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第八節 ― 花を売る者、花になりたい者

 港神殿の鐘は、止まらなかった。


 一度目は制止の鐘だった。

 二度目は警告の鐘だった。

 三度目からは、もう誰のために鳴っているのか分からなかった。


 ラウ=マリカの人々は、鐘の音に慣れている。


 火事。

 疫病。

 海賊船。

 市場の暴動。

 嵐で崩れた桟橋。

 検疫所から逃げ出した病人。


 港に生きる者は、鐘の音だけで何が起きたかを聞き分ける。


 けれど、その日の鐘は違った。


 恐怖だけではない。

 怒りだけでもない。

 祈りとも、欲とも、希望ともつかないものが、鐘の音に絡みついていた。


 リオ=サルヴァが港神殿の表側へ戻ったとき、すでに広場は人で埋まりかけていた。


 商人たちが前に出ている。


 薬材商。香油商。聖遺物を扱う骨董商。南方密林の薬草を売る者。小瓶を吊るした密売人まがいの男たち。


 彼らは声を荒げてはいない。

 だが、誰よりも鋭く動いていた。


「遺族へ見舞金を出す用意がある」


「花本体でなくていい。落ちた花粉だけでも買い取る」


「神殿が保管するなら、薬効試験の権利をこちらに」


「死者の花を腐らせるつもりか? 薬になるなら、港の財産だろう」


 港の財産。


 その言葉を聞いた瞬間、リオの足が止まりかけた。


 人ひとりの死が、たった半日で港の財産に変わっている。


 カルム=レイダという名は、彼らの口から消え始めていた。代わりに語られるのは、腐花、薬効、聖遺物、価格、保管権、流通路。


 神殿側も、一枚岩ではなかった。


 年老いた神官たちは、死者を返せ、花葬師に委ねろと訴えている。

 若い神官たちは、あの花はネクタ=ロアの祝福であり、祭壇に祀るべきだと主張している。


「死者に顕れた神意を、検疫所の石台に寝かせておくのか」


「神意と決めるのが早すぎる」


「では、何を待つ。病人が死ぬのを待つのか」


「花葬は死者のためのものだ。生者の欲を満たすためではない」


「痛む生者を救うことが、なぜ欲なのだ」


 神官たちの言い争いは、祈祷文よりも人々の耳に届いた。


 その隙間に、商人たちが入り込む。


 祈りと売買は、ラウ=マリカでは近い場所にある。

 神殿の門前には、護符も薬草も売られている。

 祈祷布には値がつき、聖油には銘柄があり、巡礼の涙を瓶詰めにして売る者さえいる。


 だから、死者の花が商品になろうとするのは、港にとって異常ではなかった。


 異常なのは、その花がまだ人の胸に咲いていることだった。


「リオ先生!」


 検疫官が人波の向こうから叫んだ。


 その声は、神殿広場ではなく南路地の方角からだった。


 リオが振り返ると、貧民街へ続く道に別の群れができていた。


 人々は慈療院へ向かっている。


 病人。

 病人の家族。

 杖をついた老人。

 子を背負った母親。

 包帯を巻いた労働者。

 咳をする少年。

 熱に浮かされた夫を両側から抱える妻と兄弟。


 彼らは商人ではない。

 花を売ろうとしているのでもない。

 神殿へ祀れと叫んでいるのでもない。


 もっと切実だった。


「聖油を使ってくれ!」


「セラド司祭に会わせろ!」


「うちの子にも、あの眠れる薬を!」


「痛みが消えるんだろう?」


「花になれば、苦しくないんだろう?」


 リオは走った。


 慈療院の前では、扉を押し破りそうなほどの人々が集まっていた。


 中にいる患者たちは、まだ眠っている。

 だが、外にいる者たちは眠れない者たちだった。


 夜を越せない痛みを抱えた者。

 薬代を払えない者。

 働けなくなれば家族ごと飢える者。

 病に名前をつけられる前に、貧しさで死んでいく者。


 彼らは、目に見えない花へ手を伸ばしていた。


「下がってください!」


 リオは声を上げた。


「慈療院の中に入らないでください。今、中の患者たちは――」


「治ってるんでしょう!」


 誰かが叫んだ。


「痛みが消えたって聞いた!」


「治ってはいません」


 リオは言った。


 だが、その言葉は人々の上を滑った。


 治っていない。


 そんな言葉は、痛みに慣れた者には弱すぎた。


「治らなくてもいい!」


 足を引きずる男が言った。


「一晩だけでも痛くなければいい!」


「明日働けるなら、それでいいんだ!」


「子どもが眠れるなら、病が残っててもいい!」


 リオは、そこで言葉を詰まらせた。


 彼らは間違っている。


 聖油は治療ではない。

 葬送種が混じっている。

 生きている身体の中で、死後開花が始まる。


 そう説明すればいい。


 けれど、彼らはそれでも欲しがるかもしれない。


 痛みのない一夜を。


 働ける明日を。


 子どもが泣かずに眠る時間を。


 その代価が、少し早く咲く身体であっても。


 慈療院の扉が内側から開いた。


 セラド=ミンが姿を見せた。


 彼の顔には疲労があった。だが、人々は彼を見ると、一斉に声を上げた。


「司祭様!」


「お願いします!」


「聖油を!」


「うちの子を診てください!」


 セラドは両手を上げ、静かに言った。


「落ち着いてください。ひとりずつ診ます。押さないでください」


 その声を聞いて、人々の一部は安心したように涙ぐんだ。


 リオは、セラドの横に立った。


「聖油を使ってはいけません」


 セラドは、こちらを見た。


「今ここにいる者たちを、見捨てろと?」


「そうは言っていません」


「では、どうするのです」


 その問いは責めているようでいて、どこか祈っているようでもあった。


 リオは答えようとした。


 だが、その前に、人波の中から女が進み出た。


 まだ若い母親だった。

 痩せた腕で、幼い子どもを抱いている。


 子どもは目を閉じていた。呼吸は浅く、顔色は悪い。母親の肩に乗った小さな手は、力なく垂れている。


 母親はリオを見た。


 その目は、泣き腫らしているのに乾いていた。


「先生」


 彼女は言った。


「この子、もう何日もまともに食べてないんです。熱も下がらない。薬師には、次の薬を買えなければ難しいって言われました」


 リオは、子どもへ手を伸ばした。


 母親は少しだけ身を引いた。

 守ろうとする本能と、救ってほしい願いが同時に動いたのだろう。


 リオは手を止めた。


「診せてください。聖油ではなく、できる治療を――」


「できる治療って、いくらですか」


 その問いに、リオは息を呑んだ。


 母親は続けた。


「薬草はいくらですか。寝台はいくらですか。神殿へ祈る布はいくらですか。先生ができる治療を、わたしは買えますか」


「買わせるために来たわけではありません」


「でも、薬はただじゃない」


 母親の声は震えていなかった。


 震える力も、もう残っていないのかもしれない。


「この子が死んだら、何も残りません。わたしが死んでも、何も残せません。働けなくなったら、ただ迷惑になるだけです。でも……」


 彼女は慈療院の奥を見た。


 甘い香りが、戸口から漏れている。


「死んで花になるなら、子どもに薬を残せるんでしょう?」


 リオは言葉を失った。


 周囲も静まり返った。


 それは、狂った言葉ではなかった。


 だからこそ、恐ろしかった。


 母親は、本気でそう言っていた。


 自分の死が花になり、薬になり、子どもを救うなら。

 自分の身体が誰かの役に立つなら。

 痛みの果てに、意味が残るなら。


 それを救いと呼んでしまいそうになっている。


 この大陸では、死は完全な絶望ではない。


 死者は海へ還る。

 土へ還る。

 花へ変わる。

 獣の血へ巡る。

 樹の根へ抱かれる。


 だからこそ、死が甘い顔をする。


 苦しみ続ける生より、誰かの薬になる死の方が、まだ優しく見えるときがある。


 サルバティアの残酷さは、死後にも命が残ることだった。


 残るからこそ、人は自分の死に用途を探してしまう。


「だめです」


 リオはようやく言った。


 声は掠れていた。


「あなたの身体は、薬材ではありません」


「でも」


「あなたの死は、子どものための商品ではありません」


「でも、わたしが何も残せなかったら――」


「残せます」


 リオは言った。


 言いながら、自分の言葉の軽さに胸が痛んだ。


 目の前の母親に必要なのは、慰めではない。

 薬だ。

 寝台だ。

 食べ物だ。

 明日まで子どもを生かす手段だ。


 それでも、言わなければならなかった。


「花にならなくても、あなたは残せます。今ここで死ぬ理由を探さないでください」


 母親の目に、初めて涙が浮かんだ。


 それは納得の涙ではなかった。


 行き場を失った涙だった。


 セラドが、その母親へ歩み寄ろうとした。


 リオは腕を伸ばして止める。


「聖油は使わせません」


「なら、どうするのです」


 セラドの声が低くなった。


「彼女に、今すぐ何を差し出せますか」


 リオは答えられなかった。


 慈療院の前にいるすべての人々が、彼を見ていた。


 彼らは敵ではない。

 愚かでもない。

 欲深いわけでもない。


 ただ、苦しんでいる。


 そして、腐花はその苦しみに、あまりにも都合のよい言葉を与えてしまった。


 死んでも誰かを救える。

 花になれば痛みが消える。

 役に立たない命などない。


 その言葉は、救いのように聞こえる。


 けれど、そこには恐ろしい裏返しがある。


 生きているだけでは役に立たないのか。

 痛む命には価値がないのか。

 誰かの薬にならなければ、死ぬことすら許されないのか。


 リオは、拳を握りしめた。


 そのとき、彼の背後で、マヤが小さく息を乱した。


 彼女は、群衆を見ていた。


 聖油を求める病人たち。

 花になれば子どもを救えると信じかけた母親。

 救済の名を口にする神官。

 価値を計算する商人。

 穏やかな顔で痛みを消そうとするセラド。


 そのすべてが、マヤの中で別の記憶を呼び起こしていた。


 村の祭壇。

 湿った花の匂い。

 自分の手首を結んだ祈祷紐。

 泣いていたはずなのに、誰もその涙を見なかった夜。


 神へ捧げられた少女。


 死ぬはずだった。

 けれど、死ななかった。


 花と獣の徴を宿して戻ってきた。


 村人は奇跡だと言った。

 神官は聖女だと言った。

 病人たちは、マヤに触れれば治るかもしれないと手を伸ばした。

 商人は、神に返された娘には価値があると言った。


 誰も、最初に聞かなかった。


 怖かったか、と。


 死にたくなかったか、と。


 戻ってきてよかったのか、と。


 マヤの胸元が熱を持つ。


 布の下の花の徴が、疼く。

 それはカルムの花に似ている。

 けれど同じではない。


 自分も、あの花と同じなのではないか。


 誰かの救いとして見られた瞬間、自分は人ではなくなるのではないか。


 マヤは、ゆっくりとリオの袖を掴んだ。


 リオが振り向く。


「マヤ?」


 彼女は、群衆から目を離さなかった。


 声は小さかった。

 けれど、騒ぎの中でリオにははっきり届いた。


「あの人たちは、花になりたいんじゃない」


 リオは黙った。


 マヤは続けた。


「誰かに、無駄じゃなかったって言ってほしいだけだよ」


 その言葉は、リオの胸に深く落ちた。


 群衆の声はまだ続いている。


 聖油を。

 花を。

 痛みを消してくれ。

 死んでもいいから、意味をくれ。


 リオは、マヤの手をそっと握り返した。


 その小さな手は震えていた。


 彼女もまた、無駄ではなかったと言われるために、奇跡の形を押しつけられた少女だった。


 リオは群衆へ向き直った。


 答えはまだない。


 今すぐ全員を救う薬もない。

 腐花の聖油を使わずに痛みを止める方法も足りない。

 商人の欲を止め、神官の熱を鎮め、貧民たちの絶望を癒す言葉もない。


 それでも、ひとつだけ決めた。


 この港で、誰かが自分を花床にすることを、救いだと思い込む前に止めなければならない。


 リオはセラドを見た。


「聖油を渡してください」


 セラドは黙った。


「今すぐ、すべて」


「渡せば、彼らは今夜また痛みに泣きます」


「渡さなければ、明日には生きたまま咲く者が出る」


 セラドの顔が、かすかに歪んだ。


 そのとき、慈療院の奥から悲鳴が上がった。


 眠っていた患者のひとりが、寝台の上で身を反らせていた。


 胸元の布が膨らんでいる。


 甘い匂いが、一気に濃くなった。


 人々が息を呑む。


 リオは駆け出した。


 マヤも、その後を追う。


 慈療院の中で、眠っていたはずの患者の胸元に、白い花の蕾がひとつ、内側から浮かび上がり始めていた。

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