第六節 ― 慈療院の甘い匂い
夜明け前のラウ=マリカは、昼よりも正直だった。
市場の天幕はまだ半分しか上がっておらず、香辛料商人たちの威勢のいい声もない。魚油の樽は閉じられ、真珠商の飾り布もまだ畳まれている。
だが、匂いだけは消えなかった。
潮。
濡れた縄。
魚の血。
香辛料の残り香。
煤けた灯油。
祈祷布に染みついた古い香。
そして、そのすべての下に、昨日からずっと港を覆っている甘い匂い。
花蜜に似た、腐敗を忘れた死の香り。
リオ=サルヴァは、検疫所の裏口から外へ出た。
鞄は肩にかけている。左腕の包帯は、昨夜より少しきつく巻き直していた。水盆に現れた白面の検疫医のことは、まだ誰にも話していない。
話せば、説明しなければならない。
説明すれば、あの問いにも触れなければならない。
治すとは、元に戻すことか。
それとも、生き延びさせることか。
リオは、その問いを胸の奥へ押し込んだ。
今必要なのは、答えではない。
手がかりだ。
カルム=レイダの妻ミラから聞き取った話によれば、カルムは死ぬ数日前から、港の南路地にある慈療院へ通っていた。
荷揚げ仕事で痛めた胸。
慢性的な疲労。
それから、娘ニナの薬代を稼ぐために無理を続けていた身体。
彼はそこへ行き、施療を受けた。
その後、周囲が驚くほど元気になったという。
そして死んだ。
死んで、花を咲かせた。
リオは、港の南へ向かった。
潮倉庫や市場のある区域から離れると、街の顔は変わる。
石畳は割れ、土と泥が混じる。排水溝には濁った水が溜まり、家々の壁には古い祈祷布や壊れた貝殻飾りが吊られている。海風は届くが、そこに混じるのは新鮮な潮の匂いではなく、湿った布、薬草の煮汁、古い傷、長く干されなかった寝具の匂いだった。
南路地。
ラウ=マリカの貧民街。
そこでは、まだ朝になりきらないうちから、人が起きていた。眠れなかった者たち、と言う方が正しいかもしれない。壁にもたれて咳をする老人。井戸端で汚れた布を洗う女。赤ん坊を抱いたまま目を閉じている母親。熱に浮かされた子の額へ濡れ布を当てる少年。
彼らはリオを見ると、すぐに道を開けた。
聖獣医師の外衣を見たからではない。
昨夜、検疫所にいた医師だと分かったからだ。
ある者は期待の目を向けた。
ある者は疑いの目を向けた。
ある者は、ただ疲れた目で見送った。
彼らの多くは、もう噂を知っている。
死体から咲いた花。
痛みを消す香。
熱を下げる腐花。
リオは、彼らの視線の中を歩いた。
慈療院は、南路地の奥にあった。
元は潮商人の倉庫だった建物を、簡易の施療所に改装したものらしい。壁は白く塗られているが、潮に削られ、ところどころ下地の木が見えている。入口には粗末な看板が掛かっていた。
――ラウ=マリカ南路慈療院。
――痛みある者、捨てられた者、金なき者を拒まず。
その下に、小さな花の印が描かれていた。
白い花だった。
リオは看板を見上げ、足を止めた。
その花は、カルムの胸に咲いたものとよく似ていた。
まだ偶然と言える。
だが、偶然にしては、少し甘すぎる。
扉を開けると、すぐに匂いが来た。
薬草。
煮沸した布。
傷薬。
人の汗。
そして、甘い花蜜の香り。
リオは眉を寄せた。
外よりも、ずっと濃い。
慈療院の中には、二十人ほどの患者がいた。
藁を詰めた寝台が左右に並べられ、薄い布がかけられている。灯火は少なく、窓には虫除けの網が張られ、空気は湿っていた。
だが、奇妙なのは静けさだった。
貧民向けの施療院なら、痛みに呻く声、咳、子どもの泣き声、看護人の足音が絶えないはずだった。
ここには、それが少ない。
患者たちは眠っていた。
妙に穏やかな顔で。
顔色は悪く、身体も痩せている。包帯から血が滲んでいる者もいる。熱があったはずの者、肺を病んでいたはずの者、脚に膿を持つ者、火傷痕を抱えた者。
だが、誰も苦しげに身をよじっていない。
皆、静かに眠っている。
その穏やかさが、リオには恐ろしく見えた。
入口近くの寝台に、老人が眠っていた。額には汗が浮かんでいる。けれど、熱に苦しむ者の汗ではない。薄く甘い匂いを含んだ汗だった。
リオは老人の手首を取った。
脈は遅い。
体温は低すぎるほど落ち着いている。
呼吸は穏やか。
だが、胸の奥には濁った音がある。
肺の病が消えたわけではない。
ただ、身体が苦しむ反応をやめている。
リオは老人の襟元を少しずらした。
鎖骨の下に、花弁のような淡い痣があった。
白に近い薄桃色。
皮膚の表面ではなく、内側から浮き出るような形。
リオは、次の寝台へ移った。
若い漁師。左腕に深い切り傷がある。傷口は塞がりかけていたが、その周囲に細い赤い線が走っていた。血管ではない。傷口の中心から放射状に伸びる、根のような模様だった。
次は、咳病の女。
熱は下がっている。
だが、首筋に小さな花弁状の斑点。
次は、腹を押さえて眠る少年。
痛みは消えているらしい。
しかし、手の甲に淡い赤根の筋。
リオは言葉を失わずに診続けた。
診る。
記録する。
比べる。
否定したいものほど、まず事実として見る。
それが医師の手順だった。
共通点は明らかだった。
熱が下がっている。
痛みが消えている。
眠れている。
汗から甘い花蜜の香りがする。
皮膚に花弁状の痣がある。
傷口や病巣の周囲に、細い根のような赤い線が出ている。
リオは、最後の患者の胸元から手を離した。
背筋に冷たいものが走る。
これは治癒ではない。
症状は穏やかになっている。
痛みも消えている。
熱も下がっている。
けれど、病そのものは消えていない。
むしろ、別のものが身体の中に入り込み、病や傷の周囲へ根を張っている。
死後に起こるはずの開花。
それが、生きている身体の中で始まっている。
「……葬送が、生者の中で芽吹いている」
リオは低く呟いた。
その声に、寝台のひとつで眠っていた女が、薄く目を開けた。
彼女はリオを見た。
焦点は合っていない。
だが、微笑んでいた。
「先生……」
「痛みますか」
「いいえ」
女は、穏やかな声で答えた。
「昨日まで、夜になると脚が焼けるように痛くて……でも、ここへ来てから、痛くないんです。久しぶりに、眠れました」
リオは言葉を飲み込んだ。
「治っているわけではありません」
そう言うことはできた。
言うべきだったのかもしれない。
だが、女の顔は安らかだった。
三日も眠っていない者が、ようやく眠りに落ちる直前の顔。
彼女は目を閉じながら、ぽつりと言った。
「治らなくても、今夜だけ痛くないなら……それで、いいです」
リオの指先が止まった。
そのとき、奥の扉が開いた。
白い粗布の祭衣をまとった若い男が現れた。
歳は二十代半ばほど。線の細い顔立ちで、目元には疲労がある。だが、表情は穏やかだった。手には薬湯の入った器を持ち、袖口にはいくつもの染みがある。
彼を見ると、寝台の患者たちの何人かが安心したように目を細めた。
「セラド司祭……」
誰かが小さく呼んだ。
若い司祭は、その声に柔らかく頷いた。
「起きなくていい。まだ眠っていなさい」
それから、リオへ向き直る。
「あなたがリオ=サルヴァ先生ですね」
「そうです」
「検疫所から来られると思っていました」
「では、理由も分かっているはずです」
リオの声は硬かった。
セラド=ミンは、静かに器を台へ置いた。
「カルムさんのことですね」
「彼はここへ通っていた」
「はい。胸の痛みと、疲労がひどかった。娘さんのために、ずいぶん無理をされていました」
「あなたは彼に何を使ったんですか」
問いは、まっすぐだった。
慈療院の空気がわずかに緊張する。
セラドはすぐには答えなかった。
けれど、動揺した様子もない。
「薬湯です。痛みを和らげ、眠りを助けるものです」
「材料は」
「山蜜草、白根粉、眠蓮の種、少量の香油」
「それだけでは、この反応は出ない」
リオは、近くの患者の腕を軽く示した。
赤い根のような線。
花弁状の痣。
甘い汗。
「これは通常の鎮痛ではありません。花葬系の神格反応が出ています」
セラドの目が、ほんのわずかに揺れた。
それは、罪を認めた揺れではなかった。
覚悟していた問いが、思ったより早く来たという顔だった。
「先生は、彼らが苦しんでいたところをご覧になりましたか」
セラドは言った。
「話を逸らさないでください」
「逸らしてはいません」
彼は静かに首を振った。
「彼らは、ここへ来る前、痛みに泣いていました。熱で眠れず、傷の膿で呻き、咳で血を吐いていました。薬を買う金もなく、神殿へ捧げる布もない。家族は働きに出て、夜には一人で痛みに耐えるしかない」
セラドは、眠っている患者たちを見た。
その目には、偽りの慈悲ではないものがあった。
本当に、彼らを見てきた者の目だった。
「今、彼らは眠れています」
リオは答えなかった。
セラドは続けた。
「少なくとも、彼らは今夜、痛みに泣かずに眠れています」
その言葉は、静かだった。
静かで、強かった。
リオは、その言葉を否定できなかった。
痛みを取り除くことは、医師の仕事だ。
眠れぬ者を眠らせることも、苦しむ者の息を楽にすることも、間違いではない。
目の前の患者たちは、確かに救われた顔で眠っている。
たとえ、それが一夜だけでも。
たとえ、その眠りの下で、死後の開花が静かに根を張っているのだとしても。
リオは、左腕の包帯を押さえた。
水面の白面が残した問いが、ふたたび胸の奥で響く。
治すとは、元に戻すことか。
それとも、生き延びさせることか。
リオはセラドを見た。
「彼らは治っていません」
「知っています」
セラドは穏やかに答えた。
その答えの速さに、リオの目が細くなる。
「知っていて、続けているんですか」
「痛みで朝を迎えられない者に、今夜を渡すことは罪ですか」
慈療院の奥で、誰かが寝返りを打った。
甘い匂いが、また少し濃くなった。
リオは、眠る患者たちを見回した。
穏やかな顔。
下がった熱。
消えた痛み。
甘い汗。
花の痣。
赤い根。
救いの顔をした、葬送の芽。
彼は低く言った。
「罪かどうかは、まだ分かりません」
そして、セラドの目を見据えた。
「けれど、これは治療ではない」
セラドは、悲しそうに微笑んだ。
「それでも、彼らは眠れています」
その言葉は、慈療院の中に深く沈んだ。
外では、朝の港が再び動き始めている。
だが、この場所だけは、夜の底に置き去りにされたようだった。
苦しみの声が消えた施療院。
穏やかな眠り。
甘い花蜜の匂い。
リオには、その静けさが、呻き声よりも恐ろしく思えた。




