第九節 ― 死後開花
最初に変わったのは、ユルド=マルカの呼吸だった。
「ユルドさん、聞こえますか」
リオは寝台の脇へ膝をつき、首筋へ指を当てた。
脈はある。
だが、遅い。
昼間に診たときより明らかに弱く、一拍ごとの間が妙に長い。胸はかすかに上下しているものの、呼吸も深くなかった。
それなのに、ユルドの顔には苦痛がない。
「聞こえてる……」
瞼が半分だけ開いた。
「痛むところは?」
「別に」
「胸は」
「痛くねえよ」
むしろ心地よさそうだった。
その答えと、身体の状態が噛み合わない。
リオはユルドの胸元を開いた。
皮膚の下を赤い根が走っている。
昼間は細い血管ほどだった線が、今では一本一本はっきり見えた。鎖骨の下から胸骨へ、そこから脇腹へ枝分かれし、生きた身体の内側へ植物の根を描いている。
左胸には白い膨らみ。
蕾だった。
ひとつではない。
最初に確認したものの隣へ、二つ目が浮かんでいる。
「冷たい」
マヤが呟いた。
ユルドの手を取っていた。
「さっきより、ずっと」
「毛布を」
リオが言うと、マヤはすぐ隣の寝台から一枚取った。
セラドも動く。
「湯を用意します」
「まだ温めすぎないで。まず全員の状態を見ます」
「はい」
返事には迷いがなかった。
告白の直後でも、患者が苦しめば司祭の身体は勝手に動く。それが、この男が今までここでしてきたことなのだろう。
「ラナさん!」
奥で声が上がる。
今度はマヤが先に走った。
ラナ=オルトは寝台へ半身を起こしていた。
いや、起きようとして失敗している。
腕に力が入らず、壁へ肩を預けているだけだ。
「横になってください」
「大丈夫だよ」
「それ、禁止です」
「何がだい」
「大丈夫って言うの」
マヤが身体を支えながら寝かせる。
「この先生、その言葉を聞くと機嫌悪くなるので」
「君まで広めないで」
リオは言いながらラナの額へ手を当てた。
笑っていられるのは、そこまでだった。
冷たい。
病人の熱が下がった、という温度ではない。
生きた人間の肌としては低すぎる。
「ラナさん、寒くないですか」
「別に」
「脚は?」
「痛くないねえ」
「胸は」
「何とも」
ラナはぼんやり笑った。
「こんなに楽なの、何年ぶりかね」
首筋に花弁状の痣が増えている。
脚の古傷から伸びた赤根が太腿を上がり、腹へ、胸へと進んでいた。
その先端で、白い蕾が皮膚を内側から押し上げている。
痛くない。
苦しくない。
だから本人には、危機だと分からない。
リオは脈を取った。
細い。
呼吸を数える。
少ない。
「ラナさん。眠らないでください」
「眠いんだけどねえ」
「今は起きてて」
「医者ってのは勝手だね。昨日まで眠れって言われてたのに」
「今日は事情が変わりました」
「毎日それじゃ、身体がついていかないよ」
冗談を言える。
声も穏やかだ。
それなのに身体の方は、少しずつ生者であることをやめようとしている。
リオの背筋へ冷たい汗が流れた。
「先生!」
マヤが振り返る。
別の寝台。
その隣も。
腕を負傷していた荷運び人の傷の周囲で赤い線が濃くなっている。腰痛で通っていた老人の脇腹にも、花弁のような白い痣が浮いた。
若い女が自分の腕を見つめていた。
「何、これ……」
肘の内側に白い蕾がある。
指で触ろうとした手を、マヤが止めた。
「触らないでください」
「でも、痛くないの」
「だからです」
マヤ自身、自分が何を言ったのか少し不思議そうな顔をした。
だが手は離さなかった。
「痛くないから、今は触らないで」
若い女が頷く。
リオは広間を見渡した。
発症したのは一人ではない。
同時だ。
昨日聖油を使った者。
数日前に使った者。
塗布した場所も量も違う。
元の病気も違う。
それなのに、ほぼ同じ時刻に葬送反応が強まっている。
「セラド司祭」
「はい」
「最後にこの人たちへ聖油を使ったのは?」
「昨夜が最後です」
「全員?」
「いえ。昨夜使ったのは三人だけです。ラナさんは一昨日、ユルドは昨夜。ほかの人は――」
「量を増やした?」
「いいえ」
「種を変えた?」
「同じ壺です」
なら、聖油の量では説明できない。
リオは左腕の包帯を解いた。
白い獣毛。
樹皮状に割れた皮膚。
その奥で根のような淡光が脈打つ。
周囲を見る余裕のある者はもう、そこへ驚かなかった。
リオはユルドの胸へ左手を近づけた。
触れる寸前で止める。
《医脈》を開く。
自分の脈とは違う流れが返る。
昼間より強い。
死者の身体を世界へほどく方向へ、ユルドの内側にある何かが進んでいる。
だが、その流れは一定ではなかった。
強くなる。
少し弱まる。
また強くなる。
まるで、外から届く何かに合わせている。
「……何だ」
リオが顔を上げる。
その瞬間。
窓の外から、低い声が重なった。
「痛みを花へ」
赤い根が脈打った。
目で分かるほどだった。
ユルドの胸元を走る赤が、一度だけ濃くなる。
リオの視線が窓へ向く。
「もう一度」
「先生?」
マヤが聞き返す。
「外を見て」
慈療院の窓を開けた。
湿った夜気と一緒に、いくつもの声が入ってくる。
慈療院の前は人で埋まっていた。
昼間、港広場にいた者たちもいる。
病人。
その家族。
神官。
噂を聞いて集まった者。
彼らは逃げていない。
むしろ慈療院へ向かっていた。
白い祈祷布を掲げて。
粗末な布だった。
神殿で正式に清められたものばかりではない。古い衣服を裂いたもの、荷包みを切ったもの、中には白くさえない布へ白花の印を描いたものもあった。
作法も揃っていない。
祈りの言葉さえ、人によって違う。
「腐花の主よ」
「この痛みを」
「眠らせてください」
「花へ」
誰かが先に言った言葉を、別の誰かが繰り返す。
やがてそれが短い一つの祈りへまとまった。
「痛みを花へ」
広間で、白い蕾が膨らんだ。
「……やめて」
マヤが呟く。
「痛みを花へ」
今度はラナの首筋。
赤い根が一段濃くなる。
リオは窓枠を握った。
祈りだ。
正確には、それだけではないのかもしれない。
だが患者の身体に入った葬送種が、外から向けられる祈りに反応している。
花葬の道具なのだから、祈りへ応じること自体はおかしくない。
異常なのは。
その種が、生者の中にあることだ。
「祈りを止めさせて!」
検疫官へ叫ぶ。
「止めるって、どうやって――」
「何でもいい! いったん声を切って!」
検疫官たちが外へ走る。
「祈祷を止めろ!」
「布を下ろせ!」
「何をする!」
「患者が悪化している!」
群衆にざわめきが広がった。
祈りが途切れる。
ほんの数呼吸。
リオはユルドの胸を見る。
赤根の脈動が弱まった。
「やっぱりだ」
だが、その発見は安堵にならなかった。
「患者を苦しませるな!」
外から怒鳴り声。
「祈るだけだろう!」
「腐花の主は痛みを取ってくださる!」
「うちの子も診てくれ!」
再び誰かが白い布を掲げた。
「痛みを花へ!」
声が重なる。
慈療院の中で、患者たちの身体が一斉に反応した。
ラナの胸にある蕾が、ゆっくり開きかける。
白い。
朝露を含んだように透けた、ひどく美しい花だった。
「……綺麗だねえ」
ラナが呟いた。
自分の胸元に咲こうとしているものを見ながら。
怖がっていない。
それが、リオには何より恐ろしかった。
「ラナさん、僕を見て」
「見えてるよ」
「息をしてください」
「してる」
「もっと深く」
「面倒だねえ」
笑った。
その声は穏やかだった。
呼吸は、さらに浅くなっている。
この病は、苦しませながら殺すのではない。
痛みを奪う。
熱を鎮める。
眠気を与える。
本人へ「楽になった」と思わせながら、その身体を少しずつ死者の側へ運んでいく。
葬送なのだから当然だ。
本来の対象は、もう苦しまなくていい死者なのだから。
それを生者へ行えば。
生きようとする痛みまで、終わらせてしまう。
「リオ」
マヤの声が震えた。
見ると、彼女が胸元を押さえている。
「マヤ」
「平気――」
「その言葉は禁止」
「……はい」
返事が弱い。
リオはすぐ彼女を壁際の椅子へ座らせた。
「見せて」
「ここで?」
「医者の前で今さら何を気にしてるの」
「人がいっぱいいます」
「布はずらさなくていい。手をどけて」
マヤが渋々、胸元から手を離す。
薄い衣の下。
鎖骨付近にある花痕が熱を持っていた。
皮膚の奥で淡い光が滲み、花弁に似た徴がいつもより濃く浮いている。
外から祈りが届くたび、それも弱く反応する。
リオの顔が険しくなった。
「先生」
「黙って」
「今、怖い顔してます」
「診察中」
「そう言えば何でも許されると思ってません?」
「今は思ってる」
マヤは口を閉じた。
リオは左手を近づけた。
医脈を通す。
ユルド。
ラナ。
ほかの腐花病患者。
今しがた何度も読んだ流れを思い出す。
生者の身体の中に入り込んだ、死者へ帰ろうとする脈。
マヤにも花はある。
反応もしている。
けれど。
「……違う」
リオが呟いた。
「何が?」
「流れ」
さらに集中する。
似ているところを探すのではない。
違うところを確認する。
患者たちの流れは、身体の内側から外へ向かう。
死者としてほどけ、花や土へ返ろうとしている。
マヤには、それがない。
花へ何かが集まっているのは同じ。
だが、その先に「死者へ帰る脈」がない。
「同じ花じゃない」
リオが言った。
マヤは少しだけ目を見開いた。
「じゃあ、わたしのは?」
リオの手が止まる。
答えられない。
似ている。
だが違う。
そこから先は、まだ診断できない。
「……まだ分からない」
マヤは数秒、黙っていた。
それから小さく頷いた。
「そっか」
残念そうでも、安心したようでもあった。
リオにはどちらか分からない。
「でも今は、こっちを先に診る」
「はい」
「君は外の祈りに近づかないで」
「はい」
「胸が熱くなったら言う」
「はい」
「花が咲きそうになったら――」
「先生」
「何」
「わたし、そんなに信用ないですか?」
「ない」
「即答」
「三か月の実績」
「……反論しづらいですね」
「なら言うこと聞いて」
マヤは不服そうだったが、立ち上がると診療鞄を持った。
「何がいります?」
結局、離れるつもりはないらしい。
リオも今は言い争わなかった。
「祈診布。全部」
「赤いのも?」
「全部」
「はい」
マヤが鞄を開く。
そのときだった。
彼女の動きが止まった。
「……先生」
「今度は何」
返事がない。
マヤは慈療院の奥を見ていた。
正確には、開け放たれた裏手の窓。
その向こう。
昼間の雨が残る狭い裏庭は暗く、積まれた木箱と薬草籠が黒い影になっている。
さらにその奥。
建物と建物の隙間に。
白いものがいた。
マヤの指から祈診布が一枚落ちた。
人ではない。
四つ脚の、巨大な獣。
そう見えた。
慈療院の低い屋根よりは小さい。
けれど、人間よりは明らかに大きい。
月明かりの届かない路地にいるのに、その輪郭だけが薄く白い。
毛なのか。
霧なのか。
光なのか。
分からない。
「マヤ?」
リオが振り向く。
「……あそこ」
マヤの声が掠れた。
窓際。
患者の寝台から伸びた赤い根の一本が、いつの間にか床を這い、窓枠の近くまで届いていた。
その先に、小さな白い蕾がついている。
根が脈打った。
外の祈りが高まる。
「痛みを花へ――」
蕾が震えた。
ぷつり、と根元から外れた。
窓の外へ落ちる。
白い獣が顔を下げた。
ゆっくりと。
まるで、最初からそれを待っていたように。
大きな口が開く。
蕾を噛んだ。
マヤの息が止まる。
白い花は、一瞬だけ開いた。
次の瞬間。
花弁の縁から黒くなった。
焦げたのではない。
腐ったのでもない。
生気だけを抜かれたように、白が急速に失われていく。
黒。
黒。
黒。
最後には小さな枯花になって、獣の口元から濡れた土へ落ちた。
「……何」
マヤが胸を押さえた。
自分の花痕が、強く熱を持っていた。
「何なの……あれ」
リオが窓へ走る。
「どこ!」
「あそこ、白い――」
もういなかった。
裏庭。
木箱。
濡れた薬草籠。
細い路地。
そのどこにも獣の姿はない。
「マヤ、ここにいて」
「でも」
「患者を見てて!」
リオは裏口を押し開けた。
夜の湿気が顔へまとわりつく。
雨水。
泥。
腐った木材。
薬草。
慈療院から漏れる甘い花の香。
周囲を見回す。
右。
左。
屋根。
路地の先。
何もいない。
巨大な獣が逃げたなら、何か音がしてもいい。
箱が倒れる。
水が跳ねる。
石を蹴る。
そのどれもなかった。
「先生!」
中からマヤが呼ぶ。
「足元!」
リオは視線を落とした。
濡れた黒土に、大きな跡が残っていた。
人のものではない。
犬とも違う。
鹿とも、馬とも決めきれない。
何より異様なのは、色だった。
泥へ沈んだはずの足跡だけが、白い。
土の色が抜け落ちたように。
一つ。
少し先に、もう一つ。
その向こうにも。
夜の路地へ続いている。
リオはしゃがみ、触れようとして手を止めた。
足跡の横に、小さな花が落ちている。
さきほどマヤが見た蕾だろう。
完全に黒く枯れていた。
甘い香りもしない。
リオはその黒花と、白い足跡を見比べた。
分からない。
医者として診られるものなのかさえ、まだ分からない。
慈療院の中から、ラナの息子の声が飛んだ。
「先生! 母さんが!」
リオは立ち上がった。
白い足跡を追いたい気持ちを切る。
今、診るべきものはそこではない。
振り返ると、裏口にマヤが立っていた。
「見たんだね」
リオが言う。
マヤは頷いた。
「はい」
「何だった?」
マヤはもう一度、白い足跡を見る。
「……分かりません」
その答えに、リオも頷いた。
「俺も」
それだけ交わして、二人は慈療院へ戻った。
中ではまだ、死者ではない人々の身体に花が咲こうとしている。
外では祈りが続いていた。
「痛みを花へ」
赤い根が脈打つ。
「痛みを花へ」
白い蕾が膨らむ。
噂が根を張り。
祈りが水を与え。
今、生きている人間の身体で、葬送の花が開こうとしていた。




