第七話 病院へ行こう
1月の火曜日、弁当を二つ持って小森さんの家に寄った。
玄関を上がってすぐの部屋に、ベッドが移してあった。
「ありがとう。息子のぶんまで、毎週ごめんね」
「数が増えるだけなので」
「私の台詞を取らないでよ」
小森さんが笑って、それから、テーブルの椅子を引いた。
「座って。話しておきたいことが二つあるの」
私は弁当の包みを横に置いて、座った。
「子宮頸がん。去年の4月に分かってた」
台所で、換気扇が回っている音がした。
「4月」
「そう。あなたが店に入ってきた月」
「……あの、じゃあ、引き継ぎは」
「治療は治療で、ずっと受けてた。休んだ日もあったでしょう」
私は、9月の木曜に小森さんが二日続けて休んだことを思い出した。
風邪だと聞いて、私はそのとき、メールで資料を送っただけだった。
「言わなかったのは、言う理由がなかったから。今は、あるの」
小森さんは湯呑みを両手で持った。
「二つ目。私、こまなの」
私は顔を上げた。
「こまって、私の名前から取ったの。小森の『こ』と、真紀の『ま』。それだけ」
言葉が出るまでに、たぶん5秒かかった。
「4月の、ダメ出しの」
「うん。あのとき返信したのが最初」
「面接、小森さんが」
「してない。あれは店の採用で、私は本部にいた」
湯呑みが、茶托に戻る。
「入ってきた人の名前を聞いて、顔を見て、あれ、と思った。それだけ」
私は自分の膝を見ていた。
4月の灰色のアイコンと、6月の昼休み。
9月の精算表と、12月の段ボールの写真。
全部、同じ人の言い方だった。
「怒った?」
「怒ってないです」
「泣きそうな顔してる」
「してません」
していた。
手の甲でこすってから、私は言った。
「真紀さん、って呼んでもいいですか?」
「いいよ。じゃあ私も、奈緒さんにする」
その週から、私の予定表に真紀さんの通院日が二つ入った。
付き添いには、会社の有給を半日ずつ使う。上司には、友人の通院とだけ伝えた。
買い物は、自分のぶんと一緒にまとめる。ご主人が帰る日は、玄関に袋を置いて帰った。
真紀さんは、頼む日と頼まない日を、毎週はっきり分ける。
分けてもらえるほうが、私も続けられた。
*
その日、帰り際に真紀さんが手帳を開いた。
「奈緒さん、来週の火曜、私、朝から検査なの。お弁当はいらない」
「じゃあ、水曜にしましょうか」
「水曜は主人が休み。いらない」
真紀さんはそこで、私の手元を見た。
「仕事のほうは、いま何件?」
「今月、二件です」
「同じところ?」
「別のところです。去年の秋の会社と、そこから紹介されたところ」
私は手帳のページをめくって、数字の並びを見た。
一件8万円。今月はそれが二つ入っている。
去年の11月に2万5千円で受けたのと、同じ「一件」という単位だった。
違うのは、掲載の期間と、使える範囲と、写真の点数。
それを相手と一つずつ決めて、書き足した結果が、この数字になっている。
「増えたのね」
「増えました。撮るのは土曜で、直すのは夜です」
「その二件、納品はいつ?」
「木曜と、月末です」
「じゃあ、木曜の付き添いはいらない。そう言っておくね」
「真紀さん、私は」
「奈緒さん」
真紀さんは、手帳を閉じた。
「仕事を減らしてこっちに来られると、私が頼めなくなるの。前も言ったでしょう」
制作の一部は、12月から頼んでいる人に回している。
私が撮って、送って、直してもらって、戻す。その往復のぶんだけ、私の時間が空く。
空いた時間は、火曜の弁当と、通院の半休に使っている。
病気のことは、投稿に書かない。それは、聞かれる前に決めてあった。
その週の木曜、頼んでいる人から字幕のデータが戻ってきた。
「ダメ出しお願いします」の続きで、今回は面接に着ていく服の回。
行を一つずつ確かめて、写真の明るさだけ直し、金曜の朝に出す。
前の回から並べて読む人が増えて、土日のあいだ、通知が止まらなかった。
日曜の夜、新しい依頼の文面には、数字が先に書いてあった。
「10万フォロワー、おめでとうございます。次の企画のご相談を」
私は通知を切って、火曜の弁当の買い物メモを書いた。
*
1月の最後の金曜日、引き渡しの場所はしおえだテラスだった。
そのあと真紀さんの家族と、四人で食事をする約束をしていた。
一階の広場のベンチに座って、悠斗を待つ。
真紀さんの息子さんは高校一年で、私より頭ひとつ背が高い。
「奈緒さん、飲み物いります?」
「大丈夫。ありがとう」
エスカレーターの下から、声が聞こえたのはそのときだった。
「日曜は娘と出かけます。預かる約束はしていません」
文江さんと、橘さんが向かい合って立っている。
橘さんのうしろに、小さい女の子がいた。
「付き合ってるんだから、日曜くらい見てくれてもいいでしょう」
「亮介さんとお話しください」
「亮介は仕事なのよ」
「私も仕事です」
橘さんは、女の子の手を持ち替えて、半歩下がった。
文江さんの声が、そこで少し高くなった。
「こっちはね、毎日なのよ。学校の持ち物に宿題、夕飯の支度まで。前はこんなにやらなくてよかったの」
「前、というのは?」
「奈緒さんがいたころよ。あのころは、送り迎えも、家のことも、私はしなくてよかったの」
橘さんは、その文を最後まで聞いてから、答えた。
「それは、私に言うことではないと思います」
人が、遠巻きに立ち止まりはじめた。
二階の手すりから見下ろしている人もいる。
私が近づくと、橘さんがこちらを見た。
一度、目が止まる。それから、私の顔をもう一度見た。
知らない人を見る目だった。
「文江さん、悠斗はどこですか?」
私がそう言うと、橘さんの肩が動いた。
「……三浦さん」
「はい」
「すみません。お顔を、すぐに」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
文江さんが振り返って、私を見る。
「奈緒さん、ちょうどいいわ。この人に言ってやって」
「悠斗はどこですか」
「あっちにいるわよ。さっきから機嫌が悪くて」
私は立ち上がって、悠斗を探した。
悠斗は、ベビーカー置き場の柱の横に立っていた。
ランドセルではなく、着替えの袋を左手だけで持っている。
右手は、下げたままだった。
真紀さんの息子さんが、近くの店の人を呼びに行った。
制服の人が二人来て、文江さんと橘さんのあいだに入る。
「申し訳ありません、ほかのお客様もいらっしゃいますので」
文江さんはまだ何か言っていたが、分担の話は一つも決まらなかった。
決まっていないことだけは、周りの人の耳にも残る。
私は悠斗の前にしゃがんだ。
「袋、持ってあげる」
「いい」
「右手、どうしたの?」
「……こっち、まだ痛い」
袖をまくると、前腕の内側が腫れていた。色が、少し変わっている。
「いつから?」
「月曜。ジャングルジムから落ちて」
「お父さんには?」
「言った。昨日も言ったんだけど、待ってろって」
背中で、文江さんの声がした。
「昨日も痛いとは言ってたけど、学校には行けたのよ」
私は振り返らなかった。
私は立ち上がって、元夫に電話をかけた。
出たのは、三回目。
「病院に連れていきます。同意してください」
「大げさだって。あいつ、すぐ痛い痛い言うんだよ」
「腫れてます」
電話の向こうで、椅子が動く音がした。
「……勝手にしろ」
「同意した、ということでいいですね?」
「ああ」
私はその通話の時刻を、切ってすぐ手帳に書いた。
真紀さんに、食事は次にしてほしいと伝えた。
「行って。悠斗くんを先に」
*
汐枝みなみ総合病院の夜間の受付は、正面ではなく、駐車場側にある。
問診票を書いて、名前を呼ばれるまで50分待った。
待合には、私たちのほかに三組いた。
自動販売機の前で、若い父親が赤ん坊を縦に抱えて、ずっと揺らしている。
テレビは消えていて、画面に蛍光灯が映っていた。
悠斗は途中で眠くなって、私の肩に頭を預けた。左側から。
診察室の荷物籠は、内側に擦り傷が何本も入っていた。
私は上着をそこに入れて、籠を椅子の下に押した。
「いつ痛くなりましたか」
先生は悠斗に聞いた。私にではなく。
「月曜です。落ちて、手をついて」
「どっちの手でついた?」
「こっち」
「今日は何日目?」
「……五日目」
先生がうなずいて、看護師に紙を渡した。
レントゲンの部屋の前で、悠斗は袖をまくったまま座っていた。
「お母さん」
「うん」
「怒られる?」
「怒られない」
「お父さんに、言わないほうがいい?」
「言うよ。でも、悠斗は怒られない」
撮った画像は、思っていたよりはっきりしていた。
右の前腕の、細いほうの骨に線が一本入っている。
「骨折です。ずれは大きくありません。ギプスで固定します」
「日にちが経っていますが」
「この年齢だと、つきは早いです。ただ、様子を見る必要があります」
先生は診断書を書きながら、聞いた日付と、聞いた内容を読み上げて、確認した。
帰りのバスの中で、悠斗は左手で吊り革を持つ。
ギプスの白が、窓の外の看板の色を受けて、少し光った。
アパートに着いたのは、10時前。
着替えさせて、寝かせて、私は台所で診断書の写真を撮った。
診断書と、撮った写真と、通話の時刻を、一つのフォルダにまとめる。
学校には月曜の朝に連絡する、と手帳に書いた。
スマートフォンが震えたのは、そのときだった。
「明日の夕方、いつもどおり悠斗を戻してくれ。母さんが待ってる」




