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専業主婦十年、夫と息子に「何もしてない」と言われたので、自分の名前で稼ぐことにした  作者: 空の異変


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第一話 月3万円の封筒

給食袋の引き紐は、先のほうが起毛している。


洗うたびに白い毛羽が増えて、結び目のところだけ太くなる。


水曜の夜、私はそれを流しで絞って、椅子の背に掛けた。


テーブルには、開いたままの連絡帳。


「悠斗(ゆうと)、ここ、判子のところが空いてる」


返事はない。


「先生、明日集めるって書いてあるよ」


「あとでやる」


子ども部屋のドアの向こうから、それだけが返ってくる。


四年生になってから、返事の長さがちょうど半分になった。


麦茶のコップを流しに運んで、洗剤のボトルを押す。


残りが少ないので、二回押した。


「宿題は?」


「やってる」


「音、してないけど」


「シャーペン、うるさくないやつだもん」


「ドリルのページ、今日どこまで?」


「……わかんない」


「連絡帳に書いてあるでしょ。お母さん見ようか」


「あと、あしたの図工、いるんだって」


「なにが?」


「牛乳パック」


「いくつ?」


「三個」


流しの下の棚に、洗って乾かしたものが二つある。足りないぶんは、明日の朝に開ける。


ドアが開いた。


悠斗が、片方だけ靴下を履いて立っている。


「お母さん、何もしてないじゃん」


スポンジを持った手が止まる。


「宿題は僕がやるんだから、もう言わないでよ」


ドアが閉まる。


換気扇の音が急に大きくなった気がして、私はそれを消す。


洗いかけの茶碗を洗った。麦茶のコップも洗った。


それから、布巾を絞った。


連絡帳は、テーブルに開いたままにしておく。


判子の欄は、私が押すことになっている。三年前から、そう決まっている。


決まっているというより、誰も別のやり方を考えなかっただけだった。


    *


11時を過ぎて、玄関の鍵が回った。


「ごはん、温める」


「食べてきた」


「悠斗、今日ちょっと言い方がきつくて」


「四年なんて、そんなもんだろ」


「そうじゃなくて」


「明日早いんだ」


高瀬(たかせ)亮介(りょうすけ)はネクタイを緩めながら廊下を歩いて、奥の部屋に入る。


あの部屋には、二年前から夫の布団が敷いてある。私の枕は、寝室のベッドの右側のまま動いていない。


最初は私が風邪をひいた週の話で、そのまま戻らなかった。理由を確かめたことは、一度もない。


翌朝、悠斗はパンをくわえたまま玄関に立っていた。


「連絡帳」


「入れた」


「給食袋」


「……あ」


椅子の背から外して渡す。


悠斗は引き紐の起毛したところを指でつまんで、こより状に丸めた。


「これ、毛が出てる」


「洗ったら出るの」


「みんなの、出てないよ」


「じゃあ今度、新しいの探そうか」


悠斗は返事をせずに、袋をランドセルの横に引っかけた。


「行ってきます」


「気をつけてね」


「うん」


閉まるドアの音は、夜と同じ大きさだった。


亮介が出ていったのは、その10分後。


「悠斗の上履き、そろそろ小さいみたい」


「じゃあ買えばいいだろ」


「今月、あと5000円くらいなんだけど」


「やりくりしてくれよ。俺だって余裕があるわけじゃない」


「先月、上履きと体操着でほとんど」


「じゃあ体操着は来月にすればいい」


「もう丈が」


「全部いっぺんに言われても困るんだよ」


靴べらを戻す音がして、亮介は私の顔を見ないまま続けた。


「こっちは毎日外に出てるんだ。そっちは家にいるだけだろ」


ドアが閉まった。


台所の引き出しを開ける。


白い封筒。中に3万円。


食費と日用品は、ここから出す。


住宅ローンと光熱費と学校の集金は、夫の口座から落ちる。だから私は、この家の家計の全体を一度も見たことがない。


封筒の中身を数えるとき、私はいつも三つの山に分ける。


10日ぶんずつ。真ん中の山がいちばん早く減る。


給食のない日が、そこに二回あるからだ。


上履きは、いちばん安いので1800円した。


    *


洗面所の鏡の前に立った。


34歳。


155センチ、77キロ。


数字のうち、覚えていたのは前のほうだけだった。後ろのほうは、去年の健診の紙で知った。


引き出しの奥からファンデーションを出す。


蓋を開けると、表面に油の膜が浮いていた。


裏の刻印を指で拭って、読む。


使用期限は一年半前。


それでも塗った。


眉を描いて、口紅を引いて、クローゼットの奥からワンピースを出す。


三年前に買った紺色の一枚。


家着に下ろさなかったので、生地はまだ固い。


ファスナーは背中の途中で止まった。


腕を後ろに回して、少しずつ上げて、最後は鏡に背を向けて引き切る。


「……上がった」


誰もいない洗面所で、私はそれを声に出していた。


玄関の姿見の前で、スマートフォンを構える。


自分の顔を画面越しに正面から見るのは、たぶん、悠斗の七五三の写真を撮ってもらった日以来だった。


五枚撮って、三枚消した。


写真投稿のアプリを開く。


弁当と、犬と、走った距離の記録が並んでいる。私のフォロワーは48人で、二年近く何も上げていない。


48人のうち、名前に見覚えがあるのは三人だけだった。あとは、いつ増えたのかも分からない。


文面を三回書き直して、短くした。


「ダメ出しお願いします。どこから直せばいいですか?」


送信を押して、スマートフォンを裏返しにテーブルへ置いた。


洗濯機を回して、風呂を洗って、米を研ぐ。


1時間して、画面を見た。


通知が止まっていない。


「これ、何を直せばいいんですか。全部では?」


「自分で決められない人がいちばん面倒くさいと思う」


「お金をかけずにおしゃれになろうとするの、無理があります」


そこまで読んで、画面を伏せた。


やかんに水を入れて、火にかけて、そのまま床に座り込んだ。


膝に額をつけて、口を開けて息をした。声は出さなかった。


やかんが鳴るまで、8分くらい。


    *


火を止めて、もう一度スマートフォンを取った。


親切な返信も混ざっていた。


「まず働くのがいちばん早いと思います。お金が自分のものになるので」


「服は古着屋で十分です。駅前のあそこ、サイズ置いてます」


「朝15分だけ歩いてみてください。それ以上はしなくていいです」


三つとも、書いてあることが違う。


順番も違う。どれから手をつければいいのか、読むほど分からなくなった。


そのうちの一つで、指が止まる。


「こま」というアカウント。アイコンは無地の灰色。


「三つ全部やろうとすると、たぶん今日で終わるよ」


「求人票なら、勤務時間から見てみて。ひとつずつでいいよ」


私はその二行を、三回読んだ。


三つのうちどれが正しいかは、書いてない。どれから始めるか、だけが書いてある。


紙を出して、ボールペンで書く。


悠斗の登校が7時50分、下校が3時半。学童は申し込んでいない。


求人サイトを開いて、「主婦歓迎」で絞った。


思っていたより、ずっと多い。


「品出し。午前9時から午後2時半、週5日」


徒歩15分。悠斗の学校とは反対方向。


「新聞配達。午前4時から6時、週3日」


声に出すと、短い。


文字で見ていたときのほうが、長かった。


紙の上で、二つの時間帯を指でなぞった。


重ならない。


できる、とは思わなかった。


重ならない、とだけ分かった。


時計は10時15分。


受付は9時から17時と書いてある。


番号を押して、耳に当てる。


呼び出し音が三回。


「はい、スーパーこずえ栞台(しおりだい)店でございます」


喉に、手のひらを一度当てた。


「あの、求人を見てお電話しました。高瀬と申します」


「ありがとうございます。品出しのほうですか?」


「はい」


「お仕事のご経験は?」


「……ありません」


紙の上の、二つの時間帯を見る。


「十年、専業主婦でした」


「そうですか。ご都合のつく曜日を伺ってもよろしいですか」


「月、火、木、金、土です」


言ってから、自分の声がもう一度耳に入った。


「土曜も、入れます」

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