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第五節 ― 白面の検疫医

 夜になっても、ラウ=マリカは眠らなかった。


 昼間の市場ほど騒がしくはない。けれど港のあちこちに灯が残り、古い潮倉庫の周囲には検疫所の見張りが立っている。縄の向こうにはまだ人影があった。祈祷布を握る者、病人を連れた者、遠巻きに様子を窺う商人。


 風向きが変わるたび、低い祈りが夜気へ混じった。


 花になれば痛くない。


 死んだあと誰かを救えるなら。


 そんな言葉が、本来なら潮の匂いしかしないはずの検疫所の窓辺まで流れてくる。


 カルム=レイダの遺体は、日が落ちる少し前に古い潮倉庫から移された。


 移送には予想以上に時間がかかった。


 ニナは、父の胸の花を傷つけないでほしいと何度も頼んだ。カルムの同僚たちは、遺族の知らないところで花を摘む者が出ないよう運搬台の周りを囲んだ。神官は移送前に短い祈祷だけでも、と食い下がり、検疫官はそれを止めるのに声を枯らした。


 誰もがカルムを守ろうとしていた。


 守ろうとしているものが、少しずつ違っていた。


 南路地へ向かう途中で呼び戻されたリオは、移送後の状態を一通り確認すると、そのまま遺体安置室に残った。慈療院へ入るのは翌朝に回した。生前の治療を調べる前に、その治療を受けた身体が死後どう変わっていくのか、今夜のうちに記録しておきたかった。


 遺体安置室に残っているのはリオ一人だった。


 石造りの部屋は昼間より涼しく、壁際には水盆、洗浄布、薬瓶、銀色の鉗子や小刀が整然と並んでいる。天井近くの小窓から月明かりが差し込み、白い床へ細長い光を落としていた。


 中央の台に、カルムが横たわっている。


 朝と同じ顔。


 朝より大きく開いた花。


 リオは診療記録を脇へ置き、まず額へ触れた。


 冷たい。


 けれど、死後の時間を考えれば妙だった。


 朝に触れたときよりは確かに温度が落ちている。それでも、同じ条件に置かれた遺体としては下がり方が遅い。


 首筋。


 脇。


 腹部。


 四肢。


 順に確かめていく。


 胸元へ近づくほど、わずかに温度が戻る。


 生きた人間の熱ではない。


 暖炉の残り火にも似ていない。


 湿った土の中で、種が発芽するときのような、説明しづらいぬるさだった。


 リオは眉を寄せた。


 次に肩を持ち上げる。


 腕を曲げる。


 指を一本ずつ動かす。


 死後硬直も、おかしい。


 現れてはいる。


 けれど進み方が均一ではなかった。


 胸に近いところほど緩く、末端ほど死者らしく固まっている。


 まるで身体の中心だけ、別の時間に置かれているようだった。


 リオは祈診布をカルムへ掛けた。


 赤褐色の糸が浮かぶ。


 朝よりも、流れは広がっている。


 首。


 肩。


 脇腹。


 ただし全身へ均等に拡散しているわけではない。


 すべてが胸へ向かっている。


 根へ。


 花へ。


「……まだ吸ってる」


 独り言が石壁へ落ちた。


 死者の身体から、花が何かを受け取り続けている。


 何を、と問われれば答えられない。


 血は流れていない。


 呼吸もない。


 心臓も動かない。


 それでも、死後に残されたものが、白い花へ運ばれている。


 リオは左腕の包帯を少しだけ緩めた。


 完全には外さない。


 露わになった指先と手首だけを、カルムの脇腹へ当てる。


 白い獣毛の間を走る淡い光が、ゆっくり明滅した。


 返ってくる。


 細い。


 朝よりも弱い。


 なのに、花は大きくなっている。


 その矛盾が気に掛かった。


 リオは手を離し、今度は腐敗の進み方を確かめる。


 皮膚の変色。


 匂い。


 口腔。


 眼球。


 腹部。


 普通の死後変化が、完全に止まっているわけではない。


 だが遅い。


 特に胸部周辺は、腐敗より先に別の変化が進んでいる。


 赤い根は朝より太くなっていた。


 胸骨をなぞるように走っていたものが、今では肋骨の間へ枝分かれし、白花を支えている。


 花弁の数も増えている。


 朝に見た大きな一輪の周囲へ、いくつもの小さな蕾が開き始めていた。


 リオは記録紙へ書き込む。


 体温低下、遅延。


 硬直、偏在。


 腐敗、胸部周辺で進行遅延。


 開花、継続。


 葬送反応、継続中。


 文字にすると簡単だった。


 目の前にあるものは、まるで簡単ではない。


 朝の時点では、死者に起こる葬送現象が都市の中で強く出たものだと考えた。


 だが、通常の死後経過そのものまで巻き込んでいるのなら、もう少し複雑だ。


 慈療院で何が行われたのか。


 カルムの胸痛がなぜ突然消えたのか。


 生前の治療と、死後の開花がどうつながっているのか。


 まだ一本の線にはならない。


 リオは銀色の鉗子を取った。


 花へ直接触れず、根元の近くに落ちていた小さな花弁を挟み上げる。


 表面には透明な露がついていた。


 室温のせいだろうか。


 いや。


 ほかの花弁は乾いている。


 その一滴だけが、月明かりを受けてやけに明るく光った。


 リオは水盆の脇へ鉗子を置いた。


 そのときだった。


 水面に、白いものが映った。


 リオの手が止まる。


 振り返る。


 誰もいない。


 遺体安置室の扉は閉じている。


 小窓も高い。


 人が立てる場所はない。


 もう一度、水盆を見る。


 そこには、リオの肩越しに誰かが立っていた。


 白い獣面。


 細く長い鼻梁。


 骨とも陶器ともつかない、ひどく滑らかな白。


 その上に黒いシルクハット。


 生成りの長い白衣。


 片手には、黒い細杖。


 月明かりのない水の中だけに、異様なほどくっきり映っている。


 リオはゆっくりと顔を上げた。


 目の前には誰もいない。


 水盆へ視線を戻す。


 いる。


「……誰だ」


 返事はなかった。


 代わりに、銀の鉗子が小さく光った。


 磨かれた金属の表面に、同じ白い仮面が映っている。


 リオは息を止めた。


 横に置いた小刀。


 針の筒。


 水盆。


 カルムの胸に残った露。


 別々の反射面。


 すべてに同じ姿がいた。


 どれも角度が違う。


 なのに、白面だけは正面からリオを見ている。


 黒い杖の先が、わずかに動いた。


 声が聞こえた。


「治すとは、元に戻すことか」


 低くも、高くもない。


 耳元から聞こえたのか、水の底から響いたのか分からない。


 リオは反射面を睨んだ。


 少し間があった。


「それとも、生き延びさせることか」


 左腕が疼いた。


 包帯の下で、根状の光脈が一瞬だけ強く脈打つ。


 リオは無意識に指を握った。


 爪が掌へ食い込む。


 その問いは、カルムだけに向けられたものではない。


 それくらいは分かった。


 だから腹が立った。


「何が言いたい」


 白い獣面は動かない。


 けれど、仮面の奥で笑ったような気配があった。


「何も」


 細杖が、水盆の中で一度だけ床を叩いた。


 音はしなかった。


 波紋だけが広がる。


「診ているのは君だろう?」


 リオは水面から目を逸らさなかった。


「カルムのことを知っているのか」


 答えはない。


「南路地の慈療院は?」


 沈黙。


「この花が何なのか、分かっているなら――」


 そこで止めた。


 聞いても答えない。


 そういう存在なのだと、なぜか分かった。


 白面はただ映っている。


 リオが見たくない問いを。


 治す。


 元に戻す。


 生き延びさせる。


 その三つを、同じものとして扱ってはいけないことくらい、リオは知っている。


 知っているはずだった。


 けれど、左腕の奥がまだ疼いている。


 カルムの胸では花が生き続けている。


 ニナは、その花のそばで呼吸が楽になった。


 市場には、死後の自分を売ろうとする者まで現れた。


 もし苦痛が消えるなら。


 もし死なずに済むなら。


 もし家族を救えるなら。


 どこまで変わってもいいのか。


 その線を、誰が引く。


「……あなたは医者じゃないな」


 リオが言った。


 水盆の中で、白面がわずかに首を傾げた。


「見れば分かる」


「検疫医の格好をしてる」


「君がそう見ている」


 それ以上の説明はなかった。


 エル=ネフリド。


 その名を、リオはまだ知らない。


 ただ、目の前のものが幻覚ではなく、自分一人の疲労で片づけてよい存在でもないことだけは感じていた。


 カルムの花弁についた露が震える。


 その小さな水滴の中でも、白い仮面がリオを見ている。


「答えは教えないのか」


 リオが問う。


 白面は、しばらく何も言わなかった。


 やがて。


「答えを持っているように見えたかね」


 それだけだった。


 遺体安置室の扉が開く。


「先生?」


 マヤの声。


 リオが振り向く。


 彼女は片手に湯気の立つ小さな器を持っていた。もう片方には、どこで手に入れたのか薄焼きのパンらしきものまである。


「まだ起きてたんですか。夜ごはん食べてないでしょう」


 リオは反射面へ目を戻した。


 水盆には、自分しか映っていない。


 銀の鉗子にも。


 小刀にも。


 花弁の露にも。


 白い姿は消えていた。


 マヤが部屋へ入ってくる。


「先生?」


「何」


「誰と話してたんですか?」


 リオは一拍置いた。


「……誰とも」


 マヤはじっと見る。


 リオの顔。


 水盆。


 銀の器具。


 もう一度、リオの顔。


「先生、嘘が下手ですね」


「君にだけ言われたくない」


「わたしは最近、上手くなってます」


「悪化してるよ」


「それ、先生が気づくの早くなっただけじゃないですか?」


 言われてみれば、否定しづらかった。


 マヤは小さく笑い、持ってきた器を作業台へ置く。


「魚と豆の煮込みです」


「いつ買ったの」


「買ってません。検疫所の人にもらいました」


「何した?」


「何もしてません」


 リオは黙って彼女を見る。


 マヤも黙る。


「……ちょっとだけ、片づけを手伝いました」


「何を」


「診療室」


「それは仕事したって言うんだよ」


「じゃあ労働の対価です」


「急に立派な言い方するね」


 マヤは満足そうにパンを半分へ割った。


「先生の分、少ない方でいいです?」


「どうして」


「わたしが運びました」


「半分」


「仕方ないですね」


 ようやく、部屋の空気が少し緩んだ。


 リオは椅子へ腰を下ろす。


 マヤも隣へ座った。


「明日は朝から慈療院ですね」


「ああ」


「じゃあ、ちゃんと食べて寝てください」


「君もね」


「わたしは先生より寝てます」


「比較対象を間違えてる」


 マヤはパンを千切りながら、少しだけ笑った。


 その間も、カルムの胸には花が咲いている。


 死者の身体を使いながら。


 静かに。


 美しく。


 甘い香りを放ちながら。


 リオは煮込みへ手を伸ばす前に、もう一度だけ水盆を見た。


 ただの水だった。


 それでも、水面の奥に置かれた問いだけは消えていない。


 治すとは、元に戻すことか。


 それとも、生き延びさせることか。


 リオはまだ、そのどちらにも答えなかった。

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