64話 狂想曲+蝿(1)
アスタロトがルキフグスに膝をついている頃、Sランクのとある施設に少年はいた。
黒く下に伸びた真っ直ぐな髪。白衣の上からでも分かる無駄のない筋肉質な身体。しかし、少し背の高い女性と変わらないくらいの身長により髪が伸びたら性別が分からないくらいの容姿だった。白衣の名札には椋川皐月と書かれていた。
「つまんねー」
独特な語尾を持つ皐月。彼の視線の先には牢獄のような部屋に閉じ込められた一人の人間がいた。牢獄の格子の部分が強化ガラスの板となっており、皐月はそこから弱りきった人間をただ眺めていた。
「こいつもハズレかー」
人間を閉じ込めている部屋の隅には排泄物を入れるために置かれた安っぽい木の桶があった。既に何度も排泄物が入っていた為に木の部分はほとんどが腐敗し、溜まった排泄物に蝿が集っていた。
閉じ込められていた人間の男は衣服を着ることも許されず、裸で過ごしていた。随分長い日数を奪われていたのだろう。身体は骨が浮き出るほどやせ細り、髪も徐々に白くなり、殆ど抜けていた。
「あ……あぁ……」
言葉を交わすことも忘れたのだろう。それか皐月に言葉を奪われたのか、それはこの二人にしか分からなかった。
「極上の幸せから、絶望の底まで一気に落とされた時、人間はその個体の才能以上の魔力を生み出せると思ったんだけどなー。そしたらほとんどの人間を悪魔に出来ると読んだけど、そんな上手くいかないかー」
皐月がいる部屋の隅にあるキーボードに何かを打ち込んだ。すると次の瞬間、牢獄側の方から霧状の何かが噴出された。霧が部屋を充満した頃にはやせ細った人間は生きていなかった。全身の色が醜く変色し、白目を向いて死んでいた。
「元々魔力がゼロに近い人間が結局悪魔になった所でゴミと同じでー。時間を使うのが勿体ないんだよなー。こう、自動的に下級悪魔を作るシステムとかあればかなーり楽なんだけどなー」
机に置いてある喫茶店でテイクアウトした冷たいドリンクを飲む皐月。生クリームやチョコレートを氷と共に粉砕して混ぜ合わせできた飲み物の上に泡立てた生クリームが乗っているそれは皐月の口の中を甘みで支配した。
半分ほど飲み切った頃にふと、皐月の背後から気配がした。毒々しい気配。振り返るとそこには和服を着た銀髪の少女が立っていた。
「お久しぶりです。十地獄第一地獄“いと高きものどもの地獄”第二下層獄長ベルゼブブ様。十地獄第一地獄“いと高きものどもの地獄”第三下層地獄長ルキフグスです」
皐月をベルゼブブとよんだ少女は和服の裾を手でめくりあげ、膝を着いた。美しい銀髪と月下美人の髪飾りがサラリと揺れた。
彼女が現れた時の魔力が人間だった死体をガラス板を貫通して包み込む。
「あー。ルキフグスー。花の契約者は始末できたのー?」
口をストローから外してルキフグスに視線を送る皐月。その言葉にルキフグスはもう一段階頭を深く下げた。
「申し訳ございません。花の契約者は未だに……。しかし、それ以上に面白い事が起きてますよ。どうですか、ボクと一度Aランクへ行きませんか?」
そう言ってルキフグスはEランクで起こっていた出来事を簡単に説明した。そして、その後コキュートスでアスタロトと話したことなども全てルキフグスは皐月に話した。その間一度も皐月は口を挟むことは無かった。ただ、黙々と耳を傾けながら生クリームが半分溶けた飲み物を飲んでいた。
飲みきった頃にちょうどルキフグスの話しも終わり、沈黙が走る。時折、皐月がカップの底に張り付いているチョコレートソースを飲もうとストローの音がするだけだった。
「なるほどねー。それは確かに面白そうだなー。ところで、その新しいウリエルの契約者はどんな人間ー?」
皐月の言葉にルキフグスはゆっくりと口角を上げた。同時に頭も上げて皐月に視線を送る。
「椋川弘孝。あなたのお兄様です」
弘孝の名を聞いた途端、皐月は 闇と毒を混ぜたような光りに包まれた。数秒後、そこには悪魔の格好をした皐月の姿。白衣だった衣服は毒によって溶け、皐月自身は紫色の長いコートのようなものを羽織っていた。
ただ、他の悪魔と違うのは黒い翼ではなく、蝿などの虫と同じ羽が六枚生えている所と頭部にある二つの赤い複眼のようなものだった。
「やーっと動いたんだー。兄貴ー。って事は、可憐ねぇもそろそろ自覚し始めたってことー?」
気だるそうな声色と口調だが、確かにある殺意。それは皐月が悪魔であると同時に自分の兄が天使となって自分を殺しに来ると確信からきていた。皐月の魔力もまた、ガラス板を貫通して死体を包み込んだ。
「はい。愛の大天使ガブリエルが磯崎可憐の契約者となり、契約待ちの状態です。アスタロトから確認しました」
皐月がベルゼブブに変身するときにする死人の臭い。それはルキフグスの鼻孔を刺激した。他の契約者の死人の臭いとは違い、虫の死骸が腐ったような臭いも混ざっていた。
「おっけー。そりゃそれは花の契約者よりも大事じゃーん? オレもそっちに参加しよー。暇だしー。あ、あと、バエルにも参加するように言っといてー」
皐月の言葉にルキフグスは満面の笑みで返した。銀髪が美しく揺れ、彼女の笑顔をより一層美しくした。
「御安心ください。既にバエルには招集命令をかけております」
ルキフグスの言葉と共に彼女の背後に闇の空間が現れ、そこから一匹の黒猫が現れた。猫の毛から死人の臭いがした。
「やぁ。すみませんね。遅くなって。十地獄第七地獄“死の影”地獄長バエル。馳せ参じました」
黒猫から聞こえる成人男性の声。次の瞬間、黒猫の身体がドロドロと溶けていった。
先程より強烈な死人の臭いがルキフグスと皐月の鼻孔を刺激する。黒猫だった液体が沸騰し、そこから三十代後半のスーツを着た男が現れた。銀色のフレームの眼鏡を人差し指で整えた。その後ゆっくりとルキフグスより一歩さがり膝をついた。
「話は聞いています。裁きの大天使によって愛の大天使、戦いの大天使が既に動き、癒しの大天使も候補があがっていると。四大天使が一度に現れるとなるとこちらも遊んでいる暇はないということですね。ベルゼブブ様、ルキフグス様」
跪く時にずれた眼鏡を再度人差し指を使い戻す。眼鏡がカチャリと音をたてた。
「そうだねー。いくらオレたち地獄長が揃ったところで、サタン様一人と比べたら弱いしねー。大天使が全員揃ったらサタン様四人分くらいあるって聞いた事あるからさー。オレたちがどれだけ集まった所で虫けら以下なんだよなー」
羽音を立てる皐月。他の契約者とは異なる形をした羽は人間を不快にさせる音だった。皐月が初めてルキフグスとバエルに身体を向けた。二人の忠誠の姿勢を確認すると、再度背を向け、目の前のキーボードに何かを入力した。
数秒後、死体が転がっている部屋と皐月たちがいる部屋を仕切るガラス板が上昇し、一つの部屋となった。死体が辛うじて生きていた時に命を奪った霧の刺激臭。排泄物が腐敗した臭い。そして、ガラス板を貫通して死体を包み込んだ悪魔達の魔力により腐敗した死体の臭い。
全ての不快な臭いが三人の悪魔を包み込んだ。ルキフグスとバエルは顔を歪めることなくただ、頭を下げ、皐月の指示を待っていた。
「食え」
腐敗した死体を指さす皐月。その口調は先程までの気だるそうな感じではなく、第一地獄の地獄長らしい覇気のある雰囲気だった。
「御意」
返事をしたのはバエルだった。ゆっくりと立ち上がり、ルキフグスと皐月の横を通り過ぎる。失礼しますと口にし死体の前で膝を着くと、死体の右腕を軽く持ち上げた。
腐った肉が微かに繊維質な音をたてながら切断される。人間なら触っただけでも皮膚が溶け、悲鳴をあげるほど悪化した死体の皮をバエルは素手で掴み、無造作に口にした。
舌と口内が焼けるように熱く、死体から吹き出る気体が血液中の酸素を奪い、窒息死を連想させる息苦しさがあった。