第九節 ― 救いたかった司祭
蕾は、胸の内側から浮かび上がっていた。
寝台の上で身を反らせているのは、若い漁師だった。名はユルド。左腕に深い切り傷を負い、昨日から慈療院で眠っていた患者のひとりだ。
彼の胸元の布が、不自然に膨らんでいる。
リオが駆け寄り、布を開いた。
そこに傷はなかった。
けれど、皮膚の下で赤い根が絡み合っていた。心臓の上ではなく、古傷のある左腕から胸へ向かって、細い根の線が伸びている。根は肋骨の間に集まり、小さな白い蕾を押し上げていた。
ユルドは目を開けていない。
だが、苦しげではなかった。
それが、余計におぞましかった。
身体は異常を起こしている。
生きたまま、葬送の花が咲こうとしている。
なのに、本人は痛みを感じていない。
リオは咄嗟に薬袋を開いた。
「湯を。清水ではなく、塩を少し入れたものを。あと、苦根草と灰葉を刻んでください」
看護人が震えながら動く。
「押さえつけるな」
リオは周囲に言った。
「痛みがないぶん、身体の抵抗が遅い。無理に押さえると根が裂ける」
マヤが寝台のそばに立った。
彼女の胸元の徴も、布越しに熱を持っている。顔色は悪い。けれど、逃げようとはしなかった。
「リオ」
「近づきすぎないで」
「でも、この花……呼んでる」
リオの手が止まりかけた。
「何を」
「帰る場所を」
マヤは、蕾を見つめたまま言った。
「でも、この人、まだ帰りたくない」
その言葉で、リオの中の判断が定まった。
花を切るのではない。
根を抜くのでもない。
帰り道そのものを、いまはまだ違うと教える。
リオはユルドの耳元に顔を寄せた。
「ユルド。聞こえるなら、息をして」
返事はない。
「お前はまだ死んでいない。左腕の傷は、死ではない。胸の中に入った根は、帰り道ではない。戻ってこい」
サラ=モルナの言葉を思い出す。
死者の名と、生者の名を分けて呼ぶ。
花に、自分の季節を思い出させる。
リオはユルドの手首を取り、脈を確かめた。
「ユルド=マルカ。漁師。生者。帰る先は土ではない。潮でもない。花でもない。お前の船だ。お前の網だ。お前が明日、まだ罵るはずだった波だ」
その瞬間、蕾が震えた。
白い先端が、わずかに開きかける。
リオは薬液を指に取り、赤い根の線に沿って塗った。
苦根草の苦い匂いが、甘い花蜜の香りをわずかに押し返す。
ユルドの眉が、初めて苦痛に歪んだ。
周囲から息を呑む声が漏れる。
痛みが戻ったのだ。
ユルドは小さく呻いた。
「……痛い……」
リオは、その声を聞いて深く息を吐いた。
「いい。痛みが戻ったなら、まだ身体は訴えられる」
白い蕾は、完全には消えなかった。
だが、それ以上開くことはなかった。皮膚の下へ沈むように、少しずつ膨らみを弱めていく。赤い根の線も、濃さを失った。
ユルドは涙を浮かべていた。
痛みによる涙だった。
それを見て、慈療院の中にいた患者たちは、黙った。
痛みが戻ることを、喜ぶ者はいない。
けれど今だけは、その痛みが生の証であることを、誰もが見てしまった。
リオは立ち上がった。
そして、セラド=ミンを見た。
「奥で話を」
セラドは、逃げなかった。
慈療院の奥には、小さな調合室があった。
壁には乾燥薬草が束ねて吊られ、棚には小瓶が並んでいる。山蜜草、眠蓮の種、白根粉、傷洗い用の塩、安い香油。
そして、その奥。
布をかけられた木箱があった。
リオは迷わず歩み寄り、布を取った。
セラドが小さく息を吸う。
木箱の中には、古い壺が置かれていた。
掌二つで抱えるほどの大きさ。
黒い陶器に、白い花の紋が刻まれている。
壺の口は蜜蝋で封じられていたが、すでに何度も開け閉めされた跡がある。
その隣には、小瓶が十数本。
淡い琥珀色の油。
花蜜に似た甘い香。
腐花の聖油。
リオは、壺に触れずに見下ろした。
「これですね」
セラドは答えなかった。
「古代の葬送種が混じっていました。本来は死者の身体に置くものです。生者に使うものではない」
それでも、セラドはしばらく沈黙していた。
調合室の外から、人々の声が聞こえる。
患者のうめき声。
看護人の足音。
子どもの泣き声。
聖油を求める群衆のざわめき。
セラドは、そのすべてを聞いているようだった。
「……沈没品でした」
やがて、彼は言った。
声は低く、掠れていた。
「一月ほど前、南の入り江で古い祠の残骸が引き上げられました。密売人が持ち込んだものです。神殿に渡せば記録だけ取られて倉庫へ入れられる。商人に渡せば飾り物にされる。だから、私が買い取りました」
「なぜ」
「花葬の道具だと聞いたからです」
セラドは、壺を見た。
その目に、最初にあったのは欲ではなかったのだろう。
リオには分かった。
この若い司祭は、たぶん本当に救いを探していた。
「南路地では、死ぬ者が多いんです」
セラドは続けた。
「神殿へ葬儀代を払えない者もいる。検疫所へ行けば、病名をつけられ、隔離され、働けなくなる。薬師に行けば金がいる。痛み止めは高い。眠り薬はもっと高い。けれど、痛みは待ってくれない」
「だから、葬送種を薬にした」
「最初は、ほんの少しでした」
セラドの声が震えた。
「香油に、ほんのわずか混ぜただけです。死者に使うものなら、苦しむ者の死を穏やかにできるかもしれないと思った。でも、生きている患者に薄く使ったとき……痛みが消えたんです」
彼の目に、当時の光景が戻っていた。
「焼けるようだと泣いていた老人が、眠れました。咳で血を吐いていた女が、朝まで眠れました。熱にうなされていた子どもが、笑ったんです」
リオは黙って聞いていた。
「カルムさんも、胸の痛みが引いたと言いました。久しぶりに身体が軽いって。娘の薬代を稼げるって、笑ったんです。先生、あの人は、本当に笑ったんです」
セラドの声が、そこで崩れた。
「痛みが消えた。熱が下がった。笑えるようになった。眠れるようになった。みんな、ありがとうと言った。神はまだ自分たちを見捨てていないって言った」
彼は両手で顔を覆った。
「だから、やめられなかった」
リオは、木箱の中の壺を見た。
古い葬送具。
死者を次の命へ返すための種壺。
それを、生者へ薄めて与えた。
最初は慈悲だったのだろう。
次も、たぶん慈悲だった。
三度目には、患者の笑顔が理由になった。
四度目には、やめることの方が罪に思えた。
救いは、いつも悪意から狂うわけではない。
むしろ、救いたいという願いが強いほど、間違ったときに深く根を張る。
セラドは顔を上げた。
目は赤く濡れていた。
「でも、あの人たちは笑ったんです。
死ぬ前に、初めて痛くないって言ったんです。
それでも、私は間違っていたんですか」
リオは即答できなかった。
調合室の外では、まだ声がしている。
痛い。
眠れない。
助けてくれ。
聖油を分けてくれ。
その声を聞きながら、間違いだと一言で断じることはできなかった。
痛みを消したことは、間違いではない。
苦しむ者を眠らせたことも、間違いではない。
死にかけた者に一夜の安らぎを与えたいと願ったことも、間違いではない。
だが。
リオは静かに息を吸った。
「間違っていたかどうかは、俺が決めることじゃない」
セラドは、泣き濡れた目で彼を見た。
「けれど、あなたは彼らに選ばせなかった」
調合室が、静まり返った。
「選ばせなかった……?」
「そうです」
リオは壺を指した。
「これが何なのか、あなたは説明しなかった。痛みは消えるが、身体の中で葬送が始まるかもしれない。死後に咲くはずの花が、生きているうちに根を張るかもしれない。治療ではなく、死へ向かう道を一時的に甘くするものかもしれない。そう伝えなかった」
「伝えたら、彼らは怖がった」
「それでも伝えるべきでした」
「伝えたら、受けられない者がいた」
「受けるかどうかは、本人が決めることです」
セラドの顔が歪んだ。
「本人が決める余裕なんて、ありません。痛みで泣いている者に、選択など――」
「だからこそ、奪ってはいけない」
リオの声は、静かだった。
怒鳴らなかった。
だが、逃げ場を与えなかった。
「苦しんでいる人間は、ただでさえ多くを奪われている。金を奪われ、眠りを奪われ、働く力を奪われ、家族と過ごす時間を奪われている。そこからさらに、自分の身体がどう変わるかを知る権利まで奪ってはいけない」
セラドは、言葉を失った。
「延命を否定しているんじゃない。祝福を否定しているわけでもない。死に近い者が、痛みのない時間を望むことも否定しない」
リオは、自分の左腕の包帯に触れた。
「変わった身体で生きることが、必ず不幸だとも思っていない」
マヤの顔が、胸の奥に浮かんだ。
死なない供物。
花と獣の徴を宿した少女。
奇跡と呼ばれ、聖女と呼ばれ、誰にも怖かったかと聞かれなかった少女。
リオは続けた。
「でも、救いという名前で、本人の知らないところへ連れていくことは違う」
セラドは震える手で、木箱の縁を掴んだ。
「では、どうすればよかったんですか」
それは、問いというより悲鳴だった。
「痛みで泣く人に、何と言えばよかったんです。薬は買えない。神殿は遠い。検疫所は満杯だ。明日働けなければ家族が飢える。そんな人に、あなたなら何を差し出せたんですか」
リオは答えられなかった。
それは、彼自身にも刺さる問いだった。
正しい医療倫理は、薬草の不足を埋めない。
清潔な寝台も、温かい食事も、働けない者の賃金も生まない。
選ぶ権利を説いても、選べるだけの余地がなければ、それは空しい言葉になる。
セラドは、それを見ていた。
だから壊れた。
リオは、ゆっくりと言った。
「分かりません」
セラドが目を見開く。
「俺にも、全部を救う方法は分かりません」
「それなら――」
「でも、分からないからといって、黙って葬送種を飲ませていい理由にはならない」
リオは木箱の蓋を閉じた。
「聖油はすべて封じます。種壺も検疫所へ移す。すでに投与された患者は、花葬師と協力して根の進行を止める」
「痛みは」
「戻るでしょう」
「患者たちは、また泣きます」
「分かっています」
「それでも止めるのですか」
「止めます」
セラドは、その場に崩れるように膝をついた。
救いたかったのだ。
その願いだけは、きっと本物だった。
けれど、願いが本物なら罪にならないということはない。
リオは、膝をついたセラドを見下ろした。
裁く言葉は出てこなかった。
ただ、胸の奥がひどく重かった。
そのとき、調合室の扉が小さく開いた。
マヤが立っていた。
いつから聞いていたのか分からない。
彼女はセラドを見て、それからリオを見た。
「リオ」
「どうした」
「外の人たちが、静かになった」
リオは眉をひそめた。
静かになった。
それは、良い知らせとは限らない。
次の瞬間、慈療院の表から、誰かの叫び声が上がった。
「花が――!」
リオは駆け出した。
調合室を飛び出し、寝台の並ぶ広間へ戻る。
そこでは、先ほど蕾を沈めたはずのユルドが、再び胸を押さえていた。
いや、ユルドだけではない。
寝台に眠っていた患者たちの何人かが、同時に身を震わせている。皮膚の下の赤い根が、まるで互いに呼応するように濃く浮かび上がっていた。
慈療院全体に、甘い匂いが満ちていく。
セラドが青ざめた顔で呟いた。
「こんなに早く……」
リオは、彼を振り返った。
「最後に聖油を使ったのはいつです」
「昨夜です。ほんの少しだけ……」
「量は」
「いつもと同じです」
「なら、外から呼ばれている」
リオは窓の外を見た。
慈療院の前に集まっていた人々は、静まり返っていた。
彼らは怯えているのではない。
祈っていた。
白い祈祷布を掲げ、腐花の主へ、痛みを花へ変えてくれと祈っている。
その祈りに、患者たちの中の葬送種が反応している。
噂が根を張った。
祈りが水を与えた。
そして今、花が咲こうとしている。
リオは鞄を掴んだ。
「セラド司祭」
セラドは顔を上げた。
「あなたが始めた根です。止めるのを手伝ってください」
セラドの目に、涙が残っていた。
だが、彼は頷いた。
リオは慈療院の広間へ踏み出した。
甘い香りが、喉を焼くほど濃くなっている。
救いたかった司祭の願いは、今、港の祈りを吸って花になろうとしていた。




