第十節 ― 葬送治療
花を焼けばいい、と最初に言ったのは検疫官だった。
患者たちの胸や首に白い蕾が浮かび、慈療院の外では祈りが止まらない。あの状況を見れば、そう考えるのも無理はなかった。
「種も油も焼く。患者に出た花も全部切る。カルムの遺体も――」
「駄目です」
リオはユルドの胸から手を離さずに答えた。
赤い根は、まだ皮膚の下で脈打っている。
「なぜだ。原因は花だろう」
「違います」
「じゃあ何なんだ」
リオは答える前に、ラナへ視線を移した。
呼吸は浅い。
体温は低い。
けれど、彼女は痛がっていない。
むしろ眠りかけている。
「花が悪いんじゃない」
リオは言った。
「葬送そのものも、間違ってない」
検疫官が眉を寄せる。
「間違っているのは、相手です」
死者へ向かうはずの流れが、生者へ向いている。
ならば、するべきことは焼き払うことではない。
混ざった境界を戻す。
死者は死者へ。
生者は生者へ。
「ここじゃ駄目だよ」
サラが患者の胸元を見ながら言った。
床を這う赤根の先では、外の祈りが高まるたびに白い蕾が震えている。
「生者から葬送を外しても、流す先がない。こんなところでほどけば、また別の生者へ絡みつく」
検疫官が振り返った。
「なら、どこへ持っていく」
「花葬場だ」
サラは即答した。
「古い方なら、まだ土と潮へ抜ける道が残ってる。死者へ返すものは、死者の道へ流さなきゃならない」
リオは頷いた。
慈療院には病人とその家族が集まり、外では祈りまで重なっている。
ここで治療するには、生者が多すぎた。
「患者を運びます」
「今からか?」
「今だからです」
ラナの胸では、また蕾が開きかけていた。
「次の祈りで、どこまで進むか分からない」
◇
ラウ=マリカの西外れには、古い花葬場が残っている。
港の喧騒から離れ、倉庫群を抜け、潮に削られた石段を下った先。
海と湿地の境に、黒い水が広がっていた。
マングローブの根が水面から無数に立ち上がり、泥の中で絡み合っている。潮風に葉が擦れ、浅瀬では小魚がときおり銀色の腹を返した。
湿った土の匂い。
塩。
腐葉土。
花。
頭上には雲の切れ間から月が覗き、黒い水面へ細い光を落としている。遠くにはラウ=マリカの灯と帆柱が並び、夜風に帆布の軋む音と鐘の響きだけが届いていた。
湿地の中央に、石祭壇がある。
半分ほど水へ沈み、表面には苔と白い菌糸が這っていた。かつて花葬師たちが使っていたものだという。
満潮が近づけば、祭壇の下段まで海水に浸かる。
そこへ、カルム=レイダが運ばれてきた。
続いて、慈療院の患者たち。
ラナ。
ユルド。
赤根の出た者たち。
検疫官。
神官。
花葬師サラ=モルナ。
そしてセラド=ミン。
遠巻きには、港の人々もいる。
昼間、腐花を欲しがっていた者。
祈っていた者。
病人を抱えていた家族。
誰も追い払わなかった。
ただ、祭壇から一定の距離だけ空けさせた。
「本当に見せるんですか」
検疫官が低く尋ねる。
リオは診療鞄を石壇へ置いた。
「隠しても、噂になります」
「もう十分なってる」
「なら、実物を見せた方がいい」
包帯へ手を掛ける。
「何が薬で、何が葬送なのか」
横でマヤが鞄を開いた。
「先生」
「何?」
「左腕、全部出すんですか」
「ああ」
「あとで痛くなりますよ」
「終わったら自分で巻き直す」
「それ、また後回しにする言い方ですよね」
「患者が先」
「先生も診てもらった方がいいです」
「聞こえてる」
「聞いてるだけですか?」
「診療中」
「便利ですね、その言葉」
マヤは不満そうだったが、それ以上は止めなかった。
診療鞄から《祈診布》を取り出し、リオが手を出す前に渡す。
三か月。
それだけで十分に身についた呼吸だった。
リオが包帯をほどき始めると、周囲の空気はすぐに変わった。
一巻き。
二巻き。
手首。
前腕。
肘の近くまで。
白い布の下から、異形が露わになる。
人の腕の形は残っている。
けれど白い獣毛が皮膚を覆い、その下には樹皮のような亀裂が走っていた。
亀裂の奥で、淡い光が脈打つ。
血管ではない。
根のような細い光脈。
指先の爪は獣のように湾曲し、先端だけが少し長い。
ざわめきが起きた。
一人の神官が息を呑む。
検疫官も何度見ても慣れないらしく、わずかに身体を引いた。
セラドさえ黙った。
マヤだけは違った。
「先生、ここ」
白毛の間へ指を向けるだけで、触れはしなかった。
「昨日より光、濃くないですか」
リオは自分の腕を見た。
「……少し」
「少し?」
「診療後に見る」
「自分で?」
「ああ」
「絶対ですよ」
「患者が先」
「またそれです」
リオは返事をせず、祭壇の前へ進んだ。
「先にカルムさんを送ります」
ミラとニナが、少し離れた場所で顔を上げる。
カルムの胸では、白花がまだ咲いていた。
慈療院の患者たちに起きている異常と、同じ根から始まったもの。
だが今のカルムだけは違う。
彼はもう死者だ。
葬送は、彼にとって病ではない。
リオはカルムの胸元へ左手を置いた。
《医脈》を開く。
淡い光が、左腕の根脈を走った。
すぐに返ってくる。
胸。
赤根。
白花。
そこから外へ。
土へ。
湿地へ。
海へ。
流れは強い。
しかし、もう逆らってはいない。
生者の身体の中で感じた、引き裂くような二方向の脈ではなかった。
一つの方向へ向かっている。
「マヤ」
「はい」
「感じる?」
マヤはカルムのそばへしゃがんだ。
花には触れない。
両手を膝へ置き、目を閉じる。
胸元の花痕が淡く熱を持つ。
潮風が彼女の髪を揺らした。
しばらくして。
「……遠いです」
「何が?」
「カルムさん」
マヤは目を開けなかった。
「でも、迷ってない」
リオは何も言わず待つ。
「こっちじゃない」
マヤの指が、自分たちのいる側を示した。
次に、湿地の奥へわずかに向く。
「もう、帰る方を向いてる」
リオが頷いた。
カルム=レイダ。
診療方針は、《送る》。
治すことではない。
呼び戻すことでもない。
死者として進み始めた流れを、死者の道へ戻す。
「サラさん」
花葬師が前へ出た。
「準備はできてるよ」
黒い土。
塩湯。
灰葉。
苦根草。
どれも特別に美しい道具ではない。
サラは半ば水没した祭壇の縁へ黒土を置き、海水を含ませた。
「花は切らない」
リオが言う。
「焼かない」
検疫官を見る。
「採らない」
商人たちへ届くように。
最後に、ミラとニナを見る。
「カルムさんの身体の一部として送ります」
ニナは泣かなかった。
父の胸に咲く花を、じっと見ている。
リオは花の周囲へ塩湯を含ませた布を置いた。
白花が、わずかに震えた。
甘い香りが立つ。
昼間のように、人の痛みを誘う濃さではない。
湿った土と潮に混じり、少しずつ薄くなっていく。
サラが古い葬送句を唱え始めた。
声は低い。
大きくはない。
神へ命令する声ではなく、流れの向きを確かめるような声だった。
マングローブの葉が擦れる。
波が石壇の下を洗う。
カルムの胸の赤い根から、ゆっくりと色が抜けていった。
白い花が閉じ始める。
一枚。
また一枚。
花弁が内側へ重なる。
枯れてはいない。
死んでもいない。
ただ、咲くべき場所へ戻るように、静かに閉じていく。
リオの左腕へ返っていた強い脈が、少しずつ遠ざかった。
「……よし」
手を離す。
カルムの処置は終わった。
完全な葬儀は、まだこれからだ。
けれど少なくとも、もう彼の身体から周囲の病や痛みを吸い上げようとはしていない。
死者の葬送が、死者へ戻った。
次は。
生者だ。
◇
「ラナ=オルト」
名を呼ばれ、ラナが薄く目を開けた。
「いるよ」
運搬台の上で、相変わらず眠そうに笑う。
「縫い子」
「そうだね」
「生者」
ラナが片眉を上げた。
「それ、わざわざ確認するのかい」
「今日はします」
「面倒な日だねえ」
息子が横で唇を噛んでいた。
リオはラナの胸元を開く。
赤根はさらに濃くなっていた。
白い蕾も二つ。
呼吸は浅い。
身体は冷たい。
それでも痛みはない。
「マヤ」
「はい」
マヤがラナのそばへ座る。
両手を近づけ、目を閉じた。
さっきとは違う。
カルムのときは、彼女の身体も静かだった。
今は胸元の花痕が強く熱を持っている。
生者の中で、死者の流れと生命の流れがぶつかっているからだ。
マヤが眉を寄せた。
「……引っ張られてる」
「どっちへ」
「向こう」
湿地。
黒土。
海。
葬送の方向。
「でも」
マヤはラナの手を取った。
指先は冷たい。
その手を、少し強く握る。
「この人は、まだこっちです」
リオは祈診布を広げた。
赤い文様が、一斉に浮かぶ。
脚の古傷。
腹部。
胸。
首。
そこを走る葬送の脈。
そして、その間を押し返している弱い生命の流れ。
「ラナさん」
「何だい」
「今から、痛みが戻ります」
ラナの目が少し開いた。
「……嫌なこと言うねえ」
「先に言っておきます」
「戻さないと駄目かい」
リオの手が止まる。
簡単な問いではなかった。
十年、二十年と痛みに耐えた人間へ、こちらが正しいから痛めと言えるわけではない。
「今日、このままにすると」
リオは赤い根を見る。
「痛みだけじゃなく、身体そのものが眠っていきます」
「起きなくなる?」
「可能性があります」
ラナはしばらく黙った。
息子を見る。
泣きそうな顔。
「……じゃあ戻しな」
小さく言った。
「あとで文句は言うよ」
「聞きます」
「薬代まけな」
「それは相談で」
「そこは即答しないのかい」
ラナの息子が、泣きながら少し笑った。
その声を聞いて、リオは処置を始めた。
《鎮める》。
腐花反応そのものを殺すのではない。
生者へ伸びた葬送の脈だけを弱める。
サラが赤根の周囲へ塩を置く。
苦根草を砕き、甘い香りへ混ぜる。
灰葉を一枚ずつ、白い蕾の周囲へ当てていく。
リオは左腕をラナの胸へ近づけた。
医脈を深く開く。
淡い光が、一気に肘まで走った。
周囲が息を呑む。
白毛が逆立つ。
樹皮状の裂け目から、細い根光が何本も浮かび上がった。
獣爪が少し伸びる。
リオの額に汗が浮く。
痛い。
左腕の奥で、何かが引かれる。
患者の葬送脈と、自分の医脈が触れ合っている。
けれど手を引かない。
「先生」
マヤの声。
「分かってる」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
「先生、今こっち見てませんよ」
「……あとで」
マヤの口元がほんの少し緩んだ。
すぐ、患者へ戻る。
「ラナさん」
「うん?」
「息してください」
「してるよ」
「もう少し」
ラナがゆっくり息を吸う。
その呼吸に合わせて、マヤが言う。
「こっち」
リオは赤根の一本へ爪先を当てた。
切らない。
皮膚も裂かない。
医脈だけを触れさせる。
死者へ向かう脈と、生者の生命脈。
重なっている場所を探す。
一本目。
分ける。
赤根の色が薄くなる。
ラナの身体が震えた。
「……痛っ」
息子が身を乗り出す。
「母さん!」
「来たねえ……」
ラナの目に涙が浮かんだ。
苦痛の涙だった。
だが笑っている。
「これ、嫌いだったんだけどね」
膝を押さえる。
「……こんなに嬉しいとは思わなかったよ」
体温が、少し戻っている。
心拍も。
痛覚も。
生者の身体が、生者として警告を始める。
「まだ終わってません」
リオが言う。
「嬉しい時間、短いねえ!」
「終わったら怒っていいです」
「覚えときな!」
二本目。
三本目。
胸へ向かっていた赤根を、一つずつ鎮める。
白い蕾が震えた。
開きかける。
「マヤ」
「まだこっちです」
即答。
リオが境界を切る。
蕾が閉じる。
その下で、皮膚に人間らしい赤みが戻った。
◇
次はユルドだった。
「ユルド=マルカ」
「聞こえてる」
「漁師」
「そうだ」
少し離れた場所から、同僚が声を上げる。
「網を返してもらってないぞ!」
ユルドは目を閉じたまま答えた。
「返す気はねえよ」
「じゃあ死ぬな!」
「それとこれとは別だ!」
周囲から、小さな笑いが漏れた。
湿地に来てから初めて聞く、病人ではなく生活の話だった。
リオはその声を聞きながら、ユルドの左腕を診た。
傷の周囲から伸びた赤根。
胸元の白い蕾。
「痛みが戻るかもしれません」
「戻るんだろ」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「戻らない可能性もあります」
「それはそれで怖えな」
「正常です」
「嫌な正常だな」
マヤがユルドの右手を取った。
「でも、まだ網を返さないなら、生きてないと駄目ですよ」
「嬢ちゃんまでそっち側か」
「どっちです?」
「網の持ち主側」
「借りたものは返した方がいいです」
「急に真面目だな」
「先生に言われてるので」
リオが顔を上げる。
「君、昨日、宿の匙を持ってきたよね」
「あれは間違えただけです」
「まだ鞄に入ってる」
「……あとで返します」
ユルドが笑った。
その笑いの途中で、咳き込む。
呼吸が浅い。
時間はない。
リオは左手を胸へ近づけた。
「始めます」
医脈。
脈を読む。
マヤが向きを拾う。
「この人も、こっち」
「強さは?」
「ラナさんより、少し弱い」
「どっちが?」
「残る方」
リオの表情が変わる。
ユルドが気づいた。
「悪いのか」
「少し急ぎます」
「それ、悪いときの言い方だろ」
「喋れるなら喋っててください」
「注文多い医者だな」
「眠らないで」
サラが塩を置く。
灰葉。
苦根草。
セラドがユルドの名を呼ぶ。
「ユルド=マルカ」
ユルドの眉が動く。
「聞こえてるって」
同僚も呼ぶ。
「ユルド!」
「うるせえ!」
リオはその声の中で、一本目を外した。
赤根が薄くなる。
ユルドの身体が反る。
「ぐっ……!」
「痛い?」
「痛ぇよ!」
「いい」
「何がいいんだ!」
「もっと怒って」
「ふざけんな!」
「先生」
マヤが横から言う。
「患者さん煽るの、医療なんですか?」
「起きててもらうため」
「絶対ちょっと楽しんでますよね」
「次」
二本目。
ユルドが叫ぶ。
胸元の蕾が閉じる。
腕の傷口から、ほんの少し血が滲んだ。
止まっていたはずの炎症が戻る。
リオはそれを見て、息を吐いた。
血が出る。
腫れる。
痛む。
生きた傷へ戻った。
◇
処置は、一人では終わらなかった。
聖油を使われた患者を、順番に診る。
赤根の位置は違う。
元の病も違う。
体力も違う。
だから同じ手順では切れない。
リオが医脈で見る。
どこまでが患者の生命か。
どこからが外から入り込んだ葬送か。
マヤが、その流れの向きを拾う。
「まだこっちです」
「こっちは弱い」
「この人、怖がってます」
「声をかけて」
「はい」
リオが境界を分ける。
サラが花葬の流れを抑える。
セラドが患者の名を呼ぶ。
神官たちは、いつもの葬送句を途中で変えた。
咲け、ではない。
まだ咲くな。
帰れ、ではない。
まだ立て。
人々の祈りも、少しずつ変わった。
痛みを花へ、と願っていた声が止まる。
代わりに。
「ラナ!」
「ユルド!」
「母さん!」
「父ちゃん!」
神名ではなく、人の名が湿地へ響く。
患者本人の名。
仕事。
家族。
返していない網。
明日縫うはずの布。
家で待つ子ども。
生きている側へ残っているもの。
マヤは、それを聞くたび患者の手を握った。
「こっちです」
その言葉だけを、何度も。
大げさな祈りではない。
未来を保証する言葉でもない。
ただ、今どちらを向いているか。
それだけを拾う。
リオはその声を信じた。
医学的な脈だけでは拾えないものがある。
神官の祈りだけでも届かないものがある。
マヤには、命の揺れが分かる。
だから境界を切れる。
二人でなら。
処置が進むにつれ、患者たちの身体へ変化が戻ってきた。
額に汗。
頬の赤み。
速くなる心拍。
深くなる呼吸。
そして。
「痛い……」
一人の女が泣いた。
腕の古傷を抱えている。
「痛い……戻ってきた……」
家族が慌てて抱きしめる。
「悪くなったんじゃないの!?」
「違います」
リオは次の患者を診ながら答えた。
「今まで、痛みごと身体が眠ってた」
女は涙を流したまま、自分の腕を抱く。
「こんなの……嫌だったのに」
声が震える。
「ずっと、消えてほしかったのに……」
もう一度。
「痛い……」
今度は、泣きながら笑った。
「生きてる……」
リオはその言葉へ、何も返さなかった。
治ったわけではない。
元の病気も。
古傷も。
慢性痛も。
戻っている。
治療として見れば、失ったものも多い。
それでも今は、生者として痛んでいる。
それが《鎮める》という処置だった。
変異を消すことではない。
病を完治させることでもない。
間違った方向へ走った神格反応を止め、患者自身の身体へ戻す。
リオにできる医療は、《治す》だけではない。
暴走を《鎮める》。
変わった身体と《共に生きる》道を探す。
そして、もう帰れない者を《送る》。
四つのうち、今日は二つを選んだ。
死者へ《送る》。
生者へ《鎮める》。
同じ花でも。
同じ神格でも。
相手が違えば、治療は反対になる。
◇
最後の患者を終えた頃には、潮が祭壇の下段まで満ちていた。
夜はさらに深くなっていた。
月は湿地の上へ高く昇り、黒い水面を銀色に細く照らしている。遠い港の灯が揺れ、マングローブの根元では白い花が夜風に身を寄せていた。
カルムの胸の花は、ほとんど閉じている。
患者たちの蕾も、多くが眠るように縮んでいた。
完全に消えたわけではない。
ラナの脚には、細い赤線が残った。
ユルドの胸にも、小さな蕾の痕がある。
経過を見る必要がある。
元の病気も、また治療しなければならない。
けれど今すぐ、生きたまま葬送へ引かれる危険は退いた。
「先生」
マヤが呼ぶ。
「何?」
「終わりました?」
「一応」
「じゃあ、腕」
「自分でやる」
返事が早かった。
マヤが眉を寄せる。
「見せてくださいとは言ってません」
「包帯なら巻ける」
「知ってます」
マヤは診療鞄から新しい包帯と湿らせた布を取り出した。
リオへ差し出す。
「はい」
「……ありがとう」
「先生も診てもらった方がいいと思いますけど」
「大丈夫」
マヤがじっと見る。
「その言葉、禁止じゃなかったですか」
「君に対してだけ」
「ずるいです」
「医者だから」
「便利ですね、その言い方」
どこかで聞いた返しだった。
リオはそれ以上答えず、湿らせた布を受け取った。
白毛の下に走る根光は、診療前より強くなっている。
樹皮状の亀裂も、少し深い。
布を当てた瞬間、指先がわずかに止まった。
マヤは見逃さなかった。
「痛いんですよね」
「少し」
「少し?」
「……結構」
「先生、嘘が下手ですね」
「知ってる」
それでもリオは左腕を差し出さなかった。
自分で汚れを拭い、自分で包帯を巻いていく。
一周。
もう一周。
白い獣毛も、樹皮も、光る根脈も、少しずつ布の下へ隠れていった。
マヤは隣で口を出した。
「そこ、ずれてます」
「ずれてない」
「さっきより斜めです」
「巻けてればいい」
「患者さんにはもっと丁寧なのに」
「自分だから」
「そういうところです、先生」
リオの手が一瞬止まった。
「何が」
「分かりません」
マヤはそう言ってから、少し不満そうに包帯の残りを持ち上げた。
「でも、それ返してください。鞄に入れます」
「それはお願いする」
「そこだけ素直ですね」
その向こうでは、ラナが痛い痛いと文句を言いながら息子へ肩を借りている。
ユルドは同僚と網の話で揉めている。
患者たちは、生きている。
痛く。
面倒で。
口うるさく。
生きている。
リオは最後の結び目を作った。
「きつくないですか」
マヤが訊いた。
「大丈夫」
彼女がじっと見る。
「……ちょうどいい」
「先生も言い直すんですね」
「学習した」
「えらいです」
年下の少女に褒められ、リオは少し複雑な顔をした。
そのとき。
祭壇の方で、花弁が一枚落ちた。
カルムの白い花。
閉じた花の外側から、静かに一枚だけ離れる。
潮風に舞い。
石壇へ落ちる。
誰も取りに走らなかった。
誰も値段を口にしなかった。
それを見て、リオはようやく息を吐いた。
今日、治したものがあるとすれば。
病そのものではない。
少なくとも一度だけ。
死者と生者の境界を、元の場所へ戻した。
それだけだった。




