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第七節 ― 腐花神ネクタ=ロア

 慈療院を出たとき、ラウ=マリカの朝はすでに白く濁っていた。


 市場の声は遠い。

 港の鐘も、船乗りたちの怒鳴り声も、いつもなら腹の底まで響くはずなのに、その日はすべて薄い布の向こうから聞こえるようだった。


 甘い匂いが、まだ鼻の奥に残っている。


 薬草ではない。

 蜜でもない。

 腐敗でもない。


 それらすべての境目を、湿った指で撫でて曖昧にしたような匂い。


 リオ=サルヴァは、慈療院で採取した小瓶を鞄の奥へしまった。


 瓶の中には、セラド=ミンが患者たちに使っていた聖油が入っている。表向きは鎮痛と安眠のための香油。だが、そこには明らかに葬送系の神格反応があった。


 カルム=レイダ。

 死後に花を咲かせた港湾労働者。


 慈療院の患者たち。

 生きたまま花の痣と赤い根を宿し始めた者たち。


 同じものが、二つの場所にある。


 死者の胸。

 生者の傷。


 リオは左腕の包帯を押さえた。


 包帯の下で、聖獣の徴が微かに疼く。


 マヤは、少し後ろを歩いていた。


 彼女は慈療院に入らなかった。リオが止めたのだ。だが、入口の外にいても、あの甘い匂いは届いたらしい。マヤはずっと、胸元の布を握りしめている。


「リオ」


 彼女が小さく呼んだ。


「なに?」


「あそこにいた人たち、みんな眠ってた」


「そうだね」


「苦しそうじゃなかった」


「そう見えた」


 マヤは、しばらく黙った。


 石畳の隙間に溜まった潮水を避けながら、彼女は続けた。


「でも、怖かった」


 リオは振り返らなかった。


「痛くないのに?」


「うん」


 マヤは頷いた。


「痛くない顔って、あんなふうになるの?」


 その問いに、リオは答えられなかった。


 痛みを消すことは、医師の仕事だ。


 けれど、痛みだけでなく、生きている者の訴えまでも静めてしまう眠りがある。身体が危険を告げる声を奪い、病が奥で静かに根を張るための沈黙がある。


 あの慈療院の穏やかさは、安らぎではない。


 葬送の予行だった。


「確かめたいことがある」


 リオは言った。


「検疫所に戻るの?」


「その前に、花葬師に会う」


「花葬師……?」


「ネクタ=ロアの古い作法を知っている人だ」


 マヤの手が、胸元で強く握られた。


 ネクタ=ロア。


 その名を聞くたびに、彼女の中の花が目を覚まそうとする。


 死者に花を咲かせる神。

 腐敗を香に変える神。

 終わりを次の命へ渡す神。


 だが、マヤは死者ではない。


 それなのに、彼女の身体には花がある。


 その事実を、リオもマヤも言葉にしなかった。


 花葬師は、港神殿の裏手にある古い墓庭にいた。


 ラウ=マリカは海の街だが、死者をすべて海へ流すわけではない。船乗りは潮へ返す。商人は家墓へ納める。神官は神殿墓へ。名も家もない者は、南路地の共同墓地へ。


 そして、ネクタ=ロアの花葬を望む者は、神殿の裏にある湿った庭へ運ばれる。


 そこは、墓地というより小さな密林だった。


 黒い土。

 濡れた石。

 人の背丈ほどもある白い花。

 蔓に覆われた骨壺。

 苔むした祭壇。

 根の間に埋め込まれた名札。


 風はあまり入らない。

 だが、悪い匂いはしなかった。


 あるのは、湿った土と、枯れかけた花と、古い香の匂い。


 庭の奥で、ひとりの老女が花の根元に水を注いでいた。


 痩せた背中。

 灰色の髪。

 黒紫の喪布を肩からかけ、腰には骨で作った小さな匙と、種を入れる革袋を吊っている。


 彼女は振り返らずに言った。


「検疫所の若い医師だね」


「リオ=サルヴァです」


「知っているよ。花の咲いた男を見たんだろう」


 老女は水差しを置き、ゆっくりとこちらを向いた。


「わたしはサラ=モルナ。花葬師だ。今では、ただの墓守と呼ばれることの方が多いけれどね」


 リオは軽く頭を下げた。


「ネクタ=ロアの花葬について伺いたい」


「港の神官ではなく、わたしに?」


「神官は神の名を語ります。あなたは死者の身体を知っている」


 サラは、皺だらけの顔に少しだけ笑みを浮かべた。


「口のうまい医師だ」


「本心です」


「なら、聞くといい」


 サラは近くの石に腰を下ろした。


 その隣には、小さな白い花が咲いていた。カルムの胸に咲いた花よりも小さく、香りも薄い。花弁の縁は少し茶色く枯れ始めている。


「ネクタ=ロアは、死を奪う神じゃない」


 サラは言った。


「死を飾る神でもない。死が、死のまま腐り、ほどけ、次の命へ渡っていくのを見届ける神だ」


 マヤは、リオの後ろで静かに聞いていた。


「人の肉は土へ。血は根へ。骨は種床へ。呼吸は香へ。記憶は花粉へ。そうやって、死者は少しずつ世界へ返る」


 老女の声は、祈りのようでもあり、仕事の説明のようでもあった。


「花葬とは、死者を花にする儀式ですか」


 リオが問う。


「違う」


 サラはすぐに首を振った。


「死者を花にするんじゃない。死者が世界へ返る道に、花を咲かせるんだ。花は道しるべだよ。死者そのものではない」


「では、花は摘まない」


「摘まない」


 サラの声は、そこで強くなった。


「花葬では、死体に種を置く。胸、喉、腹、あるいは手のひら。死者が何を抱いて死んだかで場所は変わる。種が芽吹くまで、遺族は見守る。花が咲いても、触れない。摘まない。香を瓶に閉じ込めたりもしない」


「なぜです」


「まだ帰り道の途中だからだ」


 サラは、足元の花を見た。


「咲いた花は、死者がほどけている証だ。咲いているあいだ、死者はまだ境目にいる。花が枯れたとき、ようやく次の命へ返ったと見る。だから、枯れるまで祈る。枯れた花弁は土へ戻す。骨は必要なら残す。けれど花は売らない。薬にしない。飾らない」


 リオは、カルムの胸に咲いた白い花を思い出した。


 まだ開いている花。

 それを薬にしようとした商人。

 聖遺物として祀ろうとした神官。

 父の花を取らないでと泣いたニナ。


「ラウ=マリカで起きているのは、花葬ではありませんね」


 リオが言うと、サラは目を伏せた。


「花葬なら、あんなふうには咲かない」


「見たのですか」


「ああ。検疫所の見習いが、わたしを呼びに来た。遠目に見ただけで十分だった」


 サラは、乾いた指で自分の胸元を叩いた。


「あれは早すぎる。死者の身体がまだ死に落ちる前に、花だけが急いでいる。飢えた花だ」


「飢えた花」


「死者の帰る道を待てず、命の残り香を吸い上げて咲く花。昔の花葬師は、そう呼んだ」


 リオの表情が硬くなる。


「生者に同じ反応が出ています」


 サラの目が、鋭く細まった。


「……生者に?」


「南路の慈療院です。患者たちの熱は下がり、痛みは消えている。ですが、汗から甘い香がし、花弁状の痣と赤い根のような線が出ている」


 老女は、しばらく何も言わなかった。


 庭の奥で、葉が一枚、静かに落ちた。


「誰が使った」


「セラド=ミン司祭です。本人は薬湯だと言っています」


「若い司祭か。貧しい者をよく診ている子だね」


「知っているのですか」


「もちろん。南路で死にかけた者を、何度も神殿まで背負ってきた。悪い子ではない」


 サラは、そこで苦い顔をした。


「悪くない者ほど、神の道具を間違って使う」


 リオは鞄から小瓶を取り出した。


「慈療院で使われていた聖油です。見てもらえますか」


 サラは小瓶を受け取った。


 栓を開けると、すぐに甘い匂いが漂う。


 花蜜。

 樹液。

 そして、ほんの微かな土の匂い。


 サラは眉を動かした。


 それから、腰の革袋から骨匙を取り出し、聖油を一滴だけ黒い石の上へ落とした。


 油は、石の表面で丸く広がった。

 次の瞬間、その中心から小さな白い点が浮いた。


 種だった。


 あまりにも小さい。

 砂粒よりも細かい。

 けれど、確かに種の形をしている。


 それは油の中で膨らみ、細い赤い根を出しかけて、すぐに萎んだ。


 マヤが小さく息を呑む。


 サラは低く言った。


「葬送種だ」


 リオは石の上を見つめた。


「古代の?」


「今の花葬師は、こんなものは使わない。これは古い。湿地の奥か、沈んだ花葬祠から出たものだろう」


「沈没品として流れてきた可能性があります」


「あり得るね。ラウ=マリカは、死者の物まで商う港だ」


 サラは小瓶をリオへ返した。


「この聖油には、葬送種が混じっている。本来なら、死者の身体に置くものだ。死をほどき、腐敗を香に変え、肉を土へ返すための種。生者に入れるものじゃない」


「入れたら、どうなります」


 サラは、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えに近かった。


「身体は勘違いする」


 やがて老女は言った。


「まだ生きているのに、帰り道を始めてしまう。病巣や傷口を、死者の腐敗と見なして、そこへ根を伸ばす。痛みは消えるかもしれない。熱も下がるかもしれない。だが、それは治ったからじゃない」


「葬送が始まったから」


「ああ」


 リオの中で、慈療院の光景がつながった。


 穏やかに眠る患者たち。

 下がった熱。

 消えた痛み。

 甘い汗。

 花の痣。

 傷口の赤根。


 生者の中で始まる葬送。


 それは治療の顔をしている。


 だから恐ろしい。


 サラは、足元の白い花を摘まなかった。ただ、花の根元の土を指で整えた。


「ネクタ=ロアは悪い神ではないよ」


 彼女は静かに言った。


「命が強すぎるこの大陸には、死を正しく終わらせる神が必要だ。死が終わらなければ、命は腐る。病になる。飢えた花になる」


 リオは黙って聞いていた。


「でもね、医師。死者を奪ってはいけない。生者を早く咲かせてもいけない。死者には、死者の帰る道がある。生者には、生者の痛む時間がある」


 マヤが、胸元を押さえた。


 その言葉は、彼女にも刺さったのだろう。


 死者には、死者の帰る道がある。

 では、死ななかった供物には、どんな道があるのか。


 リオは、マヤの方を一瞬だけ見た。


 彼女は俯いていた。


 サラは続けた。


「早く咲かせようとする者は、葬送をしているんじゃない。飢えた花を育てているだけだ」


「セラド司祭は、人を救おうとしていた」


「そうだろうね」


「痛みを止めようとしていた」


「それも本当だろう」


「なら、どう裁けばいい」


 リオの声は、自分で思うより低かった。


 サラは、彼を見上げた。


「裁くのは、花葬師の仕事じゃない」


「では、何をするのです」


「帰る道を戻す」


 老女は答えた。


「死者は死者の道へ。生者は生者の道へ。混ざった根をほどき、早すぎる花を眠らせる。それができるなら、あんたがやるんだろう。聖獣医師」


 リオは小瓶を握りしめた。


 聖油の中に混じる葬送種。


 これが、手がかりだった。


 カルムは慈療院でこれを受けた。

 患者たちも受けている。

 死者の胸に咲いた花も、生者の身体に浮かぶ花痣も、同じ葬送種から始まっている。


 だが、まだ分からないことがある。


 この古代の葬送種を、セラドはどこから手に入れたのか。

 なぜ、薬として使える形に調合されていたのか。

 誰が、彼にそれを渡したのか。


 リオは、石の上で萎んだ小さな種を見つめた。


 その形は、死者を送るためのものには見えなかった。


 むしろ、何かを待っているようだった。


 生きた身体の中で、咲く機会を。


「サラさん」


 リオは言った。


「この葬送種を封じる方法はありますか」


「ある」


 サラは答えた。


「ただし、すでに根を張ったものは、引き抜けばいいというものじゃない。無理に取れば、根が絡んだ命ごと破れる」


「では」


「花に、自分の季節を思い出させる」


 リオは眉を寄せた。


「季節?」


「葬送の花は、死者のために咲く。生者の中で咲いてはいけない。それを思い出させるには、死者の名と、生者の名を分けて呼ぶ必要がある」


 サラは、黒い土をすくい上げた。


「今、あの花は間違えている。病を死だと思い、傷を腐敗だと思い、生きている者を花床だと思っている。だから、教えてやるんだ。これはまだ帰る身体ではない、と」


 リオは頷いた。


 医学だけでは足りない。

 神官の祈りだけでも足りない。

 花葬師の作法だけでも足りない。


 診る必要がある。


 誰が死者で、誰が生者なのか。

 何が病で、何が葬送なのか。

 どこまでが痛みで、どこからが帰り道なのか。


 リオは小瓶を鞄に戻した。


「慈療院へ戻ります」


「早い方がいい」


 サラは、庭の奥へ目を向けた。


「噂が根を張る前にね」


 その言葉に、リオは昨夜の白面の検疫医を思い出した。


 ――噂は、症状より早く根を張る。


 同じ言葉。


 偶然か。

 それとも、あの白面はこの街の根に触れているのか。


 考えている時間はなかった。


 そのとき、神殿の表側から鐘が鳴った。


 一度。

 二度。

 三度。


 検疫の鐘ではない。


 人が集まったときに鳴らす、制止の鐘だった。


 リオとマヤが顔を上げる。


 花葬師サラは、深く息を吐いた。


「遅かったかもしれないね」


 墓庭の外から、人々の声が聞こえてきた。


 祈りではない。

 叫びだった。


 ――花を隠すな。

 ――病人を救え。

 ――腐花の恵みを分けろ。

 ――死者の花を、神殿へ。


 リオは走り出した。


 鞄の中で、聖油の小瓶が小さく鳴った。


 その音は、種が瓶の内側で目を覚まそうとしている音にも聞こえた。

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