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「君は強いから大丈夫」と言われ続けたので、強くいることを辞めます  作者: 秋月 もみじ


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7/10

第7話 婚約解消の申し出


応接間に通された私は、はじめて自分の声で約束を破る側に立った。


公爵家茶会から二週間が経っていた。その間、母と公爵夫人のあいだで、文は四度交わされた。家令の手元で、控えの写しが、いつもの招待状綴りとは別の場所に綴じられていく。中央に一輪の花を刻んだ封蝋を、私は四度、見送った。私自身も、公爵夫人へ短いお礼の書状を、一度差し上げた。それ以上は、控えた。母と公爵夫人がお話しになる中身に、私が立ち入るべきではない、と分かっていた。


その二週間で、私は決めた。


決めた、というよりも、決めずに済む理由が、もう尽きた。


その朝、私は家令を呼んで、アーレンス公爵家へ正式な面会の申し入れを書かせた。書面はヴェイルハート侯爵家の正紋で押した。両家の親御様にもご同席を願う旨を、本文に明記した。返書は、その日のうちに届いた。アーレンス公爵家も応じてくださる、ということだった。日取りは三日後。場所は、こちらの応接間。


その三日後の今日、応接間の扉の前で、私は家令の前に立っていた。


「お嬢様」


家令が、声をかけられた。


家令の手には、招待状綴りとは別の、もう一冊の綴りがあった。今朝、家令がご自分で持って参られた綴りだった。表紙には何も書かれていなかった。けれど、家令はそれを抱えて、応接間の扉の前へ来られた。


「ご報告を、一件、申し上げてもよろしいでしょうか」


「ええ」


「公爵家からのご招待状が、この一週ほど、リーゼ嬢宛だけ、別便で届くようになっております」


家令は、綴りの頁を開かれた。先週から今週にかけての日付に、招待状の写しが三通、綴じられていた。差出人はそれぞれ別家。宛先には、ヴェイルハート侯爵家宛と、アーレンス公爵家宛、そしてリーゼ・アーレンス嬢宛、と並んで書かれていた。


ただ、リーゼ様宛の招待状だけ、別の封筒で送られている。


差出人は同じ家。けれど、封蝋は別に押されており、別便として、別の使者が運んでいた。


「これは、社交界のお作法でございますと」


家令は、言われた。


「ご同居のご令嬢への招待状は、通常はご本家宛で一括にお送りいたします。別便にお送りするのは、そのご令嬢を、お家のご家人ではなく、客分としてご遇するご合図でございます」


「公爵家の」


「家人ではなく、客分として、ご遇する」


「そう、ご遇されている」


「先週からの三通、すべてそうでございます」


家令は、頁を閉じられた。


「私が、ご報告申し上げておくべきだと、判断いたしました」


「ありがとう」


「では、ご応接へ」


家令は、ご自分の役分以上のことは口にされなかった。けれど、言うべきことは、言ってくださった。私は、扉の前で一度、息を整えた。「明日からの綴りには、空白がないようにいたします」と家令は四週間前に言われた。あの言葉のなかには、たぶん今日の朝の報告まで含まれていた。


応接間の扉を、家令が開かれた。


応接間には、もうリカルド様と、アーレンス公爵閣下、公爵夫人がお越しになっていた。中央の長卓を挟んで、左手の長椅子に三人が並ばれていた。右手の長椅子には、すでに母が腰掛けていらした。父は、母の隣に立っておられた。私は、父の隣に立った。立ったまま、両家の親御様に向かって、頭を下げた。


「お忙しいところを、ご足労いただきましたこと、感謝申し上げます」


私が、口を切った。


「お申し入れの件、ご応じくださりありがとうございます」


「ベアトリス嬢」


リカルド様が、向かいから、声をかけてくださった。


「面会のご趣旨は、書面では伝わらない部分が、おありなのだろう」


「ございます」


「では、お聞かせください」


私は、父と母を一度見てから、両家の親御様の中央に視線を戻した。


「アーレンス公爵子息リカルド様とのご婚約を、本日をもって、解消させていただきたく存じます」


応接間が、静かになった。


リカルド様の隣の公爵閣下が、ほんの一瞬、肘掛けに手を置かれたまま、動きを止められた。公爵夫人は、動きにならなかった。あらかじめ、ご存じだった、というほうが、正しい。母と公爵夫人の四度の文の中身を、私は知らない。けれど、公爵夫人は、今日の私の申し入れを、ご家中で迎える支度を、すでに整えてこられた。


リカルド様だけが、すぐには理解されなかった。


「ベアトリス嬢、それは」


リカルド様は、顔を上げられた。


「真面目な、お申し入れ、なのでしょうか」


「真面目に申し上げております」


「冗談、ではなく」


「冗談で申し上げる性質のことでは、ございませんでしょう」


「いや、もちろん――」


リカルド様は、言葉に迷われた。


「だが、君は強いひとだ。今までも、いろいろなことを、乗り越えてきた。今度の話も――」


「リカルド様」


私は、リカルド様の言葉を、こちらから止めた。


止めるつもりはなかった。けれど、言葉の続きを聞くと、私の喉から、別の言葉が出てしまうと分かった。だから、止めた。


「強い、という言葉を、もう、お使いにならないでくださいませ」


「ベアトリス嬢」


「お願いいたします」


リカルド様は、お黙りになった。


黙られて、それからすぐ、公爵閣下のほうへ視線を投げられた。父上に助けを求めるような、視線だった。公爵閣下は、ご自分の嫡男の顔を、わずかに長くご覧になった。けれど、何もおっしゃらなかった。


代わりに、父が、動かれた。


父は、長卓の端へ進まれた。ご自分の脇に抱えていらした、薄い革の挟みを、卓の上に置かれた。挟みを開かれると、中に、薄い封筒が三通、入っていた。封蝋は、すべて同じ。アーレンス公爵家の正紋だった。けれど、封蝋の色は、三通とも、わずかに違っていた。


一番上の封蝋は、まだ新しかった。


その下は、少しだけ赤みが落ちていた。


一番下の封蝋は、紋が磨り減って、半分ほどしか読めなかった。


「リカルド殿」


父は、卓越しに、声をかけられた。


父がリカルド様を「殿」とお呼びになるのは、私の覚えている限り、初めてだった。婚約者でもなく、義理の息子候補でもなく、家格上の相手として、父はリカルド様に声をかけられた。声は、低かった。あの夜、応接間で「失念」と一度だけおっしゃった、あの低さと、同じだった。


「ベアトリス宛の、貴殿のお手紙でございます」


「父の手紙、ですか」


「家令の手元に、五年分、保管されておりました。本日、その中から、三通を、お返しいたします」


父は、挟みを、卓の中央へ滑らせた。


「いずれも、書き出しは同じでございます。お確かめいただけますか」


リカルド様は、挟みのほうへ、手を伸ばされなかった。


伸ばす前に、ご自分の指の関節を、一度握り直された。それから、ようやく、一番上の封筒を、お取りになった。封を切らずに、宛名と、ご自分の筆跡をご覧になった。それから、もう一通を取られた。三通目には、手を伸ばさなかった。伸ばす前に、もう、顔色が変わっていらした。


リカルド様は、お黙りになった。


「ベアトリスへ。君は強いから、頼まれてほしい」


私が、卓の脇から、ご自分の筆跡を、声に出して読み上げた。


「一通目は、領地の北方の水路の取り決めの件でございました」


「ベアトリス嬢」


「二通目は、夜会の段取りの件」


「ベアトリス嬢、もう」


「三通目は、合同稽古の進行役の件でございました」


「やめてくれ」


リカルド様の声が、少しだけ大きくなった。けれど、それは怒りではなかった。止めようとされた、というだけの声だった。リカルド様は、ご自分の筆跡が、ご自分の声で、こうも繰り返し紹介されることを、受け入れられなかった。


公爵閣下の顔は、少し蒼ざめていた。


公爵夫人は、動かれなかった。


「父」


リカルド様は、父上のほうへ向かれた。


「これは」


「リカルド」


公爵閣下が、一言だけ、言い付けられた。


「いったん、お聞きしなさい」


リカルド様は、お黙りになった。


父は、挟みを、卓の上に開いたまま、もう一つの書面を、長椅子の脇から取られた。今度は革の挟みではなく、正式な書類の包みだった。包みを開かれると、中には、両家連名の解消書面の草稿が、二部、入っていた。家令が、一週前から、家令室で整えていた書面だった。


「ご署名を、頂戴できればと存じます」


父は、卓の上で、書面を両家それぞれの側へ、分けられた。


「条件につきましては、書面に書かせていただいております。当家から、慰謝の申し立ては、いたしません。アーレンス家からは、王室登録局への解消届出費用のご負担と、向こう一年の家紋付きご贈答のご自粛、それから、王妃陛下宛のご書面でのお詫びを、ご了承いただきたく存じます」


公爵閣下が、書面を、引き寄せられた。


それから、ゆっくりと、目を通された。一文ずつ、確かめられる様子だった。読まれていくあいだ、公爵閣下の右手は、肘掛けに置かれたままだった。手のひらは、卓の上には乗らなかった。


「お引き受け、いたしましょう」


公爵閣下は、読み終わってから、おっしゃった。


返事は、速やかだった。速やかだった、ということが、公爵閣下が今日のことを、すでに公爵夫人とお話し合いになっていた、ということを、私に告げた。


「公爵閣下」


「ベアトリス嬢」


公爵閣下は、私のほうへ向かれた。


「本日のお申し入れは、当家の無礼を、ご寛大にお受け止めくださったご措置と、心得ます」


「とんでもございません」


「貴殿のおっしゃる『強い』という言葉に、当家は、五年、甘えてまいりました」


公爵閣下は、ご自分の息子のほうを、もう一度、ご覧になった。


「リカルド」


「父」


「署名なさい」


リカルド様は、父上の顔を見られた。それから、卓の上の書面を、ご自分の手元へ引かれた。引く手が、わずかに遅れた。けれど、止まらなかった。リカルド様が、ご自分の署名の筆を取られた時、私は、ようやく、顔を、卓のリカルド様の手元から、外した。


外した先で、公爵夫人の顔が、私を見ていらした。


公爵夫人は、母上が母を見るのと、ほとんど同じ目で、私を見ていらした。けれど、言葉は、おっしゃらなかった。言葉のない代わりに、卓の縁に置かれた扇に、手を置かれた。扇は、閉じたままだった。閉じたまま手を置く動作は、たぶん、私への合図というよりも、ご自分への合図だった。


両家の署名が、揃った。


家令が、書面を取り上げ、もう一部の控えを、お互いの側へ渡された。書面は、その日のうちに王室登録局へ、家令の手で運ばれることになっていた。


私は、署名の終わった卓を、もう一度、見渡した。


それから、左手の薬指から、婚約指輪を、外した。


外したのは、簡単だった。簡単すぎるほどだった。五年間、毎日嵌めていた指輪は、嵌めるとき少しきつかった。けれど外す時には、思っていたよりも、するりと抜けた。指の付け根に、白い帯のような跡が、残っていた。


指輪を、署名の済んだ書面の隣に、静かに置いた。


「お預かりした、お品でございます」


私は、申し上げた。


「ご家中へ、お戻しくださいませ」


リカルド様は、指輪のほうへ、すぐには手を伸ばされなかった。代わりに、公爵閣下が、指輪をお受け取りになった。受け取り際に、公爵閣下は、ご自分の嫡男のほうへ、もう一度、視線を投げられた。リカルド様は、顔を伏せていらした。


「ベアトリス嬢」


公爵閣下が、私に向かって、最後に声をかけてくださった。


「貴殿のご決断を、お受けいたします」


「ありがたく存じます」


「アーレンス家の名において、貴殿に、お詫び申し上げます」


「お詫びは、書面でお受けいたします」


私は、それだけ申し上げて、頭を下げた。


頭を下げてから、私は、立ち上がった。両家の親御様、それからリカルド様に、最後の礼をした。母が、わずかに遅れて、立たれた。父も、立たれた。


応接間を出る前に、私は、卓の上に置かれた書面の隣で、もう一度、指輪を見た。


指輪は、署名の朱の脇で、返却を待っていた。私が動かしてしまった指輪を、今度はアーレンス家の方が、ご自分で持ち帰られる。私の手を離れてから、その指輪は、もう私のものではなかった。あれを、私の指の付け根の白い帯と、引き換えに、返した。


応接間の扉を、家令が開かれた。


私は、出ていく前に、卓の手前で、もう一度立ち止まった。


「強くいることを、辞めます」


申し上げた。


卓越しに、向かいの三人に向けて、申し上げた。長い説明はしなかった。叱責でもなかった。それは、私自身に向けても、申し上げた言葉だった。


母が、私の手を、軽く取られた。


私と母と父は、応接間を出た。家令が、扉を閉められるとき、扉の隙間から、応接間の中で、リカルド様がようやく顔を上げられたのが、見えた。顔は、白かった。けれど、何もおっしゃらなかった。


廊下では、私は、母の手を握り返した。


握り返した手の力は、たぶん、私が今までで一番強かった。母はそれを受け止めて、何もおっしゃらなかった。父は、私たちの前を、無言で歩かれた。


書斎まで戻った時、母が、私を、一度、しっかりと抱きしめられた。


「ベアトリス」


「お母様」


「よく、おっしゃいましたね」


「お母様――」


「もう、よろしいのよ」


母の声は、低かった。けれど、いつもの低さとは違っていた。低いというよりも、深かった。私は、母の肩に、額を、預けた。預けてから、ようやく、自分の指の付け根の白い帯に、もう一度、触れた。


父は、窓辺に立っていらした。


窓の外を、ご覧になっていたわけではなかった。父の手には、煙草入れがあった。父は、煙草を吸われない方だった。吸われる方ではないのに、煙草入れを、書斎の机から取られて、窓辺まで運ばれたらしかった。


私は、母の肩から、顔を、上げた。


「お父様」


父は、こちらへ向かれた。


「ベアトリス」


「はい」


「父は、煙草を吸わない」


それだけ、おっしゃった。それだけだった。けれど、それだけで、十分だった。父は、煙草入れを、もう一度、机の上に置かれた。置かれてから、母と私のそばへ、戻ってこられた。


書斎の机の角の、五通の手紙の重なりは、もう、無くなっていた。


朝のうちに、家令が、応接間で使うために、その三通を抜き出していらした。残りの二通は、返却の対象ではない手紙だった。家令はそれを、今は別の引き出しへ、移しておられた。机の角は、空いていた。


代わりに、その隣で、もう一通、新しい封筒が、置かれていた。


差出人は、グランツェ王太子殿下だった。


母宛ではなく、私宛だった。封蝋は、グランツェ王家の略式の紋。私が応接間にいる間に、届いていたらしかった。封を切ると、本文は短かった。労いの言葉と、加減を伺う言葉。それから、添え書きの一行。


「ご無理のない時に、お話しに参りませんか」


筆跡は、本文を書かれた筆記官のものではなく、ご本人の手だった。


包みのなかに、紙包みが、もうひとつ、入っていた。中身は、乾いた茶葉だった。香りは、ふだん私の好む紅茶のものではなかった。少しだけ、薬草の匂いが混じっていた。あの夜、勝手口に届けられた薬草の、香りに、似ていた。


母が、その包みに目をやられた。


「ベアトリス」


「はい」


「お返事は、明日、書きなさい」


「畏まりました」


「今夜は、もう、書斎のことは、忘れて」


母は、それだけおっしゃって、ご自分の指輪を、回されなかった。


回されなかった、ということは、もう決められた後だ、という合図でも、これから決めるところだ、という合図でもなかった。今夜は、回す必要のない夜だ、ということだった。


書斎の窓辺で、父は、ご自分の手を、煙草入れの脇に置かれたまま、外をご覧になっていた。


書斎に戻った私を、母が一度だけ抱きしめた。父は窓辺で、煙草を吸わない人なのに、煙草入れを手に持っていた。


灯りを消す前に、私は、机の角の、空いた場所に、返事を書くための便箋を、一枚だけ置いた。便箋は、まだ何も書かれていない、白いままだった。明日の朝、書くつもりだった。書く言葉は、まだ決まっていなかった。けれど、置いた便箋を見て、私は、初めて、机の角に何かを置くということが、待ち望まれた行為に変わったのを、知った。

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