第八話 家庭裁判所の待合室
土曜の朝、私は悠斗を戻さなかった。
代わりに、先生に電話をかけた。
「戻さないと、こちらが悪くなりますか?」
「まず、通院が終わるまでの居場所を、書面で決めましょう。口でやり取りすると、あとで食い違いますから」
「うちは、戻せと言われています」
「戻すかどうかではなく、治療のあいだどこで暮らすかを決めるだけです。そう伝えます」
紙は、四日後にできた。
ギプスが外れて経過観察が終わるまで、悠斗は私のところで生活する。
学校への連絡は私が行い、病院の予定は双方に共有する。費用の取り決めは、今までどおり。
元夫は、その紙に署名した。
署名の欄の下に、「一時的なものとする」と自分で書き足してある。
先生は、それを消さなかった。
「一時的、で結構です。これは親権者を変えるものではありませんから」
その週の土曜、短い電話があった。
「ギプス外れたら戻すからな」
「外れたあとのことは、そのとき話します」
「そのときって、いつだよ?」
「先生を通してお願いします」
私は通話を切って、時刻を書いた。書く手が、前より速い。
悠斗の机は、アパートの窓際に置いた。
学校の放課後の預かりに申し込んで、面談のあと、2月からの枠が取れた。
枠が始まるまでは、通院日だけ半休を使う。
「お母さん、ここ、ランドセル置くと半分だね」
「言ったでしょ」
「うん。言ってた」
悠斗は連絡帳のページを、左手で押さえた。ギプスのほうは、机に置いたままにしている。
*
2月の初め、親権者変更の申立てをした。
先生と二人で、出す紙を並べた。
診断書と、病院の受診記録。
学校の連絡帳の写し。
連絡帳には、1月の火曜に「体育を見学しました」と担任の字で書いてある。
その下の保護者欄は、空いたままだった。
担任には、月曜の朝に電話をしてある。
「見学の理由は、本人が腕を痛がっていたから、と記録にあります」
受話器を持ったまま、連絡帳の日付を見ていた。
「これは、学校が知っていたことの証明にはなります」
「父親が知らなかったことには、なりませんね」
「なりません。知っていた証明は、別にあります」
文江さんから元夫へのメッセージの転送分が、一枚あった。
1月の最後の月曜、20時12分。「悠斗が手が痛いって。湿布貼っておいたから」。
その下に、返信が並んでいる。
「わかった。週末見る」。
週末は、金曜の引き渡しの日だった。
「骨折があったから父親が不適任、という組み立てはしません」
先生が、紙の順番を入れ替える。
「約束した世話が実際にどうだったか。痛みを知ってから何日空いたか。こちらが何を用意できるか。この三つです」
私も自分の紙を出す。勤務時間の一覧と、月末の忙しい週に印をつけたもの。
放課後の預かりの受け入れ通知と、アパートの賃貸借契約書。
真紀さんの通院の付き添いは、週の前半に寄せ直した。火曜の弁当は、そのまま続けている。
「支援の量を減らしたんですね」
「減らしました。減らしていいと、本人に言われたので」
先生は、そこだけ小さくうなずいた。
その日の午後、1月に相談をくれた会社と会った。
「4月から、月に5件前後でお願いできませんか」
「5件、ですか」
「100万人ですよね。単価は50万円で。使える範囲が、去年とは違うので」
手帳の余白に、5と書いた。
一人では回らない本数だ。
2月の半ば、法人にした。代表の欄に、三浦奈緒。
会社に名前はつけなかった。書類の上では、私の会社。
税理士は、真紀さんの知り合いに頼んだ。
「決算期だけ、先に決めてね」
法人口座の通帳は、法人にした週の終わりに届いた。
委託は三人。文章の人、動画の人、問い合わせを返す人。
受けられる本数と時間帯は、先に書いてもらう。
報酬と納期と支払日は、契約書に入れる。
家裁の期日と、三人の納品日と、支払日を、同じ一枚に並べた。
25日の欄だけ、行が四つ。
18日の欄は、一行。港区のタワーマンションの売買契約。
頭金は、秋からの案件と、暮れに出した自社の収納グッズの入金。残りは住宅ローンで、役員報酬から返す。
春の清算金は、入ったら返済に回す。
*
汐枝家庭裁判所の待合室は、三階の南側にあった。
椅子は四人掛けが五列で、背もたれが低い。
脚の底にフェルトが貼ってあって、引いても音がしない。
窓際から二番目に座って、鞄を膝に載せた。
一回目の期日は、2月の下旬。
元夫は最後まで、変更に同意しなかった。
「仕事も家も変えてないのは俺だ。あいつが出ていったんだろ」
調停委員は、それを書き取って、こちらにも同じ時間を使った。
「お仕事の日に、お子さんは何時から何時まで、どこにいますか」
「3月までは、学校が終わったあと、学区内の児童クラブに」
「4月からは?」
「港区の新居のそばの学校と、そこの学童に。預かりは18時まで、私は18時15分に着きます」
「月末で遅れる日は?」
「市のファミリーサポートに登録しました。2月に二回、実際に使っています」
委員は、そこをボールペンの先で二回、叩いた。
二回目の期日は、3月の半ば。
そのあいだに、悠斗は家庭裁判所の人と二回話した。私も元夫も、その部屋には入っていない。
二回目の日、先生が同席する場で、元夫は先に別の話を始めた。
「お前、確定申告してんのか?」
「してます」
「副業、会社に黙ってやってんだろ。バレたらどうなるか分かってんのか!」
「総務に届け出て、控えをもらってます」
元夫が、上着のポケットに手を入れた。
そこに何かが入っているわけでもない。この人は、困ると手の置き場をなくす。
十四年見てきた癖が、いちばん最後まで残った。
「だいたい、あのアカウント、月1000万は稼いでるだろ」
先生が顔を上げたのが、視界の端に見えた。
私は、否定しなかった。
1000万という数字がどこから出てきたのか、私は知らない。知らないものを、この場で訂正する理由もない。
「それだけ入るなら、養育費だってもっと出せるはずだ」
「金額は資料を見て決めることです。資料は、先生に預けてあります」
先生は、そのあと調停委員にこう言った。
「副業の届出、契約書、入金記録、前年分の申告は、すべて提出済みです。ご覧いただけます」
「なお、相手方に個人の納税資料を照会する権限はありません。公開されている数字から所得を推計することもできません」
「また、申立人は都内中心地、港区のタワーマンションを購入済みで、4月より母子で入居する予定です。転入先の小学校と学童も決まっています」
置き場をなくした手が、上着の裾をつかんでいる。
元夫は、それ以上言わなかった。
合意ができたのは、二回目の期日の終わりだった。
親権者を母に変更する。悠斗は3月まで今の学校、4月から転入先の学校に通う。
父との面会は、月に二回。学校と病院の連絡は、双方に。
養育費は、算定表をもとに、立場を入れ替えて決め直した。
お金を払って親権を買い戻す、という項目はない。
調停が成立した日から十日のうちに、市役所に届け出を出した。
窓口の人が、紙の端を揃えて、受付印を押した。
悠斗の姓は、高瀬のままだ。
戸籍の上で変わらないことがあると説明したとき、悠斗は「へえ」とだけ言った。
「名前、変わんないんだ」
「変わらない」
「じゃあいい」
*
家に帰って、夕飯のあと、私は悠斗の向かいに座った。
「12月に、ここにいたいって言ってくれたよね」
悠斗は、麦茶のコップを両手で持った。
「あのとき聞いたのに、ごめんね」
「……別に」
「別にじゃないよ」
悠斗はコップの縁を、下唇に当てたまま動かさない。
「お母さん、あのとき、無理だと思ったの?」
「思った」
「今は?」
「今は、できる紙を全部そろえた」
悠斗は麦茶を飲んで、コップを置いた。
「じゃあ、いいよ」
それだけだった。
10歳の許し方は、短い。
短いぶん、取り消しもしない。
私は皿を下げて、流しに水を張った。
*
3月の下旬、私の会社の法人口座の用件で、銀行の応接に通された。
入ってきたのは、橘さんだった。
「三浦さん、お待たせしました」
「お願いします」
私が出したのは、会社の月次の売上資料。
橘さんは口座の入出金と突き合わせ、順に指で追う。売上の合計の行で、めくる手が止まった。
「……確認しました。お預かりします」
私が受領印を押し、橘さんはそれを確かめてから鞄を閉じた。
扉のほうへ二歩歩いてから、こちらを向く。
「亮介さんとは、もう会っていません」
私は、書類の袋を持ったまま立っていた。
「そうですか」
「お伝えしておいたほうがいいと思って」
「わかりました」
娘さんのことも、いつからのことかも、私は聞かなかった。
橘さんは扉の前でもう一度お辞儀をして、次の訪問先の名前を口にして、出ていった。
*
同じ週、去年の秋からの依頼主と、来期の話をした。
「4月からも、月に二件でお願いしたくて。単価は、いまの条件で構いません」
「ありがとうございます」
「三浦さんのところ、だいぶ増えましたよね。うちの企画と、ちょうど合うので」
「数は、あまり見ていないんですけど」
「見なくていいと思います。うちが見るので」
元夫が自分のアカウントに書いたのは、そのあとだった。
顔写真も、勤め先も出したままのアカウントで、元妻を「金目当ての女」と書いた。
私の投稿の画面写真を、自分で並べている。
読んだのは一度だけで、何も返さなかった。
真紀さんから電話が来て、「見た?」と聞かれた。
「見ました。触りません」
「うん。触らないで」
会社の昼休みに、部長がコーヒーを持ってきて、一度だけ聞いた。
「家のこと、落ち着いた?」
「落ち着きました。月末は今までどおり出られます」
「そう。じゃあ4月の資料、頼むわ」
それ以上は聞かれなかった。私は、聞かれなかったことに助けられている。
3月の下旬、依頼が一件入った。
春の新生活向けの、収納用品の写真3点と、短い文章。
「納期は今月中で」
私は手帳を開いた。
金曜は悠斗のギプスの外来で、土曜は学童の説明会がある。
「金曜は通院があるので、納品は月曜になります」
画面の向こうで、相手が黙った。
「それでよければ、お引き受けします」




