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終節 ― 命が続くなら

 事件は、終わったことになった。


 ラウ=マリカの検疫所は、翌日、腐花の流通を禁じる布告を港中に貼り出した。


 死者の花を摘むこと。

 花粉を売買すること。

 腐花の香を薬として瓶詰めにすること。

 花葬場、検疫所、慈療院から許可なく植物片を持ち出すこと。


 そのすべてが禁じられた。


 布告の前で、商人たちは不満げに舌打ちした。薬材商の何人かは、すでに検疫官に取り調べられていた。カルム=レイダの移送中に落ちた花粉を集めようとした者。慈療院の患者の包帯を盗もうとした者。神殿の祈祷布に腐花の印を描き、護符として売ろうとした者。


 彼らは皆、口を揃えて言った。


 病人を救おうとしただけだ、と。


 リオ=サルヴァは、その言葉を聞いても怒らなかった。


 ただ、ひどく疲れた顔をした。


 救いという言葉は、あまりに使いやすい。


 金貨にもなる。

 祈祷文にもなる。

 罪の言い訳にもなる。

 そして、本当に誰かを助けようとする手の中にもある。


 だからこそ、扱いを間違えると、どんな刃より深く人を傷つける。


 腐花の種壺は、検疫所の地下保管室へ封じられた。


 花葬師サラ=モルナと、港神殿の老神官、そしてリオの三人が立ち会った。黒い陶器の壺には、新しい蜜蝋が厚く塗られ、白砂と黒土の封輪が二重に描かれた。封印布には、こう記された。


 ――死者の名を待て。

 ――生者の血を求めるな。

 ――咲く季節を誤るな。


 壺の内側で、時折、かすかな音がした。


 砂がこぼれるような。

 小さな種が、暗闇の中で眠り返りを打つような音だった。


 セラド=ミンは捕らえられた。


 港神殿の地下牢ではなく、検疫所の監視室に置かれることになった。罪を問われることは避けられない。古代の葬送具を無許可で使い、生者に聖油を投与し、結果としてカルムの死後開花と慈療院の患者たちの腐花症を招いた。


 それは、消えない。


 だが、リオは彼を完全な悪人だとは言わなかった。


 監視室へ連れていかれる前、セラドは慈療院の前で立ち止まった。


 患者たちは、痛みに呻いていた。

 眠れていたはずの者たちは、目を覚まし、また自分の病と向き合わされていた。


 ラナ=オルトは、戻った脚の痛みに顔をしかめながらも、息子に悪態をついていた。

 ユルド=マルカは、胸元に残った蕾の痕を撫でながら、網を直す約束を同僚にしていた。

 子どもたちは、薬湯の苦さに泣いていた。


 そこに奇跡のような安らぎはなかった。


 ただ、生きている者たちの苦しみがあった。


 セラドは、その声を聞いていた。


「私は……」


 彼は呟いた。


「私は、あの声を消したかったんです」


 リオは、隣に立っていた。


「分かっています」


「分かっているなら、どうして」


「消してはいけない声まで、消してしまったからです」


 セラドは俯いた。


 その肩は、以前よりずっと小さく見えた。


「私は、彼らに何をすればいいのでしょう」


「聞いてください」


 リオは言った。


「今度は、治す前に」


 セラドは顔を上げた。


 赦されたわけではない。

 裁かれないわけでもない。

 だが、逃げることも許されなかった。


 彼は静かに頷き、検疫官に連れられていった。


 その夜、ラウ=マリカには雨が降った。


 強い雨ではない。


 霧のような細い雨だった。港の石畳を湿らせ、船の帆を重くし、祈祷布に滲んだ文字をぼかしていく。朝には騒がしかった市場も、夜には店を閉じ、灯だけが淡く揺れていた。


 リオは検疫所の記録室にいた。


 机の上には、事件の記録紙が積まれている。


 カルム=レイダ。

 死後開花症例、第一例。

 胸部開花。腐花神ネクタ=ロア系葬送反応。

 葬送種混入聖油の使用歴あり。

 遺族立ち会いのもと花葬処置。

 花弁一輪を記憶花として遺族へ譲渡。


 ラナ=オルト。

 生者内開花未遂。

 胸部および脚部に赤根反応。

 葬送構文切離し。

 痛覚復帰。要経過観察。


 ユルド=マルカ。

 左腕外傷部より赤根進行。

 胸部蕾形成。

 処置後沈静。要経過観察。


 セラド=ミン。

 慈療院司祭。

 腐花の種壺および腐花の聖油を使用。

 動機は鎮痛、安眠、貧民救済。

 ただし、患者への説明および同意なし。


 リオは筆を置いた。


 説明と同意。


 記録紙に書けば、ひどく乾いた言葉になる。


 だがその裏には、眠れなかった患者たちの夜がある。

 薬を買えなかった母親の手がある。

 死んで花になるなら、子どもに薬を残せるのかと問うた声がある。

 父の花を取らないでと泣いたニナの顔がある。


 どれも、記録紙には収まらない。


 リオは椅子から立ち上がり、水盆の前へ歩いた。


 水は、夜の雨を受けて少し冷えている。

 彼は手を浸そうとして、ふと動きを止めた。


 水盆の横に、一枚の祈祷布が置かれていた。


 見覚えのない布だった。


 古い南方織り。

 縁に赤い糸が走り、中央に白い花と黒い根の印が描かれている。


 リオは布を手に取った。


 そこには、短い一文が記されていた。


 命が続くなら、救いは終わらない。


 リオの表情が曇った。


 それは、セラドの字ではなかった。


 彼の言葉でもない。


 セラドは痛みを止めようとした。眠らせようとした。死にゆく者へ、せめて一夜の安らぎを渡そうとした。


 だが、この言葉は違う。


 もっと奥が深い。

 もっと冷たい。

 もっと危険だ。


 命が続くなら。


 そこには、痛みが続いても、姿が変わっても、人格が薄れても、死ななければ救いだと言い切るような匂いがあった。


 サルバティアの生命観を、祈りではなく理屈として研ぎ澄ませたような言葉。


 リオは布を握りしめた。


 そのとき、水盆が揺れた。


 雨粒は落ちていない。

 窓も閉じている。


 それでも、水面に波紋が広がった。


 リオはゆっくりと視線を落とした。


 水の中に、白い獣面が映っていた。


 白衣。

 獣の仮面。

 シルクハット。

 黒い杖。


 エル=ネフリド。


 名前を教えられたわけではない。

 けれど、リオはもう、その影がただの幻ではないことを理解していた。


 水面の男は、相変わらず検疫医の姿をしていた。


 だが、彼の足元には水ではなく、どこか別の場所の霧が流れているように見えた。仮面の奥の目は、笑っているとも、悼んでいるともつかなかった。


「死を花へ返す者」


 声が、水の底から響く。


「死を止めようとする者」


 リオは黙っていた。


 水面の男は、杖の先で波紋を広げた。


「さて、君はどちらを治すのだろうね」


「あなたは知っているんですか」


 リオは問うた。


「この布を置いた者を」


 白面は答えない。


 リオはさらに問いかける。


「セラド司祭ではない。ネクタ=ロアの花葬師でもない。誰かが、この港で腐花を使わせた。痛みを消すだけではなく、命を続かせることを救いと呼ぶ誰かがいる」


 水面の男は、少しだけ首を傾げた。


「君はもう、次の患者を見ている」


「患者ですか」


「そうだよ」


 白い仮面の下で、笑みの気配がした。


「人も、神も、街も、思想も。壊れ方を診るなら、すべて患者だ」


 リオは水面を睨んだ。


「答えを教える気はないんですね」


「答えは、だいたい花よりつまらない」


「俺は謎解きをしたいわけではありません」


「では、治したい?」


 その問いに、リオはすぐ答えなかった。


 治す。


 それが何なのか、この事件で分からなくなった。


 カルムは戻らない。

 ニナの病は治らない。

 慈療院の患者たちの痛みも戻った。

 セラドの罪も消えていない。


 それでも、生きたまま花葬される者は止めた。


 それは、治療だったのか。


 ただ、終わりを少し先へ延ばしただけなのか。


 水面の男は、楽しげに言った。


「命が続くなら、救いは終わらない。美しい言葉だ。けれど、美しい言葉ほど、よく腐る」


 波紋が広がる。


 白面の輪郭が揺らぐ。


「急ぐといい、聖獣医師。サルバティアでは、種はいつも、見えないところで先に芽吹く」


 水面が、大きく揺れた。


 リオが瞬きをしたとき、そこにはもう彼自身の顔しか映っていなかった。


 疲れた顔。


 それでも、目だけは眠っていなかった。


 彼は祈祷布を畳み、記録紙の間に挟んだ。


 その一文は、事件の終わりではなく、始まりに近かった。


 同じころ、マヤ=ルクナは港の外れにいた。


 花葬場へ続く道の途中。

 昼間、カルムの葬送が行われた場所のさらに奥。

 潮が届かない、湿った黒土の小道。


 彼女は眠れなかった。


 胸元の徴は痛まない。

 けれど、静かすぎて落ち着かなかった。


 リオに黙って出てきたわけではない。検疫所の見習いに、少し風に当たると言ってある。けれど、ここまで歩くつもりはなかった。


 足が勝手に向いたのだ。


 雨はもう止んでいた。


 月は雲の向こうにあり、地面は湿っている。白い花葬花が、夜の中でぼんやりと浮かんで見えた。


 その小道の先で、マヤは足を止めた。


 蹄跡があった。


 大きな獣の蹄跡。


 鹿に似ている。

 けれど、鹿よりも深い。

 馬よりも細く、山羊よりも優雅で、何か巨大なものが音もなく歩いた痕。


 ひとつ。

 ふたつ。

 三つ。


 黒土の上に、白い蹄跡が続いている。


 マヤは息を止めた。


 昼間、慈療院で見た白い角。


 枝分かれした角。

 花と赤い実と黒く枯れた花を宿した、古い樹のような角。


 あれは、幻ではなかったのかもしれない。


 彼女は、そっと蹄跡へ近づいた。


 その足跡の中に、白い花が咲いていた。


 小さな花だった。

 カルムの胸に咲いた腐花とは違う。


 もっと静かで、もっと冷たく、もっと深い。

 花弁の縁には、墨を流したような黒が滲んでいる。


 マヤが見ている前で、その花はゆっくりと開いた。


 一瞬だけ、甘い匂いではなく、獣の吐息のような匂いがした。


 濡れた毛。

 古い森。

 血の気配。

 そして、罪を噛み砕いたあとの沈黙。


 マヤは胸元を押さえた。


「……あなたなの?」


 答えはない。


 ただ、蹄跡の花が夜風に揺れた。


 次の瞬間、花弁の縁から黒く枯れ始めた。


 白かった花は、夜明けを待たずに色を失っていく。黒い染みが中心へ広がり、細い茎が折れ、花は土の上へ崩れた。


 それでも、醜くはなかった。


 咲いて、すぐに枯れた。


 まるで、何かを背負い、土へ返したようだった。


 マヤは、その場に立ち尽くした。


 自分の花は、誰の記憶なのか。

 誰の罪なのか。

 誰の祈りなのか。


 まだ分からない。


 けれど、今日見た花とは違う花が、この大陸にはまだある。


 死者を薬にする花。

 痛みを眠らせる花。

 記憶として残る花。

 罪を食み、黒く枯れていく花。


 そして、そのどこかに、白い聖獣がいる。


 姿を見せず、ただ蹄跡だけを残して。


 港の方で、夜の鐘が鳴った。


 リオは検疫所で祈祷布を握りしめている。

 セラドは監視室で眠れずにいる。

 ニナは父の花を枕元に置き、熱の中で母の手を握っている。

 慈療院の患者たちは、戻った痛みに呻きながらも、生きた身体で朝を待っている。


 そしてラウ=マリカの夜は、まだ終わらない。


 サルバティアの夜は、死者を眠らせなかった。

 ただ、別の命として、静かに芽吹かせていた。

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