終話 奈緒さんの席
3月28日の朝、目覚ましより先に、スマートフォンが震えていた。
画面を下まで送っても、通知が終わらない。
悠斗はまだ寝ている。台所の電気だけつけて、昨夜の投稿を開いた。
音声の再生回数の桁が、見ているあいだに一つ増えた。
検索の画面の、トレンドの欄。上から二つ目に「せいぜい俺のために稼げよ」があって、その三つ下に「金目当ての女」が並んでいる。
押すと、私の投稿がいちばん上に出た。その下に、コメントが続いている。
「何もしてないって、この人に言ったのか」
「養育費まで元妻に稼がせるつもり?」
「この音声を聞いても、金目当てと言える?」
「娘のいる親にも聞いてほしい」
「元妻に稼がせて笑う男、本当にいるんだな」
もう少し下に、別の人の投稿があった。
元夫のアカウントの画面写真と、私の投稿のコメント欄を、横に並べたもの。アイコンが同じところに、赤い丸がつけてある。プロフィールの顔写真と、勤め先の行にも、線が引いてあった。
同じ並びの投稿が、いくつも回っている。どれも、元夫が自分で出していたものだけでできていた。
昼休み、会社の休憩室でもう一度開いた。
その並びの下に、見覚えのある会社の名前で返信がついている。名前の横に、公式のマーク。
「当社社員に関するお問い合わせについて、事実関係を確認しております」
返信の下の数字は、読んでいるあいだも動いている。
私は画面を閉じて、午後の売上照合の束を引き寄せた。
*
週末のあいだに、連絡が二つ来た。
一つは主婦向けの媒体の編集の人で、取材の依頼。
もう一つは、テレビの番組の担当者からだった。
「200万フォロワーの方に、再就職までのお話を伺えればと思いまして」
あの人がコメント欄に書き続けなければ、あの録音は日付の名前のまま、私の端末から出なかった。私は返事の画面を開いて、一行目を打った。
「お受けできます。ただ、お話しできるのは仕事のことだけです」
家庭のことと、悠斗のことと、真紀さんのことには、その一行目で線を引いた。公開した通話のほかに、家の中の録音はお出ししません、とも書き添える。
取材の候補日を、三人の納品日と支払日の横に並べてから、返信を送った。
*
3月31日、月次の資料を開いた。
3月の月商は、500万円。
PRの案件と、去年の暮れから出した自社の収納グッズ、それと貼ってあるリンクの手数料。足すと、その行になる。
一年前、私が一か月に使えたのは3万円だった。
見ていると、数字が数字でなくなってくる。私は一度、画面を閉じた。
先にしたのは、委託費の振込だった。
三人ぶんを済ませて、それぞれに納品の礼と、4月の本数を書いて送る。
「入金、確認しました。早かったですね」
「先方からはまだなんですけど、そこは別なので」
依頼主の入金が遅れるのは、こちらの都合だ。三人の家の都合ではない。
机の引き出しには、日商簿記1級の参考書が一冊。最初の100ページだけ、折り目がついている。
その奥に、去年の11月の家計の紙が一枚あった。下の端に、100万円と私の字。
引っ越しの鞄の内ポケットに、それを入れた。
*
その日の夕方、悠斗が学童から帰ってきた。
ギプスは2月の終わりに外れて、いまは外来が月に一度になっている。
「ただいま」
「手、洗ってから置いて」
悠斗はランドセルを机の横に置いて、袋を持ったまま台所に来た。
「お母さん、給食袋、ここに掛けていい」
「いいよ。フック、そこの右」
悠斗は掛け終わってから、テーブルの上のノートパソコンを覗いた。
「これ、お母さんが撮ったやつ?」
「そう」
「字は?」
「字は、別の人に頼んでる」
「お母さんに頼まれて、家で仕事してる人もいるんだよね」
悠斗は自分で言って、自分でうなずいてから、冷蔵庫を開ける。
*
水曜。出かける前に、体重計に乗った。
64キロ。電池の蓋が浮いているのを直して、その上にタオルを掛けた。
汐枝駅の改札の外で、悠斗が旧い家に置いてきた荷物を受け取る約束だった。
紙袋が二つ。夏の体操着と、去年の自由研究の工作。
悠斗は学童にいる時間で、ここにはいない。
元夫は紙袋を私の足元に置いて、立ったまま話しはじめた。
「会社、クビになった」
私は、続きを待った。
「取引先から問い合わせが来て。あの音声、社内で回ってたんだよ。どこの席からも聞こえてくる」
「はい」
「月曜付けで、解雇だ」
上着の襟の、社章があったところに、小さな穴が二つ残っていた。
改札の機械が、続けて三回鳴った。
「タワマン買えるくせに、養育費くらい待ってくれてもいいだろ。半年でいい」
「先生を通してください」
「話くらい、ここでできるだろ?」
「できません。決まっているものを、ここで変えることはしません」
元夫は、紙袋の持ち手を見ていた。
「……なあ、奈緒。もう一度、考え直さないか?」
「考え直しません」
「悠斗だって、そのほうが」
「その話も、しません」
元夫はうなずかないまま、半歩下がった。
そのうしろから、文江さんが出てくる。
コートの肩のところが、余っていた。
「奈緒さん」
「はい」
「亮介が、ああなってしまってね。もう、あの子には頼れないのよ」
「近所で、指をさされるの。ゴミを出しに行っただけで、うしろで何か言われて。もう外にも出られなくて、今日も亮介についてきてもらったのよ」
「それに、『奈緒さん、タワマンだって?』って。……こういうのは、伝わるのが早くて」
「そうですか」
文江さんが、頭を下げた。
改札の前で、私の顔より低いところに、白くなった分け目が見えた。
「少しでいいから、待ってあげてくれないかしら?」
私は、紙袋を二つとも持ち上げた。
「養育費のことは、先生を通してお願いします」
「奈緒さん」
「悠斗の予定は、いままでどおりお知らせします。4月の面会も、同じです」
それだけ言って、私は改札のほうへ歩く。
振り返らなかった。言ってやりたい言葉は、一つも浮かんでこない。
紙袋の持ち手だけが、指に食い込んでいた。
*
木曜の夜、学童に悠斗を迎えに行って、そのまま電車に乗った。
汐枝から都心まで、1時間と少し。
悠斗は途中まで窓の外を見て、あとは寝ていた。
起こしたのは、乗り換えの二つ手前。
「まだ?」
「あと二つ」
駅を出て、坂を少し上がる。
港区のタワーマンションのエントランスは、自動ドアが二重になっていた。
管理室の人が、こちらを見て頭を下げる。
エレベーターの中で、悠斗は壁の鏡に自分を映していた。
「お母さん、ここ、何回目?」
「三回目」
「ぼくは一回目」
廊下に出ると、外の音がしない。
鍵を出して、鍵穴に入れた。
この一年、私は自分の名前でいろいろな紙を出してきた。鍵を出すのは、初めてだ。
回すと、思ったより軽く開いた。
中は空で、床に養生テープの跡が残っている。
悠斗は靴を脱いで、奥へ歩いていった。
窓の前で止まる。
下に、道の明かりが二本、長く伸びていた。
「……ここ、うち?」
「うち」
悠斗は窓枠に手をついて、顔を寄せた。
「電気、つかないの」
「明日から」
「じゃあ、このままでいいね」
私は鞄から入居の書類を出した。間取り図と、鍵の受け取りの紙。
その下に、売買代金の欄があった。1億2000万円。
同じ鞄の内ポケットに、去年の11月の家計の紙が入っている。下の端の、100万円。
二枚を重ねて、鞄に戻した。
高層階の窓は、開かない。悠斗はそれを一度引いてから、また外を見た。
*
土曜の午後、真紀さんの家に寄った。
玄関に、ご主人の靴と大きいスニーカーが並んでいる。
「奈緒さん、上がって。お茶淹れるから」
「私が淹れます」
「座って。そこ、あなたの席でしょ」
高校生の彼が椅子を一つ横にずらした。ご主人が新聞を畳んで、テーブルの端に寄せる。
台所の流しの横に、水切り籠が出ていた。ザルが一枚、伏せて置いてある。
通院の予定表は冷蔵庫の横に貼ってあって、私はそれを見ない。火曜の弁当のことは、覚えている。
「4月から、あの子も二年生よ」
「息子さん、もうそんなに」
「大きいのは体だけ。靴下は脱ぎっぱなし」
「うちもです」
彼が麦茶を三つ運んできた。
部活の朝練が6時半だという。
「朝練の日は、私が起きられないこともあるのよ」
「木曜も、二つ持ってきましょうか?」
「火曜のままでいい。数を増やさないで」
真紀さんは、そこだけ譲らなかった。
「奈緒さん、家のほうは?」
「明日、港区に。悠斗の学校も向こうです」
「仕事は?」
「まだ途中です」
言ってから、少しおかしくなった。一年前は、途中だとも言えなかった。
真紀さんは湯呑みを置いて、椅子から立ち上がる。
「よくやったね」
それから、私の肩に手を回した。
私の頭が、真紀さんの首のあたりに来る。
背中を二回、軽く叩かれた。
悠斗と暮らせて、帰れる場所がある。いま確かなのは、その二つだけだった。
私は目を閉じて、しばらくそのままでいる。
台所の窓が半分開いていて、外で誰かが自転車のベルを鳴らした。




