終節 ― 命が続くなら
カルム=レイダの葬儀が終わった午後、ラウ=マリカでは腐花聖油の回収が始まった。
検疫所と港神殿が南路地を回り、密売人から流れた油や種を探す。慈療院に残っていた《腐花の種壺》はサラ=モルナの立ち会いで封じ直され、誰の手にも渡らないよう検疫所の保管庫へ移された。
市場にも通達が出た。
腐花聖油の売買、譲渡、使用を当面停止。
《腐花予約》の木札も撤去された。
それで噂まで消えるわけではない。
「もう手に入らないらしい」
という話は、夕方には、
「検疫所が全部買い占めた」
になり、日が沈む頃には、
「偉い神官しか使えない薬になった」
まで育っていた。
「昨日より悪化してません?」
検疫所の窓辺で、マヤが言った。
彼女の手には、朝から欲しがっていた蒸し菓子がある。
南路地を通った帰り、リオが根負けして買ったものだった。
「噂は治療できないからね」
「聖獣医師なのに?」
「何でも診られるわけじゃない」
「便利じゃないですね」
「君は医者に何を求めてるの」
「もう一個買ってくれるくらいの便利さです」
「それは医療じゃない」
マヤは残っていた蒸し菓子を一口で食べた。
「じゃあ自費診療で」
「覚えた言葉を適当に使わないで」
窓の外では、検疫官が新しい患者を連れてきている。
慈療院で腐花聖油を使われた者たちは、全員がしばらく経過観察となった。
昨日《鎮める》処置を受けたからといって、すべて元通りになったわけではない。
ラナの脚には痛みが戻った。
ユルドの腕には炎症が残った。
白い蕾が消えた者にも、皮膚の下に薄い赤根の痕が残っている。
数日は体温と呼吸を測り、赤根が再び濃くならないか確かめなければならない。
診療室から、ラナの声が聞こえた。
「だから痛いって言ってるだろ!」
「聞こえてます!」
若い検疫医が負けじと返す。
「昨日より痛いんだよ!」
「昨日は痛覚が抑えられてたんです!」
「じゃあ今日も少しくらい抑えな!」
「それをやって大変なことになったんでしょう!」
リオが立ち上がろうとすると、マヤが袖を掴んだ。
「行かなくていいんですか」
「今のところ、検疫医が正しい」
「でも負けそうですよ」
「それは本人に頑張ってもらおう」
直後、診療室の扉が開いた。
「聖獣医師先生! ちょっとお願いします!」
「負けましたね」
「早かったな……」
診療室へ入ると、ラナは寝台の上で脚を押さえていた。
顔色は悪くない。
むしろ昨日より血色が戻っている。
「先生からも言っとくれ。あの油をもう一回なんて言わないよ。ただ、別の何かはないのかい」
「探します」
「それ昨日も聞いた」
「一日で新薬を作る仕事ではないので」
「使えないねえ」
「すみません」
ラナは盛大にため息をついた。
それから、少しだけ声を落とす。
「でもさ」
「はい」
「あの油がなかったら、私は何日も眠れなかった」
リオは黙る。
「あの司祭がしたことが良かったとは言わないよ。今じゃこんなに痛いしね」
ラナは自分の脚を軽く叩いた。
「でも、眠れた夜まで嘘だったことにはしたくないんだ」
「……はい」
「そこは記録しといておくれ」
リオは頷いた。
「書ける範囲で」
「何だい、その逃げ道は」
「診療録なんで」
「つまらないねえ」
「よく言われます」
後ろでマヤが小さく首を傾げた。
「それ、誰に言われたんです?」
リオは聞こえなかったことにした。
◇
セラド=ミンは、その日のうちに拘束された。
抵抗はしなかった。
慈療院の前に集まった患者の中には、検疫官へ食ってかかる者もいた。
「司祭様は俺を診てくれたんだ!」
「金がないときも追い返さなかった!」
「夜中だって来てくれた!」
別の者は、何も言わず見送った。
怒っている者もいた。
身体を勝手に死者の側へ近づけられたのだ。
感謝している者もいた。
本当に痛みから救われた夜があったのだ。
どちらも、同じ人間の中に残ることさえあった。
セラドは検疫官に囲まれながら、最後に慈療院を振り返った。
何か言おうとしたようだった。
だが結局、何も言わなかった。
患者たちも、誰一人として彼へ石を投げなかった。
それは赦しではない。
罪が消えたわけでもない。
ただ、善意があったことまで嘘にしてしまうには、彼らはセラドに救われた夜を知りすぎていた。
◇
夜。
細い雨が、ラウ=マリカへ降っていた。
港の石畳が黒く濡れ、昼間まで鮮やかだった祈祷布の色が灯火の下で沈んでいる。沖の帆船は輪郭だけになり、波が桟橋を叩く音が一定の間隔で聞こえた。
検疫所の記録室には、紙を擦る音だけが残っている。
リオは机に向かい、最後の診療録を書いていた。
カルム=レイダ。
死後開花。
腐花葬送種を含む聖油の使用歴あり。
死亡後、葬送反応が急速に完成。
《送る》処置後、正式花葬。
遺族立ち会い。
自然落花一枚を記憶花として遺族へ。
次。
ラナ=オルト。
生者内葬送反応。
脚部より赤根進行。
胸部蕾形成。
《鎮める》処置。
痛覚、体温、呼吸反応の復帰。
要経過観察。
ユルド=マルカ。
左腕外傷部より赤根反応。
胸部白蕾。
《鎮める》処置。
炎症反応および痛覚復帰。
要経過観察。
そして。
セラド=ミン。
慈療院司祭。
腐花葬送種、および腐花聖油を複数患者へ使用。
目的――鎮痛、安眠、外傷症状の軽減。
患者への使用物説明、なし。
同意、なし。
リオの筆が止まった。
乾いた文字だった。
説明。
同意。
症状。
処置。
経過。
紙へ書けば、それだけで終わる。
けれど、その一行の後ろには、三日眠れなかった人間がいる。
薬を買えなかった者がいる。
休めば明日の食事を失う人間がいる。
娘の薬代を稼ぐため、胸を押さえながら港へ出た父親がいる。
死後の自分を売れば家族を救えるかもしれないと考えた者もいた。
そして、説明すれば怖がるからと、その恐怖する権利まで患者から取り上げた医者がいる。
リオはしばらく筆先を見つめてから、診療録を閉じた。
「終わりました?」
机の向こうで、マヤが眠そうに聞いた。
いつの間にか椅子を二つ並べ、その上へ横になっている。
「君、まだいたの」
「いました」
「宿に戻っててよかったのに」
「先生、一人にすると朝まで書くでしょう」
「もう終わった」
「じゃあ帰りましょう」
マヤは立ち上がり、大きく伸びをした。
「明日の朝ごはん、何ですか」
「今から明日の話?」
「大事です」
「宿で出るもの」
「それは料理名じゃありません」
「寝る前に食べ物の話するとお腹空くよ」
マヤの動きが止まった。
「……先生」
「何?」
「言わなくていいことってありますよね」
「ごめん」
リオは少し笑って椅子から立った。
手を洗おうと、水盆へ向かう。
そこで足が止まった。
水盆の横に、一枚の布が置かれている。
「マヤ」
「はい?」
「これ、君が置いた?」
少女が近づいてくる。
「違います」
見覚えのない祈祷布だった。
古い南方織り。
目の粗い生成り布の縁へ、褪せた赤糸が幾重にも走っている。
中央には白い花。
その下へ、花には似つかわしくない黒い根が絡んでいた。
リオは布を手に取った。
雨には濡れていない。
いつからここにあったのか分からない。
「検疫所のものですか?」
「違うと思う」
布の下側に、文字がある。
短い一文だった。
リオは声に出さず読む。
――命が続くなら、救いは終わらない。
左腕の奥が、微かに疼いた。
マヤも横から読んでいた。
「……綺麗な言葉ですね」
リオは答えなかった。
綺麗だからこそ、引っかかった。
命が続く。
それだけなら、願う者は多い。
死にたくない。
死なせたくない。
子どもに生きてほしい。
大切な人に明日もいてほしい。
そこまでは分かる。
だが、この一文には終わりがない。
どんな姿になっても。
どれほど苦しくても。
何を失っても。
命さえ続けば救いだと、そう読めてしまう。
「セラドさんの?」
マヤが聞く。
「違う」
慈療院の診療記録を何枚も見た。
あの丸みのある筆跡ではない。
念のため、まだ検疫所に留め置かれていたセラド本人にも布を見せた。
彼は長く見つめたあと、首を横へ振った。
「知りません」
それだけだった。
嘘をついているようには、リオには見えなかった。
誰が置いたのか。
いつ置いたのか。
何のために。
答えは出ない。
マヤが布を覗き込んだまま言う。
「先生」
「何?」
「また怖い顔してます」
「そう?」
「眉間」
指を向けられ、リオは無意識に額へ触れた。
「これは元から」
「そんな設定ありません」
「設定?」
「……言い方を間違えました」
マヤが素早く視線を逸らした。
「疲れてるね」
「先生のせいです」
「どうして」
「帰りましょう」
これ以上追及される前に、マヤは扉へ向かった。
リオは祈祷布を畳み、診療録とは別の封袋へ入れる。
事件は終わった。
少なくとも、カルム=レイダから始まった腐花病については。
けれど。
この布は、終わった事件の一部には見えなかった。
◇
検疫所を出たところで、マヤが再び止まった。
霧雨はほとんど上がっていた。
濡れた石畳が港の灯を映し、細長い光を作っている。
「どうしたの」
返事がない。
マヤは足元を見ていた。
リオも視線を落とす。
石畳に、白い跡がある。
一つ。
その先へ、もう一つ。
雨で濡れた黒い石の上だから、余計にはっきり見えた。
足跡だった。
人間ではない。
犬とも違う。
鹿の蹄にも見えない。
大きい。
先日、慈療院の裏手で見つけたものとよく似ている。
白い足跡は、港を離れる方向へ続いていた。
倉庫街を抜け。
外縁の水路へ。
さらに、その向こう。
ルマリア河路へつながる密林の方角へ。
足跡の傍らに、小さな花が落ちている。
マヤがしゃがみ込んだ。
「触らないで」
「触ってません」
白い小花。
形だけなら、どこにでも咲いていそうなものだった。
だが、花弁の縁だけが黒い。
焦げたようでも、腐ったようでもない。
そこだけ命を噛み取られたように、黒く枯れている。
「先生」
「見えてる」
マヤが顔を上げる。
「追いますか?」
リオは足跡の先を見た。
夜の向こうに、南方の密林がある。
雨に濡れた樹冠。
暗い大河。
昼間なら鳥や獣の声で満ちているはずの緑が、今は巨大な一つの影に見えた。
あの白い獣が何なのか。
なぜ腐花を噛んだのか。
マヤの花を見て、なぜ彼女だけがあれほど強く反応したのか。
何一つ分からない。
リオは濡れた足跡を見下ろした。
「今夜は追わない」
「明日は?」
「朝になってから考える」
「じゃあ、朝ごはん食べてからですね」
「そこは譲らないんだ」
「大事なので」
マヤは立ち上がる。
数歩歩いてから、また振り返った。
白い足跡は、雨に洗われながらも消えていない。
密林へ向かっている。
「……先生」
「今度は何?」
「明日、早起きですか?」
「たぶん」
マヤが露骨に嫌そうな顔をした。
「追うのやめません?」
「さっきまで追う気だったよね」
「夜のうちに追えばよかったかもしれません」
「寝たいだけで方針を変えないで」
二人の声が、夜の港へ遠ざかっていった。
あとには、雨音だけが残る。
◇
誰もいなくなった検疫所。
灯火が一つ、消えかけている。
記録室の水盆に、小さな波紋が広がった。
雨粒は落ちていない。
窓も閉じている。
水面の奥に、白い獣面が浮かぶ。
黒いシルクハット。
生成りの白衣。
細い杖。
《白面の検疫医》は、そこに置かれた祈祷布を眺めていた。
「美しい言葉だ」
誰も聞いていない。
水面だけが、その声を受け取る。
「命が続くなら、救いは終わらない」
白面が、ほんの少し首を傾けた。
「……美しい言葉ほど、よく腐る」
杖の先が揺れる。
水面へ小さな輪が一つ広がった。
次の瞬間には、もう何も映っていなかった。




