第2話 知らない誰かは褒めてくれる
第2話 知らない誰かは褒めてくれる
六月の雨が窓を細かく叩いていた。
朝から曇り空だったせいで、リビングは少し薄暗い。遥は淡いクリーム色のパーカーに、柔らかなグレーのロングスカートを履いてソファに座っていた。
テーブルの上には飲みかけのカフェオレ。
すっかりぬるくなっている。
時計を見る。
午前十時。
健太はとっくに出勤していた。
静かだ。
冷蔵庫のモーター音だけが小さく響いている。
「暇だなあ……」
ぽつりと呟く。
昨日の夜。
健太はぬいぐるみ王国を見て、
「すごいな」
と言った。
確かに褒めてくれた。
でも。
遥が期待していた反応はもっと大きかった。
「なんだこれ!」
「天才か!」
「写真撮ろう!」
そんな感じだった。
勝手な期待だとわかっている。
でも少し寂しかった。
遥はスマートフォンを手に取った。
そして何となくSNSを開く。
猫の動画。
料理の写真。
旅行の投稿。
次々に流れていく。
ふと指が止まった。
『今日も夫にかまってもらえなかった』
そんな投稿だった。
コメントが大量についている。
遥は思わず笑った。
「いるんだ……私みたいな人」
なんだか安心した。
そして思いつく。
「私もやってみようかな」
その日の午後。
遥は匿名アカウントを作った。
名前は『かまって妻の遥さん』。
プロフィール欄には一言だけ。
『夫に構われたいだけの生き物です』
投稿したのは先日のぬいぐるみ事件だった。
『部屋中をぬいぐるみで埋め尽くしたら夫に「すごいな」と言われて終了しました』
投稿ボタンを押す。
「まあ誰も見ないよね」
そう思っていた。
ところが。
一時間後。
通知が鳴った。
ピコン。
また鳴る。
ピコン。
ピコン。
ピコン。
「え?」
開いてみる。
コメントが並んでいた。
『奥さん可愛い』
『旦那さん疲れてたんだろうけど反応薄すぎる(笑)』
『うちの嫁も似てる』
『ぬいぐるみ王国見てみたい』
遥は目を丸くした。
「なにこれ」
夕方にはさらに増えていた。
『奥さん友達になりたい』
『元気出た』
『今日一番笑った』
知らない誰かが笑っている。
知らない誰かが共感している。
それが妙に嬉しかった。
夜。
健太が帰宅した。
今日は少し早い。
午後八時前だった。
「ただいま」
「おかえり!」
遥は飛び出した。
夕飯は豚の生姜焼きだった。
千切りキャベツ。
きゅうりとわかめの酢の物。
味噌汁。
炊きたてのご飯。
生姜と醤油の香りが食欲を刺激する。
「おいしい?」
「うん」
「百点?」
「百点」
「やった」
いつもの会話。
だけど今日は少し違う。
遥には秘密があった。
SNSだ。
食事中も気になる。
通知が増えている。
スマホが震えるたびに見たくなる。
「どうした?」
健太が尋ねる。
「え?」
「なんか機嫌いいな」
「そうかな」
「宝くじでも当たった?」
「当たってない」
遥は笑った。
本当は話したかった。
でも何となく言えなかった。
食後。
健太はまたパソコンを開く。
遥はその向かい側でスマホを見る。
コメントが五百件を超えていた。
『更新楽しみにしてます』
『シリーズ化希望』
『この奥さん好き』
『旦那さんもなんだかんだ優しい』
胸が温かくなる。
自分を面白いと言ってくれる人がいる。
可愛いと言ってくれる人がいる。
そんな経験は初めてだった。
翌日。
さらに投稿する。
『押し入れに隠れていたら夫が探してくれませんでした』
『冷蔵庫の前で行き倒れごっこをしたら踏まれそうになりました』
コメント欄は大盛り上がりだった。
フォロワーはどんどん増える。
一週間後。
一万人。
二万人。
三万人。
「うそ……」
遥は数字を見つめた。
手が震える。
知らない誰かが。
たくさんの人が。
自分の話を聞いてくれている。
その夜。
健太は珍しく残業だった。
午後十一時。
まだ帰らない。
リビングには一人きり。
テレビの音だけが流れている。
遥はスマホを見る。
『今日も面白かった』
『更新待ってます』
『元気もらいました』
何百件ものコメント。
嬉しい。
確かに嬉しい。
なのに。
なぜだろう。
胸の奥にぽっかり穴が開いている。
玄関の鍵が回る音がした。
帰ってきた。
遥は立ち上がる。
「おかえり!」
「ただいま」
健太は疲れ切った顔だった。
目の下に薄い隈がある。
ネクタイも曲がっている。
「大丈夫?」
「ああ」
「ご飯温める?」
「頼む」
電子レンジが回る。
深夜の静かなキッチン。
生姜焼きの香りが再び広がる。
健太は食べながら言った。
「今日な」
「うん」
「会社で面白いSNS見せられた」
遥の心臓が跳ねた。
「へえ?」
「かまってちゃんの奥さんがいるらしい」
遥は吹き出しそうになった。
「ふーん」
「部屋中ぬいぐるみだらけにしたとか」
遥は必死で平静を装う。
「変な人だね」
「でもちょっと面白かった」
その瞬間だった。
遥は思わず顔を上げた。
「え?」
「いや、面白かった」
健太は味噌汁を飲む。
「こんな奥さんいたら大変だろうなと思ったけど」
そして少し笑った。
「なんか可愛かった」
遥は黙った。
嬉しい。
本当に嬉しい。
でも。
違う。
そうじゃない。
その言葉。
その笑顔。
それを。
私に向けて言ってほしかった。
何万人の『可愛い』より。
一人の『面白いね』が欲しかった。
遥は俯いた。
味噌汁の湯気がゆらゆら揺れている。
窓の外では雨が降り続いていた。
誰かに認められることは嬉しい。
誰かに褒められることも嬉しい。
でも。
本当に聞いてほしい人は。
本当に笑ってほしい人は。
たった一人だけだった。
遥は健太の横顔を見つめる。
真剣にご飯を食べている夫。
その横顔が少しだけ遠く感じた。




