陸
何も、全然、まったく、微塵も、理解が出来なかった。
一年二ヶ月前からタイムスリップして、俺は過去に戻るために特異者を探そうとしていて、猟奇事件を目撃して、もしかしたら俺をタイムスリップさせたのは猟奇事件の犯人なのではないかとか思ってたりしていた。
彼に会えば何か、おそらくやる事があって、一年二ヶ月前に戻れるんじゃないか。
そういう結末を想像していた。
それに、律もタイムスリップさせる事の出来る特異者に興味を持っていたじゃないか。
いるんだろう? その特異者は。
「駄目駄目駄目! 駄目! それ以上言わないで!」
祈莉が律へ駆け寄ろうとするが、律は空いた手を彼女に向けた。
「触れたらお前も抑制するぞ、離れろ」
祈莉は引き下がるしかなく、不規則な呼吸と揺れる肩が彼女の顔を見ずとも涙を流していると教えてくれる。
律は祈莉が離れたのを見て、口を開こうとした。
おそらく。
おそらくだ。
俺の知らない何かが、真実が、話される。
はず、だったが、異変が起きた。
「う、嘘……」
レインコートの男が動き出したのだ。
律は瞬時にして表情を驚愕へと染め、奴は律のほうへと振り返って彼女の二の腕を掴んだ。
「くあッ……!」
彼女を持ち上げて、彼女の足は完全に地面から離された。
骨の軋む音がする、二の腕だけを掴まれて不安定なまま持ち上げられて彼女は驚愕から、苦痛へと表情を変えて歪ませた。
奴は二の腕を離して軽く律が落下し始めると同時に、
「あっ」
彼女の腹部へと拳を打ち込まれる。
律はまるで人形のように、奥の壁に叩きつけられた。
「律!」
なんとか立ち上がろうと律は動きを見せていた、よかった……出血も無く、掴まれた腕は折れてはいないようだ。
駆け寄りたいが、レインコートの男が道を阻んでいる。どうしよう、どうするべきか……。
周囲は炎に囲まれ始め、後方は壁のみ。
レインコートの男は振り返った。
祈莉へ一歩一歩、着実に近づいてくる。
……動け。
……動け!
動くんだ!
「逃げろ!」
身体がきちんという事を聞いてくれるまで時間が掛かったが、なんとか動いてくれた。
彼女の手を掴み、俺は退路が無くとも後退した。
それしか、もう出来ないのだ。
左右は炎、後ろは壁。
前方にはレインコートの男。
文字通り四面楚歌の状況に、体がまともに動かなかった。
それでも祈莉だけは守らなくてはと俺はレインコートの男の前に立ちはだかった。
足元に角材が転がっており、何も持ってないよりはマシだと俺はそれを持って構えた。
剣道なんて習った事など無いがそれらしい構えを取ってこの角材だって立派な武器になるんだぞと訴える。
奴は立ち止まった。
何もせずに、こう着状態が続く。
レインコートの男は首をゆっくりと傾けて、動かなかった。
様子を窺っているのだろうか、不気味だ……。
どうしようもなく、俺は角材を振り上げた。
こんなもので倒せるわけがない、それは解っている。
俺は祈莉が逃げられる状況を作れればそれでいいのだ。
このまま振り下ろして、何が起ころうとも、彼女だけ無事にこの場から逃がせればそれでいい。
――俺はタイムスリップをしていないらしい。
真実を聞けないまま、このまま俺は殺されるかもしれない。
そんな事が脳裏を過ぎりつつ俺は角材を振り下ろしていた。
レインコートの男は角材を左手で受け止め、角材はまるでふ菓子みたく握りつぶされる。
奴との間合いが近すぎる、俺はもう逃げ切れない。
でも祈莉は今なら逃げられる、もし祈莉が動いて奴が意識すればその瞬間に角材を投げつけて飛び掛って、時間稼ぎくらいはできるかも。
レインコートの男はゆっくりと右手を動かした。
俺は角材を放り投げて祈莉の手を引き、レインコートの男の横へと通させるつもりでいた。
角材を投げるも、上体を瞬時に逸らして回避、人間とは思えない体勢にも関わらずさらに元の体勢へと持ち直して奴はすぐに横移動。
飛び掛ろうとした俺の上体は奴の右手が肩を押さえつけてきて動けず、完全に次の行動を読まれていた。
――もう駄目だ。
諦めていたその時、レインコートの男の腕、頭、肩に何かが当たった。
それは球体のもの――楽田の使っていた大き目のビー玉だ。
鈍い音がした、重みも含まれている。
「ら、楽田……?」
「……まに、あった」
楽田は辛うじて上体を起こしていたが、すぐに上体は地面へと崩れた。
レインコートの男は倒れこみ、動かなくなる。
……だ、大丈夫かな。
このまま祈莉を連れてとりあえずこいつから離れたいところだ。
……でも、こいつが何者なのか。
その素顔、確認しておく……べき?
「駄目」
祈莉が、俺の手を掴んだ。
「……祈莉、お前はどこまで知ってたんだ?」
「……」
祈莉は、言いたくないようで、視線を地面へ落とした。
「俺がタイムスリップしてないって事、なんで律が言うのを止めようとしたんだ?」
「……」
律の手は、震えていた。
それが何を意味するのか……。
「一年二ヶ月前に、あの交差点で何があった? タイムスリップしてないならどうして俺は一年二ヶ月間の記憶がないんだ?」
祈莉はまだ口を閉ざしていた。
そこへ、歩くのもやっとで、ふらついた足取りの律がやってくる。
腹部を押さえて、呼吸は荒く、それでも何か伝えたくて俺の傍へ。
「見れ……ば」
「……見る?」
「駄目!」
祈莉がやっと、口を開く。
血相を変えて、奴から自分へと体の向きを変えさせる。
祈莉の表情は真っ青で、必死に俺から奴を引き離そうとしていた。
「奴の顔を……見れば、解る!」
「駄目! 絶対に! 駄目!」
俺が知りたいもの全てが、きっと彼の顔を見る事で得られると悟った。
祈莉がどんなに全力で引っ張ろうとも、所詮女の子の力では止められない。
俺の指が徐々にフードへと近づいた。
「待って!」
フードを掴む。
レインコートの男は動かない、このまま俺は、
「やめてぇぇぇぇぇえ!」
フードをめくり上げた。
「……えっ?」
いくつも傷があった。
顔を斜めに通る傷、頬や口の付近は細かい傷があり、所々は黒ずんでもいた。
左耳は酷く崩れていて、唇は一部が千切れたようになくなっていた。
それでもこの顔を見て俺は誰なのか、すぐ解った。
毎日見る顔だ。
見慣れている、見飽きているとも言っていい。
だってこの顔は――




