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「君は強いから大丈夫」と言われ続けたので、強くいることを辞めます  作者: 秋月 もみじ


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第9話 観劇、再び


王立劇場の主賓桟敷席は、向かいの桟敷席よりも、半段だけ高い位置にあった。


書状を受けてから一ヶ月が経っていた。文官部の赴任の支度は、家令と一緒に少しずつ進めていた。荷物の預けの目録、書類の引き継ぎ表、向こうで使う文具の手配。一つずつ、私は家令と並んで卓に向かい、項目を控えていった。


赴任の出立は十日後と決まっていた。


その十日前の夜、グランツェ王太子殿下の親善訪問の締めくくりとして、王立劇場で観劇会が組まれた。両国王家の交流行事の最終日だった。三ヶ月前、私がリカルド様の隣の桟敷席を譲った、あの観劇会と同じ劇場で、同じ演目の別の回が、上演されることになった。


私は、書斎の机の引き出しの奥から、観劇の夜の扇を取り出した。


骨が、握りの形に沿って外側へ反ったままの、あの扇だった。職人に出せば、まだ直る。けれど、私は直さなかった。三ヶ月前のあの夜、私が握った形を、もうしばらく持っていてもよい、と思った。今夜の私は、その形を、最後にもう一度、握ってみたかった。


馬車寄せに着いた時、御者は、咳払いをしなかった。


三ヶ月前、私を一人で連れ帰る道で、御者は一度、小さな咳払いをした。それは、家令の代わりに主人を気遣う、御者の側のささやかな合図だった。今夜、御者は、咳払いをしなかった。代わりに、馬車寄せから、馬車を、いつもより少し奥まで進めた。劇場の正面入口の、一番近い位置だった。御者が自分で位置を選んだ、ということだった。


「ヴェイルハート侯爵令嬢」


劇場の入口で、案内係の方が、私を迎えてくださった。


「お席へご案内申し上げます」


「ありがとう」


「主賓桟敷席でございます」


案内係の声は、低かった。低かったが、はっきりしていた。三ヶ月前、私が桟敷席を譲った夜、案内係の手元は、ほんの一瞬、止まった。リカルド様用の名札を裏返した、あの手元だった。今夜は、その案内係の方ではなかった。けれど、声のはっきりした出し方には、たぶん、見ていてくれた方々の側の何かが、こもっていた。


主賓桟敷席は、劇場の正面から見て、北側に位置した。


向かいの桟敷席よりも、半段だけ、高く据えてあった。半段というのは、階段の一段分ほどの差だった。けれど、その差は、劇場の中で、思っていたよりも、はっきりと目に映る位置の差だった。


「ベアトリス嬢」


殿下が、桟敷席で、立って、迎えてくださった。


「ようこそ」


「お招き、ありがとうございます」


私は、頭を下げた。下げた拍子に、扇の骨が、握りの中で、いつもの位置に当たった。三ヶ月前と同じ場所だった。けれど、今夜の私は、扇を、強く握り直さなかった。指の中で、扇は、ただ静かに収まっていた。


殿下が、私のために、席を引いてくださった。


「お席は、こちらでよろしいですか」


「畏まりました」


「向かいの桟敷席が、よく見える位置でございます」


殿下は、席を選んだ理由を、声に出して、教えてくださった。教えてくださった、ということは、たぶん、言葉のうらにある意図を、私にあらかじめ預けてくださった、ということだった。


私は、向かいの桟敷席を、見た。


そこに、リカルド様が、座っていらした。


リカルド様の隣には、リーゼ様がいらした。お二人の桟敷席は、三ヶ月前と、同じ位置だった。三ヶ月前の夜、リカルド様は第三桟敷席へ移られた。けれど今夜は、もとの桟敷席に、戻っていらした。アーレンス公爵家の桟敷席は、もう一段下げられていない。降格はされていない。ただ、半段下の席に座る、というだけの位置だった。


リーゼ様が、私のほうへ顔を向けられた。


向けて、すぐに、小さく声を上げられた。


声は、桟敷席を越えるほどの大きさではなかった。けれど、リーゼ様の口の動きから、何を言われたかは、向かいの席からでも、分かった。


「お姉さま」


そう呼んでいた。


三ヶ月前と同じ呼称だった。けれど、その呼び方は、もう、私には届かない呼称だった。私は、リーゼ様の口の動きを、見届けてから、軽く会釈だけした。長くは下げなかった。短く、それだけだった。


リカルド様は、顔を上げられなかった。


正確には、上げかけて、上げきれずに、止められた。席に着かれる時、リカルド様は一度、私のほうを見ようとなさった。けれど、私と目が合う寸前で、視線を自分の卓のあたりへ落とされた。それから、第一幕の鐘が鳴るまで、リカルド様は、ほぼ視線を、動かせなかった。


劇場の他の席の客たちも、それぞれの動き方を、選んだ。


会釈を、なさる方々がいた。私の方へ、一人ずつ、別の時刻で。揃った動きではない、ということが、たぶん本心からの会釈だ、ということを、示していた。三ヶ月前、向かいの桟敷席で扇を陰から動かされたエルムストン伯爵夫人は、今夜は、私と目を合わせて、一度、会釈してくださった。私も、礼を返した。


ただ、向かいの公爵家桟敷席への会釈は、揃わなかった。


そこへ会釈をなさる席もあった。会釈をなさらない席もあった。なさらない席のほうが、目に入る位置に、いくつか、見えた。具体的には、家の三つ。それぞれ、別々の方角の席だった。それは偶然ではない、と私は分かった。三家とも、収穫祭茶会で席次や贈答のことで困った家ばかり、と母から聞いていた。


会釈が揃わない、ということは、たぶん、揃わせるまでの時間が、まだ要る、ということだった。


私は、もう一度、向かいの桟敷席に目を戻した。


リカルド様は、卓のあたりを見たまま、動かれなかった。リーゼ様は、リカルド様の袖を、引かれなかった。引こうとして、止めた様子もなかった。ただ、引かない、という動作を、リーゼ様は今夜、自分で選んでいた。たぶん、選んでから、二週も経っていない、と私は感じた。


第一幕の鐘が、鳴った。


舞台の幕が、上がった。


舞台のせりふは、三ヶ月前と同じものだった。裏切られた令嬢の役の俳優も、同じ方だった。けれど、私の耳に届くせりふは、三ヶ月前とは、別のものだった。三ヶ月前、私は、舞台のせりふを、ほとんど耳で素通りしていた。今夜は、せりふの一つ一つが、私の中で、はっきり輪郭を持って届いた。


舞台の上の令嬢は、一人で、独白をした。


「強くいなければ、家のために生きていけない」


そういう内容のせりふだった。三ヶ月前は、その独白の最中、私は扇の骨を握りすぎていた。今夜は、私の指の中で、扇の骨が、ほぼ動かなかった。骨は曲がったままだった。けれど、力は、入っていなかった。


「ベアトリス嬢」


殿下が、声をかけてくださった。


声は、舞台のせりふに重ならないよう、低かった。


「お加減は」


「ご心配なく。薬草の茶葉が、よく効いてくださいました」


「それは、何より」


殿下は、それ以上は、お尋ねにならなかった。お尋ねにならない代わりに、ご自分の卓の上で、ほんの少しだけ、手の位置を、私の側へ寄せられた。触れはしなかった。けれど、卓の上で、殿下の手と私の扇のあいだの距離が、席に着いた時よりも、わずかに、縮んだ。


第一幕が、終わった。


幕間に、殿下と私は、廊下へ出た。


桟敷席の出口で、給仕の方々が、飲み物の準備をなさっていた。三ヶ月前、私の席に、新しいグラスを運んでくださった給仕の方が、廊下の脇に、控えていらした。お互い、顔を見て、軽く会釈を交わした。それ以上のことは、しなかった。する必要が、もうなかった。


「ベアトリス嬢」


殿下が、廊下の柱の脇で、私のほうへ向かれた。


「お聞きしてもよろしいでしょうか」


「はい」


「お手元の扇は、いかがでしょう」


私は、自分の扇に、目を落とした。


骨が、握りの形に沿って外側へ反ったままの、あの扇だった。劇場の灯りの下で見ると、骨の反りは、思っていたよりも、はっきりしていた。たぶん、殿下も、桟敷席で、ご覧になっていらした。半段高い位置から、向かいを見るあいだに、ご自分の席の上で、私の手元も、見ておられた。


「観劇の夜のものでございます」


私は、申し上げた。


「ずっと、お使いに」


「いえ、二度目でございます。最初は、あの夜、最後は、今夜」


「あいだは、別のものを」


「はい、別のものを使っておりました」


「では、今夜のは」


「最後に、もう一度だけ、握ってみたかったのでございます」


殿下は、頷かれた。


「お手は、よく見えております」


殿下の声は、低かった。


「あなたの手は、もう震えていませんね」


私は、扇を、もう一度、握り直した。


握り直す前と後で、扇の収まり方は、変わらなかった。指の中で、扇は、ただ静かに収まっていた。三ヶ月前、私は、この扇を、力で握りしめなければ、自分の手の置き場を、保てなかった。今夜は、扇を握りしめる必要が、私の中から、もう抜けていた。


「殿下」


「はい」


「お見守りくださり、ありがとうございました」


私は、頭を下げた。


下げて、それから、扇を、桟敷席へ持ち帰ろうとして、止めた。私は、扇を、廊下の脇に置かれた、給仕用の卓の上に、そっと、置いた。


「お預け申し上げてもよろしいかしら」


私は、給仕の方に伺った。


「畏まりました。お席へ、お戻ししておきます」


「いえ、お預けで結構です」


「お預けで」


「今夜のあと、もう、使うことはございませんので」


給仕の方は、一度頷かれた。それから、扇を、卓の上で、丁寧に、並べ直された。


殿下は、廊下の柱の脇で、私の動きを、見つめていらした。


「お決めになりましたか」


「はい」


「お席へ、戻りましょう」


「はい」


桟敷席へ戻る道で、殿下の手は、私の手を、支えようとは、なさらなかった。


支えてくださる気持ちがあるかもしれない、と思った動作はあった。けれど、最後に止められた。支えない、という動作を、殿下は選ばれた。私の手が、自分の足元で、自分の歩みで進んでいるのを、殿下は、横で、見届けてくださっていた。


桟敷席に戻られる時、殿下の手は、私の隣の席に、置かれていた。


支えるためでも、握るためでもなかった。


ただ、置かれていた。


イェルクの手が、私の手を支えるでもなく、ただ隣に置かれた。それで充分だった。


第二幕は、最後まで聴いた。


聴き終えた時、私は、向かいの桟敷席を、もう一度だけ、見た。リカルド様は、まだ卓を見ていらした。リーゼ様は、席に座ったまま、瞼を伏せていらした。お二人とも、動きが、ほとんどなかった。けれど、それ以上、私の中で、お二人について、考える気持ちは、もう湧かなかった。


馬車寄せまで、殿下が、送ってくださった。


馬車の前で、私と殿下は、別れの挨拶を、交わした。


「ベアトリス嬢」


「殿下」


「十日後、お待ち申し上げます」


「ご無理のないお迎えで」


殿下は、軽く首を振られた。


「整えは、もう、終わっております」


殿下は、それだけおっしゃって、馬車の出立を見送ってくださった。


馬車の中で、私は、扇を持っていなかった。手の中は、空だった。空のままで、私は、座席に、まっすぐ座っていた。御者は、咳払いをしなかった。今夜の御者は、馬車寄せの位置を、いつもより少し奥まで進めてくれた、あの御者だった。彼は、馬車を、邸まで、まっすぐ運んでくれた。


邸の玄関で、母が、私を出迎えてくださった。


「お帰りなさい」


「ただいま戻りました」


「扇は、いかが」


母が、私の手元を、ご覧になった。


私は、空の手のひらを、母に見せた。


「お預け申し上げました」


母は、それを聞かれて、何もおっしゃらなかった。母は、ご自分の指輪を、回されなかった。

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