第三話 日曜は空いていません
義母は、玄関で靴を揃えながら話しはじめる人だ。
「悠斗、背が伸びたわねえ。ごはん、ちゃんと食べてるの」
「食べてるよ」
「おばあちゃんちのカレー、今度作ってあげる」
文江さんはそう言って、廊下を歩きながら台所を見た。
流しには、朝の食器が伏せてある。私が出た時間には、まだ洗えていなかった。
「奈緒さん、働きに出てるんですって?」
「はい。4月から」
「亮介から聞いたわ。びっくりしちゃって」
義母は椅子に座って、鞄を膝に載せたまま動かさない。
「それでね、日曜なんだけど」
来た、と思った。
この人が鞄を膝から下ろさないときは、頼みごとがある。十年で覚えた。
「お父さんの通院が火曜と木曜でしょう。家の中、手が回らなくてね」
「はい」
「前みたいに、日曜に来てもらえない? 2時間でいいのよ」
私はテーブルに、紙を一枚置いた。
スーパーのシフト表を、月ごとに書き写したもの。
「日曜は空いていません」
「空いてないって、お休みでしょう」
「休みです。だから、空いていません」
義母が、紙から私の顔へ視線を移した。
「どういう意味?」
「月、火、木、金、土が店です。水曜は朝の配達だけ。日曜は、一週間分の洗濯と買い物と、悠斗の習いごとの送りがあります」
「送りなんて、歩いて行かせればいいじゃないの」
「6時半に終わって、帰りが暗いので」
「亮介は?」
「亮介にも、同じ紙を見せます」
義母は紙を見ていない。紙の少し手前、テーブルの木目のあたりを見ている。
「2時間で終わる日は、行きと帰りを入れて3時間半です」
「……計るの、そういうの」
「計らないと、出てこないので」
しばらく、換気扇の音だけがしていた。
「じゃあ、もう前みたいには頼めないってことね」
義母は鞄の持ち手を握り直して、自分でそう言った。
「奈緒さんが働きに出たから」
私はうなずかなかった。うなずかなくても、その文は成立していた。
悠斗の習いごとは、木曜の体操と日曜のそろばん。
そろばんを始めたのは去年で、月謝は義母が半分出すと言って、二か月で言わなくなった。
その夜、亮介が帰ってきてから、同じ紙をもう一度テーブルに出した。
「母さんが嫌だって言ってるんだよ」
「何が」
「日曜に少し寄るくらい、できるだろ」
「できない。行くなら、亮介が行って」
「俺は土日しか休みがないんだぞ」
「私も日曜しかない」
亮介は冷蔵庫を開けて、麦茶を出して、閉めた。
コップには注がずに、ボトルをテーブルに置いたまま立っている。
この人は、母親の頼みを断ったことがない。断る代わりに、誰かに回してきた。
「……家事代行、頼むか」
私は顔を上げた。
それは、この人から出るとは思っていなかった言葉だった。
*
週末、義母の家で三人で話した。
「掃除に人を呼ぶの?」
義母の声は、さっきまでより低い。
「家族で済むことに、亮介のお金を使うの?」
「母さん、一回4000円くらいだって」
「4000円を月に二回なら、一年でいくらになると思ってるの?」
義母は指を折って、計算して、途中でやめた。
十年ぶん、この家で私が動いた時間には、一度も電卓が入ったことがない。
入れてしまうと、だいたい不都合になる。それは私にも分かる。
「私は嫁も息子もいるのに、家に人を入れるの。近所になんて言われるか」
亮介が、湯呑みを両手で包んだ。
「……じゃあ、どうすんだよ」
「奈緒さんが来ればいいでしょう。2時間」
部屋が、少し暗くなった。雲が動いただけだった。
義母の家の居間には、十年前と同じ座布団が四枚ある。
そのうち一枚だけ角が潰れているのは、私がいつも台所側に座っていたからだ。
「お義母さん。私、2時間ぶん、いくらもらえますか」
義母の手が止まった。
「……お金の話をしてるんじゃないのよ」
「私もです」
湯呑みの底が、茶托に当たる音がした。
義母は、私の顔を見なかった。
亮介も見ない。二人が見たのは、お互いの手元だった。
その日は、そこまでだ。
翌月の第二日曜、亮介は一人で義母の家に行った。
昼前に出て、夕方に帰ってきて、風呂に入ってから、こう言った。
「風呂場のあれ、何を使えばいいんだ」
私は洗剤の名前だけ答えた。それ以上は言わなかった。
家事代行の話は、そのあとも決まらないままでいる。
*
6月の本部は、店の二階にある。
事務所の扉は、いつも10センチだけ開いている。
中では二人か三人がキーボードを打っていて、電話が鳴ると誰かが受けて、三言で終わる。
店から二階へ上がる階段は、コンクリートの打ちっぱなしで、夏でもひんやりする。
私が伝票の束を持って上がったのは、牛乳のケース数が合わなかったからだ。
納品書は12。売場に出したのは、11。
「あの、すみません」
「はい」
顔を上げたのは、40歳くらいの人だった。髪をひとつに結んで、袖をまくっている。
小森真紀、と、机の名札にある。
「昨日の牛乳、数が合わなくて」
「検品表、持ってきた?」
「これです。自分の書いたところ、消していいですか」
「消さないで」
小森さんは、私の手から紙を受け取った。
「数字が合わないなら、その行は消さずに残しておいて。元の伝票を一緒に見よう」
二人で、納品書とレジの記録と、売場の写真を並べた。
小森さんは三枚を同じ向きに揃えて、指で上から順に押さえていく。
急いでいないのに、手が止まらない。そういう速さがあるのを、私はそのとき初めて見た。
10分もしないうちに、原因が出る。破損が一本あって、別の紙に書かれていた。
「それ、あなたが書いた?」
「はい。夜の担当の人に、口で伝えてました」
「今度から、そっちの紙にも日付と名前を書いて。あとから見る人が困るから」
「はい」
小森さんは、私の書いた検品表をもう一度見た。
「几帳面な字ね」
「……そうでしょうか」
「一段ずつ数えてるでしょう。上から四つ、四つ、三つ」
十一本を三と四で分ける癖は、卵のパックの数え方から来ている。
誰にも教わっていないし、誰にも言ったことがない。
私はうなずいた。数え方を見られたのは、初めてだった。
*
それから、二階へ上がることが増えた。
階段の下で、二度目にすれ違ったとき、レジの主任が足を止めた。
「高瀬さん、痩せた?」
「……そうですか」
「制服、前は肩のところ引っぱってたよね」
主任はそれだけ言って、両手にレシートのロールを抱えたまま行ってしまった。
私は階段を三段上がってから、伝票の束を抱え直した。
昼の12時を過ぎると、小森さんはいつも同じ弁当箱を出す。
蓋の留め具が、片方だけ色が違う。青い本体に、白い留め具が一つ。
「高瀬さん、下のお店で買ってきてもらってもいい? おにぎりと、お茶」
「はい。わたし、昼休み下に降りるので」
「お金、先に渡しておくね」
私はレシートと釣りを封筒に入れて返した。
熱いものを頼まれた日は、自分の昼を先に済ませて、あとから買って上がる。
冷めたおにぎりを渡すのが嫌だっただけで、点数を稼ぐつもりはなかった。
それを三回か四回続けたころ、小森さんが手を止めて言った。
「高瀬さん、品出しをずっと続けたいと思ってる?」
「……考えたこと、なかったです」
「じゃあ考えて。それから、これ見て」
差し出されたのは、日商簿記の試験案内だった。
「3級からでいい。6月に勉強を始めれば、7月に受けられる」
「私、高校のとき数学が」
「簿記は数学じゃないの。書き方の決まりごと」
小森さんは案内の隅を指で押さえた。
「全部わかってから始めようとすると、始められないよ。ひとつずつでいいよ」
そのとき、どこかで同じ並びの言葉を読んだ気がした。
どこだったかは、思い出せなかった。
*
条件が示されたのは、6月の半ばだった。
「私、秋に日常の仕事から抜けるの。後任を一人、育てておきたい」
小森さんは、机の上で指を三本立てた。
「日商簿記3級を7月、2級を9月。そのあいだ、業務は週二回、1時間ずつ私が見る」
「1時間」
「それ以上は出せない。私の仕事が回らなくなるから」
三本目の指が残った。
「正社員にするかどうかは、会社が決める。私が決めるんじゃない。それでもやる?」
外の道を、自転車が通っていく音がした。
私は、月水金の4時から6時を頭の中に並べた。
配達の2時間と、そのあと店に出るまでの3時間。勉強に使えるのは、そこしかない。
「6月いっぱいで、配達を辞めます」
言ってから、手のひらが汗ばんでいるのに気づいた。
「収入、減るよ」
「減ります」
「それでもいいの?」
参考書は、小森さんが自分の古いものを貸してくれた。
表紙の角が丸くなっていて、中の付箋は全部はがされていた。
「3級、7月に受けます」




