第十一節 ― 花は誰のものか
翌朝、カルム=レイダは、ようやく誰の役にも立たなくてよくなった。
港外れの古い花葬場には、夜の雨が残っている。
マングローブの根元に溜まった水が朝日を鈍く返し、半ば水へ沈んだ石祭壇を潮がゆっくり洗っていた。湿った土と塩、それに夜露を含んだ白花の匂いが混じっている。
昨夜まで、この場所には検疫官の怒号があり、患者の呻きがあり、葬送を鎮めるための慌ただしい処置があった。
今朝は違う。
診療鞄は閉じられている。
祈診布も、血読針も使わない。
祭壇の上に横たわっているのは、症例ではなかった。
カルム=レイダだった。
顔には白い布が掛けられ、胸元だけが開けられている。そこには、昨夜の処置を終えた白い花が静かに残っていた。
最初に倉庫で見たときほど大きくはない。
周囲の痛みへ食らいつくようだった甘い香りも、今はほとんど消えている。朝露を含んだ花弁が、潮風にわずかに揺れているだけだ。
咳を止めない。
傷を鎮めない。
値段もついていない。
ただ、死者の胸に咲いている。
リオは祭壇の横に立っていた。
左腕は再び包帯の下に隠れている。昨夜、自分で巻き直したせいか、いつもより結び目が少し高い位置にあった。
「曲がってますよね」
隣にいたマヤが小声で言った。
「少し」
「気になります?」
「少し」
「巻き直した方がいいんじゃないですか」
「今はいい」
「昨日からずっと、それ言ってますよ」
「葬儀中に患者を増やさないで」
「増えてません。最初から一人います」
リオは包帯から目を離した。
マヤは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
祭壇の反対側では、サラ=モルナが葬送の準備をしている。
黒紫の喪布。
骨匙。
黒土。
塩水。
白い祈祷紐。
けれど昨夜と違い、どの道具にも切迫した気配はなかった。
急いで花を閉じる必要はない。
生者と死者を引き剥がす必要もない。
ただ、帰るべき者を送るための道具だった。
少し離れたところに、妻のミラと娘のニナがいる。
ニナの熱はまだ完全には引いていない。時折、母親の腕へ体重を預ける。それでも昨夜より呼吸は落ち着いていた。
花の香りに頼っているわけではない。
昨夜からリオが続けているのは、熱と呼吸を落ち着かせ、身体が休めるようにするための処置だ。病そのものが治ったわけではなく、これからも診察と治療を続けなければならない。
効き目は遅い。
少なくとも、一息で苦しみを消してくれる奇跡ではなかった。
その代わり、父親の身体を削る必要もない。
ミラが娘の肩を抱き、ゆっくり祭壇へ近づいた。
その後ろから、カルムの荷揚げ仲間たちが続く。
昨日まで腐花を欲しがっていた者たちは、ここにはいない。
薬材商も。
値踏みをした商人も。
神意を確かめようとした者たちも。
検疫官たちは葬場の外側に立ち、職務として見守っている。
慈療院の患者も何人か来ていた。
ラナ=オルトは息子に腕を借りながら、痛そうに片脚を引きずっている。
ユルド=マルカは左腕を吊っていた。
「痛ぇ」
誰に言うでもなく呟く。
隣の同僚が鼻で笑った。
「昨夜からそればっかりだな」
「痛ぇもんは痛ぇ」
「生きてる証拠だろ」
「証拠ならもう十分出した。次は痛くない証拠をよこせ」
声を抑えていたつもりなのだろうが、静かな葬場ではよく響いた。
ラナが振り返る。
「葬式で騒ぐんじゃないよ」
「お前も声でかいだろ」
「私は注意してるんだ」
「同じだろうが」
ニナが、ほんの少し笑った。
それを見て、ミラの口元もわずかに緩む。
誰も咎めなかった。
カルムが生きていた頃の港も、きっとこんなふうにうるさかったのだろう。
サラが祭壇の前へ立つと、声は自然に消えた。
老花葬師はカルムの顔に掛かった布を一度整える。
それから胸に咲いた花を見た。
「昨夜は忙しかったね」
死者へ言ったのか、花へ言ったのか分からない。
「今日は急がなくていい」
黒土を骨匙で少量掬い、カルムの足元へ置く。
塩水を指へつけ、胸元の赤根へ触れない位置に三滴落とした。
サラの声が、湿地へ静かに広がった。
「肉は土へ」
潮が石を洗う。
「血は根へ」
マングローブの葉から雫が落ちる。
「骨は種床へ」
カルムの胸の白花が、小さく揺れた。
サラはそこで一度、言葉を止めた。
昨日まで、この男へいくつもの名が与えられた。
死体。
奇跡。
薬。
祝福。
商品。
花床。
死んだ本人には、一度も尋ねられないまま。
老花葬師は祭壇を囲む者たちを見回した。
「奪われず」
ミラが夫の手を握る。
「売られず」
ニナの指が、母親の袖を掴んだ。
「名を失わず」
サラは最後に、死者の名をはっきり呼んだ。
「カルム=レイダは、カルム=レイダとして帰る」
風が抜けた。
白い花が静かに閉じていく。
昨夜の処置のように、リオが境界を切ったわけではない。
祈りで無理に閉じさせたわけでもない。
花自身が、時間を受け入れるように一枚ずつ花弁を畳んでいった。
ミラの頬を涙が伝った。
「カルム」
夫の手を握ったまま呼ぶ。
「ごめんね」
それだけ言って、首を横へ振った。
「……違う」
何かを言い直すように息を吸う。
「ありがとう」
ニナが母親を見る。
ミラは泣いていた。
「ニナのこと、ずっとあなたに背負わせてた。もっと休めって言えばよかった。仕事なんか行かなくていいって……」
声が詰まる。
「でも、もう謝るのはやめる」
夫の冷えた指を両手で包んだ。
「あなた、謝られるの嫌いだったものね」
荷揚げ仲間の一人が、小さく鼻を鳴らした。
「ああ。あいつ、謝られると困った顔するんだよ」
「そのくせ自分はすぐ謝る」
「荷を落としたときだけな」
「人の酒飲んだときは謝わなかったぞ」
「それ、お前まだ根に持ってたのか」
低い笑いが起きた。
泣いている者の中からも。
ニナは父の顔を見た。
「お父さん」
昨日より、声は震えなかった。
「お母さんといるから」
そこで少し考える。
「だから……もう仕事しなくていいよ」
ミラが顔を覆った。
カルムの同僚たちも、今度は誰も笑わなかった。
ニナは続ける。
「薬のお金も、もういい」
昨日、父の花によって少しだけ楽になった呼吸。
それを、この子は覚えている。
それでも手放すと言っている。
「わたし、先生に診てもらうから」
後ろに立っていたリオへ一瞬だけ目を向ける。
「すぐ治るわけじゃないけど」
リオは目を瞬いた。
昨夜から何度も説明したことを、ちゃんと覚えていたらしい。
「しばらく診てもらうから」
ニナはそう言ってから、少しだけ口を尖らせた。
「先生、そういう言い方するから」
マヤが隣で小さく吹き出す。
「分かります」
「君は今、どっちの味方なの」
「ニナちゃんです」
「即答だね」
「患者さんなので」
ニナがまた少し笑った。
それでよかった。
別れの場で、最後まで泣き続けなければならない決まりはない。
サラは祈祷を続けた。
荷揚げ仲間たちは、一人ずつカルムの名を呼んだ。
「カルム=レイダ」
名前だけを。
肩書きも。
病気も。
花もつけずに。
そのたびに胸の花は少しずつ閉じていった。
やがて、最後の一人が名を呼び終えたとき。
朝の潮風が、祭壇を撫でた。
白い花が揺れる。
一枚の花弁が、根元から自然に離れた。
誰も手を伸ばさない。
花弁はくるりと回りながら祭壇へ落ち、黒土の上へ乗った。
サラがしばらく見ていた。
それから、骨匙ではなく素手で拾い上げる。
「これは、もう帰り道から離れた」
ニナが顔を上げた。
サラは白い花弁を掌へ乗せたまま、その前へ歩く。
「花葬じゃ、自然に離れた花を一枚だけ家族へ残すことがある」
説明はそれだけだった。
「薬にはしない」
ミラが確認する。
「しない」
「煎じたりも?」
「しない」
「売ったりは」
サラが片眉を上げた。
「売りたいのかい」
ミラは一瞬きょとんとしてから、首を横へ振った。
「いいえ」
「なら、話は早い」
サラはニナの前へしゃがんだ。
「持つかい」
ニナはすぐには手を出さなかった。
白い花弁を見る。
昨日までなら、その一枚で何人の痛みを止められるか、誰かが計算したかもしれない。
今は誰も言わない。
ニナは両手を差し出した。
サラが、その上へ花弁を置く。
軽い。
驚くほど軽かった。
死者の身体から生えたものとは思えないほど、薄くて柔らかい。
縁にだけ、淡い赤が残っている。
ニナは壊さないよう、両手を器のように丸めた。
しばらく黙って見つめる。
やがて、小さく聞いた。
「これ、お父さんですか」
サラは答えなかった。
ミラも。
ニナの目が、リオへ向く。
医者なら知っていると思ったのかもしれない。
リオは少女の前へ膝をついた。
花弁を見る。
カルムの身体から生まれたものではある。
彼の死後に起きた葬送の一部でもある。
だからといって、それをカルム本人だと断言することも。
ただの花だと切り捨てることも。
リオの仕事ではなかった。
「それを決めるのは、俺じゃない」
ニナは瞬きをした。
「じゃあ、誰が決めるんですか」
リオは少し考えた。
「君かな」
「わたし?」
「持ってるのは君だから」
ニナは掌の花弁へ視線を戻す。
「お父さんだって思ってもいい?」
「うん」
「ただの花だって思う日があっても?」
「いいよ」
「捨てたくなったら?」
ミラが息を呑んだ。
けれど、リオは少女から目を逸らさなかった。
「そのときは、そのとき考えればいい」
ニナはしばらく黙った。
やがて花弁を胸へ抱く。
強く握らない。
壊さない程度に。
「じゃあ、今はお父さんにします」
「そう」
「あとで変えても怒らない?」
「俺は怒らない」
「お父さんは?」
「それこそ俺には分からないな」
ニナは花弁を見て、小さく笑った。
「たぶん、怒らないです」
ミラが娘の肩を抱く。
その手に迷いはなかった。
夫の胸には、まだ花が残っている。
それを薬へ使えば、ニナの咳を一晩くらい楽にできるかもしれない。
もっと高く売れば、新しい薬も買えるかもしれない。
ミラはそれを知っている。
知った上で、花へ手を伸ばさなかった。
夫の死を、娘の治療費へ変えなかった。
それが正しいかどうかを、リオは決めなかった。
ただ、その選択がミラ自身のものだったことだけを覚えておこうと思った。
葬列のさらに後ろに、セラド=ミンが立っている。
神官たちとは離れて。
祭服も着ていない。
慈療院で使っていた古い衣のまま、両手を身体の前で重ねている。
検疫官が二人、少し離れて控えていた。
葬儀が終われば、彼は拘束される。
腐花葬送種と聖油を生者へ使った。
患者へ正体を説明しなかった。
同意を得なかった。
その結果、カルムは死後に異常開花し、慈療院の患者たちは生きたまま葬送へ引かれかけた。
消えない事実だった。
セラドの近くに、ラナがいた。
息子に止められながら、一歩だけ前へ出る。
「司祭様」
セラドが顔を上げた。
「……ラナさん」
彼女は脚を押さえた。
「痛いよ」
セラドの顔が強張る。
「申し訳ありません」
「本当にね」
ラナは容赦なく言った。
「昨夜から痛くて眠れやしない」
「……はい」
「勝手に変な油を使ったことも、まだ腹が立ってる」
「はい」
「次にやったら殴るよ」
「次はありません」
「当たり前だ」
そこでラナは息を吐いた。
「でも」
セラドは顔を上げられない。
「あんたが、痛くて眠れない夜に来てくれたことまで、なかったことにはしないよ」
セラドの肩が震えた。
「ありがとうって言ったのも、嘘じゃない」
ラナはそれ以上言わなかった。
許す、とも。
仕方なかった、とも。
ただ息子へ肩を借りて戻っていく。
次にユルドがセラドの前へ立つ。
「俺も感謝はしてる」
「ユルドさん」
「でも腕は痛ぇ」
「……はい」
「だから腹も立ってる」
「はい」
「両方だ」
それだけ言って、踵を返した。
セラドは何も返せなかった。
誰も石を投げない。
誰も彼を聖人へ戻そうともしない。
善意があったから罪がなくなるわけではない。
罪があるから、善意まで最初から嘘だったことにもならない。
どちらも残った。
それはきっと、ひどく扱いにくい形だった。
けれど、人間一人を悪人という一言に畳むよりは、ずっとその人間らしかった。
リオはセラドを見た。
目が合う。
セラドは小さく頭を下げた。
リオは頷き返しただけだった。
赦しではない。
断罪でもない。
今は、それ以上のことをする場所ではなかった。
今日はカルムの葬儀だ。
サラが最後の黒土を根元へ置く。
胸に残った白い花が、ゆっくりと花弁を畳んだ。
甘い香りが薄れていく。
潮風。
泥。
湿った葉。
海。
南方の朝の匂いが戻ってくる。
「カルム=レイダ」
サラが最後に名を呼んだ。
ミラも続いた。
「カルム=レイダ」
荷揚げ仲間たちが。
ラナが。
ユルドが。
小さな声で、ニナも。
「カルム=レイダ」
その名には、もう値段がついていなかった。
奇跡でもない。
薬草資源でもない。
港の財産でもない。
一人の男の名だった。
ニナの両手の中には、一枚の白い花弁が残っている。
それが父なのか。
記憶なのか。
ただの花なのか。
誰も決めなかった。
決めなくてよかった。
潮が満ちて、石祭壇の下を静かに洗った。
カルム=レイダは、ようやくカルム=レイダのまま、帰り始めた。




