第5話 稽古場の代役
合同演習の旗が、午後の風で四つとも一斉に翻った。
王立騎士団第一演習場の旗竿は、四本立っている。第一隊から第四隊までの隊旗が、それぞれの本拠の方角を向くように立てられている。年に一度の合同稽古の日は、四旗すべてが揃って高く掲げられる。私が演習場の北側、進行役の位置に立ったとき、四つの旗は風を受けて、まったく同じ角度で布を膨らませていた。
朝に追加の手紙が届いていた。
机の角の四通目の上に、五通目が積まれた。封蝋を切るまでに、私は手紙の重さだけで内容を察した。リーゼ様が今朝、ご体調を崩されたとのことだった。リカルド様は王都を離れにくいので、合同稽古の進行役だけでなく、ご自身がご臨席されるはずの開会の言葉も、私が代わりに整えてほしい、と書かれていた。
承知いたしました、とだけ書いて、私は朝のうちに返書を出した。
母には申し上げなかった。母は、申し上げなくても、ご存じだった。家令が手紙を運ばれた時、家令は私に手紙を渡される前に、まず母の前を通られた。母は、家令の手元を一目ご覧になり、何もおっしゃらず、私の書斎へ通すよう指示なさった。母が口を出されなかったのは、私を信頼してくださっているからではなかった。たぶん、これが最後の朝になるかもしれない、と母は思っていらしたのだと、今、自分の予感のように分かる。
演習場では、四隊の隊長が、進行役の位置の前で並んで待っておられた。
「ヴェイルハート侯爵令嬢」
第一隊長が、私の前で頭を下げられた。
「本日の進行役を、お引き受けくださり、感謝申し上げる」
私は会釈を返した。
四隊長は、それぞれ年齢も背丈も違う方々だった。第一隊長は中年で、声が低い。第二隊長は若く、姿勢が硬かった。第三隊長は剣の柄に手を置いたまま、目だけ伏せておられた。第四隊長は一番年配で、こちらをじっと見ておられた。四人のうち、誰一人として、リカルド様の名を口にしなかった。
それが、最初の合図だった。
「進行表は、お手元にございますか」
「拝見しております」
「順を変える判断は、進行役に委ねます」
「畏まりました」
私は、進行表を広げた。前年度の控えと、今年の各隊の演習内容の事前送付分を、私はすでに頭の中に入れていた。第二隊と第三隊が、合同演習の最後の組み合いで隊員の配置を取り違える可能性があった。前年度、その箇所で短い混乱があったことを、私は知っていた。
進行表のその箇所だけ、私は朝のうちに順序を入れ替えていた。
組み合いの直前に、第二隊長と第三隊長を一度合わせて、隊員の配置を口頭で確認させる工程を一つ足した。手数は増えた。けれど、混乱は起こらないだろうと、私は判断した。
「お決めの順で、進めてくださいませ」
「畏まった」
第一隊長が、もう一度頭を下げられた。
開会の言葉は、短く済ませた。私が公爵家の名代であること、リカルド様にやむを得ない事情があったこと、四隊の労を労うこと。それだけだった。文面は朝のうちに整え、暗誦していた。観覧席には、王都の主だった貴族の方々が、十名ほどお越しになっていた。観覧席の手前から二列目に、私はエルムストン伯爵令嬢の姿を見た。彼女と目は合わなかった。けれど扇の角度が、観劇の夜と同じだった。
演習が始まった。
進行は、滞りなく進んだ。私が並べ替えた組み合いの直前、第二隊長と第三隊長は短く声を交わしてくださり、隊員の配置を確認された。第三隊長は、その時、初めて顔を上げて、こちらをご覧になった。会釈をなさったわけではなかった。けれど、視線で頷かれた、という感じが近かった。
合同演習の最後の組み合いは、整然と終わった。
四隊の隊員が、整列した。四隊長が、私の前に再び並ばれた。
「ヴェイルハート侯爵令嬢のご進行に、改めて礼を申し上げる」
第一隊長が、四隊を代表して、声を張られた。
「四隊一同、感謝の意を表する」
四隊長が、四人とも、頭を下げられた。
私の前で。
私の名で。リカルド様の名ではなく、ヴェイルハート侯爵令嬢の名で。それは、年に一度の合同稽古の進行役への、公式の礼だった。代役だから簡略な礼で済ませる、という選択も、四隊にはあったはずだった。けれど第一隊長は、その選択をなさらなかった。
観覧席で、扇が、二つ、ほぼ同時に開いた。
二人のご夫人が、扇の陰で短く言葉を交わされた。私の位置からは、声は聞こえなかった。けれど、扇の動きが、観劇の夜と同じだった。
「あれは公爵子息の不在を、晒すことになるな」
そう聞こえた、と思ったのは、私の耳ではなかった。
演習場の北側、私の後ろに控えていた家令付きの侍従が、後で母に告げられた。侍従はその場で、ご夫人方の言葉を耳に拾われたらしかった。母は夜になってから、その伝聞を私に伝えた。伝えながら、母は伝える必要があると判断された、ということを、声色で示された。
私は、四隊長への返礼を済ませた。
「合同稽古、ご苦労に存じます」
短く申し上げた。長い言葉は要らなかった。四隊長は、もう一度頷かれ、それぞれ隊列の前へ戻られた。第三隊長が戻り際に、もう一度こちらを振り返られた。今度は、視線ではなく、軽い会釈だった。
馬車に乗り込んだ時、私の足は少しだけ重かった。
帰り道は、覚えていない。
侯爵邸へ着き、馬車を降り、玄関で家令を迎え、入浴の支度を申し付けた。湯気の立つ浴室に入って、湯に触れた瞬間、私の身体は、私のものではないように熱かった。湯のほうではなかった。私の側が、熱かった。
侍女が、声を上げて母を呼びに行ったらしかった。
母が浴室の脇に来てくださった時、私はすでに浴室の縁にぐったりと座り込んでいたようだった。「ようだった」というのは、その時の私には、座っているのか倒れているのかが、よく分かっていなかったからだった。母が私の額に手を当てられた瞬間、私はようやく自分が熱いと知った。
「ベアトリス」
母の声は、近かった。
「お母様、申し訳ございません」
「お黙りなさい」
母が、こんなに短く私を叱られたのは、覚えのある限り、初めてだった。
寝室まで運ばれた覚えは、半分ない。寝台に寝かされた覚えは、ある。湯上りの白い上着のままだったかもしれない。母が髪を拭いてくださっていた。それから、扉の向こうで、誰かが走る音がした。
「父上を、お呼びしておりますわ」
母が、私の枕元でおっしゃった。
「お父様を」
「あなたが倒れたと聞けば、父はおいでになります。来ないことは、お考えにならない方ですから」
私は、目を閉じた。
閉じた瞼の裏で、四つの旗が一斉に翻る景色が、もう一度よみがえった。それから、第一隊長が頭を下げる景色も。
父が寝台の脇に来られたのは、夜が更けてからだった。
「ベアトリス」
「お父様」
「眠っていればよい」
父は、椅子を一脚、ご自分で運んでこられたらしかった。寝室の入口の方から、木の脚が床を擦る短い音がした。それから、私の枕元の脇に、その椅子を置かれた。座られる音がした。父は、それ以上は何もおっしゃらなかった。
母が氷嚢を替える音だけが、続いた。桶の中の氷の音が、母の手元で小さく揺れた。母は氷嚢の包みを開かれるたびに、布を一度しごかれた。布の擦れる音が、紅茶を淹れる時の絹ナプキンの音に似ていた。
私は、目を閉じたまま、父が座っていらっしゃるのを感じた。
呼吸を聞かせないように、努めておられた。父はご自分の呼吸の音まで気をつけて、椅子の上で身じろぎされなかった。それでも、椅子の脚が床に当たる、ほんのわずかな軋みが、何度か聞こえた。父は、ご自分の重さの存在を、できるだけ消そうとされていた。
それでも父は、椅子から立たれなかった。
立たないことが、父にとっての返事だった、と思う。三日前の書斎で、「待ちすぎたかもしれない」とおっしゃった父が、今夜、私の枕元の椅子から立たないことで、その「待ちすぎた」を、ご自分の身体で埋めていらした。
真夜中になった頃、扉の外で、家令と何かを話す声がした。
母が立ち上がる気配だった。少し間が空いて、母が寝室へ戻ってこられた。手に小さな包みを持っておられた。
「ベアトリス」
「はい」
「目を開けなくてもよろしい。聞いておけばよろしい」
母は、私の枕元の脇に膝をつかれた。
「グランツェ王家の侍医殿が、勝手口にお越しくださいました。視察のお戻りの途中で、ご親切に、薬草を分けてくださったそうです」
私は、目を開けようとして、開けないでおいた。
母の声は、いつもよりやわらかかった。視察のお戻りの途中、と母はおっしゃった。それが何のための言い方かは、私にも分かった。侍医殿は、視察のために夜中に勝手口へお越しになったのではない。けれど、視察のお戻りの途中、ということにしておかれた。母も、ご存じだった。けれど、ご存じだ、とはおっしゃらない方だった。
「侍医殿は、何か、おっしゃいましたか」
私は、目を閉じたまま伺った。
「ええ」
「何か、おっしゃいましたか」
「殿下が、ご心配なさっておいででした、と」
侍医殿がそうおっしゃった、と母は伝えてくださった。
「殿下が、ご心配なさっておいででした」――母の声越しに届いたその言葉を、私は寝床の中で何度も反芻した。
枕元の父は、それを聞かれて、お黙りになったままだった。ただ、椅子の上で、一度だけ、深く息をなさった。父の呼吸の音を、私は今夜、初めてはっきりと聞いた。
母が、薬草を煎じる支度のために、寝室を出ていかれた。父は、椅子から立たれなかった。私が眠るまで、父は同じ位置にいらした。眠る前の最後の意識で、私は椅子の脚の軋みを、もう一度聞いた。
軋みは、一度きりだった。
それきり、父はまったく動かれなかった。私が眠りに落ちる、最後の一拍まで、父はそこにいらした。




