第4話 王太子の茶会
温室の硝子越しに、午後の光が斜めに差していた。
ヴェイルハート侯爵邸の温室は、母が嫁いでこられた時に造らせたものだった。南東向きの硝子壁で、冬は暖を取り、春から夏にかけては葉影で光を和らげる。茶会には少し早い時刻だった。けれど殿下のご来訪は、招かれる側の都合に合わせて、母と話し合った末にこの時刻に決まった。
殿下のお供は、侍従が一人と、その後ろに控える侍医が一人だった。
侍医は温室には入らず、玄関の応接間で待たれた。母が、侍従の方にだけ温室の奥の椅子を勧めた。三人で囲む卓と、少し離れた壁際の椅子。距離の取り方は、母が決められた。私は何も口を挟まなかった。
「ご無理を申し上げました」
殿下が、最初におっしゃった。
「侯爵夫人、ご令嬢」
私と母が並んで頭を下げた。殿下の声を、私はあの幕間以来、二度目に聞いていた。低くて、急がない。話し始めの一音だけ、わずかに息が乗る方だった。
「お受けくださり、こちらこそ、と申し上げるべきところです」
母がそう応じられた。母の手は、母自身のお茶のためのカップに、まだ触れていなかった。
紅茶が出された。
私は給仕の手元から、自分のカップへ注がれる湯気を見ていた。湯気は、私の側ではまっすぐ立った。母の側からは、少しだけ斜めに流れた。卓の三人目――殿下の側でも、湯気はまっすぐだった。卓の四人目の席は、用意されていなかった。けれど私は、卓の四角の空いた一辺を、なぜか見てしまった。リーゼ様がここにいらしたら、湯気はあちらへ流れただろう。今日は、誰もそこにいなかった。
「ヴェイルハート嬢」
殿下の声で、私は顔を上げた。
「紅茶は、どのくらいの温度がお好きですか」
「……熱いほうが、好きでございます」
「熱い」
殿下は、一度、繰り返された。
「では、いつもそうしておられる」
「はい」
「今日のものは、いかがでしょう」
私は、自分のカップへ目を落とした。湯気はまだ立っていた。指先で、カップの腹に触れた。熱かった。熱いだけだった。私は、熱いと申し上げた。殿下はそれを聞かれて、軽く頷かれた。
「では、ご無理のない温度を、毎回お選びください」
ご無理のない温度を、毎回お選びください。
殿下はそうおっしゃった。
それだけの言葉のはずだった。けれど私の指先は、カップの腹で、止まったままだった。「毎回」と殿下はおっしゃった。今日のことではなかった。今日のことだけではなく、これから先のこと。私が選んでよい、と殿下はおっしゃった。
私が選ぶ。
それは、私が今までほとんどしてこなかったことだった。
カップの腹は、熱かった。私はようやく指を離した。母が、その動作を湯気越しにご覧になっていた。一度だけご覧になり、また視線を戻された。
会話は、すぐに別の話題へ移った。
殿下は、剣の話はなさらなかった。乗馬の話も、騎士団の儀礼の話も、なさらなかった。私はそれらを話題にされても、応じられるよう、頭の中で答えを並べていた。けれど殿下は、その引き出しを開けようとなさらなかった。
代わりに、殿下は領地の書類の話をなさった。
「ヴェイルハート家の手元では、領地の取り決めの書面を、どのように整理しておられるとお聞きしました」
「お聞き、ですか」
「いえ、伝聞ではなく、わたくしの推測です」
殿下は、ほんの少しだけ微笑まれた。微笑というよりも、口の片端が動いた程度だった。
「アーレンス公爵領北方の水路の取り決めですが」
私は、姿勢を整えた。
殿下が、なぜそれをご存じなのかは、分からなかった。けれど水路の取り決めという言葉が殿下の口から出たことは、確かだった。三日前、私が別紙に注釈を起こした書面だった。文官府の正式呼称と、伯爵領での通称を並べて記した、あの書面。
「あの書面は、文官府の正式呼称と、伯爵領での通称を、両方並べて書かれていたとか」
「並べて、書きました」
「どちらかに統一するのではなく、並べる、という選び方を、なぜ」
殿下は、ご質問なさった。けれど、答えを試す質問ではなかった。私は、それを声色で分かった。
「文官府の方々は、正式呼称しか、ご使用にならない場合がございます」
私は、申し上げた。
「けれど、北方の伯爵領で代々お使いになっている通称は、その土地の方々の生活に根付いておられます。書面で正式呼称に統一すれば、王都の文官府は読みやすい。けれど現地の方々が、その書面をご覧になったときに、ご自分たちの水路だと感じられない。並べて書けば、両方を立てられます」
「お手数は、増えるのではありませんか」
「増えます」
「それでも、並べる」
「両方を立てるためには、手数を増やすしかございません」
殿下は、頷かれた。
「ヴェイルハート嬢」
そう呼ばれた、と私が思った瞬間、殿下は短く言い直された。
「ベアトリス嬢」
呼称が変わった。
王太子殿下が、ご自分の判断で、家名で呼ぶ呼称から、名前の呼称へ変えられた。それは、親しさを示すためではなかった。たぶん、卓のこの会話を、家同士の挨拶から、もう一段奥へ進めてもよいとお決めになった、そういう変更だった。
母が、湯気越しにこちらを見られた。今日、二度目だった。
「並べる方を、わたくしは存じております」
殿下は、続けられた。
「ご自分の手数を増やしてでも、両方を立てる方を。わたくしは、そういう方が、書類の整え方として、最も信頼に値すると思っております」
「殿下」
「ご謙遜は、結構です」
殿下は、軽く首を振られた。
「あなたが整えていらっしゃる、ということを、わたくしは存じております」
私は、答えられなかった。
殿下が、「存じております」と謙譲語をお使いになった。本来であれば、王太子殿下が一令嬢に対して、こうも丁寧な謙譲を重ねなさる場面ではなかった。けれど殿下は、そう申し上げる、という姿勢を選ばれた。それは、礼ではなく、お決めになった姿勢だった。
私は、頭を下げた。
下げたまま、しばらく顔が上げられなかった。母が、私の膝に近い卓の縁で、軽く指先を動かされたのが、視界の端に映った。母は、私の代わりに何かを言おうとはなさらなかった。ただ、お知りになっているわよ、と指先で告げてくださった気がした。
茶会は、その後、長くは続かなかった。
殿下は、長居をなさらなかった。お茶を一杯と、菓子を一切れだけ召し上がった。会話は、温度の話と、書面の話と、親善訪問の長さの話で終わった。お別れの挨拶のために、私と母が立ち上がった時、殿下も立たれた。
「ベアトリス嬢」
殿下は、最後に私のほうへ向き直られた。
「強くいることを、休んでよい場所が、要りますね」
「強くいることを」
私は、繰り返した。繰り返すしか、できなかった。
殿下は、それ以上は何もおっしゃらなかった。軽く礼をなさり、母と私にもう一度頭を下げてくださり、温室を出ていかれた。侍従が後を追われた。玄関で待っておられた侍医も、合わせて立ち去られた。
温室を出ていく背中に、私は深く頭を下げた。顔が上がらなかった。
母が、私の肩に手を置かれた。
「ベアトリス」
「はい」
「お顔を、上げてよろしいのよ」
私は、ようやく顔を上げた。
温室の硝子越しに、馬車が動き出すのが見えた。グランツェ王家の略式の紋を掲げた小さな馬車だった。御者の背中が、午後の光の中で、まっすぐ伸びていた。
「お母様」
「はい」
「殿下は、なぜ、あの書面のことを、ご存じだったのでしょう」
「さあ」
母は、ご存じだ、というふうにはおっしゃらなかった。
「殿下が、お見つけになる方なのでしょうね」
母は、それだけおっしゃった。それから、私を温室から書斎へ連れて戻られた。書斎の机の角に、四通の手紙の重なりが、まだ置かれていた。母は、その重なりに目を落とされた。
「ベアトリス」
「はい」
「ご無理のない温度を、毎回お選びください、と殿下はおっしゃいましたね」
「はい」
「あれは、紅茶の話だけではないのですよ」
私は、頷いた。
頷きはしたけれど、声は出なかった。出さなくてよい、と母は思われたらしかった。母は、ご自分の指輪を一度だけ回されて、書斎を出ていかれた。書斎には私だけが残った。
机の角の手紙の重なりを、私は見た。
合同稽古の進行役の件は、明日が稽古日だった。
明日になれば、私はまた、リカルド様の代役として演習場に立つことになる。立つことは、もう決めていた。決めていたのは、家のためだった。家のためだ、と母に申し上げた、あの朝のままの、家のためだった。
ただ、紅茶の温度を「毎回お選びください」と言われた今夜の私は、明日の演習場で立つ自分の足元の位置が、ほんの少しだけ、ずれているような気がした。位置がずれている、という感覚を別の言葉に置き換えると、ずれてよいのだ、と誰かに告げられたのに近かった。
私は、灯りを消す前に、机の角の四通を、もう一度整え直した。
四通の上に、五通目を重ねる気は、まだしなかった。




