第3話 嫉妬という名の空回り
第3話 嫉妬という名の空回り
七月に入ったばかりの蒸し暑い夕方だった。
遥はキッチンでトマトを切っていた。
冷蔵庫から出したばかりのトマトはひんやりとしていて、包丁を入れるたびにみずみずしい果汁がまな板に広がる。
今夜の夕飯は冷しゃぶだった。
レタス。
きゅうり。
トマト。
大葉。
豚肉を茹でる湯気がふわりと立ちのぼる。
午後七時。
玄関のドアが開いた。
「ただいま」
「おかえり!」
遥はぱっと顔を上げた。
健太は汗で少し髪が額に張り付いていた。
白いワイシャツの袖をまくっている。
疲れている。
でも今日は機嫌が良さそうだった。
「今日さ」
健太が靴を脱ぎながら言った。
「新しいプロジェクトの顔合わせだったんだ」
「へえ」
「若い子が入ってきてさ」
「若い子?」
「うん」
その一言に遥の耳がぴくりと動いた。
「二十四歳だったかな」
「ふーん」
「優秀なんだよ」
「ふーん」
「資料のまとめ方が上手くて」
「ふーん」
「名前は――」
「聞いてない」
遥はトマトを切りながら答えた。
健太は首を傾げる。
「なんで怒ってるんだ?」
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
「怒ってないもん」
もう怒っていた。
夕飯中も遥は少し不機嫌だった。
冷しゃぶは美味しくできた。
ポン酢の酸味。
大葉の香り。
冷えた麦茶。
それでも心は落ち着かない。
二十四歳。
若い。
可愛いんだろうな。
仕事もできるんだろうな。
そんな想像ばかり膨らむ。
食後。
健太がシャワーを浴びている間に、遥は親友の美咲へメッセージを送った。
『会社の若い女の子の話してきた』
すぐ返信が来る。
『だから?』
『だから?じゃないでしょ!』
『嫉妬?』
『ちょっとだけ』
『めんどくさい女だなあ』
遥は頬を膨らませた。
その時だった。
SNSの通知が鳴る。
フォロワーは五万人を超えていた。
コメントも増えている。
『奥さん可愛い』
『ファンです』
『更新楽しみ』
遥はふと思った。
健太にも嫉妬してほしい。
少しくらい。
ほんの少しくらい。
私を失うかもしれないと思ってほしい。
そんな考えが頭をよぎった。
翌週。
大学時代の男友達、悠斗から連絡が来た。
『近くまで来たからお茶でもどう?』
遥は思いついた。
いや。
思いついてはいけないことを思いついた。
土曜日。
駅前のカフェ。
遥は水色のワンピースを着ていた。
髪も丁寧に巻いている。
悠斗は昔と変わらない笑顔だった。
「久しぶり」
「元気だった?」
「まあね」
二人はアイスコーヒーを飲みながら近況を話した。
遥は何度も時計を見る。
健太が迎えに来る時間が近い。
そして夕方。
健太が店に現れた。
「お待たせ」
遥はわざと笑顔になる。
「あ、健太!」
悠斗も立ち上がった。
「初めまして」
「どうも」
健太は笑っている。
でも目は笑っていなかった。
帰り道。
駅前の夕焼けが街を赤く染めていた。
蝉の声がうるさいほど響く。
健太は無言だった。
「ねえ」
遥が声をかける。
「なに」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
健太は立ち止まった。
「男と二人で会ってたんだろ」
「友達だよ」
「それを先に言ってくれればよかった」
「嫉妬した?」
遥は少し期待した。
だが返ってきた言葉は違った。
「心配した」
「え?」
「何かあったのかと思った」
「……」
「俺が知らない男と会ってるのを見て安心すると思うか?」
遥は黙った。
思っていた反応と違う。
もっとこう。
『誰だあいつ』
『俺以外の男と会うな』
みたいな。
そんなドラマみたいな反応を想像していた。
でも健太の顔は本気だった。
「信用されてないみたいで嫌だった」
その言葉に遥の胸がちくりと痛む。
帰宅後。
空気は最悪だった。
エアコンの音だけが響いている。
夕飯のカレーの匂いもどこか重たい。
「私だって寂しかったんだから!」
遥が叫んだ。
ついに爆発した。
「いつも仕事仕事仕事!」
「だからって男と会うのか?」
「友達だって言ったでしょ!」
「俺を試したかっただけだろ!」
遥は息を呑んだ。
図星だった。
「違う!」
「違わない!」
健太も声を荒げた。
二人とも初めてだった。
こんな大声で喧嘩するのは。
「私はただ!」
遥の目に涙が滲む。
「私を見てほしかっただけなの!」
その言葉で静かになった。
健太も黙る。
時計の秒針だけが聞こえる。
「見てるよ」
健太が言った。
「見てないよ」
「見てる」
「見てない!」
涙がこぼれた。
「SNSの知らない人は面白いって言ってくれる」
「可愛いって言ってくれる」
「毎日コメントくれる」
声が震える。
「でも私は」
遥は俯いた。
「健太に言ってほしかっただけなの」
沈黙。
長い沈黙。
窓の外では遠くで花火の音がした。
夏祭りだろうか。
ドン、と低い音が響く。
健太は深く息を吐いた。
「ごめん」
遥は顔を上げない。
「俺、そんなに寂しい思いさせてたのか」
その声は小さかった。
怒りではなく。
後悔だった。
遥もわかっていた。
健太は浮気なんてしていない。
仕事を頑張っているだけだ。
自分を愛していないわけでもない。
ただ。
二人とも。
伝え方が下手だった。
その夜。
二人は同じベッドに入った。
でも少し離れて寝た。
背中と背中。
触れそうで触れない距離。
暗闇の中で遥は目を閉じる。
初めての大喧嘩だった。
だけど本当に怖かったのは。
喧嘩そのものではない。
こんなに近くにいるのに。
こんなに好きなのに。
どうして気持ちはこんなにすれ違うのだろう。
その答えを、まだ二人は知らなかった。




