第1話 私のこと、見えてますか?
第1話 私のこと、見えてますか?
五月の終わりだった。
窓を開けると、柔らかな風が白いレースのカーテンを揺らしている。ベランダではミニトマトの苗が小さな黄色い花を咲かせていた。
遥はリビングの時計を見上げた。
午後六時三十分。
健太の帰宅予定は七時。
まだ三十分ある。
それなのに、もう五回は時計を見ていた。
「暇だなあ……」
独り言が部屋に吸い込まれる。
結婚して二年。
新婚の頃は違った。
健太は帰宅すると真っ先に今日あったことを話してくれた。
コンビニで変なおじさんを見たとか。
上司が派手に転んだとか。
くだらない話ばかりだった。
でも楽しかった。
今は違う。
帰宅するとまずスマホ。
それからパソコン。
仕事のメール。
オンライン会議。
資料作成。
休日ですら仕事。
遥はソファの上で大きく伸びをした。
「よし」
立ち上がる。
「今日は本気を出す」
誰に向かって言っているのかわからない。
とにかく決意だけは固かった。
午後七時十五分。
玄関の鍵が回る音がした。
遥は押し入れの中に飛び込んだ。
襖を少しだけ開ける。
帰宅した健太はネイビーのスーツ姿だった。
ネクタイは少し緩んでいる。
肩が落ちていた。
明らかに疲れている。
「ただいまー」
返事はない。
健太は首をかしげた。
「遥?」
シーン。
「いないのか?」
遥は押し入れの中でにやりと笑う。
探せ。
もっと探せ。
夫よ。
健太は冷蔵庫を開けた。
麦茶を飲んだ。
そしてそのままソファに座った。
スマホを取り出した。
終了。
「ちょっとぉぉぉ!」
遥は飛び出した。
健太がびくりと肩を震わせる。
「うわっ!」
「なんで探さないの!」
「いや、いたのかよ!」
「押し入れに隠れてたの!」
「なぜ」
「かまってほしかったから!」
健太は数秒考えた。
そして真顔で言った。
「普通に話しかければいいんじゃないか?」
「それじゃ面白くないじゃん」
「面白さが必要なの?」
遥はぷくっと頬を膨らませた。
その顔を見て、健太は少しだけ笑った。
それだけで遥の気分は少し回復する。
単純だった。
夕食は遥の手作りだった。
鶏の照り焼き。
ポテトサラダ。
豆腐とわかめの味噌汁。
炊きたてのご飯。
甘辛い照り焼きの香りが部屋に広がる。
「おいしい?」
「うん」
「ほんと?」
「ほんと」
「どのくらい?」
「かなり」
「百点満点で?」
「百点」
「やった!」
遥は両手を上げた。
健太は少し笑う。
だが食事が終わると、またパソコンを開いた。
カタカタ。
カタカタ。
キーボードの音だけが響く。
遥はソファでテレビを見ていたが、だんだんつまらなくなってきた。
「ねえ」
「ん?」
「今日スーパーでね」
「うん」
「レジのおばあちゃんにね」
「うん」
健太は画面を見たまま。
「私の話聞いてる?」
「聞いてる」
「じゃあ今なんて言った?」
「スーパー」
「それしか聞いてない!」
遥はクッションを抱きしめた。
健太は申し訳なさそうに笑う。
「ごめん」
「むー」
その夜。
午後十時。
遥はある作戦を思いついた。
寝室のクローゼット。
棚。
押し入れ。
ありとあらゆる場所からぬいぐるみを集める。
くま。
うさぎ。
猫。
パンダ。
柴犬。
カピバラ。
総勢三十八体。
リビングを埋め尽くした。
ソファにも。
床にも。
テレビの前にも。
食卓にも。
まるでぬいぐるみ王国だった。
遥は満足げに腕を組む。
「完璧」
十一時過ぎ。
仕事を終えた健太がリビングへやってきた。
ドアを開ける。
そして固まる。
遥は期待に満ちた目で見つめる。
驚くはずだ。
笑うはずだ。
写真を撮るはずだ。
感想を言うはずだ。
数秒後。
健太は言った。
「すごいな」
「でしょ!」
「うん」
「可愛い?」
「可愛い」
「写真撮る?」
「明日でいいかな」
「え?」
「眠い」
遥の笑顔が少しだけ固まる。
健太は本当に疲れていた。
目の下には薄い隈がある。
欠伸もしている。
「先寝るな」
「うん……」
「おやすみ」
「おやすみ」
寝室のドアが閉まった。
静かになった部屋。
ぬいぐるみたちは相変わらずこちらを見ている。
遥はその真ん中に座った。
さっきまで楽しかったのに。
なんだろう。
胸の奥が少しだけ重い。
怒っているわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
寂しかった。
窓の外では終電へ向かう電車の音が遠く響いている。
遥はくまのぬいぐるみを抱き上げた。
「ねえ」
もちろん返事はない。
「私のこと、見えてる?」
柔らかなぬいぐるみの毛並みに頬を埋める。
その時だった。
寝室のドアが少し開く。
健太が顔を出した。
「遥」
「なに?」
「寝ないの?」
「うん」
健太は少し考えた。
それから照れくさそうに言った。
「その……可愛かったぞ」
「え?」
「ぬいぐるみ」
「ほんと?」
「ああ」
「写真撮る?」
「明日な」
「絶対?」
「絶対」
遥は少しだけ笑った。
胸の痛みは消えていない。
でも。
少しだけ温かくなった。
結婚二年目。
これはまだ、夫婦が夫婦になる途中のお話だった。




