第四話 試験会場の机
6月の最終週、引き継ぎの人と二回、同じルートを走った。
三日目には、その人のほうが早く坂を上がる。
最後の日、販売所で配達バッグを返した。電動アシスト自転車も、鍵ごと所長に渡した。
「高瀬さん、続けてくれると思ってたんだけどな」
「すみません」
「まあ、勉強なら仕方ない。うちはいつでも戻れるから」
所長は伝票にサインをして、印鑑を押して、それを私に見せてから箱にしまった。
自転車は販売所のものだから、返してしまえば帰りは歩きになる。
35分かかった。
家計の紙を書き直す。
配達のぶんがなくなって、月の収入は三分の二になった。日用品と食費は変わらない。
亮介からの生活費は、4月から渡されていない。渡さないと言った夜から、封筒は引き出しに入っていない。
私はそのことを、一度も催促していない。
催促しなければ渡されないお金は、はじめから当てにできる金ではなかった。
そのかわり、悠斗の学校の集金と、習いごとの月謝の引き落とし日だけは、毎月手帳に書いた。
亮介の口座から落ちるものを、私は通帳で見られない。落ちたかどうかは、悠斗の持ち帰る紙で知る。
*
7月の3級は、受かった。
自己採点で分かっていたので、合格の画面を見ても、椅子から立ち上がらなかった。
悠斗に言ったのは、その日の夜。
「お母さん、テスト受かったよ」
「へえ。何点?」
「86点」
「僕の漢字より低い」
「そうだね」
悠斗は麦茶を飲んで、コップを置いてから、もう一度聞いた。
「それ受かると、どうなるの?」
「次のに進める」
「次のは?」
「9月」
「それも受かったら?」
「会社の人が、決める」
悠斗は「ふうん」と言って、それから真面目な顔になった。
「受かったほうがいいの?」
「うん。受かったほうがいい」
8月の夜、テーブルに参考書を広げていると、悠斗が横に座るようになった。
自分の宿題を持ってきて、向かいではなく、隣に置く。
「お母さん、それ全部字じゃん」
「そうだよ」
「絵が一個もない」
「たまにある。ほら、ここ」
Tの形をした図を見せると、悠斗は「変なの」と言って、自分のドリルに戻った。
亮介は、その様子を廊下から一度だけ見た。
「今さら勉強か」
私は顔を上げなかった。
「今さらでも、9月にはある」
「金にもならないことをよくやるな」
その夜、亮介はテレビをつけずに奥の部屋に入った。
戸が閉まる音のあとで、悠斗が小さい声で言った。
「お父さん、怒ってんの?」
「怒ってない。眠いだけ」
嘘をついた。その嘘は、たぶん悠斗にも分かっている。
その夏、私は3時半に起きることをやめた。
夜に1時間、朝に30分。二つに分けたほうが、次の日に残らない。
夜のほうは、悠斗が寝てから台所のテーブルで。蛍光灯は一本だけ引いて、電卓を右手の届くところに置く。
朝のほうは、米を研いでから、洗濯が終わるまで。タイマーが鳴ったら閉じる。
閉じるところまで決めておかないと、次の日の夕方に響く。それは配達で覚えた。
*
9月の第一週、学校の廊下で呼び止められた。
集金袋を出しに行った帰りで、私は仕事着のままだった。
「あの、悠斗くんのお母さんですよね?」
同じ学年の保護者の人だった。去年、体育大会の準備で隣に座っている。
「はい」
「……別人みたい」
その人は自分で言ってから、口元を手で押さえた。
「ごめんなさい、失礼な言い方して。前に会ったの、去年の秋だから」
「いえ」
「お仕事、始められたんですって」
「4月から」
「すごいなあ。私も、下の子が三年になったら考えようと思ってて」
会話は、そこで担任が通りかかって途切れた。
私はその人が去年どう思っていたかを、推し量らないことにした。
推し量ったところで、去年の私の時間が戻るわけではない。
昇降口の段のところで、上履きの袋を持ち替えて、そのまま店に向かった。
*
9月の試験の二週間前、小森さんが練習用の問題を持ってきた。
昼休みの事務所で、私は精算表を書いて、合計が合わないまま止まった。
「どこかで一桁ずれてる」
「……全部、やり直しますか?」
「やり直さないで。差額を見て」
小森さんはシャープペンの先で、私の書いた数字を指した。
「差が九で割り切れるときは、たいてい数字の入れ替わり。8700を7800って書いてる」
「あ」
「それ、試験でも使えるから。全部見直すと間に合わない」
私は差額を九で割って、割り切れることを確かめた。
「小森さん、私、こういうの、頭に入らなくて」
「入れなくていいよ。手が覚えるから」
小森さんは弁当箱の蓋を閉めて、留め具を片方ずつ鳴らした。
「ひとつずつでいいよ。今日は、この差額の見つけ方だけ」
「ほかのところも、見てもらえませんか?」
「見ない。今日はこれだけ」
そう言って、小森さんは問題用紙を私の側に押し戻した。
*
試験会場は、駅前のビルの四階だった。
受付で身分証を出して、番号の書かれた紙を受け取る。
荷物はロッカー。持ち込めるのは電卓と、筆記用具だけ。
電卓は、私の電卓だった。
小森さんが「自分のを使いなさい」と言うので、夏に買った。1万円もしない、簿記用の大きいもの。
「+」のキーだけ、他より表面が光っている。
会場の机には、パソコンと、白い下書き用紙が二枚、置いてあった。
時間は90分。
隣の席の人が、椅子を引く音を立てた。若い男の人で、電卓をまっすぐに置き直している。
開始のボタンを押す。
第1問で手が止まって、飛ばした。第3問の精算表で、合計が合わなかった。
差額を出す。
九で、割れた。
上から順に、桁だけを見ていく。27行目、4万6千が、6万4千になっていた。
直して、合計が並んだのを見てから、第1問に戻った。
残り時間は、14分。
答案を送信して、椅子に座ったまま、机の下書き用紙を二枚とも裏返した。
そこに何が書いてあるわけでもない。ただ、手が動いた。
日商簿記2級。合格の画面は、その場で出る。
私は会場の廊下で、スマートフォンを開いて、閉じた。
誰に送ればいいのか、少し考えて、小森さんに送った。
*
10月からの引き継ぎは、9月のうちに始まった。
日々の仕訳と、売上の照合。
請求書の突き合わせと、月末の資料づくり。
「支払いのボタンは押さないで。あれは部長の承認がいるから」
「はい」
「税金の申告は、外の先生がやってる。私たちは資料を出すだけ」
「2級を取ったら、できるんだと思ってました」
「できないよ」
小森さんは笑わずに、書類の束を私の側へ寄せた。
「資格は入口。責任は会社が持ってるの」
10月からの条件は、まだ聞いていなかった。
聞かないまま仕事だけ増えていくのは落ち着かなくて、一度だけ、私から尋ねた。
「あの、来月のことは」
「人事が書類を用意してる。決まったら、紙で出るから」
紙で出る、という言い方で、肩の力が少し抜けた。
口で言われたことは、あとから形を変える。この十年で、それだけは学んでいた。
銀行へ行ったのは、その週の水曜だった。
凪原銀行汐枝支店。三店舗ぶんの入出金の流れを、担当者と確かめる。
「橘です。法人担当をしております」
背の高い人で、名刺を両手で出して、角をこちらに向けた。
「小森さん、後任の方ですか?」
「そう。高瀬さん。来月から本部です」
「高瀬さん。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
橘さんは、書類を受け取ってから、受け取ったと言った。
「確認が済みましたら、こちらからご連絡します」
その順番で話す人だった。
窓口の奥で、番号を呼ぶ声が二回続く。橘さんはそちらを一度も見なかった。
*
銀行を出たのは、12時半だった。
「お昼、食べていこう。上の階、鉄板のお店があるの」
「私、出します」
「出さなくていい。後任にごはん代を出させたら、私が怒られる」
店は奥に長くて、鉄板のカウンターが二列。私たちは窓際のテーブル席に案内された。
平日の昼で、席は半分ほど埋まっている。
スーツの人が多くて、話し声より、鉄板にへらが当たる音のほうが大きい。
「ランチだと、そんなに高くないの」
小森さんはそう言って、ふたつ同じものを頼んだ。
エビが焼ける音がして、湯気が横に流れる。
私は、目の前の皿を見ていた。
後ろの席で、女の人の声がした。
「そういう話じゃないんです。土曜、来るって娘に言っちゃったんですよ」
「だからさ、忙しいんだって。仕事なんだから」
フォークが、皿の縁に当たった。
音を立てたのは、私の手だった。
小森さんが顔を上げる。
私は膝の上にナプキンを置いて、椅子を半分だけ引いた。
後ろを、見る。




