表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

第1話 私のこと、見えてますか?

第1話 私のこと、見えてますか?


五月の終わりだった。


窓を開けると、柔らかな風が白いレースのカーテンを揺らしている。ベランダではミニトマトの苗が小さな黄色い花を咲かせていた。


遥はリビングの時計を見上げた。


午後六時三十分。


健太の帰宅予定は七時。


まだ三十分ある。


それなのに、もう五回は時計を見ていた。


「暇だなあ……」


独り言が部屋に吸い込まれる。


結婚して二年。


新婚の頃は違った。


健太は帰宅すると真っ先に今日あったことを話してくれた。


コンビニで変なおじさんを見たとか。


上司が派手に転んだとか。


くだらない話ばかりだった。


でも楽しかった。


今は違う。


帰宅するとまずスマホ。


それからパソコン。


仕事のメール。


オンライン会議。


資料作成。


休日ですら仕事。


遥はソファの上で大きく伸びをした。


「よし」


立ち上がる。


「今日は本気を出す」


誰に向かって言っているのかわからない。


とにかく決意だけは固かった。


午後七時十五分。


玄関の鍵が回る音がした。


遥は押し入れの中に飛び込んだ。


襖を少しだけ開ける。


帰宅した健太はネイビーのスーツ姿だった。


ネクタイは少し緩んでいる。


肩が落ちていた。


明らかに疲れている。


「ただいまー」


返事はない。


健太は首をかしげた。


「遥?」


シーン。


「いないのか?」


遥は押し入れの中でにやりと笑う。


探せ。


もっと探せ。


夫よ。


健太は冷蔵庫を開けた。


麦茶を飲んだ。


そしてそのままソファに座った。


スマホを取り出した。


終了。


「ちょっとぉぉぉ!」


遥は飛び出した。


健太がびくりと肩を震わせる。


「うわっ!」


「なんで探さないの!」


「いや、いたのかよ!」


「押し入れに隠れてたの!」


「なぜ」


「かまってほしかったから!」


健太は数秒考えた。


そして真顔で言った。


「普通に話しかければいいんじゃないか?」


「それじゃ面白くないじゃん」


「面白さが必要なの?」


遥はぷくっと頬を膨らませた。


その顔を見て、健太は少しだけ笑った。


それだけで遥の気分は少し回復する。


単純だった。


夕食は遥の手作りだった。


鶏の照り焼き。


ポテトサラダ。


豆腐とわかめの味噌汁。


炊きたてのご飯。


甘辛い照り焼きの香りが部屋に広がる。


「おいしい?」


「うん」


「ほんと?」


「ほんと」


「どのくらい?」


「かなり」


「百点満点で?」


「百点」


「やった!」


遥は両手を上げた。


健太は少し笑う。


だが食事が終わると、またパソコンを開いた。


カタカタ。


カタカタ。


キーボードの音だけが響く。


遥はソファでテレビを見ていたが、だんだんつまらなくなってきた。


「ねえ」


「ん?」


「今日スーパーでね」


「うん」


「レジのおばあちゃんにね」


「うん」


健太は画面を見たまま。


「私の話聞いてる?」


「聞いてる」


「じゃあ今なんて言った?」


「スーパー」


「それしか聞いてない!」


遥はクッションを抱きしめた。


健太は申し訳なさそうに笑う。


「ごめん」


「むー」


その夜。


午後十時。


遥はある作戦を思いついた。


寝室のクローゼット。


棚。


押し入れ。


ありとあらゆる場所からぬいぐるみを集める。


くま。


うさぎ。


猫。


パンダ。


柴犬。


カピバラ。


総勢三十八体。


リビングを埋め尽くした。


ソファにも。


床にも。


テレビの前にも。


食卓にも。


まるでぬいぐるみ王国だった。


遥は満足げに腕を組む。


「完璧」


十一時過ぎ。


仕事を終えた健太がリビングへやってきた。


ドアを開ける。


そして固まる。


遥は期待に満ちた目で見つめる。


驚くはずだ。


笑うはずだ。


写真を撮るはずだ。


感想を言うはずだ。


数秒後。


健太は言った。


「すごいな」


「でしょ!」


「うん」


「可愛い?」


「可愛い」


「写真撮る?」


「明日でいいかな」


「え?」


「眠い」


遥の笑顔が少しだけ固まる。


健太は本当に疲れていた。


目の下には薄い隈がある。


欠伸もしている。


「先寝るな」


「うん……」


「おやすみ」


「おやすみ」


寝室のドアが閉まった。


静かになった部屋。


ぬいぐるみたちは相変わらずこちらを見ている。


遥はその真ん中に座った。


さっきまで楽しかったのに。


なんだろう。


胸の奥が少しだけ重い。


怒っているわけじゃない。


責めたいわけでもない。


ただ。


少しだけ。


ほんの少しだけ。


寂しかった。


窓の外では終電へ向かう電車の音が遠く響いている。


遥はくまのぬいぐるみを抱き上げた。


「ねえ」


もちろん返事はない。


「私のこと、見えてる?」


柔らかなぬいぐるみの毛並みに頬を埋める。


その時だった。


寝室のドアが少し開く。


健太が顔を出した。


「遥」


「なに?」


「寝ないの?」


「うん」


健太は少し考えた。


それから照れくさそうに言った。


「その……可愛かったぞ」


「え?」


「ぬいぐるみ」


「ほんと?」


「ああ」


「写真撮る?」


「明日な」


「絶対?」


「絶対」


遥は少しだけ笑った。


胸の痛みは消えていない。


でも。


少しだけ温かくなった。


結婚二年目。


これはまだ、夫婦が夫婦になる途中のお話だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ