第十二節 ― 花は誰のものか
カルム=レイダの葬送は、翌朝に行われた。
ラウ=マリカの空は、まだ雨を含んだように白く濁っていた。海は静かで、港の帆柱も、昨日ほど騒がしく軋んではいない。朝市の声も、いつもより低かった。
誰もが、昨日起きたことを知っていた。
死体に花が咲いたこと。
その花が病を和らげたこと。
その花を欲しがった者がいたこと。
生きている者の身体からも、花が咲きかけたこと。
そして、花は薬ではなかったこと。
カルムの遺体は、港の外れにある古い花葬場に安置されていた。
石の祭壇の上で、彼は静かに横たわっている。顔には白い布がかけられ、胸元だけが開けられていた。そこには、まだ白い花が咲いていた。
昨日より、花は小さく見えた。
甘い香りも薄くなっている。飢えたように周囲の痛みを吸い上げる気配はない。朝の湿った風に揺れるその花は、ただ静かに、死者の胸で咲いていた。
リオ=サルヴァは、祭壇の脇に立っていた。
その隣には花葬師サラ=モルナがいる。老神官も数人、少し離れた場所で祈祷文を持って控えていた。商人たちはいない。若い神官たちも、今日は声を上げなかった。
この場にいるのは、遺族と、カルムを知る者たちだった。
妻のミラ。
娘のニナ。
港の荷揚げ仲間たち。
南路地で彼に助けられた者たち。
そして、遠巻きに見守る検疫官と、慈療院の患者たち。
セラド=ミンもいた。
彼は神官の列には入らず、後方で頭を下げて立っていた。誰も彼を責める言葉を口にしなかった。だが、許したとも言わなかった。
それでよいのだと、リオは思った。
罪は、今日一日で処理できるものではない。
花のように咲かせて終わるものでもない。
背負い続けるしかないものもある。
サラが、低い声で花葬の言葉を唱えた。
「肉は土へ。血は根へ。骨は種床へ。記憶は花粉へ。ただし、奪われず、売られず、名を失わず。カルム=レイダは、カルム=レイダとして帰る」
ミラは泣かなかった。
泣きすぎて、もう涙が残っていないのかもしれない。
それとも、今泣けば娘を支えられなくなると分かっているのかもしれない。
ニナは、母の手を握っていた。
顔色はまだ悪い。昨日、花の香で一時的に下がった熱は、夜には少し戻っていた。咳も完全には止まっていない。リオが調合した薬湯で、どうにか症状を抑えているだけだった。
花は、ニナを治さなかった。
父は、娘を残して死んだ。
その事実は、どれほど神の名を並べても変わらない。
葬送の終わりに、サラがカルムの胸元へ近づいた。
白い花は、三輪咲いていた。
そのうち二輪は、まだ胸の赤い蔓と深く結びついている。
けれど、一輪だけ、茎が細く、今にも自然に落ちそうになっていた。
サラは、リオを見た。
リオは頷いた。
花葬では、咲いた花を摘まない。
だが、自然に離れた花は、遺族に一輪だけ渡されることがある。薬としてではない。飾りとしてでもない。死者がこの世にいたことを、残された者が覚えるためのものとして。
サラは骨匙を使わず、手で花を支えた。
花は抵抗しなかった。
白い花が一輪、カルムの胸から静かに離れた。
その瞬間、ニナが小さく息を呑んだ。
「それ……」
彼女の声は震えていた。
「それ、ちょうだい」
サラは何も言わず、リオを見た。
リオは花を受け取り、ニナの前に膝をついた。
ニナは手を伸ばした。
けれど、花に触れる直前で止まった。
「全部、ほしい」
彼女は言った。
ミラが目を伏せる。
「ニナ……」
「だって、お父さんの花でしょ」
ニナの目に、涙が浮かんだ。
「全部、持っていたい。誰にも取られたくない。お父さんがまたどこかへ行っちゃうなら、せめて花だけでも……全部」
その言葉は、欲ではなかった。
薬が欲しいのでもない。
奇跡が欲しいのでもない。
父の身体を所有したいのでもない。
ただ、置いていかれたくないだけだった。
リオは、花を見た。
カルムの胸には、まだ二輪の花が残っている。あれはまだ帰り道の途中にある花だ。摘めば、死者の葬送を乱す。
ニナがどれほど望んでも、渡してはいけない。
だが、ただ「だめだ」と言えば、この子はもう一度奪われる。
父を奪われ、薬を奪われ、奇跡だと騒がれ、今度は花まで奪われる。
リオは、ゆっくりと花をニナの両手に乗せた。
「全部は渡せない」
ニナの顔が歪む。
「どうして」
「あとの花は、まだ君のお父さんが帰るために必要だから」
「帰るって、どこへ」
リオは少しだけ黙った。
「土へ。根へ。風へ。君がいつか歩く道のどこかへ」
ニナは唇を噛んだ。
「じゃあ、この花は?」
彼女は両手の中の白い花を見た。
花弁は柔らかく、朝露を含んでいる。中心だけが淡い金色で、縁にはほんの少しだけ赤みが残っていた。昨日のような強い香りはない。ただ、近づけばかすかに、潮と花蜜の混ざった匂いがする。
リオは、ニナの目を見た。
「これは薬じゃない」
ニナの指が震える。
「売り物でもない。神さまが本当にいたって証明するものでもない」
リオは静かに続けた。
「君のお父さんが、君を愛していた記憶だ」
ニナの顔が、一瞬、何も分からないように空白になった。
それから、くしゃりと歪んだ。
彼女は花を胸に抱きしめた。
強く握れば壊れてしまう。
だから、両手で包むように、泣きながら抱いた。
「お父さん……」
声は、幼かった。
昨日、花を取らないでと叫んだときよりも、ずっと幼い声だった。
「お父さん、いやだよ……」
ミラがニナを抱きしめた。
母と娘は、カルムの胸元ではなく、一輪の花を抱いて泣いた。
その涙を見て、港の人々はようやく黙った。
花は薬ではない。
値段でもない。
祝福の証明でもない。
まず、誰かの死に咲いたものだった。
カルムの同僚たちが、ひとりずつ祭壇の前へ進み出た。
「荷縄、まだ返してもらってねえぞ」
大柄な男が、泣きながら笑った。
「ニナの薬代、少しだけど、俺たちで出す」
別の男がミラへ袋を渡した。
「足りるとは言わない。でも、あいつが背負ってた分を、少しは俺たちにも背負わせてくれ」
ミラはその袋を受け取り、声にならない礼を返した。
リオは、それを見ていた。
これでニナの病が治るわけではない。
袋の中の金も、十分ではないだろう。
カルムが戻るわけでもない。
だが、父の死を花の薬効にだけ閉じ込めずに済んだ。
それだけは、確かだった。
葬送は静かに続いた。
サラが黒土を花の根元へ置き、老神官が古い葬送句を唱える。ミラとニナは、カルムへ最後の言葉をかけた。荷揚げ仲間たちは、彼の名を一人ずつ呼んだ。
名を呼ばれるたびに、カルムの胸に残った二輪の花が、少しずつ閉じていった。
枯れるのではない。
眠るように、花弁を畳んでいく。
やがて、朝の風が吹いた。
白い花弁が一枚だけ、祭壇から離れて空へ舞った。
それは薬瓶にも、商人の手にも、神殿の祭具にも入らず、黒い土の上へ落ちた。
サラはそれを拾わなかった。
「それでいい」
老花葬師は呟いた。
「帰り道を、急がせるものじゃない」
マヤ=ルクナは、少し離れた場所でその一部始終を見ていた。
彼女は、ニナが花を抱いて泣く姿から目を離せなかった。
父の花。
誰かが生きた記憶としての花。
その言葉が、マヤの中で何度も反響していた。
彼女の胸元にも、花がある。
布の下。
鎖骨の少し下。
かつて供物として捧げられ、死なずに戻ってきたときから残っている花の徴。
村人は、それを奇跡と呼んだ。
神官は、それを神に選ばれた証だと言った。
病人たちは、癒しの花だと囁いた。
商人は、聖女の徴には価値があると言った。
けれど、リオは最初にそれを見たとき、花ではなく傷として診た。
あれは、うれしかったのか。
それとも、怖かったのか。
マヤには、まだ分からない。
自分の中に咲く花は、誰のものなのだろう。
自分の記憶なのか。
自分を神に差し出した村の祈りなのか。
生きて戻ってしまった罪なのか。
誰かが助かるために、自分が背負わされたものなのか。
それとも、死ななかった自分が、まだ自分でいるための印なのか。
マヤは胸元に手を当てた。
徴は静かだった。
昨日のように熱くも、疼いてもいない。
ただ、そこにある。
花として。
傷として。
まだ意味を決められていないものとして。
リオが、彼女の隣に来た。
「痛む?」
マヤは首を振った。
「痛くない」
「なら、よかった」
「でも、分からない」
「何が?」
マヤは、ニナの両手に包まれた白い花を見た。
「あの花は、ニナのお父さんの記憶なんだよね」
「そうだと思う」
「じゃあ、わたしの花は?」
リオは答えなかった。
簡単に答えてはいけない問いだった。
マヤは続けた。
「わたしの花は、誰の記憶なのかな。誰の罪なのかな。誰の祈りなのかな」
風が吹いた。
花葬場の白い花が揺れる。
黒土の匂いと、潮の匂いが混ざる。
遠くで、港の鐘が一度だけ鳴った。
リオは、マヤの胸元ではなく、彼女の顔を見た。
「今は、分からなくていい」
マヤが振り返る。
「分からなくていいの?」
「誰かに勝手に決めさせるよりは、その方がいい」
その言葉に、マヤは少しだけ目を伏せた。
分からないままでいること。
それは不安だった。
けれど、誰かに勝手に意味をつけられるよりは、息ができる気がした。
ニナの泣き声が、少しずつ静かになっていく。
カルムの胸に残った花は、もうほとんど閉じていた。
葬送は終わりに向かっている。
だが、マヤの胸の花は、まだ終わっていない。
リオの左腕の包帯の下も、まだ疼きの残響を抱えている。
この事件で、すべての答えが出たわけではない。
花は誰のものか。
死者のものか。
遺族のものか。
神のものか。
病人のものか。
それとも、花を咲かせた命そのもののものか。
ラウ=マリカの朝は、その答えをくれなかった。
ただ、ニナの両手の中で、一輪の白い花が静かに揺れていた。
それは薬ではない。
売り物でもない。
奇跡の証明でもない。
父が生き、娘を愛し、そしてもう戻らないという、痛みを伴う記憶だった。




