第2話 君は強いから大丈夫
朝食の卵が冷める前に、私は三通の手紙を読み終えていた。
ヴェイルハート侯爵邸の朝食室は東向きで、春先の光が卓上にまっすぐ落ちる。卵の黄身は、まだ十分に温かいはずだった。けれど一通目の封を切ったあたりから、私の食事は止まっていた。
執事が三通目を運んできたとき、彼は手紙を私の皿の脇へ置く前に、ほんの一瞬だけ口を結んだ。それから、何事もなかった顔で「お嬢様、追加でございます」とだけ言った。何か言いたかったのかもしれない。けれど執事は何も言わなかった。彼は自分の役分を超えるつもりがない、そういう人だった。
「リカルド様からよ」
向かいに座っていらした母が、私の手元を見て短くおっしゃった。母は手紙の差出人の蝋を見ることもなく、それを言い当てられる。アーレンス公爵家の封蝋は、五年も見続けていればさすがに見慣れる。
私は頷いた。
一通目を母の前へ滑らせる。母は読まれた。それから二通目を、また私が滑らせる。母はそれも読まれた。三通目を読み終えたとき、母の右手は、最後の封蝋を撫でるか撫でないかの位置で、止まっていた。
三通とも、書き出しは同じだった。
「ベアトリスへ。君は強いから、頼まれてほしい」
一通目は領地の書類の件だった。アーレンス公爵領の北方、隣接する伯爵領との水路の取り決めに関する書面の確認。本来は公爵家の文官が処理する案件で、私の手を経る理由はない。ただ、リカルド様は「君のほうが整理が早いから、頼めるか」と書いていらした。文官に直して回す前に、いったん私の控え用に写しを送りたい、ということらしかった。
二通目は、春の中ごろの夜会の段取りだった。アーレンス公爵家が主催する例年の夜会で、これも本来は公爵家側の家政官の仕事だった。リカルド様は「リーゼが体調を崩しがちで、今年は母上も無理をさせたくないとおっしゃっている。君なら回せるだろう」と書いておられた。
三通目は、騎士団の合同稽古の進行役の件だった。
これだけは、私は二度読んだ。
合同稽古の進行は、本来は公爵子息であるリカルド様ご本人が務める儀礼だった。年に一度の儀礼で、四隊を取りまとめる役を婚約者の令嬢が代わることなど、聞いたことがない。手紙には「リーゼの容態が安定するまで、僕は王都を離れにくい。君は剣も場の取り回しも分かっている。君なら平気だ」とあった。
平気だ、という言葉が、私の喉に小さく引っかかった。
母は、三通目の封蝋を、もう一度撫でられた。撫でられた、と気づいたのは、その動作が二度繰り返されたからだった。一度きりであれば、母は触れたとさえ言わなかっただろう。
「ベアトリス」
「はい」
「お受けにならなくとも、よいのですよ」
私は顔を上げた。母の表情は、いつもと同じに整っていた。ただ、いつもより少しだけ、声が低かった。卓上の銀器が、私と母のあいだで光を受けていた。
「お受けします」
「三通とも」
「三通とも」
母は、目を伏せられた。それから少し間を置いて、もう一度こちらをご覧になった。
「あなたが、お決めになることです」
「公爵家との縁は、ヴェイルハート家の社交基盤に直結します。私の判断は、家のためです」
母は何もおっしゃらなかった。
口を開かれなかった、というほうが正しい。母は私の答えを予想していらしたはずだった。それでも、いったん私から「家のため」という言葉を引き出してから、母はようやくその言葉を、しまわれた。卓上の右手は、まだ三通目の封蝋の上に置かれていた。指先が、わずかに白かった。
朝食はそこで終わった。
書斎へ移って、私は三通の手紙を机の角へ重ねた。一番上に三通目、その下に二通目、一番下に一通目。順番はとくに意味がなかった。ただ、整えるとそうなった。気がついたら、机の角の同じ場所に、五年分、こうして手紙が積まれてきた。
書類の写しはその日のうちに目を通した。
水路の取り決めについては、二箇所、用語の取り違えがあった。北方の伯爵領で使われている呼び方と、王都の文官府で使われている呼び方が違うために、本文中で同じ水路を別の言葉で指している箇所があった。直さなければ、いずれ揉める。私は別紙に注釈を起こし、文官府の正式呼称と、伯爵領での通称を並べて記した。
夜会の段取りは、招待状の発送順序から、卓の高さの確認、菓子の納品時期、給仕の人数まで、七十二項目あった。前年度の控えが手元にある。前年度と異なる箇所だけを抜き出して、別紙に分けた。手は機械的に動いた。手のひらの内側で、五年分の動作が、勝手に出てきた。
合同稽古の進行役の件は、別の机に置いた。
これだけは、別に置く必要があった。承諾の返事は、まだ書けなかった。書けないのに、私の手は、もう四隊の隊長名を記憶の中で並べ替え始めていた。第一隊から第四隊までの直近の演習内容、各隊長の癖、進行表のどこで誰の意見を聞くべきか。それは婚約者の代役として把握すべきものではなく、本当は当主候補が把握すべきものだった。けれど私は、把握してしまっていた。
夕刻、執事が新しい封筒を運んできた。
差出人は、グランツェ王国の使者だった。表書きは母宛で、宛先には「ヴェイルハート侯爵夫人カミラ様」とだけ書かれていた。封蝋は、グランツェ王家の紋を控えめに崩した略式のものだった。公式の親書ではない、ということを、まずその封蝋で告げている。
母は書斎で封を切られた。
私は遠慮して窓辺へ寄った。けれど母は、便箋を開きながら、ご自分のほうへ来るよう手で示された。
「ベアトリス、こちらへ」
「私が、ですか」
「ご招待は、わたくし宛ですけれど」
母が便箋を、少しだけ私のほうへ傾けてくださった。
文面は短かった。春の親善訪問にあたり、王太子イェルク殿下が私的な茶会の席を設けたく、ヴェイルハート侯爵夫人と、ご令嬢のご同席を願いたい、ということだった。日付は五日後。場所は王都の外れにあるグランツェ側の客館で、ごく内輪の会である旨が、補足として書き添えられていた。
末尾に、本文と少し違うインクで、もう一行だけ書き加えてあった。
「ご無理のない日を、お知らせください」
筆跡は、本文を書かれた筆記官のものとは違った。本文よりも線が静かで、語尾の引き方に余裕があった。たぶん、書き終えてから、最後に殿下ご自身が足された一行だった。
私の手のひらは、三通の手紙を受け取った朝とは、別の温度になっていた。
なぜ、と私は思ったわけではなかった。なぜ私を、とも、なぜ今、とも思わなかった。ただ、観劇の夜に握ったグラスの温度を、ふっと思い出した。冷たすぎず、温すぎない。喉を通る温度。あれを誰が用意したのか、私は気づかないふりをしていた。気づかないふりをしていたことに、今ようやく気づいた。
「お受けに、なられますか」
私は母に伺った。
母は、便箋を一度たたみ、封蝋を一度だけ撫でられた。
朝、リカルド様の三通目の封蝋を撫でられたときと、同じ動作だった。違うのは、撫でたあとの間だった。朝の母は、撫でてから、しまわれた。今夜の母は、撫でてから、しまわれない。便箋を、もう一度開かれた。
母は手紙の封蝋を一度だけ撫でて、「お受けしましょう」とおっしゃった。
合同稽古の進行役の件についての私の返事は、その夜のうちに書いた。承諾、と短く書いた。書き終えてから、机の角の三通の上に、自分の控えを重ねた。一番上が、いつのまにか四通目になっていた。
ベアトリス、と母が私を呼ばれたのは、その夜が更けてからだった。
「あの方は、あなたの手が震えていたことを、ご存じだそうですね」
私は答えなかった。
母も、それ以上は何もおっしゃらなかった。母は、ご自分の指輪を一度だけ回されて、おやすみなさい、とおっしゃって、書斎を出ていかれた。指輪を回す癖は、母が何かを決めかねたときに出る癖だった。けれど今夜の母は、回しながら、決めかねていらしたのではなかった。すでに決めていらして、ただ、私のためにそれを言葉にされないだけだった。
机の角の四通の上で、一番下の手紙の封蝋が、軽く滲んでいた。
五年分の手紙を運んできた執事が、口を結んだ理由を、私はようやく考えた。考えても、答えは出なかった。出さなくてもよかった。
明日になれば、また手紙が届く。
そう思いながら、私は灯りを消した。




