第十一節 ― 葬送治療
リオ=サルヴァは、花を焼かなかった。
神官の一部は、災いなら焼けと言った。
検疫官の何人かは、疫病の可能性があるなら灰にすべきだと言った。
商人たちは、焼くくらいならせめて花弁だけでも保管させろと食い下がった。
けれど、リオは首を振った。
「焼きません。摘みません。売らせません」
その声は、慈療院の騒ぎの中でもよく通った。
寝台には、赤い根を浮かべた患者たちが横たわっている。扉の外には、聖油を求める者、腐花を祈る者、ただ何が起きているのか分からず怯える者たちが押し寄せている。神官は神意を叫び、商人は権利を主張し、検疫官は秩序を守ろうとして声を嗄らしていた。
そのすべての中心で、リオは言った。
「これは、葬送です。誤った場所で、誤った相手に始まってしまった葬送です。なら、灰にするのではなく、帰る道を戻します」
誰もすぐには答えなかった。
その場にいた者たちは、リオが医師であることを知っている。
だが、いま彼がしようとしていることは、医師の仕事だけではなかった。
手術でもない。
検疫でもない。
祈祷でもない。
花葬でもない。
それらをすべて混ぜ合わせた、サルバティアでしか成り立たない処置だった。
リオは検疫官へ向き直った。
「港の外れにある古い花葬場を使います。カルム=レイダの遺体と、慈療院の患者たちを移してください。歩ける者は歩かせず、必ず担架で。身体の中の根が動きます」
「患者全員を?」
「聖油を使われた者は全員です。香を強く吸った者も別に記録して、後で診ます」
「群衆が黙っていない」
「黙らせる必要はありません。見せます」
検疫官が目を見開いた。
「見せる?」
「隠せば、もっと悪い噂になります。花を奪うな、神を隠すな、病人を見捨てるなと叫ばれる。ならば、死者を死者として送り、生者を生者として戻すところを見せるしかない」
リオは、慈療院の入口にいる人々を見た。
祈りを握った手。
薬を求める目。
痛みで歪んだ顔。
死んでも子どもに薬を残せるのかと問うた母親。
彼らに必要なのは、追い払うことではない。
この花が、何なのかを見せることだった。
生きたまま咲くことは救いではないと。
死者の花は商品ではないと。
痛みを消すことと、救われることは同じではないと。
セラド=ミンは、リオのそばに立っていた。
顔色は悪い。
だが、逃げてはいない。
「私も行きます」
「当然です」
リオは短く答えた。
「あなたが投与した患者たちです。あなたが名を呼んでください」
セラドは、唇を噛んで頷いた。
古い花葬場は、港の西外れにあった。
ラウ=マリカの賑やかな桟橋から離れ、倉庫群を抜け、潮に削られた石段を上った先にある、海と墓庭の境目のような場所だった。
そこには、古い花葬師たちが使っていた石の祭壇が残っていた。
地面は黒く湿り、海風を受けた白い花が低く揺れている。
石柱には、名を刻まれた骨札が吊られ、潮が満ちると、根元まで海水が寄せるという。
死者を土へ返すのか。
海へ返すのか。
花へ返すのか。
その境界に作られた場所だった。
花葬師サラ=モルナは、すでにそこにいた。
黒紫の喪布を肩にかけ、腰には骨匙と種袋。足元には、塩湯、灰葉、苦根草、古い祈祷紐、黒土の入った壺が並べられている。
彼女はリオを見ると、短く言った。
「遅い」
「すみません」
「謝る暇があるなら、名を集めな」
サラは、祭壇を指した。
「花は、名を間違えると余計に根を張る。死者は死者として、生者は生者として呼ぶ。まず、それを分ける」
リオは頷いた。
最初に運ばれてきたのは、カルム=レイダの遺体だった。
白い布に包まれた体。
胸元だけは、花を潰さないように開けられている。
白い花は、まだ咲いていた。
ニナ=レイダは母ミラに支えられながら、その後ろを歩いていた。
熱は一時より下がっている。
だが、病は治っていない。頬はまだ赤く、呼吸も浅い。
それでも彼女は、父から目を逸らさなかった。
リオは祭壇の前で膝をついた。
「カルム=レイダ」
彼は、はっきりと名を呼んだ。
「港湾労働者。夫。父。ラウ=マリカの荷揚げ人。前夜、夜半の荷を終えたのち死亡。これは薬材ではない。聖遺物でもない。カルム=レイダの身体に咲いた、帰り道の花です」
周囲に集まった人々が、静まった。
リオはミラとニナを見た。
「別れの言葉を」
ミラは震えた。
「言えば、終わってしまうんですか」
「言わなくても、終わったことは戻りません」
リオの声は優しくなかった。
けれど、冷たくもなかった。
「でも、言わなければ、彼の花はずっと誰かに奪われ続けます」
ミラの目から、涙がこぼれた。
彼女はカルムのそばに膝をつき、花には触れず、夫の冷えた手に額を寄せた。
「カルム……ごめんね。ニナの薬代、あなたばかりに背負わせて……ごめんね」
ニナが、母の横で泣いていた。
「お父さん」
小さな声だった。
「花、取らせないから。だから……だから、もう痛くないところへ行って」
その言葉に、白い花が一度だけ揺れた。
リオは、花が香を強めるのを感じた。
だが、昼間のような奪う香ではない。
甘いのに、少しだけ苦い。
サラが低く祈りを唱えた。
「肉は土へ。血は根へ。骨は種床へ。記憶は花粉へ。ただし、奪われず、売られず、呼び戻されず。カルム=レイダは、カルム=レイダとして帰る」
リオは、花の周囲に塩湯を含ませた布を置いた。
摘まない。
焼かない。
薬にしない。
花を、死者の一部として扱う。
それだけで、周囲の空気が少し変わった。
商人たちは、もう近づけなかった。
神官たちも、勝手に祝福とは呼べなくなった。
そこにいるのは奇跡ではなく、死者だったからだ。
次に、慈療院の患者たちが運ばれてきた。
ラナ=オルト。
ユルド=マルカ。
咳病の女、ティア=ノル。
熱の少年、エミル。
火傷痕を抱えた船大工、ゴルド。
ほかにも、聖油を受けた者たち。
リオは一人ずつ、名を確認した。
「ラナ=オルト。生者。縫い子。母」
ラナの息子が、涙声で続ける。
「まだ、俺を叱る人です」
リオは頷き、彼女の胸元の赤い根へ薬液を塗った。
「ユルド=マルカ。生者。漁師」
ユルドの同僚が声を上げる。
「網を返してもらってない。まだ死ぬな」
ユルドは苦しげに笑った。
「返す気はねえよ」
周囲に、かすかな笑いが漏れた。
それは、今日初めて聞こえた生者の笑いだった。
リオは、その笑いを逃さなかった。
「いい。痛みがあるなら、声を出してください。眠り込まないで。自分の名を聞いてください」
処置は、手術のようでもあった。
赤い根の走る位置を確かめ、傷や病巣との絡みを読む。
無理に切れば、根と一緒に命の流れまで裂ける。
だからリオは、根を抜かなかった。
薬液で眠らせる。
塩で葬送の流れを弱める。
苦根草で甘い香を濁す。
灰葉で花の季節を閉じる。
そして、本人の名を呼ぶ。
それは、呪術のようでもあった。
患者の身体に浮かんだ花弁状の痣へ、サラが黒土を少量置く。
その土は死者の土ではなく、生者が踏んで帰るための土だった。
「これは墓ではない。足元だ」
サラは患者たちにそう言った。
「帰る土じゃない。立つ土だ。間違えるんじゃないよ」
それは、祈祷のようでもあった。
神官たちは最初、戸惑っていた。
だが、老神官のひとりが膝をつき、ネクタ=ロアの古い葬送句を唱え始めた。
若い神官も、やがて続いた。
ただし、その祈りは「咲け」ではなかった。
「まだ咲くな」だった。
死者は死者として送る。
生者は生者として留める。
痛みは痛みとして聞く。
病は病として診る。
花は花として待たせる。
それは、獣医術のようでもあった。
リオは、人の身体の中に根を張った葬送種を、暴れる獣のように扱った。追い詰めず、刺激しすぎず、逃げ道を与え、誤った獲物から引き離す。
左腕の包帯の下では、聖獣の徴が何度も疼いた。
ときおり、患者の胸元の花が開きかける。
そのたびに、マヤが小さく反応した。
「リオ、右の人。花が息してる」
「分かった」
「ラナさんの足、まだ根が残ってる」
「押さえないで、呼んで」
マヤは恐れていた。
それでも逃げなかった。
彼女は患者たちのそばに寄り、自分と同じように花を宿しかけた者たちを見ていた。神に返されたと言われた自分。奇跡と呼ばれた自分。誰にも怖かったかと聞かれなかった自分。
だからこそ、彼女は患者たちに聞いた。
「怖い?」
ラナは苦しげに笑った。
「怖いよ」
「痛い?」
「痛いねえ」
「じゃあ、生きてるね」
その言葉に、ラナは目を閉じ、涙を流した。
「ああ……生きてるねえ」
マヤは、その手を握った。
リオは、それを横目に見ながら、ユルドの胸元へ薬布を巻いた。
彼の医術は、単なる手術ではない。
単なる祈祷でもない。
ただの呪術でも、葬儀でも、検疫でもない。
医療。
呪術。
祈祷。
獣医術。
葬送。
それらが、この大陸では分かちがたく絡んでいる。
命が強すぎる大陸。
死すら別の命へ芽吹く大陸。
だからこそ、治す者は、命だけでなく死の道筋まで診なければならない。
やがて、腐花の種壺が祭壇の前へ運ばれた。
黒い陶器の壺。
白い花の紋。
沈没した古い花葬祠から流れ着いたもの。
リオは、壺を見下ろした。
セラドがその前に膝をついた。
「私が、開けました」
誰も何も言わなかった。
「私が、薬だと言って使いました」
セラドの声は震えていた。
「痛みを止めたかった。眠らせたかった。救いたかった。けれど、選ばせなかった」
リオは黙っていた。
セラドは、壺に額をつけるように頭を下げた。
「カルムさん。ラナさん。ユルドさん。慈療院の皆さん。私は、あなたたちの苦しみを見ていました。でも、あなたたちの声を聞いていませんでした」
群衆の中で、誰かが泣いた。
それが誰なのか、リオには分からなかった。
サラは、種壺の周囲に黒土を置き、白砂で輪を描いた。
老神官が、古い封句を唱える。
リオは壺の口に薬液を落とし、蜜蝋の封印を新しく塗り固めた。
壺の内側で、何かがかすかに鳴った。
種が、目を覚まそうとする音。
マヤの胸元が疼く。
リオの左腕も熱を持つ。
だが、壺の上に置かれた黒土が、ゆっくりと乾いていく。
サラが言った。
「咲く季節ではない。眠れ」
老神官が続ける。
「死者の名を待て。生者の血を求めるな」
リオは最後に、封印布を結んだ。
「腐花の種壺、封印。以後、検疫所と花葬師の共同管理に置く。薬材としての使用を禁じます」
商人たちが不満げにざわめいた。
だが、誰も前へ出なかった。
彼らの目の前で、患者たちは痛みに呻きながらも、生きたまま花になることを免れた。カルムの花は摘まれず、遺族の言葉を受けて、死者の一部として静かに閉じていった。
もはや、簡単に値をつけられるものではなくなっていた。
処置は、夕暮れまで続いた。
すべての患者の中から、完全に根を消すことはできなかった。
ラナの脚には、赤い線が残った。
ユルドの胸元には、小さな蕾の痕が薄く浮かんでいる。
ティアの咳は戻り、エミルの熱も再び上がった。
痛みを消していた甘い眠りは、彼らから去った。
患者たちは泣いた。
怒った者もいた。
なぜ痛みを戻したのかと、リオを罵る者もいた。
リオは、そのすべてを受けた。
何も言い返さなかった。
カルム=レイダは戻らない。
ニナの病も完全には治らない。
すでに花粉を吸った者の中には、しばらく体調を崩す者も出るだろう。
噂を信じ、検疫所の目を盗んで花弁を持ち去ろうとした者もいる。
どこかで、すでに花を摘まれた死者がいたかもしれない。
摘まれた花は、死者の帰り道を乱す。
サラは言った。
「花を奪われた死者は、一部を忘れて帰る。家族の顔か、最後の言葉か、自分の名か。何を失うかは分からない」
その言葉を聞いて、神官たちは青ざめた。
商人たちは目を逸らした。
セラドは、膝をついたまま動かなかった。
彼の罪も消えない。
患者たちの痛みを和らげたことも本当。
その身体に葬送を芽吹かせたことも本当。
救いたかったことも本当。
選ばせなかったことも本当。
リオは、彼を許すとも、断罪するとも言わなかった。
ただ、最後の患者の処置を終えたあと、セラドに薬布の束を渡した。
「交換は一刻ごとに。根が濃くなったら、すぐに俺かサラさんを呼んでください」
セラドは震える手で受け取った。
「私に、まだ触れる資格があるのですか」
「資格ではなく、責任です」
リオは言った。
「逃げないでください」
セラドは、深く頭を下げた。
夕陽が、古い花葬場を赤く染めていた。
カルムの胸に咲いた白い花は、ゆっくりと閉じ始めている。完全に枯れたわけではない。けれど、朝のような飢えた香はもうなかった。
ミラとニナは、花のそばに座っていた。
ニナは咳をしている。
熱も、また少し戻っている。
それでも彼女は、父の花を見て泣かなかった。
泣き疲れたのかもしれない。
あるいは、花が薬ではなく父の一部だと、少しだけ分かったのかもしれない。
リオは、遠くからその姿を見ていた。
マヤが隣に立つ。
「助かったの?」
彼女は尋ねた。
リオは、すぐには答えなかった。
花葬場には、痛みを取り戻した患者たちの呻き声がある。
遺族の泣き声がある。
封じられた種壺の沈黙がある。
そして、死者を抱える港の重い夕暮れがある。
「全部は」
リオは言った。
「助けられなかった」
マヤは頷いた。
「でも、生きたまま花になった人は?」
「今は止めた」
「今は?」
「根は残っています。噂も、祈りも、消えていない」
リオは、港の方角を見た。
ラウ=マリカの街には、もう灯がともり始めている。
今夜もどこかで、誰かが腐花の噂をするだろう。
痛みを花に変えてほしいと祈る者もいるだろう。
死んでも誰かの薬になれるならと、静かに考える者もいるだろう。
事件は収束した。
けれど、問いは終わっていない。
マヤは、自分の胸元に手を当てた。
「リオ」
「なに?」
「痛いって、生きてるってことなの?」
リオは、少しだけ目を伏せた。
「それだけじゃない」
彼は答えた。
「でも、痛みを誰かが聞いてくれるなら、生きている方へ戻れることがある」
マヤは、その言葉を考えるように黙った。
夕暮れの風が吹く。
カルムの花が、静かに揺れる。
白い花弁の一枚が、落ちかけて、落ちなかった。
リオはそれを見つめた。
死者は戻らない。
病は消えない。
罪はなかったことにならない。
それでも、これ以上、生きている者を誤って葬ることだけは止められる。
今日の彼にできた救いは、それだけだった。




