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「君は強いから大丈夫」と言われ続けたので、強くいることを辞めます  作者: 秋月 もみじ


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第10話 強くいない時間


グランツェの文官部の執務室は、想像していたより、ずいぶん静かだった。


赴任の出立から、一ヶ月が経っていた。グランツェ王国の王宮は、南棟が文官部の執務棟になっている。私の席は、その三階の北寄りの一室にあった。窓を開けると、王宮の中庭の銀杏の樹が、もう色を変え始めていた。秋の初めの光は、王都ヴェイルハートで私が見ていた光よりも、もう少しだけ、低い角度から差していた。


執務室は、私の他に、五人の文官の方々がいらっしゃった。


一人はご年配の方で、長く文官部に勤めてこられた様子だった。お二人は私と同じくらいの年頃で、書類の手元の早い方々。一人は寡黙な方で、毎朝、私の机の上に、お茶の入った白い磁器のカップを、何も言わずに置いていかれた。残りのお一人は、笑うのが好きな方で、廊下で何度かすれ違ううちに、自分の名前を「カイ」と短く名乗ってくださった。


「ヴェイルハート侯爵令嬢、書いていただいた控えを、回してもよろしいでしょうか」


赴任の初日から、五人とも、声をかけてくださる時には、家名を、家名のまま、呼んでくださった。


ヴェイルハート侯爵令嬢、と。


奥様、とは、どなたもおっしゃらなかった。お嬢様、ともおっしゃらなかった。グランツェ王国の文官部では、令嬢の呼称は、家名に続けて「ご令嬢」と呼ぶのが、正式の呼びだった。私は、その呼び方を、最初の三日で、聞き慣れた。


仕事は、書類管理の助言役だった。


文官部の手元には、各領地から上がってくる取り決めの書面、贈答記録、儀礼の控え、王室への奏上書面の控えなど、薄い帳面が、毎日、十数冊ずつ届く。それらをどう綴じ、どう並べ、どこに通称と正式呼称を併記するか、という仕事を、私は預かっていた。


「並べる、という整え方を、お教えいただけますか」


初日に、ご年配の文官の方が、私に伺われた。


「並べる、と申しますのは」


「文官府の正式呼称と、領地の通称を、併記する整え方でございます。文官部の控えでは、こちらでは、まだあまりお見かけしない整え方でございますので」


「左様で」


「殿下から、ヴェイルハート侯爵令嬢の整え方を、お分けいただくよう、ご指示を賜っております」


私は、頷いた。


「では、明日の朝から、まずは贈答記録の控えで、試してみましょう」


「お願い申し上げます」


ご年配の文官の方は、それから三日のあいだ、私の隣の席で、控えを並べて作る仕事を、私と一緒に進めてくださった。三日目の朝になると、もう私が口を挟まなくても、ご自分の手で、文官府の正式呼称と領地の通称を、並べることができるようになっていた。


「ヴェイルハート侯爵令嬢」


三日目の昼、ご年配の文官の方が、ご自分で書かれた控えを、私の席へ持ってこられた。


「並べる、という整え方は、たいへんありがたいものでございました」


私は、その帳面を、受け取った。


エルムストン伯爵閣下の応接間で、私が伺ったのと、ほとんど同じ言葉だった。違う家、違う国、違う職業の方が、同じ感想を、私にくださった。並べる、という整え方が、受け取る側の手元で、何かを軽くしているのだ、とようやく分かった。


その日の夕刻、机の片付けをしながら、私は、ヴェイルハート侯爵邸からの手紙を、開いた。


差出人は、母だった。


「ベアトリス、お変わりはございませんか」


書き出しは、短かった。母の手紙は、いつも短かった。母は、書きたいことは、書く。書きたくないことは、書かない。今回も、その通りだった。


「ヴェイルハート邸は、平穏でございます。お父様は、いつものように書斎の窓辺にお立ちです。煙草入れは、机の角にお戻しになっています。家令は、招待状の綴りを、毎日、整えております。空白の頁は、本年に入って、まだ、一頁もございません」


私は、その三行を、二度読んだ。


「公爵夫人との文通は、続いております。アンネリーゼ様は、お元気でいらっしゃいます。先日の文には、こうお書きでした。『リーゼは、修道院付属の保養地で、夏のあいだ過ごします。あの子が、自分の手で、自分の気持ちを整える時間が、いるそうですわ』と」


リーゼ様の名前を見て、私は、思っていたよりも、心が動かなかった。


動かなかった、ということが、わずかに、気がかりだった。けれど、気がかりに思う自分の感情を、整え直す手間も、もう、要らなかった。


「ベアトリス、わたくしの指輪のことを、お話しいたします」


母の手紙は、続いていた。


「赴任の出立の朝以来、わたくしは、指輪を、ほぼ回しておりません。決めかねている時にも、決めた後にも、わたくしは回していたのですが、今は、回す必要がございません。回さなくてもよい時間というのは、思っていたよりも、軽いものでございました。ようやくあなたが、あなたとして生きていらっしゃるからだと、わたくしは思っております」


私は、母の手紙の、その一行で、読むのを、止めた。


止めて、しばらく、窓の外を、見た。中庭の銀杏が、夕の光の中で、いつもよりも色濃く見えていた。部屋の中は、文官の方々がもうほぼ席を立っていて、私の席だけ、灯りがついていた。


ようやくあなたが、あなたとして生きていらっしゃる。


母の言葉を、私は声に出さなかった。声に出さなくても、言葉は、私の中で、声になっていた。


机の上の磁器のカップに、まだ少しだけ、お茶が残っていた。


寡黙な文官の方が、朝、置いていってくれたお茶だった。冷めていた。けれど、私は、その冷めたお茶を、一口、口に運んだ。冷めたお茶のほうが、今夜の私の手元に、もう少し長く、居てくれる温度だった。


執務室の扉が、軽く叩かれた。


「お入りください」


私は、返事をした。返事をしながら、自分の声が、手紙の前の声と、もう違うことに、ようやく気づいた。声は、手紙の前よりも、ほんの少しだけ、低かった。低かったというよりも、お腹のほうから出ていた。


「失礼いたします」


扉を開けて入ってこられたのは、殿下だった。


護衛を連れていらっしゃらなかった。執務室の入口で一拍立たれ、五人の文官の席がもう空いていることを確認されてから、入ってこられた。お一人で。


「殿下」


私は、自分の机の席で、立ち上がった。


立ち上がる前に、母の手紙を、机の上で、伏せるべきか、見せたままにすべきか、迷わなかった。私は、手紙を、伏せずに、机の上に開いたままにした。


「公務のお忙しい中、お越しいただきまして」


「いえ、本日は、公務ではございません」


殿下は、ご自分で足を運ばれて、私の席の脇まで、お見えになった。椅子は勧めなかった。殿下も、座る意思は、持たれなかった。立ったまま、机の縁に、軽く手を置かれた。


「ベアトリス嬢」


「はい」


「お聞きいただきたい話がございます」


「畏まりました」


「お時間、よろしいでしょうか」


「いつまでも」


私は、答えた。


「いつまでも」という返事を、言葉にしたあとで、自分でも、少しだけ驚いた。言葉は、考えよりも、先に出ていた。けれど、出てしまった言葉を、取り戻す気持ちは、なかった。殿下は、私の返事を、聞かれて、ほんの少しだけ、目元を緩められた。


殿下は、机の縁に置かれた手を、いったん、引かれた。


「お聞きいただくのは、家の話でございます」


殿下は、それだけ、最初におっしゃった。


「私には、妹が、おりました」


殿下の声は、いつもより、わずかに低かった。


「家の話、というのは、亡くなった妹のことでございます。当国の王女で、当時、十二歳でした。亡くなったのは、私が十六の頃です。風邪が、長く引かなかった、ということでした。医師たちは、最後まで、困っていた」


私は、聞いていた。


殿下の話は、事務的だった。事務的というよりも、長く考えた末に選ばれた言葉だ、ということが、声色で分かった。


「妹は、当家の身内の中で、誰よりも元気な人間でした。剣も、乗馬も、学問も、上手でした。家の者は、病気が長引き始めても、『あの子は強いから、持ちこたえる』と、言い続けていた。私もです。私自身も、そう、言っていた一人でした」


殿下は、自分の手の方を、しばらく見ていらした。


「最後の十日ほど、妹は、口数を、減らしていった。話すのが、無理だったのかもしれません。けれど、家の者は、無理だ、という様子を、見ていなかった。私もです。私はその頃、妹の手のことを、見落としていた。妹の手は、毛布の上で、震えていたと、後で侍女が、話してくれました。私は、その震えを、会った時にも、見たはずなのですが、見ていなかったのです」


殿下は、顔を、上げられた。


「亡くなってから、私は、二度と同じ見落としをしない、と決めたのです」


それだけ、殿下は、おっしゃった。


それだけだった。長い説明は、なかった。慰めの言葉も、求められなかった。殿下は、ただ、話すべきことを話して、話し終えられた。


私は、返事を、すぐには返さなかった。


代わりに、自分の席の椅子の脇から、立ち上がった。立ち上がってから、殿下の前で、軽く頭を下げた。下げて、それから、顔を上げた。


「殿下」


「はい」


「お話しいただいて、感謝申し上げます」


「礼を申し上げるのは、私のほうです」


殿下は、ほんの少しだけ、笑われた。


それから、殿下は、ご自分の上着の内ポケットから、小さな包みを、取り出された。包みは、白い絹の布で、軽く結ばれていた。結びの形が、整いすぎていなかった。たぶん、殿下が、ご自分の手で結ばれた、ということだった。


殿下は、包みを、ご自分の手のひらの上で、解かれた。


中には、一つの指輪が、入っていた。


細い銀の輪に、小さな淡い色の石が、一つ、乗っていた。色は、青みを帯びた灰色で、私が今日まで見たことのない色だった。たぶん、グランツェの北方で採れる石、と私には分かった。大きさは、控えめだった。控えめに選ばれた、ということだった。


「ベアトリス」


殿下は、名前で、呼んでくださった。


「強くいなくてもよい時間を、共に過ごしませんか」


殿下の声は、低かった。低かったというよりも、お腹のほうから出ていた。母の手紙を読んでいた時に、私の声がそうだったのと、同じ高さだった。


私は、すぐには答えなかった。


答えなかったのは、答えに迷っていたからではなかった。答えを選ぶ言葉を、私の中で整え直そうとして、いったん戻っただけだった。


「殿下」


「はい」


「お受けします」


「ありがとうございます」


殿下は、頷かれた。


そして、指輪を、机の上に置こうとなさって、止められた。代わりに、指輪を、ご自分の手のひらに乗せたまま、私のほうへ、差し出された。受け取る側の手のひらを、私のほうから、出した。指輪は、殿下の手のひらから、私の手のひらへ、ほとんど音も立てずに、移った。


私は、指輪を、左手の薬指に、嵌めようとして、止めた。


指の付け根にあった白い帯は、もう、消えていた。けれど、嵌めるのは、まだ少しだけ、早いような気がした。私は、指輪を、いったん、右手の薬指に、嵌めてみた。


少し、大きかった。


手を動かすと、指輪は、指の内側で、軽く回った。


「直しに出しましょう」


私は、申し上げた。


「いいえ」


殿下は、軽く首を、振られた。


「急がず、ゆっくり、合わせていきましょう」


その一言で、私は、指輪を、もう一度、自分の手の中で、確かめた。


確かめてから、自分の右手の薬指に、もう一度、戻した。指輪は、また、指の内側で、軽く回った。けれど、回るままで置くことを、自分で決めた。直さなくてよい、と決めた。決めた、ということを決める動作は、思っていたよりも、軽かった。


殿下は、机の縁に、もう一度、手を置かれた。


今度は、引こうとは、なさらなかった。


「ベアトリス」


「はい」


「お返事の手紙、お母上に書きますね」


「はい」


「書く時、わたくしからも、挨拶の言葉を、添えてください」


「畏まりました」


私は、頷いた。


殿下は、もう、ご自分の手を、引かれなかった。机の縁に、置かれたまま、部屋の窓の外を、ご覧になった。窓の外では、銀杏が、夕の光の中で、最後の一段、色を、深めていた。


「殿下」


「はい」


「あの夜の、給仕の飲み物の温度を、お決めになったのは、殿下でいらっしゃいましたか」


「はい」


「やはり、ご存じでしたのね」


「お分かりになっていた、ということを、私は、存じておりました」


「ご存じだった、と」


「『気づかないふりをしていた』という様子も、私には、分かっておりました」


私は、ほんの少しだけ、笑った。


笑ったのは、たぶん、観劇のあの夜以来、初めてだった。笑いの形を感じるのは、久しぶりだった。久しぶりすぎて、笑いながら、自分が笑う、ということを確かめていた。


殿下も、笑われた。


殿下の笑い方は、顔の片端だけが、少し動く様子だった。あの春の温室で、温度の話をしてくださった時に、見せられた、あの笑いだった。


母に書くことは、もう、決まっていた。


返事の手紙には、受けた話と、添える挨拶のことと、それから、もうひとつ、書きたいことがあった。


母の指輪は、もう、回さなくてよい。


私の指輪は、まだ少しだけ、回る。


その報告を、わたくしから、お母様へ、お知らせ申し上げます――そう、書くつもりだった。


指輪は、私の指に少し大きかった。「直しに出しましょう」と申し上げると、彼は静かに笑った。「いいえ、急がず、ゆっくり合わせていきましょう」――急がない、その言葉だけで、私は充分だった。

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尊敬語、謙譲語、丁寧語といった「敬語」の使い方がもう滅茶苦茶です。「くださる」「される」「いらした」など、自分の行動なのか、自分に対する他人の行動なのか、誰の誰に対する行動を指しているのか。それが理解…
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