肆
芹谷工場の門は固く閉ざされていた。
立てかけられていた看板にはなにやら説明が書かれており、読んでみるとどうやらこの工場はすでに閉鎖されているようだ。
木材等を扱う工場らしい、木屑が周辺に落ちていてフェンスの向こう側には廃材が山となっていた。
中に入るにはどうしたらいいかな。
それに随分と静かだ、工場の中は光も無く人がいそうな気配すら感じられない。
ここでは無かったか……?
一先ずフェンスに沿って駆け足で見回ってみる。
街灯以外に光がないため、足元に注意して進まなければ小石にすら躓いてしまうかもしれない。
見回る事およそ半周近くか、フェンスに手を当てていたのだが、途中でフェンスが途切れた。
見てみるとフェンスは一部だけ人が丁度くぐれるような長方形に切り取られていた。
ご丁寧に入り口でも作ってもらった気分。でも切り取ったフェンスはどこにいったのだろう。
フェンスをくぐり工場敷地内へと侵入したが、やはり人がいそうな気配は無い。
工場へと近づくと独特な匂いが漂ってきた。
一度はどこかで嗅いだ事があって、一度嗅いだら脳に直接匂いがつくくらいに忘れる事ができない、その独特な匂い。
……ガソリン?
かすかに流れる風に乗ってその匂いが鼻腔を刺激する。
暗闇に目が慣れはじめて辺りはそれなりに見えるようになった、工場の近くには小さな建物が一軒あり、懐中電灯でもないかと俺はそこへ向かう。
中に入ると鍵掛けの棚や机があるも懐中電灯は無く、むしろ物という物がほとんど無い。
鍵掛けの棚にも鍵など一つも無く、机の引き出しを開けても何も無い。
携帯電話の照明では頼りないが、ここは我慢するしかないようだ。
建物を出て、工場へと近寄って、しかし近寄り過ぎないよう距離は開けた。
何があるかまだ解らない、十分に安全といえる距離を取るのは大切な事だ。
耳を澄ましてみる。
何か、かすかに音が聞こえた。
工場内を誰かが歩く音、かな。
ここら周辺は田んぼくらいしかないのでよく音が聞き取れる、それに意外とその足音は近いのもあった。
すぐそこには工場へ入れる入り口があり、扉はかすかに開けられている。
その扉に入れば誰かと遭遇するかもしれない。
しかし、誰と遭遇するのか。
それが肝心なところ。
祈莉だったらいいが、レインコートの男だったら何をされるかわからない。
楽田が来るまでは動かないほうがいいかも。
殺気の建物に行って身を隠して、工場を観察しながら楽田を待つのが良案。
その建物まで引き返そうとしたところ、扉の僅かな隙間から手が出てきた。
扉を掴み、ゆっくりと開けていく。
袖を見たところ、レインコートに間違いなく、扉を今開けている人物は……奴だ。
だが扉を開けきるとその手は工場内の暗闇へと引っ込んでしまった。
中に入れ、という事なのだろうか。
レインコートの男は特異者で、俺に何かをさせたくて、何かしたら一年二ヶ月前に戻れるかもしれない。
その考えが合っていたら、入るべきか?
いやいや待て、相手はあくまでも猟奇事件の犯人。
以前のようにすぐ逃げられるような状況ならまだしも、工場に入ったら逃げられる可能性は薄まる、しかも暗闇の中に飛び込むなんて恐ろしくて足が進まない。
でも祈莉が中にいる可能性もある。
それにレインコートの男は俺を殺そうとはしないはずだ、何かさせたいのだから多分……大丈夫。
入っても問題無い、入るべきだ。
怖いのは変わりないけど。
勇気を振り絞り、足音を立てないよう忍び足で開けられた扉へと俺は近づいた。
工場の壁に引っ付いて、先ずは音を確認。
足音がする、一人……いや、二人分?
近くではないようだ、中の、ずっと奥。
扉周辺は大丈夫だろう。
少しだけ顔を出して室内を見た。
暗くてよく見えないが、奥に何か人影が動いている。
足元に何か音を立ててしまうものがないかを注意して俺は中へ入った。
壁に沿って歩き、奥の人影には目を逸らさないよう慎重に進む。
中は更にガソリンの匂いが漂っていて居心地は心身共に最悪だ。
どこかにガソリンでも撒かれてるのか? 発火しやしないだろうな。
逐一あたりを見回して警戒して進むが、足元には廃材がいくつも落ちていて物音を立てないように歩くのは難しい。
何度か細い木を踏んで音を立ててしまってもう気づかれてるんじゃないかと人影を見るも何も動きは無い。
気づかれていようが、気づかれていまいが構わない。
人影がはっきりと確認できる距離まで詰めた。
やはりレインコートの男か、奴は後ろを向いたまま微動だにせずにいた。
距離はおよそ一メートル半。
あたりは廃材で囲まれていて今来た道筋を憶えていれば逃げるのは可能、追いつかれるかもしれないがね。
逃げる状況は出来ればきて欲しくないが、こればかりはこないことを祈るしかない。
「……あっ」
一先ず、
「あの……」
声を掛けてみる。
たった二文字言うだけで言葉が詰まるくらいに緊張している、手足の震えも止まらない、呼吸も荒く米神から頬へと一滴の冷や汗が頬をなぞっていた。
奴はゆっくりと振り返った。
手には何か小さい箱を持っており、その中から棒を一本。
……マッチ?
火をつけて、薄らと灯りが灯され、マッチは彼の近くに置いてあったドラム缶へと投げ込まれるとドラム缶は中から火を灯し始めた。
可燃物が入っていたのか、それとも木々に先ほどから漂うこのガソリンを染み込ませて入れたのか、どうであれ辺りが灯されるのは助かる。
それでも強い光ではないのでレインコートの男の顔ははっきりとは窺えない。
素顔も気になる、どんな奴がこの猟奇事件を引き起こしているのだろうか。
「待って」
その時だった。
後ろから、彼女の声が聞こえた。
彼女って?
ああ、祈莉だ。
振り返らずとも解る間違えようにも無い聞き覚えのある声。
やはり祈莉もここに来ていた、俺は祈莉のほうへ振り返る。
「駄目」
「……な、何が?」
「こっち、来て。あれは、絶対に、駄目」
祈莉は俺の傍に寄り、袖を掴んだ。
「い、祈莉……お前、あいつの何を知ってるんだ?」
祈莉は執拗に袖を引っ張って、俺から奴を引き離そうとしていた。
俺の質問に返答はまだ無い、返答するつもりが無いのかもしれない。
この場をどうにかやり過ごす、そんな印象を感じられる。
「わ、私が全部、終わらせるから……あ、貴方は……何も、見ないで!」
「何だよそれ……。祈莉、何を隠してるんだよ!」
口調が荒くなってしまった、この現状に大きな不安と恐怖が心の中で渦巻いていたからだ。
レインコートの男は何も言わず、ただ俺達をじっと見つめていた。
それが不気味で、不安をまた増殖させる。
――カチャン。
ガラスの音が唐突に聞こえ、俺達はその音を聞くと同時に動きが止まる。
何かが近づいてくる、俺が来たところからだ。
足音は真っ直ぐこちらに向かってきている、相手はこちらの姿を捉えているようだ。
――カチャン。
もう一度、ガラスの音がした。
続いて、足音もすぐそこへ。
人影がゆらりと左右に揺れて近づいてくる。
「そいつは、何?」
灯火に照らされて融けた暗闇から現れたのは楽田だった。
意外と早い到着なのはここへたどり着いて、工場内の灯火が目印になったから迷わずここへ来れたからだろう。
しかし、もう少し遅い到着であって欲しかった。
今はまずい、非常に。
「ら、楽田……こいつは……」
彼は両手に大きめのビー玉を二つずつ持ち、彼ならではの戦闘態勢。
「レインコートの男は猟奇事件の犯人、君は以前そう言ったのを僕ははっきりと憶えてる」
「待て、落ち着け!」
「落ち着いてるよ、うん、とても落ち着いている。今は、だけど落ち着いているのさ。ああ、冷静だ」
楽田はビー玉同士ぶつけ合い、先ほどから聞こえていた音の正体であるガラスの音を出す。
「ま、待って……!」
祈莉は戸惑い、俺と楽田を交互に見て言う。
止める人数が一人から二人に増えて、彼女ではもう手に負えない状況になって混乱気味のようだ。
「待てないね、もう冷静じゃなくなった。血管がぶち切れるくらいに、冷静じゃなくなったさ!」




