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「君は強いから大丈夫」と言われ続けたので、強くいることを辞めます  作者: 秋月 もみじ


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第3話 忘れられた招待状


「先日の婚約者会議、お疲れさまでしたわね」――その一言で、私はその会議の存在を初めて知った。


エルムストン伯爵邸の春の茶会。観劇の夜から、ちょうど二週間が経った頃のことだった。卓を囲んでいたのは、私を含めて令嬢五名。エルムストン伯爵家の長女が話の口を切られた。


「アーレンス公爵家でいらしたのでしょう。婚約者の方々がお集まりになる会は、いつもより気を遣われますものね」


私は、紅茶の温度を計るふりをした。


実際には、紅茶の温度は何でもよかった。受け皿の縁に指をかけて、少し動かしながら、私は頭の中で日付を遡った。先日、と彼女は言われた。けれど私は、そのような会の招待を受けた覚えがなかった。


「お加減はいかがでしたかしら、リーゼ嬢」


別の令嬢が、エルムストン伯爵令嬢の話を引き取られた。


「あの方はお席にお戻りになる時間が長くて、皆さま、心配されていたとか」


「リーゼ嬢が、お休みになりながら?」


「いえ、お顔だけはお見せになっていたそうですわ」


エルムストン伯爵令嬢が、私のほうへ目を向けられた。


質問ではなかった。同意を求める視線でもなかった。ただ、私の顔色を、ほんの一瞬だけ確かめられた。私と目が合いそうになった瞬間、彼女はすっと菓子皿のほうへ視線を逸らされた。


私は、紅茶を口にした。


「公爵家のご準備は、いつも見事ですわね」


「ええ」


私は短く相槌だけ打った。「先日」がいつだったかも、その「会」がどういう性質のものだったかも、私はまだ分かっていなかった。聞き返せば、招待されていなかったことが場に晒される。聞き返さなければ、私は「いつも通り婚約者として出席している令嬢」を演じ続けられる。


エルムストン伯爵令嬢は、その後、別の話題を持ち出された。アーレンス家の話を引き取られた令嬢も、それ以上は突き詰めなかった。皆、たぶん私の表情を見ないようにしておられた。卓上の菓子は、ほとんど誰も手をつけていなかった。


帰り際、エルムストン伯爵令嬢は玄関までお見送りくださった。


外套を受け取りながら、彼女は「次の招待は、また早めにお送りしますわね」とだけおっしゃった。


「次の」ではなく、「また早めに」だった。


その言い方が、何かを察してくださっているように聞こえた。けれど私は、礼を言って、馬車に乗った。


ヴェイルハート侯爵邸へ戻ると、家令を書斎に呼んだ。


「アーレンス公爵家から、十日ほど前に、私宛か当家宛で招待状は届いていたかしら」


家令は、私の問いを最後まで聞き終えてから、一度だけ深く頭を下げられた。


「お確かめいたします」


家令室の招待状綴りは、家令自らが管理している。ヴェイルハート家に届いた全ての書面の写しが、日付順に綴じ込まれている。家令は綴りを抱えて書斎へ戻ってこられた。机の上で、ゆっくり頁をめくっていく。私は隣で見ていた。


該当する日付の頁が、空いていた。


頁が抜けていたのではない。書類が一通も挟まれていない頁が、ぽつんと白いまま、その日付の場所に残っていた。前後の日付の頁には、別家からの招待状の写しが、整然と綴じられていた。


家令は、その白い頁の上に手を置かれた。


「お嬢様、当家には、その日付のアーレンス公爵家からの書面は、届いておりません」


「ええ」


「ご確認を、いかがいたしましょうか」


「ご使者を、お願いいたします」


家令は頷かれた。それから、立ち去る前に、もう一度だけ私の顔を見られた。彼が私を見るのは、珍しいことだった。


公爵家へ使者を立てたのは、その日の夕刻だった。


返書は、夜になって届いた。


使者が応接間で口頭の伝言を伝えてくださった。応接間には、私と、家令と、たまたま書斎から下りてきていた父侯爵が並んで立っていた。母は、まだ書斎にいらした。


「リカルド様より、伝言を承りました」


使者は、若い男だった。アーレンス公爵家の伝令の制服を着ていた。


「ヴェイルハート侯爵令嬢に、たいへん申し訳ないことであったと、リカルド様からのご謝罪でございます」


謝罪、という言葉は、使者の口からは出た。けれど続いた説明は、謝罪の中身ではなかった。


「リーゼ嬢が体調を崩されまして、リカルド様は会議を延期されたものと思い込んでいらしたそうでございます。ご招待を、お送りすることを、失念されたとのことでございました」


私の隣で、父侯爵が、わずかに姿勢を変えられた。


「失念」


口にしたのは父だった。


低い声だった。父は普段、家のことについて口を挟まれない方だった。母と私の判断を、原則として尊重してくださる。だから父の声が応接間で聞こえたとき、使者は一瞬、息を止められた。


「失念、というご返答でございます」


使者は、もう一度繰り返した。


父は、それ以上は何もおっしゃらなかった。ただ、頷かれた。使者を玄関までお見送りする間、父は廊下に立ったまま、その背中を見ていらした。


書斎へ上がった。


母は、机のそばに立っていらした。家令が事の次第を申し上げる間、母は黙って聞いていらした。聞き終えてから、母は卓上の指輪を一度だけ回された。それから、指輪に触れたまま、私のほうへ向き直られた。


「ベアトリス」


「はい」


「あなた、いつから自分を粗末にするようになったの」


声は、低かった。


低かったが、響いた。私は、母の前で背筋を伸ばした。伸ばすつもりはなかったが、自然に伸びた。書斎の窓辺には、父が立っておられた。父は窓の外をご覧になっていた。けれど耳は、こちらへ向いていた。


「お母様」


「家のためと、あなたは言いましたね。先日の朝、わたくしの前で」


「申しました」


「家のために、招待状の届かない婚約者でいることが、必要なのですか」


私は答えられなかった。


答えられなかった、というよりも、答えを探した。母の問いに対して、私はいくつか答えを持ち合わせていた。例えば、公爵家との縁が侯爵家の社交基盤に直結すること。例えば、リカルド様には悪意はないこと。例えば、リーゼ様のご事情に配慮する必要があること。けれどそのどれも、いま母の前で口にすると、私自身が嘘をついているように響くのが分かった。


「お父様」


私は、父のほうを向いた。


父は、窓辺から振り返られた。背は高く、肩はわずかに張っておられた。母と並ばれた時、父は母よりも一寸ほど高い。父は私の正面まで来られて、一度頷かれた。


「私は、ずっと止める言葉を探していた」


父の声は、母の声ほどには響かなかった。


「婚約は、両家の重事だ。お前自身の意思を、私は待つべきだと思った」


「お父様――」


「待ちすぎたかもしれないと、今夜、思っている」


それだけだった。


父は、それ以上は何もおっしゃらなかった。窓辺にお戻りになり、もう一度外をご覧になった。書斎の窓からは、馬車寄せの石畳が見えるはずだった。けれど夜のこの時刻、石畳は暗いだけで、何も見えなかった。父がご覧になっていたのは、たぶん石畳ではなかった。


私は、机の角に積まれた手紙の重なりを見た。


机の角の同じ場所に、五年分、こうして手紙が積まれてきた、と昨日の私は思っていた。今夜、その重なりの一番下から、いちばん古い手紙の封蝋が、私を見上げているような気がした。封蝋の紋様は、磨り減って、もう半分しか読めなかった。


その夜、グランツェ王太子殿下からのお手紙が、もう一通届いた。


差出人は母宛のままだった。本文は短かった。茶会の日程について、こちらの控えとして三つの日付を挙げてくださっていた。どの日も、私と母の予定が空いている日だった。それから、末尾に、また本文と少し違うインクで、一行が添えられていた。


「ご無理のない日で、お決めください」


母が、その一行を、しばらく見ていらした。


「ベアトリス」


「はい」


「お受けに、なりますね」


私は頷いた。


「お受けします」


「お受けします」と申し上げた私の声は、思ったより小さかった。母が、一度だけ私の手を撫でた。父は窓辺で、ただ頷いた。


書斎を出るとき、家令とすれ違った。家令は、新しい綴りを抱えていらした。明日からの招待状を綴じ込むための、新しい綴りだった。家令は私の前で、一度だけ立ち止まり、深く頭を下げられた。


「お嬢様」


「ええ」


「明日からの綴りには、空白がないようにいたします」


短い言葉だった。けれどそれは、家令がご自分の領分を、わずかに踏み出してくださった一言だった。私は頷いた。頷いた以上の返事はしなかった。家令はそれで十分だ、というように、もう一度頭を下げられて、廊下を行かれた。


寝室へ戻る前に、私は書斎を振り返った。


机の角の手紙の重なりは、まだそこにあった。一番上の四通目の上に、五通目を重ねる気はしなかった。重ねないまま、私は灯りを消した。


明日になれば、また手紙が届くだろう。


そう思った。ただ、思った時の私の手のひらは、昨夜とは少し違う温度をしていた。

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