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第5話 静かすぎる部屋

第5話 静かすぎる部屋


 遥が実家へ帰ったのは、誕生日から三日後だった。


 その日の朝は驚くほど普通だった。


 いつも通り朝食を作り。


 いつも通り洗濯をして。


 いつも通り笑っていた。


 健太は少し安心していた。


 誕生日の件はまだ気まずい。


 けれど少しずつ元に戻るだろう。


 そう思っていた。


 午前八時。


 出勤前。


 遥は玄関まで見送りに来た。


 薄いベージュのカーディガンに、白いブラウス。


 柔らかな笑顔。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 健太は靴を履く。


「今日も遅くなる?」


「いや、今日は大丈夫だと思う」


「そっか」


 遥は微笑む。


 そして言った。


「ちょっと実家行ってくるね」


「え?」


「二、三日」


 健太は一瞬驚いた。


 だが深く考えなかった。


「気分転換?」


「うん」


「わかった」


 遥は笑う。


「じゃあね」


 それだけだった。


 会社へ向かう途中も、健太は特に気にしていなかった。


 たまにはそういうこともある。


 夫婦なのだから。


 夜。


 午後九時。


 健太は帰宅した。


 鍵を開ける。


 部屋は暗い。


 当然だ。


 遥はいない。


「ただいま」


 誰も返事をしない。


 少しだけ違和感があった。


 けれど嫌な感じではない。


 むしろ。


 少し楽だった。


 テレビもついていない。


 変な工作物もない。


 突然押し入れから飛び出してくる人もいない。


 静かだ。


「たまにはいいか」


 思わず呟く。


 冷蔵庫を開ける。


 作り置きが並んでいた。


 肉じゃが。


 ひじき煮。


 味噌汁。


 ラップには付箋。


『温めて食べてね』


 丸い文字。


 思わず笑う。


「子どもじゃないんだけどな」


 肉じゃがを温める。


 醤油と出汁の香りが広がる。


 じゃがいもはほろほろだった。


「うまい」


 誰も聞いていない。


 その夜。


 久しぶりに仕事が進んだ。


 静かだから。


 集中できる。


 パソコンのキーボードを叩く音だけが響く。


「悪くないな」


 そう思った。


 翌朝。


 午前六時。


 目が覚める。


 静かだった。


 いつもなら。


「健太ー!」


「朝だよー!」


「起きろー!」


 布団を剥がされる。


 枕を取られる。


 そういう騒音がある。


 今日はない。


 快適だった。


 はずだった。


 朝食を作る。


 トースト。


 目玉焼き。


 コーヒー。


 一人分。


 皿を並べた瞬間。


 妙な気持ちになった。


 食卓が広い。


 こんなに広かっただろうか。


 仕事へ行く。


 昼休み。


 同僚が言う。


「奥さん元気?」


「実家帰ってる」


「喧嘩?」


「いや」


 本当に喧嘩だったのだろうか。


 自分でもわからなくなる。


 夕方。


 帰宅。


 玄関を開ける。


「ただいま」


 沈黙。


 誰もいない。


 テレビもない。


 笑い声もない。


 冷蔵庫に変なメモも貼られていない。


 そういえば。


 遥はよくメモを貼る。


『牛乳買って』


『冷蔵庫にプリンあり』


『世界征服会議開催中』


 意味不明なものばかり。


 いつも鬱陶しいと思っていた。


 今は一枚もない。


 健太はソファへ座る。


 静かだ。


 エアコンの風の音だけ。


 その静けさが妙に耳につく。


 翌日。


 さらに異変は増えた。


 仕事中。


 スマホを見てしまう。


 遥からメッセージが来ていないか。


 来ていない。


 昼休み。


 また見る。


 来ていない。


 夕方。


 また見る。


 来ていない。


「何やってるんだ俺」


 苦笑する。


 帰宅。


 静かだ。


 静かすぎる。


 夕飯はコンビニ弁当だった。


 電子レンジが回る。


 チン。


 それだけ。


 食卓には一人。


 誰も話しかけない。


「今日な」


 思わず口を開く。


 誰もいない。


「……」


 自分で笑った。


 馬鹿みたいだ。


 夜。


 洗面所へ向かう。


 歯ブラシが二本並んでいる。


 遥のピンク色の歯ブラシ。


 使われていない。


 寝室へ行く。


 ベッドの半分が空いている。


 妙に広い。


 眠れない。


 午前一時。


 二時。


 三時。


 時計だけが進む。


 そして四日目。


 ついに健太は耐えられなくなった。


 帰宅途中。


 コンビニで新作アイスを見つける。


 いつもなら遥が喜ぶ。


「見て見て!」


「これ食べたい!」


 そう言う。


 健太は二個手に取った。


 そして立ち止まる。


 いないのだ。


 遥は。


 静かな部屋へ戻る。


 アイスを冷凍庫へ入れる。


 二個。


 並んでいる。


 その光景が妙に寂しい。


 健太はスマホを取り出した。


 遥とのトーク画面。


 最後のやり取り。


『いってらっしゃい』


『いってきます』


 それだけ。


 指が止まる。


 何を送ればいいのかわからない。


 しばらく考えた。


 そして。


『元気?』


 たった二文字。


 送信した。


 すぐに既読がつく。


 ドキンと心臓が鳴る。


 返事は来ない。


 一分。


 三分。


 五分。


 ようやく通知が鳴った。


『元気だよ』


 それだけだった。


 短い。


 あまりにも短い。


 いつもなら違う。


 写真付き。


 スタンプ付き。


 長文付き。


 くだらない話付き。


 それがない。


 健太はソファへ沈み込む。


 部屋は静かだった。


 あまりにも静かだった。


 そしてその時。


 ようやく気づいた。


 自分は遥の騒がしさに疲れていたのではない。


 慣れていたのだ。


 笑い声に。


 おしゃべりに。


 くだらない話に。


 変な行動に。


 その全部に。


 いつの間にか救われていた。


 静かな部屋は快適なはずだった。


 なのに今は。


 息が詰まりそうだった。


 健太はスマホを見つめる。


 画面にはたった一言。


『元気だよ』


 その文字が。


 どこか遠く感じた。



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