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第4話 誕生日の午前零時

第4話 誕生日の午前零時


 朝から遥は機嫌が良かった。


 七月最後の日曜日。


 空は抜けるような青だった。


 ベランダのミニトマトは真っ赤な実をつけ、風鈴がちりん、と涼しげな音を鳴らしている。


 二十八歳の誕生日。


 朝起きた瞬間から少し浮かれていた。


 鏡の前で髪を整える。


 白地に小さな青い花が散った新しいワンピース。


 先週、自分への誕生日プレゼントとして買ったものだった。


 スカートの裾がふわりと揺れる。


「よし」


 鏡の中の自分に笑いかける。


 今日はきっといい日になる。


 そう思っていた。


 キッチンでは朝から仕込みを始めた。


 健太の好物のハンバーグ。


 玉ねぎを刻む。


 目にしみる。


「痛い痛い」


 涙をぬぐいながら笑う。


 合いびき肉をこねる。


 塩。


 胡椒。


 ナツメグ。


 手のひらに冷たい感触が広がる。


 丁寧に空気を抜きながら形を整えた。


 付け合わせはマッシュポテト。


 人参のグラッセ。


 コーンスープ。


 それからサラダ。


 午後にはケーキも取りに行った。


 駅前の洋菓子店。


 ショーケースの中には色とりどりのケーキが並んでいる。


 遥は迷わず苺のショートケーキを選んだ。


 生クリーム。


 真っ赤な苺。


 白いチョコレートプレート。


 そこには、


『Happy Birthday 遥さん』


 と書かれていた。


 見ているだけで幸せになる。


 帰宅した遥はテーブルクロスを替えた。


 花柄のものに。


 キャンドルも飾る。


 冷房の効いた部屋にほんのり甘いケーキの香りが漂っていた。


 午後五時。


 健太からメッセージが届く。


『今日は七時には帰る』


 遥は思わず笑顔になる。


『待ってる』


 すぐに返信した。


 午後六時半。


 夕飯の準備は完璧だった。


 ハンバーグはふっくら焼き上がっている。


 デミグラスソースの香りが部屋いっぱいに広がる。


 コーンスープも温かい。


 テーブルの上には二人分の皿。


 グラス。


 フォーク。


 ナイフ。


 すべて整っていた。


 午後七時。


 まだ帰らない。


 まあ大丈夫。


 十分くらいなら。


 午後七時半。


 スマホを見る。


 連絡はない。


 午後八時。


 ようやく通知が鳴った。


『ごめん。トラブル発生。少し遅れる』


 遥は深呼吸した。


 大丈夫。


 仕事だから仕方ない。


『わかった』


 笑顔のスタンプもつけた。


 午後九時。


 ハンバーグは冷めていた。


 レンジで温め直す。


 ソースの香りが再び立ち上る。


 午後十時。


 テレビをつける。


 内容は頭に入らない。


 時計ばかり見ている。


 午後十一時。


 窓の外では電車の本数も減ってきた。


 蝉の声はいつの間にか止んでいる。


 静かだった。


 テーブルの上のキャンドルはまだ使われていない。


 ケーキも箱の中。


 そのまま。


 午後十一時四十五分。


 遥はスマホを握りしめる。


 連絡はない。


 去年の誕生日。


 健太は花束を買ってきた。


 一昨年。


 結婚して初めての誕生日はレストランだった。


 今年は。


 今年は。


 時計の針が進む。


 午後十一時五十九分。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 そして。


 零時。


 日付が変わった。


 八月一日。


 二十八歳の誕生日は終わった。


 遥は静かに立ち上がる。


 ケーキを冷蔵庫へ戻した。


 ハンバーグにもラップをかける。


 食器を片付ける。


 何も言わない。


 涙も出ない。


 怒りもない。


 ただ静かだった。


 午前零時三十分。


 玄関の鍵が回った。


 ガチャ。


 健太が帰ってきた。


 顔色が悪い。


 ネクタイも曲がっている。


 明らかに疲れ切っていた。


「ただいま……」


 その声で健太は違和感を覚えた。


 いつもなら遥は飛び出してくる。


 おかえり。


 遅いよ。


 何してたの。


 お腹空いた。


 そんな言葉が飛んでくる。


 今日はない。


 静かだった。


 リビングへ入る。


 電気は消えている。


 テーブルの上には何もない。


 そこではじめて思い出した。


「……あ」


 誕生日。


 遥の誕生日だった。


 血の気が引いた。


 寝室のドアが開く。


 遥が現れた。


 白いパジャマ姿だった。


 髪はほどかれている。


 表情も穏やかだった。


「遥」


 健太が声をかける。


「ごめん」


「うん」


「本当にごめん」


 遥は小さく笑った。


 怒っていない。


 泣いてもいない。


 それが余計に怖かった。


「おやすみ」


 それだけ言った。


 本当にそれだけだった。


 そして寝室へ戻ろうとする。


 健太は凍りついた。


 遥が怒るところは見たことがある。


 泣くところも。


 拗ねるところも。


 文句を言うところも。


 全部知っている。


 でも。


 こんな遥は知らない。


 何も求めない。


 何も責めない。


 何も言わない。


 それがこんなにも怖いなんて知らなかった。


「待って」


 思わず呼び止める。


 遥は振り返る。


「なに?」


 静かな声だった。


 健太の胸が痛む。


「ケーキ……買ったんだろ」


「うん」


「ハンバーグも」


「うん」


「ごめん」


 遥は少しだけ笑った。


 悲しそうな笑顔だった。


「仕事だったんでしょ」


「でも」


「仕方ないよ」


 その言葉が刃みたいに胸へ刺さる。


 仕方ない。


 本当にそうだ。


 仕事だった。


 トラブルだった。


 嘘じゃない。


 でも。


 本当にそれだけだろうか。


 遥は寝室へ入った。


 ドアが閉まる。


 健太は一人リビングに残された。


 冷蔵庫を開ける。


 そこには苺のショートケーキ。


 白いプレート。


 少しだけ溶けた生クリーム。


『Happy Birthday 遥さん』


 その文字が滲んで見えた。


 健太は椅子に座る。


 静かすぎる部屋。


 エアコンの風だけが流れている。


 その時ようやく理解した。


 本当に傷ついた人は。


 騒がない。


 怒らない。


 かまってとも言わない。


 ただ。


 静かになるのだと。


 そしてその静けさは、どんな喧嘩よりも恐ろしかった。



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