第4話 本物の王、城下で修行中
時を、少し戻す。
ニコが朝議の間で「全面改修はいりません」と言い放っていた、ちょうどその頃。
セドリック・ヴァン・サンクレールは、生まれて初めてパンを買おうとして、断られていた。
「お兄さん、それ銅貨一枚じゃ買えないよ。三枚」
「……三枚、とは」
「銅貨三枚って言ったの。お兄さん、字、読めない人?」
「いや、字は、読める」
「じゃあ三枚出して」
「……すまない、銅貨というものを、持ち合わせていない」
パン屋のおかみさんは、目をぱちくりさせ、それから、げらげらと笑った。
「お兄さん面白いね!じゃあ何持ってんの!」
「金貨なら、ある」
「……はい?」
「金貨だ。これでは、買えないか」
差し出された金貨を見て、おかみさんは表情を消した。
パン一個、銅貨三枚。
金貨一枚は銀貨百枚、銀貨一枚は銅貨百枚。
つまり、金貨一枚は、銅貨一万枚に相当する。
パン一個に、金貨。
それは、つまり、
「お兄さん、あんた、お貴族様?」
セドリックは、口ごもった。
なんと答えるべきか。
ニコと取り替えた、汗の染み込んだ麻のシャツを見て、王家の紋章を縫い込んだ自分の外套が、ニコの手元にあることを、ふと思い出した。
「……いや、その、田舎から、出てきたばかりで」
「ふうん?まあ、いいや。釣りなんて出ないからね、金貨なんかで払われちゃ。ちょっとお待ち、おまけしとくから」
おかみさんは、勝手にパンを二つ、紙に包んで、セドリックに押しつけた。
「金貨、どっかで両替してきな。両替所、知ってる?」
「いや、知らない」
「ほんと田舎者だねえ。三本向こうの通り、緑の旗が出てるとこ。手数料取られるけど、しかたないよ」
「……ありがとう」
セドリックは、紙包みを抱えたまま、しばし立ち尽くした。
パン一個の値段すら、知らなかった。
硬貨の使い方すら、知らなかった。
両替所の場所すら、知らなかった。
自分は、この国の、王だ。
しかし、この国の人々が、毎日どうやってパンを買って、暮らしているのか、何ひとつ知らなかった。
セドリックは、紙包みを抱きしめた。
パンは、まだ、温かかった。
市場を歩いた。
活気があった。怒鳴り声があった。値切る声があった。笑い声があった。
屋根の壊れた店が、いくつもあった。雨の日にはどうしているのだろう、と思った。
道の真ん中に、大きな穴ぼこがあった。荷車が、避けるようにぎこちなく通っていた。
報告書では、「王都の市場は良好に機能している」と書かれていた。
その「良好」の中に、この穴ぼこは入っていなかった。
通りの隅で、若い兵士が屋台の店主と、何かを押し問答していた。
「だから、今月はもう、つけは無理だって言ってるだろ!」
「すいません、給料日まで、あと三日、頼みます……」
「お前、先月もそう言ったろうが」
「すいません……靴を買い替えたら、その月、食う金がなくなって……」
セドリックは、思わず足を止めた。
兵士は、若かった。十八か、十九。
顔色が、悪かった。
見ると、靴の底がすり減って、ぺらぺらになっていた。
彼の靴は、王都警備隊の支給品だ。
国が、支給した靴だ。
その靴が、半年でこんなになるのか。
セドリックはふと、自分の靴を見た。
ニコと交換したそれは、底が薄く、すでに足の裏が痛い。
ニコは、毎日この靴で、市場じゅうを走り回っていたのか。
通りすがりの女が、屋台の店主にぱしんと銅貨を押しつけた。
「あたしが払うよ。この子のぶん」
「おっ、惣菜屋のおかみさん」
「兵士さん、うちの店、惣菜屋なんだ。困ったときは寄っていきな。残り物、食わせてやるから」
「……いえ、そんな、申し訳なくて」
「いいからいいから。あんたら、町を守ってくれてるんだろ?腹減らせて守れるかってんだ」
女は、四十くらいのたくましい腕の女だった。
後ろに、十歳くらいの小さな女の子が立っていた。
咳をしていて、顔色が青白い。
セドリックは、その親子をぼうっと見ていた。
女の子の咳の音が、なぜか胸に刺さった。
「……あの」
気がつくと、声をかけていた。
「お子さん、お加減が悪いのですか」
「ああ?あんた、誰だい」
「あ、いえ、通りすがりの、ものですが」
「ふん。風邪が長引いてるだけさ。薬代が高くてねえ。うちの息子が、王城に納品の仕事があるとかで、その金で薬を買うって言ってたんだけど──」
セドリックは、息を止めた。
「……息子さんの、お名前は」
「ニコ。市場で雑用やってる、しょうもないけど、まあ、優しい子さ」
セドリックの心臓が、嫌な跳ね方をした。
「あんた、ニコの知り合い?」
「いえ、その、知り合い、というほどでは。先ほど、市場でお見かけしたもので」
「そうかい。あの子、今日どこ行ってんだろうねえ。帰り、遅いんだよ」
セドリックは、紙包みのパンをぐっと握った。
パンが、潰れた。
そうか。
あの青年は。
あの、自分が、ほとんど無理やり服を取り替えてしまった、あの青年は。
妹の薬代のために、必死で納品の仕事をしようとしていた、あの青年は。
「……あの、奥様」
「奥様って。お貴族様じゃあるまいし、おかみさんでいいよ」
「おかみさん。これを」
セドリックは、紙包みのパンを女の子に差し出した。
「先ほどいただいたばかりで、まだ、温かいです。良ければ、どうぞ」
「えっ!いいよ、悪いよ」
「いえ、私には少し、多すぎましたので」
「……あんた、おきれいな顔のわりに、いい人だねえ」
「ありがとう、おにいちゃん」
女の子が、セドリックを見上げて、にっこり笑った。
その笑顔が、頬の痩せ方と不釣り合いだった。
昼を、少し回った頃。
ニコの母マリエは、なぜか、すっかりセドリックを気に入ってしまったようで、「飯くらい食っていきな」と、店の裏口に彼を引っ張り込んだ。
昼の、まかないだった。
薄いスープに、固いパンの切れ端、それに塩気の強い豆の煮込み。
「店で出すには、ちょっと豆が煮崩れちまったやつさ。あんた、客じゃないから、これでいいだろ」
「……いただきます」
セドリックは、無骨な木の匙を手に取った。
ひと口、すすった。
うまかった。
信じられないほど、うまかった。
「……うまい」
「あらま、お貴族様の口に合うかい」
「貴族では、ありません」
「ふふ、そういうことにしといてあげるよ。あんた、どっか品があるからねえ」
セドリックは、スープをもう一口、すすった。
「この味は、宮廷の料理にはないものです」
「そりゃそうだ。宮廷でこんな安いスープ、出さないだろうよ」
「そういうことでは、なく」
セドリックは、言葉を探した。
「これは……一日働いた人間が、最後に、家で食べるための味です」
言いながら、ふと気づいた。
自分は、宮廷で毎日、何皿もの豪奢な料理を出されていた。
白身の魚。薔薇のように盛られた野菜の付け合わせ。湯気の立つ、濃いスープ。
しかしあれは、「働いた者を労うための味」ではなかった。
「王の威信を示すための味」だった。
目的が、違う。
台所の、目的そのものが、違っていた。
「……あんた、案外わかってるねえ」
マリエは、目を細めた。
咳をしているミラが、奥からじっとこちらを見ていた。
その目が、ニコとどこか似ていた。
セドリックは、スープを最後の一滴まで飲み干した。
胸の奥に、何かがはっきりと灯った。
戻ろう、と思った。
今日中に、城へ。
遅すぎてはいけない。今、自分の席には、別人が座っている。
ニコにどれほど度胸があろうと、玉座に丸一日、平民の青年を座らせ続けるのは、あまりに酷だ。
あの青年は、妹の薬のために走っていたのだ。
自分が押しつけた服のせいで、その妹を待たせ続けてはならない。
セドリックは、立ち上がった。
「ご馳走になりました。本当に、感謝します」
「なんだい、もう行くのかい」
「ええ。……ひとつだけ、聞いてもよろしいですか」
「なんだい?」
「おかみさんは、王のことを、どう思っておられますか」
マリエは、きょとんとした顔をして、それから、ふっと笑った。
「王様かい?遠いねえ。雲の上のお人だ」
「……お嫌い、ですか」
「嫌いってほどじゃないさ。会ったこともないしね。ただねえ──」
マリエは、鍋の蓋をことりと置いた。
「税のお触れが回ってくるたんびに、思うんだよ。王様、市場の通り、歩いたことあるのかねえ、って」
セドリックの肩が、びくりと上がる。
「あの穴ぼこ、見たことあるのかねえ。下水のにおい、嗅いだことあるのかねえ。うちの娘の咳、聞いたことあるのかねえ、って」
マリエの声は、責めるようではなかった。
ただ、しみじみと、独り言のように、呟いただけだった。
しかしその声は、セドリックの胸のいちばん奥深くに、まっすぐ刺さった。
「……ありがとうございました」
セドリックは、深々と、頭を下げた。
「あれ、あんた、なんで頭下げるんだい」
「いえ。……ご馳走の、お礼です」
セドリックは、店の裏口を出た。
午後の日差しが、まだ高かった。
夕方には、まだ時間がある。
今からなら、間に合う。
城下町の表通りへ向かって、歩き出したそのとき。
遠くから、誰かが走ってきた。
「陛下!陛下、こちらでしたか!」
別動の護衛隊長が、息を切らして駆け寄ってきた。
「ご無事で何よりです!……あの、宮殿で、その、一大事でして」
「何があった」
「……陛下の、お席に……その、別人が、座っております」
「知っている」
「は」
「すぐに城へ戻る。馬車を」
「は、は……!?」
「急げ。日が傾く前に着きたい」
「は、ははっ!ただちに!」
護衛隊長は、わけがわからない、という顔のまま、しかし背筋を正して、駆け出した。
馬車が、裏通りで待っていた。
セドリックは、汗の染みた麻のシャツのまま、扉を開けた。
「城へ。最短経路で」
「は、はっ!しかしながら陛下、その、お召し物が……」
「このままでいい」
「は……?」
「このまま、戻る。このまま戻らねば、見えていたものが、また見えなくなる」
御者は、もはや何も言わず、手綱を打った。
馬車が、走り出す。
窓の外を、見慣れた──いや、見ていたつもりで、まったく見ていなかった城下の景色が、流れていく。
屋根の壊れた店。
道の穴ぼこ。
すり減った靴で歩く兵士。
咳をする子ども。
値切る声。笑い声。怒鳴り声。
そして、薄いスープの匂い。
報告書には、書かれていなかったもの。
書かれていても、読み飛ばしていたもの。
書かれる前に、誰かが諦めて、口を閉じてしまったもの。
セドリックは、馬車の窓に額を押し当てた。
城の白い塔が、視界に入ってくる。
あの中でいま、自分の席に座っている、ひとりの青年がいる。
ろくに礼儀作法も知らず、ろくに字も読み慣れず、ただ、市場の感覚だけを武器に、たぶん、震えながら判を押している。
それを押しつけたのは、自分だ。
戻って、礼を言わなければならない。
戻って、引き取らなければならない。
そして、戻って──
自分の仕事のやり方を、変えなければならない。
「飛ばせるか」
「は、は!ただいま!」
馬車の速度が上がった。
日はまだ、城の塔の半ばまでしか降りていなかった。
間に合う。
今日中に。
夕暮れになる前に。
セドリックは、馬車の中で深く息を吸った。
胸の奥でまだ、薄いスープの味が温かく残っていた。




