第五話 私の名前で、2万5千円
背中が、見えた。
紺のスーツの肩と、後ろ髪の生え際。十四年見てきた首の形。
向かい側に、橘さんが座っている。
「亮介さん、娘が待ってるんですよ」
「分かってる。今月は動けないんだって」
「じゃあ来月は」
「約束する」
私は椅子を戻して、テーブルに向き直った。
ナプキンを握りしめている手に、しばらく気づかなかった。
小森さんが、こちらを見ている。
「高瀬さん」
「……あの人、私の夫です」
言葉にすると、たった八文字だった。
小森さんがメニューを立てて、私と後ろの席のあいだに置く。
エビは冷めていた。それでも全部食べて、味は覚えていない。
店を出るまで、私は一度も後ろを見なかった。
会計のとき、小森さんが伝票を押さえた。
「困るのは高瀬さんじゃなくて、あなたの手元の材料のほうよ」
*
家に着いて、私は自分のスマートフォンを開いた。
店で、ナプキンの下で録音を押したのは、後ろを振り返る前だった。
42秒。声は二つ。
娘の話と、来月の約束と、鉄板にへらが当たる音。
保存先を「仕事」のフォルダに移して、日付の名前をつけ、手帳にも書いた。
9月25日、汐枝駅前、鉄板焼き、12時40分から13時20分。同席は小森さん。
42秒の音で、この人の十年が全部証明できるわけではない。それは分かっている。
分かったうえで、消さなかった。誰かに送るつもりも、なかった。
*
雇用条件通知書は、10月1日に渡された。
本部経理担当。月曜から金曜、9時から18時、休憩1時間。
額面月給22万円。健康保険、厚生年金、雇用保険。
紙の一番上に、「高瀬 奈緒 殿」と印字してある。
自分の電卓を持ってきて、右手の届くところに置く。「+」のキーだけ、まだ他より表面が光っている。
「私がいなくなっても、月次は部長が見るからね。一人で背負わないで」
小森さんは、自分の机を半分空けながらそう言った。
「小森さんは、どちらに」
「日常の仕事から抜けるだけ。しばらく、自分のことをする」
私は、聞かなかった。
*
その週の日曜、文江さんが夕方に来た。
「奈緒さん、会社って、本部って、何をするところなの」
答えようとしたら、悠斗が先に口を開いた。
「お母さん、会社で経理やってるんだよ」
文江さんが、包み紙を持つ手を止めた。
「経理って、悠斗、それどういう意味か分かってるの」
「お金のかぞえるやつ。伝票がいっぱいあるの」
悠斗は説明をそこで終えて、ロボットの部品の袋を歯で切ろうとした。
文江さんは、それきり本部の話をしなかった。
亮介が帰ってきたのは、その30分後。テーブルには、片づけ損ねた雇用条件通知書が置いてあった。
亮介はそれを指で回して、自分のほうへ向けた。
「……22万?」
「額面です」
「引かれるだろ、ここから?」
「引かれます。手取りは17万くらい」
亮介は上から二番目の行を見た。社会保険の欄は、この人が一度も私のために見たことのない欄だ。
紙を裏返して、置いた。そのときは、それだけだった。
*
4月からの「ダメ出しお願いします」は、そのうち「今日の仕事着」になった。
1000円台のブラウスと、二年前のスカート。仕事用の靴の話には、返信が30件ついた。
11月の初め、私書箱のような機能で、一通届く。
国内の下着メーカーの広報からだった。
「制服の下に着るインナーの新作について、着用写真3点と短い文章をお願いできませんか」
初めての打ち合わせは、オンラインで40分だった。
「掲載は30日間。修正は二回まで。お支払いは、掲載月の翌月末で」
「承知しました。写真を追加する場合は、料金も相談させてください。見積書にも書いておきますね」
相手はうなずいて、それから言った。
「立ち上げのときから拝見していて。いま1600人でしたよね」
「たぶん、そのくらいです」
「数というより、毎回返事をされているのが、うちの商品と合うと思いまして」
条件が決まってから、金額の話になった。
一案件、2万5千円。
私は数字を紙に書いて、品出しで同じ額を稼ぐのに何時間かかるか、その下に書き足した。
書いてから、その紙を丸めて捨てた。比べる必要のない数字。
その夜、会社の副業の規則を読んで、翌朝、総務に届け出を出した。控えは、その場でもらえた。
投稿には「PR」と入れる。それは、先方に言われる前に自分で決めた。
見積書のひな形は無料のものを借りる。差出人の欄には、高瀬奈緒。
その週末、家計の紙にもう一行足した。いつかの住まいのための頭金、目標は100万円。
100万円で家が買えるわけではない。ただ、そこまでは自分の口座で数えられる。
*
11月の中ごろ、文江さんがまた来た。
今度は、玄関で靴を揃えながらではなく、上がってすぐ椅子に座った。
「奈緒さん、本部って、お給料は上がったの?」
「上がりました」
「いくら?」
「額面で22万です」
「あら」
文江さんは、そこで少し黙った。
「この前の、写真の仕事っていうのは。あれもお金になるの?」
「一件で2万5千円です。毎月あるものではありません」
「……2万5千円」
文江さんは鞄の持ち手を離して、膝の上で手を組んだ。
十年で、この人が鞄から手を離すのを見たのは、たぶん三回目だった。
「悠斗、おばあちゃん帰るからね」
「うん」
私が立ち上がろうとすると、文江さんは手のひらをこちらに向けた。
「奈緒さん、忙しいでしょ、見送りはいいから仕事に戻ってね」
「……はい」
「日曜の掃除の話も、もういいから。あれはこっちで何とかするわ」
玄関で靴を履く音がして、ドアが閉まった。
テーブルに残った湯呑みを流しに運んで、水を張る。それ以上のことは、何も起きなかった。
悠斗が、ドアの向こうから顔を出した。
「お母さん、あのさ」
「なに」
「友達が、お母さん変わったって」
「そう」
「なんて言えばいいの?」
「働いてる、でいいよ」
悠斗はしばらく考えて、「じゃあそう言う」と言って引っ込んだ。
*
11月20日の夜、悠斗が寝たあとだった。
寝室の明かりを消して、10分ほどして、廊下の床がきしんだ。
戸が開いて、亮介が布団の端に手をかけた。
「奈緒。起きてるか?」
「……なに」
「話がある」
私が上半身だけ起こすと、亮介はベッドの端に、こちらを向いて腰を下ろした。
「この一年、見てたんだよ。朝、俺より先に出てって、夜は机に向かってて」
「それで?」
「正社員になって、外から仕事も来るようになっただろ。俺は、それを見てた」
暗がりで、この人の輪郭だけが見える。
「もう一度やり直して、二人目も考えないか」
冷蔵庫が、台所で一度うなった。
「家のことは?」
「二人でやればいい。俺も前より早く帰れる」
私は掛け布団を胸まで上げた。
「無理です」
「無理って、何が?」
「戻る場所が、もうないんです。出ていって」
亮介はそれでも身を寄せてきた。
私は肘で押し返して、平手で一度、頬を打った。
音が鳴ったあと、壁のスイッチを叩いた。明かりがつく。
亮介は頬に手を当てたまま動かない。頬より、明かりのほうを嫌がっているのが分かった。
「……そこまでするか」
「します」
私は座り直して、掛け布団を膝に掛けた。
「本気でやり直すなら、条件があります」
「条件」
「家の支払いを全部見せてください。ローンと光熱費、それに口座も」
「なんでそうなるんだ?」
「もう一人いてもいいなって言う人の口座は、見せてもらいます」
引き出しから、二枚の紙を出す。雇用条件通知書と、見積書の控え。
「私のは、これで全部です。給与と案件、副業の届出も」
亮介は二枚を見た。この前と同じ紙なのに、今度は手に取らなかった。
「家の支払いは俺がしてきただろ! 俺の口座まで見せる必要あるか?」
「あります」
「……そっちこそ、けっこう持ってるんだろ」
声の調子が変わった。
「いくら貯まってるんだ。家に入れる額、決めようか。悠斗の将来だってあるんだし」
「見せるのは無しで、入れる額だけ決めるんですね」
「順番の話だろ」
「順番の話をしましょう。マンションの持分は」
「は?」
「十年、ここで家事をしてきました。持分の話は、きちんとしたい」
「婚前に買った家だぞ。お前に関係あるか?」
「関係があるかどうかは、二人で決めることじゃないみたいです」
亮介が立ち上がった。
私はスマートフォンを取って、フォルダを開いた。
「9月25日、汐枝駅前の鉄板のお店」
再生を押す。
女の人の声が、部屋の中で鳴った。土曜と、娘と、来月。
そのあとに、約束する、という亮介の声。
42秒は、思っていたより長かった。
「12時40分。私、後ろの席にいました」
亮介は手の置き場を探して、上着のポケットに入れて、また出した。
「仕事だよ。取引先なんだから」
「そうですか」
私は明かりをつけたまま、膝の上で手を重ねた。
「離婚の話をさせてください」




