第二話 午前5時の仕事
配達のある日は、20時半に布団に入る。
悠斗が歯を磨く音を聞きながら目を閉じて、3時半の目覚ましは、鳴る前に止める癖がついた。
台所の電気だけつけて、テーブルにパンと牛乳を出す。ラップをかけて、その上に紙を置く。
「レンジ40秒。牛乳はそのままで大丈夫」
書いた紙を、コップで押さえた。戻るのは6時10分だから、たぶん使わない。
奥の部屋からは、規則正しい息の音がしている。
亮介は6時半に起きて、7時20分に出る。
私が出ているあいだ、この家に大人は一人。寝ているけれど、いる。
私はそれを三回確かめてから、3時50分に鍵を開けた。
*
汐枝新聞販売所は、自転車で7分。
駅から都心まで電車で1時間ほどの町で、始発が動くのは、もう少しあとだ。
「高瀬さん、今日から二番ルートね」
「はい」
「バッグは、最後に配る分から下に入れて」
所長は40代の男の人で、言葉の最後をいつも半分飲み込む。
「束は、思ってるより重いから」
「はい」
「無理そうだったら二回に分けて。時間は見てるから」
電動アシスト自転車のハンドルは、朝のあいだ、ずっと冷たい。
バッグに入りきらない分を前カゴに載せて、ゴムのフックを二本かける。
一本だと坂で跳ねると教わったのは、二日目だった。
「高瀬さん、番地は紙のとおりでいいけど、12番地だけ裏から入って」
「裏、というのは」
「アパートの外階段。表の門、朝は閉まってるから」
所長はそう言って、地図の角をボールペンで二回叩いた。
「あと、雨の日は出る前に一部ずつビニールに。濡れたのは、読んでもらえないから」
「何分くらい、見ておけばいいですか?」
「30分。だから雨の日は、こっちも早く開ける」
4月の5時は、まだ青い。
街灯がついていて、坂の途中でだけ、東の空が薄く切れている。
一軒目の新聞受けに入れる。
二軒目。
三軒目は門の内側にあって、犬が一度だけ吠えた。
七軒目の新聞受けは、投入口が狭い。
そのまま差し込むと、半分で引っかかる。
折り目を指で押さえて、厚みを潰してから入れる。
奥で紙の開く音。それを聞いてから、次の家へ行った。
雨の朝は、その七軒目がいちばん時間を食う。
ビニールのぶんだけ厚みが増えるので、折り目を二回押さえないと入らない。
5月に入ると、5時にはもう空が白い。
同じ坂で、同じ順番に降りて、七軒目で同じように指を使う。
5時50分に販売所へ戻って、余った分を返す。終わりは6時。
6時10分に帰ると、紙はコップの下に置いたままだった。
悠斗を起こして、レンジは自分で押させる。40秒。
「めんどくさい」
「冷たいの、おいしくないよ」
「お母さん、外いたの?」
「うん。新聞配ってた」
悠斗はパンを見て、それから私の靴下を見た。膝のあたりが濡れている。
「ふうん」
それだけだった。
*
スーパーこずえ栞台店は、9時から2時半。
休憩が30分入るので、働く時間は1日5時間。それが週に5日。
「時給は1200円です」
事務所でそう言われたとき、私は紙に書いてある数字を目で追ってから、うなずいた。
「交通費は徒歩圏なので出ません。制服は貸与、靴はご自分で」
「はい」
「品出しは、賞味期限の古いものを前に出します。手前から取られるので」
先入先出、と、その人は言った。
十年、うちの冷蔵庫でやってきたことに名前があると、その日に知った。
名前がついているものには、時給がつく。ついていないものには、つかない。
*
三日目の夜、亮介が7時に帰ってきた。
ソファに座って、腕を組んでいる。テレビはついていない。
「どこ行ってたんだ」
「仕事」
「仕事」
私は上着を掛けて、袋から豆腐を出した。
「先月末から探してて、今週から入ってる」
「なんで相談しない?」
「三日、気づかなかったでしょう」
亮介の膝の上で、指が一度開いて、閉じた。
「担任から電話があったんだよ。悠斗、宿題が二回出てないって」
「うん」
「うんって、お前」
米を研いで、水を張って、スイッチを押す。
それから、ようやく振り返った。
「亮介、座って話していい」
私は鞄から紙を二枚出して、テーブルに並べた。
一枚は、販売所の勤務表。
もう一枚は、スーパーのシフト表。
「月水金が4時から6時。月火木金土が9時から2時半」
「だから」
「帰ってきて、洗濯して、買い物して、ごはん作って、お風呂洗って、それから宿題を見るのは、無理だった」
「今までやってたじゃないか」
「今まではお金をもらってなかった」
亮介が、テーブルの紙を裏返した。裏は白紙だった。
「生活費、渡さないって言ったらどうする?」
「困る」
私は正直に言った。
「困るけど、あの封筒のために全部やるのは、もうやらない」
「封筒の話にするなよ」
「じゃあ、家の支払いがいくらか教えて。半分持つ話も、それを見ないとできない」
「なんで俺の口座の話になるんだ」
「同じ家に住んでるから」
「働きだした途端にこれか」
「働きだしたから、同じ紙の上で話せると思った」
「……何をしろって言うんだ」
「宿題と、前の晩の洗い物。月水金だけ」
「二つって、簡単に言うな」
亮介は答えの続きを探して、見つからないまま立ち上がった。
そのまま子ども部屋のドアを開ける。
「悠斗、ドリル持ってこい」
10分後、テーブルの向こうで声がした。
「ここの式、抜けてるぞ」
「えー」
「途中までは合ってるから、もう一回やってみろ」
私は流しで手を動かしながら、その声を聞いていた。
できないわけじゃない。今までしなかっただけだった。
*
最初の給与明細は、5月の25日に出た。
販売所と、スーパーで、封筒が二つ。
どちらも「高瀬 奈緒様」と印字してある。
差引支給額を、二回読んだ。
総支給から、雇用保険料と所得税が引かれている。手取りは、頭の中で作っていた数字より少し低い。
事務所では、この先の見込み年収によっては夫の扶養から外れる手続きがいると説明された。
外れれば、国民健康保険と国民年金を自分で納める。得か損かの話ではなく、そういう順番になっている。
口座は、結婚前に作ったままの私の通帳。
窓口の機械で記帳して、印字された行の下に指を置いた。
十年ぶりに、入金の欄に数字がある。
その日の夕方、悠斗を連れて駅前のピザの店に行った。
「二枚頼んでいい?」
「一枚と、サラダ」
「えー」
「残したら持って帰るやつだよ」
悠斗はメニューを両手で持って、端から端まで読んだ。
「お母さん、これ自分のお金?」
「うん」
「働いて、もらったやつ」
「そう」
悠斗はメニューを閉じて、少し考えてから言った。
「ありがとう」
フォークの袋を破る手が、一度止まった。
「どういたしまして」
「じゃあ、お父さんに言わなくていいんだ」
「言ってもいいけど、聞かなくていいの」
「七軒目のお家の新聞受け、口が狭いの」
「なんで」
「わかんない。毎回、折り目を押さえて、細くして入れるの」
悠斗が口を開けて笑った。声が店に少し響いて、隣の席の人が振り向いた。
「明日も4時?」
「明日は火曜だから、9時から」
「じゃあ、朝いるんだ」
「いるよ」
悠斗はピザの耳を皿の端に寄せて、そこだけ食べ残す。
それは去年からの癖で、私は今まで一度も注意していなかった。
帰りに、合体ロボットの箱を一つ買った。
定価の半分になっている、去年の型。
自分には、動きやすい靴と、洗い替えの黒い靴下を三足買った。
配達の朝は草の露で膝から下が濡れるので、洗い替えは何足あっても足りない。
レジの袋を持ったのは悠斗で、私が持とうとすると、持ち手を逆の手に移した。
家に着いて、玄関で靴を脱いでいると、スマートフォンが鳴る。
義母からだった。
「奈緒さん、明日そっち寄るわね。悠斗の顔、見てないから」




