第十節 ― 死後開花
慈療院の中で、祈りが芽吹いていた。
それは、神殿の奥で唱えられる清らかな祈祷ではなかった。
喉の奥から漏れる、湿った祈りだった。
痛みを止めてくれ。
熱を下げてくれ。
眠らせてくれ。
この命に、意味をくれ。
慈療院の外に集まった人々は、白い祈祷布を掲げていた。布には、即席で描かれた白い花の印が滲んでいる。祈りの言葉はばらばらだった。古い作法を知る者などほとんどいない。ただ、誰もが同じものを求めていた。
痛みが終わること。
そして、終わったあとにも何かが残ること。
その祈りに、慈療院の中の患者たちが反応していた。
寝台に横たわる者たちの皮膚の下で、赤い根が濃く浮かび上がる。額には甘い汗が滲み、花弁状の痣がひとつ、またひとつと開いていく。
リオ=サルヴァは、その光景を前に、歯を食いしばった。
「窓を閉めろ。祈祷布を近づけるな。香を吸い込ませないよう、全員の口元を覆ってください」
看護人たちは震えながら動いた。
だが、患者たちは静かだった。
静かすぎた。
痛みに呻く者は少ない。苦しむ声も少ない。
ただ、眠ったまま、あるいは夢を見るように薄く目を開けたまま、自分の身体の中で根が伸びていくのを受け入れている。
その穏やかさが、リオには何より恐ろしかった。
セラド=ミンは、青ざめた顔で患者たちのあいだを走っていた。彼は薬布を配り、塩湯を用意し、患者の名を呼んでいる。
「ユルドさん、聞こえますか。ここにいます。まだ眠ってはいけません」
先ほど胸に蕾を浮かべた漁師は、何とか持ちこたえていた。だが、別の寝台で激しい変化が起きていた。
年老いた女だった。
名前はラナ。南路地で布を縫って暮らしていた寡婦だという。長く脚を患い、夜ごと焼けるような痛みに泣いていた。聖油を受けてから、初めて眠れたと微笑んだ女だった。
そのラナが、今、危篤に陥っていた。
リオは彼女の寝台へ駆け寄った。
呼吸が浅い。
唇の色が薄い。
脈は細く、指先で触れていなければ分からないほど弱い。
心臓が、止まりかけている。
だが、死んでいない。
死んでいないのに、胸元では花が咲き始めていた。
鎖骨の下から赤い根が伸び、肋骨の間へ絡みついている。皮膚の下に白い点が浮かび、それが内側から押し上げられるように膨らんでいく。
蕾だった。
ひとつではない。
胸、肩、古傷のある脚、手の甲。
身体のあちこちから、小さな白い蕾が浮かび上がろうとしている。
「まだ生きている」
リオは低く言った。
「この人はまだ死んでいない」
だが、慈療院の入口から、神官の声が響いた。
「これは祝福だ!」
群衆をかき分けて、若い神官が中へ入ろうとしていた。検疫官が止めているが、彼は興奮に目を見開いている。
「ネクタ=ロアの御手が、生者にも及んだのだ。痛みある者を花へ返す、慈悲の顕現だ!」
「入るな!」
検疫官が怒鳴る。
その後ろでは、商人たちが別の動きを見せていた。
「咲いたらすぐに保管しろ」
「枯れる前に花粉を取れ」
「生者から咲いた花なら、死者のものより効くかもしれん」
「黙れ!」
カルムの同僚のひとりが商人に掴みかかった。人々が押し合い、慈療院の戸口が大きく揺れる。
混乱の中で、ラナの息子が寝台へすがりついた。
まだ若い男だった。目は泣き腫らし、手は震えている。
「母さん、母さん!」
彼はリオを見た。
「先生、母を花にしないでくれ。頼む。まだ息があるんだ。まだ、まだ生きてるんだ」
リオは頷いた。
「分かっています」
「昨日、久しぶりに笑ったんだ。脚が痛くないって。やっと眠れるって……それだけだったんだ。花になりたいなんて、母は言ってない」
その言葉に、セラドの顔が歪んだ。
彼は何か言おうとして、できなかった。
ラナの胸元で、最初の蕾が開きかける。
甘い香りが噴き出した。
周囲の患者たちが、その香に反応する。眠っていた者が涙を浮かべ、手を合わせる。誰かが小さく祈り始めた。
「腐花の主よ……」
「やめろ」
リオが言った。
だが、祈りは止まらない。
「痛みを花へ……」
「やめてください!」
マヤが叫んだ。
その声に、患者たちの何人かが目を開けた。
マヤは、自分の胸元を押さえていた。布の下の徴が熱を持ち、呼吸のたびに痛むようにうずいている。
彼女には、見えていた。
慈療院の中に、赤い根が広がっている。
実際の根ではない。祈りと痛みと諦めが絡まり合ってできた、見えない根。外の群衆から伸び、患者たちの身体へ入り、花を咲かせようとしている。
そして、その奥に、一瞬だけ白いものが見えた。
角。
大きな、枝分かれした白い角。
古木の枝のようでありながら、獣の角でもある。
先端には白い花が咲き、赤い実が揺れ、黒く枯れた花がいくつも下がっている。
マヤの視界の端で、その角が揺れた。
慈療院には、そんな獣はいない。
なのに、確かに見えた。
白い聖獣が、どこか見えない場所から、この花を見ている。
マヤは息を呑んだ。
「……ルクナ」
声になったかどうかも分からないほど、小さな呟きだった。
その瞬間、ラナの胸元に咲きかけた白い花の一部が、欠けた。
誰も触れていない。
切られたのでも、折れたのでもない。
花弁の端が、何かに食まれたように、丸く削れていた。
甘い香りが、ふっと変わる。
花蜜の匂いの中に、一瞬だけ獣の吐息が混じった。
雨に濡れた白い毛。
深い森の土。
血ではなく、血を洗ったあとの湿った石。
リオの左腕が、鋭く疼いた。
包帯の下で、聖獣の徴が熱を帯びる。皮膚の奥から爪を立てられたような痛みが走り、彼は一瞬、息を詰めた。
見えない。
リオには、白い角は見えなかった。
けれど、感じた。
花の奥に、何かがいる。
死者を送る腐花神ではない。
痛みを眠らせる聖油でもない。
罪を消すのではなく、食み、背負える形へ変えるもの。
まだ姿を見せない聖獣。
ルクナ=サリオ。
リオは、ラナの胸の花を見た。
欠けた花弁から、赤い蜜のようなものが滲んでいる。だが、それは出血ではない。花が、何かを失っている。
祈りに引き寄せられて咲こうとした花が、一瞬、怯んだ。
リオの中で、決断が定まる。
これは病巣を切除する処置ではない。
これは治療ではなく、葬送の誤作動だ。
ならば、必要なのは切ることではない。
抜くことでもない。
葬送構文を、本来の流れへ戻すこと。
死者のための道を、生者から引き離すこと。
「セラド」
リオは振り返らずに呼んだ。
「はい」
「彼女の名を確認してください。家族から、生きている名を」
セラドは一瞬、意味が分からない顔をした。だが、すぐにラナの息子へ向き直る。
「お母様の正式な名は」
「ラナ=オルト。南路地の縫い子です」
「亡き者としてではなく、生きている者として呼んでください」
息子は泣きながら頷いた。
「ラナ=オルト。母さん。帰るな。まだ、帰るな。俺の破れた網を直すって、昨日言っただろ。まだ怒ってくれ。まだ、俺を馬鹿息子って呼んでくれ」
ラナの指が、かすかに動いた。
リオは花葬師サラから聞いた作法を思い出しながら、鞄を開いた。
「マヤ、塩湯を」
「うん」
「苦根草を灰葉と混ぜる。セラド、聖油の中和に使った香油を持ってきてください。入っていた葬送種を眠らせる」
セラドはすぐに走った。
リオはラナの胸元へ手をかざした。
切るな。
抜くな。
咲かせるな。
教えろ。
これは死者ではない。
これは花床ではない。
これはまだ、帰る身体ではない。
リオは低く唱えた。
「ラナ=オルト。生者。縫い子。母。南路地の住人。痛みを持つ者。けれど、まだ死者ではない」
赤い根が震えた。
ラナの胸の蕾が、一度大きく膨らむ。
外の神官が叫んだ。
「妨げるな! 神の花を――」
「黙れ!」
ラナの息子が振り返って怒鳴った。
「母はまだ生きている!」
その声に、慈療院の中の祈りが一瞬途切れた。
リオは、その隙を逃さなかった。
苦根草と灰葉を混ぜた薬液を、赤い根の線に沿って塗る。次に、塩湯に浸した布で花の周囲を覆う。聖油を弾く香をわずかに焚く。
甘い匂いが揺らぐ。
花蜜の香りの下から、汗と血と人の体温の匂いが戻ってくる。
ラナの顔が苦痛に歪んだ。
彼女は、目を開けた。
「……痛い」
その声は小さかった。
だが、確かに生者の声だった。
息子が泣き崩れる。
「母さん……!」
「うるさいね……耳元で騒ぐんじゃないよ」
かすれたその言葉に、周囲の患者たちが息を呑んだ。
ラナの胸元の花は、完全には消えない。
だが、開花は止まった。
白い蕾は閉じ、皮膚の下へ沈むように薄くなる。赤い根の線も、まだ残っているが、さきほどのように脈打ってはいない。
リオは膝をついたまま、大きく息を吐いた。
成功した。
いや、違う。
完全に救えたわけではない。
ラナの身体には、まだ葬送種が残っている。
痛みも戻った。
病も治っていない。
ただ、生きたまま花葬されることだけは、今この瞬間、止めた。
それだけだった。
それでも、ラナの息子は母の手を握り、泣いていた。
患者たちは黙っていた。
祈りの熱が、少しだけ冷めている。
マヤは、リオのそばで胸元を押さえたまま、もう一度、慈療院の奥を見た。
白い角は消えていた。
だが、床の上に一枚だけ、白い花弁が落ちていた。
ラナの花から欠けたものではない。
形が違う。
もっと薄く、もっと静かで、縁だけが黒く枯れている。
マヤはそれを拾おうとした。
「触らないで」
リオが言った。
彼もまた、その花弁に気づいていた。
「……見えてたの?」
「今はね」
リオは左腕を押さえた。
包帯の下の疼きは、まだ消えていない。
姿は見えなかった。
声も聞こえなかった。
だが、そこに何かが介入したことだけは分かる。
花を食んだもの。
咲き急ぐ罪を、ほんの一口だけ噛み取ったもの。
リオは床の花弁を見つめた。
ルクナ=サリオ。
その名を口に出すことは、まだしなかった。
慈療院の外では、群衆がざわめいている。
神官は祝福だと叫び、商人はまだ花を狙い、貧民たちは痛みの戻った患者たちを見て震えている。
事態は、終わっていない。
むしろ、ここからが本当の危機だった。
リオは立ち上がった。
「検疫官を呼んでください。慈療院を封鎖します。患者を動かすな。聖油も種壺も、すべて押さえる」
セラドが頷く。
その顔には、もう迷いだけではなく、恐怖があった。
自分の施した救いが、どれほど深く根を張ってしまったのか。
彼は、ようやく見たのだ。
リオはラナの胸元の閉じた蕾を見下ろした。
死後に咲くはずの花が、生者の身体を間違えた。
ならば次に必要なのは、ひとりを止める処置ではない。
この港全体に広がった、誤った葬送を正しい流れへ戻すことだった。




