雀組5代目・柘植本人の登場に、ロビーが一瞬で静まり返った。
「………」
柘植は服装の乱れた男2人を見て、一瞬だけ眉をひそめた。
が、すぐに冷ややかな無表情に戻ると、背後に従えていた部下にアタッシュケースを開けさせた。
「おおっ…」
ロビーにいたヤクザたちから、声にならない声が上がる。アタッシュケースの中身は、目も眩むような札束の海だった。
――あの野郎、こんな田舎に一体いくら持って来てるんだ?
冬枝が聞いている限りでは、今回の同盟には、金銭は一切絡まないはずだ。或いは、柘植にとってはあのぐらい、小銭入れ程度に過ぎないのかもしれない。
柘植はそこから札束を2つ掴み取ると、ケンカしていた男2人の足元に放り投げた。
バサッ。
「金だ!」
「すげえ、帯つきだ」
絨毯の上に落ちた札束に、その場にいたヤクザたちの視線が一気に吸い寄せられる。
「拾いなさい」
柘植は、ケンカしていた男2人に冷然と告げた。
「私は、秩序を守れない者を好みません。その金を拾い、すぐにここから立ち去りなさい」
「……」
「……」
圧倒的な権力を誇る都会のヤクザである柘植から、金と命令の双方を突き付けられた。急な展開に、ケンカになっていた男2人は、戸惑ってしどろもどろになった。
「でも、5代目にご挨拶をしろと、親分からの言いつけで…」
ようやく、1人がそう言うと、柘植の瞳がキラリと光った。
「私に用があるのなら、神戸まで来なさい。朱雀組はいつでもお待ちしています」
それが脅しであることを、男たちは肌身で理解した。慌てて拾い上げた札束がどんなに冷たい感触だったか、冬枝には想像がついた。
――いけ好かねえな、このオッサン。
ケンカになっていた地元のヤクザ2人を、柘植は金と脅しで追い払った。白虎組の土地を金で買い上げた時とまったく同じやり口が、冬枝は気に入らなかった。
この事件を目の当たりにして、ロビーで揉め事を起こすヤクザはいなくなった。むしろ協調と言ってもいいような雰囲気で、ヤクザたちは順番を守り、粛々と柘植に謁見していった。
「いつものことですよ。5代目らしい」
夜は、ホテル内にあるレストランで夕食となった。
冬枝がロビーでの顛末を語ると、ミノルはあっさりそう片付けた。
冬枝は、玉榧牛のステーキを縦横にギコギコと切り裂いた。
「ロリコン伯爵のくせに、王様気取りかってんだ。いいご身分だぜ」
「君の気持ちも分かりますが、あれも5代目の美徳ですよ。現に、血を見ずに済んだのですから、良かったじゃないですか」
地元のヤクザたちの柘植謁見は夜にまで及び、冬枝たちとの詰めの談合も明日へと先延ばしになった。その間、ヤクザたちの間で騒ぎが一切起こらなかったのだから、御の字といえよう。
冬枝は、細かく切った肉を口に運んだ。
「関西のヤクザってのは、もっと陽気なもんかと思ったけどな。おたくの5代目ときたら、あれだけ金持ってんのに辛気臭えな」
「5代目は、ルールやマナーには神経質なところがありまして。イサオお兄さんとは正反対でしたよ」
言ってから、ミノルはふと去年のことを思い浮かべた。
――そうだ。イサオお兄さんと5代目は、性格も、青龍会に対する考え方も真逆だった。
朱雀組4代目組長の秋津イサオと、当時、若頭だった柘植雅嗣。2人の意見が真っ向から対立していたことは、極道の間では有名だった。
実際、今でも週刊誌などでは、イサオと柘植の不仲を取り沙汰している。だが――実際には、2人はとっくの昔に和解していたことを、ミノルは思い出した。
――そのために、イサオお兄さんはユタカを……。
「都会のヤクザってのは、みんな柘植みたいなのか?何でもかんでも金で解決、金の力学ってか」
過去に耽っていたミノルは、冬枝の言葉で我に返った。
「…義理や人情なんてものは、もう遠い昔話ですよ。ケンカなどすれば警察の世話になりますし、第一、金になりません」
「へー。世知辛い世の中だな」
「白虎組だって、今はそういうやり方じゃありませんか?力のない組や企業は買収し、地元の議員とは金で繋がっている。そうして、街の利権を裏から牛耳っている。そうでしょう?」
流石、『魔法使い』は白虎組の事情にも精通している。冬枝は、ニンジンのソテーをむぐむぐと噛んだ。
「まあな。榊原さんは、ケンカとか好きじゃねえから」
「結構なことです。さやかさんを代打ちに迎えたことといい、白虎組は実に進取の精神に富んだ、近代的な組といえるでしょう」
ミノルが教条的にまとめると、冬枝が声を落とした。
「…どこまで信用できる。あの男」
冬枝が柘植に不信を抱くのは、もっともだ。ミノルは、正直に打ち明けた。
「…僕の読みでは、お兄さんを殺したのは5代目ではありません。イサオお兄さんへの崇拝においては、5代目の右に出る者はいないでしょう」
ただ、とミノルは留保を置いた。
「あれだけの資金と人脈を持っている方です。何らかの形で、事件の黒幕と繋がっている可能性は否定できません」
「ああ?敵なのか味方なのか、どっちなんだよ」
「どちらでもない、ということです。少なくとも、青龍会の介入を嫌うという点では、僕らと利害が一致していますが」
青龍会ねえ、と冬枝はタバコの煙を吐いた。
「俺は、てめえらと青龍会の関係も疑ってるぞ」
「おや。それは何故でしょう」
「桃華組の件だ」
冬枝の切り返しに、ミノルは片眉を上げた。
――意外と鋭いですね、僕の義兄弟は。
「てめえら、桃華組を目の前に追い詰めておきながら、灘議員の首だけもらって逃がしたって言うじゃねえか。こっちは、シマの女たちがさらわれたんだぞ」
「過ぎた話を蒸し返しますねえ。君はいつから、そんなに正義感に篤い男になったのでしょう」
「俺じゃねえ。さやかが心配してたんだ」
冬枝の真剣な声音に、ミノルはふっ、と笑みをひっこめた。
冬枝に言われるまでもなく、さやかが桃華組による少女たちの拉致を案じていたことはミノルも知っている。それを利用し、さやかを青龍会に拉致させようとしたのはミノル自身だ。
――やはり、冬枝君にはこのことも話しておく必要がありますか…。
この夕食の席には、冬枝とミノルしかいない。柘植とさやかは、安全のために自室でルームサービスを取っている。
ミノルは、暗い窓の向こうに目をやった。
「君は、大羽の禁忌に触れる覚悟はありますか」
「またかよ。今度はどんな爆弾を落とそうってんだ、お兄ちゃん」
ミノルはタバコに火をつけて、苦笑いした。
「君からお兄ちゃんなんて呼ばれると、ぞっとしますね」
「てめえが呼べって言ったんじゃねえか」
タバコの煙を夜景に投げ、ミノルは冬枝に向き直った。
「大羽の人間なら、誰もが知っていることです。週刊誌の類いでも取り上げられたと思いますが、君はご存知ないでしょうか」
「だから、何のことだよ」
「秋津ユタカ。イサオお兄さんの忘れ形見です」
思わぬ名前の登場に、冬枝は目を見開いた。
「死んだ4代目のせがれか。そいつがどうしたんだ」
「今から10年前、ユタカは秋津一家を離反しました。そして桃華組を立ち上げ、青龍会に入った」
青龍会四天王――その一つに数えられるのが、桃華組だ。
朱雀組の天敵である青龍会に、秋津イサオの実の息子が寝返った。大羽を揺るがす一大事は、誰も口にしてはならない禁句となった。
輝かしい秋津一家の歴史に付いた、唯一の汚点。
それが桃華組組長・秋津ユタカだった。
今では、ユタカも柘植と並んで、秋津イサオ殺しの容疑者の一人に数えられている。イサオがユタカではなく自身の弟のタケルに秋津一家を譲ったため、父子間に亀裂が生じた、というのが大方の見立てだ。
「秋津イサオの息子が、桃華組の組長…」
冬枝の脳裏にちらついたのは、元兄貴分・源清司の怜悧な横顔だった。
源は確か、桃華組組長の右腕だと三船亜弓が洩らしていた。
――源さんも、秋津一家の内輪揉めに関係しているのか?
何やら、冬枝の頭の中がこんがらがってきた。ワインをぐいっと飲み込んだが、一向に事情は呑み込めない。
ミノルは、グラスに揺れるワインの紅に目を細めた。
「詳しいことは、明日お話します。ユタカの件については、5代目も大いに関わっている話ですから」
シャワーを浴びたさやかは、室内を見て顔をしかめた。
「嵐さん。いつまでここにいるつもりですか」
「んっ?」
テレビを見ていた嵐が、ビール片手に振り返った。
「いいじゃねえか、スイートルームなんて滅多に泊まれるもんじゃなし。さやかも飲むか?」
「早く帰らないと、鈴子さんが心配しますよ」
「よく言うよ。ヤクザにさらわれといて」
嵐の言葉に、さやかの顔に影が差した。
――鳴子さんがさらわれたこと、嵐さんに言うべきなのか…。
柘植のスパイだった鳴子は、東京で青龍会に拉致された。鳴子の身柄は、今も青龍会の手の中にある。
しかし、それを嵐に言えば、嵐が東京に乗り込みかねない。いくら神経の図太い男とはいえ、単身、青龍会とやり合うなんて危険すぎる。
「それに、俺はまだ帰るつもりはないぜ。パパの顔を拝んでからじゃねえと」
「パパ?」
嵐は、ライターの蓋をチャキッと開けた。
「霜田のパパさんだよ。朱雀組に捕まってたんだろ?」
「ああ…。東京からこちらに向かっているそうですけど、渋滞で遅れてるらしいですね」
霜田の身柄の引き渡しに、柘植は同意している。ただ、さやかは東京にいる霜田と朽木の様子が気がかりだった。
――鳴子さんを助けに行きたい朽木さんを、霜田さんがストッパーになって止めているはず。このまま、事が穏やかに運べばいいけど…。
内心は押し隠し、さやかは話題を逸らした。
「…嵐さんって、霜田さんとも顔見知りなんですね」
「ああ。俺っていうか、鈴子と鳴子がな。美佐緒ママのお店に勤めてる時、パパさんにも世話になったからさ」
「そうだったんですか…」
やはり、鳴子のことを嵐に伝えるべきか。鈴子の顔が頭をよぎり、さやかは迷った。
「さやか?」
嵐に呼び止められ、さやかは顔を上げた。
「バスルームに、忘れ物しちゃいました。取りに行ってきます」
「おい、何だよ忘れ物って。パンティーか?」
嵐の声を聞き流し、さやかは足早に脱衣所へと戻った。
「………」
――ここで言っても、どうにもならないのは分かってる。
まして今は、朱雀組・秋津一家・白虎組の三者が手を組み、協力して青龍会に立ち向かうことを決めた大事な時だ。
青龍会をむやみに刺激するべきではない、という柘植の判断は賢明だ。朱雀組でも、鳴子の行方を捜しているだろう。
――だけど、やっぱり嵐さんには言ったほうがいいんじゃ…。
「…ん?」
そこでさやかは、バスルームから異音がすることに気付いた。
ガラス扉を開けると、音は、バスルームの天井からするようだ。
さやかは、首を傾げた。
――換気扇が故障したのかな…?
バン!
「うわっ!?」
などと思っていたら、その換気扇の蓋がひとりでに外れて落ちた。しかもそこから、黒いスーツの腕がぬっと伸びてきたではないか。
更に天井裏から、見慣れた悪人面がぬるりと姿を現した。
「見つけたぞ、麻雀小町」
「…朽木さん!?」
朽木は髪も肩もホコリまみれになって、ずるずると天井から降りてきた。
「朽木さん、どうしてここに…」
「ここいらのチンピラ共が、こぞって柘植さんに面会に来ただろ。それに混ざって、このホテルに忍び込んだんだ」
朽木はその後、朱雀組の警備の目をかいくぐるため、天井裏のダクトを伝ってここまで来たらしい。
蜘蛛の巣がついた腕で、朽木はさやかの肩を掴んだ。
「麻雀小町。俺と東京に行くぞ」
「東京へ…!?」
「メイちゃんを助ける。てめえには、囮になってもらう」
朽木の顔は、憔悴しきっていた。
朽木がどんな気持ちで、どんな思いでここまで来たのか。言葉にされずとも、その面差しから滲んできた。
さやかの心は揺れた。
――僕も、鳴子さんのことは助けに行きたい。だけど…。
やっとさやかの身柄を巡る白虎組・秋津一家・朱雀組の争いが決着し、三者の同盟に漕ぎつけた。
ここでまた、さやかが離脱してしまえば、三者の間に亀裂が生じかねない。さやかは首を横に振った。
「できません」
「てめえの返事なんか聞いてねえ。行くぞ」
朽木に掴まれた腕を、さやかはとっさに反転させて捻り上げた。
「うっ…!」
「朽木さん。僕は行けません」
――今度こそ、冬枝さんと一緒に闘うんだ。
さやかがどんなに遠くへ逃げても、追いかけてくれた人。さやかはもう、冬枝を裏切りたくなかった。
だが、さやかの袖に朽木の爪が食い込んだ。
「そうはいかねえぞ、この女狐」
「朽木さん…」
「メイちゃんを捕まえたのは、桃華組の連中だ。源って親父のことは、てめえもよく知ってるだろ」
源の名を出され、さやかの瞳がハッと見開かれた。
――源さん…!
「麻雀小町、源はてめえのことを気に入ってたらしいじゃねえか。てめえを使って桃華組組長の右腕と言われる源を釣れば、メイちゃんを助けられる…」
という朽木の算段も、さやかの耳にはほぼ届いていなかった。
――大羽のお寺で相対した時、源さんは何かを焦っていた。
さやか相手に発砲したのも、源らしくなかった。さやかより遥かに腕力のある源ならば、拳銃を使うまでもなかったはずだ。
源の銃弾は結局、さやかではなく白虎組組長・熊谷雷蔵に当たり、白虎組と秋津一家を青龍会憎しで固める結果になった。
源のこの勇み足が意味することに、さやかはようやく思い至った。
――これはひょっとして、チャンスかもしれない…。
さやかが思いを巡らせている間に、バスルームの扉がガチャリと開く音がした。
「おーい、さやか。二度茹でしたって、ペチャパイは治らないぞ」
無礼な軽口と共に入ってきた嵐は、さやかと朽木の姿を見て目を見開いた。
「朽木っ…!?お前、どうしてここに…」
「春野嵐か。今、てめえの相手をしてる余裕はねえ!」
朽木がすかさず拳銃を取り出したのを見て、さやかはハッと我に返った。
「待ってください、朽木さん。僕は東京に行きます」
「おう。やっと覚悟ができたか」
「おい、さやか。東京に行くって、どういうことだよ」
前に出ようとした嵐を制するように、朽木が銃口をさやかの頭に向けた。
「動くな!騒げば、この女の頭を吹っ飛ばすぞ」
「朽木…!」
一触即発となった嵐と朽木の間で、さやかは一人冷静だった。
――朽木さんの言う通りだ。今ここで、嵐さんと争っている余裕はない。
「嵐さん。鳴子さんが、東京で青龍会に拉致されました」
さやかが単刀直入に言うと、嵐の顔つきが変わった。
「鳴子が…!?」
「そうだ。メイちゃんを助けるために、この女を利用させてもらう。文句は言わせねえぞ」
朽木がさやかの肩を引き寄せるのを見て、一瞬、嵐の表情に躊躇いがよぎった。
「嵐さん」
さやかは、静かに告げた。
「鳴子さんは、東京で朱雀組のスパイとして活動していました」
「鳴子が朱雀組のスパイだって…!?なんで…」
言いかけた嵐は、さやかの顔を見て言葉を失った。
さやかは頷いた。
「青龍会の情報を集めるため。そして、白虎組にいる僕の様子を、柘植さんに伝えることが、鳴子さんの役目でした。鳴子さんが青龍会にさらわれたのは、僕にも責任があるんです」
さやかは朽木と嵐の間をスタスタと通り過ぎると、ホテルの机からレターペーパーを一枚、破り取った。
「一応、念書を書いておきますね。柘植さんは心配性ですから」
さやかはボールペンで手早く念書をしたため、嵐に手渡した。
「はい。柘植さんに渡しておいてください」
「さやか、お前…」
「鳴子さんのことは任せてください。僕、秘策がありますから」
さやかはにっこり笑って、「じゃ、行きましょう」と朽木を促した。
「………」
何か言いたげな、でも言えない嵐の沈黙だけが、さやかたちの背中を送った。
深夜になって、ようやく霜田がホテル『桜寿閣』に到着した。
「補佐!」
「お疲れ様です!」
白虎組の補佐の帰還だったが、出迎えたのは眠たげな眼の高根と土井、それに冬枝とミノルの4人だけだった。
白虎組・秋津一家・朱雀組の同盟がまだ極秘である以上、霜田を大々的に迎えるわけにいかないからだ。
「霜田さん。病院行きますか」
冬枝が思わずそう声をかけたのは、霜田がやけにくたびれて、特に背広の肩や背中が汚れていたからだ。
――仮にも、朱雀組の人質にされてたんだからな。軽く痛めつけられたのかもしれねえ。
しかし、冬枝の同情がましい視線を、霜田は鬱陶しそうに手で払った。
「結構です。朱雀組は実に紳士的でしたから、私はかすり傷一つ負っていませんよ」
「はあ。でも、それにしちゃずいぶんボロボロに見えますが」
「余計なお世話ですッ!」
耳にキーンと響く金切り声に、冬枝は顔をしかめた。
――確かに、これだけ元気なら心配無用か。
「それより、朱雀組・秋津一家との兄弟盃は滞りなく終わったのでしょうね。何か粗相をすれば、白虎組全体の恥ですよ、冬枝」
「粗相なんかしてませんよ。この通り、俺たちゃすっかり仲良しこよしの兄弟です」
冬枝が隣のミノルを手で指し示すと、ミノルが軽く中折れ帽を上げた。
「お久しぶりです、霜田補佐。無事のご帰還、心よりお待ちしておりました」
「痛み入ります、秋津最高顧問。今後とも、我が白虎組をよろしくお願いします」
ミノルの白々しい挨拶に嫌味の一つでも返すかと思いきや、霜田は神妙に頭を垂れた。
冬枝は、何となく違和感を抱いた。
――なんだ?何か、胸の奥がザワザワする。
さやかを取り戻し、無事に白虎組・秋津一家・朱雀組の同盟を締結させた。ミノルから思いもよらない告白をされたものの、互いに目的を確認し合い、関係はより強固になった。
なのに、冬枝の足元は妙にフワフワするというか、揺れる小舟にでも乗っているかのように、落ち着かない。
――事が順調に進み過ぎてるせいで、現実味が湧かないのか?
こういう時の冬枝の勘は、たいてい当たる。無性に、さやかの顔が見たくなった。
――さやかに会えば、少しは安心できるだろ。
冬枝が霜田の前を辞そうとした時、ロビーにふらふらと嵐がやって来た。
「おう、嵐。霜田さんなら今、帰ってきたとこだぞ」
「………」
嵐の顔色は、紙のように白い。
嵐の姿を見た途端、霜田は黙って目を逸らした。嵐は低く唸った。
「そうか。パパも一枚噛んでたんだな…」
「何の話してんだ、てめえ」
「………」
嵐が「ダンディ冬枝…」と言いかけたのと同時に、客室から栗林が駆けて来た。
「大変です、ミノルさんっ!」
「どうしました、栗林」
「今しがた、大羽から連絡が入って……汐見の娘が『ブルー・ワイバーン』にさらわれました!」
「マキさんが…!?」
マキの名前を聞いて、傍にいた冬枝も嵐にも緊張が走った。
――あの不良娘が、『ブルー・ワイバーン』に拉致されただと…!?
白虎組が朱雀組によって買収された今の状況で、シマ随一の富豪である汐見の娘が拉致された。偶然とは思えない。
冬枝と同じことを考えたのだろう、ミノルは眼鏡の奥の瞳を険しくした。
「『ブルー・ワイバーン』……青龍会が相手では、警察はあてになりませんね」
「はい。汐見の要請もあり、白虎組で汐見の娘を助けに向かうそうです。5代目にはその…冬枝さんから伝えて欲しいと」
一応、表面上は白虎組は未だ朱雀組に買収された状態だ。『ブルー・ワイバーン』と闘うにあたって、念のため、柘植の了承を得ておけということらしい。
冬枝のほうをちらちらと気にする栗林に、冬枝は「分かった」と頷いた。
「…このこと、さやかが知ったらまた『自分が行く』とか言い出すだろうな」
「………」
嵐が先ほどから気まずそうに俯いているが、冬枝は気付かない。
それを見ていたミノルが、にっこりと言った。
「さやかさんにも、マキさんの件はお知らせしましょう」
「えっ!?本気かよ、お兄ちゃん」
「さやかさんとマキさんが親友同士なのは、冬枝君も知っているでしょう?ご友人の危機をお知らせしなかったら、後々恨まれますよ」
「それもそうか…」
冬枝とて、マキの身を心配しないわけではない。しかし、今はさやかの安全のほうが肝心なのでは、という気がした。
――まあ、さやかも今更どこにも行かねえか。
サービスエリアでの熱い抱擁から、まだ1日も経っていない。せっかく手にしたさやかにこんなところで逃げられるなんて、下手な双六だ。
冬枝とミノルと何故か無言の嵐は、スイートルームのさやかを訪ねることにした。
スイートルームへと向かうエレベーターの中で、冬枝は嵐に尋ねた。
「嵐。さやかの奴、もう寝たか?」
「さあ…」
嵐の返事は、いつになく歯切れが悪い。ミノルはちらっと嵐を一瞥したが、ほどなくしてエレベーターは最上階に辿り着いた。
「おーい。さやか、俺だ」
冬枝がドアをノックすると、少し間があってから、ドアが開いた。
「冬枝さん。何かあったんですか、こんな時間に」
さやかはまだ起きていたらしく、昼間と同じ格好のままだ。
冬枝は、マキがさらわれたことをストレートに説明した。
「マキさんが…!?今、どこにいるんですか」
「気持ちは分かるが、まず落ち着け。うちの組の奴らが助けに向かってる。ガキ共だって、本気であの娘をかどわかすつもりはねえだろ」
事実上、朱雀組の縄張りとなった今の白虎組で何故『ブルー・ワイバーン』がわざわざ騒ぎを起こしたのかは謎だ。しかし、白虎組とも付き合いのある汐見グループの令嬢、『汐見マキ』がさらわれたのは偶然ではないだろう。
奴らは白虎組との間で何らかの取り引きをするつもりかもしれない、と冬枝は見ていた。
「取り引き…そうか。そういうことか…」
さやかは一人呟くと、顔を上げた。
「冬枝さん。マキさんを助けに行ってもらえませんか」
「そう来たか…」
やはり、さやかが親友のピンチを傍観しているはずがなかった。予想通りといえば予想通りの返答に、冬枝は頭をポリポリと掻いた。
「自分が行くって言い出さないだけ、お前も利口になったな」
「僕だって、自分の立場はわきまえていますから。『兄弟盃の儀』は終わったし、冬枝さんがここにいる理由はないでしょう?」
平然と言ってのけるさやかに、冬枝は目を剥いた。
「お前、どこが自分の立場をわきまえてんだよ。俺は、お前を守るためにここにいるんだろうが」
「僕の護衛なら、朱雀組の皆さんがついてるから大丈夫です。皆さん、拳銃は勿論、防弾チョッキも着用してます。冬枝さんより頼りになりますよ」
「かわいくねえな、てめえはよ」
毒づく冬枝に対し、さやかは真顔だった。
「今は、僕よりマキさんのほうが危ないってことです。お願いします、冬枝さん」
「俺が出張らなくたって、組の奴らが助けに行くって言ってるだろ」
正直、冬枝はさやかの傍を離れたくない。
しかし、さやかは冷静に言い募った。
「『ブルー・ワイバーン』が今、どれほどの武器を所持しているかはわかりません。白虎組の皆さんは、秋津一家とのケンカで疲弊しているでしょう?柘植さんに家を追い出されたばかりだし」
「ああ、確かにそうだ」
組事務所は破壊され、指揮系統などあったものではない。同盟が成立した時点で柘植は白虎組関係の土地の利権を返却したらしいが、実際の引き渡しや引っ越し作業には時間がかかるだろう。宿なしの組員も多いはずだ。
――言われてみりゃ、こんな状況であのマキって娘を助ける力がうちの組にあんのか、分からなくなってきたな…。
さやかは再び「お願いします」と言った。
「僕には何も出来ないけど、冬枝さんなら『ブルー・ワイバーン』と闘えます。僕の代わりに、マキさんを助けてあげてください」
「さやか…」
東京から来た愚連隊の恐ろしさは、さやかが一番骨身にしみているはずだ。女友達を今すぐ助けに行きたい気持ちが、スカートの裾を握り締める手から伝わってきた。
「分かった。俺に任せとけ」
さやかは、冬枝の傍らで唇を噛んでいる嵐に目を向けた。
「嵐さん。嵐さんも、一緒にマキさんを助けに行ってもらえませんか」
「…俺が?」
嵐の反応は、妙に鈍い。
冬枝はようやく嵐の様子を訝しんだが、さやかの続く言葉に気を取られた。
「冬枝さんは秋津総長にボコボコに叩きのめされたばかりで、本調子じゃないと思うんです。嵐さんが一緒に行って、手助けしてくれませんか」
「おいさやか、てめえ、ものには言い方ってもんがあるだろうが!」
冬枝が秋津タケルに『ボコボコに叩きのめされ』るところを、さやかは間近で目撃している。
さやかの目の前で失神して倒れたところを思い出すにつけ、冬枝は赤面しそうだった。
「…分かった」
嵐が蚊の鳴くような声で言うと、さやかは「ありがとうございます」と笑った。
「冬枝さん。マキさんのこと、よろしくお願いします」
さやかがぺこっと頭を下げたので、冬枝は照れ臭くなった。
「よせよ。俺が帰って来るまで、ここで大人しく待ってるんだぞ」
「はい。冬枝さんも、ケガしないでくださいね」
「ガキ相手にケガなんかするかよ。とにかく、マキって娘のことは心配すんな。今夜はちゃんと寝るんだぞ、さやか」
さやかは「…はい」と、力なく頷いた。
「さやかさん」
すぐにホテルを出ようとした冬枝を制し、ミノルが2人の間に割って入った。
「はい?」
「何やら、嗅ぎ慣れない匂いがしませんか?男物の香水のような」
冬枝が「あ?」と首を傾げ、嵐がわずかに眉をひそめた。
さやかは「ああ」と言って苦笑した。
「シャワーコロンの匂いでしょう。僕の部屋だっていうのに、嵐さんが勝手に使うから、部屋中知らない男の人の匂いでいっぱいです」
「それはそれは、イタズラっ子もいたものですね」
「しょうもねえことしてんな、てめえは」
冬枝に小突かれても、嵐は何も言わない。
ミノルはじっとさやかの瞳を見つめていたが、フッと笑みを浮かべた。
「さやかさんも、今夜はお疲れでしょう。おやすみなさい」
「おやすみなさい。冬枝さん、気を付けてくださいね」
「ああ」
去り際、さやかはもう一度、ドアから廊下に顔を出して言った。
「冬枝さん、待っててくださいね!」
「…?おう」
――『待ってます』じゃなくて、『待っててくださいね』ってのは、どういう意味だ?
親友が危険な集団に誘拐されたと聞いて、さやかも動揺しているのかもしれない。言い間違えたのだろう、と冬枝は解釈した。
背中で軽くさやかに手を振り、冬枝たちはエレベーターに乗り込んだ。
「女優だな、麻雀小町」
部屋に隠れていた朽木に皮肉っぽく言われ、さやかは首を横に振った。
「…芝居でもないですよ。まさか、マキさんが『ブルー・ワイバーン』に連れ去られるなんて…」
「マキって、あの時、俺が麻雀で負かした女子高生だろ?夜の街なんかうろついてるから、東京者に目をつけられたんだろ」
朽木の下世話な推測に対し、さやかは別のことを考えていた。
――恐らく、『ブルー・ワイバーン』の狙いは…。
さやかの解が当たっていれば、マキも冬枝も危険な目には遭わないはずだ。
さやかは、ドアを開けて、廊下に誰もいないのを確認した。
「冬枝さんたちはもういません。行きましょう、朽木さん」
「ああ。だが、表からは行かねえぞ。朱雀組の連中がうようよいるからな」
勿論、さやかもそれは承知だ。かと言って、朽木がこの部屋に侵入するのに使った、ホコリまみれのダクトを辿るルートも使うつもりはない。
さやかは窓際の壁に備えられたケースを開けて、長いホース状の紐を取り出した。
「朽木さん。これを使って、窓から外に出ましょう」
「窓からって…てめえ、正気か!?ここが何階だと思ってやがる」
目を見開く朽木に、さやかはけろりと答えた。
「12階です。だから、非常用の避難ロープがあるんじゃないですか」
「冗談じゃねえ。途中で落ちたら、目も当てられねえぞ」
「この高さだと、眼球が損傷する可能性が高いですものね」
「縁起でもねえこと言うんじゃねえ!」
さやかに言わせれば、12階分もダクトを伝ってきた朽木のほうが正気ではない。途中で道に迷ってしまったら、それこそ餓死か窒息死する恐れがある。
「朱雀組の見張りは、外の正面玄関にしかいません。この窓から駐車場に降りれば、朽木さんのジャガーまですぐですよ」
「…てめえ、どうして俺が車で来たって分かった」
さやかは、鼻をつまむ仕草をした。
「カーコロンの匂いです。朽木さんって、車まで香水臭いんですね」
「ほっとけ!」
おかげで、ミノルに朽木の存在がバレるところだった。先ほどの会話を思い出し、さやかはふとミノルの深い蘇芳色の眼差しを思った。
――ミノルさんは、何もかもお見通しなのかもしれないな。
「とにかく、事は一刻を争います。鳴子さんを助けに行くのに、これが一番手っ取り早い方法なんです」
さやかの説得に、朽木は渋々頷いた。
「…いいだろう。レディファーストだ、てめえが先に降りろ」
「このロープ、耐荷重300kgですから、朽木さんが先でもちぎれたりしないと思いますけど」
「つべこべ言うんじゃねえ!てめえこそ、手なんか滑らせるんじゃねえぞ」
「分かってますよ」
さやかだって、12階から壁伝いに降りるのは怖い。
しかし、鳴子が東京で青龍会にさらわれ、『ブルー・ワイバーン』がマキを誘拐した今、さやかはもう退けなかった。
――僕が動けば、状況が変わる。
窓を開けると、夜風がひゅうと舞い上がった。髪を揺らす風の冷たさを、さやかは意識しないようにした。
重たいロープを、朽木と2人がかりで何とか降ろした。幸い、人に気付かれた様子はないが、ロープの先は暗闇の中だ。
さやかは、ぎゅっとロープを握り締めた。
「待っててくださいね、冬枝さん」
もう一度、口の中で呟いた。ごめんなさいでもさようならでもなく、約束の言葉を。
――僕は、必ず冬枝さんの元に帰ります。
さやかと朽木の真夜中の決死行を知る者は――誰もいない。




