表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/13

第十節 ― 死後開花

 慈療院の中で、祈りが芽吹いていた。


 それは、神殿の奥で唱えられる清らかな祈祷ではなかった。

 喉の奥から漏れる、湿った祈りだった。


 痛みを止めてくれ。

 熱を下げてくれ。

 眠らせてくれ。

 この命に、意味をくれ。


 慈療院の外に集まった人々は、白い祈祷布を掲げていた。布には、即席で描かれた白い花の印が滲んでいる。祈りの言葉はばらばらだった。古い作法を知る者などほとんどいない。ただ、誰もが同じものを求めていた。


 痛みが終わること。


 そして、終わったあとにも何かが残ること。


 その祈りに、慈療院の中の患者たちが反応していた。


 寝台に横たわる者たちの皮膚の下で、赤い根が濃く浮かび上がる。額には甘い汗が滲み、花弁状の痣がひとつ、またひとつと開いていく。


 リオ=サルヴァは、その光景を前に、歯を食いしばった。


「窓を閉めろ。祈祷布を近づけるな。香を吸い込ませないよう、全員の口元を覆ってください」


 看護人たちは震えながら動いた。


 だが、患者たちは静かだった。


 静かすぎた。


 痛みに呻く者は少ない。苦しむ声も少ない。

 ただ、眠ったまま、あるいは夢を見るように薄く目を開けたまま、自分の身体の中で根が伸びていくのを受け入れている。


 その穏やかさが、リオには何より恐ろしかった。


 セラド=ミンは、青ざめた顔で患者たちのあいだを走っていた。彼は薬布を配り、塩湯を用意し、患者の名を呼んでいる。


「ユルドさん、聞こえますか。ここにいます。まだ眠ってはいけません」


 先ほど胸に蕾を浮かべた漁師は、何とか持ちこたえていた。だが、別の寝台で激しい変化が起きていた。


 年老いた女だった。


 名前はラナ。南路地で布を縫って暮らしていた寡婦だという。長く脚を患い、夜ごと焼けるような痛みに泣いていた。聖油を受けてから、初めて眠れたと微笑んだ女だった。


 そのラナが、今、危篤に陥っていた。


 リオは彼女の寝台へ駆け寄った。


 呼吸が浅い。

 唇の色が薄い。

 脈は細く、指先で触れていなければ分からないほど弱い。


 心臓が、止まりかけている。


 だが、死んでいない。


 死んでいないのに、胸元では花が咲き始めていた。


 鎖骨の下から赤い根が伸び、肋骨の間へ絡みついている。皮膚の下に白い点が浮かび、それが内側から押し上げられるように膨らんでいく。


 蕾だった。


 ひとつではない。


 胸、肩、古傷のある脚、手の甲。

 身体のあちこちから、小さな白い蕾が浮かび上がろうとしている。


「まだ生きている」


 リオは低く言った。


「この人はまだ死んでいない」


 だが、慈療院の入口から、神官の声が響いた。


「これは祝福だ!」


 群衆をかき分けて、若い神官が中へ入ろうとしていた。検疫官が止めているが、彼は興奮に目を見開いている。


「ネクタ=ロアの御手が、生者にも及んだのだ。痛みある者を花へ返す、慈悲の顕現だ!」


「入るな!」


 検疫官が怒鳴る。


 その後ろでは、商人たちが別の動きを見せていた。


「咲いたらすぐに保管しろ」


「枯れる前に花粉を取れ」


「生者から咲いた花なら、死者のものより効くかもしれん」


「黙れ!」


 カルムの同僚のひとりが商人に掴みかかった。人々が押し合い、慈療院の戸口が大きく揺れる。


 混乱の中で、ラナの息子が寝台へすがりついた。


 まだ若い男だった。目は泣き腫らし、手は震えている。


「母さん、母さん!」


 彼はリオを見た。


「先生、母を花にしないでくれ。頼む。まだ息があるんだ。まだ、まだ生きてるんだ」


 リオは頷いた。


「分かっています」


「昨日、久しぶりに笑ったんだ。脚が痛くないって。やっと眠れるって……それだけだったんだ。花になりたいなんて、母は言ってない」


 その言葉に、セラドの顔が歪んだ。


 彼は何か言おうとして、できなかった。


 ラナの胸元で、最初の蕾が開きかける。


 甘い香りが噴き出した。


 周囲の患者たちが、その香に反応する。眠っていた者が涙を浮かべ、手を合わせる。誰かが小さく祈り始めた。


「腐花の主よ……」


「やめろ」


 リオが言った。


 だが、祈りは止まらない。


「痛みを花へ……」


「やめてください!」


 マヤが叫んだ。


 その声に、患者たちの何人かが目を開けた。


 マヤは、自分の胸元を押さえていた。布の下の徴が熱を持ち、呼吸のたびに痛むようにうずいている。


 彼女には、見えていた。


 慈療院の中に、赤い根が広がっている。


 実際の根ではない。祈りと痛みと諦めが絡まり合ってできた、見えない根。外の群衆から伸び、患者たちの身体へ入り、花を咲かせようとしている。


 そして、その奥に、一瞬だけ白いものが見えた。


 角。


 大きな、枝分かれした白い角。


 古木の枝のようでありながら、獣の角でもある。

 先端には白い花が咲き、赤い実が揺れ、黒く枯れた花がいくつも下がっている。


 マヤの視界の端で、その角が揺れた。


 慈療院には、そんな獣はいない。


 なのに、確かに見えた。


 白い聖獣が、どこか見えない場所から、この花を見ている。


 マヤは息を呑んだ。


「……ルクナ」


 声になったかどうかも分からないほど、小さな呟きだった。


 その瞬間、ラナの胸元に咲きかけた白い花の一部が、欠けた。


 誰も触れていない。


 切られたのでも、折れたのでもない。


 花弁の端が、何かに食まれたように、丸く削れていた。


 甘い香りが、ふっと変わる。


 花蜜の匂いの中に、一瞬だけ獣の吐息が混じった。


 雨に濡れた白い毛。

 深い森の土。

 血ではなく、血を洗ったあとの湿った石。


 リオの左腕が、鋭く疼いた。


 包帯の下で、聖獣の徴が熱を帯びる。皮膚の奥から爪を立てられたような痛みが走り、彼は一瞬、息を詰めた。


 見えない。


 リオには、白い角は見えなかった。


 けれど、感じた。


 花の奥に、何かがいる。


 死者を送る腐花神ではない。

 痛みを眠らせる聖油でもない。

 罪を消すのではなく、食み、背負える形へ変えるもの。


 まだ姿を見せない聖獣。


 ルクナ=サリオ。


 リオは、ラナの胸の花を見た。


 欠けた花弁から、赤い蜜のようなものが滲んでいる。だが、それは出血ではない。花が、何かを失っている。


 祈りに引き寄せられて咲こうとした花が、一瞬、怯んだ。


 リオの中で、決断が定まる。


 これは病巣を切除する処置ではない。


 これは治療ではなく、葬送の誤作動だ。


 ならば、必要なのは切ることではない。

 抜くことでもない。


 葬送構文を、本来の流れへ戻すこと。


 死者のための道を、生者から引き離すこと。


「セラド」


 リオは振り返らずに呼んだ。


「はい」


「彼女の名を確認してください。家族から、生きている名を」


 セラドは一瞬、意味が分からない顔をした。だが、すぐにラナの息子へ向き直る。


「お母様の正式な名は」


「ラナ=オルト。南路地の縫い子です」


「亡き者としてではなく、生きている者として呼んでください」


 息子は泣きながら頷いた。


「ラナ=オルト。母さん。帰るな。まだ、帰るな。俺の破れた網を直すって、昨日言っただろ。まだ怒ってくれ。まだ、俺を馬鹿息子って呼んでくれ」


 ラナの指が、かすかに動いた。


 リオは花葬師サラから聞いた作法を思い出しながら、鞄を開いた。


「マヤ、塩湯を」


「うん」


「苦根草を灰葉と混ぜる。セラド、聖油の中和に使った香油を持ってきてください。入っていた葬送種を眠らせる」


 セラドはすぐに走った。


 リオはラナの胸元へ手をかざした。


 切るな。

 抜くな。

 咲かせるな。


 教えろ。


 これは死者ではない。

 これは花床ではない。

 これはまだ、帰る身体ではない。


 リオは低く唱えた。


「ラナ=オルト。生者。縫い子。母。南路地の住人。痛みを持つ者。けれど、まだ死者ではない」


 赤い根が震えた。


 ラナの胸の蕾が、一度大きく膨らむ。


 外の神官が叫んだ。


「妨げるな! 神の花を――」


「黙れ!」


 ラナの息子が振り返って怒鳴った。


「母はまだ生きている!」


 その声に、慈療院の中の祈りが一瞬途切れた。


 リオは、その隙を逃さなかった。


 苦根草と灰葉を混ぜた薬液を、赤い根の線に沿って塗る。次に、塩湯に浸した布で花の周囲を覆う。聖油を弾く香をわずかに焚く。


 甘い匂いが揺らぐ。


 花蜜の香りの下から、汗と血と人の体温の匂いが戻ってくる。


 ラナの顔が苦痛に歪んだ。


 彼女は、目を開けた。


「……痛い」


 その声は小さかった。


 だが、確かに生者の声だった。


 息子が泣き崩れる。


「母さん……!」


「うるさいね……耳元で騒ぐんじゃないよ」


 かすれたその言葉に、周囲の患者たちが息を呑んだ。


 ラナの胸元の花は、完全には消えない。


 だが、開花は止まった。


 白い蕾は閉じ、皮膚の下へ沈むように薄くなる。赤い根の線も、まだ残っているが、さきほどのように脈打ってはいない。


 リオは膝をついたまま、大きく息を吐いた。


 成功した。


 いや、違う。


 完全に救えたわけではない。


 ラナの身体には、まだ葬送種が残っている。

 痛みも戻った。

 病も治っていない。


 ただ、生きたまま花葬されることだけは、今この瞬間、止めた。


 それだけだった。


 それでも、ラナの息子は母の手を握り、泣いていた。


 患者たちは黙っていた。


 祈りの熱が、少しだけ冷めている。


 マヤは、リオのそばで胸元を押さえたまま、もう一度、慈療院の奥を見た。


 白い角は消えていた。


 だが、床の上に一枚だけ、白い花弁が落ちていた。


 ラナの花から欠けたものではない。

 形が違う。

 もっと薄く、もっと静かで、縁だけが黒く枯れている。


 マヤはそれを拾おうとした。


「触らないで」


 リオが言った。


 彼もまた、その花弁に気づいていた。


「……見えてたの?」


「今はね」


 リオは左腕を押さえた。


 包帯の下の疼きは、まだ消えていない。


 姿は見えなかった。

 声も聞こえなかった。


 だが、そこに何かが介入したことだけは分かる。


 花を食んだもの。


 咲き急ぐ罪を、ほんの一口だけ噛み取ったもの。


 リオは床の花弁を見つめた。


 ルクナ=サリオ。


 その名を口に出すことは、まだしなかった。


 慈療院の外では、群衆がざわめいている。


 神官は祝福だと叫び、商人はまだ花を狙い、貧民たちは痛みの戻った患者たちを見て震えている。


 事態は、終わっていない。


 むしろ、ここからが本当の危機だった。


 リオは立ち上がった。


「検疫官を呼んでください。慈療院を封鎖します。患者を動かすな。聖油も種壺も、すべて押さえる」


 セラドが頷く。


 その顔には、もう迷いだけではなく、恐怖があった。


 自分の施した救いが、どれほど深く根を張ってしまったのか。

 彼は、ようやく見たのだ。


 リオはラナの胸元の閉じた蕾を見下ろした。


 死後に咲くはずの花が、生者の身体を間違えた。


 ならば次に必要なのは、ひとりを止める処置ではない。


 この港全体に広がった、誤った葬送を正しい流れへ戻すことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ