第1話 観劇の幕間、震える指
王立劇場の桟敷席で、私の隣はいつものように空いていた。
早春の社交期が開いて二週目。グランツェ王国の王太子殿下が三ヶ月の親善訪問で王都に滞在しており、その初週に組まれた観劇会には、貴族の主だった顔ぶれが揃っていた。隣国との交流行事は、座る位置がそのまま家格と関係を示す。だから、私の名札と婚約者様の名札が並んで置かれた席は、開幕前から皆の視界に入る場所にあった。
ただ、隣の椅子には誰もいない。
開幕の半刻前、馬車寄せでリーゼ様が軽く眩暈を訴えた。リカルド様は彼女の肩を支え、控えの間まで連れていった。戻ってきたとき、私の前に立ったリカルド様は申し訳なさそうに、けれど慣れた口調でおっしゃった。
「ベアトリス嬢、君は強いから大丈夫だろう。リーゼがあの様子では、控えの間に近い席で見ているほうが彼女も落ち着く。第三桟敷席へ移らせてもらった。すまない」
承知いたしました、と私は答えた。
それしか答えようがなかった。婚約者の隣席を譲ることは、本来であれば家同士で話し合うべき性質のものだ。そのことを、リカルド様もご存じであるはずだった。けれど第一幕の鐘が鳴る前に、案内係がリカルド様とリーゼ様を第三桟敷席へ導いていく後ろ姿を、私は黙って見送った。
ここで何か申し上げれば、騒ぎになる。
それはたぶん、リカルド様が一番嫌うことだった。だから私は、自分の椅子の隣にあるリカルド様用の名札を、案内係に視線で示して下げてもらった。名札の紙を裏返して持っていく案内係の手元が、ほんの一瞬だけ止まったのを、私は見た。
幕が上がった。
舞台のことは、よく覚えていない。
向かいの桟敷席に座っていらしたエルムストン伯爵夫人が、扇の陰から二度、こちらを見た。一度目は開幕直後。二度目は、第一幕の中ほど、舞台で裏切られた令嬢の役の俳優が独白を始めたあたりだった。夫人は私と目が合うことを避けるように、すぐ舞台へ視線を戻された。けれど扇の角度は、変わらなかった。
私は扇を握っていた。
握っていた、というほど明確な動作でもなかった。握ることでしか手の置き場を保てなかった、というのが近い。骨が一本、ずっと前から私の指の形に沿って少しだけ曲がっている。今夜、その骨はさらに曲がるだろう。それが分かっていながら、私は力を抜けなかった。
舞台のせりふは、耳を素通りしていく。ただ、独白する俳優が握っている扇の指の形だけ、なぜか目に入った。
第一幕が終わった。
幕間に席を立ち、私は廊下へ出た。控えの間に向かおうとしたわけではない。リカルド様とリーゼ様が休んでいらっしゃる第三桟敷席に近づくのは、避けるべきことだった。だから私は反対側の廊下を歩いた。
そこで、グランツェ王太子殿下とすれ違った。
両国の正式な交流行事ゆえ、殿下も観劇に列席なさっていた。私が顔を上げた瞬間、殿下は連れの侍従と短く言葉を交わしておられた。視線が合ったわけではない。私はすれ違う前に頭を下げ、壁際へ寄った。殿下は私の前で歩を緩め、軽く礼を返してくださった。
「ヴェイルハート嬢」
声を掛けられるとは思っていなかった。私は顔を上げた。
殿下は私の名を確認するように、もう一度ご自分の中で繰り返されてから、わずかに目を細められた。視線が、私の手元へ移った。私が扇を握りすぎていることを、たぶんその瞬間にご覧になっていらしたのだと思う。
何かを言いかけて、けれど言わず、殿下は侍従に短く何かを指示なさった。侍従が頷いて、廊下の奥へ消えていく。
「大丈夫ですか」
短く、それだけだった。声は低かった。
私はもう一度、頭を下げた。ご心配をおかけしました、と申し上げたつもりだったが、声が思ったよりも小さかった。殿下はそれ以上踏み込まれず、軽く頷いて、廊下の先へ歩いていかれた。背中越しに、もう一度だけ視線を寄越されたのを、私はやはり受け取った。
桟敷席に戻った。
第二幕が始まってしばらく、給仕が私の席に新しい飲み物を運んできた。前のグラスはまだ残っていた。私は給仕の方を見上げた。
「ご令嬢、お飲み物のお取り替えを承りました」
「頼んだ覚えはないけれど」
「失礼いたしました。お席のご様子から、控えの間でご準備いただいたほうがよろしいかと判断いたしまして」
ご令嬢、と呼ばれた。婚約者様がご一緒の場では、本来であれば「ご婚約者様」と呼ばれる場面だった。けれど今夜は、その呼称を使うほうが場の不都合を作る。給仕はそれを分かっていた。
私は新しいグラスを受け取った。手のひらが硝子に触れた瞬間、ほんの少しだけ、温い。そう感じてから、改めて確かめた。冷たすぎず、温すぎない。喉を通る温度に整えてあった。
誰かが、私の手が震えていたことに気づいた、ということだった。
第二幕の途中、舞台のほうへ目を戻すたび、私はその硝子の温度のことを考えていた。考えていたのは、たぶん舞台のせりふよりも、その温度のほうが長かった。
幕が下りた。
桟敷席を立つとき、私はもう一度、扇の骨を確認した。一本だけ、握りの形に沿って外側へ少しだけ反っていた。元に戻すには、職人に出すしかない。けれど明日また握れば、同じ形に戻るだろう。
廊下では、エルムストン伯爵夫人と挨拶を交わした。夫人は私の顔をご覧になり、何かおっしゃりかけて、その言葉を飲み込まれた。代わりに私の手元へ視線を落とされ、それから、首を一度だけ静かに振られた。
馬車寄せまで、私はリカルド様とリーゼ様を待たなかった。
馬車に乗ってから、扇を膝の上に置いた。窓の外を、観劇会場の灯りが流れていく。御者が小さく咳払いをしたのが、聞こえた。私が一人で帰ることに、彼も気づいたのだろう。けれど彼は何も問わなかった。
「大丈夫ですか」――一言だけだった。それなのに、私の喉は妙に詰まった。




