第3話 会議って、腹が減る前に終わらせるべきでは?
書類の山は、本当に山だった。
ニコの裁可机──もとい、陛下の裁可机の上には、革表紙の分厚い書類が積み上げられている。
一冊が、ニコの腕より厚い。それが、五冊。
しかも、開いてみると、字が小さい。
しかも、言葉が難しい。
「『当該案件における財政的措置は、近時の歳入動向ならびに国庫の流動性確保の観点に鑑み、暫定的な保留措置を講じ、もって次期予算編成期における再検討に付されることが妥当と思料される』……」
ニコは、書類を読み上げた途中で机に突っ伏した。
「……何が言いたいんだこれ」
「陛下?」
すぐ後ろに控えていたフィアが、口元を手で隠しながらくすりと笑った。
「『今は金がないから後回し』、ということです」
「……それ、そう書けばよくない?」
「ふふ。陛下、本日はずいぶんとはっきりおっしゃいますね」
「……ええ、まあ、ちょっと、気分が」
「ふふふ」
フィアの目が、笑っていた。
完全に楽しんでいる目だった。
ニコは、覚悟を決めて、次の書類を開いた。
次の議題は、王都警備隊の士気低下について、だった。
「報告によりますと、近頃、王都警備隊の兵士に不満の声が多く、訓練成績も芳しくないとのことです。上層部は、規律の緩みと判断し、訓練の強化と罰則規定の見直しを提言しております」
報告したのは、軍部の老将軍だった。
立派な髭を生やし、胸に勲章をいくつもぶら下げている。
ニコは、その報告を聞きながら首をかしげた。
「あの、ちょっといいですか」
「は」
「規律が緩んでるって、どこで判断したんですか」
「は?」
「いや、訓練成績が落ちてる、って言うのは結果ですよね。原因が規律の緩みって、どうやって決めたんですか」
「それは、長年の経験から……」
「飯は!」
「は?」
「兵士の飯は、ちゃんとしてますか」
「は……?」
「寝床は?休みは?靴、穴あいてないですか?」
ニコの脳裏に、近所の兵士の青年たちの顔が浮かんでいた。
市場でよく顔を見るあいつ。
給料日にしかパンを買わないあいつ。
靴底がぺらぺらのあいつ。
母親に「うちの食堂で残り物食べてけ」と何度も声をかけられているあいつ。
「いえ、その、兵士の待遇は、規定通りでございますれば」
「規定通りと、ちゃんと食えてる、は、別の話です」
「は……」
「調べてみてください。食堂のスープ、薄くないですか。靴の質、落ちてないですか。夜勤明けの休憩、ちゃんと取れてますか」
将軍は、ぽかんとした顔をしていた。
ガルシア卿が、また、眉をひそめた。
「陛下、士気とは、本来、兵士の精神の問題でして……」
「精神は、空きっ腹じゃ保ちません」
「は……」
「俺──じゃない、私の経験では、人間は、腹が減ってると、機嫌が悪くなります。靴が痛いと、訓練に身が入りません。寝てないと、判断が鈍ります。これは、精神の問題じゃなくて、体の問題です」
「……陛下」
「士気って、気合いじゃなくて、だいたい、飯と靴です」
議場の何人かが、噴き出した。
慌てて咳払いに変えた者もいた。
将軍は、髭をひと撫でして、しばらく考え込んでから、ぼそりと言った。
「……確かに、近頃、糧食の納入業者を、より安価な業者に切り替えました。その影響、かもしれませぬ」
「靴は」
「靴も……でございますな」
ニコは、頷いた。
「では、糧食の質を、戻してください。靴も、ちゃんとしたものを。夜勤明けの休憩時間を、明文化してください。予算が足りなければ、儀礼用の装飾費から、一部、回してください」
「装飾費を、ですか!?」
ガルシア卿が、声を上げた。
「あれは、王家の威信に関わる──」
「見栄えのいい羽飾りは、兵士を繋ぎ止められません。穴のない靴のほうが、兵士は逃げません」
また、議場が静まった。
胃痛のクラウスが、こちらをものすごい目で見ていた。
ものすごい目でというのは、敵意でも怒りでもなくて、なにか、信じられないものを見ているような目で。
しかし、その奥で何かが揺らめいて動いたような──そういう目だった。
次の議題は、税の取り立てについてだった。
「貧民街および小商人への徴税が、近年、滞納が増加しておりまして」
書類を読み上げた財務官が、淡々と続ける。
「役所では、取り立ての強化、ならびに、滞納者への即時差し押さえ制度の導入を、検討しております」
「待ってください」
ニコの声が、思ったより、低くなった。
「払えない相手を、締め上げて、払えるようにはなりません」
「は」
「商売が続けば、来年は払えるかもしれません。差し押さえたら、その商売は終わります。終わったら、二度と税は取れません。長い目で見たら、損です」
「しかし制度上──」
「制度を、見直してください」
ニコは、書類を、ぱん、と叩いた。
「収穫や売上に応じた、猶予制度を作ってください。一律じゃなくて。今年不作だった地区は、期限を延ばしてください。書類の申請は、もっと簡単にしてください。あと──」
ニコは、言葉に、力をこめた。
市場の、隣のおばあさんの顔が浮かんだ。
字が書けないおばあさん。役所の書類を、毎回誰かに読んでもらっているおばあさん。
「字が書けない人に『申請書を書いて出せ』って、それ、できるわけないでしょう」
議場のざわめきが、ぴたりと止まった。
「役所に、代筆してくれる窓口を作ってください。たぶん、申請が増えます。そのほうが、結果的に、税収は増えます」
誰も、何も、言えなかった。
ニコは、ふう、と息を吐いた。
体じゅうから、汗が吹き出していた。
(だめだ。玉座って、ぜんぜん休憩場所じゃない。ひと言、言うたびに、誰かの給料が動く。誰かの飯が決まる。誰かの店が、潰れたり、生き残ったりする。陛下、毎日これ、やってるの?心臓、もつの?)
昼食の時間になった。
運ばれてきたのは、見たこともないご馳走だった。
白身の魚に、薔薇のような形の野菜の付け合わせ。
湯気の立つスープ。ふわふわの白いパン。
ニコは、スープをひと口すすった。
うまかった。
涙が出るほど、うまかった。
(うますぎる……いや、違う、感動してる場合じゃない。これ、兵士の食堂にも、出してやってくれ。いやさすがに無理か。でも、せめて、もうちょっと、濃いスープを)
「陛下」
フィアが、こっそりささやいた。
「ご朝食、ほとんど召し上がっておられませんでしたから、お辛かったでしょう」
「うん……ありがとう……」
「ふふ。陛下は、本当に、お優しいですね」
「……君、知ってる、よね?」
「さあ、なんのことでしょう」
フィアは、口元を手でそっと隠してにっこりと笑った。
午後の議題は、王都中央広場の、新しい大噴水建設案だった。
ニコは、書類をぱらりとめくり、開いた口が塞がらなかった。
「……金貨、千二百枚?」
「はい、陛下。王都の威信、観光客の誘致、文化的象徴としての機能を考えますれば、決して高い額ではなく──」
「下水って、どうなってます?」
「は?」
「下町の、下水溝。詰まってますよね。夏場、すごい臭うって、聞いてます。あれ、補修にいくらかかりますか」
「下水溝の補修は……金貨二百枚程度かと……」
「じゃあ、噴水をやめて、下水を、直してください。残った千枚は、別の補修や、申請窓口の人件費に回してください」
「し、しかし──」
「噴水は、腹を壊した子どもを、治しません」
ニコは、きっぱり言った。
ガルシア卿が、顔を真っ赤にしていた。
胃痛のクラウスが、ぽかんと口を開けていた。
末席の若い役人たちが、こっそり目を見合わせて、笑いをこらえていた。
ニコは、玉座の背もたれにそっと寄りかかった。
体じゅうが、痛かった。
胃が、痛かった。
頭が、痛かった。
(陛下、毎日、これやってるんだな。偉そう、っていうのは、ぜんぜん、違う。ひたすら人の困りごとを、聞いて、決めて、責任を負う。逃げられない仕事だ、これは)
窓の外。
夕日が、城下町の屋根を橙色に染めていた。
市場のほう、いつもの裏路地のあたりに、見覚えのある背格好の青年が、汗くさい麻のシャツ姿で、ぽつんと立っているように見えた。




