第6話 従妹の自覚なき一言
公爵家の茶会の卓上には、三段の菓子皿が、隙なく整っていた。
合同稽古から十日が過ぎていた。発熱は三日続き、四日目から起き上がれるようになった。その間、リカルド様からは、二通の手紙が届いた。一通は労いの言葉で、もう一通は次の夜会の日取りの確認だった。労いの言葉のほうも、夜会の日取りのほうも、書き出しはやはり同じだった。「君は強いから」――けれど五日目になって、公爵家から、私宛に正式な書面の招待状が届いた。封蝋はアーレンス公爵家の正紋で押されていた。リーゼ様のご快癒祝いを兼ねた親睦茶会への、私と母宛の招待だった。
家令が招待状を綴りに綴じる時、家令はその頁の前後を、一度確かめられた。
前後の頁には、まだ別家からの招待状が綴じられていた。空白の頁は、もう作らせない、と家令はおっしゃっていた。その約束を、家令はご自分の中で守っておられた。
茶会の日、母と私は公爵邸へ参じた。
客間に通された時、卓上の菓子皿は、すでに整っていた。三段の銀皿で、上段は焼き菓子、中段は果実の砂糖漬け、下段は薄切りのケーキ。それぞれの皿の縁に、菓子は隙間なく並んでいた。並びすぎていて、私は一瞬、母の手元の白手袋を、つい確かめてしまった。母は、私の視線に気づかれて、ほんの少しだけ口の端を緩められた。
「気をお遣いになる方ですね」
母が、低くおっしゃった。
「公爵夫人が、ですか」
「皿の並びまで、ご自分でお確かめになる方は、少のうございますわよ」
母は、公爵夫人を見つめておられた。公爵夫人の席は卓の上座、私たちの席は下手の三人目だった。リカルド様とリーゼ様、それから他家の貴婦人五名。卓を囲んでいたのは、合わせて八名だった。
「ヴェイルハート侯爵夫人、ご令嬢」
公爵夫人が、私たちの席に声をかけてくださった。
「お越しくださり、感謝申し上げます」
「お招きにあずかり、こちらこそ」
母が答えられた。私は、頭を下げた。
公爵夫人は五十に手が届くか届かないかのお年で、白いものが混じり始めた黒髪を、低く結っていらした。お顔は私が婚約を結んだ五年前から、ほとんど変わっておられない。ただ、視線の止まる位置だけが、五年前と少し違って見えた。五年前は、私の頭の上のあたりで、視線は止まった。今日は、私の顔の正面で、視線は止まった。
リーゼ様が、リカルド様の隣の席に着いておられた。
「お姉さま、ご快癒、おめでとうございます」
リーゼ様が、卓越しに声をかけてくださった。
「お加減、ご無理のないように」
「ありがとうございます。リーゼ嬢こそ、お加減はいかがで」
「もうすっかり。お兄様のおかげですわ」
リーゼ様は、リカルド様の袖を、軽く引かれた。
ご自分の姿勢を整えるためでも、何かを示すためでもなかった。ただ、慣れた手つきで、袖をつまむ動作だった。リカルド様は、それを当たり前のように受け止めていらした。
茶会は、穏やかに始まった。
紅茶が出され、菓子皿が回された。リーゼ様は、最初に上段の焼き菓子を一つ取られ、ご自分の皿に置かれた。次に、その焼き菓子を皿の端へ寄せて、もう一つ取られた。三つ目を取ろうとなさって、いったん手を引かれ、もう一度上段へ手を伸ばされた。最終的にリーゼ様の皿には、焼き菓子が三つ並んだ。けれど、お召し上がりになったのは、一つ目だけだった。
二つ目は、半分だけ食べられて、皿の縁に粉だけが残った。
三つ目は、皿の上で、形を保ったままだった。
私の隣に座っておられた他家のご夫人が、二度、扇を動かされた。動かしたのは、扇の風を起こすためではなかった。気配を整えるための、ごく短い動作だった。
「お話、聞いておりましたわ」
リーゼ様が、不意に話題を変えられた。
「合同稽古、お姉さまがご進行をなさったのですって」
私は、頷いた。
「畏まりました役分でございました」
「お疲れでしたでしょう」
「いえ」
「だってお兄様は、本来ご自分の役分なのですもの。お兄様の代わりに、お姉さまが」
リーゼ様の声は、無邪気だった。
責めるご様子ではなかった。むしろ、リカルド様への気遣いのご様子だった。リカルド様は、リーゼ様の声を聞かれて、ほんの少しだけ困った顔をなさった。けれど、否定はなさらなかった。
「リーゼ嬢」
公爵夫人の声が、卓の上座から、静かに届いた。
「お菓子、皿に残しすぎですよ」
「お母様……」
「召し上がれる分だけ、お取りなさい」
「申し訳ございません」
リーゼ様は、皿の縁の粉に、視線を落とされた。
それから、視線をすぐに引き戻して、リカルド様の袖を、もう一度引かれた。今度は、二度。慣れた手つきだった。リカルド様は、リーゼ様の手元を見て、軽く頷かれた。それから、リーゼ様の皿の二つ目の菓子を、ご自分の皿のほうへ移された。
リーゼ様が、ほんの少しだけ、笑われた。
「いつも、こうですの」
リーゼ様は、私のほうへ向かれた。
「お兄様は、わたくしの食べきれない分も、お引き受けくださるんですの。子供の頃から、ずっと」
「そうなのですね」
「お姉さまがいてくださると、わたくし、安心ですわ」
リーゼ様は、そうおっしゃった。
そうおっしゃった、というだけだった。リーゼ様のお顔には、悪意はなかった。お姉さまがいてくださると安心、という言葉は、リーゼ様にとっては、たぶん本当に「安心」を表す言葉でしかなかった。リーゼ様は、卓上の三人目に向けてご自分の言葉を投げかける時、それが場の何を動かすかを、お考えになる様子がなかった。
ただ、場は動いた。
私の隣のご夫人の扇が、開いた。
その向かいに座っておられたご夫人の扇も、ほぼ同時に開いた。動きが揃いすぎていて、それは偶然ではないだろう、と私は分かった。あと三人いらしたご夫人方は、それぞれ別の仕草を選ばれた。一人は、紅茶のカップを、わずかに位置を変えて置き直された。一人は、卓の縁に置いていた手袋の指を、丁寧に揃え直された。残りのお一人は、何もなさらなかった。何もなさらなかった、ということ自体が、選ばれた仕草だった。
そして、卓の上座で、音がした。
公爵夫人の扇が、閉じた音だった。
開かれていたわけではなかった。卓上に置かれていた扇を、公爵夫人が手に取られて、ご自分の手のひらの中で、一度、強く閉じられた。閉じる音は、扇が指の中で噛み合う、乾いた音だった。短かった。けれど、その音を、卓の八名全員が聞いた。
リーゼ様だけが、聞かれなかった。
正確には、聞かれたのかもしれない。ただ、ご自分に向けられた音だとは、思われなかった。リーゼ様は、リカルド様のほうへ、もう一度顔を向けられた。リカルド様は、リーゼ様に返事をする前に、ご自分の母上を、一拍だけご覧になった。公爵夫人は、リカルド様を見ていらっしゃらなかった。卓の縁の、私の扇のあたりを、ご覧になっていた。
私は、自分の扇を、卓の上で、軽く握っていた。
骨は曲がっていない、新しい扇だった。あの観劇の夜から、私は扇を一度、新しい物に替えていた。古い扇は、書斎の机の引き出しに、骨の歪んだまま、しまってある。今日、卓上の扇は、私の指の中で、ほとんど力を入れていなかった。それでも、私はその扇を、卓に置いたまま、一度、静かに閉じた。
「リーゼ嬢」
私は、申し上げた。
「ありがとうございます」
「お姉さま」
「ただ、ひとつだけ、申し上げてもよろしいかしら」
リーゼ様は、頷かれた。リカルド様も、リーゼ様の隣で、頷かれた。
「強いのではありません。強くあろうとしていただけです」
それだけ、申し上げた。
申し上げてから、私は紅茶のカップを取り上げた。湯気は、もうほとんど立っていなかった。冷めかけていた。けれど私は、それを口に運んだ。冷めていてよかった、と思った。熱ければ、私はたぶん、もう一言、足してしまっていた。
リーゼ様は、私の答えを聞かれて、最初は、ご理解にならなかった。
数瞬たってから、リーゼ様のお顔から、笑みが消えた。けれど、悲しまれた顔ではなかった。困惑なさったお顔でもなかった。何をご自分が言われたのか、それがまだ、ご理解に至っていらっしゃらない、というお顔だった。
リカルド様が、口を開かれた。
「ベアトリス、それは――」
公爵夫人が、リカルド様の声を、扇の音で遮られた。
二度目の、短い音だった。さきほどとは、強さも違った。さきほどは、リーゼ様の言葉を聞いた音。今度は、リカルド様の声を止めた音。卓の八名のうち、その違いを分かっていらしたのは、母と、公爵夫人ご自身と、たぶん私だけだった。
「茶を、もう一杯」
公爵夫人が、給仕に申し付けられた。
「今度は、温度を変えて」
それで、卓の空気が、いったん、卓の上座へ吸い上げられた。ご夫人方は、扇を戻された。リーゼ様は、ご自分の三つ目の菓子に、視線を落とされた。リカルド様は、扇を閉じる音の意味を、ご自分の中で測りかねていらした。茶会は、新しい茶が来るまで、わずかな間、止まった。
母が、卓の下で、私の指先に、ほんの一瞬だけ触れられた。
それだけだった。母はそれ以上は、何もなさらなかった。私もそれ以上、何も申し上げなかった。新しい茶が運ばれてきて、茶会は、また続いた。けれど、続いた茶会の中で、リーゼ様がリカルド様の袖を引かれることは、もうなかった。リカルド様も、ご自分から、リーゼ様の皿の菓子を引き取られることは、なかった。
茶会が終わり、お別れの挨拶のために、私と母が玄関先に立った時、公爵夫人がご自分でお見送りに出てこられた。
「ヴェイルハート侯爵夫人、ご令嬢」
公爵夫人は、母の顔を見られた。それから、私のほうへ視線を移された。
「本日は、ご清栄のご様子で、なによりでございました」
公爵夫人は、それだけおっしゃった。けれど、その言葉の語尾の引き方が、開会の挨拶のときの語尾とは、少し違った。引き方が、わずかに長かった。引きすぎない長さで、それでも長かった。
私は、頭を下げた。
母も、頭を下げた。
馬車に乗ってから、母は、ご自分の指輪を、一度だけ回された。今日は、書斎で回される時の癖ではなかった。決められない時の癖でもなかった。決められた後で、それを確かめるための回し方だった。
夕刻、侯爵邸へ二通の書状が届いた。
「お嬢様、奥様、それぞれにお手紙でございます」
家令が、両手に二通を並べて運んでこられた。封蝋は、二通とも同じだった。アーレンス公爵家の正紋ではなかった。中央に小さく一輪、花の意匠を刻んだだけの、控えめな紋だった。
「公爵夫人ご個人のお紋でございますね」
母が、母宛の一通を手に取られた。
私は、私宛の一通を受け取った。同じ封蝋が、私の指の中で、わずかに温かかった。封蝋は、押されてから時間が経っていないように見えた。たぶん、茶会のあと、公爵夫人がご自分の手元で、二通とも続けて封をなさったのだろう。
封を切る前に、私は母を見た。
母は、母宛の手紙の封蝋を、一度だけ撫でられた。撫でられて、それからすぐには開けられなかった。
「ベアトリス」
「はい」
「公爵夫人と、わたくしは、これから少しの間、文を交わすことになるかもしれません」
母は、それだけおっしゃった。
それで、十分だった。私は頷いた。
机の角の、五通の手紙の重なりの隣に、私はその手紙を置いた。重ねなかった。並べた。封蝋の花の紋様が、五通の手紙のどの封蝋とも違って見えた。違って見えた、というよりも、違うべきだ、と思った。
並べて置いた手紙を見つめながら、私は、今夜だけは、机の角の五通の上に、何も重ねないでおこうと決めた。




