↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
専業主婦十年、夫と息子に「何もしてない」と言われたので、自分の名前で稼ぐことにした  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

第六話 金曜日の予定

栞台法律事務所は、駅から三つ目の信号を曲がったところにある。


受付で相談票を書いた。相談内容の欄は、四行しかなかった。


「婚姻十年。別室二年。夫に交際相手。私の収入は正社員一年目」


四行では足りなくて、最後は欄の外にはみ出した。


先生は、50代くらいの女の人だった。


「夫婦で作った財産は、名義がどちらでも、原則は二分の一で清算します」


「私、通帳を見たことがなくて」


「見ていなくても、請求はできます。むしろ、そこからです」


先生はボールペンで、紙に四つ、丸を書いた。


丸の横に、それぞれ一行ずつ説明を足していく。


字は小さいのに、読みにくくなかった。


財産分与と、慰謝料。


年金分割と、養育費。


「マンションはご主人が結婚前に買われた。その場合、家そのものを半分にはできません」


「そうですか」


「ただ、婚姻中に返済した部分は、二人で返したものとして評価します。購入時の資料と、返済の履歴が要ります」


「録音があります。42秒の」


「拝見します。ただ、42秒で不貞の全部が立つわけではありません」


先生は、そう言ってから、少し間を置いた。


「高瀬さん。生活費を決まった額に絞って、家計をいっさい見せないというのは、経済的DVと呼ばれることがあります」


その言葉を聞いたのは、そのときの一回だけだった。


私は手帳に書き取らない。書かなくても、消えないと思った。


「親権は、どうなりますか?」


「お子さんは10歳。母親が不利という前提はありません」


「賃貸でも?」


「賃貸でも、収入がご主人より低くても、それだけで外れることはありません」


先生は湯呑みを持ち上げて、置いた。


「年金の分割は、婚姻期間の記録を分けるものです。いま現金になるわけではありません」


「……はい」


「慰謝料は、請求できる場合があります。ただし、資料の量で変わります」


「集めます」


「集め方も決まっています。相手の口座に勝手に入るようなことは、しないでください」


私はうなずいた。


「決めるのはあなたです。私は、決めた形を手続きにします」


先生を紹介してくれたのは、小森さんのご主人だった。


紹介してもらっただけで、委任も費用も私が決める。そう言われたので、そのとおりにした。


    *


義母から電話が来たのは、その週の木曜の夜だった。


番号が出たとき、私は洗い物の途中で、手を拭いてから出た。


「奈緒さん、離婚するって本当なの?」


「本当です」


「亮介から聞いて、もう、信じられなくて」


台所の窓が、少し曇っている。


「あなた、この十年、うちの息子に白いご飯を食べさせてもらってきたでしょう」


「食べさせてもらってきました」


「そうでしょう。それなのに、自分が少し稼げるようになった途端に」


「お義母さん」


私は蛇口を閉めた。


「私は十年、この家の洗濯と、掃除と、ごはんと、悠斗の送り迎えをしてきました」


「それは、当たり前のことでしょう?」


「当たり前のことをしていたので、返すお金には換えられません」


電話の向こうで、椅子の脚が鳴った。


「食べた分のご飯を返せ、という話なら、それは無理です。ほかのご用は?」


「……そういう子だとは思わなかったわ」


「もう夜なので、切ります。悠斗のことは、また連絡します」


切ってから、私は残りの皿を洗った。


指が少し震えていたのは、たぶん水が冷たかったからだ。それにしておいた。


    *


部屋は、同じ学区の二階建てアパートの二階だった。


二部屋と台所。礼金はなし。


家賃と共益費で、5万5千円。


初期費用は、敷金と保証料と火災保険で、20万円の手前に収まった。


南向きではないので、昼でも電気がいる。


かわりに、ベランダから学区の外れの屋根が見えて、そこが少し気に入った。


内見の日、悠斗を連れていった。


「せまい」


「せまいね」


「僕の部屋は?」


「こっち。ランドセル置いたら、たぶんもう半分」


奥の部屋の引き戸の下に、木のドアストッパーが転がっていた。


悠斗はそれを爪先でつついて、そのまま窓のほうへ行った。


「学校、ここから行ける?」


「行ける。今より3分遠い」


「3分」


悠斗は窓の桟に手をかけて、外を見た。


それから、振り返らずに言った。


「僕、お母さんと住みたい」


台所の床が、少し傾いているのが分かった。


「学校には、ここから行けるんでしょ?」


「行けるよ」


「じゃあ、ここでいい」


不動産屋の人が、玄関で鍵の束を鳴らしている。


私はその場で返事をしなかった。


できる、と言ってしまえるだけの形が、まだ手元になかった。


悠斗は窓から離れて、私の袖をつかんだ。


それから、床に座り込んで泣いた。


声を出して、肩を上下させて、袖で顔をこすって、しばらく止まらなかった。


私は隣に座って、背中に手を置く。


止まってから、二人で自動販売機のお茶を一本ずつ買って、帰った。


    *


引っ越しの支度は、写真に撮って上げた。


段ボールの数と、捨てた鍋と、三年前のワンピースを古着に出した話。


その日の夜、「こま」から返信が来た。


「全部いっぺんに片づけようとしなくて大丈夫。ひとつずつでいいよ」


4月から、この人の言い方は変わらない。


私は「ありがとうございます、こまさん」とだけ返した。


同じ週、小森さんから連絡があった。


「12月で、会社を辞めることにしたの」


「……療養、ですか?」


「そう。しばらく、通うのに時間がいる」


私は電話を持ち直した。


「小森さん、平日の買い物と、送りと、ごはん、私がやります。全部」


「やらない」


即答だった。


「火曜のお弁当だけ、お願いしてもいい? 高瀬さんのぶんを作るついでなら、数が増えるだけで済むでしょう」


「それだけですか?」


「ほかの日は家で用意するから。主人がいるの」


私は、返す言葉を探した。


「高瀬さん。引き受けられる量で引き受けて。そうじゃないと、こっちが頼めなくなる」


電話を切ってから、私は台所に立っていた。


火曜の弁当。


それだけを、手帳の12月のページに書いた。


12月から、写真の加工と短い動画の編集を、一人に頼むことにした。


フォロワーの一人で、同じように子どものいる人。


報酬と、納期と、直しの回数と、素材を誰が持つかを、一枚の紙に書いて交わした。


納品から30日以内に払う、という行も入れておく。


私が待たされて嫌だったことは、私がやらない。それだけの話だった。


相手の人は、最初の打ち合わせで作業できる時間帯を先に言ってきた。


9時半から11時半と、14時から15時。子どもが家にいない時間だった。


「その時間で回る量にします」


「助かります。夜は、どうしても」


「夜は私も無理です」


電話の向こうで、短い笑い声がした。


    *


話し合いは、12月の平日の夜に、三回あった。


三回目に、亮介が紙を出した。


「悠斗は、この家に置く。学校も変わらない」


「あなたが見るの?」


「俺が見る。母さんにも手伝ってもらう」


「仕事は?」


「6時には出られる日もある。宿題は見てきただろ」


「母さんもいるしな。歩いて15分だ」


文江さんは、その場にはいなかった。


いない人の名前が、この話し合いでは三回出る。


見てきた、というのは、本当だった。


二か月ほどのことだったけれど、嘘ではない。


私は、自分の手元を数えた。


二部屋のアパート。一年目の正社員。


月末は帰りが遅くて、案件は不定期。


火曜には、弁当がある。


賃貸でも外れない、と先生は言っている。


その言葉を思い出しながら、私は自分で反対側に重しを乗せていた。


悠斗が窓の桟に手をかけて言ったことも、思い出していた。


思い出したうえで、私は今の自分に足りないものを数えるほうを選んだ。


「……分かりました」


離婚届の親権者の欄に、亮介の名前を書いたのは、私だった。


養育費は、算定表を見ながら決めた。


面会は、金曜の夕方に引き渡して、土曜の夕方に送る。学校のことと病院のことは、そのつど連絡する。


市役所の窓口は、12月24日に空いていた。


姓は、三浦(みうら)に戻した。


会社と、依頼主と、先生には、名義の変更を知らせる。


給与口座の名義も、書類を一枚出して変えた。口座の中身は、変わらなかった。


財産の清算は、項目と支払いの時期を先に決める。


入ってくるのは春になる。だから、この部屋の初期費用には使わない。


    *


最初の金曜日。


悠斗はランドセルと、着替えの袋を持ってアパートに来た。


「これ、どこ置くの?」


「そこの引き戸の裏。フックつけたよ」


土曜の夕方、駅前まで送った。


「高瀬さん、来週の金曜は5時でいいですか?」


「ああ。5時で」


元夫は悠斗の背中を軽く押して、改札のほうへ歩いていった。


文江さんが向こうに立っていて、私に頭を下げた。私も下げる。


部屋に戻って、電気をつけた。


流しに、朝のままの皿が二枚ある。


袖をまくって、スポンジに洗剤を落とした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。