第8話 失われた支え
解消の書面に最後の署名が乾いてから、三週間が過ぎていた。秋の収穫祭の彩りが、王都の街路にだけ残っていた。
王室登録局への届出は、家令が翌朝のうちに済ませてくださった。三日後に正式な登録完了の通知が、家令の手元に届いた。私はその通知に目を通し、家令の控え棚へ、自分でしまった。それからしばらく、私の机の角は、空いたままだった。
その三週間の間に、私は、いくつかのことをした。
まず、イェルク殿下宛の返事を、翌朝のうちに書いた。「ご無理のない時に、お話しに参りませんか」というあの一行に、私は「秋風の冷たくならぬうちに、伺わせていただきます」と短く書き添えた。返事は、私自身の筆で書いた。母を経由しなかった。母も、それを止められなかった。便箋は、机の角に置いてあった、白いままの一枚を使った。書き出してみれば、言葉は思っていたよりも、自然に動いてくれた。
それから、領地の書類仕事は、すべて家令と父侯爵の手元へ戻した。
合同稽古の控えも、夜会の段取り表も、贈答記録の控えも、書斎の引き出しから出して、家令へ渡した。家令はそれを、ご自分の業務帳の頁に、ひとつずつ綴じていかれた。本来の場所へ、お戻しになる、という動作だった。
母と公爵夫人の文通は、続いていた。
ただ、私はその中身を、伺わなかった。母が必要だとお決めになった分だけを、私に話してくださる。それで足りる、と思っていた。
そして、その三週間が経った頃、季節は、変わっていた。
朝の窓を開けると、外気が乾いていた。早春の親善訪問が始まったあの頃、王都の街路は、まだ湿った風だった。今は、外套を一枚羽織らなければ、夕刻の散歩は薄ら寒い。庭の樹も、葉先から色が変わり始めていた。私は朝の窓辺で、ふと、観劇の夜の扇の骨を、思い出した。今頃あの扇は、書斎の引き出しの奥で、骨を歪ませたまま、もう誰にも握られていなかった。
その朝、母が、いつもより早くサロンへ私を呼ばれた。
「ベアトリス」
「はい」
「先日、エルムストン伯爵夫人にお会いしたのよ」
母は、卓の上に、新しい一通の書状を置かれた。
「お話があるそうですわ」
エルムストン伯爵令嬢のお父上のことだった。観劇の夜、扇の陰から二度こちらを見られたあのご夫人の、ご夫君。それから、招待状不達の発覚を私に教えてくださった、あのご令嬢のお父上だった。
「公爵家のことで、ですか」
「察するに、そうでしょうね」
母は、便箋を、開かれなかった。
「お受けに、なりますね」
「はい」
「お父様にも、ご同席をお願いいたしましょう」
母が、家令を呼ばれた。
エルムストン伯爵閣下のご訪問は、翌日の午後と決まった。
その日の午後、応接間に通された伯爵閣下は、五十代半ばのお歳で、姿勢のよい方だった。お顔の右側に、若い頃の剣の痕が、薄く残っていた。私は、お顔を上げる前に、その痕の位置を覚えた。剣の方ではなく、書類の方で家業を立てていらしたお家、と私は伺っていた。今日の閣下の手にも、薄い書類入れがあった。
「ヴェイルハート侯爵閣下、ご令嬢」
伯爵閣下は、玄関先から応接間まで、家令のご案内に従われた。
家令は、伯爵閣下を応接間に通された時、一度だけ、表情を変えずに目を伏せられた。たぶん、伯爵閣下のご来訪の趣旨を、家令はあらかじめ察していらした。察しても、表情を変えないのが、家令の流儀だった。
伯爵閣下は、席に着かれた。
私と父が、伯爵閣下と卓を挟んで腰を下ろした。母も同席なさるはずだったが、母は、最初の挨拶だけ申し上げて、いったん書斎へ戻られた。今日の話は、家の取引の話だった。母は、ご自分の仕事を、私と父に譲られた。
「率直にお伺いしたく存じます」
伯爵閣下は、挨拶の後、すぐに本題に入られた。
「アーレンス公爵家とのご縁が、当家のご家から、お変わりになったと、ご連絡を頂戴いたしました」
「左様でございます」
父が、答えられた。
「正式な王室登録の完了は、三週間前にございます」
「承知いたしました」
伯爵閣下は、書類入れを、卓の上に開かれた。中には、三冊の薄い帳面が入っていた。ご自分の家と公爵家との取引の記録だった、とすぐに察した。
「当家は、公爵家との取引のいくつかにつきまして、ヴェイルハート侯爵令嬢が間に立ってくださっていた、と理解しております」
私は、頷いた。
水路の取り決めの書面の、北方の通称と正式呼称を並べた、あの仕事のことだった。それ以外にも、いくつか、私は預かっていた書類があった。エルムストン伯爵家と公爵家との贈答記録の整え方も、私が前年に控えを取らせていただいていた。
「先週の収穫祭茶会で、当家は、公爵家からのご贈答を、二度頂戴いたしました」
伯爵閣下が、おっしゃった。
「二度、と申しますと」
「同じ品が、二箱、別の使者から、別の日に。控えの記録もないご様子で、ご使者の方々も、ご自分が運ばれている品が、すでにお届け済みの品だ、ということを、ご存じありませんでした」
「左様で」
「贈答の重複自体は、稀にあることでございます。けれど、控えの記録がない、ということは、当家の側で、もう公爵家のご贈答の控えを、整え直さなければならない、ということでもございます」
伯爵閣下の声は、淡々としていた。
責める口調でもなく、嘆く口調でもなかった。事実を並べておられる、という口調だった。事実が事実として並べられた時、それが何を意味するかは、聞く側が、ご自分で察するべきこと。伯爵閣下は、その流儀の方だった。
「収穫祭茶会では、ほかにも」
伯爵閣下は、続けられた。
「席次表のご手配が、当日の朝に三度修正されていたと伺いました。当家の席は、最終的に、当家とは別の伯爵家の席と、半分入れ替わっていらっしゃいました。給仕の方々は、席のご案内を二度されました」
「席次表が、三度」
「ええ。あれは、本来、一度きりのご手配でございますわね」
「ご手配の最終確認は、誰がなさるのが、お決まりで」
「公爵家の家政官の方、と存じます」
「左様で」
父は、それ以上はお尋ねにならなかった。お尋ねにならなくても、お分かりだった。席次表の最終確認は、五年間、家政官の手元に上がる前に、私が一度通しで見ていた。今年は、その工程が、抜けていた。
伯爵閣下は、三冊の帳面のうち、一番上のものを、閉じられた。
「単刀直入に、申し上げます」
「はい」
「当家は、公爵家とのお取引を、いったん、見直したく存じます」
「ご見直し」
「お取引を断つ、ということではございません。間に立ってくださっていらしたお方が、当家のご家から、お変わりになりましたので、当家としても、新しい相手をお迎えする支度が、要るのでございます」
伯爵閣下は、薄く、笑われた。
笑い、というよりも、口の端を整えただけだった。
「当家が、貴家にお伺いいたしましたのは、当家の使者が今後、どちらの家のご家令の手元へ、贈答の控えと取引書面をお届け申し上げればよろしいか、ということでございます」
私は、父の顔を、見た。
父は、すぐにはお答えにならなかった。代わりに、卓の上に置かれた三冊の帳面のほうへ、視線を落とされた。それから、私を、見られた。
「ベアトリス、お前は、これらの書面の取り扱いを、これまでどのようにしていたか」
「家令の手元に、当家分の控えを、毎月、渡しておりました」
「それは、お前自身が、当家に向けて続けてきた、ということだな」
「家令の手元の控えは、当家のものでございます。続けておりました」
「では」
父は、伯爵閣下のほうへ、顔を戻された。
「エルムストン伯爵閣下、当家の家令が、引き続きお受け申し上げます。ベアトリスが家令の手元に控えてまいりました記録を、そのままお引き継ぎいたします」
「承知いたしました」
伯爵閣下は、立ち上がられた。立ち上がってから、私のほうへ、もう一度向き直られた。
「ヴェイルハート侯爵令嬢」
「はい」
「五年間の、ご整理に、感謝申し上げます」
「とんでもございません」
「当家の取引のご整え直しは、貴殿が並べてくださった控えのおかげで、半年で済む見込みでございます。並べる、という整え方は、当家の業務にとって、たいへんありがたいものでございました」
伯爵閣下の言葉は、短かった。けれど、五年分を、その短さで、おさめてくださった。私は、頭を下げた。お礼の言葉は、申し上げ尽くせなかった。代わりに、頭を下げる長さで、返した。
伯爵閣下は、家令のご案内で、玄関へ向かわれた。
家令が応接間の扉を閉められた時、家令は、私のほうへ向き直られ、ほんの一瞬、顔を整えた後で、深く頭を下げてくださった。家令が、ご自分の役分を超えて見せられる動作は、四週間前の「明日からの綴り」の言葉以来、二度目だった。
書斎へ上がると、母が、机のそばで、私を待っていらした。
「お話、伺いました」
「お母様」
「公爵夫人との文通の中身を、少しだけ、お話しいたしましょう」
母は、ご自分の机の脇から、一冊の細い控え帳を、取られた。控え帳には、母と公爵夫人がやり取りされた文の、ご自分の側の控えが、綴じられていた。母は、控え帳全体をお見せにはならなかった。ただ、最近の一頁だけを、私のほうへ、開かれた。
「公爵夫人は、収穫祭茶会の前から、嫡男の方をご叱責なさるおつもりでいらしたのよ」
「ご叱責」
「場所を選んでおられました。あなたが書面のお手続きを終えてから、王室登録の完了を見届けて、それから、ご家中で、嫡男にお話しなさるおつもり、と」
「公爵夫人ご自身が、お話しに」
「はい」
母は、控え帳を、もう一度、閉じられた。
「人づてに、伺ったところによりますと、公爵夫人は、嫡男に、こうおっしゃったそうですわ」
母の声は、伝聞の口調になった。けれど、低かった。
「あなたが何を失ったか、ご自分でお考えなさい」
公爵夫人は、それだけおっしゃった、と母は、伝えてくださった。
それ以上のご叱責は、なかった、ということだった。長い叱り方は、公爵夫人の流儀ではない、と母はおっしゃった。短く、ご自分でお考えなさい、と告げるのが、公爵夫人の流儀。それは、母が婚約の挨拶のために初めて公爵邸へ伺った日から、よくご存じだったらしかった。
「お母様」
「はい」
「お母様と、公爵夫人は、いつから、文通を」
「あの茶会の、夕刻からです」
母は、控え帳を、机の引き出しへ戻された。
「同じ封蝋の二通が、同じ日に届いた時に、わたくしは、返事を書くと、決めました。あなたが先に決断なさるのか、わたくしから何かを書くのかは、預けにしていたのですけれど。文の中で、公爵夫人とわたくしは、お互いに、決して急がない、と、最初の文で約束いたしました」
「急がない」
「あなたの決断を、待ちました。わたくしも、公爵夫人も」
母は、私のほうへ向かれた。
「あなたが、お決めになりましたので、わたくしたちは、その後を、整えました」
私は、頷くしかなかった。
頷きながら、四週間前に、母と公爵夫人が、私の知らないところで、同じ約束のもとに動いてくださっていたことを、私はようやく分かった。母が「決められた後の指輪の回し方」を、あの茶会の馬車の中でなさった意味も、ようやく分かった。母は、すでに、公爵夫人との約束を、決めていらした。私が決めるまで、それを動かさない、という約束を。
「お母様、ありがとうございます」
「お礼は、結構ですわ」
母は、軽く首を振られた。
「あなたが、最後はご自分で、お決めになりましたから」
母が、私の頭の横に、軽く手を置かれた。
その手を、私はしばらくそのまま預かった。母も、すぐには引かれなかった。書斎の窓の外を、秋の風が、葉を一枚運んでいくのが、見えた。
その夕刻、新しい書状が届いた。
差出人は、グランツェ王国王太子イェルク殿下のご名義だった。けれど、封蝋は、親書のものだった。中身は、私的な手紙ではなかった。グランツェ王国文官部の、正式な書面だった。私は、書斎の机の上で、その書面を開いた。
「グランツェ王国文官部に、席が一つ空きましたので、ご案内申し上げます」
書き出しは、形式に沿ったものだった。
「半年の短期のご赴任から、お始めいただける契約でございます。仕事の内容は、文官部書類管理の助言役。ヴェイルハート侯爵令嬢の整え方を、当国の文官部に、お分けくださることが、助言の趣旨でございます」
文面は、丁寧で、事務的だった。
私はその文面を、二度読んだ。二度目に読み終えた時、私の指先は、書面の右端を、軽く撫でた。撫でた指先で、もう一行、本文とは違うインクの跡があることに、気づいた。本文を写された筆記官の方のインクは、黒に近い濃さだった。その一行だけ、黒よりわずかに茶を帯びていた。
書き終えてから、最後に、足された一行だった。
「あなたを、強い人としてではなく、ただのあなたとして、お迎えしたく存じます」
私は、その一行を、しばらく見ていた。
殿下の筆跡は、観劇の幕間のあの夜、給仕に飲み物の温度を指示なさったあの動作と、たぶん同じ場所から、書かれた一行だった。「強い」という言葉を、お使いになる時には、必ず「強い人としてではなく」と、否定の文言と、並べて書かれる。並べる、という整え方は、もしかすると、殿下と私の側のあいだで、ひそかに揃いの作法だったのかもしれなかった。
机の角の、空いた場所に、私は、その書面を、置いた。
置いてから、私は、母の足音が書斎の扉の前で止まったのを、聞いた。母は、扉を開けられなかった。声もかけられなかった。ただ、扉の向こうで、しばらく立っていらした。それから、軽く足音を立てて、戻られた。
書状の末尾に、一行だけ手書きで添えられていた。「あなたを、強い人としてではなく、ただのあなたとして、お迎えしたく存じます」
灯りを消す前に、私は、机の角の書面を、もう一度、見た。
書面は、白かった。封蝋の朱だけが、書面の脇で、まだわずかに光っていた。明日の朝、私は、母と父と、もう一度、書斎で向き合うことになる。お受けします、と申し上げる、その朝のために、今夜は、言葉を整えておかなくてもよかった。整えなくてもよい、ということを、机の角に置かれた便箋が、すでに、私に告げてくれていた。




